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back.gif西脇順三郎の「眼」


古代ギリシア案内

[補説]ギリシア詩から西脇順三郎を読む

西脇順三郎の「皿」






   皿

黄色い董が咲く頃の昔、
海豚は天にも海にも頭をもたげ、
尖つた船に花が飾られ
ディオニソスは夢みつゝ航海する
模様のある皿の中で顔を洗つて
宝石商人と一緒に地中海を渡つた
その少年の名は忘れられた。
麓(うららか)な忘却の朝。

diohymn.jpg 酒宴(sumposivon)の際に用いられる酒杯をキュリクス(kuvlix)という。台つきの大盃(直径20-30cm)で、両側に水平の取っ手のついた特徴的な形をしている。この酒杯には、盃の外側と内側に美しい絵が描かれているのが普通である。その中でも、エクセキアス〔前550頃-530活動〕の作と伝えられる「航海するディオニューソス」は有名である(右図)。これは、次のホメーロス風讃歌第7歌を主題とした図像である。邦訳は入手しがたく、それほど長くもないので、参考までに全訳しておく。

誉れ高きセメレーの息子ディオニューソスのことを
語ろう、荒涼たる海のなぎさに現れた次第を、
突き出た岬に、初々しい若者そっくりの
姿で。美しい蒼黒い髪は
たなびき、がっしりした両肩には、紫のパロスを
まとい。ところがたちまち、漕ぎ座もよろしき船に乗って
男たちが、葡萄酒色の海原にすみやかに現れた、
テュルセーノイ人の海賊たちが。しかし、連中にふりかかったのは悪しき運命。連中は見ると、
互いに頷きかわし、たちまち陸に跳び降り、大急ぎでひっとらえるなり、
自分たちの船の中に据えた。心の中でしめたと思いながら。
それがゼウスが守り立てたもう王の息子に思われたからである。
そして荒縄で縛ろうとした。
しかし縄は利かず、柳の蔓は身体から
手や脚から抜け落ちる。そしてあのかたは微笑みながら座っていた、
蒼黒い眼をして。舵取りだけは思いを致して、
ただちにその仲間たちに呼びかけて声を発した。
「気が狂ったか、お前たちが連れこんで縛ろうとしているのは
とんでもない強力な神さまだ。造りよき船でもこのかたをお運びすることはできまい。
このかたはきっとゼウスさまか、銀弓もったアポッローンさまか、
ポセイダオーンさまだ。死すべき人間ではない、
さながら、オリュムピアを住まいとなさる神々だ。
さあ、すぐに黒き陸にこのかたをお降ろししよう。
手をかけるでない、何か機嫌をそこなわれて、
烈しい風や大変な疾風でも引き起こされないよう」。
そう謂った。これを頭目が、意地悪いことばで叱りつけた。
「やい、おまえは追い風を読むがいい、それと同時に帆を揚げろ、
綱具もいっぱいにとって。こいつは野郎どもが面倒をみる。
思うに、こいつの行き先はアイギュプトスか、キュプロスか、
あるいはヒュペルボレイオス人の国か、もっと遠くだ。
そのうち自分の朋友やあらゆる財宝や、その兄弟を
白状するだろう。神佑がわしらの中に投げこんでくださったのだから」。
こう云うと、船の帆柱と帆を引き起こした。
吹く風は帆の真ん中をふくらませ、両側に綱具を
張った。するとその時、彼らに不思議なことが起こりだした。
先ず第一に、味よき薫りのする葡萄酒が脚速き黒船の上に
ほとばしり、アンブロシアの香りが立ちのぼった。
船乗りたちはこれを見てみな魂消た。
すると今度は葡萄の樹が、あちらこちらと、帆桁にまで蔓延り、
葡萄の房がいくつもたれさがった。
帆柱には、黒い常春藤の蔓も巻きついて
花開き、その上にみごとな実をつける。
櫂受けはみな花冠を戴いた。これを見て連中は、
さすがにもうそのときは船を陸へつけるよう舵取りに
命じた。しかしあのかたは船の中で恐ろしい獅子に姿を変じ、
舳先で獅子吼し、船の真ん中にも
しるしを現して、毛むくじゃらの熊を創造した。
こいつが唸り声をあげて立ちあがり、舳先の尖では、恐ろしい師子が
上目づかいに睨めつける。連中は恐れて船尾にのがれ、
思慮深き心をもった舵取りの両側に、
すっかり気も動顛して立ちつくしていた。するとそれは突然跳びかかり、
頭目をひっさらった、連中の方は、悪しき運命を外にのがれようと、
皆もろともに燦めく海に跳びこんだ、
すると海豚になった。しかし〔あのかたは〕舵取りだけは憐れんで、
引き留め、全福を授けて、ことばをかけたもうた。
「おそれるな、けだかきヘカトール、わが心にかなった者よ。
われは、いともにぎやかな(ejrivbromoV)ディオニューソス、母は
カドモスの娘セメレー、愛のうちにゼウスと交わったその子なり」。
ご機嫌よう、眉目うつくしいセメレーの御子。いかにしようとも、
御身に気づかぬ者が、甘き歌を整えることは、かなわない。

 キュリクスは、絵皿とは似ても似つかぬものだが、これを絵皿とすることで、日本人にはなじみの、しかし思いがけぬ斬新な印象を与えることに成功したと言える。
 TAKEMULA氏は、この詩の構図を、皿 < 船 < 地中海 が入れ子になっていると読み解いた。いわば画中の画 — 映画の手法でいえば、カメラをどんどん後ろに引いてゆくズーム・アウトの手法といってよかろうか。このズーム・アウトをさらに続ければ、地中海自体がひとつの青い宝石になるであろうことまで予想させる。
 このズーム・アウトは、空間的のみならず、時間的にも応用できる。時間的に画面を逆回転させれば、それは過去の追憶となる。これが少年が登場する所以であろう。

 少年の登場には、もうひとつの契機がある。
 冒頭にあげたディオニューソスの話は、エクセキアスの典拠ではあっても、西脇順三郎のそれではなかろう。西脇順三郎が依拠したテキストは、おそらく、オウィディウスの『変身物語』と考えられる。オウィディウスは、ディオニューソスは「小さな男の子」であったと証言しているのである(第3巻606)。

 ギリシア史を知る者は、男の子の登場にさらに推測を重ねることができる。
 あの時代に、宝石商人などというものは存在しない。そもそも、交易商人と海賊との間に区別はなかったのだから。それはまた、奴隷商人とも区別がないということである。ディオニューソスを拉致したのは海賊ではなかったか。そして、ギリシア語で子供(pai:V)は、年齢を表すとともに奴隷の少年をも意味したと。

 いずれにしても、そういう現実的な問題は一切無用。少年の名は忘れられ、うららかな春の海があるばかりである。

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