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back.gif西脇順三郎の「天気」


古代ギリシア案内

[補説]ギリシア詩から西脇順三郎を読む

西脇順三郎の「手」






   手

精霊の動脈が切れ、神のフイルムが切れ、
枯れ果てた材木の中を通して夢みる精気の
手をとつて、唇の暗黒をさぐるとき、
忍冬の花が延びて、岩を薫らし森を殺す。
小鳥の首と宝石のたそがれに手をのばし、
夢みるこの手にスミルナの夢がある。
燃える薔薇の薮。

 「スミルナ」について、作者の西脇順三郎は、「よくギリシア詩などに出てくる土地の名になんとなく美しい illusion をもって、いいかげんに詩の中に入れている」と言っているという(澤正宏『西脇順三郎のモダニズム』p.76註-5)。とすると、スミルナは、小アシアはイオーニア地方の都市スミュルナーのことであろう。
 この都市はアマゾーン女人族のスミュルナーがエペソスを征服し、そのエペソスから分離したと、ストラボーン『世界地誌』第14巻1節は伝える。
 たしかに、ギリシア詩によく歌われる。それは、この都市が詩人を輩出しているのみならず、あのホメーロス生誕の都市(の候補のひとつ)だからである。

 しかし、ギリシアの詩にスミュルナーが出てくるのは、都市としてではなく、むしろ、もうひとりのスミュルナー(にちなむ植物)としてである場合の方が多い。この、もうひとりのスミュルナー(Smuvrna)は、またの名をミュラー(Muvrra)ともいう。

 ある日、キュプロスの王キニュラース — ただしこれには異説があって、ビュプロスの王ポイニクスとも、アッシリアの王ティアースともいうが — の奥方がおろかな自慢をして、自分の娘のスミュルナーはアプロディーテーなどよりはるかに美しいと言ったことがあった。この侮辱を根にもって、女神はむごい復讐をくわだてた。つまり、あらかじめ娘スミュルナーの乳母に酒をすすめさせて、父のキニュラースを前後不覚に泥酔させておき、つぎにスミュルナーの心に父親にたいする情欲をかきたてて、暗夜にまぎれ彼の寝床にもぐりこむようにしむけたのである。あとでキニュラースは、自分がスミュルナーの腹から生れてくる子どもの父親でもあり、同時に祖父にもなることに気がついて気も狂わんばかりに憤り、刀をつかんで、のがれさる娘を追いかけて宮殿をとびだしていった。彼は娘を山の崖っぷちのところで追いつめたが、このときアプロディーテーがすばやくスミュルナーを没薬の木にかえたので、振りおろされた刀はそれをまっ二つに割った。なかから赤ん坊がおどりでたが、それがアドーニス(!AdwniV)である。すでに自分の仕組んだいたずらをふかく後悔しはじめていたアプロディーテーは、アドーニスを箱にかくし、それを冥界の女王ペルセポネ一に託して、どこか暗いところにしまっておいてくれるようにたのんだ。
 (グレイヴズ『ギリシア神話』p.105)

 スミュルナーが変身したのは、アラビアの樹 Balsamodendron Myrrha である。この植物から採れる樹液(「スミュルナーの涙」)が、古くから焚香として使われた没薬(英語のミルラ myrrh)である。
 没薬が焚香に使われることを考えれば、最終行の「燃える薔薇の薮」と繋がるし(この詩句は、じつは、エッカーマン『ゲーテとの対話』の中で、ゲーテがバイロンを評した言葉であるという)、2行目の「枯れ果てた材木」ともひとつの観念連合を形成する。

 忍冬(スイカズラ)もまた芳香性の強い植物である。その強さたるや、西脇順三郎にとって、「岩を燻らし、森を殺す」ほどである。

 匂いを媒介に、「スミルナ」と「忍冬(スイカズラ)」とが結びつき、これが森の情景の中に置かれる。その森は、キーツの『エンディミオン』第2巻を下敷きにした。それは奇しくも(もちろん意図的であろうが)、アドーニスとアプロディーテーの愛の場面である。厳密な対応は難しいが、片言隻句は微妙に対応している。

