古代ギリシアの詩
古代ギリシア案内
[補説]ギリシア詩から西脇順三郎を読む
西脇順三郎の「菫」
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西脇順三郎の『Ambarvalia』(椎の木社、昭和8年刊)は、日本におけるモダニズム詩のひとつの到達点を示していると言われる。ここに、ギリシア的抒情詩の総題のもと、「菫」と題する詩が収められている。
菫
コク・テール作りはみすぼらしい銅銭振りで
あるがギリシャの調合は黄金の音がする。
「灰色の董」といふバーヘ行つてみたまへ。
バコスの血とニムフの新しい涙が混合されて
暗黒の不滅の生命が泡をふき
車輪のやうに大きなヒラメと共に薫る。
この詩を読み解く鍵は、最終行の「ヒラメ」にある。この、およそ詩とは縁遠い語は、詩とは縁遠いが故に、問題である。
事実、古代ギリシアの詩人たちは、二身に断ち割られた魚として、ヒラメに滑稽を感じていた。喜劇作家のアリストパネスは、平和を求めて男断ちを決意した女の覚悟を、「わたしのほうはヒラメのようにこの身を半分に切り分けて、半身を献上しても」(『リューシストラテー』115)と表現している。また、ルキアノスは「漁師」の中で、次のように痛烈な皮肉を飛ばしている。
パレシアデス:見なさい、今度は別の魚だ。半分に切った魚のように平たいのが近づいて来る。鰈の類だ、釣り針に向って大きな口を開けて。呑み込んだぞ、餌を掴まえている。引っ張らせろ。
ディオゲネス:何魚かね。
エレンコス:プラトン派を名乗る者です。
(「猟師」、ちくま文庫『本当の話:ルキアノス短篇集』所収、p.411)
〔ここでは「カレイ(鰈)」となっているが、原語はヒラメ(yh:tta)に同じ。古代ギリシア人はカレイとヒラメの区別を知らなかった可能性あり〕。
「プラトン派を名乗る者」が、なぜにヒラメに譬えられたのか。ここに、ヒラメ─プラトン派─プラトンの『酒宴』という観念連合があったことを認めないわけにはゆくまい。
プラトンの『酒宴』は、前416年、悲劇作家のアガトンが競演で優勝したの で、その祝賀の酒盛り(シュムポシオン)をするという設定の対話編である。
主催者はアガトンその人。出席者はパイドロス、パウサニアス、エリュクシ マコス、喜劇作家のアリストパネス、そしてソクラテス……。
エロースについて、順次持ちまわりで語るという趣向になった。このとき 飛びだしたのが、アリストパネスの「アンドロギュノスの神話」だった。
その昔、人間は「男」と「女」と「男女(アンドロギュノス)」という 3つの種族に分かれていた。その身体は球体で、手が4本、足が4本、頭が2つあって、走るときは「車輪のように」回転して走った。力も知能も2倍だったので、自分たちは神をも凌ぐと思い上がるようになった。そこでゼウスはこれを「ヒラメ」のように「一つのものを二つに断ち割った」。そのため、「男」だった者は自分の半身だった男に、「女」だった者は自分の半身だった女に、 「男女」だった者は、自分の半身だった異性に恋するようになった… …。
こういう愉快な哲学談義をしている宴席に、闖入者が現れる。それが、したたか酔っぱらったアルキビアデスの一向であった。その場面はつぎのように描かれている。
と突如、前庭の戸が叩かれて、酔漢どもの立てるような大きな騒音をひびかせました。そして笛吹妓の笛の音も聞えてきました。そこでアガトンは言いました。僕童たち、さあ見て来てくれないか。で、もしだれかなじみのかただったら、お招きしなさい。が、もしそうでなかったら、わたしたちは飲んではいない、もうやすむところだ、と言いなさい。
