学者。前140頃
アテーナイのストア哲学の仲間内でその経歴は始まり、またそこで終わっている。サモトラケーのアリスタルコスに師事してアレクサンドリアで実りの多い数年を過ごした後、その競争相手であったペルガモンへ、おそらくプトレマイオス8世から逃れるためにひそかに立ち去った。彼の権威ある『年代記(Cronikav)』が希望または謝意からか前144/3年にアッタロス2世に献上された。その『年代記』は、前3世紀の巨人エラトステネースの基本的な年代記研究の価値を損なうことなく通俗化し、イアンボス調トリメトロス詩型でてぎわよく詩作しているだけでなく、正確さを高めてもっとも長い期間も扱っている。その後に加えられた1補遣はおそらく本物であろうが、少なくとも前120/19年に至るまでの内容をもつ。彼は、ストラボーンに利用されたホメーロスの軍船表に関する優れた論文で、エラトステネースの地理学の事業を継承し、またエピカルモスとソプローンについての論文で喜劇研究にも取り組んだ。『神々ついて(Peri; qew:n)』24巻は損失がはなはだしいが、その諸断片はアポッロドロースの語源研究への傾倒を明らかに示しており、アリスタルコスの教えの結果、ストア哲学的傾向は十分緩和されている。
彼の名前が冠された有名な神話学の要覧『Biblioqhvkh』は、後1、2世紀の編集物である。(ダイアナ・パウダー『古代ギリシア人名事典』)
"t1-44".1
『神々について(Peri; qew:n)』
"1a".1
Photius Cod. CLXI:
〔未訳〕
"t1b".1
第1巻
"1b".1
Stephan. Byz.:Dwdwvnh
……アポッロドーロスは『神々について』第1巻の中で、「ドードーネーに坐す〔ゼウス〕」を次のように語源探究している。
「ゼウスを、『ドードーネーに坐す』と呼ぶのは、われわれに善き事どものを与えるdidovnaiからであるごとく、『ペラスギアに坐す』と〔呼ぶ〕のは、大地のすぐ近くに(th:V gh:V pevlaV)いるからである」。
Idem:Bwdwvnh
ペッライビア地方の都市だと、アポッロドーロスが。
しかし別の人たちはBwdwnai:eと書く。Bwdwvnhという都市があるからである。そこで崇拝されている。
"t2-3".1
第2巻
2.1
Stobaeus Eclog.:
アポッロドーロスが『神々について』第2巻の中で、明けの明星と宵の明星は同じものだという、これらの思念はピュタゴラス派のものだと。
3.1
Erotian. Lex. Hippochrat.:「カリスたち」
カラたちのこと。ソポクレースも『エレゲイア』の中でそのように。アポッロドーロスも『神々について』第2巻の中で言及しているが、彼女たちは歓喜にちなむからこそカリスたちと呼ばれると謂っている。というのも、詩人たちは恵み(cavriV)のことを歓喜(carav)と呼ぶことしばしばだからである。
"t4".1
第3巻
4.1
Schol. Apollon. Rh. I, 1124.:「樫の葉の巻をいただき」
樫の樹はレアーの聖木だからであると、アポッロドーロスが『神々について』第3巻の中で。樫の葉で彼らが冠せられたのは、この木がこの女神に聖別されているからであるが、その所以は、屋根にも食糧にも第一に役立つからである。
5.1
Joh. Lyd. De mens. IV, 27:
アポッロドーロスによれば、神(マールス)の有力な名称を人は見つけることができず、さりとて自然の周知の〔名を見つけること〕もできなかった。それは、云々〔断片"13c"再掲〕
"t5".1
第6巻
5.1
Harpochratio v. =ApopompavV:
ある神々は厄払いの〔送り出される(=Apopompai:oi)〕と呼ばれる。これについてアポッロドーロスが『神々について』第6巻の中で論じている。
"t6".1
第9巻
6.1
Steph. Byz.:!AreioV pavgoV
アテーナイの突出部(ajkrwthvrion)と、アポッロドーロスが『神々について』第9巻の中で。そこで殺人の裁きが行われたのは、武器によって出来した血の穢れのゆえである。
"t7".1
第14巻
7.1
Macrob. Sat. I, 17:
〔未訳〕
"t8".1
第16巻
8.1
Steph. Byz. v. =ArkavV :
アポッロドーロスが『神々について』第16巻の中で、デーメーテールについて謂う、アルカディアでデーメーテールに供犠せんとするときは、人間を捧げる。この供犠を、最初の種蒔きの後に開催したのは、彼女の大地から果実が食糧と種子へと成り、そうやってアルカディアの祭礼が崇拝されるためである。???
"t9".1
第17巻
9.1
Schol. Sophocl. Oed. Col. 502:
アポッロドーロスも『神々について』第17巻の中で、ヘーシュキスたち〔エウメニデースの女祭司たち〕の種族と女祭司について謂っている。
"t10-44".1
第20巻
10.1
Porphyrius apud Stobaeum Ecl. phys. I, 52.:
アポッロドーロスの『神々について』という書物第20巻 これはハーデスに関説しているが の中で、ステュクス河について次のように言われているのをわれわれは見出す。
「……次のことから始めて、名前の意味についても軽視すべきではない。というのは、このようなことから出発してこそ、ハーデスの館において信じられている河川をも説得的に名づけてきたからである。アケローン河(=Acevrwn)はといえば、苦痛(ta; a[ch)ゆえに〔名づけられた〕と、メラニッピデースも『ペルセポネー』の中で。
アケローンと呼ばれるは、
ガイアの胎内に苦痛を注ぎこむゆえ。
さらにリキュムニオスも謂う。
無量の泉に
アケローンはまた苦痛の涙にあふれる。
さらにまた。
アケローンは苦痛を死すべき者らに運ぶ。
ところで、アケローンとアケローンの湖とは同じものであると、ソポクレースも『ポリュクセネー』の中で、〔次のように〕言うアキッレウスの亡霊を導入している。
湖の、陰鬱な暗黒の岸辺を
後にして、わたしはやって来た。アケローンの
歎きの鋭い声をこだまする 稔りのない流れを後にして。(根本英世訳)
死者たちが喜びなき岸辺と言っているのは、何ものをも養育することなき男の流れという意味。なぜなら、女は果実をもたらすが、男は不産と言われる、[その所以は]後者は種子をもたらすだけであるが、前者は養育をも〔もたらす〕からである。ここから、「女の露」〔Od. 5. 467〕も、多産であり滋養に富むということである。だから、アケローンが逝去した者たちによって対岸に渡られるのは当然なのである。なぜなら、幽明境を異にした者は、生きることの苦痛をすべてほとんど超越し、苦痛からの解放と、まったき無痛のうちにあるのだから。しかし、アケローンの妻として創造されたゴルギューラは、ハーデースの〔館の〕中では恐ろしいことが多くの人たちに見られることに由来する。まさにこのもの〔アケローン〕の乳母こそ、ソープローンがモルモリュケーと名づけたものである。
