"3a,264,F".25.1
DIODOR. 1, 10:
[10] 温暖のナイル河が最古の人間を生んだ
(1) エジプトでの話によると、万物が最初に生成した折に最初に生まれた人間がエジプト地方にいたのは、この地方の土地が温和なためとナイル河の自然本性のせいである。この河は、多くの生き物を生み食用動植物を自然に成育させて、河から生まれた生き物が成長しやすくしている。すなわち、葦の根と蓮、さらにはエジプト豆、コルサイオンそのほかこの種の数多くのものを、人間族の手に入りやすい食料として提供する。
(2) 洪水後に土から生まれるネズミ 生物が最初に生まれたのがこの地方であったことの証拠にしようと、住民が企てていることがある。それは、今もなおテパイの地方の土壌のなかには、ある時節になると、ねずみを産し、これらが多くて大きいことは、生まれてくるのを自分の目で見た者なら驚きのあまり茫然となるほどだ、という事実である。一部のねずみは、胸と前脚まではすべて形がすっかり出来て動かせるのに、身体の残りの部分は形が出来ないままでいて、これは未だ土塊の本性のままの状態に止まっていることによる。
(3) この例からあきらかなように、宇宙が最初に形づくられた折には、エジプト地方の土地が温暖な状態にあったため、(ほかの)どの地方にもまして人間たちを誕生させやすかったのかも知れない。しかも、今日この地方よりほかの大地ではどこでも、この地方に見られるような生き物を何ひとつ生み出さないのに、この地方でだけはいくつかの種類の生き物が、常識はずれの生まれ方をしているのが見られる。
(4) 雨なしに水の豊かな土地 いったいに住民の話によると、デウカリオン王期に起きた洪水の頃、ほとんどの生き物は滅びたとしても、エジプト地方の南部に住みついていた人びとは、ぶじに生き延びた。これは、これら住民の住む土地では、ほとんどのところで雨が降らないようなので、とりわけ有りそうなことである。また、一部の説のように、生き物が完全に滅び去り、大地がふたたび最初から新たな本性を持つ生き物をもたらしたとしても、これら生物の始祖の誕生は、この地方の土地に結びつくのが似つかわしい。
(5) すなわち、ほかの族民の間で降る多くの雨が、自分たちエジプト民の間で生じる暑熱と混合して、万物が最初に生み出されるよう、大気がこの上なく温和となるはずである。
¶(6) 当代でもなお……¶
[11] 最古で最高のオシリスとイシス
(1) エジプト地方でその昔生まれた人びとは、宇宙と万物の本性へ目を向けて驚きあきれもし驚異をもおぼえると、永遠不滅で最初の神が二柱あって太陽と月にあたる、とした。そして、その名をそれぞれオシリスとイシスにしたが、その際この呼び名はそれぞれある種の語源から決められた。
(2) オシリスの神名の由来 すなわち、両神の名がギリシア語に訳された際、オシリスは「多くの眼の」という意味になった。これはもっともな訳であろう。四方八方へ光りを放つさまは、まるで多くの眼をもって大地と海のすべてを見つめるようである。詩人もこれらの説明に合致した説明をして
万物をみそなわし、また万事に耳を傾けなさる太陽神(Il. III, 277; Od. XI, 109; XII, 323)
¶(3) また、ギリシア人の間で昔の神話作者のなかには、オシリスをデイオニュソスまたはすこし形を変えてセイリウス、と呼び名している例もある……¶
(4) イシスの神名の由来 ……また、イシスを(ギリシア語に)訳せば「古来の」という意味で、この呼び名は「永遠不滅で往古の生れ」という意味から決まった……。
(5) 両神5要素から万物を創る また、この人びとの想定によると、この両神が宇宙のすべてを司り、その際に万物を養い育てるため季節を用いる。季節は春、夏、冬の三つ一組で、これらが自に見えない運動によってその周期を完全なものとする。さらに、これらの季節は相互にこの上なく相反する自然本性を持ちながら、最も優れた調和を見せて一年の周期を完成させる。そして、両神の自然本性はそのほとんどすべてが万物を生み出すことに寄与し、その際、男神が火と気を女神が湿と乾を、両神共同で空気を、それぞれ生み出すことに関わり、これら(諸要素)を通して万物が生み出され養われる。
(6) 従って、万物の自然本性はことごとく日と月をもとに完成され、これら万物は上述した五つの(要素)部分からなっていて、五つとは気、火、乾とさらに湿そして最後に空気である。これらはちょうど人間のばあい頭、両手、両足、そのほかの身体部分の順に列挙するのとおなじ順序であり、人間のばあいとおなじようにして、宇宙の本体は全体として上述の五要素から組織されている。
[12] 5要素の神格化
(1) そして、これらの要素のそれぞれを神とみなし、その神ごとに固有の呼び名をふさわしく決めたのが、エジプト地方民の父祖であり明確に分節した言語を最初に用いた人びとであった。
(2) 気の神ゼウス まず、気をギリシア語に訳しかえるとゼウスとなるが、この呼び名にしたのは、この人びとがこの神を、生き物たちの生命を司る部分の原因として、あたかも万物の一種の父親の位置にある、と見なしたからであった。その話によると、ギリシア人の間で一番に名高い詩人もつぎのように語る際には、これら始祖たちの考えに共鳴していて(Il. I, 544 ö)
人間たちと神々との父
(3) 火の神ヘパイストス また、火を(ギリシア語に)訳しかえるとへパイストスとなるように名付けたが、これは、この神が偉大で、万物が生成し完全な成長をとげるよう数多くの事物を提供する、と始祖たちが見なしたことによる。
(4) 大地の神デーメーテール また、大地は生まれ出る生き物たちのいわば受け皿にも似ているようだと思って、母という呼び名を付けた。ギリシア人もこれに近い形でデーメーテールと呼んでいるが、ギリシアでは時代を経たため語の読み方がすこし変った。すなわち、古くはゲー・メテル(地母神)という名を用い、これはオルペウスも証人に加わって語るとおりで(F 302 Ke)
万物の母ゲー、富を授けるデーメーテール神よ
(5) 湿の神オケアノス さらに伝承によると、往古の人びとは湿りをオケアノス女神と名づけ、これを訳し変えると「養いの母」となる。また、一部のギリシア人の間ではこの神がオケアノス男神にあたると推定され、この神については詩人も語っていて
神々様の
祖でおいでのオーケアノスと、テーテュース母様に(Il. XIV, 201)
(6) エジプト民は、自分たちの地方にあるナイル河がオケアノスで、神々の誕生もこの河の辺りのことであった、と見なしている。人の住む世界のなかでもエジプト地方に限って、太古の諸神が創建なさった市が数多い。例えば、ゼウス、へリオス、ヘルメス、アポッローン、パン、エイレイテュイア、そのほかなお幾柱もの神(の名を冠した市)がそれである。
(7) 空気の神アテーナー また、話によると空気は語の読みを換えてアテーナーという呼び名とし、この神をゼウスの娘神と見なし、さらに処女神と想定した。これは、空気が本性上消滅することがなく、また宇宙全体のなかでも一番高い場所に接するからで、それゆえ神話によれば、この神はゼウスの頭から生まれた。
(8) また、この神を「トリトゲネイア」女神と名付けたのは、女神の自然本性が春、夏、冬と年に三度(トリス)変るのに因んでのことである。また、「グラウコピス」女神ともいわれるのを、ギリシア人のなかには、女神の両眼が青い(または輝く)のに因んだもの、と推測した人びともいた。しかし、そうではなく空気は見かけ(プロス・オプシス)が青みがかっている(エン・グラウコス)のに由来する。
(9) また話によると、上述の五柱の神は人の住む世界の全域を巡回なさるが、その折人間たちの眼にはさまざまな神獣の姿形をとって現われ、時には人間そのほか(これに似た者)の形に変えることをなさる。これは作り話の類に属することではない。すくなくともこれらの神がほんとうに万物を生むのであれば、これは有りうることである。
(10) 詩人も、エジプトに足を踏み入れ祭司たちを通してこの種の物語にふれた後、その詩編のどこかで、上述のことが生じたとして(Od. XVII, 485-487)
いかにも神さま方はしばしば、他国から来た渡り者に姿を似せて、
祖国をお巡りなさるということ、ありとあらゆる者になってだ、
して世の人の、増上慢と錠を守る者とをお見わけなさるというのに。
天にあって永遠の存在として誕生した諸神についての、エジプトでの物語は以上のようなものである。
[13] 王から神になった例
(1) この地方での話によると、以上の諸神のほかにも地上の神々が生まれて、これらの神は死すべきものの身であったが、分別の力があり人びとすべてに共通した功労者となったので、不死の身を得た。これらの神のなかには、エジプト地方で王となっていた例もあった。
(2) これらの神を(ギリシア語で)読み変えると、天上の諸神とおなじ名となる例もあり独自の呼び名を持った例もある。たとえば、へリオス、クロノス、レア、さらにはゼウス一名アンモン、これらに加えてへラ、へパイストス、さらにはへステイアと、最後にヘルメスがそれである。そして、へリオスがエジプト歴代の王のなかで最初の王となったが、この王の名が天空にある星辰(中の太陽)とおなじ名であった。
(3) 火の発見で王となる 火の発見で王となる一部の祭司によると、へパイストスが最初の王となり、これはこの神が火の発見者で有用さをもたらしたため、支配者の地位を手に入れたからである。山中で一本の樹木が雷電に打たれその付近の森が焼けているのでへパイストスが近付くと冬の間だったので火の暖かさを喜んだ。そこで、火災が鎮まるようになると絶えず薪を上に投げかけ、こんな風にして火を守りつづげながら、ほかの人びとにも火をうまく利用することを勧めた。
(4) この後クロノスが支配しその姉妹レアを妻にして、¶一部の神話作者たちによればオシリスとイシスを生んだというが、ほとんどの神話作者によると¶ゼウスとへラを生んだ。そして、この両神が優れていたため全宇宙の王となった、という。(4a) そして、後者の両神から五柱の神が生まれ、その際一日ごとに一柱の神が生まれたのでエジプト民の間では(一年の最後に)五日間を加えた。生まれた神にはそれぞれオシリスとイシス、さらにテュポン、アポッローン、アプロディテの名を配した。
(5) オシリスを読み換えればディオニューソスとなり、イシスはデーメーテールに一番近いといえる。そして、オリシスがイシスを委として王国を継ぎ、公共の暮しに多大の功労を尽した。
[14] イシス穀物と加工法を教える
(1) 最初に人間族が共喰いするのを止めさせ、そのためにイシスは小麦と大麦の穀粒を発見した。この穀粒は時期が来るといつでもほかの植物共ども生え出ていたのに、人間たちが気付いていなかった。オシリスはこれらの穀物の加工をも考え付いたので、誰もが喜んでこれを食料に取り換えた。これは、発見された穀物が本来美味しかったのと、お互い同志相手へ加える惨忍な仕打ちを避けるのが、得策となるように見えたことによる。
(2) イシスに捧げる初穂祭 エジプトでは上述の穀粒の発見の証拠として、自分たちの間で古来守られて来た仕来たりを持ち出す。すなわち、今日でもなお収穫時には、最初に刈り取った穂を置くとその麦束の近くで、われとわが身を叩いてイシス女神に呼びかけ、このように振る舞って、女神が最初にこれを発見なさった季節にあたり発見なさった穀物を尊ぶ思いを、女神に向け捧げる。
(3) いくつかの市ではイシス祭の間に、御神幸のなかでほかの奉納物と共に小麦大麦の切り株をも運ぶが、これはこの女神が最初にたくみな技で発見なさった穀物を記念するよすがにあたる。話によると、この女神は法の制定もなさり、この法に従って人びとは、お互いに正しく振舞合い、無法な暴力や思い上った非道を止めた。止めたのは懲罰を恐れてのことであった。
(4) このため、古くはギリシア人もデーメーテール女神を「掟授けの」と名付け、法は最初この女神がお定めになったものと思っていた。
[15] 鉱山と農業の神オシリス
(1) テーバイ創建の話 また話によると、オシリスがエジプト内のテパイス地方に「百の城戸の」市を建設した。当時の人びとは母神の名に因んで市の名を定めたが、それより後の世代になるとディオス・ポリス(ゼウスの市)とし、一部ではテパイと名付けた。
(2) この市の創建については、史家の間だけでなくエジプトの当の祭司の間にも説が対立している。大半の史書によると、この市を建設したのはオシリス神ではなく、それよりはるか後代になってひとりの王が建てた。¶この王については、それを扱うのにふさわしい時代に入った際その細目を記録するつもりである(45, 4-7)。¶
(3) 建設者は、オシリスの両親ゼウスとへラの神域をも設けたが、これは大きさでもそのほか金にあかせての造りといい、話の種になるほどであった。さらに、ゼウスの黄金造りの神殿二棟を建て、大きい方は天上のこの神のもの、小さい方はかつて王であり自分たちの父であったゼウスの宮居で、後者のゼウスを一部ではアンモンとも呼ぶ。
(4) また、上述のそのほかの諸神のためにも、それぞれに黄金造りの神殿を築造し、これらの神一柱ごとに祭儀を配し祭司を定めた。(4a) (今日でも)さまざまな技術を考案しまた何か有用な仕組みを創出する(ことを業とする)人びとは、オシリスとイシスそれぞれの許で一段と丁重な祭りを捧げる。
(5) オシリス 銅と金加工を発明 それゆえ、(当時)テパイス地方で銅鉱や金鉱が発見されると、人びとは武器を制作し、それらを使って野獣を殺し、土地を耕しながら競ってこの地方を開拓し、神々のために像と黄金造りの神殿の見ごとなのを造営した。
¶(6) 農業の神にもなる オシリスは農業好きの神ともなっていて、ゼウスの子として幸福のアラビア地方のうちエジプト地方に近いニュサで育った。……¶
(9) ディオニューソスはすべての神々のなかではへルメスを一番大事にした。これは後者が、公共の暮しの助けとなることのできる事物を考えつく上で、際だった素質を備えていたことによる。
[16] 文字の神ヘルメース
(1) すなわち、この神のおかげで、共通の話し言葉が分節を持って完全な体をなし、(これまで)名もなかった事物が数多くそれぞれの呼び名を持ち、文字も発明され、諸神のための杷り方や供犠の作法が整った。星辰の秩序や音の調和とそれぞれの本性についても、最初の観察者となったのはこの神で、格技場の発案者ともされ、身体のリズムをうまく取ること、適当な体形を整えることを、訓練させた。また、絃を張ったリュラ琴を三絃にした。これは一年ごとの季節をまねたもので、高、低、中間の三音を基礎とし高音を夏季、低音を冬、中間音を春にそれぞれあてた。
(2) さらに、ギリシア人に解釈・翻訳(へルメネイア)の術に関する事柄を教えたのもこの神で、この知識がきっかけでこの神にへルメスの名が定まった。総じて、オシリスはこの神に神聖文字の書き手になってもらい、加えて万事をこの神に伝え最初にこの神の助言を用いていた。野生オリーブ樹を発見したのもこの神で、ギリシアではアテーナーだというがこれは違う。
¶[17], 1-[20] (5)¶ ([20] ヨーロッパ遠征 (6)) そしてその後、人間界から神界へ移った後、イシスとへルメスの尽力で、供犠そのほか最も高位の栄典を手に入れた。この両者はこの神のカを強く賞めたたえながら、いくつもの密儀を案出教示し、数多くの仕来りを密儀風に作って導入した。
[21] オシリス殺害とイシスの復讐
(1) 祭司たちはオシリスの最期について、古くから口外を禁ずべき事として理解して来たが、後代になって何れかの時に、これまで沈黙を守られて来た内容が、一部の祭司を通じて大衆の間に聞かれることになった。
(2) 事件の概要 その話によると、オシリスはエジプトの王として法に適った治め方をしたが、兄弟でテュポンといい乱暴で神を恐れない者に殺された。殺し手は、殺した王の死骸を二六に切り刻むと、殺しに加担した一味のそれぞれに一片ずつを渡した。これは全員に兇行からするけがれを受けさせようとしてのことで、これを通して、一味を自分の協力者にし王国のゆるぎない守り手にできる、と見なした。
(3) イシスはオシリスの姉妹で妻だったが、この殺害に復讐し、その際その息子ホロスが協力して戦った。イシスはテュポンとその共犯者一味を殺して、エジプトの王位についた。
(4) この戦が起きたのは、ナイル河岸にあたって今日の「アンタイオス村」に近いあたりで、村はアラビア地方側の区域内に位置し、その呼び名はへラクレスの手で懲罰を受けたアンタイオスに因んだものという。¶この後者はイシスとおなじ頃に生きていた。¶
(5) オシリス埋葬を各地の祭司に求める イシスは夫王の遺骸の断片をことごとく見つけ出したが、ただひとつ男根は見つからなかった。そして、夫の埋葬場所が人に知られないようにすると共に、エジプトの住民すべてが祀るようにしようと思って、何かつぎのような方法が良いという結論に達した。すなわち、遺骸の一片ごとにその周りを固めて人型の模像を作りオシリスに似た大きさにし、材料には香料と、みつろうを使った。
(6) そして、祭司たちを氏族ごとに招き入れては、「これからあなた方に預け物をする」として、この内容を誰にも明かさない旨誓約を立てさせた。その上で、それぞれ(の氏族)に個別に「遺骸の埋葬をあなた方だげに委ねる」といい、さらに夫王が尽した功労の数々を思い起させた後、祭司たちがそれぞれの場所にその遺体を葬って、オシリスを神として祀るよう求めた。
さらに、祭司たちの地元に棲む生きもののなかからどれでも自分たちの思うもの一種類を神獣とし、それが生きている間は大事に思って以前オシリスに接したのとおなじように扱い、死んで後は夫王と同等の葬儀を挙げるのがふさわしいと見なすよう、求めた。
(7) また、祭司たちに有利な条件をもつけて、上述の祭祀を進んで執り行わせようとし、そのためその地方の土地を三分の一だけ祭司に与えて、諸神に給仕し奉仕するための資とした。
(8) オシリス祭祀の成立と神獣 伝承によると、祭司たちはオシリスが尽した功労の数々を思い起こし、女王の要請するのに応じてこれを喜ばせようとし、加えて自分たちが利を得るのにも誘われて、一切の行事をイシスの提案どおりに行った。
(9) それゆえ今に至っても祭司たちは、それぞれ自分たちの許にオシリスが葬つであるものと思っている。また、当初から神獣とされて来た生き物を大事に扱い、それらが死ぬと葬るにあたって、オシリスに対する哀悼の儀を再現する。
(10) 神牛はその名をアピスとムネウィスといい、オシリスのそれで、周知のとおりエジプト民はすべて共通に、この牛を神のようにして拝む。
(11) この動物は、食料となる穀物を発見した人びとに従い働いて、種播きをはじめ誰もが農耕から等しく利益を受けるのに、とりわけ役立っている。
[22] イシスの墓と男根祭由来
(6a) 男根祭の由来 話によると、オシリスの四肢のうちで見つかった部分は、今述べた方法で葬に付すのが適当だと見なされた。しかし、男根はテュポンの手で河中へ投棄され、これは共犯者たちの誰ひとりそれを受け取ろうとしなかったからだが、イシスはそれでも、これがほかの諸部分に劣らず神に等しい栄典を受ける資格があると思った、という。女王はこの部分のために人型の模像を作らせて神域内に記り、この神のために執り行われる祭儀や供犠の捧げ方では、一番丁重な記り方を行い最大の礼拝儀式を当てるよう、教えた。
(7) それゆえ、ギリシアでも密儀の祭式やディオニューソス祭についての祀り方をエジプトから学んで来て、密儀の教えのなかでもこの神の祭儀や供儀の場でも、この部分をパロス(男根)と名付けて祀る。
¶[23] 話によると、オシリスとイシスの代からアレクサンドロス大王の在位期までの間は一万年を越し、この大王はエジプトに自分の名を冠した市を建設した。一部の史家によると23000年にすこし足りない。¶
[25] イシスの夢告治療
(7) この息子〔ホロス〕は諸神のなかでも王となった最後の人物で、¶父王オシリスが人間界から移り去った後を受けた。¶話によると、この王の名をギリシア風に読みかえるとアポッローンにあたり、母神イシスから医術と予言術を教わり、神託と施療を通して人間族のため功労を尽した。
[26] 最古の王たちの在位年数
(1) エジプトの祭司たちの話によると、へリオス(太陽)王の治世からアレクサンドロス大王のアジア渡海までの時を合計すると、ほとんど23000年にあたる。
(2) また、その神話談議によると、神のなかでも最古の諸神は1200年以上も王位にあり、もっと後代になっても300年を下らない。
(3) 最古の1年は今の4ヵ月 この年数の多さは信用できないため一部では、古くはまだ太陽の運行についての知識がなかったので、結局一年が月の周期に従って過ぎていた、と説明しようとする。
(4) そして、まさしくこのため年月が30日単位となる結果、1200年間生きつづけたのがあり得ないことではなくなる。今日でも一年間が12か月となっている時、100歳以上生きている人はかなり多い。
