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back.gif西脇順三郎の「手」


古代ギリシア案内

[補説]ギリシア詩から西脇順三郎を読む

西脇順三郎の「栗の葉」






   栗の葉

豌豆の豆の花がさいて
眼が細くなつた
夜がきた
魚も僕も眠つた。
栗の葉のさゝやきの中に
Maudの声がする
ナイチンゲールがないて
夜があけてきた
僕の頭が大理石の上に薔薇の影となる。

 「あまりいい詩じゃないね。とにかく、一定の頁を埋めなきゃならないんで書いたんだから」(西脇セミナー第2回、p.32)。

 あまりいい詩じゃない所以は、何よりも作者に思い違いがあることが原因であろう。「栗」といえば、日本人はもちろんブナ科クリ属の植物を連想する。ところが、西脇順三郎のつもりでは、これは「マロニエ」のことだというのである(西脇セミナー第2回、p.32)。
 マロニエは、トチノキ科マロニエ(Aesculus hippocastanum)で、両者はまったく異なる。
 「マロングラッセ」はマロンの実でつくっていたが、これにクリを代用するようになって、クリがマロンと呼ばれるようになったという(Wikipedia「クリ」)。
 この勘違いは決定的である。何よりも、クリの持つ扇情的な側面 — その花の匂いは精液を想起させる!
  栗咲く香にまみれて寡婦の寝ねがたし  桂信子
— は、先ず削ぎ落とされなくてはならない。イメージの効率の点から言っても、これはよろしくない。

 古代ギリシア人は、樹木のそよぎに神託を聞いた。ギリシア西北端に近いエペイロスのドドナ(Dwdwvnh)のゼウス託宣所でである。その起源は遠くギリシア以前、すなわちいわゆるペラスゴイの時代に溯ると言われている(ヘーロドトス『歴史』II-52以下)。
 託宣する樹とは、ギリシア語でfhgovV(学名Quercus Aegilops)〔ブナ科コナラ属の植物〕、一般的にはdru:Vすなわち「オーク(oak)」である。マロニエと違うのはもちろん、栗とも違う〔ちなみに、栗のギリシア語はkavstana。Dsc.I-145。これを歌ったギリシア詩は見当たらない〕。

 オウィディウスは『変身』第7巻で、アイアコスに現れた霊験を歌う。

 高い樫の木がゆらぎ、風もないのに枝を動かして、ざわめきました。わたしは、恐ろしさにふるえ、全身がわななきます。髪の毛も逆立ちました。それでも、大地と樫の木とに、感謝の口づけを与えました。が、わたしが希望を持っていることは、自分にも認めてはいなかったのです。けれども、望みはもっていて、わたしの願いをそっと胸に秘めていました。

 夜になりました。心労に痛めつけられたからだに、眠りが訪れます。すると、わたしの目の前に、あの同じ樫の木が現われました。同じだけの枝をつけています。同じだけの生き物〔蟻〕をその枝にのせてもいます。そして、同じようにゆれ動いて、穀粒を運んでいる蟻の縦隊を下の畑地にまきちらす — そう見えたのです。それから、蟻たちはにわかに生育すると、どんどん大きくなってゆきます。そして、地面に身を起こし、まっすぐにからだを伸ばして立ちあがりました。貧弱なからだ、数多い足、黒っぼい色などを捨て去ると、人間の姿をかぶってゆくのです。
 (中村善也訳、下、p.290-291)

 目がさめたとき、アイアコスは願いがかなって、ミュルミドーン人(Murmidwvn)〔ギリシア語でmuvrmhxは「蟻」の意〕という国民を得て、その王となったのである。

 詩「栗の葉」における昼─夕─夜─夜半(夢)─夜明け─朝へという速い展開は、アイアコスのこの伝説を構図に採っていると解してよかろう。しかし、そこに配置された詩句は、いずれも漠然として、鮮明なイメージを喚起するとは言いがたい。

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豌豆の豆の花 古代ギリシアで言えばシロエンドウ(学名 Pisum sativum 右図)であるが、これを歌ったギリシア詩は見あたらない。喜劇には出てくるが、それは食べ物としての豌豆である。
 なぜ「豌豆の豆の花」なのか? 研究者は、西脇順三郎の「農耕文化への知的な関心」を挙げる(澤正宏、p.123-124)。しかし、関心があることが、豌豆をこの詩のここに採りあげた理由になるわけではない。

 日本において、「豌豆の花」が季語として立項されるようになったのは、明治からだという。明治になって、やっと豌豆の花が詩歌に登場するようになった。これは西洋においても同様であったようだ。そこには、何か宗教的禁忌でもあったのだろうか。
 例えば、ピュタゴラス派は、豆(この場合はソラマメ kuvamoV )を食べることを禁じた。その理由を、アリストテレースは、「豆が、人の局部に似ているからであるとか、あるいは、ハデスの門に似ているからであるとか、<……>あるいはまた、豆は身体をこわすものであるとか、宇宙万有の形に似たものであるとか、寡頭制に関係があるとか、そういった理由のためである」と推測した(ディオゲネス・ライエルティオス、VIII-34)。最後の寡頭制云々とは、寡頭制では、役人の抽籤を豆で行ったからという意味である。
 古代のみならず、近代においても、ユイスマン(Joris-Karl Huysmans, 1848-1907)『神の植物・神の動物』(八坂書房、2003.2.)にこうある。 —

