西脇順三郎の「皿」
古代ギリシア案内
[補説]ギリシア詩から西脇順三郎を読む
西脇順三郎の「太陽」
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太陽
カルモヂインの田舎は大理石の産地で
其処で私は夏をすごしたことがあった。
ヒバリもゐないし 蛇も出ない。
ただ青いスモヽの藪から太陽が出て
またスモヽの藪へ沈む。
少年は小川でドルフィンを捉へて笑つた。
カルモヂイン 昔、「カルモチン」という睡眠薬があった。致死性は低いが(太宰治はこれの服毒自殺に3回も失敗している)、依存性が強く、一時期、文士のattributeのように言われた時期があった。
イタリアでミケランジェロが彫刻に使った石材の産地がカルラーラ(Carrara)〔右図。カルラーラの白大理石切場〕であり、西脇順三郎は、石切場にミケランジェロが生まれたことを記憶していて、同じ「カル」の語呂から睡眠薬「カルモチン」を捩って、濁らせ、長くして、「カルモヂイン」を造語したという(澤正宏『西脇順三郎のモダニズム』p.60)。
ルーニ山の中、その下に住むカルラーラ人の耕すところに
白き大理石のうちなる洞を住居とし、こゝより星と海とを心のまゝに見るをえき
(ダンテ『神曲』第20曲46-51)
無機質な石切場を構図の一方とすると、もうひとつの構図は、テオクリトス『牧歌(Idyllia)』第7歌から借用した。
……この真っ昼間、……
トカゲも壁の割れ目にもぐり、
墓守ヒバリも見えない時刻なのに。
……
実もたわわなスモモの枝が
地面に向かってしなだれる。
(古澤ゆう子訳)
.....mesamevrion.....
aJnivka dh; kai; sau:roV ejn aiJmasiai:si kaqeuvdei,
oujd= ejpitumbivdioi korudallivdeV hjlaivnonti~ (21-23)
................
dayilevqV aJmi:n ejkulivndeto, toi; d= ejkvcunto
o[rpakeV brabivloisi katabrivqonteV e[raze`(145-146)
〔トカゲもヒバリも見えないのは、暑熱のために巣穴に引きこもっているからである。絵画であれ何であれ、暑熱を表現するのは、難しいし、この詩の世界にはふさわしくない。〕
「トカゲ─ヒバリ」の組み合わせが、「ヒバリ─蛇」に替えられているが、これは、シェリー(Percy Bysshe Shelley, 1792-1822)のヒバリ(「ひばりに寄せて(To a Skylark)」?)、ブレイク(William Blake, 1757-1827)の蛇を意識したためと言われている(西脇セミナー第2回、p.18)。
スモモは、ギリシア語ではkokkumhleva、学名Prunus domestica〔Dsc. I-174〕と言われる種であるが、『牧歌』で歌われているのは、bravbulon、学名Prunus spinosa〔右図〕である。
種は少し違うが、しかし共通しているのは、どちらも青い実がなるということである。したがって、「青いスモモの薮」というのは、同語反復になるが、スモモを巴旦杏と間違う日本人には、必要な贅語であるかもしれない。これの清涼感がたまらないという評者も多いから。
「ただ青いスモゝの藪から太陽が出て/またスモゝの藪へ沈む」は、『死者の書』109章の、太陽はトルコ石でできたシカモア・イチジクの樹からのぼり、シカモア・イチジクの樹に沈む、を想起させる。トルコ石は、もちろん、青緑色の宝石である。
少年は小川でドルフィンを捉へて笑つた またもや少年が登場したが、時間的ズームアップ/ズームアウトの手法を知っているわたしたちは、もはや驚かない。
しかし、「太陽─イルカ(dolphin)」とくれば、ギリシア詩では、「イルカのアポッローン(=Apovllwn DelfivnioV)」を連想しなければ嘘であろう。アポッローンは残忍な側面も持っているが、基本的にはやさしい神である。
アスクレーピアデースの子ゴルゴスは、美しきアポッローンに
いとしい頭からこの美しいもの〔髪〕を捧げ物とした。
されば、ポイボス・デルピニオスよ、優しき御身が、少年に幸運をたまわりますよう、
その髪が白くなる歳まで。
Pai:V =Asklhpiavdew kalw/: kalo;n ei{sato Foivbw/
GovrgoV ajf= iJmerta:V tou:to gevraV kefala:V.
Foi:be, su; d= i{laoV, Delfivnie, kou:ron ajxevoiV
eu[moiron leukh;n a[criV ejf= hJlikivhn.
(Anthologia Graeca, VI-278)
右の図は、ルーベンス( Pieter Pauwel RUBENS, 1577-1640)の「イルカに乗るクピードー」(1636)である。
詩の作者である西脇順三郎は、「オセアニアという海洋のある孤島の風景を描きたかったのである。少年れん中ははだかで、イルカを肩にかついで遊んでいるところであり」と自作解説しているらしいが(『現代詩入門』)、読者にそのような読みを求めるのは、たわごとと言うほかない。
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