(5) 300年間治めたと思われる諸王についても、やはり似たような説明となる。その時代頃には一年が四か月ずつに均分され、それぞれの四か月はその季節を春、夏、冬のようにして作られる。そして、それがもとで一部のギリシア人の間では、一か年という期間を季年(ホライ)と呼び、一年ごとの記録に季年録(ホログラビアイ)という用語をあてる。
[28] エジプトからの移民伝説
(1) バビュロニア移民 エジプトでの話によると、この後もこの地方から人の住む世界全域へ向かって、この上なく数多くの移民群が分散して符った。パビュロン方面へ移民を率いて行ったのはベロスで、ポセイドンとリピュエの間に出来た子と見なされている。この指導者はエウプラテス河畔に落ち着くと、祭司の職を定めてこの人びとを、エジプトでの祭司に似たように負担免除とし、一切の公共奉仕からも解放した。パピュロンではこの人びとをカルダイオイと呼ぶ。そして、その上でエジプトにいる祭司、自然学者、さらには天文家を真似て、星の見張りをさせた。
(2) 伝承によると、ダナオス王配下の人びともおなじようにして、かの地から出発し、ギリシア人の建てた市のうちでほとんど最古のアルゴスを建設して市とした。(2a) また、コルキス族はポントス地方に、ユダイア族はアラビア、シュリア両地方間の真中あたりに、何れも自分たちエジプト民の地方から出発した一部の移民たちが、住みついて出来た部族である。
(3) それゆえ、これら族民の間でも、生まれて来た息子たちに割礼を施すことが、古くから受け継がれているが、これはこの掟がエジプトから移されたことによる。
(4) アテーナイに見るエジプト風の跡 話によると、アテーナイ民もエジプトのサイスからの移民で、エジプトではこの類縁性を証明しようとしている。すなわち、ギリシア民のうちでこの市民だけが市を「アステュ(市街区)」と呼ぶが、これは自分たちの地方にあるアステュ市から、この呼び名が移されたことによる。さらに、アテーナイの国制はエジプト民の間でのものとおなじ組織と分類を含み、市民は三つの階層に配された。
(5) 第一層に属するのが「高貴な素姓のもの(エウパトリデスこで、これらはすべて〔神祇監として〕とりわけじゅうぶんな教育を受け、一番大きな栄典を受げるに足るものと見なされていて、この点エジプトでの祭司層に似通っている。二番目の序列に入るのが「土地持ち」で、武器を所有し市のために戦うことを義務づけられ、エジプトでの「農民」すなわち戦士を提供する人びとに相等する。最後の階層に数え上げられたのが職人たちの一団で、手工の技を駆使し、最も必要とする公共奉仕の負担に応じるが、この階層はエジプトでも似通った役割を果している。
(6) アテーナイ古王にエジプト出身も また、アテーナイでの支配者の一部にエジプト出の人もいる。メネステウスはトロイアに向け遠征したが、その父ペテスはあきらかにエジプト人に属し、後になってアテーナイで市民権と王権を手に入れた。
(7) ***そして、二様の本性をそなえていたため、アテーナイでは、自分たち独自の根拠に従ってこの王の出生地についてほんとうの理由を明示することが、出来なかった。それというのも、王がギリシアと非ギリシアの二とおりの市民権を手に入れているので、一方では野獣の部分を他方では人間の部分を身につげている、という二重の本性を備えた人物と見なされた。そして、この話が万人の間で周知のこととなったからである。
[29] デーメーテールの穀物招来をめぐって
(1) この王とおなじく、、ェレクテウスもエジプト民の出でありながらアテーナイ人の王となったといい、その際人びとは何かつぎのような証明を持ち出す。誰もが一致して認めていることだが、人の住む世界のほぼ全域にわたって大干ばつが発生し、エジプトだけはこの地方独特の条件のため例外となったが、引きつづいて穀物が不作となり大勢の人がたおれたので、エレクテウスはエジプトからアテーナイに向け、同族のよしみで大量の食料を運んだ。そしてその御礼に、お蔭を蒙った人びとがこの功労者を王位につけた。
(2) 密儀もエジプト起源 王は支配権を引き継ぐと、エレウシスでデーメーテール女神の密儀を知らせ、入信祭儀を行い、その際エジプトから、これらの儀式についての決まりとなっていることを、移して来た。この女神がアッテイカ地方へお出になったのもこの時代頃の出来ごとだったという話が理に適ったものとして伝わって来たが、その伝承によると、この女神に因んだ名の穀物はその時アテーナイに運びこまれた。そして、これがもとで種子の発見がもう一度「はじめて」行われ、その際デーメーテール女神がこれを贈物とした、と思われた。
(3) アテーナイ人たちも同意している話によると、エレクテウスが王位についた時、雨が降らなくなったため穀物がすでに姿を消していたので、デーメーテール女神がこの地方へお出になり食べ物を贈物となさった、ということが起きた。加えてこの女神のための密儀や密儀入信式がこの時エレウシスで知らされた。
(4) 供儀に関した事柄と由来の古さの何れについても、アテーナイ人とエジプト民はおなじような状況にある。すなわち、エゥモルポスの子孫たちはエジプトにいる祭司たちから、ケリュクスたちは「神嗣運び」役たちから、それぞれ分れて移り住んだ。そして、この人びとだけがギリシア人のなかでもイシス女神に誓いを立て、またその姿形や性格の何れをとっても、エジプト民と一番よく似通っている。
(5) この人びとは、以上の話のほかにもこれらに似た話を数多く伝えている。¶しかし、その話し方には真実に近付くというよりは名誉心にかられているところがあり、すくなくともわたしにはそのように見える。¶そして、このようにして市の評判を保つためこの移民に異論を唱えている。他方、エジプトでの話によると、総じて自分たちの父祖たちは、この上なく数多くの移民団を、人の住む世界内の数多くの地域へ送り出した。これは自分たちの地方で王となった人びとが格段に優れていたのと、人口が多過ぎたことによる。
(6) 証拠のない伝説 ¶しかしこれらの理由については、詳しく正確な証明が何ひとつ出ていないし、信頼するに足る史家の証言もないことから、わたしたちは上述の話の内容を記載に値するものではない、と判断した。¶ ¶エジプトでの神々についての論議の内容についても、本書で述べるのは全体の均衡を目指す以上これだけでよしとする。他方、この地方の土地とナイル河そのほか聞きがいのある事項については、各項ごとに要約して述べるつもりである。¶
[30] 自然の防壁をめぐらせた国
(1) エジプトはおおよそ南向きに位置し、地形上の要害堅固であることと国土の美しいことでは、王国としての体裁を整えているほかの諸地方よりも、かなり優れている。
(2) 陸上の防壁 先ず、西側からはリピュア地方の無人の砂漠と野獣地帯が防壁となって、ひじように長く伸びると共に、水もなくあらゆる食糧が乏しいため、通過には骨が折れるだけでなく文句なく危険でもある。また、南向きの諸地域からは、ナイル河のいくつもの急流とそれに隣接する山脈が防壁となる。
(3) すなわち、トログロデュタイ(穴居)族の地方とエチオピア辺境地帯から、5500スタディオン(990キロ)近
くもの間を、河を通って舟航するのは容易でない。徒歩での旅も王室の出費か、それ以外なら文句なく大規模な費用負担でも手に入れない限り、不可能である。
(4) 旅人に危い底なし沼も また、東側へ向いた諸地域はその一部で河が防壁となり、一部を砂漠と沼沢状の平原「パラトラ」が囲む。コイレ・シュリア、エジプト双方の中間にひとつの湖沼があって、幅はまったく狭いが深いことは驚くほどで、長さは200スタディオン(三六キロ)も伸びる。その呼ぴ名はセルボニスで、地理に不案内なまま近付くと、思いもかけない危険が襲ってくる。
(5) すなわち、水域が狭く帯に似た形をしている廻りに砂が堆積しているので、南西風が吹きつづける時には何時でも大量の砂が襲いかかる。
(6) そして、砂は水の表面を跡形なく消して、湖を陸地とひとつづきになったような形にし、まったく見分げがつかなくする。それゆえ多数の兵も、この場所の特異な性質を知らないばかりに全箪共ども、定まった道を踏み迷って姿を消したことがあった。
(7) 砂はすとしずつ踏まれながら道をあけるが、上を歩いている人びとを、まるで何か悪意の摂理によるようにして迷わせる。そのあげく旅人たちは、いったいどんな結果が生じるかを推測してお互いに助け合うようになるが、その時にはもはや逃げ道もなければ助かる道もない。
(8) その時には、沼に呑みこまれていてしかも泳ぐことも出来ない。これは泥土が身体の運動を奪うことによるし、歩いて通り抜けも出来なくなるのは、足元に固いところがまるでないので、踏みしめようがないからである。砂と水気が混ざり、このため、どちら側もその本性が入れ換るから、結局この場所は徒歩でも舟でも通行できなくなる。
(9) だからこそ、このあたりに近づく人びとは、深みへ向かうと助かる手がかりがまったくないし、それというのも、身のまわりの砂が人といっしょに滑り落ちてくるからである。
上述の平原はこのような本性を持っているため、「パラトラ(穴原)」という似つかわしい呼び名をもらっている。
[31] 海も防壁
……
(2) 長い海岸線に港がひとつ 四番目の側辺は、……ほとんど港のない海が波打ち寄せていて、エジプト海に面し、外海は沿岸航路がこの上もなく長いものの、この地方へ上陸しようとしても船を寄せての停泊は難しい。リピュア地方のパライトニオンからコイレ・シュリア地方内のイオペまでの問、その沿岸航路は五、000スタディオン(九00キロ)に近いのに、パロス以外に安全な港を見つげることが出来ない。
(3) また以上の点を別にしても、エジプトのほぼ全域に沿って帯状の(砂)浜が伸びているが、近くを航行していても不慣れな者だと(海か陸かの)見定めがつかない。
(4) だからこそ、外海から来る危険を免れたと思っている人びとが、無知ゆえ喜んで陸地へ舟を向りながら進んでいると、とつぜん座礁して思いもかけず難破する。
(5) 時によると、土地が低いので陸地のあるのを予見できないまま、知らないうちに沼沢地や水たまり状の場所へ乗り上げたり、砂漠状の陸地へ乗り上げたりする。
(6) 人のあふれる国 エジプトは上述のような仕方で全面的に自然の防壁に守られ、その形は長方形で、海沿いの側辺が2000スタディオン(360キロ)、内陸方面へは約6000スタディオン(1080キロ)を遡る。
(6a) 人口の多さでは、古くは人の住む世界のうちで周知の諸地域をことごとく、はるかに抜いていたし、¶当代でもほかの何れの地域にも後れをとることはない、と思われる。¶
(7) 集落3万に700万人 すなわち古代には、地方内にあって名を挙げてよいほどの村や市が一万八千を越えた。その証拠に、これらが祭司による記録のなかに記載済みになっているのを見ることが出来る。また、ラゴスの子プトレマイオスの治世には三万を越す数が挙がっていて、¶この数は当代にまで変らず続いてきた。¶
(8) 国民全体の数は、話によると古くは700万を越えていたし、¶この数は当代でも〔300万より〕減っていない。¶
(9) それゆえ史書によると、古代の諸王もエジプトでは、大規模で驚異の的となる建造物を多くの人手をかけて設営し、自分たちの評判を永遠に記念するものとして残した。¶これらの記念物については細目を後ほど記録に載せるつもりだが、河の自然本性と土地ごとの特色については今([32]-[41] 内訳は、[32-[35] ナイル河の流れ; [35]-[36](6) ナイル河の動物; [36](7)-[41](9) ナイル川の増水)述べて行く。¶
¶[42] 本巻前半のテーマと以後のテーマ
(1) ……この課題全体への序説(c. [1]-[9])と、さらにエジプト民の間での物語として、宇宙の生成、万物が最初に形造られた次第(c. [11]-[12](10))、加えてそれぞれにエジプト地方で市を創建しその際自分の名に因んだ市名を作った諸神(c. [12](6); [15](1))、最初に生成した人間たちとその最古の暮し(c.[10])、不死を得た人びとへの栄典と諸神殿の造営(c. [11](1)-(4)? [13](1)? [16](1);[21](5)ff.)、ひきつづいてエジプト地方の地勢(c. [30]-[31]、ナイル河をめぐるいくつかの奇談(c. [32]-[41])……
(2) ……前分冊の内容に引きつづいての諸事項を述べて行く。そして、最初にエジプト地方で王となった人びとを扱い、これらの王の功業をひとつずつ取り上げてアマシス王にまで至る予定だが、これに先立ってこの地方民の最古の暮しぶりを取り上げておく。¶
[43] 太古のエジプト民の暮らし
(1) 太古の主食を神詣でに持参 エジプト民は古くは暮しの糧として、その一番古い時期には草の類や沼地に生える植物の茎と根を用い、その際それらをひとつずつ味見しながら経験を積んだ。最初の植物として、とりわり、かたくり草を摂ったのは、際だって甘いのと人びとの身体にじゅうぶん栄養となるからであった。
(2) この植物は、見たところ家畜にも口あたりが良さそうで、飼育を大きく加速させる。それゆえ、この植物についての利用法をも人びとは今日に至るまで覚えていて、神々の許へお参りする折にはいつでも、片手にこの植物を取って願いごとをする。すなわち、この人びとの考えでは、人間は沼や湖のあたりで生きる動物であり、その証拠に肌が滑らかなことなど身体上の自然本性がそうであるのに加えてなお、食べ物として、乾燥したものより水気を含むものを欲しがる。
(3) 河魚を食べる また、話によると太古のエジプト民には、二番目に特徴的な暮しぶりとして魚を食べる点がある。これは、河が魚をきわめて豊かに供給し、水位が上昇した後に水が減って干あがった折には、魚がとりわけ多いことによる。
(4) これとおなじく、家畜でもその一部を食肉用とし、食べ終ると皮を衣服に利用し、さらに葦を材料に家を建てる。これらの暮しぶりの跡はエジプト地方内の遊牧民の間に生きつづけている。話によるとこの民はすべて、今でもまったくこの草で作った家屋しか持たず、それというのもこれでじゅうぶんだと思っているからである。
(5) 蓮の実のパン 太古の人びとは長い間この暮しで通して来たものの、最後には食用になる草木の実へ移り、これらの実のなかには蓬の実を材料にしたパンもあった。これらの果実類の発見は、一説によるとイシスまで遡るが、古代の王のひとりメナスまで遡るとする説もある。
(6) また、祭司たちの物語る神話によると、教育や技術の諸分野の発見者となったのはへルメス、暮しに必要な事物の発見者は王であった。それゆえ王国を引き継ぐのも、先に治めていた王たちの子孫ではなく、大衆に一番多く一番偉大な功労を尽した人びとであった。一般の人びとは、自分たちの上に立つ王たちに、公共のための功労を尽すよう促すか、あるいは実際に神聖記録のなかに、上記のような話を伝えてもきた。
[44] 5000年に500人の王
(1) 祭可の神話によると、歴代の王の一部は最初神または英雄で、これらが王としてエジプトを治め、その間18000年にすこし足りない歳月が流れた。これらの神(王)の最後がイシスの子ホロスであった。人間が王となってこの土地を治めていたのは〔モイリス王以来〕、話によると5000年にすこし足りない間で、¶その最後が180オリュンピア期年(前60/56)にあたる。そして、この期年にわたしどもはエジプト内へ足を踏み入れ、その時の王であったのがプトレマイオス(12世)王で、「新デイオニュソス」の称号を受けていた。¶
(2) 異民族による支配は500年 5000年の間のほとんどを地元出の王が支配権を抑えていたが、わずかの間だけはエチオピア、¶ペルシア、マケドニアそれぞれの王が抑えた。¶エチオピア出の王は四人が統治したが、引きつづいてではなく間が空いていて、合計36年にすこし足りなかった。
¶(3) 135年、ペルシアが征服;(4) 276年、マケドニアが征服。(4a) 残りの期間中を通して終始、地元出の人がこの地方の王の座につき、その間男王470人、女王5人である。祭司たちはこれら王を一人残らず記録して来たし、記録は神聖な書巻のなかに、古くから終始そのつどの後継祭司たちの手で伝えられて来た。内容は、王となったものはそれぞれどれだけの身長があったか、天性どのような人であったか、それぞれが自分の在位期間にどんな功業を行ったか、からなっている。
¶(5) しかし、本書で、それぞれの王ごとにその功業をひとつずつ記述すると、長くもなる上に行き過ぎにもなろうし、それというのもこのほとんどの所業は、本書に取り入れても役に立つまいからである。だからこそ本書では、歴史として価値のある功業のうちで、最も重要な意義を持つ事柄を、要約して述べて行くようにするつもりである。¶
[45] 初代の王とテーバイ建設の王
(1) 贅沢を教えた初代王 話によると、諸神のつぎにエジプト初代の王となったのはメナスで、王は人民に、諸神を拝み供犠を執り行うこと、加えて食卓と寝台を置き高価な敷物を使うこと、総じて賛沢と金ばかりかかる暮しを取り入れること、を教示した。
(2) それゆえ、数多くの世代を経た後に、賢者ボッコリスの父トゥネパクトスが王位について、アラビア地方へ遠征したが、その折敵地が無人の砂漠で行軍に困難な土地だったため、必要とする品が不足した。そこで、止むなく一日だけ何もなしに過ごした後、たまたま出会った民間人のなかの何人かの家で、まったく質素な食べ物を調達しこれをひじように喜ぶと、賀沢を軽蔑し、金ばかりかかる暮しを最初に教示した王に呪いをかけた。そして、飲食物や寝床についての考えを変えようと心に決めたあげく、この呪いの一言葉をテパイにあるゼウス神殿内へ、神聖文字をもって書き付けさせた。そして、まさしくこの事がとりわけ原因となって、メナス王の評判と後世この王に向けた栄典は、持続しなかったように思われる。
(3) 伝承によると、このつぎに統治にあたったのが今述べた王の子孫たちで、その数52、在位期間を全部合わせると1040年を越える。ただし、その間に記録に値する功業は何ひとつなかった。
(4) テパイ建設の王 その後プシリス王が即位し、この王からふたたびその子孫八人が王となった。最後の王は、話しによると初代の王と同名で、エジプト民がディオス・ポリス・メガレ(ゼウスの大市)、ギリシア人はテパイと呼ぶ都を創建した。そして、市の周壁の基礎を140スタディオンにわたって据え、巨大な建築物や法外な大神殿で、驚異の的となるほどに飾った。
(5) おなじく、一般住民の家屋をも四階建て五階建てにして築かせ、総じてこの市を、エジプト地方の市だげでなくそのほかのあらゆる市のなかでも、最高に繁栄させた。
(6) ホメーロスもうたった百門の市 この市に集った富と力が群を抜いていたため、その名声があらゆる地域へ広まって行ったので、話によると詩人も、つぎのような詩行のなかでこの市にふれ(Il. IX, 381-4)
あるはエジプトの
テーパイの富、 あの家毎にとても沢山財宝が納まって
また百の城戸がそなわり、その各自を二百人ずつもの武士が
馬や車の数を尽して出てゆくというその都だとて、
(7) 一説によると、市に100の城門があったのではなく、神域の表門の大きいのが数多くあって、ここから「百の城戸」の名が付いた。いわば「あまたの門」というのとおなじようなものである。また、実際に戦車二万がこの市から戦に出陣した。メンピスからリピュア地方に面したテパイまでの河沿いに、駅亭一OOを数え、駅亭ごとに馬二OO頭づつを収容し、この馬群のための小屋は今なお所在を知らせてもらえる。
[46] 大都テーバイの建造物
(1) わたしどもが教えてもらったことだが、この王に限らずこの王より後に統治した王たちも多くが、この市の発展のため功を競い合ってきた。銀や金さらには象牙を使った奉納物の大きなのを数多く供え、巨像群を据え、加えて一枚石造りのオベリスクを築いた。これほど見ごとに飾った例は太陽の下にある市のなかにひとつもない。
(2) 市最古の神域の壮観 神域は四つ造営されたが、そのうち最古のものは美しさと大きさ共に驚異の的で、周囲13スタディオン(2.3キロ)高き週5ペキュス(20メートル)、囲壁の幅は24プース(7.2メートル)に達する。
(3) さらに、域内を飾る奉納物もこの壮大さに似つかわしく、また製作費でも驚異の的となり、技から見ても入念をきわめている。
(4) 建物群は近年までその姿を留めていたが、銀や金で造った像と、象牙や貴石を使つての高価な奉納物は、ペルシア民が掠奪してしまった。カンビュセス王がエジプト方面の諸神域へ火をかけた折のことであった。話によると、ちょうどこの時ペルシア民はこの富をアジアの方へ移し、エジプトから職人たちを迎えてペルセポリス、スサそのほかメディアにある、音に聞く王宮群を築いた。
(5) エジプト祭司たちの主張によると、当時のエジプト方面にはこれほど大量の財貨が生み出されていた。そして、そのおかげで、神域掠奪の折に焼け落ちた残骸のなかから、すこしずつ集められた財貨は、金が300タラントン(6トン)以上、銀は2300タラントン(47トン)を下らないほど、見つかった。
(6) 王墓47基も無比の規模 話によると、古王たちとそれらより後代の諸王の墓も、この地にあって驚異の的であり、これらに匹敵する域に達しようと競い合うとしても、追い越す余地はないほどである。