 エンデュミオーンは深い森の中に入って行く。彼を導くのは、精霊の化身した「金の蝶」(II-62)である。その蝶に導かれて、 —

……新しく生まれた精霊のように
静かな落日の 緑色の夕べを通りすぎ
  ..... like a new-born spirit did he pass
  Through the green evening quiet in the sun,(II-71-72)

 英語の"vein"は、「静脈」という意味のほか、「昆虫の翅脈」「植物の葉脈」「岩脈・鉱脈・水脈」などの意味がある。この"vein"が『エンディミオン』には全体で4箇所に使われているが、次の箇所は重要である。
 精霊のようになったエンデュミオーンが通る道を表す。

……そこは暗がりで 光はなく、
輝くものはないが、真っ暗がりではなく、
明暗が交わるところだ。仄光る憂鬱だ。
薄暗い帝国と その王冠だ。
宝石の 仄かな 永遠の黄昏だ。
そうだ、百万の宝石が 金の鉱脈にきらめき、
その道をたどって 羊飼いの王子は 速歩を数えた。
  .....Dark, nor light,
  The region; nor bright, nor sombre wholly,
  But mingled up; a gleaming melancholy;
  A dusky empire and its diadems;
  One faint eternal eventide of gems.
  Aye, millions sparkled on a vein of gold,
  Along whose track the prince quick footsteps told,(II-222-228)

 英語の"film"には、「薄皮」「薄膜」「薄葉」などの意味がある。感光膜を意味するのはむしろ例外的であろう。『エンディミオン』には次のような用例がある。

わたしの目のまえを 厚い皮膜と影とが漂っている —
  Before mine eyes thick films and shadows float-- (II-324)

 先ほどのスミュルナーの神話の続きである。 —

アドーニス(!AdwniV)
アプロディーテーはこの美しい赤児を箱にかくし、ペルセポネーに養育を頼む。ところがペルセポネーもその美しさにうたれて少年を返そうとせず、ゼウス(またはその命によりカリオペー)が1年の三分の一ずつを二女神のもとに、残る三分の一を自分の好きな所で暮すように命じた。のち彼はアルテミスの、あるいはアレース(へーパイストス、アポローンとも伝えられる)の怒りにふれ、狩猟の最中に猪に突かれて死に、その血からアネモネが、彼を悼むアプロディーテーの涙から薔薇が生れた。

 Adonはセム語で《主》の意味、バビロニアのタムズTammuzと同じ神で、農業神であり、植物の芽生え、繁茂と冬のあいだの死を象徴する。シリアのビュブロスとキュプロス島にアドーニス崇拝の中心地があり、毎春彼の蘇りを祝う祭礼アドーニアAdoniaが行なわれた。女たちは壷に植物を植え、湯を注いで芽生えをはやめ、これを《アドーニスの園》と呼び、祭には彼を嘆いた。
  (『ギリシア・ローマ神話辞典』)

 キーツの『エンディミオン』には、アプロディーテーとアドーニスとの逢い引きの場面が描かれている。そこは芳香に満たされているが、この芳香は、アプロディーテーの神木たるミルテ(Myrtus communis)〔ギンバイカ、天人花と訳される〕の放射するものであって、忍冬(スイカズラ)のそれではない —

……天人花が壁をなし 高く木陰におおわれ、
光と 芳しい香りと やさしい吟誦と
さらに美しい 不可思議に充ち満ちた
ひとつの部屋……

  A chamber, myrtle wall'd, embowered high,
  Full of light, incense, tender minstrelsy,
  And more of beautiful and strange beside:(II-390-392)

 さらに花々の記述は続くが、その中に、「ビロードの葉と角笛のような花の 華麗なすいかずら(woodbine, of velvet leaves and bugle-blooms divine)」も含まれる(II-414-415)。しかし、『エンディミオン』においては、この香りは問題とされていない。
 「やがて 首をのばした白鳩が はっきりと見え、恋の追放から戻った女王ヴィナスが 両腕を開いて 下界に降りるのが見えた(Soon were the white doves plain, with necks stretch'd out, .....And soon, returning from love's banishment, Queen Venus leaning downward open arm'd:)」(II-524-527)
 鳩はアプロディーテーの聖鳥である(I-510など)。

