西脇順三郎の「コリコスの歌」
古代ギリシア案内
[補説]ギリシア詩から西脇順三郎を読む
西脇順三郎の「天気」
|
天気
(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとさゝやく
それは神の生誕の日。
「覆された宝石」は、キーツ(John Keats 1795-1821)の『エンディミオン』第3巻777行にある「like an upturn'd gem」に依るらしく、作者本人も認めている。
.....a youthful wight
Smiling beneath a coral diadem,
Out-sparkling sudden like an upturn'd gem,
Appear'd,.....
……珊瑚の王冠戴く
微笑む若者あらわれて、王冠は
突如に宝石まき散らしたかのよう、光きらめいていた。
(775-777、西山清訳)
「人から取ってきて詩にするんだけど、それ〔括弧をつけたことか?〕はおもしろいと思ったから書いたんです。私は、何か遺しておきたいと思うんですよ。自分の読んだ詩でいいものは、自分の詩の中へ入れて」(西脇セミナー第1回、p.53)。
ということは、他の作者からの引喩は大した問題ではないと思われたのか……。〔本当のところは、宝石の有する凝固感を視覚的にも表そうとしたのであろう〕。
『エンディミオン』からの引用であることと、生誕した神が、どうやら、多神論的な神であるということ以外、この詩にギリシア的な要素は何もない。そこで、この詩の着想のヒントになったという図像のみを掲載しておく。
図像は、チョーサー(Geoffrey Chaucer, 1340?-1400)『カンタベリー物語』の中の「尼僧院長の物語(The Nun's Priest's Tale)」に付されたバーン=ジョーンズ(Sir Edward Coley Burne-Jones, 1833-1898)の挿し絵である。(この項、澤正宏『西脇順三郎のモダニズム』に依る)
戸口に立つ人
|
キリスト教徒の住む、アジアのある大きな町の中に、ユダヤ人の住む一区域があって、その国の君主の保護を受けておりました。それも、キリストやその信者たちのひどく嫌う汚い高利や、厭うぺき利得のためだったのです。
町の向こうの端にキリスト教徒の小さな学校が立っていました。そこには、キリスト教徒の血をひく大勢の子供たちがいて、毎年その学校で通例教えられていたような教えを学んでいました。
これらの子供たちの中に、寡婦の息子がいました。年のころは七歳の小さな生徒でしたが、毎日学校に行くのがならわしでした。またこの生徒は、キリストのお母様の像を見た時には、教え られたようにひざまずいて、アヴェ・マリアを口ずさんで道すがら唱えるのがならわしでした。
戸口でささやく人
|
〔ある時、上級生が歌う「救い主のやさしき御母」の聖歌を聞いて、この少年は、その聖歌を上級生から習いおぼえた。〕
学校に行くときと帰るとき、一日に二度、その歌は彼の喉を通って出ました。キリストのお母様の上に彼の全身全霊が注がれていました。
さて、<……>この少年は、ユダヤ人街を往き来しているときに、非常に楽しそうに、「救い主のやさしき御母」をいつも声をはりあげて歌ったものでした。キリストのお母様の優しさが彼の心に突き刺すように深くふれたので、彼女にお祈りするために、少年は道すがら歌うのを止めることができないのです。
ユダヤ人の心の中に自分の雀蜂の巣を持っている、われら人類の初めての敵、かの悪魔の蛇がふくれあがった鎌首をもたげて言いました、「おお、ヘブライの者たちよ! 見よ、これがお前たちにとって名誉となることか。このような少年が、お前たちを軽蔑し、思いのままに歩きまわって、お前たちの掟に反する歌をうたったりするとは」
このときから、このユダヤ人たちは、汚れなきこの少年をこの地上から追い払おうと謀議をこらしました。彼らは、袋小路に秘密の隠れ家をもっていた殺し屋をそのために雇いました。そして少年が近くを通り過ぎた時、この呪うぺきユダヤ人は少年を捕え、しつかりと抑え、喉をかき切って穴の中に投げ捨てたのでした。
この哀れな寡婦は、その夜ずっと幼い子供の帰りを待っていましたが、彼は帰って来ませんでした。そのために、朝の陽がさすとすぐに、恐れと心配のために青ざめた顔をして、彼女は学校やその他の場所を探しました。とうとうしまいには、少年がユダヤ人の区域でその最後の姿が見られたという知らせを得ました。<……>呪われたユダヤ人の中に彼女は子供を探しに行ったのでした。<……>イエス様はその御恵みから、少年が投げ込まれた穴のすぐ側の場所で、息子に向かって叫び声をあげるように、彼女の心のうちにふと思いつかせられたのでした。
神の登場
|
おお、偉大なる神よ、汝は汚れなき者たちの口を通して、汝への賞賛を捧げさせ給う、ここに見よ、汝の偉大なる力を! この純潔の宝石、このエメラルド、また殉教の輝けるルビーは、喉をかき切られて、仰向けに横たえられていた場所で、「救い主のやさしき御母」の歌を声高くうたい出したのでした。そのためにそこら中、その声が鳴りひびきました。
この少年は悲しい嘆きのうちに取り出されましたが、その間もずっと彼は歌をうたい続けていました。長い行列の栄誉をもって、少年を彼らは一番近い僧院に運んで行きました。<……>
〔喉をかき切られているのにもかかわらず、この少年はどうして歌うことができるのか。それは「キリスト様の美わしのお母様」が、「おお、救い主のやさしき御母」の歌を死に際に歌う言いつけ、「舌の上に種子の一粒を置かれ」、「その粒がお前の舌から取り払われるときに、わたしはお前を受け取りに参ります」と約束されたからである。〕
さて、この聖なる修道僧、この僧院長<……>が、少年の舌をとり出してその上の種子の粒を取り去りました。すると少年はまったく静かに息絶えたのでした。この僧院長が、この奇蹟を見終った時に、悲しみの涙が雨のように彼の頬をつたって流れ落ちました。すると彼は地上にばったりと倒れて、あたかも縛られた人のように静かに倒れたままでいました。
修道僧たちもまた泣きながら舗道に横たわり、キリストの愛する御母を誉め称えました。そのあと、彼らは起き上がり、進んで行きました。そして棺からこの殉教者を取り出しました。そして輝くばかりの大理石の墓の中に、この少年の美しい小さい体を埋めました。神様、願わくば、この少年のいるその場所でわたしたちが相見えることのできますように!
(桝井迪夫訳『カンタベリー物語』による)
露骨な反ユダヤ主義文書であるが、西脇順三郎には、「非常に立派なおもしろい話です」ということになるらしい(西脇セミナー第2回、p.54)。 |