(7) 祭司たちが述べたことがあったが、それによると記録から見て王墓は四七基存在したことがわかっている。そして話によると、ラゴスの子プトレマイオス王の治世まで残っていたのは17基に過ぎず、¶しかもその大半は、わたしどもがそれらの場所へ足をふみ入れた頃には、崩れ去っていて、これが第180オリュンピア期年にあたる。¶
(8) また、記録を手がかりに歴史を述べているのは、何もエジプト祭司たちに限らない。ギリシア人でも、ラゴスの子プトレマイオス王の治世に、テパイに足を踏み入れエジプト史をま(3)とめた人びとがいて、ヘカタイオスもそのなかのひとりだが、これら史家も本書での上述の説に賛同している。
[47] 豪華をきわめた王墓
(1) 色大理石の大門 ヘカタイオスによると、最初期の墓にはゼウスの側室たちが葬つであると伝えるが、これらの墓から10スタディオン(1.8キロ)離れたあたりに、「オシユマンデユアス」王墓が位置していた。そして、この墓の入口に面して色模様のある石造りの大門が位置して、その長さ2プレトロン(60メートル)、高さ45ペキュス(20メートル)に及ぶ。
(2) 人像柱の廊 これを通り抜けると方形の石造周柱廊があって、一辺がそれぞれ4プレトロン(120メートル)に達し、円柱代りに、人物像の16ペキユス(7メートル)長で一枚石造りなのが支え、像形は古風である。さらに、屋根は全体が幅二オルギュイア(三・六メートル)の一枚石で、(表面には)暗青色の地に星がちりばめである。この廊に引きつづいてもうひとつ別の入口と大門があり、門はいったいに前記の門に似かよっているものの、あらゆる種類の浮彫がさらにびっしりと施してある。
(3) 王たちの像 入口に沿って人体像が三体、すべてシユエネ産黒御影の一枚石から出来ている。なかの一体は坐形で、エジプトにあるすべての像のなかでも一番大きい像に属し、像の脚部を測ると七ペキュス(三・二メートル)を越える。ほかの二体は、この像の膝のそばにあたって一体はその右、もう一体が左に位置し、それぞれ娘と母の像、大きさでは何れも最初
の像に及ばない。
(4) 中央の像は、大きさの点で認めるに足るだけでなく技巧一週でも霊異の豹で、石材の賓で茸貯を筆ρていることは、これほど大きいのに、ひぴ、しみが一筒所も見られないほどである。像の表面には、「われは諸王に王たるオシュマンデュアス。もし人あって、我が偉大きのほどを知り何処に眠るかを知ろうとすれば、我が作りし物のひとつにでも勝って見よ」と刻んであった。
(5) 王の母の像はこのほかにも、ひとつ離れてあり、20ペキユス(9メートル)高の一枚石、頭上に王冠三箇を乗せ、この冠(の数)によってこの女人が、王の娘とも委とも母ともなったことを示している。
(6) 総浮き彫りの第3廊 この大門のつぎに周柱廊があって、先述の廊よりさらに話がいがあり、その内部にはあらゆる類いの浮彫があって、王がパクトラに拠る反乱者に対して起した戦の模様を示す。この敵へ向け遠征したのは歩兵40万騎馬二万で、全軍が四つに分けられ、そのすべての指揮を王の息子たちが取った。
[48] 第2廊の装飾彫刻
(1) 獅子を連れて戦う王 屋内壁の最初あたりにもこの王が彫り出してある。王は河を廻らせた城壁を包囲し、一頭のライオンを連れて敵陣の兵たちへ向かい先頭を切っていて、この動物は恐ろしい様子で戦闘に加わっている。この動物について解説してくれる人びとのなかには、この王がこの動物を真実に飼って手なづけていたので、動物は戦になると王と共に危地に赴きその猛々しきのため相手方を退却させていた、と話した人びともあった。なかには、王が人並はずれて勇猛でもあり、御多分に洩れず自分を賛め称えようとして、ライオンの像を通して自分の心映えの様を示そうとした、と史実を語っていた人びともした。
(2) 捕虜の列 二つ目の屋内壁には、捕虜たちが王に引かれて行くのが浮彫しである。捕虜に男根と両手がついていないのは、これを通して、捕虜の心が男らしくなく、危地に臨んで力戦すべきところを手も出せなかったことを、示しているように思われる。
(3) 凱旋行進 三つ目の壁には、あらゆる種類の浮彫像が光彩を放つ画となり、これらを通して示しているのは、王の牛供
犠と戦から帰還する際の凱旋行進である。
(4) 廊の中央には野天の祭壇一基が築いてあり、極上の美しい石材を使い彫刻技術も抜群で、大きさでも驚異の的である。
(5) 奥室入口 最後の壁面に面して人像が二体、何れも坐形で一枚石造り27ペキュス(8.1メートル)高、これらの像のそばに廊からの入口が三つ設けてある。入口に面してひとつの部屋があり、その天井を殉柱が支え音楽堂様式に築いてるヲ(3)
て、各辺2プレトロン(60メートル)になる。
(6) この室内に一群の木造人像があって、その双方の主張が括抗し裁きを下す人びとの方を向く様を、示している。裁判官の像は壁面のなかのひとつの面上に彫り込まれて、その数は30にのぼり、中央に主席裁判官が首から「真理」を吊し、両の眼を閉じ、そばには書巻が山と置いてある。これらの像がその姿形を通して教えているのは、裁判官たちが贈物を何ひとつ受け取らず、主席裁判官は真実だけを目指す、ということである。
[49] 暮らしの部屋群
(1) それにつづいて遊歩道があって、道沿いにはあらゆる種類の家屋が満ち、家ごとにあらゆる種類の食べ物の究極の御馳走となる品が、用意してある。
(2) また、ちょうど遊歩道のあたりで浮彫の彩色像に出会うことが出来る。(そこでは)王が花冠を戴き神に金銀を捧げているところで、これらの金銀をエジプト全土の金鉱銀鉱から、王が毎年受け取っていた。浮彫の下方にはその量も記しであって、総額を銀に換算すると三、200万ムナになる、とある。
(3) 書庫 これにつづいて神域書庫が位置し、庫の上方には「魂の治療所」という文字が彫つである。この書庫に引きつづいてエジプト中のあらゆる神の像が並び、王は先とおなじく神ごとにふさわしい贈物を捧げている。そのさまは、あたかもオリシスとそのそばに席を占める地下の神々に向かって、自分が人と神の何れに対しても、神を拝み正しく振る舞いながら生涯を全うしたことを、明示しているようである。
(4) 書庫との共有壁を持つ部屋が設りであって、二Oの寝台を備えて飾り立てられ、そこにゼウス、へラ両神像と、さらにはこの王の像もあって、この室内に王の遺骸も葬つであったように思われる。
(5) 墓室天井の天球図 また、この室を囲んで一群の部屋が設けてあり、これら室内には、エジプトで供犠されるあらゆる種類の動物の絵像の、きわめてりっぱなのがある。そして、これらの室を経由して墓室全体へ向かう階段があって、これを通り抜けると墓の上方に出る。墓には黄金造りの丸天井があって周囲三六五ペキュス(一六四メートル)、厚さ一ペキュス(四五センチメートル)である。そして、一年中の一日一日が刻んであって一ペキュスごとに区分され、その際、星が本来行うような昇降が書き加えてある。またこれには、出没の結果として完成される季節の印も、エジプトの天文家たちの説に従って加えられているo'Jか‘J話によると、こ乃天井はカンピュセスの率いるペルシア勢が、この王がエジプトを征服した折に、掠奪してしまった。
(6) オシュマンデュアス王の墓は上記のようなものだったという話で、……。
[50] 王とメンピスの建設
(1) テパイの民によると、自分たちが全人類のなかで最古の人間であり、さらに自分たちの間ではじめて、哲学と詳しく正確な形での天文学の何れもが、考え出された。これは、同時にこの土地が自分たちに協力して、星が昇ったり沈んだりするのを、ほかの土地より一段とよく遠見できるように、してくれたことによる。
(2) また一か月や一年間をめぐっても、自分たちが独自にその配分を行った、という。この人たちは、1日を月でなく太陽の動きに従って扱って、その際1か月を30日間と定め、さらに12か月に5日と1/4日を加え、この方法で一年の周期を満たしている。しかし、閏月を持たず日数をも引かないところは、ほとんどのギリシア人の慣行に似ていない。また、日蝕月蝕については詳しく正確に観測しているように思え、これらの現象について予告するし、しかも部分食もことごとく予言して誤ることがない。
(3) 要害の地勢 この(プリシス二世)王から八代目の子孫〔で父名に因んだ〕「ウコレウス」王はメンピスの市を創建し、これは市としてはエジプトでもっとも名高い。王はこの地方で一番の地の利を得た場所を選んだ。すなわち、ここでナイル河はいくつかの支流に分かれると、その形に因んだ「デルタ」を形成する。それゆえ市は、都合よく港口の仕切り壁のような地点に位置して、上流地帯へ遡航する人びとを支配することにもなった。
(4) 周壁建設の工法 王は市の周壁を150スタディオン(27キロ)にわたって造り、その堅固さと使いやすさは驚異の的となったが、王はその際何かつぎのような方法でこれを築した。
(5) すなわち、ナイル河は市を取り巻いて流れ、水位が上昇する頃には市が浸水するので、南側から市の前方にきわめて大きな堤防を備えて、河の増水への防壁とし、陸上からの敵に対しては高い砦とした。そして、そのほかの区域では、そのすべての方角から大き〈漂い泡を握9、この濁ar河の極左んどのS分を取りこんで市の周辺地域をすべて満たした。例外は堤防が築いであった方面だけで、これによって市の堅固さを驚くほどのものにした。
(6) メンピス王都となる 市の建設者はこの地域の地の利を狙い、それがこのようにりっぱに当った結果、これにつづく諸王はほとんどすべて、テパイを捨てると新市内に王宮をはじめとする建物を造った。だからこそ、この時期から後テパイ一帯はその地位が低下し、メンピス一帯は発展してアレクサンドロス大王の時代に至った。
大王は海辺に自分の名をとった市を創建したので、これにつづいて王位についたものはことごとく、競ってこの新市の発展を目指した。
[51] モイリス湖を築いた王
(1) メンピスの建設者は堤防と湖を築いて後王宮を建てたが、これはそのほかの(国の)それにくらべれば遜色ないものの、この王以前にエジプトの王位についた人びとの、壮大な心映えや美しさへの愛好心に、敵うものではなかった。
(2) 旅の宿と永遠の宿 地元エジプトの人びとは、現世の暮しの間の時をまったく価値の低いものだと見なし、死後の時は、それが優れているため記憶に留められるであろうとして、これを最も重視する。また、現世に生きる人びとの住居を「旅の宿」と名付けているところは、わたしたちがこの家には、わずかの間だけ住むのだ、とでもいいたげであり、死者の墓を「永遠の家」と呼ぴならわしているあたりは、死者が冥界で終りない永遠の間を過ごし通すかのようである。だからこそ、人びとは家に備える調度品を軽現し、墓については見栄を張りつづけて止めようともしない。
(3) 一部の話では、上記の市名は建設者である王の娘からとった。また説話があって、ナイル河神がこの娘を好きになり、雄牛に姿を変えると産ませた子がアイギュプトスで、これが地元民の間で徳のある人だと驚異の的となり、この子に因んでこの地方全体もその呼び名をもらった。
(4) この子は、支配権を受け継いで王となり、人びとに親切で正義に基き、総じて万事に熱心な王であった。それゆえ、この王が誠意を示すのを見て、誰もが(王の名を国名とすることに)心底賛同するに足る王だと判断したため、王は今述べた栄典を手にした。
(5) モイリス湖を築いた王 この王より12代ほど後に、エジプト地方の支配権を継いだのがモイリスで、メンピス市内に北大門を造営し、門はその壮麗なことではほかの門をはるかに抜いていた。また、市より上流へ10スコイノス(110キロ)離れて湖を掘り、湖は有用さゆえ驚異の的で、その事業の大きいことは信じられないほどである。
(6) 話によると、湖は周囲3600スタディオン(六四八キロ)に及び、深さはほとんどのところで50オルギュイア(90メートル)にもなる。このため、この築造物の大きさを集計しようとしても、どれだけの人間がどれだけの年月をかけてこの事業を完成させたかを、推測する見込みの立つ人はあるまい。
(7) この湖からする効用、エジプト住民が共通して受ける収益、さらには王の着想、をことごとく賞賛しても、誰ひとり真実にふれるまでには至るまい。
[52] 豊かな湖に水門とピラミッド
(1) ナイル河の水位の上昇の度合いは決ったものではなく、しかも、土地は川の水位に相応しながら収穫をもたらしていたので、王は溢れ出る水の受け皿にするため湖を掘った。これによって、流水が多いため度外れの冠水を起して、土地を沼や湖にしてしまうこともなく、また、増水が有効度に達しないため水不足になって、穀物に被害を及ぼすこともない、というようにしようとした。
(2) 湖口水門の開閉装置 また、王は河から湖へ入る運河を築いたが、とれは長さ八Oスタディオン(一四キロ)幅三プレトロン(九0メートル)であった。そして、これを通して河の水を受け入れたり排出したりして、耕作者たちに適度な水を供給する。その際、運河の入口を聞いてはふたたび閉じるが、この装置には技術を凝らし、その費用も大へんなものであった。この施設を開閉しようとすれば、必要経費が五Oグラントンを下らなかった。
(3) 湖はエジプトの人びとに利便を供しつづけて¶今日にまで至り¶、この運河を築いた王の名に因んだ呼び名が付いて、今に至るまでモイリス湖と呼んでいる。
(4) 湖中のピラミッド墓 王はこの湖を掘った際その中央にひとつの場所を残して、このなかに墓と二基のピラミッドを建て、一基を自分の、もうひとつを妻のものとした。ピラミッドは高さ一スタディオンこ八0メートル)で、何れにもそれぞれ上部に、玉座に坐した石像を据えてある。これは、王がこれらの事業を通して、善行への記念を不滅のものとし自分の死後に残すべきだ、と考えてのことであった。
(5) 王は湖からの漁から生じる収入を妻に与えて、香油と装身具の支出に当てさせたが、これは漁が毎日銀一グラントンをもたらすからであった。
(6) 豊かな漁 話によると、湖には22種類の魚が住み、捕れる量もひじように多いから、塩漬魚加工に従事する人びとがきわめて多いのに、仕事がなかなかに片付かないほどである。モイリス湖について、エジプト民は以上のようにその歴史を語っている。
[53] 夢告から出た王子教育
(1) 話によると、セソオシスはこの王から七代ほど後に王となって、自分の代より以前の事業のなかでも、最も名高く大規模な事業を完成させた。しかし、この王についてはギリシア系の史家たちが、お互いに異論を立て合っているのに加えて、エジプト人のなかでも祭司と、賛歌を通してこの王を賞賛する吟読者の何れもが、これまた、その話のなかで意見の一致を見ていない。従って本書でも、最も納得できそうなことや、今なおこの地方に現存する遺跡に最もよく適合することを、述べることにしたい。
(2) 学友に囲まれて王者教育 この王が生まれた頃、父王は壮大で王者にふさわしいひとつの事業を行った。すなわち、おなじ日に生まれた子供をエジプト全土から集めて、養育係と訓練にあたるための人びとを付けると、全員におなじ学習・教育を課した。これは、とりわけいっしょに育ち、おなじ会話に加わって遠慮なく話して来た人びとは、お互いにこの上なく好意を持ち、戦場では最も優れた戦友になるだろう、と思ってのことであった。
(3) そして、必要な物は何でも惜しみなく供給した上で、子供たちに一連の体育や訓練を課して鍛え抜いた。180スタディオン(32キロ)を走らないうちは誰ひとり、食べ物をもらうことができなかった。
(4) それゆえ、成人した時には誰もが、身体面では力強い運動選手となり、精神面では指導力を備えた不屈の人間となったが、これは、最も立派な訓練科目を学習した結果であった。
(5) 学友が遠征軍の中枢に セソオシスは最初、父王から派遣され、軍を率いてアラビア方面へ向かい、その際いっしょに育ててもらった仲間もこの遠征に加わった。そして、野獣狩りに苦労し、水が無く食料に乏しいのを耐えて、アラビア内の全族民を征服したが、この族民にはそれまでの問、他族民に隷属した歴史がなかった。
(6) そのつぎに、西方諸地域へ派遣されてリピュア地方のほとんどを切り従えたが、この時当人は年がまったく若かった。
(7) 父王が生涯を終えると王権を継承し、それ以前になしとげた諸功業によって意気さかんになると、人の住む世界(のすべて)を手中にしようと企てた。
(8) 娘が預言者 一説によると、王は自分の娘アテュルティスに勧められて、全世界の支配者の地位を求めた。娘は、その利発なことでは、ほかの人びとをはるかに凌ぐほどだったので、父王に遠征は楽に進むだろうと教えたといい、一説に、予言術を用い、将来起きることを予知していたから教えたともいう。予知は供犠占い、神域内での眠り、さらには天空に生じ
る吉凶の予兆を基としていた。
(9) 一部の記録によると、セソオシス誕生の折、父王は夢にへパイストスが自分に向かって、今度生まれた子は人の住む世界をことごとく支配するだろう、と語ったように思った。
(10) それゆえこれが原因で、父王はわが児と同じ年の子供たちを集めて、王子並みの学習を受けさせるのが良い、と判断し、全世界を攻めるための準備を前もって行い、当人の方は成人すると、神の予言を信用して上記の遠征へと下った。
[54] 世界征服の準備
(1) 民衆の好意を願う王 そして企てに資するため、まずエジプト内のすべての人びとが、自分に対して好意を持つよう下準備した。これは、いっしょに遠征する兵たちに、自分たちを指揮するものたちのため死ぬ心構えが出来、後に残る人びとが祖国に対して反乱を起すことがぜったいにないことが、自分の選んだ目的を成就するつもりでいる限り必要だ、と見なしてのことであった。
(2) それゆえ、誰に対しても出来るかぎりの恩恵を与え、その折相手によって、あるいは財貨を施与しあるいは土地を与え、ばあいによっては懲罰を免除するなどして、じゅうぶんに面倒を見ていた。また誰とでも交わり、その振舞にも人あたり好くして、すべての人びとを取り込んでいた。すなわち、王に関する罪で告発を受けた人びとをすべて無罪にし、銀貨の負債で獄に入った人びとに対しては苦役を免除した。負債で獄中にいた人びとはじつに多かった。
(3) 兵と税集めの工夫 また全土を三六に区分し、エジプトではこの区画を県(ノモス)と呼んでいるが、これらすべて
の県にその長(ノマルケス)を付けて、王に属する収入取り立てを監督させ、それぞれの区画ごとの諸案件を管理させることとした。
(4) また、男子のなかから体力に優れた人びとを選抜して、計画の規模に相応する遠征軍を組織した。すなわち、歩兵六O万、騎馬二万四千、戦車二万七千を登録した。
(5) そして、部隊ごとの兵の指揮には、いっしょに育った仲間たちを配した。仲間はすでに軍事にりっぱな経験を持ち、少年時代から優秀さを競い合って来た間柄で、王に対しても仲間同士でも兄弟並みの好意を抱き、その数はて七OOを越えていた。
(6) 王は今あげた仲間にひとり残らず、一番優れた土地を分配してやり、これにより、じゅうぶんな収入を得て何ひとつ不自由ない身で軍事訓練を行うようにしてやった。
[55] 遠征の順路
(1) エチオピア征服 王は軍を整備すると、最初の敵として、(エジプトの)南方に住みついているエチオピア民への遠征を起し、これを会戦に破って、族民に黒檀、金、象牙を貢納するよう強いた。
(2) そのつぎには、エリュトラ海へ向け四OO隻からなる軍船団を派遣したが、その際エジプトの地元民としては、はじめて大型船を建造した。そして、この地域内の諸島を手中に収め、大陸側の沿岸諸地域を征服してインド地方に達し、また、自分で軍を率いて陸路を進軍した後、アジア全土を征服した。
(3) すなわち、後にマケドニアのアレクサンドロスが征服した地方を攻めたのに加えて、後者がその土地へ近付かなかった諸族をも一部攻めた。
(4) インド遠征 すなわち、ガンゲス河をも渡り、インド全土を攻めて太洋オケアノスにまで到り、またスキユティア諸族を攻めては、ヨーロッパ、アジア両大陸の境を限るタナイス川に到った。話によると、まさしくこの時エジプト軍が一部マイオティス湖周辺に残されて、コルキス族を形成した。
(5) この族民がエジプト族の出だということは、男子がエジプトの住民と似かよった形で割礼を施していることが、その証拠となる。これは、移住民の間でこの仕来たりが維持されているためで、この点はユダイア族の間でも同様である。
(6) 王は同じく、残りのアジア全土をキュクラデス諸島の大部分でも、住民を従属民とした。また、タナイス川を渡ヲてヨーロッパに入り、トラキア地方全域を通過しながらも、食料が乏しいのと進軍に困難な土地柄のため、危く軍を見捨てるところまで行った。
(7) トラキアで遠征をやめる だからこそ、王はトラキア地方で遠征を終結させると、自分が征服した数多くの地域に戦勝柱を建てた。標柱にはエジプトの神聖文字で銘が入り
この地を自らの武器によって征服したのは
諸王に王たり諸君主に君たるセソオシス