アケローンについてアポッロドーロスは以上のことを云ったうえで、ステュクス河について逐語的に以下のことを引用する。
「ステュクスをとても恐ろしくて怖い神霊と前提して、神々の誓約を、ハーデースの館の中に建設するとともに、この命名をも、諸々の悲痛(pevnqoV)のせいでふさぎこむこと(stugnavzein)、そしてハーデースの館の中のことを忌み嫌うこと(stuvgesqai)にもとづいて要請した。なぜなら、この河は、自分にかけ〔て誓われ〕るかぎり、在るものらと生き物たちに対する破壊的な力を有し、人々はこの選択と場所を敬遠してきた」。
ステュクス河についてこう云ったうえで、彼は引用する。
「さらにコーキュトス河を"悲鳴をあげる(kwkuvein)"から彼らは新造した。この河はステュクスつまり陰気さ(stugnavsiV)の支流である。またピュリプルゲトーン〔火の〕河もこういうもののひとつである。火に由来し、命終した者たちが焼かれると述べられている。ホメーロスが〔次のように〕謂うように。
肉や骨やをもはや腱が付けてはおらずに、
燃えさかる火の激しい力が破り壊して
しまうのです。いったん生気が白々とした骨を離れ去ってしまうと。
して魂は、夢みたように、体を見捨ててふらふらと飛び交うばかりで。
すなわち亡霊たちをば、鏡に映り、水によって構成された影に等しいものとして示唆しており、それは一度きりわれわれに似て、動きを混合しているが、手に取ったり触れたりできる何らの固体的実体を有していない、そこから、これらをやめる死すべきものらの影と彼は言うのである」。
しかし、たいていの人たちは、ステュクス河は地上の水〔川〕であり、自分に対して偽りの誓いを敢行せんとする連中を防ぐ自然を有するものと記録している。とにかく、ステュクスの水〔川〕はアルカディアにある有名な川だと史家たちは書き記しており、ヘーロドトスもその一人である。彼は第6巻〔74〕の中で、クレオメネースに拠る話を報告した後、次のことを書いている。さてここ〔テッサリア〕からアルカディアに現れると、新しい行動を起こした。スパルタ攻撃にアルカディア人たちを糾合したのだ。そして他の諸々の誓約を自分にさせたが、とりわけ意を用いたのは、アルカディア人たちの主だった者たちをノーナクリスの都市に連れて行き、ステュクスの水にかけて誓うことだった。カッリマコスは『ニュムペーについて』という著書の中で、この水の特徴についても説明し、次のように言っている。ステュクスは、アルカディアのノーナクリス地方にある泉で、この水は、角でできたのは別にして、どんな容器も破壊する、と。
11.1
Clemens Alex. Cohort.:
実際、オルギアと秘儀との語源探究をしなければならないようにわたしには思われる。前者は、ゼウスに対して生じたデーオー〔デーメーテール〕の怒りに由来し、後者はディオニューソスに関して生起したことに由来する。ミュゥース市のアッティコスなる者(彼は狩猟の最中に没したとアポッロドーロスは言う)に由来するとしても、あなたがたの死没が墓標の名誉によって秘儀を受けることはない。???
12.1
Athenagoras in Deprecat. c. 25:
〔神々が〕人間だということは、アイギュプトス人たちの中でも最も博学な人たちが明言している。彼らは、大気、大地、太陽、月を神々と言い、その他の人間たちを死すべきもの、その墓を神聖なものと考えている。アポッロドーロスも『神々について』の中で明言している。
"13a".1
Clemens Al. Cohort. adv. Gent.:
カレス族は数多くの善きものらを持っているのに、彼らは彼には犬たちを供犠する。スキュタイ族は驢馬たちを犠牲にしてやめないと、アポッロドーロスとカッリマコスが謂っている。
"13b".1
Arnob. Adv. Gent. IV.:
〔未訳〕
"13c".1
Joh. Lyd. De mens. IV, 27:
アポッロドーロスによれば、神(マルティス)の固有の名称を見出せた者もおらず、自然本性の周知のことを見出せた者もいないのは、哲学者たちがその形相を、あるときは男性、あるときは女性として唱導したからである。いや、結果からこれらに名称を付け、造物力としては男性神を、生命を生む者としては女性神を唱導したからである。
14.1
Zenobius Cent. V, 22:「ヘーラクレースの林檎(Mh:lon +Hraklh:V)」
アポッロドーロスが『神々について』の中で、アテーナイでは厄除けヘーラクレースに特有の一種の供犠が供犠される。というのは、かつて、ヘーラクレースに供えられるはずだった牛が逃げたので、林檎を取って、四肢の代わりに4本の枝を下につけ、角の代わりに2本をつけて、牛の姿にし、そうやって供犠を挙行したというから。
15.1
Athenaeus VII〔306a〕:「+O kiqaroV」
……名前のせいで、アポッローンの聖魚と考えられているということは、アポッロドーロスが述べている。
16.1
Athenaeus VII〔325b〕:
……アポッロドーロスは『神々について』の中で、ヘカテーにアカボラが供犠されるのは、名前の親密さのゆえであると謂っている。というのは、この女神は三位一体(trivmorfoV)であるからである。
17.1
Athenaeus XIII〔571c-d〕:
〔ヘタイラと呼ばれるのは〕アテーナイ人たちによって「友だちの」と呼ばれるアプロディーテーに由来する。これ〔アプロディーテー〕についてアテーナイ人アポッロドーロスは次のように謂う。
「ヘタイラ・アプロディーテーは、男友だちや女友だちを集める〔女神〕である。後者すなわち女友だちである」。
18.1
Harpochration:「PavndhmoV =Afrodivth」
アポッロドーロスは『神々について』の中で、昔のアゴラ周辺に建造された女神〔像〕がアテーナイ人たちにpavndhmoVと呼ばれたのは、昔、アゴラと呼ばれた国民総会として、全民衆がそこに集まったからであると。
"19a".1
Schol. Apollonii III, 541:
アポッロドーロスは『神々について』の中で謂う、鳩はアプロディーテーの聖鳥であると。それゆえ好色とも言われるのは、過剰に恋することからである。
"19b".1
Plutarch. Qu. conv. V, 3, 1:
いや、それどころか、とくにポセイドーンにマツ〔松〕が関係するように見えるのは、アポッロドーロスが思っているように、海の傍に生えるから、ではなく、海のように(というのも、これこそ一部の人たちが言っていることなのだが)風が好きだからでもなく、ことのほか舟の建造に役立つからである。
20.1
Porphyr. De abstinentia lib. II, 55:
ラケダイモーン人たちも、アレースに人間を供犠したと、アポッロドーロスが謂っている。
