西脇順三郎の「手」
栗の葉 「あまりいい詩じゃないね。とにかく、一定の頁を埋めなきゃならないんで書いたんだから」(西脇セミナー第2回、p.32)。 あまりいい詩じゃない所以は、何よりも作者に思い違いがあることが原因であろう。「栗」といえば、日本人はもちろんブナ科クリ属の植物を連想する。ところが、西脇順三郎のつもりでは、これは「マロニエ」のことだというのである(西脇セミナー第2回、p.32)。 古代ギリシア人は、樹木のそよぎに神託を聞いた。ギリシア西北端に近いエペイロスのドドナ(Dwdwvnh)のゼウス託宣所でである。その起源は遠くギリシア以前、すなわちいわゆるペラスゴイの時代に溯ると言われている(ヘーロドトス『歴史』II-52以下)。 オウィディウスは『変身』第7巻で、アイアコスに現れた霊験を歌う。 高い樫の木がゆらぎ、風もないのに枝を動かして、ざわめきました。わたしは、恐ろしさにふるえ、全身がわななきます。髪の毛も逆立ちました。それでも、大地と樫の木とに、感謝の口づけを与えました。が、わたしが希望を持っていることは、自分にも認めてはいなかったのです。けれども、望みはもっていて、わたしの願いをそっと胸に秘めていました。 目がさめたとき、アイアコスは願いがかなって、ミュルミドーン人(Murmidwvn)〔ギリシア語でmuvrmhxは「蟻」の意〕という国民を得て、その王となったのである。 詩「栗の葉」における昼─夕─夜─夜半(夢)─夜明け─朝へという速い展開は、アイアコスのこの伝説を構図に採っていると解してよかろう。しかし、そこに配置された詩句は、いずれも漠然として、鮮明なイメージを喚起するとは言いがたい。 豌豆の豆の花 古代ギリシアで言えばシロエンドウ(学名 Pisum sativum 右図)であるが、これを歌ったギリシア詩は見あたらない。喜劇には出てくるが、それは食べ物としての豌豆である。 日本において、「豌豆の花」が季語として立項されるようになったのは、明治からだという。明治になって、やっと豌豆の花が詩歌に登場するようになった。これは西洋においても同様であったようだ。そこには、何か宗教的禁忌でもあったのだろうか。 いいですか、レンズマメというのは陰険で暗鬱な種を宿しています。アルテミドロスはその『夢の解釈』のなかではっきり述べていますぞ、レンズマメの夢をみたら近々葬式が出る前兆であると。レタスやタマネギも同様で、破局の前触れとなります。エンドウマメはもっとたちが悪いが、なかんずく、あのコリアンダーには、ペストのごとくに用心しなければなりませんよ。その葉っぱは南京虫の臭いがしますが、むべなるかな、コリアンダーはありとあらゆる災いを招き寄せるのです。 西脇順三郎が豌豆の花を採用したのは、案外単純な理由かも知れない。というのは、豌豆の花は、人の顔に似ているのではないか。このことは、次の「眼が細くなつた」をも無理なく引き出すのみならず、栗とともに、最後の「僕の頭」の伏線ともなり得る。 魚も……眠つた 魚の睡眠はすでにアリストテレース『動物誌』第4巻10で論じられている。プリニウスも魚は眠ると言っている(『博物誌』第9巻6節)。しかし、魚が眠ることを敢えて言いつのらなければならなかったところに、魚は眠らないという通念があったことをうかがわせる。事実、紋章学では、魚は眠らないことになっていたらしい。その眠らない魚が眠るのである。 Maud テニスン(Alfred Tennyson, 1809-1892)の詩『モード(Maud)』(1855)の女主人公の名前。 声が聞こえる、杉の木のそばだ。 館の下の牧場のあたり! ナイチンゲール ギリシア語ではajhdwvn、文字どおり「歌姫」の意である。おびただしい詩の伝統があるが、これは西洋詩においても同じであろう。もちろん神話もあるが(例えば、「雨」参照)、西脇順三郎のこの詩には関係しない。 こういった詩句の曖昧さは、最後の1行「僕の頭が大理石の上に薔薇の影となる」を印象づけるための意図かとも勘ぐりたくなる。 ホメーロスの『イーリアス』や『オデュッセイア』に頻出する朝日が、必ず薔薇の指をした暁の女神に喩られていることから、「朝日の影」としないで、古代人(ホメーロス)の朝日の形のとらえ方を借りて「薔薇の影」とし、この表現をもってこの詩を「ギリシア的抒情詩」という総題にしっかりとつなぎ、一番のねらいとしたのである。しかも、「薔薇の影」と補筆したことで、「大理石」とその上の朝日による「影」という表現が、冷と暖との対照的な温感を背景に白と黒との鮮やかな対比を効果的に誘い出し、さらに、「僕の頭」が「薔薇」の形の「影」になるという、美的でイマジスティックな波及効果をも呼びおこしている。 というのであるが、にわかには信じがたい。 大理石や薔薇を持ち出したからといって、それでギリシア詩らしくなるわけではない。そもそも、この詩はそんなに難しく考えなくてはならないのだろうか……。 〔西脇セミナー第2回において、作者の西脇順三郎はこの詩の題名について、「こりゃ僕もよくわからないんですけど、題が『栗の葉』になってるんですね。『豌豆の豆の花』なのかと思ったら『栗の葉のささやき』となってるね」と発言している(p.31)。発表の時からかなり時間が経過しているとはいえ、作者が題名をいぶかしがるとは、面妖な発言ではある。 |