 いいですか、レンズマメというのは陰険で暗鬱な種を宿しています。アルテミドロスはその『夢の解釈』のなかではっきり述べていますぞ、レンズマメの夢をみたら近々葬式が出る前兆であると。レタスやタマネギも同様で、破局の前触れとなります。エンドウマメはもっとたちが悪いが、なかんずく、あのコリアンダーには、ペストのごとくに用心しなければなりませんよ。その葉っぱは南京虫の臭いがしますが、むべなるかな、コリアンダーはありとあらゆる災いを招き寄せるのです。
  (野村喜和夫訳、p.49)

 西脇順三郎が豌豆の花を採用したのは、案外単純な理由かも知れない。というのは、豌豆の花は、人の顔に似ているのではないか。このことは、次の「眼が細くなつた」をも無理なく引き出すのみならず、栗とともに、最後の「僕の頭」の伏線ともなり得る。

魚も……眠つた 魚の睡眠はすでにアリストテレース『動物誌』第4巻10で論じられている。プリニウスも魚は眠ると言っている(『博物誌』第9巻6節)。しかし、魚が眠ることを敢えて言いつのらなければならなかったところに、魚は眠らないという通念があったことをうかがわせる。事実、紋章学では、魚は眠らないことになっていたらしい。その眠らない魚が眠るのである。

Maud テニスン(Alfred Tennyson, 1809-1892)の詩『モード(Maud)』(1855)の女主人公の名前。

声が聞こえる、杉の木のそばだ。 館の下の牧場のあたり!
僕には懐かしい調べをモードが歌うよ。
<………………>
人生の朝に1人で歌っている。
人生と五月の楽しい朝に、
  (V, i、西前美巳訳)

ナイチンゲール ギリシア語ではajhdwvn、文字どおり「歌姫」の意である。おびただしい詩の伝統があるが、これは西洋詩においても同じであろう。もちろん神話もあるが(例えば、「雨」参照)、西脇順三郎のこの詩には関係しない。
 むしろ、夜明けとナイチンゲールを組み合わせたところに、余計な観念連合を喚起していると言える。というのは、キリスト教では、この鳥は死期が近づくと、夜明けとともに歌い始め、だんだんと声を美しくしながら、9時までに死ぬと言われているからである(アト・ド・フリース『イメージ・シンボル事典』)。

 こういった詩句の曖昧さは、最後の1行「僕の頭が大理石の上に薔薇の影となる」を印象づけるための意図かとも勘ぐりたくなる。
 最後の1行について評者は、 —

 ホメーロスの『イーリアス』や『オデュッセイア』に頻出する朝日が、必ず薔薇の指をした暁の女神に喩られていることから、「朝日の影」としないで、古代人(ホメーロス)の朝日の形のとらえ方を借りて「薔薇の影」とし、この表現をもってこの詩を「ギリシア的抒情詩」という総題にしっかりとつなぎ、一番のねらいとしたのである。しかも、「薔薇の影」と補筆したことで、「大理石」とその上の朝日による「影」という表現が、冷と暖との対照的な温感を背景に白と黒との鮮やかな対比を効果的に誘い出し、さらに、「僕の頭」が「薔薇」の形の「影」になるという、美的でイマジスティックな波及効果をも呼びおこしている。
 (澤正宏『西脇順三郎のモダニズム』p.117-118)

というのであるが、にわかには信じがたい。
 日本語の「影(陰・蔭・翳ではない!)」には、「光」の意味と、「鏡や水の面などに物の形や色が映って見えるもの」という意味と、2つの意味がある(その他の意味は付帯的な意味である)。論者はこの2つの意味を混同している。

 大理石や薔薇を持ち出したからといって、それでギリシア詩らしくなるわけではない。そもそも、この詩はそんなに難しく考えなくてはならないのだろうか……。

 〔西脇セミナー第2回において、作者の西脇順三郎はこの詩の題名について、「こりゃ僕もよくわからないんですけど、題が『栗の葉』になってるんですね。『豌豆の豆の花』なのかと思ったら『栗の葉のささやき』となってるね」と発言している(p.31)。発表の時からかなり時間が経過しているとはいえ、作者が題名をいぶかしがるとは、面妖な発言ではある。
 発表時、題名には相当の思い入れがあったと思うが、それは何だったのか。素人の揣摩憶測ではあるが、「手」における匂いといい、「カリマコスの頭とVoyage Pittaresque」の蝋燭の香りといい、「栗の葉」にも、においを形象化しようとする何らかの意図があったのではないか。しかし、それが成功しなかったので、結局、題名だけが宙に浮いたかたちになったのではなかろうか〕。

forward.gif西脇順三郎の「ガラス杯」
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