21.1
Schol. Aristoph. Ran. 330:
秘儀の伝授を受けた者たちはギンバイカの花冠を関せられたのであって、一部の人たちが考えているように、キヅタを冠せられたのではない。アポッロドーロスが謂うには、立法者たちもギンバイカで冠せられた所以は、この女神が植物に親密であったこと、また、土地の者たちに聖別されていたからだという。
22.1
Photius Lex. MS.:「Kalligevneianに」〔Kalligevneiaは「美しき誕生」の意〕
アポッロドーロスは、「大地に」。しかしある人たちは、「ゼウスとデーメーテールとの娘に」〔と解す〕。喜劇作家アリストパネースは「養い親に」。
23.1
Harpocration:「AujtovcqoneV」
アポッロドーロスが『神々について』の中で、彼らがアウトクトネスと呼ばれるのは、地面(cqwvn)、つまり、輝く大地を彼らが最初の制作したからである。
24.1
Harpocration:「KuvrbeiV」
アポッロドーロスが『神々について』の中で謂うには、KuvrbeiV〔廻転柱〕は、書き込まれた法習を有するという。それは直立した石碑であるという。これを、立っていること(stavsiV)にちなんでsthvlai〔単数sthvlh〕、高くに掲げること(u{yoV ajnatavsiV)にちなんで、突き出ている(kekorufw:sqai)ゆえに、kuvbeiVと呼んだ。頭の上に載せられたkurbasiva〔ペルシアの帽子〕と同様である。
Idem :
下方に法が、……というのは、軸とkuvrbeiaが、犂につながれた牛のように方向転換するように書かれていることは、エウポリオーンが『アポッロドーロス』の中で明らかにしているからである。
25.1
Schol. Aristoph. ad Nub. 447:
アポッロドーロスが謂うには、あらゆる公訴の法文と法習がKuvrbiVと呼ばれたという。昔の人たちは、石を建てて、判決を書き記したものを、立っていること(stavsiV)にちなんでsthvlai〔単数sthvlh〕、高くに掲げること(u{yoV ajnatavsiV)にちなんで、kuvbeiVと呼んだからである。後には、白くされた木板を同様に呼んだ。したがってKuvrbiV〔KuvrbeiVの単数形〕とは、神聖な書き物を含んだ標柱(sthvlh)のことである。
"26a".1
Suidas:「KuvrbeiV」
アポッロドーロスが謂うには、KuvrbeiVとは書き込まれた法習を有するものである。直立した石標であって、立っていること(stavsiV)にちなんでsthvlai〔単数sthvlh〕と呼ばれ、高くに伸びていることにちなんで、突き出ている(kekorufw:sqai)ゆえに、kuvbeiVと〔呼ばれた〕という。頭の上に載せられたkurbasiva〔ペルシアの帽子〕と同様である。
Idem mox:
ところでkuvbeiVとは、突き出ていること(kekorufw:sqai)から、高くに伸びた〔標識〕のことである。あるいは、コリュバンテースたちにちなむ。というのは、あの連中の発明だとアポッロドーロスも謂っているから。
"26b".1
Schol. ad Arist. Aves 1354.:
kuvbeiVとは……高くに突き出ていること、あるいは、kateskeirw:sqaiにちなむと、アポッロドーロス。しかしテオプラストスは、クレーテーのコリュバンテースたちに由来すると。なぜなら、コリュバンテースたちの神官たちの複写のようなものだからと。
27.1
Harpocration in Mei:on kai; MeiagwgovV:
アポッロドーロスは『神々について』の中で、同部族民は、と謂う、より少ない部分を分配されたために、立って「静止すべし、より少ないから」と叫ぶ。
28.1
Schol. Aristophan. Acharn. 961:「CoveV
」
アンテステーリオン月〔2月終わりから3月〕第12日にアテーナイで開催される一種の祝祭。アポッロドーロスは謂う、ディオニューソスのために催される祝祭全体が共通してアンテステーリア祭と呼ばれるが、部分的には、新酒(Piqoigiva)、CoveV、鍋(Cuvtra)と〔呼ばれる祝祭から成る〕。さらにまた。オレステースは殺人の後アテーナイにやって来た(これがディオニューソス・レーナイオスの祝祭であった)が、母親を殺したため彼らといっしょに献酒することができなかったので、次のようなPandivwnを工夫した。つまり、酒の壺(cou:V)を、宴客たちのめいめいの傍に据え、お互いに何ら交わることなく飲むよう命じ、こうして、オレステースは同じ酒和え瓶から飲むこともなく、あの者が自分だけひとりで飲むことを悲しむことのなかったのである。彼にちなんで、アテーナイではCoveVという祝祭が定められた。Piqoigiva……Cuvtraと言え。
29.1
Jo. Lydus De mensibus:
彼〔ディオニューソス〕についてある神話も伝えられている。ゼウスとゲーとの子であって、ゲーがテメレー命名されたのは、万物が彼女に基礎を置いている(kataqemeliou:sqai)からというのである。彼女のことを、1字母の入れ替えによって、詩人たちはSemevlhと命名した。
30.1
Schol. ad Odyss. Y, 198:「寝床の柱に仕立てあげ(+Ermi:n' ajkhvsaV)」
ゼウスと、アトラースの娘マイアとの子ヘルメースは、まだ子どもの時、人間界に4つの最も偉大なものを発明した。文字、音楽、角力、度量衡である。ここから、ヘッラス人たちも彼〔の像〕を四角にこしらえ、そうやって体育場に奉納するのだという。また、彼が夢を送る者であること、眠ろうとする者たちは彼に祈り、彼を待つことのために、寝室に彼を眠りの守護者として持つことを選び、寝台の脚をこの神の顔と考え、こしらえ、守護者の形相を持つようにし、悪夢は恐れず、夢を通して最多の魅力を期待したからである。この記録はアテーナイ人アポッロドーロスの作品にある。
"31a".1
Eustath. ad e. I:
キュッレーネーに坐すヘルメースとは、神話的にはキュッレーネーに由来する。〔キュッレーネーとは〕アルカディアの山で、オリュムピアの山9スタディオンに80プース足りない、アポッロドーロスが記録しているとおり、一種の半女神キュッレーネーにちなんで名づけられた。この山の周辺地域ではヘルメースがとくにやかましく崇拝され、かしこでも前述の添え名を得たという。
"31b".1
Eustath. ex Steph. Byz. v.:
キュッレーネー、アルカディアの山、9スタディオンに80プース足りない。ニンフのナーイアス・キュッレーネーに由来する。他所には決していないが、この山には白いクロウタドリがいて、多彩な啼き声をするという。月夜に狩られるが、昼間には、企てても、はなはだ狩りにくいという。
