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古代ギリシア案内

古代ギリシアの衣・食・住

古代ギリシアの住居






 近・現代の住居と、古代の住居との根本的な相違は、前者が窓や扉を通して外を眺める造りになっているのに反し、古代の住居には、外を眺めるという発想がまったくないことである。彼らは、ひたすら内を眺める。そして、内に向かった眼の行き着くところ――そこにあるのは竈(つまりは家の神の祭壇)である。窓はなく、煙出しさえない。採光と換気は、屋根を開いて行われた。


《ホメロスの世界》

 ホメロスの叙事詩に登場する英雄たちは、いずれも、小なりといえども、一国一城の主である。したがって、彼らの「館」は、(日本の「大宅(おほやけ)」と同じように)"megaron"、ないし、その複数形で表される。「大きな部屋の集まった住居」といった表象であろう。したがって、館の中心をなす広間も、"megaron"の語で表される。この広間は、客人をもてなす応接間であり、食事部屋であり、竈(hestia)が中心に位置する台所でもあった。

 奥の間は、漠然と「奥(mychos)」とも呼ばれるが〔『イリアス』第22巻440、『オデュッセイア』第7巻96など〕、限定的には"thalamos"と呼ばれる。ここは女たちの居間であり、仕事場であり、寝室であると同時に、衣裳、武器、貴重品、さらには、ぶどう酒や肉の最も安全な保管場所でもあった。そして、この全体を管理するのが、女主人(tamie〔「分配者」の意〕)の役割であった。大きな館では、階上に女たちの部屋があり、これもやはり"megaron"と呼ばれていた〔例えば、『オデュッセイア』第18巻198〕。

 広間(megaron)は、控えの間とも言うべき"prodomos"につながり、そこは通廊"aithousa (stoa)"になっていて、早立ちする客人の泊まる部屋部屋の戸口が並んでいたものと考えられる。通廊を抜けると、いくつかの離れ家に囲まれた中庭(aule)となり、中庭の中央には、Zeus Herkeios(「家の守り神・ゼウス」)の祭壇があった。中庭を取り囲む離れ家は、貯蔵部屋や家畜小屋その他の用途に使われ、一部は堆肥なども場所を占めていた。


《古典期の都市住居》

 紀元前5〜4世紀の都市生活者の住居のうち、富裕者のそれは、基本的にはホメロスの館の構造を踏襲している〔下図〕。
House1 通りに面した入り口の部分〔図中のA〕を"prothyron"という。"prothyron"とは、「前-扉」の意で、ホメロスでは、"aule"から外に通じる扉そのものを意味していたが、古典期になると、扉の前の空間すなわち玄関口(ポーチ)を意味するようになる。"prothyron"から"aule"に入る扉〔図中B〕が、正面玄関の扉"he auleios thyra"である。

 中庭(aule)〔図中C〕に入ると、中央に祭壇〔図中D〕があるのは、ホメロスと同様である。しかし、これを取り囲むのは、ホメロスの住居とは異なり、もはや離れ家ではなく、館そのもの(の部屋部屋)である。そのかわり、中庭をぐるりと取り囲んだ柱列(peristylos)がすぐに眼に入るであろう。この柱列は、それぞれが中庭を取り囲む部屋部屋〔図中E〕の玄関口(ポーチ)をなしている。これらの部屋部屋が、寝室、貯蔵室等、さまざまな用途に使用されていたのは、ホメロス期といっしょである。


 中庭に立ったわたしたちは、プラトンの『国家』第1巻において、供犠を終えたばかりの老ケパロスの姿を目撃することができよう。

  「かれは花冠をかむって枕つきの椅子といったようなものに腰掛けていました。
  内庭で犠牲を捧げ終わったところだったので。
  そこでわたしたちはかれのそばに腰掛けました。
  そこには椅子がいくつか円形に置かれていたので」328b-c(金松賢諒訳)。

 正面玄関の扉(auleios thyra〔「中庭の扉」の意〕)の正反対に位置するのが、"metaulos thyra"〔「中庭の次(後ろ)の扉」の意。図中K〕である。この扉の前の部分〔図中P〕は、"pastas"または"pastos"と呼ばれる部分だと考えられるが、この両者の役割は、はっきりしない。

