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back.gif西脇順三郎の「栗の葉」


古代ギリシア案内

[補説]ギリシア詩から西脇順三郎を読む

西脇順三郎の「ガラス杯」






   ガラス杯

白い董の光。
光りは牛島をめぐり
我が指環の世界は暗没する。
潅木のコップの笑ひ。
尖つた花が足指の中に開き
さしのばされた白い手は
三色董の光線の中に匿され
女神と抱擁する
形像は形像へ移転
壮麗な鏡の春に頬を映す

ガラスにプラタノスの葉がうつる
青くそつた眉にポリュアントスの花がうつる
宝石に涙がうつる。

昼が海へ出て
夜が陸へはひる時
汝の髪が見えなくなる
すべての窓に汝の手がうつる。
ブリス、カーメン。

喜びの女が歩く
汝の言葉は
五月の閉された朝。

glass.jpg

 右の図は、フランスのガラス工芸家ドーム兄弟(兄 August Daum, 1853-1909 / 弟 Antonin Daum, 1864-1909)の作品である。
 この杯では、透明な地に白と紫を練りこみ、菫の文様をエッチングで浅く彫り、杯の細部はエナメルと金彩で描出している。
 ドーム兄弟のガラス杯には、このような菫をモチーフにしたシリーズがある。このような杯が、西脇順三郎の詩「ガラス杯」の素材のひとつになっている(この項、澤正宏『西脇順三郎のモダニズム』p.131)。

 第1連の最終行は「映す」と漢字、他動詞になっている。第2連は「うつる」と平仮名、自動詞である。「何に」うつるかといえば、ガラス〔杯〕にであり、宝石にである。
 この使い分けを手がかりにして、「うつる/うつす」に2つの意味が区別できる。ひとつは、下の文字や絵が紙などを通して透けて見える意であり、もうひとつは、あるもの(鏡、水、障子など)に姿や影が現れる意である。今、かりに、前者を写像、後者を映像と呼ぶことにしよう。ガラス杯は、ガラス杯自身の絵柄を映すとともに、ガラス杯の外のものをも写すのである。
 しかも、このガラス杯は、「指環」をした手に持たれていると考えるとわかりやすい。

 第3連は、昼から夜(あるいは、明から暗)への転換を示す。必ずしも時間の推移を示していると考える必要はない。出典は、シェリーの「夜に(To Night)」である。

西の海を すみやかにすすめ 「夜」の精よ!
<……>
「昼」の眼を おまえの髪でくらくし
口づけで「昼」を疲れさせ
ねむりの杖であらゆるものに触れながら
街を 海を 陸をさすらえ-- (出口保夫訳)

  Swiftly walk o'er the western wave,
  Spirit of Night!
  <……>
   Blind with thine hair the eyes of day;
  Kiss her until she be wearied out,
  Then wander o'er city, and sea, and land,
  Touching all with thine opiate wand--

 また、キーツの「空想(Fancy)」にはこうある。 —

「夜」が その空から
「夕べ」を追い出す 暗がりの
謀りごとをして 「昼」と出会うときに。

   When the Night doth meet the Noon
  In a dark conspiracy
  To banish Even from her sky. (22-24)

 この着想の伏線は、すでに第1連にある。「光りは半島をめぐり」 — 「光り」は送り仮名の間違い(誤植)ではない。「光る」という動作性を保ちつつ、次の「めぐる」と呼応している(しかし、苦心しているわりには、効果をあげていない)。「昼」は半島を通って海に出るのであり、「夜」は半島を通って陸に入るのである。