32.1
Schol. Sophoclis Oed. Colon. 57:「ティーターンのプロメーテウス」
アカデーメイアあたりにプロメーテウスとコローノス〔像〕が建てられていることについては、アポッロドーロスが『神々について』に次のように書いている。
「アカデーメイアでアテーナーといっしょに崇拝されていることは、ヘーパイストスと同様である。彼の古い立像があり、女神の神域に神殿もある。入口に古い台座も示され、そこにはプロメーテウスとヘーパイストスの像もある。また、作られ方は、リュシマキデースも謂ってるが、プロメーテウスは第一、老体で、右に笏を持っている、ヘーパイストスは、若くて、第二番目である。台座は両者共通で、台に浮き彫りされている」。
33.1
Idem ibid. v. 58:「青銅の敷居」
神域内でそういうふうに呼ばれるある場所が、青銅の敷居。アポッロドーロスが謂うには、ここを通ってハーデースの館への降り口だという。歴史家もアステュアダマスも青銅の敷居に言及している。ある神託作者も謂う、「ボイオーティア人たちはコローノスを馬で???。そこには3つの頭の有する石と青銅の敷居があった」。
34.1
Idem ibid. v. 705:「聖なるオリ−ブの守護神ゼウスの眼が彼を」
聖なるオリーブ樹の監視人のことをMovrioV ZeuvVと云った。実際、[アカデーメイアあたりに]いわゆるMovrioV ZeuvVがあることは、アポッロドーロスが謂っている。
「アカデーメイアあたりには、稲妻とともに降りてくるゼウスの祭壇もあるが、聖なるオリーブの守護神とも呼ばれる。ここの聖なるオリーブ樹は、アテーナーの神域周辺に植えられたものである」。
35.1
Schol. Apollonii I, 599:
ところで、オリュムポス山は6つある。マケドニアの、テッサリアの(ここではオリュムピア祭も挙行されるとアポッロドーロスは謂う)、ミュシアの、キリキアの、エーリスの、アルカディアの、である。
"36a".1
Schol. Theocr. Id. II, 36:「女神が三叉路にお出ましよ。早く銅鑼を鳴らしなさい」
月の食の時や、亡者たちの中に銅鑼を見たのは、血の穢れの浄化や清祓があると考えたからである。それゆえ、あらゆる贖罪(ajfosiwsiV)や浄化(ajpokavqarsiV)目的でこれを使用したのである。アポッロドーロスも『神々について』の中でそう謂っている。
"36b".1
Idem, Aliud Scholion:
「鳴らせ」の代わりに「響かせよ」「打て」。それは、青銅〔銅鑼〕の響きは、亡者たちに親しいからである。アポッロドーロスは謂う、アテーナイでコレーと添え名される女神の神官はいわゆる銅鑼を打ち鳴らすと。またラコーン人たちのところでは、王が死ぬと、大なべ(levbhV)を打つのがならいであった。
37.1
Schol. Theocr. Id. X, 41:「LutievrshV」
……アポッロドーロスが謂うには、これは秋の歌だとして、次のように言う。
「悲歌ではイアレモス、讃歌ではイウゥロス、両者からこれらを歌曲とも呼ぶように、秋の歌はリュティエルセースである」。
38.1
Hesych.:
パーンは、アテーナイ人たちのもとでは、=Agreusであると、アポッロドーロスが。
"39a".1
Suidas:
=Amfifw:nteVは、平菓子(plakou:V)の1種。太陽と月とが早朝地上に見えるそのときにできるものである。あるいは、これの上に火のついた小さな蝋燭を囲んで立てて、これを運んだことから。そう、アポッロドーロスが。
"39b".1
Suidas. =Anavstatoi:
……=Amfifw:nteVがそう名づけられるのは、ある人たちによれば、太陽と月とが早朝地上に見えるそのときにできるからである。しかしアポッロドーロスによれば、これの上に火のついた小さな蝋燭を立ててこれを運ぶからだという。
"40a".1
Suidas:「Taulopovlon」
アルテミスのこと。牡牛のように至る所をさまよったからと、アポッロドーロスが。
"40b".1
Schol. ad Aristoph. Lysistr. 447:「タウロポロスの女神さまにかけて」
そういうふうにアルテミスを呼んでいた。その理由を、アポッロドーロスは『神々について』の中で説明している。しかし、アテーナーをもそういうふうに呼ぶときがあると、クセノメーデースが記録している。
41.1
Macrob. Sat. I, 8:
〔未訳〕
42.1
Idem I, 20:
〔未訳〕
43.1
Steph. Byz.:「=Akrwvreia」
山の頂上、ここに住んでいるのが=Akrwrei:tai。シキュオーン人たちのもとでは[ディオニューソスは]そういって崇拝された。しかし、シキュオーン人たちのもとでは=AkrwreivthVと呼ばれたが、メタポントス人たちのもとでは=ErivfioVと〔呼ばれたと〕アポッロドーロスが謂っている。
44.1
Idem :「=IlissovV」:
アッティカ地方の川。「ここでイリッソスのムゥサたちが崇拝された」。
"44a".1
Schol. Venet. in Eurip. Hec. 462:「美しき戦車のアテーナーの〔若駒〕を」
というのは、アポッロドーロスが『中庭の(?)神々について』の中で謂っているように、処女たちは機を織ったのみならず、ペレクラテースが『奴隷たちの先生』の中で謂っているように、完徳に達した女たちでもあった。
"44b".1
Servius ad Virg. Georg. I, 16, de Pane:
〔未訳〕
"45-104".1
『年代記(Ta; cronikav)』
あるいは
『年代史編纂(cronikh; suvntaxiV)』
"45a".1
Scymnus Chius v. 16 sqq.:
わたしが書こうとするのは次のようなことである。ペルガモンの王たち 彼らと死者たちの栄光は、われわれ皆のもとで全時間生きつづけている のために、生粋のアッティカ人にして愛言家のひとり〔アポッロドーロス〕 ストア派ディオゲネースの弟子であり、アリスタルコスとともに久しい間ともに暇つぶししてきた人物 が、トローイアの占領から、現生に至るまでを内容とする年代史を整理したと。
千と40年間をはっきりと並べ立て、枚挙したのは、諸々の都市の攻略、征軍の移動、族民の移住、非ギリシア人たちの出征、侵入、艦隊の渡海、対抗勢力の配置、同盟、和平条約、戦闘、王たちの業績、著名な勇士たちの生涯、逃亡、出征、僭主たちの打倒。これら無秩序に述べられた事柄すべての要約して、これを適度に、しかし喜劇家風に、並べ立てることを優先したのは、明晰さのためである。
……
そこで、あの人は年代記の要点を集め、〔アッタロス2世〕ピラデルポスのために王に献呈した。人の住まいする全世界に生起したことを、不死なる栄光を業績の碑銘としたアッタロスに配当して。?
