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back.gifAndocides第3弁論

Andocides弁論集

第4弁論

アルキビアデスに対して/ 解説




[解説]

 アンドキデスの第4弁論は、ペリクレス亡きあと、アテナイの将軍としてペロポンネソス戦争をひっぱってきたニキアスと、新進気鋭のアルキビアデスと、そしてこの弁論の話し手との三人のうち、陶片追放さるべきはアルキビアデスであることを民会で論じたてる内容である。

 この弁論が史実とするなら、弁論の時期は、前415年以前でなければならない。なぜなら、この年、ニキアスとアルキビアデスとは、シケリア大遠征軍の将軍としてそろって出征し、アルキビアデスは、「ヘルメス神像毀損事件」に関連する民主制転覆の嫌疑を受けて、そのまま亡命し、ニキアスは二度と故国の地を踏むことなく、シケリアで悲惨な最期を遂げるからである。

 ところが、前415年といえば、アンドキデスはまだ二十代前半の若者だったはずである。弁論の内容からして、弁者がアンドキデスであるはずはない。アンドキデスが代作したという仮定は、仮定としては成り立つが、しかし、二十代の若者が、さる有力者の一世一代ともいうべき弁論の代作をしたとは考えにくい。また、アンドキデスが弁論の代作を業としたという確証もない。

 そもそも、弁論の史実性そのものからして疑わしい。先ず第一に、陶片追放の際、追放される可能性のある者が何人かにしぼられるということはなかったし、また、その可能性のある者どうしが、誰が追放されるに相応しいかを論じ合うなどということもなかった。そういう制度的な問題と同時に、年代的にも困難がある。陶片追放の最終年は前417年と考えられているが、この弁論では、前416/5年の冬に降伏したメロスの女性から、アルキビアデスが子を得た醜聞が攻撃されており、とすると、この弁論は前415年の夏以降に位置づけられなければならないが、その頃にはアルキビアデスはすでにシケリア遠征に出発しているのである。

 専門家の間では、細かな議論がいろいろあるが、一般的には、陶片追放の手続きも忘れられかけた前4世紀の初め、ソフィストの影響を受けた誰かが、弁論のための習作として拵えたものであろうと考えられている。
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