それから間もなく、アルキビアデスのひどく酔っぱらって、大声で叫び、アガトンはどこにいるかとたずね、アガトンのところへつれて行けと命じている 声が前庭で聞えました。すると、笛吹妓と他に従者の幾人かがかれを支えてみなのところへつれて来ました。と、かれは、常春藤と菫とで密に編んだ花冠を冠り、ひじょうに沢山のリボンを頭につけたまま、入口に立ち止まって言いま した。みなさん、御機嫌よう。全くひどく酔った男を飲み仲間としてむかえて くれますか。それともただアガトンの頭に巻きつけただけで そのためにわたしたちはやって来たのですが 立ち去りましょうか。実はわたしは、とかれは言いました、昨日は来ることができなかったが、今日はしかし頭にリボンをつけてやって来たのです、これをわたしの頭から取って、言うならば最も知恵ある、そして最も美しい人の頭にこんなふうに巻きつけるためにね。 (Pl. Symp. 212c-e、金松賢諒訳)
ここに「常春藤と菫とで密に編んだ花冠」が出てくることに注目しよう。
これがこれだけで終わるなら、さしたる印象もとどめないであろうが、酒宴 (sumposivon)という言葉のみならず、アルキビアデス闖入の場面は、ロマンティストたちの恰好の題材となった。
例えば、アンセルム・フォイエルバッハAnselm Feuerbach (1829-1880)の「プラトンの酒宴」という絵が有名である(下図)。
結局、西脇順三郎の「菫」の構図は、アンドロギュノスの神話が飛びだしたプラトンの『酒宴』であり、バー「灰色の菫草」とは、アルキビアデスの闖入をも含めたこの酒宴そのものを表象していると言ってよい。
「灰色の菫草」が奇妙だが、どうやら西脇順三郎は、ギリシア人はスミレ色と灰色とを同一視していると思いこんでいたらしい。「灰色の菫草」は、この思いこみからの連想にすぎない。
これで構図はわかった。しかし、「バコスの血とニムフの新しい涙が混合されて」という、この詩的な表現は何なのか?
これは、ティモテオス〔前450頃-360頃〕の詩「キュクロープス」の断片からそっくりいただいたものである。
e[gceue d= e}n me;n devpaV kivssion melaivnaV
stagovnoV ajmbrovtaV ajfrw/: bruavzon,
ei[kosin de; mevtr= ejnevceu=, ajnevmisge
d= ai|ma Bakcivou neorruvtoisin
dakruvoisi Numfa:n.
そこで彼は、1杯のキヅタの椀を空けた 泡立つ
暗黒の不滅の滴りに満ちた〔椀〕を、
そして20杯〔の水〕を空けた、そして混ぜ合わせた
バッコスの血を 湧きでたばかりの
ニンフの涙に。
ここで「彼」というのはオデュッセウスのことである。オデュッセウスの一向は、帰還の途中、キュクロープスの島の洞窟に囚われたが、これを逃れるために、キュクロープス(のひとりポリュペーモス)を酒で眠らせようと、酒を調合している場面を歌ったものである。
とはいえ、特別な魔法の薬を調合しているわけではない。作者のティモテオスは大袈裟な表現で古代より非難の的であったのみならず、古代ギリシア人たちは、ぶどう酒はたいてい水で割って飲んだが、この水のことを、「ディオニュソスの乳母」と呼んでいた。そのこころは、「水が混ぜられると酒が成長する〔=多くなる〕から」である。〔『食卓の賢人たち』XI, 465a〕
古代ギリシアでは、ぶどう酒を水で割る場合、両方をクラテールという混酒器に入れた(混酒器の形状については、「ギリシアの陶器」の SHAPES 〉 混酒器 〉 クラテル を参照)。これは直径50Cmから70Cmと、かなり大きなものである。 呉茂一が、これを「酒和え甕」と訳したのは納得がゆく。
このことをよく知っていたら、なかなかシェーカーは思いつかないであろう。よく知らないからこそ発想の飛躍ができた。皮肉なことである。
あと、残るは「銅銭振り」であるが、これはさらに駄洒落に近い。シェーカーを振る音から、御神籤箱を振る音を連想し、その銅の籤から、胴銭、つまり壺皿を振る博打を連想し、音が同じところから(博打は胴銭を振ったりは決してしないにもかかわらず)「銅銭振り」を導き出し、これを、黄金の音がするギリシアの調合と対比させたわけである。
こうとわかったうえで、詩の鑑賞は、それぞれにお任せしよう。 |