"t45b-49".1
第1巻
"45b".1
Steph. Byz.:「アカイアの都市Duvmh」
……この地方が昔はデュメーとも呼ばれたが、都市はストラトス。その後、都市も地方もデュメーと呼ばれた。複数形でも言われると、アポッロドーロス。「これらを隔たること120スタディオン、西方の果てにデュマイが横たわる」。市民はDumai:oV……アポッロドーロス、あるいは、この人の書を要約した人が、「この地方を領有するのはDumai:oi」。……アポッロドーロスは『年代記』第1巻の中で、「デュマイオイ人たちとも戦争が差し迫った」。
46.1
Steph. Byz.:「シケリアの都市=Asswvrion
これを3音節で=Asswrovnと呼ぶ、アポッロドーロスが『年代記』第1巻の中で。
47.1
Idem :「シケリアの都市+ElwrovV」
パキュノス地方にある+ElwvroV川にちなむ。この川には、手ずから餌を食べる馴れた魚がいると、アポッロドーロスが『年代記』第1巻の中で。
48.1
Idem:「イオーニアの都市Muou:V」
といっているのはピローンだと、アポッロドーロスが『年代記』第1巻の中で。
49.1
Idem :「イオーニアの小国Chvsion」
だと、アポッロドーロスが『年代記』第1巻の中で。
"t50-55".1
第2巻
50.1
Idem :「シケリアのパリカイに近い都市Menaiv」
アポッロドーロスが『年代記』第2巻の中で。
51.1
Idem :「Novai」
……シケリアの都市。アポッロドーロスが『年代記』の第2巻で。
52.1
Idem :「Parpavrwn」
アシアのアイオリア地方。テュキュディデースはここで亡くなったと、アポッロドーロスが『年代記』の第2巻の中で。
53.1
Idem :「$Ukkaron
シケリアの要塞と、ピリストスが『シケリア誌』の第1巻で。アポッロドーロスは『年代記』の第2巻の中で、この都市はta; $Ukkaraだと言う。
54.1
Idem :「Fabiva」
ケルトガラタイ人たちの都市、ローメー人たちの将軍パビオスの建設。アポッロドーロスが『年代記』第2巻の中で。
55.1
Idem :「Cairwvneia」
……所有格はCairwnikovV〔男性形〕、Kairwnikhv〔女性形〕。アポッロドーロスが『年代記』の第2巻の中で。「カイローネイアの戦いで、と言い伝えられる」。
"t56-58".1
第3巻
56.1
Idem :「=AmaxitovV」
トローイアの小国。……族民は=AmaxiteuvV。アポッロドーロスは『年代記』の第3巻の中で=Amaxithnoivと謂う。
57.1
Idem :「LivggoV
カッサンドレイア人たちの要塞。アポッロドーロスが『年代記』第3巻の中で。彼は族民をもLiggai:oVと。
58.1
Idem :「Lhnai:oV」
田舎のディオニューソスの競演はlhnovV〔葡萄の圧搾桶〕に由来する。アポッロドーロスが『年代記』第3巻の中で。
"58a".1
Idem :「Zavkanqa」
イベーリアの都市。ここを攻略したのがアンニバースと、アポッロドーロスが『年代記』の第3巻の中で。
"58b".1
Idem :「Mevsma」
イタリアの都市。アポ〔ッロドーロス〕が『年代記』第3巻の中で。
"t59-104".1
第4巻
59.1
Idem :「=Aeriva」
アイギュプトス。……アエリアというケルタイの都市もあると、アポッロドーロスが『年代記』第4巻の中で。
60.1
Idem :「Aijdouvsioi」
ケルトガラティアに対するローメー人たちの共闘者。アポッロドーロスが『年代記』の第4巻の中で。
61.1
Idem :「=AmhvstratoV」
シケリアの都市。アポッロドーロスが『年代記』の第4巻で。
62.1
Idem :「=Arovernoi」
ケルト方面のガラタイ人たちのうち最も好戦的な族民。アポッロドーロスが『年代記』のだい4巻で。「ケルタイ人たちの中にアロエルノイ人たちは」。
63.1
Ldem :「Dw:roV」
ポイニキア地方の都市……アポッロドーロスは『年代記』の第4巻の中でドーロスと呼ぶ。
「海の畔にある都市ドーロスに」。
64.1
Idem :「Kainoiv」
トラーキアの族民。アポッロドーロスが『年代記』の第4巻の中で。
65.1
Steoh.:「Kalkhtovrion」
クレーテーの都市。市民はCalkhtoreuvV。アポッロドーロスが『年代記』の第4巻で。
「カルケートリオン人カリデーモスが追放された跡」。
66.1
Idem :「PavrqoV」
イッリュリア地方の都市。アポッロドーロスが『年代記』の中で。
"67a".1
Euseb. Armen.:
〔未訳〕
"67b".1
Syncelli Chronograph:
バビュローンには、非常に多数の、民族性を異にする人間たちがカルダイアに住んでいた。彼らは獣のように無秩序に生きていた。しかし第1年目に、アポッロドーロスも記録するとおり、エリュトラ海から、名をオーアンネースという無知慮な生き物が、バビュローニアに隣接する場所に現れた。それは全身が魚のようで、頭の下にもうひとつ頭が、魚の頭の下に生え付き、脚も同じく、人間の脚が、魚の尾から生え付いていた。
"67c".1
Idem :
???
"67d".1
Idem :
エウセビオスや、イオーセーッポスや、他の、カルダイオイの王位に関する史家たちが明言しているのは、アレクサンドロス・ポリュイストールや、アビュデーノスや、アポッロドーロスに追随する連中は、大洪水の前に王支配したといいながら、神的な書から何ひとつ出発点を持っていないということだ。
"67e".1
Idem :
以上のことに加えて、アポッロドーロスも彼らと同様奇怪な話をして次のように言う。これはベーローッソスが記録していることだが、最初に王となったのは、バビュローン出身のカルダイオイ人アローロス。王支配すること12サロス。続いて、パンティビブロイ出身のアラパロスとアメーローン。次いで、カルダイオイ人アムメノーン。この人の治世に馬鹿げたオーアンネース、つまり、エリュトラ出身のアンネードーロスが現れたと謂う。これをアレクサンドロスは出発点にして、第1年目に現れた述べている。で、この人物は40サロス後、アビュデーノスは2代目のアンネードートスの6サロス後という。次いで、パンティビブライ市出身のメガラロス、彼が王支配すること18サロス。この人物の後、パンティビブライ出身の羊飼いダオーノス、王支配すること10サロス。この人物の時代に、エリュトラから再び4人目のアンネードトスが現れ、従来の連中と同じ有様にして、魚の人間との混合であった。次いで支配したのは、パンティビブライ出身のエウエドーラコス、王支配すること18サロス。この人物の治世に、エリュトラ海から魚と人間の混合に等しい別の者が現れたと謂う。これの名はオーダコーン。これらの連中はみなオーアンネースによって要点を言われたことを詳しく説明したという。これについてアビュデーノスは何も云っていない。次いで支配したのはラランコイ出身のカルダイオイ人アメムプシノス、彼が王支配したのは18サロス。次いで支配したのがラランコイ出身のカルダイオイ人オーティアルテース、王支配すること8サロス。しかしオーティアルテースが命終したとき、彼の息子クシスゥトロスが18サロス王支配した。この人物の治世に、大洪水が起こったと謂う。かくて王は全部あわせて10人、120サロスとなる。
"67f".1
Euseb. Armen.:
〔未訳〕
68.1
Chron. Paschale:
ニーノスその人をネブロートとアッシリア人たちは命名した。「この人物は、アッシリア人たちに火を崇拝することを教えた」。
69.1
Schol. Aristoph. Aves 1021,:
アポッロドーロスが謂うには、以下のことが彼〔サルダナパロス〕の墓にアッシリア語で刻されていたという。サルダナパロスはアナキュンダラクソスの子、タルソスとアンキアロンを1日で建設した。「食え、飲め、盛れ。そのほかのことは何の価値もない」。