 しかし、幻想は去り、彼は再び寂しい黄昏の中にひとり残された。道は「虚空を超えてのび、大きな岩の深い割れ目を渡っている(Spiral through ruggedest loopholes, and thence Stretching across a void, then guiding o'er Enormous chasms)」(II-600-602)。
 巻末にはキーツの詩観が少し述べられ、そこでは「夢みる力(power to dream)」(II-710)が強調される。夢みる力こそ、詩人の資質である。

 この詩の初出は、詩誌『Madame Blanche』第8冊(昭和8年)で、『Ambarvalia』所収形と大きく異なっている。題名も異なる。


   詩

精霊の動脈が切れて
枯れ果てた机の材木を思ふ。
忍冬の花がのびて
岩を燻らし、森をかすめた。
うすやみの葉の蔭にナイチンゲールが首をたれた。
この材木に腰かけて夢みる心は。

 題名が「詩」から「手」に変えられ、「精気の手をとって、……さぐる」「宝石のたそがれに手をのばし」「夢みるこの手」と、要するに構図そのものが変えられたと言える。
 この構図は何に由来するのか?

hand-eye.jpg わからぬ。

 ここまで、西脇順三郎の詩を解釈する際にわたしの採用してきた原則は、いかなる観念連合にも包摂されない詩句に注目し、これを中心に構想しなおす、ということであった。今の場合、それは「手」であり、「唇の暗黒」という表現である。そこで思いつくのは、 —

 右の図は、アルチャーティー(Andrea Alciato , 1492-1550)『Emblemata』(1551, Lyon)のエンブレム(第16番)である。
 標語はギリシア語で

  Nh:fe kai; mevmnhs= ajpistei:n. a[rqra tau:ta tw:n frenw:n.
   〔素面であれ、そして信ぜざることを記憶せよ。それが正気の褒賞である〕。

 素人の単なる思いつきながら、詩「手」は、この図像に対するエピグラム詩ではないか、という提案をしておきたい。

 図像は、崖の上に野原が広がっている。谷の上にある野原を唇に譬えた例は、テニスンの『Maud』の冒頭にある。

I hate the dreadful hollow behind the little wood,
Its lips in the field above are dabbled with blood-red heath, The red-ribb`d ledges drip with a silent horror of blood,
And Echo there, whatever is ask`d her, answers "Death."(I-1-3)

 また、西脇順三郎は、唇は岩を意味すると思っていたらしい(西脇セミナー第2回、p.25)。この思いこみはどこから来るのか。これもよくわからぬが、テオクリトス『牧歌』第12歌の次の箇所を挙げておく。

毎年、春のはじめは墓のまわりに集まって、少年たちが接吻で賞を争う。
もっとも甘く、唇を唇に押しつけた者が
花冠をずっしりもらって母のもとに帰るのだ。
少年たちのそんな接吻を審判するのはしあわせもの。
きっと何度も輝かしいガニュメデスに呼びかけたことだろう。
唇がリュディアの試金石に等しくなるようにと。 (古澤ゆう子訳)

  aijeiv oiJ peri; tuvmbon ajolleveV e[iari prwvtw/
  kou:roi ejridmaivnousi filhvmatoV a[kra fevresqai`
  o}V de; ke prosmavxh glukerwvtera ceivlesi ceivlh,
  briqovmenoV stefavnoisin eJh;n ejV mhtevr= ajph:lqen.
  o[lbioV o{stiV paisi; filhvmata kei:na diaita/:.
  h\ pou to;n caropo;n Ganumhvdea povll= ejpibw:tai
  Ludivh/ i\son e[cein pevtrh/ stovma,..... (XII, 30-36)

 眼に見え、手に触れるものしか描かない — これが、キーツの向こうをはった詩人・西脇順三郎の宣言であった、と解したい。
 もちろん、宣言どおりの詩が書けたかどうかは、また別の問題である。

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