古代ギリシアの衣服
「食事」をあらわす語 食事をあらわすギリシア語"deipnon"の語源は"dapto"と言われる。これは「ずたずたに引き裂いて、がつがつ貪り食う」の意であって、肉食民族の食事のさまを彷彿とさせる。 "deipnon"の使用例をホメロスに見ると、昼食を意味する場合(『イリアス』第11巻85以下)、朝食を意味する場合(『イリアス』第2巻381、第10巻578、第19巻171以下、『オデュッセイア』第15巻94以下、500)、夕食(『オデュッセイア』第17巻176、第20巻390以下)を意味する場合などに分かれる。いずれにしても、時間は一定しないものの、これが「正餐」を意味したことに間違いはない。 古いアッティカ語では、夜明けとともに摂る食事(ariston)と、日没後に摂る食事(dorpon)と、そしてこの"deipnon"とが区別されており、ここでは"deipnon"は正午から午後にかけて摂られたことがわかる。しかし、その後、"dorpon"という語は死語と化し、"deipnon"がこれに取って代わって正餐=晩餐を意味するようになった。それとともに、朝食を意味した"ariston"が昼食を意味するようになり、朝食は"akratisma"または"akratismos"と呼ばれるようになった。これは「水を混ぜない葡萄酒」の意味から出た言葉で、おそらくは、生(き)の葡萄酒にパンを浸して食べる程度のことであったと考えられる。 こうして、 akratisma― ariston― deipnonという1日3食の習慣が確立するのは、前5世紀の中・後期と考えられる("ariston"が昼食の意味で使われている初見は、トゥキュディデス『戦史』第4巻90章、第7巻81章である)。 食事の内容 次は、オデュッセウスが乞食に身をやつして、豚飼エウマイオスのもとに身を寄せ、この忠実な豚飼から親切なもてなしを受ける場面である。 ……薪木を容赦もない青銅(の刃)で、断ち割った、 ホメロス時代の戦士たちは、鳥や豚や山羊や牛やといった肉類をさまざまに調理して、これとパンとで自由に宴会を開いていた。ミルクとチーズは用いたが、魚はあまり好まれなかったようだ。 しかしながら、土地の開墾が進み、自然な牧草地が耕地に変えられてゆくにしたがって、当然ながら、食事の内容も変化していった。肉類は、犠牲祭や公的な食事のときを除いて、食べられることがまれになり、代わって魚類が愛好された。地中海はまさに魚類の宝庫であった。副食(おかず)を意味するギリシア語"opson"は、アテナイではとくに魚料理の意味であった。とは言っても、肉類も魚類も、庶民にとって贅沢品であることに変わりはなかった。 さらに、各種の腸詰め(allas と physke との区別があったらしいが、その違いはよくはわからない)、野菜、果実が食卓を飾り、味つけにはオリーブ油や蜂蜜が用いられた。 葡萄酒(oinos)は不可欠であったが、強くて濃厚であって、これを生(き)のまま呑むのは、よほどの飲んべえにかぎられ、たいていは水で割って飲んだ。そのための陶器が混酒器kraterと呼ばれる。水との割合は自由であったが、必ず水の方が葡萄酒よりも多い割合で割られたようである。 一部の金持ちを除けば、全般に古代ギリシア人の食事は質素なものであった。 酒宴(symposion) いずれの世でも、庶民の食生活は質素であったが、富裕層は、当然ながら、食事にも贅をこらし、食事の後にはsymposionと呼ばれる酒宴を愉しんだ。これには遊戯と美味な葡萄酒を伴ったが、酒宴に入るには一定の儀式が必要であった。 賓客たちは、クリネー(kline)と呼ばれる寝椅子に、通例は二人ずつ左肘をついて横たわり、食事は移動小机でとった。席は、宴会場の入り口から見ていちばん左の端の寝椅子が最上席で、順々に右回りに馬蹄形に並べられた。したがって、いちばん右の端が末席である。盃をまわすときも、右回りが原則である。 さて、食事が終わると、 |