70.1
Syncell.:
年代史家アポッロドーロスは、テーバイ人たちと言われるアイギュプトス人たちの王たち38人、期間1076年間の他の王位を書き留めている。これは世界年2900年に始まり、世界年3045(3976 m.)年に及ぶもので、この明細は、彼が謂うには、王の命により、エラトステネースがアイギュプトス語の覚え書きと名前を受け取り、ヘッラス語で以下のように翻訳したものである。
離散後1124年間(124年 m.)、テーバイ人たちを王支配した38人の王たちのうち。
第1番目に、ティニス人メーネースがテーバイの王となった。彼は、永遠なるもの(AijwvnioV)と翻訳される人物である。王支配すること62年間。世界年は2900年。
テーバイ人たちを2番目に王支配したのは、メネースの息子アトーテース、59年間。この人物はヘルメースの生まれ(+ErmogevnhV)と翻訳される。世界年は2962年。
テーバイのアイギュプトス人たちを3番目に王支配したのはアトーテースと同名の者、32年間。世界年は3021年。
テーバイ人たちを4番目に王支配したのはアトーテースの息子ディアビエース、19年間。この人物は仲間を愛する者(filevtairoV)と翻訳される。世界年は3053年。
テーバイ人たちを5番目に王支配したのは、アトーテースの息子ペムポース、ヘーラクレースの息子の意である。18年間、世界年は3072年。
テーバイのアイギュプトス人たちを6番目に王支配したのは、メムピス人トイガラマコス・モムケイル、〔統治期間〕79年。この人物は「ひとより大きな手足を持ったもの」と翻訳される。世界年では3090年。
テーバイのアイギュプトス人たちを7番目に王支配したのは、彼の息子ストイコス、非情なアレースの意、6年間。世界年は3169年。
テーバイのアイギュプトス人たちを8番目に王支配したのはゴソルミエース、aijthsipantvV〔万人に愛される者〕の意、30年間。世界年は3175年。
テーバイのアイギュプトス人たちを9番目に王支配したのは、彼の息子マレース、ヘーリオドーロス〔「太陽の贈り物」〕の意、26年間。世界年は3205年。
テーバイのアイギュプトス人たちを十番目に王支配したのはアノーイピス、お祭り騒ぎの好き者の意、20年間。世界年は3231年。
テーバイのアイギュプトス人たちを11番目に王支配したのはシリオス、乙女の息子の意、だが他の人たちによれば邪視に損なわれぬ者の意、18年間。世界年は3251年。
テーバイのアイギュプトス人たちを12番目に支配したのはクヌゥボス・グネウロス、クリュソスの息子クリュセースの意、22年間。世界年は3269年。
テーバイのアイギュプトス人たちを13番目に王支配したのは、ラウオーシス、=Arcikravtwrの意、13年間。世界年は3291年。
テーバイのアイギュプトス人たちを14番目に王支配したのはビユレース、10年間。世界年は3304年。
テーバイのアイギュプトス人たちを15番目に王支配したのはサオーピス、kwmasthvV〔お祭り騒ぎの好きな者〕、何人かの人たちによるとcrhmativsthV〔営利家〕、29年間。世界年は3314年。
テーバイ人たちを16番目に王支配したのはサオーピス2世、27年間。世界年は3343年。
テーバイ人たちを17番目に王支配したのはモスケレース・ヘーリオドトス、31年間。世界年は3370年。
テーバイ人たちを18番目に王支配したのはモステース、33年間。世界年は3401年。
テーバイ人たちを19番目に王支配したのはパムメース・アルコンデース、35年間。世界年は3434年。
テーバイ人たちを20番目に王支配したのはアパップゥス大王。この人物は、言い伝えられるところでは、100年に1ホーラだけ満たぬ期間王支配したという。世界年は3469年。
テーバイ人たちを21番目に王支配したのはエケスコソカラ、1年間。世界年は3569年。
テーバイ人たちを22番目に王支配したのはニトークリス、男の代わりに女で、意味は勝利をもたらすアテーナー、6年間。世界年は3570年。
テーバイ人たちを23番目に王支配したのは、ミュルタイオス・アムモーノドトス、22年間。世界年は3576年。
テーバイ人たちを24番目に王支配したのはウゥオシマレース、krataiovV、これは太陽の意である、12年間。世界年は3598年。
テーバイ人たちを25番目に王支配したのはニティニロス、祖国を拡大した力の意、8年間。世界年は3610年。
テーバイ人たちを26番目に王支配したのはセムプロゥクラテース、ヘーラクレース・ハルポクラテースの意である。18年間。世界年は3618年。
テーバイ人たちを27番目に王支配したのはクゥテール・タウロス、僭主、7年間。世界年は3636年。
テーバイ人たちを28番目に王支配したのはメウレース・ピロスコロス(FilovskoroV)、12年間。世界年は3643年。
テーバイ人たちを29番目に王支配したのはコーマエプタ、kovsmoV filhvfaistoV、11年間。世界年は3655年。
テーバイ人たちを30番目に王支配したのは僭主ソイクゥニオソコス、60年間。世界年は3666年。
テーバイ人たちを31番目に王支配したのはペテアテュレース、16年間。世界年は3726年。
テーバイ人たちを32番目に王支配したのはスタムメネメース、26年間。世界年は3742年。
****************
テーバイ人たちを34番目に王支配したのはシストシケルメース・ヘーラクレース、統治55年間。世界年は3791年。
テーバイ人たちを35番目に王支配したのはマレース、43年間。世界年は3846年。
テーバイ人たちを36番目に王支配したのはシポアス、ヘーパイストスの息子、ヘルメースとも、5年間。世界年は3889年。
テーバイ人たちを37番目に王支配したのはプルゥエローまたはネイロス、5年間。世界年は3889年。
テーバイ人たちを38番目に王支配したのはアムゥタルタイオス、63年間。世界年は3913年。
アイギュプトスにおけるいわゆるテーバイ人たちの38人の王たちの名前を、エラトステネースはディオスポリスの神聖文字の書記たちから受け取って、アイギュプトス語からヘッラス語に言い換えたが、その王たちの支配はここに終わる。始まりは世界年2900年、124年間にわたる地域語の混乱後、終わりはここまで世界年3975年である。これらの〔王たち〕に続く他の53人のテーバイ人たちの王たちが同じアポッロドーロスによって伝えられているが、その呼称をここで述べるのは、われわれにとって何の役にも立たないから、余計なことだと考える。彼ら以前の〔呼称〕でさえ〔何の役にも立た〕ないのだから。
71.1
Syncell.:
世界年3239年、ナコールの76年に、シキュオーン人たちの王制が、第1代の王アイギアレウスから始まり、26代目の王ゼウクシッポスまで続く。その期間、967年。彼らのあと支配したのは6人の神官たちで、33年間である。シキュオーン人たちの支配は全部合わせて1000年間だと、アポッロドーロスや他の人たち(その中にはエウセビオスも含まれる)が書いている。
72.1
Clemens Alex. Strom. I, c. 21:
少なくともペルシアの王制の第32年に、(ディオニューソスが)神化されたと、アポッロドーロスが『年代記』の中で謂っている。ディオニューソスから、ヘーラクレースと、イアーソーンを取り巻く善勇の士たち、つまり、アルゴー号で航海した者たちに至るまで、63年が算出される。……アルゴー号におけるヘーラクレースの王支配からヘーラクレース本人とアスクレーピオスとの死まで、年代史家アポッロドーロスによれば、30(あるいは、38)年が算出される。ここから、カストールとポリュデウケースの死まで53年。イーリオンの占領もきっとこの頃であろう。
"73a".1
Diodor. I, 5:
トローイア戦争以後は、アテーナイ人アポッロドーロスに聴従して、ヘーラクレースの末裔の帰還までをわれわれは80年間としよう。これから第1オリュムピア紀年330年に欠けること2年〔つまり328年〕とする。この期間は、ラケダイモーンにおける諸王の統治期間から推論したものである。
