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Andocides弁論集

第2弁論

わが帰還について/ 解説





[解説]

 アテナイは激動の時代を迎えていた。

 国を挙げてのシケリア大遠征は、前413年、アテナイ同盟軍の全滅という思いがけない結果を招き、同盟軍の離反が相次いだ。このような危機にあって、アテナイの対応はすばやかったが、411年、革命が起こって民主制は転覆、寡頭派による「四百人」政権が誕生した。この寡頭派革命において、表立って活動したのは、かの「ヘルメス神像毀損事件」の真相究明委員を務めたペイサンドロスであり、論客として活躍したのは、弁論家アンティポンであった。

 しかし、「四百人」政権はわずか数カ月で倒壊し、民主制が復活したが、民主派と寡頭派との確執は、いよいよ深刻さを増していった。加えて、完全な消耗戦争と化していたペロポンネソス戦争は、背後に控える大国ペルシアの動きによって、形勢はスパルタ側へと大きく傾いてゆく。405年、ヘレスポントスにおいてアテナイ海軍は大敗を喫し、海陸両方から封鎖されたアテナイは食糧危機に陥る。餓死者を出しながら、それでも数カ月もちこたえたものの、ついに404年春、アテナイは無条件降伏し、アテナイの長城も破壊されてしまう。

 この混乱の中、寡頭派は再び活発に活動し、スパルタの駐留軍を後ろ盾として、「三十人」独裁制を確立する(404年)。この政権はたちまちにして恐怖政治を展開し、政権にあったわずか一年たらずの間に、ペロポンネソス戦争の初めの10年間の戦死者の数よりも多くの市民を粛清してしまったといわれる。

 1年近くにわたる「三十人」派と民主派との内戦を経て、民主派はついにアテナイ帰還をはたし(403)、「三十人」派はエレウシスに退去する。こうして、一応、再び民主制が復活するものの、エレウシスに退去した「三十人」派が完全に制圧されるのは、401年になってからである。

 「ヘルメス神像毀損事件」に連座し、密告者の役割を演じたアンドキデスは、亡命を余儀なくされ、キュプロスの支配者の庇護を受けながら、貿易商人として身を立てていた。しかしながら、望郷の念おさえがたく、二度にわたって帰国を試みている。

 一度目は、「四百人」寡頭政権下で、この時はたちまち逮捕拘禁され、危うい目に遭っている。二度目は、「四百人」政権倒壊後の民主政権下であったが、この時も認められず、追放されている。最終的に帰還が認められるのは、「三十人」僭主が倒れた403年秋、ないしは、冬の嵐を避けて翌年の春と考えられている。

 本弁論は、第二回目の帰国を試みたときのもので、その時期は、410年から407年の間で諸家の議論は分かれている。
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