(8) 王が建てた標柱には、戦に強い族民の地には男根、素姓に劣り臆病な族民の地では女陰を、それぞれ入れてある。これは、それぞれの族民の心構えを、その子孫たちに一番はっきりとわからせるには、人体のなかでも一段と大事なところによればよかろう、と思つてのことであった。
(9) いくつかの場所には自分の姿の石像を建てた。像は弓と槍を持ち、像高は四ペキュスより四パライステほど高く(ニ・一メートル)、当人もちょうどおなじ身の丈であった。
(10) 莫大な富を手に凱旋 王は、軍門に下った族民をすべて寛大に扱い、遠征を九年の間に終らせると、(被征服)諸族民には、それぞれのカに応じて毎年エジプトまで貢納するよう命じた。そして、自分は捕虜とそのほかの分揺り日閣を、こねまで類を見ないほど多く集めて恒国へ帰還し、このようにして、自分より以前の功業のなかでも最大の功業を、やってのけた。
(11) また、エジプト内の神域をことごとく、話のたねになるほどの奉納物や戦利品で飾り、兵士のなかで勇敢に振舞ったものたちには、武勲に応じて賜り物を下して表彰した。
(12) 総じてこの遠征の結果、共に勲功を立てた軍は、莫大な富を手にして凱旋を華やかなものとしたのと共に、エジプト全土をあらゆる種類の戦利品で、いっぱいにすることにもなった。
[56] 捕虜を使って神殿建設
(1) セソオシス王は、大衆を兵役から解放して、共に武功を立てた兵たちを安楽に暮させ、戦で手に入れた財貨を楽しみのために消費させた。そして、自分は評判の的となり永遠に記憶されることにあこがれて、着想と費用の何れでも、壮大で驚異の的となるほどの建造物を築き、これら建造物によって自分には不滅の名声が手に入り、エジプト民には、時の続くかぎり安楽なままの泰平が手に入るようにした。
(2) 諸神殿造営 先ず神々のことからはじめて、エジプトのあらゆる市のなかにそれぞれの住民の間でとりわけ大事に肥る神の神殿を築いた。しかも、建築のためにエジプト民をひとりとして受け入れることなく、ほかならぬ捕虜を使っていっさいの建築を行った。だからこそ、何れの神域にも地元民はひとりとして建物の造営に苦しむことはなかった、と銘記した。
(3) 捕虜の町 話によると、捕虜のなかでもパビュロニアからの囚人は、工事中の難儀さに耐えかねて王に対し反乱を起した。そして河沿いにあたって守るに堅固な地点を占領すると、エジプト民と戦を交え近隣の土地を荒らし、ついに免罪を与えてもらって当の場所に住みつき、祖国に因んでここをパビュロンと呼んだ。
(4) これと似たような理由でトロイアという地名も決まったといい、この名の地は今もなおナイル河畔にある。
メネラオスがイリオンから多くの捕虜を連れて航海に出ると、航路を外れてエジプト地方へ行った。その折、トロイア人たちがこの王に叛いてとある場所を占領し、戦いつづけてついに身の安全に同意を得たので、一市を建設して祖国とおなじ市名にした。
¶(5) 今あげた両市について、クニドスのクテシアス(III C)がこれとは違った形で歴史を述べたことを、わたしは知らないわけではない。その説によると、両市を建設したのは、セミラミス女王に連れられてエジプトまでやって来た捕虜の一部で、……¶
[57] 水陸の大土木工事も
(1) セソオシス王は大きな土盛丘を数多く築くと、自然の地形上その地盤(の高さ)が適切でないような状況にある市を、ことごとくそのなかへ移し、これによって河の増水期に、人と家畜の何れもが安全に避難できるようにした。
(2) 運河網を造る さらに、メンピスから海へ向かっての地方全域にわたり、河から運河を立て混むばかりに掘って、穀物の取り入れが近路を通って楽に行われ、民衆が互いに行き来するにもどんな場所で(暮すに)も楽になり、楽しみごともひじように多くなるようにした。また最も重要なことだが、外敵の侵入に対してこの土地を、守りに堅固で侵入しがたいものとした。
(3) これ以前までは、エジプトのなかでも一番優れた土地はどこでも、馬を騎るのに便利で二頭立ての車も通りやすかった。しかし、その時以来、河から数多くの運河が出来たため、この上なく侵入し難くなった。
(4) また、エジプト地方のうちで東へ向いた辺りにも、シユリア、フェニキア両地方からの侵入に備え、ペルシオンから無人の砂漠を経由して、へリウ・ポリスまでの間に防壁を築き、その長さはて五OOスタディオン(二七0キロ)に及んだ。
(5) 巨大オベリスク奉納 杉材の軍船をも造らせ、船は全長280ペキュス(126メートル)、表面は外側に黄金を貼り内側を銀被せにした。そして、これをテパイでとりわ砂大切に記る神に奉納し、あわせて硬い石で作った石造オベリスク二基を納めた。塔は高さ一二Oペキユス(五四メートル)、その表には軍隊の規模と収入の大きさ、そして戦に破った諸族の数が、刻んである。メンピス市内には、へパイストス神域に何れも一枚石の石像を納めた。そのうち、自分と妻の像は高さ三Oペキユス(一四メートル)、子供たちのはこOペキュス(九メートル)で、その由来はつぎのような偶然の出来ごとにある。
(6) 王弟の裏切りにも命拾い この王が大遠征の後エジプトに帰還して、ペルシオンあたりに滞在していると、王の兄弟が王をその妻子ともども招待しておいて、陰謀をたくらんだ。すなわち、酒宴が果てて一同が眠りについている間に、以前から枯れ葦を大量に準備して置いたのを、夜の間に幕舎の周りに立てかけると火を付けた。
(7) 火が不意に燃え上ったので、王に仕える役の人びとが、まるで酔っ払いのように、はしたない格好ながらも助げにやって来た。王は両の手を伸ばし、妻子を無事にお守り下さい、と神に祈ると、炎の中を外へと逃れた。
(8) そして、ふしぎにも無事に逃れた後、どの神々にもお供物をして-記ったことは、最前も述べたとおりだが、何にもましてとりわけへパイストスを杷ったのは、この神の手で命拾いが叶ったからであった。
[58] 後世に残る名声
(1) 諸国の首長を馬代わりに この王をめぐる出来ごとは数も多く大がかりなものだったが、その王にとって最も壮麗だったのは、王が行幸する時の(属国の)支配者たちに対する、扱いの模様であったように思われる。
(2) 戦に破れ去った族民のなかには、(従来の)王権を承認してもらった例もあり、そのほかの族民でも、最大限の主権を授かっている例もあるが、これらの首長は定まった時期に贈物を持参して、エジプトまで顔を出していた。ふつうの時には王は、これらの長を引見して丁重に扱い、格別上席につかせる。しかし、神域や市へ赴く予定の際には、四頭立て戦車から馬を解き放し、代りに王とそのほかの首長を四人、くびきの所につけることにしていた。王が万人に示そうとしていたのは、自分が、ほかの族長のなかで最も権力を持ち武勇の徳の高さでも一番際立っている首長たちをも、戦に破ったからには、その徳の競争で自分と比べることの出来るものは誰もいない、ということであった。
(3) 思うにこの王は、権力、戦での功業、奉納物とエジプト内に築いた土木建築物の数と巨大さ、にかけては、かつて世に出た王の何れをも完全に凌いでいた。そして、三三年の在位の後み.すから選んでその生涯を終えたが、これは失明したことによる。王はこの行為によって、祭司たちに止まらずそのほかのエジプト民の間でも、驚異の的となった。これは王が、自分のなしとげた諸功業が示すその器量の大きさに見合う形で、生涯に終止符を打つということを行った、と人びとが判断したことによる。
(4) ダレイオス王も認めた功業の規模 この王の評判はこひじように根強く長い間続いたあまり、つぎのようなことが生じるまでになった。
この王より何世代をも経たはるか後代に、エジプトがペルシアの支配下に焔った折、クセルクセスの父ダレイオス王が、メンピス市内でセソオシス王像の前に自分の像を建てようと、躍起になった。ところが、祭司たちの集会の席で祭司長が自説を述べて反対し、その際の主張によると、ダレイオス王は未だセソオシスの諸功業を凌いだことがなかった。しかし、ダレイオス王はこれに腹を立てようともせず、逆に率直な話しぶりを喜ぶと、自分があの王とおなじ年だけ生きた折、何ひとっこの王に後れを取ることのないよう努めようと述べ、両王それぞれに年齢上相応した時の功業を比べるよう求めていた。徳についての論証としては、これが一番正しいものである。
¶(5) セソオシス王については上記の説明でじゅうぶんだとしよう。¶
[59] 貞婦の尿で失明から回復した王
(1) 王の息子が王権を継承し、父王の呼び名を自分にもつけたが、軍事をはじめどんな分野にせよふれがいのある功業を何ひとつ成就しなかった。とはいえ、ただひとつ特別な思いもかけぬ出来ごとに見舞われた。
(2) すなわち視力を失ったからで、これが父王とその体質に共通点があったせいか、それとも一部の神話作家が述べるように河に不敬を働いたせいか、はわからない。かつて河中で嵐に遭った折、流れて来る水中へ槍を突き入れたことがあった。ともかく、不幸に見舞われたので止むなく諸神の御加護を乞いに走り、じゅうぶんに長い間この上なく多くの供犠や祭典を捧げて、神意をなだめていた。しかしそれでも、神の配慮をかち取ることはまったくできないままであった。
(3) 神託が招いた惨劇 10年目になって神の予言が王に届いて、へリウ・ポリス市内の神を-把り、女人で(夫より)ほかの男子との関係を持ったことのないものの尿で、顔を洗い清めよ、とあった。王は女人たちを、自分の妻からはじめて数多く検査したのに、このけがれがまったくない女人など見つからず、ただひとり庭師の妻(が潔白なの)を見つけたので、健康となってこの女人を妻に迎えた。そして、残りの女人たちをひとつの村のなかで生きたまま焼き殺し、エジプトではこの思いもかけぬ出来ごとゆえ、この村を神土と呼んだ。
(4) 王はへリウ・ポリス市内の神が襲切にしてくおたのへら感謝を捧げ、神託に従って一枚石のオベリスク二基を納めた。そのうちの一本は幅八ペキュス(三・六メートル)、長さ一OOペキュス(四五メートル)もあった。
[60] エチオピア王のエジプト支配
(1) この王の後、王権を継承したものは多かったが、記録するほどの功業を何ひとつあげなかった例も、いくつかある。そして、何代もの世を経て後アマシスが王位につくと、民衆をひじように過酷に支配した。多くの人を法に背いて罰し、莫大な財産を奪い、誰に接するにあたっても見下したようにして、万事に思い上がった振舞をしていた。
(2) 人びとは、しばらくの間は被害を蒙りながらも耐えていたが、これは、どんなに手を尽しても、カで優位に立つ連中に報復することができなかったからであった。しかし、エチオピア王アクティサネスがこの王に向かって遠征して来た時、憎悪が時機を得て、民衆のほとんどが王に背いた。
(3) だからこそ、王は他愛なく敗北し、エジプトはエチオピア王国の支配下に入ったが、隣国の王はこの幸還を謙虚に受げ止め、支配下の人びとに穏やかに接していた。
(4) 死刑囚を集めた町 とりわげ、盗賊たちの扱い方には何か独特なものがあった。逮捕しても死刑にはせず、そうかといって、まったく処罰しないまま釈放することもなかったからである。
(5) すなわち、悪事を働いて告訴された連中を全土から集め、その罪状の判定をできるだけ正しく行った上で、有罪の宣告を受けたもの全員を集めて、鼻を切り取り、人の住まない砂漠のはずれに住みつかせた。その際、市を建設してやったが、市には、住人たちに降りかかった出来ごとゆえ、「リノコルラ(鼻そぎ)」の呼ぴ名がついた。
(6) この市はエジプト、シュリア両地方間の境界のそばに位置し、近くには海岸が長く伸びるが、人間が暮して行くのにふさわしい環境は、ほとんどすべて欠けている。
(7) すなわち、市を取り巻く土地は塩分をいっぱいに含み、市壁より内側に、水場はあっても水は乏しい上にすっかり汚れ、おまけにまったく塩辛い味がする。
(8) 窮乏が生み出した鳥網猟 王がこの連中をこの土地へ住みつかせたのは、かれらが最初から慣れて来た暮しを守りつづりて、何ひとつ不正を働いていない人びとに害を加える、ということのないよう、また、ほかの人びとと交わる際にもはっきりそれとわかるよう、との配慮による。
(9) けれども連中は、無人の砂漠で、暮しに役立つものがほとんど何ひとつ手に入らない土地へ、追いやられると、自分たちを取り巻く欠乏状態に適した暮しを考えついた。これは、自然が困窮に対してあらゆる工夫をこらすよう強いたことによる。
(10) すなわち、隣接する地方から葦の茎を刈り取ってくると、これを裂いて長方形の網を編み、それを海岸に沿って何スタディオンも長く立てて、鳥猟を行っていた。鳥は外海からの方からだと、一段と大きな群を作って飛来する。そこでこれを捕え、自分たちの食糧をじゅうぶん賄うだけ数多く集めていた。
[61] 迷宮墓を作った王
(1) このエチオピア王が生涯を終えると、エジプト民は主権を取りもどし、地元出のメンデスを王に立てた。この王を一部ではマロスとも呼ぶ。
(2) 王は、軍事面では何ひとつ功業を成就したことがなかったが、自分のために墓を築いた。墓には「ラビュリントス(迷宮)」の名があって、建造物の巨大さで驚異の的となるより、むしろ凝った制作ぷりで真似の出来ないところがある。すなわち、墓の内部へ入ったが最後、何不足ないほどの経験を持った道案内が誰か、付いてくれないかぎり、出口を見つけるのは容易に出来ることではない。
(3) 一説ではダイダロスもエジプトに立ち寄り、これらの建築物に驚異をおぼえ、その後当時クレタの王位にあったミーノースのため、迷宮ラピュリントスを築いた。これはエジプトのそれに似ていて、¶神話作家によるとこの建物内に「ミノタウロス」が住んでいた。
(4) クレタ地方の建物の方はすっかり姿を消したが、これは首長か誰かが破却したためか、時がこの構築物を壊したからであろう。他方、エジプトにあるそれは、無傷のまま建物をそっくり保存して、当代にまで至っている。¶
[62] 変身神話のモデルとなった王
(1) この王の没後、五世代にわたって王不在の状態が生じたので、世評にも上ったことのない人の間からひとりが王に選ばれた。エジプトではこれをケテス王の名で呼ぶが、ギリシア人の間では、トロイア戦争頃にいたプロテウスのことだ、と思われている。
(2) 後者は、伝承によると風の吹き方についての経験を深め、また姿をさまざまに変えて、時には動物の形をとり時には樹木、火そのほかの物それぞれのどれかの形をとった。祭司たちが前者について語っていることも、結局は上記の内容と一致する。
(3) すなわち、天文家たちと共に暮しつづけて来たことから、王は上記のような類の現象についての経験を深め、また、歴代の王が伝えて来た仕来りから、ギリシア人の間で変身についての説話が生じることになった。
(4) エジプトの君主たちには、頭のまわりにライオン、雄牛、巨蛇それぞれの首を着けることが、慣わしとなっていて、これらの首は統治権を表わす印であった。また、時には樹木時には火というのは、時として王は頭上に良い匂いのする香をたくさんに置き、これを通して、自分を美しくよそおうと同時に、ほかの人びとの心を打ち震えさせ、神を畏れるような心持にさせたからである。
(5) 金銭欲まみれの王も プロテウス王が生涯を終えると、その息子レンピスが王権を引き継いだが、この王は生涯を通じて終始歳入に関心を持ち、あらゆる方面から富を集中させた。心が狭い上に金銭にいやしい性分のため、諸神への奉納物にも人びとへ功労を尽すことにも、まったく関心を払わなかった。
(6) それゆえ、この人間は王ではなく有能な財務担当者だったことにもなり、有徳の世評を残す代りに、前代までの歴代の王のなかで最大の財貨を残した。伝承によると、この王は四O万グラントンにも上る銀や金を集めた。
[63] 最大のピラミッドを造った王
(1) この王が他界すると、その統治権を受砂継いだ諸王は七代にわたって、まったくの野人ぞろいで、何をするにも目的は放縦と賛沢にあった。だからこそ、祭司たちの記録のなかにこれらの王の事業で高額のものはひとつも伝わらず、歴史に記されるほどの功業も何ひとつ伝わっていない。ただひとつの例外はネイレウス王で、この王に因んで河にナイルの名が決まることになった。それ以前、この河の名はアイギュプトスであった。この王はほどよい運河を誰よりも数多く設け、ナイル河をうまく役立たせるためさまざまにして尽し、それを誇りとしたので、河に今日の呼び名を付けさせることとなった。
(2) 8代目の王となったのはメンピス出のケンミスで、五O年に及ぶ統治を続け、またピラミッドを築いたが、これが、最も名高い七建造物に数えられるピラミッド三基のうちで、一番大きい。
(3) これらのピラミッドはメンピスのうちリピュア向きに位置して、市から120スタディオン(22ロ)、ナイル河からは四五スタディオン(八キロ)それぞれ雛れ、建造物群の巨大さと制作面での技術によって、見る者に一種驚異をおぼえさせるほどの衝撃を与える。
(4) 位置と大きさ 最大のピラミッドは形が四辺形で、底辺はそれぞれ七プレトロンつ二0メートル)、高さは六プレトロンを越し、すこしずつ縮小しながら頂点に達して、各辺共に6ペキュス(2.7メートル)となる。
(5) 優れた石材 全体が硬い石材を使って築いてあり、石は仕上げが難しいものの何時まででも長持ちする。当代まですでに1000年を下らない時を経ているし、一部の記録によると三、四百年を越えるが、石は¶今に至るまで¶依然として最初からの組み合わせを維持し、全体の構築を無傷のままに守り通している。
(6) 話によると、石はアラビア方面のひじように遠距離のと乙ろから運ばれ、築造は土盛り道を通って行われたが、しかもその頃にはまだ機械の発明はなかった。
(7) さらに、最も驚異の的となることだが、これほど巨大な建造物が築かれ、その周囲の場所はすべて砂地でもあるのに、土盛り道と石切り作業の何れにも、その跡形ひとつ残っていない。従って、人手を加えながらすこしづっというのではなく、まるで神か何かの手によったようにひとまとめにして、この築造物全体が一面砂地のなかへ据えられたか、と思うほどである。
(8) エジプト民のなかには、これら建造物について途方もない説明を持ちこもうとしている例もある。それによると、土盛り道は塩とソーダから出来ていたので、河の水を流しこむと溶け、入手をかけて仕事しないまま完全に消え去った。
(9) 延べ36万人で20年がかり けれども、実際にもこのとおりだったというわけではない。土盛り道を積んだのとおなじ多くの入手をかけることにより、築いであった(道の土)全体が、ふたたび以前に占めていた当の位置へ一戻されたのである。話によると、三六万の人間がこの工事に奉仕者として従事し、築造物は二O年の歳月を経て、やっと完成を見た。
(1) 第二ピラミッドを造った王 この王が生涯を閉じると、その兄弟ケプレンが統治権を継承し、五六年の間統治した。一説によると、兄弟ではなく息子が受け継ぎ、その名をカプリュエスといった。
(2) 他方、誰もが互いに一致して採る説によると、後継王は先王の選んだ仕事と張り合って、第二のピラミッドを築いた。しかし、構築に際しての技術では上記の工事のそれにほぼ近いものの、規模でははるかに劣り、その証拠に、底辺はそれぞれ1スタディオンご八0メートル)ほどであろう。
(3) 大きい方には石の表に費やした財貨の額が刻んであり、仕事に従事する人びとに野菜と下剤用大根を支給するため、一、六OOタラントン以上の金額が支出されたことが、この記録を通して知られる。
(4) 小さい方には銘はないが、四側面のうちひとつに階段が刻んである。これらの王は荷基を自分の墓として築いたものの、結局どちらもそれぞれのピラミッド内に葬ってもらえなかった。
(5) 民衆の恨みで墓に入れない すなわち大衆は、これら工事の間に難儀な目に遭ったのと、両王ともに無慈悲で乱暴な振舞を度重ねたため、これらの悪行の元凶に怒りを抱き、遺体を引き裂いて侮辱を加えた上墓から放り出してやる、と凄んでbた。
(6) このため、何れの王も近親者たちに命じ、遺体を目立たない場所に人目につかぬようにして、葬らせることにしていた。両王のつぎにミュケリノスが王となり、一説にメンケリノスの名もあるが、これが、先にあげた(大きい方の)ピラミッドを造った王の子であった。
(7) 黒石造りの第三ピラミッド この王は第三のピラミッドを築こうと計画したものの、建造物が全部完工を見ないうちに死んだ。底辺部はそれぞれ三プレトロン(九0メートル)もの基礎を持ち、側面を一五階までは黒御影石を使い、石はテパイのピラミッドの石材に似通っている。しかし、残りはそのほかの諸ピラミッドのものとおなじ種類の材で、仕上げられた。
(8) この建造物は、大ききでは前記の両基に後れをとるものの、加工の際の技術と石材の高価なことでは、はるかに差をつけている。その北面に、これを築いたミユケリノスの名が刻んである。
(9) 話によると、この王は前二王の無慈悲さを憎んだので、努めて自分の暮しを質素にし、統治を受けている人びとのために功労を尽すようにした。さらに、このほかいくつもの事業を行い、これらの事業を通してとりわ付大衆が王に好意を持つような空気をかもし出した。訴えを聞くたびに多額の財貨を使い、たとえば、善良な人なのに裁判で適正を欠いた結審を受けている、と思われる人びとには、見舞いの品を贈っていた。