"73b".1
Euseb. Armen.:
〔未訳〕
"73c".1
Eratosthenes ap. Clem. Alex.:
エラトステネースは年代史を次のように書き記している。トロイアの攻略からヘーラクレースの末裔の帰還までは、80年。ここからイオーニアの建設までは60年。これに続いて、リュクゥルゴスの監督までは350年、第1回オリュムピア祭の初年までは108年である。
"74a".1
Tatian. Ad Graec. 49:
アポッロドーロス1派は(謂う、ホメーロスが盛年であったのは)イオーニア植民後100年、これはイーリオン戦争後240年にあたると。
"74b".1
Clemens Alex. Strom. I:
ヘッラス人たちのもとで偉大な詩人ホメーロスを、クラテース派の人たちは、ヘーラクレースの末裔の帰還前に生まれたと謂い、エラトステネース派の人たちは、トローイ戦争100年後だと、アリスタルコス派の人たちは、100年後、イオーニア植民の時だと、ピロロコス派の人たちは、イオーニア植民の時、アテーナイで生涯執政官であった者たちの一人アルキッポスの時代で、トローイア戦争後180年だと〔謂う〕。アテーナイ人アポッロドーロス派の人たちは、イーリオン戦争後240年だと〔謂う〕。他の人たちは、イーリオン攻略後400年近く、オリュムピア紀年の少し前だと、また別の人たちは、アルキロコスに従って、トロイア攻略のおよそ500年後、第23オリュムピア紀年の頃だと〔謂う〕。
"74c".1
Tzetzes XII, 193:
アポッロドーロスは謂う、ホメーロスはトローイア戦争の80年後存命、このときヘーラクレースの末裔の帰還もあったと。
"75a".1
Syncell. Chronogr.:
アポッロドーロスはリュクゥルゴスの法を、『アルカメネース』の第8巻の中に。
"75b".1
Euseb. Chron. No. 1218:
〔未訳〕
"75c".1
Plutarch. Lycurg. init:
立法者リュクゥルゴスについては、総じて、論争の種になっていないことはひとつもない。その家柄も、その旅行も、その最後も、ことにその法律や政治に関する業績も伝えがまちまちになっているし、この人の生まれた時代については最も一致を欠いている。ある人は、イーピスト〔紀元前882年もしくは884年にオリュムピア競技を始めた人〕と同じころ壮年に達していて、これと協力してオリュムピア祭の休戦の制度を設けたと謂っている。そのひとりは哲学者のアリストテレースで、オリュムピアにある円盤に彫ったリュクゥルゴスの名前が残っていることを証拠に挙げている。ある人々、例えばエラトステネースやアポッロドーロスは、スパルタで王になった人々をの順序書によって計算して、第1オリュムピア紀年よりずっと古い人だということを証明している。
76.1
第35オリュムピア紀年1年〔前639年〕
Diogen. Laert. I, de Thalete〔37-38〕:
ところで、アポッロドーロスは『年代記』の中で、彼は第35オリュムピア紀の1年目に生まれたと謂う。そして命終したのは78歳 ソーシクラテースの謂うには、90歳 であった。
77.1
第40オリュムピア紀年〔前620年〕
Clemens Alex. Strom. I, de Xenophane Colophonio:
ティマイオスが謂うには、シケリアの権力者ヒエローンの時代に、彼〔コロポーンのクセノパネース〕と詩人エピカルモスが生まれたと。しかしアポッロドーロスは、生まれたのは第40オリュムピア紀年だと、ダレイオスとキュロスの時代までさかのぼると。
78.1
Diogen. Laert. I, 74:
しかしその後、アポッロドーロスが『年代記』の中で謂っているところでは、その土地のことでアテーナイ人たちはミテュレーナイ人たちと争訟し、ペリアンドロスはその訴えを聞くと、アテーナイ人たちに有利な裁定を下したという。
79.1
第58オリュムピア紀年2年〔前547年〕
Diogen. Laert. II, 2, de Anaximandro Milesio:
彼〔アナクシマンドロス〕は自分の学説の要綱を発表したが、アテーナイ人アポッロドーロスもこれを手に入れた。彼はまた『年代記』の中で、第58オリュムピア紀の2年目に64歳であって、その後間もなく命終したと謂っている。かくてサモスの僭主ポリュクラテースとほとんど同時代に盛年に達していたことになる。
80.1
第63オリュムピア紀年〔前528年〕
Diogen. Laert. II, 3, de Anaximene Milesio:
アポッロドーロスによれば、第63オリュムピア紀年には生存していたが、サモス攻略の頃〔〕命終した。
81.1
第71オリュムピア紀年1年〔前500年〕
Diogen. Laert. II, 7, de Anaxagora:
アポッロドーロスは『年代記』の中で、彼〔アナクサゴラース〕は第70オリュムピア紀年期に生まれ、第88オリュムピア紀年1年目に死んだと。
82.1
第77オリュムピア紀年4年〔前469年〕
Diogen. Laert. II, 44, de Socrate:
ところで、アポッロドーロスが『年代記』の中で謂っているところによれば、彼〔ソークラテース〕が生まれたのは、アプセピオーンが執政官であったとき、第77オリュムピア紀年の4年目、タルゲーリオーン月第6日であった。その日はアテーナイ人たちが都市を浄める日であり、デーロス人たちの謂うには、アルテミスの誕生日であった。命終したのは、第95オリュムピア紀年1年目、70歳であった。
83.1
(第79オリュムピア紀年〔前464年〕
Diogen. Laert. IX, 25:
エレア人ゼーノーン。アポッロドーロスは『年代記』の中で、この人は自然にはテレウタゴラスの子であったが、養子縁組によってパルメニデースの子になったと謂う。
84.1
第80オリュムピア紀年〔前460年〕
Diogen. Laert. IX, 41, de Democrito:
ところで、彼の年代に関しては、彼自身が『小宇宙体系』の中で謂っているように、アナクサゴラスが老年であったときに、彼はまだ若者であり、アナクサゴラスよりは40歳年下であった。そして、『小宇宙体系』という書物は、イーリオン陥落後730年経って著されたものだと彼は述べているのである。そこで、アポッロドーロスが『年代記』の中で述べているように、彼は第80オリュムピア紀の頃に生まれたことになるだろう。
85.1
第84オリュムピア紀年〔前444年〕
Diogen. Laert. IX, 41, de Melisso, Parmenidis et Heracliti discipulo〔パルメニデスとヘーラクレイトスの弟子メリッソス。D. L.., IX, 24〕:
なお、アポッロドーロスによれば、彼〔メリッソス〕の盛年は第84オリュムピア紀年の頃であった。
86.1
第84オリュムピア紀年〔前444年〕
Diogen. Laert. IX, 50, de Protagora:
プロータゴラスはアルテモーンの子、あるいは、アポッロドーロスや、ディノーンが『ペルシア誌』の中におけるように、マイアンドリオスの子。
Idem IX, 56:
ある人たちは、彼〔プロタゴラス〕は道中に命終したという、90歳近く生きて。アポッロドーロスが謂うところでは、70歳のとき、第84オリュムピア紀年のころ盛年に達していたと。
87.1
第84オリュムピア紀〔前442年〕
Diogen. Laert. VIII, 74, de Empedocle:
彼〔エムペドクレース〕は第84オリュムピア紀年の頃盛年であった。
Supra VIII, 52:
また、文献学者アポッロドーロスは『年代記』の中で謂う。
「彼はメトーンの息子であった。そしてグラウコスの謂うところでは、ごく最近建設されたトゥーリオイに行ったという」
さらに引用して、
