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back.gif西脇順三郎の「菫」


古代ギリシア案内

[補説]ギリシア詩から西脇順三郎を読む

西脇順三郎の「雨」






 次の「雨」は、高等学校の教科書にも採録された、それだけに世に知られた詩である。


   雨

南風は柔い女神をもたらした。
青銅をぬらした、噴水をぬらした、
ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
この静かな柔い女神の行列が
私の舌をぬらした。

 一読して、古都ローマに雨の降る情景を構図としていることがわかる。したがって、構図についてギリシア詩から言うことはない。

 ギリシアの風は、東から、西から、南から、北から吹く。あたりまえのことではあるが……。
 それぞれの風が方角を意味すると同時に、神格として固有名詞を有している。それぞれEu\roVZevfuroVNovtoVBorevaVという。このうち、ギリシアの詩人の詩想をかきたてるのは、西風(ZevfuroV)である。
 神格と言っても、位格はそれほど高くはない。したがって、女神をもたらすほどの権威はない。

Oujd= ei[ moi gelovwsa katastorevseie Galhvnh
kuvmata, kai; malakh;n fri:ka fevroi ZevfuroV,
nhobavthn o[yesqe` devdoika ga;r ou{V pavroV e[tlhn
kinduvnouV ajnevmoiV ajntikorussovmenoV.

  微笑む「凪」がわたしを波で覆おうとも、
  また、「西風」が柔らかい小波をもたらそうとも
  あなたが船乗りのわたしを目にすることはない。かつて風と格闘し、
  冒したことのある危難をわたしは恐れるゆえ。
    (Anthologia Graeca, VII-668)

 ギリシアの詩にとって、「西風」にはひとつの観念連合がある。

+O plovoV wJrai:oV` kai; ga;r lalageu:sa xelidw;n
h[dh mevmblwken, cwj cariveiV ZevfuroV`
leimw:neV d= ajnqeu:si, sesivghken de; qavlassa
kuvmasi kai; trhcei: pneuvmati brassomevnh.
ajgkuvraV ajnevloio, kai; ejkluvsaio guvaia,
nautivle, kai; plwvoiV pa:san ejfei;V ojqovnhn.
tau:q= oJ PrivhpoV ejgw;n ejpitevllomai oJ limenivtaV,
w[nqrwf=, wJV plwvoiV pa:san ejp= ejmporivhn.

  航海の好機なり。というのも、おしゃべり
  すでに到来し、恵み深きゼピュロスも。
  草原は花咲き、は沈黙した、
  大波と粗暴な気息に逆巻いていた海が。
  錨を上げよ、大綱を解け、
  船乗りよ、帆布をいっぱいにゆるめて航行せよ。
  これぞ、我 — 港の神プリエーポスの言いつけなり、
  おお、人間どもよ、ありとある交易のために航行せよ。
    (Anthologia Graeca, X-1)

 西風(ゼピュロス)─燕─航海の時─プリアーポス〔この詩ではプリエーポスと表記〕という連鎖は、このX-1のほか、X-4、X-14、X-16においても、ひとつの要素を欠くこともなく繰り返されており、観念連合の強固さをうかがわせる。

To;n bracuvn, ijcqubolh:eV, uJpo; scivnw/ me Privhpon
steilavmenoi kwvpaiV ta;n ojlivgan a[katon,
'divktu= a[g= aJplwvsasqe) polu;n d= aJlinhceva bw:ka
kai; skavron, ouj qrivsshV novsfin, ajrussavmenoi,
glauko;n ejnidrunqevnta navph/ shmavntora qhvrhV
tivet=, ajp= oujk ojlivgwn baio;n ajparcovmenoi.
   (Anthologia Graeca, X-9)

 この詩を対訳することは困難であるが、プリアーポスは、穏やかな海をもたらし、航海の安全を保証するとともに、漁師たちには豊漁を約束する。
 漁師たちは、漁の帰りに、砂浜に小舟をとめ、網を広げて干す。砂浜の奥まったところに小さな渓があり、薫香樹のもとに築かれた社に小さなプリアーポス像が祀られている。漁師たちは、豊漁の御礼に、わずかの魚をお供えする。魚の名前もわかる。魚はボークス〔Arist. HA. 610b4〕、スカロス〔HA. 508b11〕、トゥリッサ〔HA. 621b16〕である……。
 それらの上にも、春の雨は降り、ぬらす……。

