Andocides第2弁論
[解説]27年間にわたってギリシア諸国を戦乱の渦に巻きこんだペロポンネソス戦争は、BC.404、アテナイの無条件降伏という結果をもって終結した。しかし、これによってギリシアが安定したわけではなかった。今やギリシアの覇権を握ったスパルタは、小アジアのギリシア植民都市の帰趨をめぐって、大国ペルシアと向き合わざるを得なくなったのである。ペルシアは巧みな外交戦術によって、ギリシア諸国間の内部対立を誘い出し、こうして、ギリシアは再びコリントス戦争の渦中に巻きこまれることとなった(395年)。394年、スパルタはネメアとコロネイアとの二つの陸戦に勝利したが、クニドス沖海戦では、ペルシアの艦隊を指揮したアテナイの将軍コノンに敗れ、制海権を失ってしまった。こうしたなかで、スパルタは外交に活路を見出そうとし、サルディスにあったペルシアの太守ティリパゾスに仲介を依頼する(392年)。 ここでの交渉はまとまらなかったが、392/1年冬、引き続いてスパルタで二度目の和平交渉が持たれることになった。アテナイはこの交渉にアンドキデスを含む4人を使節として派遣した。彼らは、いったん成案をアテナイに持ち帰り、民会での承認を得ようとした。そのときの演説が、以下の弁論である。 しかし、演説の効なく、アテナイは戦争続行を選び、アンドキデスを含め4人の使節は亡命の余儀なきに至る。以後、アンドキデスの名前は二度と歴史の表舞台には登場しない。 |