「ある人たちは、彼は故国を追い出されてから、シュラクゥサイへ行ってその軍に身を投じ、彼らとともにアテーナイ軍と戦ったと記録しているが、その記録は、少なくともわたしには完全に間違っているように思う。なぜなら、彼はそのときにはもはや生きていなかったからか、あるいは、ありそうにもないことだが、もうまったくの高齢であったかのどちらかである。事実、アリストテレースも、さらにはヘーラクレイトスも、彼は60歳で死んだと謂っているからである」。第71オリュムピア祭で優勝したのは、騎馬によるものであり、この人と同じ名前の祖父だった。したがって、アポッロドーロスは(祖父のことだけでなく)この人の年代をもいっしょに示しているわけである。
88.1
Diogen. Laert. VIII, 58:
事実、レオンティノイのゴルギアスは彼〔エムペドクレース〕の弟子であったが、この人は弁論術において卓越し、術知を後世に残した人である。アポッロドーロスは、『年代記』の中で、彼は100と9歳まで生きたという。
89.1
第88オリュムピア紀年4年目〔前428年〕
Diogen. Laert. III, 2, 3:
プラトーンが生まれたのは、アポッロドーロスが『年代記』の中で謂っているところでは、第88オリュムピア紀年のタルゲーリオーン月第7日。この日に、アポッローンが生まれたとデーロス人たちは謂う。
90.1
第93オリュムピア紀年の3年目〔前406年〕
Diodor. XIII, 103〔5〕:
また、年代史編纂を労作したアポッロドーロスは、エウリピデースも同じ年に命終したと謂う。
91.1
第93オリュムピア紀年4年目〔前405年〕
Diodor. XIII, 108〔1〕:
ちょうどこの時代に、詩人アンティマコスも全盛期にあったとアテーナイ人アポッロドーロスは謂う。
92.1
第99オリュムピア紀年1年〔前381年〕
Diogen. Laert. V, 9:
さて、アポッロドーロスが『年代記』の中で謂っているところでは、彼〔アリストテレース〕は第99オリュムピア紀年の第1年目に生まれ、17歳のときにプラトーンの門に入り、20年間その下で過ごした。そして第108オリュムピア紀年の第4年目、エウブゥロスが執政官の時に、ミュティーレーネへ行った。ただし、その1年目、テオピロスが執政官であった時にプラトーンが命終したので、彼はヘルミアスのところへ旅立ち、そこに3年間留まっていたのである。そして、ピュトドトスが執政官であった年、つまり第109オリュムピア紀年の第2年目に、彼はピリッポス王の宮廷へ行ったのであるが、アレクサンドロスはそのときすでに十五歳になっていた。そして第111オリュムピア紀年の第二年目に、彼はアテーナイへ戻り、リュケイオンで13年間講義をした。その後、第114オリュムピア紀年の第3年目にカルキスに退いて、その地で、病気のために、およそ63歳の年齢でこの世を去った。それは、ピロクレスが執政官であった年であり、この年にはまた、デーモステネースもカラウリアで身罷った。
93.1
第103オリュムピア紀年〔前368年〕
Diogen. Laert. VIII, 90:
ところで、エウドクソスという名前の人は3人いた。ひとりは、このひと(sc. クニドス人エウドクソス)、もうひとりはロドス人で、歴史を書いた人、第3はシケリア人、アガトクレースの子で、喜劇作家。アポッロドーロスが『年代記』の中で謂っているところでは、市のディオニューシア祭で三度優勝し、レーナイア祭で五度優勝したという。……ところで、同じ人〔アポッロドーロス〕が謂うには、クニドスのエウドクソスが盛年であったのは第103オリュムピア紀年のころであって、彼は曲線の特質も発見したという。そして53年を過ごしたのち命終した。
94.1
Diogen. Laert. IX, 61, de Pyrrhone:
ピュッローンはエーリス人、プレイスタルコスの息子であることは、ディオクレースも記録しているとおりであり、アポッロドーロスが『年代記』の中で謂っているように、初めは画家であった。
95.1
第109オリュムピア紀年3年〔前342年〕
Diogen. Laert. X, 13, de Epicuro:
アポッロドーロスは『年代記』の中で、この人〔エピクロス〕はナウシパネースとプラクシパネースから教えを受けたと謂う。……
ところで、アポッロドーロスが『年代記』の中で謂っているところでは、エピクロスは第109オリュムピア紀年の第3年目、ソーシゲネースが執政官の時のガメーリオーン月第7日に生まれたが、それはプラトーンが命終してから7年後のことであった。そして彼は、32歳になったときに、先ずミューティーレネとラムプサコスの地に学校を開き、そこで5年間過ごした。それからアテーナイに移って、第127オリュムピア紀年の2年目ピュタラトスが執政官の時、72歳で命終した。そして彼の学園は、ミュティレネ人アゲマルコスの子ヘルマルコスが引き継いだ。
96.1
第102オリュムピア紀年2年〔前291年〕
Gellius XVII, 4, de Menandro:
〔未訳〕
97.1
第123オリュムピア紀年2年〔前287年〕
Diogen. Laert. V, 58, de Stratone Peripatetico:
アポッロドーロスが『年代記』の中で謂っているところによれば、彼は第123オリュムピア紀年に学頭になり、18年間学園を主宰したとのことである。
98.1
Diogen. Laert. IV, 23, de Cratete Atheniensi:
アポッロドーロスが『年代記』の第3巻の中で謂うところでは、クラテースが命終したとき残した書物は、あるものは哲学に関するもの、あるものは喜劇に関するもの、またあるものは民会演説や、外交使節を勤めたときの演説であったという。
99.1
Diogen. Laert. IV, 28:
アルケシラーオスは、セウテース、あるいは、スキュテースの子と、アポッロドーロスが『年代記』の第3巻の中で。
100.1
Syncell. Chron.:
ポントス人たちの10人の王たちが、この期間、218年間、持続して支配し続けた。彼らについてはアポッロドーロスとディオニューシオスが記録している。
101.1
第143オリュムピア紀年
Diogen. Laert. VII, 184, de Chrysippo:
ヘルミッポスが謂うところでは、彼〔ヘルミッポス〕が音楽堂で講義していたとき、弟子たちから供儀祭に呼ばれた。そのおり、水を割らない甘い葡萄酒を飲んだためにめまいがして、それから5日後に世を去った。そのとき73歳であり、アポッロドーロスが『年代記』の中で謂っているところでは、それは第143オリュムピア紀年の間のことだった。
102.1
第162オリュムピア紀年4年
Diogen. Laert. IV, 65, de Carneade:
アポッロドーロスが『年代記』の中で謂っているところでは、彼〔カルネアデース〕が人間界から逝去したのは第162オリュムピア紀年の4年目で、生年は80に加える5歳であった。
103.1
Phlegon De longaevis, 2:
史伝作家クテーシビオスは104年間(生きた)が、逍遙中に命終したと、アポッロドーロスが『年代記』の中で明らかにしている。
104.1
Joseph. Contra Apionem II, 7:
なお、アンティオコス〔エピファネース〕の場合の侵入は、同盟者であり、友人であったわたしたちに向かって仕掛けた不正な攻撃であったこと、さらにそれは戦闘中起こった事件などではなく、無一文ゆえ金欲しさだけで、そこへ乱入したものであること、しかも、そこでは何ひとつおかしなものは発見されなかったこと、などの諸事実は多くの真面目な歴史家により証明ずみである。すなわち、メガロポリスのポリュビオス、カッパドキアのストラボーン、ダマスコス人ニコラオス、ティマゲネース、年代記編者のカストール、アポッロドーロスらはすべて、アンティオコスは金欲しさからユダヤ人たちとの協定を破り、神殿に侵入し、そこに保管されていた金・銀を略奪した、と言っているのである。(秦剛平訳)