(10) そのほかのピラミッド これらのほかにもピラミッドがなお三基あって、それぞれが一辺一プレトロンにあたり、建造物は全体としては、大きさを別として構築面ではほかのものに似通っている。話によると、これら三基は上記の三玉がそれぞれの委のために築いた。
(11) これもまた誰しも一致して認めることだが、これらの建造物はエジプト方面のこの種の物よりはるかに抜ん出ている。しかし、これはただ築造物の重量と経費の多さだけでなく、建造にたずさわった人びとが、熱心にその技を揮ったことについてもいえる。
(12) また、これら建造物のための経費を負担した諸王よりも、これを仕上げた建築家たちの方を驚嘆しなければならない、との話もある。後者はそれぞれ自分の心構えと仕事に対する自負心によって、その目的を完成させたのが驚異の的となるのに対し、前者のばあいはその所領から得た富に加えて、ほかの人びとを酷い目に遭わせ、自分の企てたことを完成させたことが驚異だからである。
(13) ピラミッド建設者についての異伝 ピラミッドについては、地元民の間でも史家の問でも、総じて何ひとつ意見が合うところがない。これらのピラミッドを築いたのが前記の諸王だとの説もあれば、もっと別の王たちだとの説もある。異説では、たとえば最大の一基をアルマイオス、二番目をアモシス、三つ目をイナロスが、それぞれ造ったともいう。
(14) 一説によると、最後の一基は遊女ロドピスの墓で、話によると、県の長のうち何人かがこの女人の愛慕者となったので、愛情ゆえ共同でこの構築物を完成させた。
[65] 神と人とに誠実だった王
(1) 上記の諸王のつぎに統治権を引き継いだのがボッコリスで、体格こそまったく取るに足らないほど貧弱であったが、頭の回転の良さでは先代諸王をはるかに抜いていた。
(2) 死刑を廃止して労働力確保 さらに、これよりはるか後にエジプトの王となったのがサパコンで、エチオピア族の出であったが、神を拝み誠実なことでは、先代の諸王をはるかに抜いていた。
(3) この王が寛容であったことの証拠として、法に従った処罰のなかでも一番重いものといえば、生命を奪うことだが、これを廃止したことをあげてもよかろう。
(4) 王は、判決を受けた者を死刑に処する代りに鎖に繋いで、諸市のため強制的に労働奉仕をさせた。そして、これら囚人を使って多くの土盛丘を築き、運河の適当なのをかなりの数だ妙掘った。王の心内の思いでは(この処置によってて懲罰を受付る者たちには処罰の厳しさが滅り、諸市のためには(ほかに)何の役にも立たない罰の代りに大きな利益をもたらすことになった。
(5) 夢告を逆に解釈して退位 また、並みはずれて篤く神を拝んだことは、夢のなかで見た光景と、(その結果として)王位を捨てたことから、推定できるかも知れない。
(6) 夢のなかでテパイに坐す神が王に語るには、王は幸せなままで長い間エジプトの王位にあることは出来まいし、それを免れるには祭司全員を胴切りにした後、(切り離した)当の祭司(1)たちの間を、侍臣を引きつれて通り抜けなければならなかった。
(7) この夢告が再三生じたので、祭司を全土から召集していうには、自分がエジプトの地に留まっては、あの神の神威を傷つりることになる。なぜなら、神は夢告で自分に上述のようなことを命じている。
(8) 従って、自分はこの地を去って恨みをいっさい免れ、余生を運に任せようと回ゅうし、その方が、神威を傷つけ非道な殺人で自分の生涯をけがしながら、エジプトを治めるより良い、とのことであった。そして、ついに王権を地元民に任せ、エチオピア地方へ引き揚げた。
[66] プサンメティコス王となる
(1) 共同統治の時代 エジプト方面では統治者不在が二年にわたって生じ、大衆が自国民同士の争乱と殺し合いに向かった。そこで、指導者たちのなかで最も重きをなしていた人一二名が、誓いの下に同盟を結び、メンピスに集会を聞いて、お互いに心を合わせ信頼し合う旨の契約を記録すると、それぞれ自分から王を宣言した。
(2) そして、誓約と合意の下に一五年にわたって統治し、互いの間の協力を維持し、自分たちの共同墓を築くことを計画していった。すなわち、生前には互いに好意をもちながら、同等の栄典を手に入れて来た。それとおなじく生涯を終えても、遺体がおなじひとつの場所内に安置してあれば、築いた記念の墓が、内に葬つである王たちの評判を、等しく包み守ることであろう。
(3) 象徴としての共同王墓 諸王はこの計画に夢中となり、建造物の大きさで自分たちより以前の王すべてを追い越そう、と努めた。まず、場所をリピュア地方内のモイリス湖への入口沿いに選定すると、一番美しい石材を使って墓を築いた。墓は、形では四辺形を基礎とし、大きさでは各辺を一スタディオンご八0メートル)に定め、浮彫そのほかの細工では、後代の諸王にもこれを越える余地を残さなかった。
(4) 周壁内へ入ると周柱式の建物一棟があって、それぞれの面ごとに四O本の円柱が満ちあふれる。建物の屋根は一枚石で、隅から隅まで桝形の彫込みが格子状に並び、際だって優れた函で飾り立てられていた。
(5) 建物には、それぞれの王の生固とその地方内の祭儀や供犠を表わす記念物があって、何れもこの上なく美しい絵で、技を競い合うように仕上げてあった。
(6) 話によると、これらの王は全体として墓の本体を造るのに、これほどの金をかけこれほどの大きさにした。このため、もしも計画を完了しないうちに没したとしても、建造物の造りでは後代の諸王にも、これを越える余地はまったく残らなかったことであろう。
(7) 共同統治の破綻 諸王は一五年にわたってエジプトを支配したが、結局つぎのような出来ごとがあったため、王権はひとりの王へ廻ることになった。
(8) プサンメテイコスはサイス出で一二王のひとり、海側の諸区域を支配し、交易商人すべて、とりわけフエニキア、ギリシア両地方からの商人に、商品を提供していた。
(9) そして、このようにして自領の産物を商いに出してもうけ、また、ほかの諸族民の間の産物と交換して、大きな利潤を得ただけでなく、諸族民や有力者たちと親交を結んだ。
(10) 他を出し抜いたプサンメティコス 話によると、これがもとで、ほかの諸王がこの王を嫉んで戦をはじめた。古代史家のなかには説話めいた話をして、それによるとこれら指導者に神託があって、かれらのうちの誰にせよ最初にメンピスで、青銅の盃から神のために酒を注いだ者が、エジプト全土を支配することになろう、とのことであった。そして、祭司たちのひとりが黄金の盃一一一箇を神域から取り出すと、プサンメティコスは自分の被り物を外して(酒を入れると)、注いだ。
(11) 共同統治者たちはこの王の振舞を見て怪しみながら、(その場で)殺そうとは思わなかったものの、追放した上、海辺の沼沢地帯で暮すよう命じた。
(12) これが原因か上述のとおり嫉んだためかはともかく、反目が生じたので、プサンメテイコス王はカリア、イオーニア両地方から傭兵の一団を招くと、「モメンピス」市周辺に布陣して勝ちを収めた。対陣した諸王は、あるいは戦場にたおれ、またはリピュア地方へ追い出されて、統治権をめぐって争うほどの力を持つことは二度となかった。
[67] 傭兵重視でエジプト兵反乱
(1) 傭兵団を厚遇 王は王国全土の支配者になると、メンピスに坐す神のため東向きの表門と神殿に周壁を造営し、その際円柱に代えて巨像を据え、像の高さは12ペキュス(5.4メートル)もあった。また、傭兵には、合意済みの報酬とは別に語りぐさになるほどの贈り物を分け与え、「ストラトペダ(陣屋ごの地に居住を許し、ペルシアコン河口よりすこし上がったあたりに広い土地を割り当てた。その後はるか後代になって、アマシスが、王位についた後これら住民を立ち退かせて、メンピス市へ住みつかせた。
(2) プサンメテイコス王は傭兵団を使って王権を確立し終えたので、その後も統治上の諸問題ではとりわげこの兵たちに頼り、終始傭兵の大軍を養いつづけた。
(3) エジプト兵の反乱と亡命 そしてシュリア地方へ遠征し、布陣にあたっては傭兵隊を重視して右翼へ配し、自国の兵をこれより軽んじて、陣列の左側の一画へあてた。エジプト兵は侮辱を受けたと憤激し、兵二O万の大部分が一団となって反乱を起すと、エチオピア地方へ進軍して行った。兵たちは、自分たちの土地を自分たちの手でものにしよう、と決めてしまっていた。
(4) 王は最初将軍たちを何名か派遣して、自国兵の面白を潰したことについて弁明させようとした。しかし、相手が使節に見向きもしなかったので、親しい高官を引きつれると自分で軍船に乗り、逃亡者の後を追った。
(5) 兵たちはナイル河沿いに進み、エジプト境を越えるところだったのを、王が思い直すように懇願し、さらに諸神域やそれぞれの故郷、さらには妻や子のことを、思い起こさせようとした。
(6) しかし、兵たちは誰もが同時に大声を張り上げ、槍を楯めがけて打ち下ろしながらいうには、「武具をわがものとしている限り、故郷を見つけるのは造作もない」。また、内衣をはね上げて、子をもうける男のものを見せつけると、「これがあれば妻にも子にも不自由はしない」。
(7) 反乱軍エチオピアに定住 兵たちは、このように大きな気になり、ほかの人びとの間で一番大事に思っているものを軽蔑した後、エチオピア地方でも一番の豊かな地方を手に入れ、広い土地を割り当て合った後、この地方に住みついた。
(8) プサンメティコス王は、この事件ではずいぶんと傷ついたものの、エジプト方面での国政を整え歳入に注意を払いながら、アテーナイをはじめそのほかギリシア民の一部諸市との間に、同盟を結んだ。
(9) ギリシア好みの開国主義 また、自国外の族民でも進んでエジプトに居留する人びとにはこれまた親切にしてやり、殊のほかギリシアびいきだったので、息子たちにギリシア風の教育を受けさせた。総じて、エジプト諸王のうちでもこの王がはじめて異族民に、エジプト内のそのほかの地方での交易場を開放し、異国からの客人が寄航するのにも、じゅうぶんな保護を与えていた。
(10) この王より以前に支配した長たちは、異国からの客にはエジプトの地を踏ませず、船から下りると殺害したり奴隷にしたりしていた。
(11) プシリスをめぐる非道の話も、地元民の異国人嫌いがもとで、ギリシア民の間に宣伝された。非道は実際に起きたことではなく、地元民のあまりの無法さゆえ、説話の形へと固まったものである。
[68] 反乱軍に寝返って王となった男
(1) プサンメティコス王のつぎにこれより四代ほど後、アプリエスが22年の間王となった。王は強大な歩兵軍と軍船団を率いて、キュプロス島とフェニキア地方のシドンに向け遠征すると、武力をもって陥れ、後者の地方のそのほかの諸市をば恐怖に陥れて従属させた。また、大海戦を行って両地方の海軍に勝ち、戦利品を大量に集めてエジプト地方へ帰還した。
(2) 反乱の原因 この後、自国兵の大軍をキュレネ、パルケ両市へ派遣じたものの、そのほとんどを失ない、生きのびた兵たちを異国の民にしてしまった。逃亡兵たちは、王が遠征軍を全滅させるつもりで組織し、それによって、残ったエジプト民をもっと安全に統治しようとしたのだ、と推測して王に背いた。
(3) 王の使節の寝返り この兵たちの許へ王の命で派遣されたのがアマシスで、名高いエジプト人だったが、王が相手との合意を得るために命じた条件を無視したばかりか、逆に相手の兵たちに勧めて仲違いの方へ走らせると、自分もいっしょに王に背き、選ばれて自分が王となった。
(4) その後間もなく、残りの自国兵が全員攻撃に加わったので、アプリエス王は途方にくれて仕方なく傭兵隊の許へ保護を求めた。この隊は三万に達していた。
(5) 反乱軍の勝利で使節が王に この結果、マレイア村付近で両軍対陣し、エジプト兵側が戦を制したが、その際アプリエス王は捕われて連れ戻され、絞首刑となって命を落した。アマシスは王国内の制度を、総じて自分が適法だと制判断したとおりに整えると、エジプト民を法に従って統治し、人びとにひじように喜んで受け入れてもらえた。
(6) また、キュプロス島内の諸市をも陥れ、多くの神域を語りぐきになるほどの奉納物で飾った。そして五五年におよぶ在位ののち生涯を終えた。ちょうど、ペルシアの王カンピュセスがエジプトに向けて遠征した時で、¶第63オリュンピア期(前526/5)の第三年、……¶
[69] 以下の記述の対象分野と資料
(1) ¶エジプト諸王の功業を、最古の時代からアマシス王の最期に至るまで、じゅうぶんに述べ終った。残りの功業については、何れそれぞれにふさわしい年代のなかで記録する。¶
(2) ギリシア人も驚嘆した法と国制 さしあたって述べるのは、エジプト内の法や仕来りについて、¶常識で考えられない事項のなかでも最も典型的な例や、殊のほか読者のお役に立つことの出来る事項である。古来からエジプト民の間に行われている慣習の多くは、その地元民の間で認められ受け入れられているだけでなく、ギリシア人の間でもひじような驚異の的であった。¶
(3) だからこそ、教育を受りたギリシア人のなかでも最も偉大な人びとは、競ってエジプト地方へ渡ろうとしたし、その目的は、法や国制について特筆に値すると思った事項を、摂取することにあった。
(4) この地方は、古くは上述の理由から、異国の人間には足を踏み入れるのが難しいところだったが、それでも渡ろうと努めた人があった。最古の人ではオルペウスと詩人ホメーロス、これより後の世代ではほかにも幾人かあるなかで誰よりも、サモスのピュタゴラスとさらには立法家ソロンがその例である。
(5) エジプト文明を支えた法と慣習 エジプト民の話によると、自分たちの間で誕生したこととしては、文字の発明と星の観察があり、加えて幾何におりる諸定理とほとんどすべての技術が発明され、最も優れた法が制定された。
(6) これらの事実を証明する最大の証拠は、4700年以上もエジプトの王位にあったものたちの大部分が、地元出身だったこと、その地方が人の住む世界のなかでも最も繁栄したうちに入ること、である。このようなことは、人びとが最も優れた慣習と法、さらにあらゆる分野の教育のための組織を備えていない限り、生じなかったであろう。
(7) 祭司の記録を資料に ところで、へロドトスをはじめ、そのほかエジプト民の功業を史書にまとめた作家たちの一部が、口から出まかせに語った事項がある。しかもその際この人びとは、真実より不思議談や説話作りをことさら優先させて、読者の興味を引こうとしている。しかし、本書ではこの種のことを省いて、エジプト祭司たちの間で記録のなかに誌している当の事項を、熱心に検討した上で、それらを世に示すつもりである。
[70] 法の下に厳しい王の日課
(1) 王は法の下に立つ まず、諸王が王としてとった生き方には、独特なものがある。一般に、王は一人統治型の権力に守られ、一切を自分の好むがままに行って、外からの審査を一切受けない。しかし、この国では万事が法の指示の下に定まり、しかもこれは国事に限らず、日常百般の生き方暮しぶりについてもそうである。
(2) 祭司の子息が身辺の世話 王の世話にあたる人のなかには、金で賞われたにせよ館で生まれたにせよ奴隷はひとりもいない。全員が俵高位の祭司たちの息子で、しかも二O才を過ぎ、同族民のなかでも最もりっぱな教育を受けている。王は、昼夜を問わず傍にいて身辺の世話にあたる人びとの、しかも最も優れているのを抱え、そのおかげで卑俗な暮しにけっして陥ることのないようにしている。欲望に奉仕しそうな人間を抱えていなければ、君主といえども誰ひとり、悪の方へ深入りすることはない。
(3) 細かく定められた日課 昼夜それぞれの時間が隙間なく割り振ってあって、王はその時間割どおりに、しかも、自分の思いどおりではなく(法に)定めたとおりのことを行うのが、あらゆる意味で王にふさわしいこととされていた。
(4) 起床後すぐの課業 まず、夜明けと共に起床すると、全土から送って来た報告の書簡を手に取らなければならない。これは王が、政務をはじめとする諸分野で、万事を適正に処理出来るための資料であり、王権の下に執行されている事項をことごとく、詳しく正確に知って置く必要があった。
つぎに、入浴し、きらびやかな衣服をまとい、王者の印をたずさえて身を飾ると、諸神に供犠した。
(5) 供犠式での王の諸徳の賛美 犠牲獣が祭壇そばへ連れて来られると、祭司長が王の傍に立ち、エジプト民が多数取り巻くなか大きな声をあげ、臣下のものたちのための正しい政治を守って下さる王に、健康とそのほかあらゆる善い事をお与え下さい、と祈るのが慣わしであった。
(6) 王の示すそれぞれの徳にも感謝しなければならず、その際の文句は、王が諸神に向かっては敬度に、人びとにはこの上なく穏和に振る舞っているゆえに、というものであった。王は、自制心があり、正しく振る舞い、大らかな心を持ち、その上、嘘を吐かず、持ち物に執着せず、総じてあらゆる欲望に打ちかっ。罪過に対してもその処罰を相応以下に課し、功労を尽した人びとにはその功労を上まわるほどのお返しをしてや(る人でなければならなか)った。
(7) 祈りを捧げる役(の祭司長)は、そのほか上記の徳に類することを数多く述べると、最後に、無知ゆえ犯した過ちについては呪いをかける。これは、王に対するさまざまな非難を排すると共に、王に仕えながら卑俗なことを教えこんだものたちには、禍いと罰が降りかかるのがふさわしい、と思っていたことによる。
(8) 祭司長は以上の儀式を行っていた。これは王に向かって、神を恐れ神を愛して暮すよう勧めると同時に、厳しく忠告するのではなく賞賛して喜ばせ、出来るだけ徳を高めさせるようにして、王らしく生きることに慣らすためのものであった。
(9) 神占と聖なる書の朗読 これにつづいて、王が子牛(の内臓)を見て神意を占い吉兆を確めると、書記役の祭司が会衆の面前で神聖な巻物のなかから、且取も名高い人びとによる勧告や振舞のうち、この場にふさわしいものをいくつか、読みあげることになっていた。これは、万人への支配権を持つ者が、よい分別をもって最もりっぱな選択肢を見きわめるのとおなじようにして、笛別の国政諸部門をも整然と管理管轄するための用意である。
(10) 飲食にまで法の定め さらに、接見を行い裁きを下す時間が決っていただけでなく、散歩、入浴、妻と休むなど、総じて暮しのなかで行う一切について、それぞれの時間割がすっかり定まっていた。
(11) 食べ物は柔かい品を使うのが王たちの慣わしで、肉は子牛や、がちょうの肉だけが供され、酒は飲むがその量は、羽目を外して堪能しまたは酔っぱらうことの出来ないように、決っている。
(12) 総じて、日常の暮しに関わることは、隅々までひじように釣合いを重んじて割当ててあるため、立法家どころか医師のなかでも一番の名医が、健康だけの目的で完全にこれを組織したか、と回ゅうほどになっている。
[71] 王の一存で決めないのが幸せの基
(1) 王が日常生活を万事意のままには出来ない、というのは奇異に思えるが、これよりはるかに驚異をおぽえるのは、裁きにしろ政務にしろ、王たちはその場の自分の一存で決めることが出来ない点である。横暴のあまり、腹立ちまぎれ、そのほか何か不当な理由によっては、何人をも罰することも出来ず、それぞれの問題について、定まっている法の指示どおりに決すること(だけ)が、許されていた。
(2) そして、王はこれらのことを慣習に従って行いながら、そのような自分に不満を持たず腹も立てず、それどころか逆に、今生きている暮し方が一番幸せだと思っていた。
(3) 善い慣習を持てば感情に負けない 王の考えによると、ほかの人びとは無分別に、生まれながらに持つ感情の欲するまま、害悪や危険をもたらすようなことを数多く行っている。なかには、しばしば自分が過ちを犯しているのを承知しながら、それでもなお卑俗なことを行う者もあって、愛や憎しみそのほかの激情に負けてのばあいが、そうである。また、自分たち王は、最も思慮に長けた人びとが選び抜いた暮し方を、強く求めてきたから、無知で愚かなものに掴まる恐れはこの上なくすくない、とも思っている。
(4) 正しい王政が民衆の好意を生む 諸王が治下の人びとに対し、このような正義をもって接するので、大衆は指導する人びとに向かって全面的に好意を持ち、その好意ぶりには、同族のよしみから来る親愛の情をこえるものがあった。祭司団だ叫りでなく要するにエジプトの住民すべてが、妻子そのほか自分たちが所有する財産にもまして、王の安泰に気を遺っていた。
(5) それゆえ、記録に残る諸王の治世のほとんどの間を、歴代の王はこの国制を守り最も幸せな暮しを保ちつづけ、この状態は上記の法制が存続していた限り変らなかった。加えて、ほとんどすべての諸族を支配下に入れ、最大の巨富を手にし、その国土を建造物や築造物で飾り、諸市をあらゆる種類の高価な奉納物で飾った。
[72] 王の葬儀
(1) 諸王の死後にエジプト民の間で行われる行事からも、大衆が指導者たちに抱く好意のほどが、すくなからず証明されていた。感謝しても、もはやわかってもらえないのに、それでも感謝を捧げるため式典を挙げることのなかに、好意が真実であることを示すまぎれもない証拠があった。