 "metaulos thyra"の内側は、男部屋(Andron)が向かい合っている通路。その奥に、頑丈な扉"he balanote thyra"〔「錠前(balanos)で閉ざされた扉」の意〕があり、この内側が女部屋(Gynaikon)である。女部屋は、2階に設定されることも多い。

 リュシアス第1番弁論「エラトステネス殺害容疑のための弁明」によれば、生まれたばかりの赤ん坊の面倒を見るのに、2階ではさぞかし苦労も多かろうと、女部屋を1階に移してやった。にもかかわらず、妻は不義密通したと訴える。
 ここに、上の"metaulos thyra"と"auleios thyra"が二つながら出てくる〔同書 17節参照

house2 しかし、以上は、しょせん、富裕者の住居である。一般庶民は、掘建て小屋も同然のところに住んでいた。それにもかかわらず、彼らが厳然と守っていたことがある。それは、男の活動領域(Androtinis)と女の活動領域(Gynaikonitis)との区別である。右の図は、アレイオス・パゴス北斜面下方から出土した住居址である〔桜井万里子『古代ギリシアの女たち』p.131〕。2階にあったと考えられる女部屋の構造は不明だが、男の活動領域と女の活動領域との断絶は、疑うべくもない。

 このことは、従来、男性原理のもと、完全に抑圧された女性という文脈で語られてきたが、大家族制の研究は、違った文脈のあることを暗示しているのではなかろうか。例えば、

 「大家族にとって必要な活動――主としてその経営――において、男子成員の間で分業が行われる……、男女による分業が顕著に見られることも大家族の特色である。……そこでは、男子と女子の場というものも明確に設定されているのが常である。……性による分業、生活のリズムがずっと制度化されてくる。たとえば、中国人のいう”夫は外を治め、婦は内を治む”という家族生活における分業が、大家族ではより明確に規制されている。
 ……これが家の中では、むしろ反対になって、すべての男子成員は、女性成員の長の采配に従うことになる。……セルビアの地方での諺では”家の中では女が長であり、男は客である”といわれている」(中根千枝『家族の構造――社会人類学的分析――』東京大学出版会)p.64-65。



[補説]「煙突」について
炉からたちのぼる煙はしばしば隣接する部屋中に広がり、住人はそれを大量に吸うことになったであろう。ミイラの肺には、炭粉症(すす色素の沈着)が一様にみられるのである。
 煙を堪えがたいほど大量に含んだ空気を多くの人々が吸わざるをえなかったという事実を示す証拠は、アケトアテンの南の壁に囲まれた労働者の村でバリー・ケンプが行った最も最近の発掘から得られた。彼は、屋根の梁の下側と屋根材の泥に梁が残した跡が、すすの黒い堆積物でおおわれていることを発見したのである。天井は白漆喰を塗るに値すると思われていなかったのであろう。
 (エヴジェン・ストロウハル/内田杉彦訳『図説古代エジプト生活誌』上巻、原書房、1996.11.、p.145-46)

 これは古代エジプトに関する記述であるが、事情は古代ギリシアの住宅においても大差なく、古代ギリシアの住宅に、まともな排煙装置はなかったものと思われる。ただし、彼らは、屋根のかわらをずらして、煙を出すという程度の知恵は持っていた。

 これをもう少し発展させたものが、「カプノドケー(kapnodoke)」と言われるもので、直訳すると、文字どおり「煙受け」の意であった。ヘロドトス『歴史』第4巻103によれば、タウロイ人は、敵を捕まえるとその首を刎ね、「カプノドケー(kapnodoke)」から屋根の上高く掲げておくと言い、また、第8巻137によると、「カプノドケー(kapnodoke)」の穴から日差しが屋内の床の上に差しこむと言うから、どうやら、屋根に穴をうがったものらしい〔雨の時はどないするのやろ?〕。

 「カプノドケー(kapnodoke)」は、単に「カプネー(kapne)」とか「カプニア(kapnia)」とも言われた。この「カプネー(kapne)」の形で、アリストパネスの喜劇『蜂』144に登場する。
 「どうしてカプネー(kapne)ががたがた鳴るのだ」
 ここを高津春繁は「煙突」と訳しているわけだが、サンタクロースのように煙突の中でごそごそやっているなどと想像したら、大違いということになろう。

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