 最終連は、昼─夜─朝と時間が推移しているようであるが、必ずしもそう採る必要はあるまい。「五月の……朝」は、その輝かしさによって、第1連に回帰する。
 第2連の「青くそった眉」 — 眉を剃るのは、結婚や出産を動機とする。ただし、これは日本の風俗であって、西洋においては、「眉の有無、形状で、未既婚、年齢、身分などを示すことは全くなかった」(『眉の文化』P.67)。
 「青くそった眉」と響き合って、最終連の「喜びの女」(『雅歌』VII-6)、「閉ざされた(園〕」(『雅歌』IV-12)が出てくる。
 第4連は、おそらく、ガラス杯そのものの表象であろう。「五月の閉された朝」は、第1連に回帰するとともに、第1連の「女神」と響き合いながら、「(覆された宝石)のやうな朝」を想起させる。この詩「ガラス杯」は詩「天気」と呼応しているのである。

 しかし、この詩にも、ギリシア的なものはあまり感じられない。菫はすでに常套句に堕している。まして「三色菫」にいたっては、古代ギリシア人の知らぬものである。プラタノス(スズカケノキ。学名 Platanus orientalis)は、たしかに、ギリシアの伝統を受け継ぐものだが、すでにありふれたものである。
 研究者たちは、「ポリュアントスの花」を、ポリアンサス(学名 Primula polyantha)と解釈しているようであるが、これはサクラソウの交配種、すなわち、人間の手で作られた花であって、これも古代ギリシア人の知らぬ花である。むしろ、ポリュアントス(poluavnqoV)の原義「多-花の」という形容詞と解釈するのがふさわしい。これのみは、ギリシア語そのものである。

 その他、難解そうな詩句についてみておこう。

我が指環の世界は暗没する 「暗没」という語は辞書にないが、意味は容易に想像できる。映画でいう「fade out」である。もちろん、ガラス杯の輝きに比してということである。

潅木のコップの笑ひ 「笑」は「咲」と同義である。したがって、「潅木の笑い」といえば、潅木の花が咲くことがイメージできる。「潅木のコップ」も難しくはない。潅木の絵柄のコップのことであろう。コップに潅木の絵柄があり、その潅木に花が咲くことは、コップの花が咲くことでもある。
 映像と写像の重なりにこそ、この作者の苦心がある。「壮麗な鏡の春に頬を映す」、「青くそった眉にポリュアントスの花がうつる」など、みなそうである。

尖つた花が足指の中に開き 初出形(『尺牘』椎の木社、昭和8年)では、「尖つた花は指の中に開き」であった。精神分析で足が男根を意味するところから、研究者はうがった知見を披露しているが、考えすぎであろう。キーツの「小夜啼鳥に寄せる歌」 —

足下にどんな花が咲いているのか、
またどんな香りが 木枝に漂っているのかもわからない。

  I cannot see what flowers are at my feet,
  Nor what soft incense hangs upon the boughs,
acanthus-mollis.jpg

 「尖つた花」はアカンサス(a[kanqoV、学名 Acanthus mollis)を連想させる。ちなみに、アカンサスの英語名は bearsfoot である(L&Sによる)。
 コリント様式の建築の柱頭の飾りに用いられるのは、同類のAcanthus spinosus であるが、この様式の発明者はカリマコス〔「カリマコスの頭とVayage Rittoresque」参照〕だと伝えられている。
 アカンサス(Acanthus mollis)の花〔右図〕は、なるほど、「尖っ」ている。

ブリス、カーメン カナダの詩人William Bliss Carman(1861-1929)。Blissは母の名字であったが、これを筆名に用いた。Bliss には、天上の喜び、至福の意味がある。
 Carman は、Bliss との関係でアーメン(Amen)〔「かくあれかし」の意〕という祈りの言葉を連想させるし、Carmen(スペイン語で女の子の名前、ラテン語で「歌」の意)をも連想させる。
 次の連への移行を滑らかにしているが、ブリス・カーメンという人物との間に語呂以外の関係はとくにみられない。

 テキストから読み取れることは、ここまでである。これ以上 — 例えば、「『閉ざされた』というのはお腹の大きいことで、子供が閉ざされたということですよ。/それで五ヶ月になったと(爆笑)」(西脇セミナー第2回、p.35)というような謎解きの好きな方は、ご随意に

forward.gifカリマコスの頭とVoyage Pittoresque
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