(2) 服喪の諸行事 何れかの王がその生涯を終えると、エジプト中の誰もが哀悼の意を共有し、衣服を引き裂き神域を閉ざし、供犠の式を控え七二日の間は祝祭を行わなかった。頭に、泥を塗り胸の下あたりに亜麻布の細帯を巻き、男女ひとしく二、三百人ずつも集って歩き廻っていた。日に二度、弔いの歌をば調子をとり節をつけて歌いながら杷り、その際、死んで行った王の徳をくり返し口にして、賞賛の辞を述べていた。また、食べ物については生き物や小麦を使ったものを口にせず、酒も高価な料理一切をも避けていた。
(3) また、誰もが浴場、塗油、寝具を何れも使おうとせず、男女の交愛へ向かう気も起さず、それぞれに愛し児を亡くした折のように悲痛なさまを見せて、上記の日数の間を追悼していた。
(4) 亡き王に対する民衆の裁きの式 そしてこの期間内に、埋葬のため派手なものを準備し、この期間が終る日に遺骸を納めた棺を慕の入口前に置き、法に従って死者の前に、当人の生前中の行状を裁く法廷を設りた。
(5) (死者を)訴えようと思う人があれば許可が下り、ついで祭司たちが、死者の善行をひとつづっ述べ立てて賞賛の辞とした。葬儀に集まって来ていた何万もの群衆がこれを聞いて後、もしも王の生涯がりっぱであったなら、いっせいに唱和してこれを認め、もしもりっぱでなかった折には、逆に騒ぎ立てていた。
(6) 葬送不能になった王 王のなかには、大衆が反対したため、葬儀を公然と仕来りどおりに行ってもらえなかった例も多かった。それゆえ、結局、王権を継承する王も、今しがた述べた理由に加えて、死後その遺骸が非道に扱われ悪口が永遠に残るのではないか、との恐れもあって、正しく振る舞うようになった。
古代の諸王に関係する法や仕来りのうち、最も重要な諸項は以上のとおりである。
[73] 土地は王、祭司、戦士に三分
(1) エジプト全土はいくつかに区分され、それぞれをギリシア語で県(ノモス)と名付け、県ごとに県の長(ノマルケス)が配されて、あらゆる事項について世話し気を配っている。
(2) 祭司地収入の使途 また、土地を全体として三つに分け、第一の区域を祭司団が所有している。これは、祭司たちが諸神に仕えているのと、教育を受けていて一番広い理解カを身につけているため、地元民の間できわめて高い尊敬を受けていることによる。
(3) そして、この収入を基にエジプト内の一切の供犠を執り行い、下働きの人びとを扶養し、それぞれ自分の必要に応じて支出する。祭司たちの考えによれば、諸神の記りを変更する必要はなく、いつの時代でもおなじ役目の人びとの手で、ほとんどおなじ式次第で、配りを執り行わなりればならない。また、万事について予め思案を凝らす人びとが、必要な物品に不自由することもあってはならない。
(4) 総じて祭司たちは、最も重要な諸問題について事前に思案を凝らしながら、王と暮しを共にし、その際、問題によっては自分たちも協力し、そうでなければ提案者となったり教師役を演じる。そして、天文観測や犠牲獣占いを通して未来のことを予示し、または聖なる書巻のなかに記録されている(歴代の王の)行動のなかから、当面の役に立つことの出来る事例を、王のそばで読み上げる。
(5) ギリシア人の間の慣わしとは違って、祭司職を引き継ぐのはひとりの男子、ひとりの女人ということはない。大勢の祭司が共に暮しながら諸神への供犠などの記りに従事し、後継者たちにも自分たちとおなじような暮し方を伝えている。そして、一切の税負担の免除を受け、世間の評価でも権力から見ても、王につぐ第二の地位を占める存在となっている。
(6) 王地収入の使途 土地の第二の区域を受け取って収入を得るのは王で、この収入を基に戦費を負担し、自分のまわりをきらびやかに見せつづける。また、りっぱな働きをした人びとに対しては、その働きに応じ贈物を賜わって表彰し、この収入が豊富なおかげで二般人を税の海へ溺れさせることもない。
(7) 戦土地収入の使途 土地の最後の区域を所有するのは「戦士」で、遠征には費用の自己負担の下に参加する。これは、この人びとが危地に赴く際、土地の分配に与っているため土地にこの上なく愛着するので、戦時下で生じる危険をも進んで引き受げるようにする、ための措置である。
(8) すなわち、人と物の一切をぷじに守るよう戦士に依頼しながら、当の戦士は、自分たちが戦って守ろうとしている当の宝を、祖国の土地については努めて守るに値するほど持っていない、というのであれば、それは奇妙なことだったろう。さらに最も肝心なことだが、この人びとが豊かになれば子供をつくり易くなり、それゆえ人口を増やしてくれるから、この国土には国外からの(傭兵)軍を、これ以上必要としなくなろう。
(9) また、前二者とおなじくこの人びとは、その社会的役割を父祖たちから受け継ぎ、父親たちの尚武の気風をまねて勇気の徳を目指し、子供の頃から戦闘訓練に打ちこんで、大胆さと熟練を身につけながら、不屈の兵となる。
[74] 職能区分と世襲制
(1) 農民は土地を賃借 国制にはもうひとつ別の組織があってこれも三つ、それぞれ牧人、農民、さらには職工人からなる。農民は収穫可能な土地を何程か、わずかの金を払って王、祭司、戦士から賃借し、年中を通して土地の耕作に従事する。きわめて若い頃から田畑の世話をするなかで育つので、エジプト以外の諸族民の間での農民より、はるかに進んだ経験知を持っている。
(2) すなわち、土地の本性、水の流れる筋、さらには種播き刈り入れ、そのほか穀類果実の収穫の適切な時季を、誰よりも一番詳しく正確に知っている。これは、ひとつには父祖以来の観察から学ぶのと、今ひとつは自分でも経験したことから教わることによる。
(3) 収入は家畜と鳥の飼育 おなじことは牧人たちについてもいえる。この人たちの方は、家畜の世話を子供の頃から、まるで遺産相続の法に従ったかのようにして受け継ぐと、生きている限り終始その家畜を育てて暮す。
(4) そして、放牧した家畜の病気の面倒を見たり、最も優れた餌を与えたりする知識を父祖たちから数多く受け継ぐと共に、自分でもこれらの習得に熱心に努めているため、さらにすくなからぬ知識を発見する。何よりも驚異の的だが、この人びとは上記の仕事に熱心なあまり、鳥飼いと家畜飼いの何れもが、ほかの族民の間では、これらの動物を自然にまかせて産ませているのに、それとは違い自分たち独自の優れた技術を通して、話にならないほど多く増やす。
(5) 人工でひな鳥をかえす すなわち、親鳥の力で、ひなをかえすのでなく、常識で考えられないことだが、知恵と技術熱心の力で自分たちが人工的にひなをかえし、しかもこれが自然の働きにまったく劣るところがない。
(6) 職工人も家業を世襲 その上さらに、エジプト民の間で技術というものがとりわけ熱心に開発され、目的にふさわしく入念正確なものになっている例を、見ることができる。エジプト民の間でだけ職工人はすべて、法によって定められ両親から受け継いだ仕事よりほかの職業ゃ、国制上の階層に、加わることを許されない。このため、教師に悪意を抱くこともなく、国家社会の混乱そのほかいっさいの問題にも、じゃまを受けないまま、自分でこれらの仕事にはげむことができる。
(7) ギリシアの職工人 ほかの諸族の間では、職工人はさまざまな問題に気をとられ、もっともうけたいため自分の仕事にまったく身が入らないでいるのを、見ることが出来る。人によっては、耕作に手を付けたり商売に関係したり、二つなり三つなりの技に手を出したりする。また、民主政下の諸市では、ほとんどの職工人が集会に馳せ参じ国政を打ち壊して、報酬をくれる連中から助っ人料を受砂取る。しかし、エジプト民の間ではこの種の人びとがもしも誰か、国政に参加したり複数の手職を使ったりすると、罰を受げる羽目に至る。
(8) エジプト古代の定住民のばあい、国家社会上の区分とそれぞれに自分の階層が父祖以来たずさわっている仕事は、以上のようであった。
[75] 裁判官の任命
裁判については、エジプト民は一通りの努力を費すだりではすまさなかった。これは、法廷における裁定がつぎの二つの面の何れについても、公共の暮しにとって最も重大な影響を及ぽす、と見なしたことによる。
(2) あきらかな話だが、法に背いた者が懲罰を受げ被害を蒙った人が助けを得るのであれば、罪を正すには一番善い途であろう。しかし、判決の結果、法に背いた者が(懲罰の)恐怖を受けても、財貨など見返りを提供してそれをひっくり返したばあいには、公共の暮しの混乱が生じることになるのを、人びとは自分で目にして来た。
(3) 裁判官の選出 だからこそ、一番名高い諸市から一番りっぱな人物を共同の裁判官に任命し、(法の)意図から外れないようにして来た。すなわち、へリウ・ポリス、テパイ、メンピスそれぞれの市から裁判官を市ごとに一O人選出し、この合議体は、アテーナイのアレオパゴス法廷やラケダイモン民の間での長老会にも、引けを取らないように思われていた。
(4) 手当の支出法 30人が集まると、お互いのなかから最も優れた人をひとり決めて、これを裁判長の席に据え、(この人を選出した)市はこの人の席(を埋めるため)に、裁判官をもうひとり送っていた。必要経費は王の手許から支出されて、裁判官にはじゅうぶんな食料費が、裁判長にはご般裁判官の手当の)何倍もが渡っていた。
(5) 裁判長の首に「真理」像 裁判長は首に黄金の首飾りを着りて、鎖には貴石に小ぷりの像を刻んだのを吊し、人びとはこの像を「真理」と呼んでいた。そして、裁判長がこの小像を手許に立てると訴訟開始となった。
(6) 判例八巻奮と訴訟手続 法はすべて八巻害のなかに記してあり、これが裁判官たちの手許に置いであった。慣例として原告が訴因、事件の状況、損害や傷害の評価について逐一文書にして提出する。そして、被告は対抗者が提出した訴状を受け取ると、それぞれの項目ごとに反論書を提出して、自分は実行しなかった、実行したが害を与えなかった、害を与えたがもっと軽い量刑を受けるのが相当である、などと弁明する。
(7) つぎに、仕来りとしては、原告が(弁明に対する)反論書を出し、被告がふたたびこれに抗弁する。訴訟当事者双方が二度づっ裁判官に書状を提出し終ると、その時三O名が互いの問で判決についての見解を出し合い、裁判長が双方の主張の何れかの側に、先述の像を置く。
[76] 訴訟を文書中心にする理由
(1) エジプト民は裁判をすべてこのような方法で執り行うが、これは訴訟代理人が(直接)弁論を行うと、結局は正しいことが多弁の間に覆われることになる、と思つてのことである。弁論家の技巧、舞台演技風のまやかし、身の危険をおぼえたものたちが流す涙、に誘われて、大衆が法の厳正さや真理の正確さを見過しかねない。
(2) ギリシアの裁判を誼刺 すくなくとも一般に裁判にあたって、評価の高い裁判官たちが訴訟代理人の力量に引きずられ勝ちであり、しかもその力量が、裁判官を欺いたり惑わしたり憐れみの情に訴えたりする方へ、向かうさまが見られる。他方、エジプト民の考えによると、被告が自分の正当な主張を文書で提出すれば、訴訟上の問題点がむき出しのまま見えてくるから、判決が正確になるだろう。
(3) すなわち、後者の手続きによれば何よりも先ず、弁論の素質に優れた人が口の重一い人より有利になることもない。弁論で賞を競ったことのある人がその経験のない人より、嘘吐きや恥知らずが嘘の嫌いな人や曲がったことの嫌いな人より、得することもない。従って、法定どおりじゅうぶんな時間を取って、訴訟当事者はお互い相手の主張を吟味し、裁判官は両方から出た主張を比べることになり、誰もが平等に正しい結論を手に入れることになる。
[77] 殺人罪
(1) こで立法にふれたので、つぎにエジプト民の間で行われている法のうちで、格別に由来の古いもの、変った規定を含むもの、総じて記録を読むのが好きな人の役に立つことの出来るもの、¶を持ち出しても、当面の課題である歴史記述にそぐわないとはいえないと思う。¶
(2) 偽誓の罪 まず、偽誓に対する罰はエジプトでは死刑である。これは偽証者が最も重大な違法行為を二つ行うからで、すなわち、諸神をないがしろにし、人間の間で最も深く信頼できるものをくつがえすことになる。
(3) 犯罪通報の義務 つぎに、もしも誰かがこの国内で道を歩いていて、人が殺されそうになっているか、または総じて何かの暴力を蒙っているのを、見ていながら、救うことが出来たのに救わなかったばあいには、罰として当人も死を迎えることになっていた。また、もし救うことが不可能なために手を貸す力がなかった、というのが真実であれば、すくなくとも何とかしてその盗賊共のことをはっきり知らせるか、またはその事件が違法なことを告発する責任があった。そして、法に従って以上のことを実行しない者は、鞭打ちを所定の回数だけ受付、三日の間いっさいの食物を断たねばならなかった。
(4) 謹告の罪 また、他人を偽りの訴因で告発した者は罰として、その謹告を受けた者が、そのまま判決を受けていたばあいに加えられたはずの量刑と、おなじ刑を受けることになっていた。
(5) 収入申告の義務 また、すべてのエジプト民も命によって、それぞれ自分がどこから暮しの糧を得ているかを行政の長に文書で申し出る。そして、書面の内容に虚偽の申告があるか不正な収入をあげている者があれば、これも死刑になるのを免れなかった。ソロンはエジプトへ渡った折、この法をアテーナイの地へ移したという。
(6) 殺人罪は公平に適用 また、故意に自由人または奴隷を殺害したばあい、法は当人をも死刑にするよう命じていた。ここには、すべての人に悪事を働かせまいとすれば、行為の相手(の身分)によって(量刑に)差をつりるのでなく行為に対して罪を加えるべきだという理由がある。そして、それと同時に、奴隷にも配慮を及ぽすことを通して、人びとが自由人にはなおのこと、はるかに不当な行為に及ばなくなるよう習慣づけよう、という意図があった。
(7) 子殺しと親殺し 自分の子を殺した親に対しては、死刑の規定を設けず、遺体を抱いたまま三昼夜通して、公共の監視下に置かれねばならず、その間監視係が傍に着いていた。親はわが子にこの世への生を与えた者だから、当の親の命を奪うのは正当でなく、むしろ苦痛と後悔をもたらすような懲罰を加えて、(人びとに)この種の企てを止めさせる方が正しい。
(8) 他方、子供が親を殺害したばあいには極刑を課すことにしていた。この件で有罪の判決を受けると、先の尖った葦の茎を使って、その身体から指ほどの部分を何度も剥ぎ落した後、いぱらの束の上に乗せ、生きながら焼きつくす。これは、自分にこの世での生存を許してくれた人から、その生存を暴力で奪い去るのは、人間世界での不正行為のなかでも一番重い罪だ、と判断してのことである。
(9) 妊婦は死刑執行を猶予 また、女人が死刑の判決を受けたばあい、それが妊婦であれば出産するまで刑の執行はない。ギリシアでも大半のところではこの処置をも適法と見て公示した。これは、何ひとつ罪を犯していないのに、罪を犯した者とおなじ懲罰を受けるのは、まったく不当であると見なしてのことであった。また、違法行為はひとつだったのに、それに対する処罰を二人に科すことになる。加えて、この不正行為が悪意を伴った企図の下に実行されたとしても、未だ善悪の分別がまるでないものが、(分別のあるものと)おなじような懲戒に服することになる、とも見なしていた。
(10) 殺人の罪を負ったものの生命を救う裁判官と、まったく何の罪も犯していないものから生命を奪う裁判官を、人は等しく愚かだと判定することであろう。
(11) 殺人の罪に関する法のうち、とりわけその目的をよく達成したと思われる条項は、ほぽ以上のようである。
[78] 軍事上の刑罰と不倫罪
(1) 兵に関する重い刑は名誉剥奪
以上のほかに軍事に関する法があって、自分の持場を捨てたものや指揮官が命じたことを実行しない兵に対して制定され、所定の懲罰は死刑でなく最もひどい名誉剥奪である。
(2) そして、もしもその後りっぱな武勇のほどを示して、名誉剥奪の罪を埋めて余りあるばあいには、以前に持っていた言動の自由を取り戻させる。これは、ひとつには立法家が名誉剥奪を死刑より恐ろしい懲罰とし、それによってすべての兵が恥辱を最大の悪と判断する習慣をつけさせようとした、ことによる。しかし、同時に、死刑になったものは公共の暮しには何ひとつ役に立っところがないのに、名誉剥奪を受けたばあいは言動の自由を持ちたいばかりに、(公共のために)善いことを数多くもたらそうとする、と考えたことにもよる。
(3) 刑罰を加える原則的方法 また、敵に(軍事上の)秘密を知らせた兵に対して、法はその舌を切り取る罰を課す。
貨幣を偽造したり、度量衡を変造しまたは印章を偽刻し、さらには書記が架空の収入を記帳し、または記録の一部を削除するばあい、および偽りの契約書を持ちこんでいるばあい、(何れの罪についても)両手を切ることを命じた。これによって、それぞれの犯人が法を破る折に使用した身体部分へ懲罰を受け、しかも当人が死ぬまでこの災難を治せないようにした。また、他方で当人が受けた懲罰を通してほかの人びとへのいましめとし、それを見た人びとがおなじような罪を、何か犯したりしないようにさせるようにもなる。
(4) 不倫の罪 この人びとの間では、女人についての法も厳しいものとなっていた。自由民の女人に暴行を働いたものにはその男根を切断したが、これは、この種の犯人はひとつの違法行為によって最大の悪を三つ作り出した、と見なしたからで、三つとは放縦、堕落と子種の混乱である。
(5) また、女人を口説いて不倫を犯させたばあい、男子は棒で千叩きの刑を受け、女人には鼻を潰す刑を命じていた。許されない相手との不しだらな行為を、見せびらかすような女人からは、見せびらかした容姿をとりわけ美しく飾る部分を、奪わなりればならない、と恩つての刑であった。
[79] 契約違反の罪と人身抵当の禁止
(1) 契約上の争いで誓約重視 契約をめぐる法はボツコリスの制定になる、という話である。法令によると、証書なしで金を借りたばあい、借り主が借用の事実を否定するかぎり、(その事実の真実性を)誓約した上で借用から解放される。これは第一に、誓約を重視することにより諸神の怒りを恐れるように、仕向けるためである。
(2) すなわち、きわめて明らかなことだが、誓約を再三くり返すものは結局信用を捨てることになるから、誓約の有効性を奪われないためには誰もが、誓約を立てる羽田にならないよう一番気を遣うだろう。
第二に、立法家の予想によると、「善美」(が人間の理想であること)を全面的に信頼(して立法)しておけば、誰もが、信頼に値しないとの非難を受りないようにするため、真面目に生きる性格を養うようになる。加えて、立法家の判断によると、誓約を立てないで信用を得(て借り)た人が、おなじ契約をめぐって誓約を立てながら信用を得ないのは、不当な行為である。また立法家は、契約書を交わして金を貸した側に対し、元金に利息を加えた額が元金の二倍を越えることを禁じた。
(3) 人身抵当は国家の不利 また、債務者による債務の返済はその財産からのみ行い、どんなばあいでも人間を(抵当代りに)連れ去ってはならない、と決めた。立法家の考えによると、取得財産は、それを生み出した人または正当な所有権者から贈与を受けた人、の所有に帰すべきであるが、人間はそれぞれの市に属すべきであり、これによって市は戦時と平時の何れにもわたって、公共奉仕を義務付けることが出来るようになるからである。丘(がちょうど祖国のため危地に赴こうとしているその時に、債務者の手で借金の抵当代りに連れ去られ、このようにして民間の個人の利得のために、(国土内の)すべての人にとっての共通の安全が危険にさらされるのは、不当なことである。
(4) ギリシアの法との比較 ソロンはこの法をもアテーナイに輸入したように思われる。法の名は「重荷下ろし」で、この法によって市民はすべて、自分を抵当に借りた債務から、解放された。
(5) 一部では非難を引き起していることで、しかもこの非難はかなり理に適ってもいるが、ギリシア人の間では立法家のほとんどが、武具、農具そのほか暮しに最も必要な品物を担保にとって金を貸すことを禁じながら、これらの品を使っている当人たちを、抵当代りに連れ去るのを認めた。
[80] 子沢山でも安上りの育て方
(1) 盗難は盗賊団の首領が解決 盗賊に関する法も、エジプト民の間ではこの上なく独特なところがあった。法の命じるところによって、盗みの行為に入ろうとするものは、盗賊団の首領の許で登録を受け、(首領との)合意の下に盗品を即刻首領の許へ持参する。盗まれた人も似たような手続きをとることになり、盗まれた品の明細を首領に対して書き出し、盗難の場所と日付けと時刻を書き添える。
(2) このようにすれば盗難品は見付かりゃすいから、盗まれた人は品物の評価額の1一4を支払って自分だけの所有にした。誰もがすべて盗難を免れることは不可能なので、立法家がひとつの抜け道を見つけ、これによって盗難品がすべてわずかな対価を支払って、ぶじに手許に戻るようにした。
(3) 婚姻と出産 妻を迎える際、エジプト民の間では祭司はひとりしか迎えないが、そのほかの人はそれぞれ自分が欲しい数だけ迎える。子供が生まれれば、人口を増やすため、どうしでも育でなければならない。耕地と市の繁栄のためには、人口増加がとりわけ大きく寄与するからである。また、生まれた子はひとりとして庶出扱いにせず、この点は、金で買われた女人を母として生まれたばあいでも、おなじである。