ツバメ 「西風」はギリシア語で別名「鳥風(ojrniqi;ai a[nemoi)」とも呼ばれる。渡り鳥を連れて来るからである。渡り鳥の代表がツバメ(celidwvn)であった。しかしツバメには、血なまぐさい伝説がまとわりついていた。

ピロメーラー(Filomhvla)
 アテーナイ王パンディーオーン<……>は国境の問題でテーパイのラブダコスと争った時、トラーキア王テーレウスの来援によって勝利を得たので、プロクネーを彼に与えた。二人のあいだにイテュスが生れたが、テーレウスはビロメーラーに恋し、プロクネーが死んだと偽わって、彼女を迎え、犯したのち、彼女が告げることができないように、その舌を切り取った。しかし彼女は長衣(ぺプロス)に織りこんで、プロクネーに自分の不幸を告げた。プロクネーはピロメーラーを探し出し、イテュスを殺して、煮て、テーレウスに供した。姉妹は遁れたが、テーレウスはこれを知って、斧をつかんであとを追い、二人はポーキスのダウリスDaulisで捕えられんとした時、神々に祈り、プロクネーはナイチンゲールに、ビロメーラーは燕に、テーレウスはやつがしら(戴勝)となった。
 (高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』)

 舌のない燕はキーキーと悲鳴をあげながらあたりをぐるぐると飛びまわり、やつがしらは燕を追いかけて「どこだ? どこだ?(Pou; Pou:;)」と叫びながら飛びまわる。一方、ナイチンゲールは故郷のアテーナイにもどって、「イテュ、イテュ(I[tu! I[tu!)」とひっきりなしに鳴いている。これは、自分のことから思わぬそばづえを食って、あたら一命をおとしたイテュスのために嘆き悲しんでいるのである
 (グレイヴズ『ギリシア神話』p.243)  

 ローマ時代になって、ピロメーラーとプロクネーの役割に混乱が生じ、舌を切られた燕は、わが子を煮殺して食卓に供した者と同一人ということになった。そして、わが子殺しからあのメーデイアが連想され、次のようなエピグラム詩が書かれるようになった。

あらゆる地とすべての島々を翔けぬけてやってきたのに、汝ツバメよ、
非情なメーデイアの絵に巣を営むとは。
もしや、おまえの雛たちに対するおのが信実を守ると期待しているのか、
わが子さえ許さなかったあのコルキス女が。

  Ai\an o{lhn nhvsouV te dii&ptamevnh su; celidwvn,
  MhdeivhV grapth/: puktivdi nossotrofei:V`
  e[lph/ d= ojrtalivcwn pivstin sevo thvnde fulavxein
  Kolcivda, mhd= ijdivwn feisamevnhn tekevwn~
   (Anthologia Graeca, IX-346)

FALa098-1.jpg 重要なことは、このエピグラム詩ないしその翻案が、アルチャーティー(Andrea Alciati, 1492-1550)の『エンブレム集』(1531年アウクスブルク版、1534年パリ版)に取り入れられ、エンブレムとして流布したことである。ツバメ─(青銅)像の連想は、あるいはここに求められるかもしれない。
 しかし、西脇順三郎とエピグラム詩、ないしエンブレムとの関係に注目する研究者が見あたらないことは、遺憾なことである。

 ところで、先に挙げた例詩Anthologia GraecaX-1に注目してもらいたい。
 詩の中に一人称「私」が出てくると、日本の読者は咄嗟に「語り手」と同一視してしまうのであるが、例詩X-1ではプリアーポスが一人称で言いつけていることがわかる。西脇順三郎の詩「雨」の「私」を、ツバメが一人称で語っていると解していけない理由が何かあるであろうか……?