(4) 総じてこの人びとの考えによると、誕生を引き起すのは父親だりで、母親は胎児に栄養と畑を提供する役である。植物でも、実を着げるのを雄株、着けないのを雌株と呼び、この点はギリシアでのばあいと逆である。
(5) 子育てには金がかからない 子育てはいわば手なれたもので、金もかけず、まったく信じられないほどの慣れ方である。すなわち、子供たちには煮焚きしたものを食べさせるが、その材料はいわば安あがりで手に入りやすい。また、カヤツリ草の株のうちで、火を被せて焼くことの出来る部分とか、沼地に生える草の根や茎を、生のままか煮焚しまたは焼いて、食べさせる。
(6) 子供はほとんどが、はき物なしの裸で育つが、これは場所柄がほど良い気候だからで、子供が成年に達するまでの間に親が支出する総額は、二Oドラクメを越えない。そして、このようなわけで結局、エジプトはとりわけ格段に人口が多く、その結果、巨大な建造物を最も数多く築くことができた。
[81] 子供の教育
(1) 祭司の子供の教育 祭司たちは子供にことおりの文字を教える。ひとつは「神聖文字」、今ひとつは前者よりもっと一般に学ばれている文字である。幾何と算数をも一段と苦労しながら学習する。
(2) すなわち、河が年ごとに土地の形をさまざまに変えるため、境界をめぐって隣人と数多くのじつにさまざまな紛争が起きる。従って、これを明確に論証し切るのは、幾何を熟知した人がその経験に基いて、真実を規則正しく示さない限り、容易なことではない。
(3) また、算数は暮しの面で家計を管理するのに有用である。幾何の定理にも利用され、加えて天文分野の諸問題を勉強する人びとにも、すくなからず役立っている。
(4) 天文教育を重視 どの族民の闘でもだがエジプト民の間でも、星の配置と運行は入念な観察の対象となり、それぞれの星ごとの記録も信じられないほど遠い昔から保存してある。これは、この人びとの間でこの分野では、古代から競い合って努力して来たことによる。¶また、惑星の運行、周期、進行停止、さらにはそれぞれの星が生物の誕生に対してさまざまに善または悪を造り出す際の影響力をも、この上なく熱烈に競い合いながら見張ってきた。
(5) また、人びとに、当人たちが暮しのなかで出会うことになる出来ごとを、予言してやって、それをうまくあてるのもしばしばのことである。穀物の不作や、逆に豊作、さらには人間や家畜の間に広がる類いの病の発生の予兆、を示すのも珍しいことではない。地震、津波、すい星の登場など、一般の人から考えると知ることなど出来そうもないような、あらゆる対象についても、長い年月をかけて観察して来た結果を背景に、予知している。¶
(6) 話によると、パビュロンに住むカルダイオイ民もエジプト民の移住者で、天文についての学説をエジプト祭司から学んで保存している。
(7) 民衆の子供教育 このほかのエジプトの大衆は、子供の頃からはじめて父親や近親者たちから、それぞれの暮しに必要な知識を学ぶことは、上述(c. [74])のとおりである。文字をすこしでも教える(力のある)人は限られていて、教え方を実際に殊のほかよく習練している人びとが、これに当る。格技と音楽を学ぶ仕来りはエジプト民の間にはなかった。この人たちの考えによると、若者が毎日格技場で運動に励んでも、結局は健康になるのではなく体力をつけるのであり、その体力もわずかの間しか続かないし、まったく危険な代物である。また、音楽は無用であるばかりか有害で、それというのも聴く人の心を柔弱にするからだ、と見なしている。
[82] 養生法
(1) 病気にかからないよう防ぐ意味で、エジプト民は潅腸、断食、吐潟によって身体の養生に努め、これを毎日または三、四日置きに行う。
(2) その話によると、食物はすべて、(体内へ)供給されるとその大部分が余分なものとなり、これがもとで病が生まれる。従って、上記の養生が病の発芽を取り除けば、とりわけ健康に備えてくれるであろう。
(3) 医師でも独創的な施術は死刑 兵は遠征や地方への駐屯の際にはすべてこの養生を受げ、その際私費では謝礼をいっさい支払わない。医師は生活費を公庫から受け取り、養生法の条文に従って養生を施し、この養生法はこれを、古代にその評価が確定した数多くの医師がまとめた。また、聖なる書から読んで知った法の指示どおりに施療して、病人の命を救うことが出来ないとしても、罪には問われずいっさいの非難を免れるが、書かれている条文に反した施療を何か行えば、死刑の判決に服することになる。立法家の考えによると、養生法は長い年月をかけ、最も優れた専門家たちが編集したものであるのに、(これに違反した施療者が)わずかの人数でこの法よりも賢いものだ、と認めることになってしまう(から不当である)。
[83] 神獣飼育と死への対処
(1) エジプト方面で神獣とされた動物については、多くの人の目に、この現象が奇異であり調べて見るだけの値打ちがある、と映るのも、もっともなことである。エジプト民はいくつかの種類の動物を異常なほど大切に扱い、それも生きている間だけでなく死んJだ後まで拝む。例えば猫、いたち、犬、さらには鷹、エジプト民のいわゆる「とき」鳥、加えて狼、わに、そのほかこの種のいくつかの動物がそれである。これらの動物については先にも簡単に述べておいたが、(神獣とされた)理由をそれぞれに書き加えようと思う。
(2) 神獣の世話は神領の収益から すなわち、第一に大切に扱ってもらっている動物それぞれの種類ごとに、それら動物を世話し養うのに足るだけの収益を産む耕地が、神領と定められている。また、エジプトの住民は子供が病気から命拾いした時のため、何れかの諸神に誓いを立てる。すなわち、(誓いによって)親たちは子供の髪を切って、銀貨や金貨と(その重きが等しくなるよう)比べると、それらの貨幣を、上述の神獣を世話している人びとに渡す。
(3) 人によると鷹のため肉片を刻み、この鳥が飛んでいるのへ大声で呼びかけると、肉片を投げ上げて、鳥が受け取るまで止めない。また、猫やいたちのためパンを千切って乳へ入れ、舌を鳴らして呼びながら傍へ置いてやったり、ナイル河からとれる魚を刻んで生のまま与える。おなじようにして、このほかの動物にもその種ごとに、口に合う食べ物をあてがう。
(4) この動物たちに奉仕するのを避けるようなことはなく、大衆にはっきり、避けているように見えるのを恥じる。それどころか逆に、まるで諸神に対して最も大切な記りを捧げてでもいるかのようにして、これら動物を拝み、それぞれに個有な印を捧げて市や地方を巡り歩く。その人びとがどんな動物を世話しているかが、遠くからでもはっきり見えるので、その人びとに出会うと誰もが地に伏して敬意を表わす。
(5) 死ぬと人間なみの葬儀 上にあげた動物がどれか死ぬと、亜麻布ですっかり包み、声をあげて泣き悲しみ胸を叩きながら、ミイラにするため運んで行く。それから、杉から採った香油と、そのほか好い香りが付き長期間遺骸を保存するのに役立つ材料で、処理した後、神獣の墓域内に葬る。
(6) 殺すと死刑 この種の動物を一頭でもわざと命を絶ったものは、すべて罰として死刑となる。ただし、猫か「とき」鳥を殺したばあいは例外で、これらを殺したばあいは故意でも過失でも無条件に死刑がふりかかる。その際には群集が馳せ集って、殺害者をこの上ないほど恐ろしいやり方で扱い、時には判決を待たずに私刑を実行する。
(7) このありさまを恐れて、この種の動物が一頭でも死んでいるのを見かけると、遠くまで離れておいて悲しみの声をあげ、死んでいたのへ出合わせたのだと証言しながら、叫ぴ立てる。
¶(8) 殺し手が口ーマの役人でも大騒ぎ このようにして大衆の心に、これらの生き物に対する恐畏の思いがすっかり穆みこみ、これらの生き物を大事に扱おうという気持ちを、誰もがそれぞれにまったく変ることなく抱いている。¶
[84] 神域で飼育の神獣の賀沢さ
(1) 人肉を食べても犬を殺さない 上述の件は大方の人には信じられないし、おとぎ話に近いように見えようが、以下の話になるとはるかに奇異なものに映ることであろう。話によると、かつてエジプトの住民が飢餓に襲われ、食べ物がなくなって、お互い相手に手を掛け(て殺し)合うに至った。それなのに、神獣をただの一頭でも食用に供したという罪に問われた人間は、ひとりとしてなかった。
(2) それどころか、犬が一頭死んでしまっているのが見つかった家があったが、その家ではその建物の住民がみんな、全身の毛を剃って哀悼のありさまを示した。それよりもっと驚異の的だったことだが、これら動物のなかの一頭が息を引き取った、当の建物のなかに、酒、穀物そのほか暮しに必要なものが何か置いてあるとしても、その家の住人はもはや、これらを使って何か(生きる足し)にしようなどは、思いもしなかったろう。
(3) たとえどこか自領外の地方へ遠征することがあろうとも、猫や鷹には代価を支払ってエジプトに連れ帰る。時には自分用の旅費が不足するようになっても支払う。
(4) 神域飼育獣の諸例 メンピスの〔斑紋のある〕アピス、へリウ・ポリスのムネウィス、メンデスの雄山羊のこと、加えてモイリス湖方面のわに、「レオントン・ポリス」で飼っているライオン、そのほかこの種の数多くの動物の扱い方について述べるのはたやすいが、報告の内容は、実際に見たことのない人びとの間ではなかなかに信用してもらえない。
(5)賛沢な食べ物と香油 これらの動物は囲壁をめぐらせた神域内で飼われ、名士たちが数多く、この動物にこの上なく高価な食べ物を与え世話している。小麦の粉や荒ぴき物に乳を加えて煮たり、あらゆる種類の練り菓子を蜂みつで担ねて作ったり、がちょうの肉を煮たり焼いたりして、これらを規則正しく食用に供している。生肉を常食とする動物には、鳥を数多く狩って来て投げ与え、総じてたいへんな努力を注ぎこんで高価な食糧を調達する。
(6) 温浴を使わせ最高級の香油を擦り込み、あらゆる種類の香料をくゆらせ、これを不断に続ける。そして、最も高価な敷物と、見ても美しい飾りをしつらえてやる。本性に従って交尾を求める折には、それに適うようできる限りの配慮を尽す。加えて、それぞれの動物に、それと同種の雌の一番姿形の美しいのを添わせて、いっしょに養育し、この雌獣を「側女」と呼んで、出来る限りの費用と手間をかげて、面倒を見る。
(7) 葬儀は借金しても盛大に もし死ぬものがいれば、愛し児を失った親とおなじくらいに悲歎にくれ、自分の財力に見合う程度にでなく、自分の財産の評価額をはるかに越えた形で、葬ってやる。
(8) アレクサンドロスの没後、ラゴスの子プトレマイオスが直ちにエジプトを手に入れたが、ちょうどその時(前三二O頃)、メンピスでアピスが老衰のため死んだ。この神牛を世話していた人は、(葬儀の)費用をも準備していたし、それもきわめて多額に上ったのに、葬儀一切の経費を支出した上、プトレマイオスから、さらに銀五Oグラントンを借用した。当代でもこれらの神獣を養っている人びとのなかには、この動物の葬儀用に一OOグラントンを下らない額を支出したものもいた。
[85] 後継神牛迎えの行事
(1) 後継神牛選ぴ 神牛アピスの扱い方をめぐっては、上述の話に残りの話を加えなければならない。
命が尽きて盛大に葬られると、この件に関係する祭司たちは子牛のなかから、先の牛に付いていたのに似通った印をその体に持っているのを探す。
(2) そしてその牛が見つかると、大衆は悲しみから解放され、祭司のなかでその役に当たっている人びとが、その子牛を最初ネイル・ポリスに連れて来て、この市内で四0日間養育する。それから、金色に飾った室を持つ屋根付き荷舟へ、神を迎えるようにして乗せると、メンピス市へと遡航し、そこのへパイストスの神苑内へ連れて行く。
(3) また、上記の四O日の間に、女人たちだけが子牛と顔を見合わせながら立つと、前をまくってそれぞれに自分の子を産む部分を見せるが、それから後は生涯、この神に近付いて自分の姿を見せるのを、禁じられてしまう。
(4) 神牛はオシリスの化身 この牛が栄典を受ける理由にふれての、一部の人びとの説明によると、オシリスが生涯を終えた折その魂はこの牛へ移った。このため、今に至るまでその魂は終始、その本体を現わそうとしてはそのたびに、つぎの世代の牛へと移りつづける。
(5) 異説によると、オシリスがテュポンの手にかかって死ぬと、(切断された)遺体の各部をイシスが集めて木造りの牛のなかへ収め、外から亜麻布(ブツシナ)をすっかり巻きつけて終つた。このため市の名をもプシリスと決めた。¶アピスについては以上のほかにも数多くの神話があるが、それらを逐一述べるのは冗長なことだと思う。¶
[86] 民衆が伝える由来談
(1) エジプトの住民は栄典を受ける動物たちに対して、すべてが驚異の的となり、信用しようのないほどの行事を執り行うので、これら行事の理由を調べる人びとは難題を背負わされる。
(2) 祭司はこれらの行事について、自分たちなりの一種秘密の教説を持っていて、本書では祭司による神談義のなかでこの教説のことを述べた。他方、大半のエジプト民はその理由を三つ挙げるが、その第一の理由というのは完全に説話じみていて、古代風な単純さに特有のものである。
(3) 神が動物に化けて逃げた話 その話によると、最初に誕生した神は数もすくなく、大地から生じた人間の、数が多いのと無法なのに押えこまれていった。このため、いくつかの種類の動物に姿を似せ、このようにして人間どもの野蛮と暴力を逃れていた。そしてその後、宇宙内の万物を支配した後、最初に命拾いさせてくれた動物たちに返礼するにあたって、自分たちが姿を似せていた当の動物たちの本性を、神のそれに列せしめた。そして、人間どもに教示して、その動物たちが生存中は、多額の財貨を費して養育させ、生命を終えると葬らせた。
(4) 戦陣での旗印にした話 第二の理由の説明によると、エジプトの住民は、古くは戦陣のなかで陣形を組まないため、近隣諸地方民との戦にしばしば負けた。そこで、それぞれの集団の上に予め取り決めた印を立てることを、思いついた。
(5) 話によると、(指揮に当るものたちが)いくつかの動物の
似像を造り上げさせ||これらの動物を今日では神と記っている||これらを槍の上に突き立ててわが身に添え、このようにしてそれぞれの兵がどの陣列に属しているかを知らせた。これらの動物を通して陣列がよく整ったため、エジプトの兵たちは勝利を得るのに大いに助かり、これらの動物が命拾いの原因になったと思った。それゆえ、人びとはこれらの動物にお礼をしようと思って、似像の元となった動物を、一頭として殺さず拝んで上述のように世話し、大切に扱うことを、慣習のなかへ組み込んだ。
[87] 由来談の2 有用動物談
(1) 異説のうちでも三つ目の理由としてあげられるのは、動物の有用度で、これらの動物がそれぞれに、公共の暮しと人間たちを助けるため、どれほど役に立っているかである。
(2) 牛、羊、犬 雌牛は働き手を産み、あまり力の要らないような(柔かい)土を鋤く。羊たちは(年に)二度子を産み、羊毛で人びとの身体を包むと共に美しく装わせてくれる。また、両者共に乳とチーズで、口あたりの良い食料をふんだんに供給する。犬は狩りと見張りに役立ち、だからこそエジプト民の間の神「アヌピス」へ犬の頭をつけたのを、持ちこんでいる。これは、犬がオシリス、イシス両神の護衛だったことを、示そうとしてのものである。
(3) 一説によると、イシスがオシリスを探していた折、犬たちが先導して野獣や敵対者たちを排除し、さらには女神に好意を持ち、遠吠えしながらいっしょに探しまわった。だから、犬たちはイシス祭では祭礼行列の折先頭に立って進むが、これはこの仕来りを教示した人びとが、この動物への古くからの感謝の印を、表わしているからである。
(4) 猫、いたち 猫にも、アスプ蛇の致死的な噛み方をするのや、そのほか噛まれると命を落すような蛇を、防ぐのにふさわしい性質がある。いたちは、わにの出産を見守っていて卵が産み落されたのを壊し、しかも、これをどうしてもやらなければならない、ということはまったくないのに、注意深く熱心に実行している。
(5) そして、これがもしも行われないことにでもなれば、この動物が生まれてくる数が多くなるから、河が渡れなくなるだろう。
さらに、当のわにも今述べた小動物にかかって命を落し、その折常識で考えられずまったく信じられないやり方が使われる。いたちは泥土のなかを転げ回り、わにが口を開けたまま陸の上で眠っていると見ると、すかさず口を通って体内へ飛びこむ。それから、すばやく内臓を喰い破ってぶじに出て来ると、攻撃を受げた側はその場で死骸にされる。
(6) とき、鷹、鷲 鳥のなかでは、とき鳥が蛇、いなご、いも虫退治に役立つ。鷹はさそり、角蛇など、有毒動物のうちでも小さいのにことのほか人間の命を奪う生き物を、退治するのに役立つ性質を持つ。
(7) 一説に、この鳥を大事に扱うのは、予言者たちが鷹を予兆鳥と見て、エジプト民のため将来起きる出来ごとを予言することに、起因する。
(8) また一説に、その昔この鳥がテパイにいる祭司たちの許へ、書き物を運んできた。書き物には紫紺の紐をかけてあり、なかに諸神への仕え方や柁り方が誌しであった。それゆえ、書記祭司も、頭に紫紺の紐を巻き、鷹の羽根を付けている。
(9) また、テパイ市民が鷲を大事に扱うのは、この生き物が鳥の王でゼウスに相等する、と思われていることによる。
[88] 由来談の3 象徴的動物
(1) 雄山羊は多産の象徴 雄山羊を神格化したのは、ギリシア人の間でも、プリアポスを杷る理由となっている、という話があるように、子を生む道具のせいである。この動物は交尾にはこの上なく無駄のない動物で、身体のなかでも子を生ませる器官が、それ相応に大事に杷られているところは、まるで動物が本来、ここから最初に生んでもらったかのようである。
(2) 総じて、密儀に際して男根を神的なものと見なすのは、エジプト民に限らずそのほかの族民のなかでも、かなりの割合で見受けられる。そのさまはまるで、これが動物を誕生させる元となっているかのようである。祭司たちはエジプト地方で父祖伝来の祭司職を受け継ぐと、最初にこの神への密儀に参加する。
(3) 話によると、パン、サテュロス共に人間の間で杷られるのは、これとおなじ理由による。だからほとんどのところで、神域内にこれらの神の像を奉建し、像は(男根が)怒張して雄山羊本来の姿に似通っている。この動物は、交尾には最も活発な性質を持つといい伝えてきた。それゆえ、像をこのような姿で表わして、羊たちが数多く生まれるのをこれら雄山羊に感謝している。
(4) 神牛と供犠牛 神牛アピスとムネウィスは共に、神に等しいくらい大事に扱われている。これは、オシリスが教示したとおり農耕に役立つのと同時に、穀物を発見した諸神からの教説が、この動物たちの働きによって、永遠につぎの世代へと伝わって行くことによる。誰もが一致して、炎のような毛並みの牛を供犠することに決めたのは、テュポンの肌がこのような色だったと思われていることによる。テュポンがオシリス殺害を企て、イシスが夫を殺されたため加害者に報復を加えた。
(5) 話によると、人間のなかでもこの悪人とおなじ肌色の人びとも、古くは王の手で、オシリスの墓のそばで供犠されていた。赤銅色の人間はエジプト民のなかにはあまり見あたらず、異族民のほとんどがこれにあたっていた。それゆえ、プシリスの異族民殺しについても、ギリシア人の間に説話として広く知れ渡っていたが、この説話でいうプシリスは王の名ではなく、オシリスの墓を地元民の言語でいうと、このようになる。
(6) 狼も神の化身 話によると、狼を大事に扱うのは犬とその本性が似ているからで、両者は本性上の差がわずかであり、互いに交配すると子を産む。エジプト民はこの動物を大事に扱う理由を、もっと別にもっと説話風にも示している。話によると、その昔イシスがわが子ホロスと共にテュポンと戦うことになった折、オシリスが冥界からわが子と妻への加勢に来て、その折の姿が見た目に狼と似通っていた。それゆえ、テュポンがほろびると、勝ちを制した両神は、この動物が姿を現わしたのに続いて勝ちが生じたから、というので、この動物を大事に扱うよう教示した。
(7) 一説によると、エチオピア勢がエジプトに向け遠征した際、狼がじつに大きな群れをなして集まると、侵入者たちをこの国土から、「エレパンティネ」市を越えた先まで、追い払った。それゆえ、この地の県名もリュコポリテス(狼市地方)と決まり、今あげた動物たちはこの栄典を受けることになった。
[89] わに崇拝の由来
(1) 有用動物説 本書で語り残しているのは、わにの神格化で、この動物についてほとんどの人が答えに困るのが、この動物が人を襲う肉食獣なのに、この上なく恐ろしい振舞をするものを神と同等に扱うよう、なぜ法に定めたのか、という点である。
(2) 話によると、この地方の防備を固いものにしているのは、河だけでなく、それよりはるかに河中のわにのせいである。それゆえ、アラビア、リピュア何れの地方から来る盗賊たちにも、河を泳いで渡るほどの勇気はなく、それというのもわにの大群が恐ろしいからである。この動物に関する限り、これに戦を仕掛けるものがいたとしても、一網打尽にして根絶やしにすることなど起きるはずがない。
(3) 神話的由来説 もっと別の説もあって、この動物についての出来ごとを報告している。一説によると、古代の諸王のひとり「メナス」が、自分の飼い犬に追われて「モイリス湖」へ逃げこみ、それからーーム吊識ばなれしたことだがlllわにの背に乗って対岸へ連れて行ってもらった。そして、このようにして命拾いした御礼をしようと思って、湖の近くに一市を建設し、クロコデイロン(・ポリス)(わにの群れの市)と名付けた。地元民にもこの動物を神として記るよう教示し、また、湖をこの動物に御料地として奉納した。さらに、ここに自分の墓まで築き、合わせてその傍に四辺形のピラミッド一基を建て、加えて、多くの人びとの間で驚異の的となっている迷宮を建設した。
(4) 特定の食べ物を避ける理由 この人びとは、以上のほかの事項についても上記の説に似通った説明をしているが、¶これらの事項について逐一本書に述べるのは冗長になろう。¶
(4b) エジプト民は、暮しに役立つから以上のように振る舞うよう、われとわが身を習慣づけてしまった。このことは、この人びとの間では地域によって口にしない食べ物があって、その種類が数多いことからしても、誰の目にもあきらかである。地域によってそれぞれに、レンズ豆、そら豆、チーズ、たまねぎ、そのほかいくつもの食物をまったく味あわないが、これらの食物は多くエジプト方面の産物である。これを見るとあきらかに、人びとは(暮しに)有用な物を避けるよう、われとわが身に教えなければならないと思っている。また、誰もが何でも食べると、すべてが食い尽されて余りが何ひとつ出なくなるかも知れないから、と思っているようでもある。
[90] 旗印由来談の変型
(2) 功労に報いるために崇拝 ……
(2b) 話によると、総じてエジプト民は功労を尽してくれたものすべてに対し、ほかの土地の人びとよりはるかに深く感謝の意を表わす。これは、功労を尽してくれたものへの御返しに感謝の意を表わすのが、暮しを助ける上でも一番大きなカになると、見なしていることによる。あきらかに、誰でも功労を尽そうという気を起すのは、何よりも先ず、功労に対する感謝の表われが、将来もっともりっぱに保存されそうな分野においてである。
(3) これとおなじ理由で、エジプト民は自分たちの王が真実に神であるかのように、ひれ伏して拝むし栄典を捧げる。そしてその際人びとは諸王が、何れかのダイモンの摂理の下にではあろうが、万人に対する支配権を完全に手に入れている、と見なす。そして同時に、最大の功労を尽そうと思いまたそれの出来る人間は、神に等しい本性に与っている、とも考えている。
(4) 神獣とされた動物に紙面を割き過ぎたかも知れないが、しかしともかく、エジプト民の間でとりわけ驚異の的となっている仕来りについては、じゅうぶん明らかにして来た。
[91] ミイラ造りの造法
(1) 死者をめぐるエジプト民の仕来りについて尋ねた人なら、その慣習の特異性にすくなからず驚異をおぼえたことであろう。誰か同胞が死ぬと、近親者や友人が全員、頭に泥を塗りつけ哀悼の声をはり上げながら、市中を巡り歩いて遺骸を葬う日にまで至る。その間けっして泳、浴せず、酒など目ぼしい食べ物をも取らず、派手な衣服をもまとわない。
(2) ミイラ造りは経由貿見積りから 葬いには三等級があって、最高、並み、徳価である。話によると、最初のクラスでは銀一タラントン、二番目では二Oムナで、最後のになるとまったくわずかの出費でよいことになる、という。
(3) 遺体を処理するのは専門技術者で、その証拠にこの知識を父祖から代々受け継いでいる。この職人たちは、葬いにかかる経費を箇条書きにしたのを、死者の近親者のところへ持って来ると、遺体の世話をどんな風にしてもらいたいか尋ねる。
(4) 書記と切り裂き役 そして、それらすべての条項にわたっていっさい同意が出来、遺体を受け取ると、所定の役割を受け持つ人びとにそれを渡し、慣例となっている世話をさせる。最初の役は「書記」で、遺体を地面に置かせると左横腹へ、切り開かなければならない範囲いっぱいその周りに、縁起の良い文句を書き連ねる。それからつぎに「切り裂き役」が、エチオピア産の石を手にして、法が命じるとおりに肉を切り開くと、すぐさま走って逃げる。これは、周りを囲んでいる(近親)者たちが追いかけて石を投げ、呪いの言葉を吐いては、逃げて行く者がまるでけがれものででもあるかのように、その呪いを投げかりることによる。この国の考えでは、同族民の身体に暴力を加え傷をつけ、総じて何か被害を及ぼす者は、すべて憎むぺき人間である。
(5) ミイラ造り役の徹底した処理法 「ミイラ造り」たちは、全面的に尊敬を受げ大事にしてもらうだりの資格がある、と思われていて、祭司たちと同席し、神域へ入るのにも、けがれの無い人びととおなじく何の差し支えもない。この人びとは、遺体を切り開いた後の処理に集まると、なかのひとりが、死者の切り口から片手を下ろして胴の内部へ差し入れ、腎臓と心臓を残して内臓をことごとく引き出し、もうひとりが(引き出した)内臓をひとつづっ、やし酒と香料を使って洗いきよめる。
(6) この人びとは総じて、遺体全体の世話には三O日以上の回数をかげるのがよいと考えている。最初は杉から採った油そのほかいくつかの油を使い、それから没薬、肉桂など、長期間の保存に耐えるだけでなく、芳香をも与えるようなものをも使う。処理を終えると死者の近親者に遺体を渡す。遺体は各部それぞれを完全に保存し終った状態なので、まつ毛や眉毛まで残り、身体全体も見た目に何の変化もなく、体型もよくわかるほどにしてある。
(7) 先祖代々のミイラを安置 それゆえ、大半のエジプト民も先祖の遺体を金のかかった建物内に保存する。従って、自分たちが生まれるより何世代もの遠い昔に死んだ者たちを、目のあたりにするから、死者それぞれの遺体の大きさ、太さ、さらには見た目の特徴を見ていると、それらが、見ている当人たちとおなじ世代を生きて来た人びとか、と思うばかりで、奇妙な気持ちにさせられる。
[92] 葬いの作法
(1) 日取りの予告 遺体を葬ってもよい段階になると、近親者は葬儀の日取りを、裁判官役の人たちと近親者たち、さらには死者の友人たちに予告する。そして、他界してしまった者の名を呼びながら、「誰某が湖を渡ることになっている」と、あらたまった声で告げる。
(2) 裁判官の立ち合い つぎに裁判官役四二人が式に立ち合い、湖の向う岸に設けてある半円形の席を占めると、平底舟が降ろされる。舟はこの世話にあたる人びとの手で前もって造つであるが、それに渡し守が乗りこみ、この役をエジプト民は自分たちの言葉で「カロン」と名付げている。
(3) 話によるとオルペウスも、その昔エジプトに渡りこの仕来りの光景を見て、冥界のありさまを説話の形で語り、その際エジプトでの行事を手本にして写したり、時には自分で創作した。¶この点については本書で、もうすこし後に([96](4)-(6))その細部を記録するつもりである。
(4) 死者告発の許可 舟が湖へ降ろされると、死者を収めた棺をそのなかへ安置しないうちに、死者を告発しようと思う者には、それを行う権利が法の名の下に与えられる。誰かが死者に近寄って生前の悪事を示すと、裁判官たちが(まわりの)人びと全員のため判決を告げ知らせ、遺体は慣例どおりの葬儀を禁じられる。しかし、もしも非難した側がその告発を不当なものと判断されると、重い懲罰が告発者の方へ迫ってくる。
(5) 死者生前の行いを賛嘆 告訴人として出廷する人がひとりもいないか、出て来ても告訴常習者に属するとの判定を受けると、近親者たちは悲嘆するのを止めて死者を称える。その際ギリシア人の間で行うのとは違って、系譜については何も語らないが、これは、エジプトの住民は誰でもおなじように生まれの素姓がよいと思っていることによる。そのかわり、子供の頃から受けた学習・教育のことを詳しく述べる。そして、成年に達した頃に至るとふたたび、諸神をよく拝み正義に則り、さらには自制心があったなど、このほかいくつかの徳について事細かに述べる。そして、地下の諸神に呼びかけ、死者を迎えて諸神をよく拝んでいた人びとと同居させてもらおうとする。会衆は賛成の言葉を述べ、死者の評判の良かったことを賞め上げて、死者が下方の冥界で、諸神をよく拝んでいた人びとと末長く日を過ごすことになろう、という。
(6) 遺体の安置 そして、自分たちの墓を所有する人びとなら、その遺体を指定の墓室内に安置する。墓域を所有していない人びとのばあいは、自分の家に新しく一室を造り、屋内壁のなかで一番安全な壁へ向け棺を立てかける。告発を受けるか借金の抵当物件となるかして、葬いを禁じられていれば、自分の家へ安置する。これらの遺体は後になって、時には孫が成功して貸借契約や告訴を受けた罪過を解消した後、胸を大きく張つての葬儀を出す資格を得たりする。
[93] 祖先崇拝も善人づくりのため
(1) 先祖崇拝を形にして見せる エジプト民の間で一番厳粛な行事とされているのは、両親やその先祖を人並み外れて(盛大に)肥って後、永遠の住家へ移したことを、はっきり世間に見てもらうことであった。ところが、この人びとの間では、死んだ親たちの遺体を借金の抵当に入れることも、合法的である。ただし、これを清算しないでいると、最大の不名誉が後に続き死後に入る墓が奪われてしまう。
(2) これらの仕来りを整えた人びとに驚異をおぼえる人があるかも知れず、またあってももっともであるが、整えた人びとが自分たちに出来るかぎり努めて、同胞の心に植えつけようとしたのは、人間としてふさわしく真面目な性格であった。しかもそれを、生きている者同士の交わりだけでなく、死者たちの葬いと遺体の世話をも通して、植えつけようとした。
(3) ギリシアの勧善懲悪は神話に頼る ギリシア人は神話を創作しまたは風間の形で、(悪を)非難して上記の性格を持つよう説得し、その話のなかで、神をよく拝む人びとが栄典を受り邪悪なものたちが懲罰を受りる例の、何れをも伝えた。だからこそ、これらの話は(結局)、人びとに勧めて最善の生き方へ向かわせるだげのカを、持つことができるどころか、逆に愚かな連中にさえ噺りを受け、ひじような軽蔑を蒙っている。
(4) エジプトでは形に示させる しかし、エジプト民の間では作り話風にでなく目に見える形で、邪悪な連中には懲罰が善良な人びとには栄典が示される。だから、日々に善人悪者何れの側も、それぞれに付随する報いのことを思い出し、このようにして性格を矯正する上に、最も重要で有効な力が得られる。思うに、法のなかでも一番優れた法とは、それがあるおかげで結局は人びとが、最も豊かになるのではなく、その性格が最も人間らしく市民らしくなるような、法でなければならない。
[95] 古代の立法家 続
[96] エジプトに学んだギリシア人たち
(1) ¶以上の諸事項については本書でじゅうぶん明らかになったので、つぎに述べる必要があるのは、¶ギリシア人の間で、知力と教養・教育が高い、と評判が定まっている人びとのうち、古代にエジプトまで渡り、かの地で行われている法や慣習と教養・教育を、わがものにしようと志した人びとのことである。
(2) 有名人の数かず エジプト民の祭司が、聖なる書巻のなかの記録に基き、歴史として述べるところによると、その昔自分たちの許へ渡って来たのは、オルペウス、ムサイオス、メランプス、ダイダロス、加えて詩人ホメーロス、スパルタのリユクルゴス、さらにはアテーナイのソロンと哲学者プラトンで、また、サモスのピュタゴラス、数学者エウドクソスさらにはアプデラのデモクリトス、キオスのオイノピデスもやって来た。
(3) 学んだという証拠 そして、以上の人びとがやって来たことの証拠の跡として、あるいはその肖像彫刻、あるいは場所、建物の名称がおなじであることを示す。また、それぞれに勉強した教育科目名からも立証しようとする。そして、立一証にあたって、これらの人がギリシア人の間で驚異の的となったのは、(この地で)さまざまな知識を得たことによるとして、それらの知識をすべて紹介する。
(4) オルペウスの密儀 まず、オルペウス(F 293 Kern)がエジプト民の間から持ち出したのは、密儀のほとんどの部分、自分の放浪を祭式化したところ、冥界の諸事項を説話化した箇所であった。
(5) すなわち、オシリスの密儀はディオニユソスのそれとおなじ、イシスのそれはデーメーテールのそれにこの上なくよく似て、女神の名が入れ換っているにすぎない。またこれと並んで、諸神をないがしろにした連中が冥界で受ける懲罰、神をよく拝んだ人びとの住む牧野、多くの族民の間で造り上げられてきた幻像は、エジプト内での葬儀に関連して行われる諸儀式を真似て、取り入れられた。
(6) ホメーロス詩にも証拠 たとえば、死者の魂を冥界へ送る神としてのへルメスは、エジプト民の間では古代の仕来りに従って、アピスの身体をある部分のところまで保ちながら、冥界の犬ケルペロスの首面を被った形に繋いでいる。(6a) そして、オルペウスがこの仕来りをギリシア人の間に教示した後、ホメーロスがそれを継いだ形で詩篇のなかに(Od. XXIV, 1)
さてキュレーネーの神へルメースは(まだ殺されたての)求婚者なる
男たちの亡魂をいま呼び出しておいでであった、両手のあいに
……杖をお持ちで、
それから行を下ってふたたび(Od. XXIV, 10)
こうして大洋河(オーケアノス)の流れに沿って進み、「白切崖(レウカス)」の岩の横を過ぎて、
さらに太陽(神)のはいる門、夢のやからが屯ろする
あたりを経て、程もなく極楽百合の咲く牧原に到着した、この処が
つとめを終え(世を去っ)た者らの影の、亡霊どもの住居である。
(7) 地名の類似例 河を太洋オケアノスと呼ぶのは、エジプト民が自分たちの言語でナイル河をオケアノスというからで、(おなじようにして)へリオポリス市をへリウ・ピュライ(太陽の門)という。また、牧原は神話作者のいわゆる他界した亡者たちの住いを指すが、これが「アケルシア」湖畔の場所の名で、湖はメンピスに近いあたりに位置し、その証拠に湖を囲んでこの上なく美しい牧野があり、そこに沼地、蓮、葦が見える。(7a) そして、これにつれて出てくるのが、死者たちがこの場所に住みついているという話で、エジプト民の墓のうち一番大きなものは、ほとんどこの地に造つである。死者は河とアケルシア湖を渡って運ばれ、遺体はこの地に築いた墓室のなかへ収まる。
(8) 以上のほか、ギリシア人の間で冥界に関し神話の形で語られている諸事項も、今日なおエジプトで行われている諸慣習と一致している。遺体を運んで行く船を「パリス(小舟)」と呼ぷし、また、渡守りに渡し賃を与え、しかも、渡守りを地元の言語でカロンと呼ぶ。
(9) 話によると、この場所近くに暗閣のへカテの神域があり、また号泣(コキュトス)、忘却(レテ)荷門があって問を差して仕切る。これらのほかに「真理(アレテイア)門」をも含み、近くに裁きの女神ディケの頭部のない像も立つ。
[97] ギリシア神話のエジプト的要素
(1) これらのほかにも創作神話の材料となってきた諸事項が、エジプト民の間に依然残って、その証拠に、名称や実際の振舞方が今なお守られている。
(2) 底の抜けたかめとオクノスの紐 たとえば、アカントン・ポリス市は、ナイル河をリピュア地方側へ渡ったところにあって、メンピス市から一二Oスタディオン(一一一一キロ)離れているが、この市内に穴が開いたかめがあって、祭司三六O人が(交替で)毎日ナイル河から水を運んで、かめのなかへ注ぐ。
(3) オクノスに関する創作説話は、何れかの例大祭が執り行われる際に実際に示され、ひとりが長い紐の端を編み、その後から多くの人びとがその編んだ紐を解いて行く。
(4) 話によると、ギリシア人の間でディオニユソスに捧げるものとされている祭儀、クロノスをめぐって伝えられる神話、諸神と巨人族の戦、総じて諸神の受難をめぐる歴史は、何れもメランプスがエジプトより移した。
(5) また、ダイダロスは(エジプトの)迷宮のからくりを真似たと伝え、その迷宮は今日にまでその姿を留めているが、一説によるとこれを建設したのはメンデス、また、一部ではマロス王ともいい、何れもその時代はミーノース王朝よりはるかに古い。
(6) また、エジプト内での古代の人像は、ギリシア人の間でダイダロスが造り上げた諸像と、おなじ人体比例を持つという。メンピスにあるへパイストス神域の表門は比類ない美しさを持つが、これをダイダロスが建て、これが驚異の的となったため今あげた神域内に、自分の手で木造人像一体を制作する機会を得た。そして、その像形が美しいことから、ついには当然ながら大変な評判を受け、加えてなお数多くの発明を生み出して、諸神にも等しい栄典を手に入れた。
この市のそばの島のひとつに、今なおこの工匠のための神域があり、地元で杷っている、という。
(7) へレネが渡した薬草 エジプト民はまた、ホメーロスが(エジプトを)訪れたという証拠を数多く示すが、そのなかにとりわり、へレネがメネラオスの館でテレマコスに渡した薬草と、(それによって)後者がその身に起きた数かずの苦難を忘れることが出来た、という話がある。悲しみを忘れさせる薬草は、詩人によると(Od. IV, 228)、へレネがエジプトのテパイでトーンの妻ポリュダムネから受け取ったものだが、詩人はあきらかにこの薬のことを詳しく正確に調べ上げていた。今日でもなおこの市に住む女人たちは、今あげた薬の効能を利用しているといい、また話によると、ディオス・ポリスの女人だけが古くから怒りや苦痛を鎮める薬を見つけていた。ただし、テパイとディオス・ポリスはおなじひとつの市のことだ、という。
(8) また、アプロディテは、地元民の間では古来からの伝承に基いて、「黄金の」と添えてその名を呼ぴ、「モメンピス」市付近に「黄金のアプロディテの原」もある。
(9) ゼウスとへラのエチオピア行き またゼウスとへラについても、両神が夫婦の契りを交わしたという神話(Il. XIV)や、両神がエチオピアまで出かけた話(Il. I, 423)を、詩人はエジプトから移したという。エジプト民の間では毎年、ゼウスの船が河を渡ってリピュア地方側へ行き、数日後ふたたび、まるでこの神が滞在先のエチオピアから帰るようにして、帰航の途につく。これら両神の契りのことも、例大祭のなかで両神それぞれの神調を、祭司たちがさまざまな花を一面に敷きつめた山へと運び上げる、ことから知られる。
[98]彫刻もエジプトを手本
(1) リュクルゴス、プラトン、ソロンの何れも、エジプト起源の法を数多く自分たちの法組織のなかへ組み入れた。
(2) ピュタゴラスは神に関する教説、幾何における定理や数における諸規則、さらには魂があらゆる生き物のなかへ転生するという教えを、エジプト民から学んだ。
(3) エジプト民の推測によると、デモクリトスも自分たちの間で五年間を過ごして、天文分野での多くの事項を教えてもらった。オイノピデスもおなじようにして、祭司や天文家と暮しを共にしながら学んだが、それら数多い知識のなかにとりわけ、太陽の円軌道が斜行すること、そのほかの星とは逆方向に動くことがあった。
(4) これと似たようにしてエウドクソスも、エジプト民の間で天文を研究し、有用な知識を数多くギリシア人の間へ持って来て、大きな評判を収めた。
(5) 最も適例といえるアポッローン像 古代の造像家のなかでもとりわけ名の通った人びとが、エジプト民の間で共に修業した。テレクレスとテオドロスがその例で、共にロイコスの子、サモス島民のためアポッローン・ピュティオスの古式神像(クソアノン)を制作した。
(6) 史伝によると、この神像のうち半分をテレクレスがサモスで制作し、そのほかの部分を兄弟テオドロスがエペソス市で仕上げた。そして、両方の部分を互いに組み合わすと、あまりに見事に釣合って、全体像をひとりの作家が仕上げたと思われるほどになっていた。この種の制作は、ギリシア人の間ではそれまでまったく行われたことがなかったが、エジプト民の間ではこの上なくりっぱに完成していた。
(7) エジプト工法とギリシア工法の違い エジプト民の間では、(頭、胴、手、足など)見た目に映る像形に従って、神像各部の比例を判定することをせず、この点でギリシア人のばあいとは異なっている。まず、石材を横にすると分割して制作にかかり、この段階で、一番小さな部分からはじめて一番大きな部分へと、比例を取って行く。
(8) すなわち、身体全体の構成を二二の部分に1一4だけ加えた数に分割しながら、これを生きている当の対象の全体的な比例に当てはめる。だからこそ、制作技術者たちが(制作すべき)像の寸法について互いに合意すると、互いに分れて(制作にかかっててそれぞれの作品の寸法が一致するように仕上げる。その一致はきわめて厳密だから、これら制作者たちの仕事がそれぞれ独立に行われていたことを、ひたすら驚くばかりである。
(9) 像の形態もエジプト風 サモスにある古式神像は、エジプト民の専門技術によく似通った造りで、頭部に沿って二つに分かれながら、生物の中央にあたる箇所を下へと下って男根に到り、その間あらゆる部分で一方の側が(反対側と)対称的である。また、この神像はほとんどの部分がエジプト彫像と似通っていて、たとえば両手を脇腹に沿って伸ばし、両足は歩いている時のさまを示しているようである。
¶(10) エジプト方面で、歴史として伝わりふれがいのある諸事項については、これまで述べたことでじゅうぶんである。……¶
(飯尾都人訳)