 「西風」には女神を連れてくるほどの権威はないと言ったが、ギリシア詩において雨が女神で表象される例も、寡聞にして知らぬ。雨は、たいてい、男神がもたらすもの、あるいは、男神の精液、なしは男神そのものである。

ダナエー(Danavh)
 アルゴス王アクリシオス<……>は、神託が、彼は娘の子に殺されるであろうと告げたので、青銅の部屋にダナエーを閉じこめたが、ゼウスが黄金の雨に身を変じてダナエーの膝に流れ入り、彼女と交わった。
 (『ギリシア・ローマ神話辞典』)

 この神話は、多くの画家たちの想像をかきたてた。この事例は、澤正宏『西脇順三郎のモダニズム:「ギリシア的抒情詩」全篇を読む』(双文社、2002.9.)に詳しい。

女神の行列 行列には2つの形態がある。ある尊い者を押し立てて、その家来が列をなしてゆく、これを「大名行列」型と言うことにしよう。これに反し、同じ形姿のものがぞろぞろゆく、これを「蟻の行列」型ということにしよう。ギリシアの行列は、女神の像(たいていは木像)を押し立てて、信者がぞろぞろ後について練り歩く大名行列型の行列である。これをギリシア語でコーモスkw:moVという。尤も、コーモスは、しずしずと行くのではなく、どんちゃん騒ぎをともなうのが常であったが……。アルキビアデスがアガトン邸の酒宴に闖入したのも、コーモスの続きであった。
 詩「雨」の中で、「女神の行列」と言っているのは、春雨の雨脚を譬えたものであることに異論はあるまい。雨脚は、一粒の雨滴の軌跡が、尾を引いているように見えるのであって、雨滴が列をなしているわけではない。したがって、「大名行列」型の行列であるはずである。
 しかるに、作者が自作品を語った西脇セミナー(『詩学』22-4、1967、p.62)では、作者の説明は「大名行列」型と「蟻の行列」型との間で揺れている(最後には、「両方なんです」と、これは単なる逃げ口上であろう)。

 いずれにしても、ギリシアの詩の西風を、日本人の馴染みの南風に変えることによって、西脇順三郎の詩「雨」は、日本的情緒と西洋趣味とを融合したみごとな詩になったと言えよう。

黄金の毛 これをギリシア語で言えば、crusokovmaVないしcrusocai:taである。これは、例えば馬のたてがみのような、流れるような長い髪を連想させる。第一義的にはアポローンの添え名であり、他にはディオニュソスに、エロース、時には西風に使われることもある。

deinovtaton qevwn,
to;n gevnnat= eujpevdilloV #IriV
crusokovma/ Zefuvrw/ mivgeisa`
   (Greek Lyric I, 327)

  〔エロースは〕神々の中の最も恐ろしきもの、
  これを産みしは、サンダルよろしきイーリス〔虹の女神〕
  金髪のゼピュロスと交わって。

 ところが、この言葉が女神に使われる例を知らぬ。

 もちろん、女神が金髪でないわけではない。金髪であることが最もはっきりしているのは、デーメーテールである。しかし彼女の髪の毛の色は、みのった麦の穂の色であって、「黄金の毛の」とは言わない。彼女の添え名は文字どおり「麦の穂の女神」を意味する=Ioulwvである。

 このcrusokovmaVが鳥の羽を意味する場合がある。しかし、それは火の鳥(フェニクス)の場合であって(ヘロドトス『歴史』II-73)、ツバメに使われた例を知らぬ。

 諸家の鑑賞の中に、この「黄金の毛」を麦の穂と女神ケレース〔デーメーテールと同一視されるローマの穀物女神〕の髪とのダブルイメージとする説があるが、いわゆる「麦の秋」は夏の季語であって、春のイメージから外れる。ギリシア人にとって南風は、猛暑の中での麦刈りという辛い労働を連想される言葉であった。そのことが、ギリシアの詩人が南風をあまり快くは思わなかった所以である。
 結局、この「黄金の毛」は、いずれの観念連合ともぴったりとこない、厄介な存在だということになる。

 西脇セミナーで作者は、この「黄金の毛」について、「『黄金の毛をぬらした』はわいせつと言えばいえなくもない。西洋人の陰部の毛も黄金だろうから」と、下ネタに話を振っている(p.61)。先に挙げたダナエーの膝に流れ入る黄金の雨を連想させるので、この連想も悪くはない。しかし、古代ギリシアの女性が、嗜みとして陰毛を脱毛していたことを、西脇先生がご存知であったかどうか……。

 作者は自作品のことを知らない、というのがわたしの持論であるが、TAKEMULA氏は適切にも、「作品と化した表現に作者が見捨てられる」と言う。まさに至言であろう。

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