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ヒュパティア( +Upativa)

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 アレクサンドリアの新プラトーン主義哲学者で、 5世紀に行われたキリスト教徒による女流知識人迫害の犠牲者。彼女が馬車を馭して自分の教えている学園に向かっているとき、一団の修道士たちが彼女を馬車から引きずりおろし、教会へ連れ込み、彼女を裸にし、カキの具殻で彼女の肉を骨からそぎ落とし、遺骸は火で焼いてしまった。このことはすべて、アレクサンドリアの総司大司教聖キュリロスの命令で行われた。キュリロスと彼の配下の修道士たちは、アレクサンドリア市当局に妓け目のない方法で金品を贈り、ヒュパティア殺害に関する公式の調査を中止させることに成功した[1]。1882年、教皇レオ十三世はキュリロスを「教会の博士」と称賛し、彼を聖人の列に加えた[2]

 ヒュパティアの教えはエジプト全土に知れ渡っていたが、彼女の死を契機として、エジプトにおける異教的な学問研究に終止符が打たれた[3]


[1]Gibbon 2, 816-17.
[2]Attwater, 100.
[3]Seligmann, 82.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)



 後415年にキリスト教徒の暴徒に襲われて殺された女性哲学者。以来ヒュパティアは教会組織から憎まれたり少なくとも疑念をもたれた知的な女性の典型に挙げられている。

 ヒュパティアは世界都市アレクサンドリアで活躍した古代ギリシアの数学者テオーンの娘で、370年頃に生まれた。幼少期についてはほとんど知られていないが、家庭で父親から教育を受け、哲学と数学に関する父親の著作や講義の手助けをしていたものと思われる。この二つの学問は、ギリシアの伝統ではたがいに密接な関連を有していた。やがてヒュパティアは実力ですぐれた哲学教師となり、アレクサンドリア一の新プラトーン主義の思想家と目されるようになった。その名は広く知れ渡り、尊敬を集め、知恵を求める司法や政治の指導者たちの訪問を受けた。彼女は美しい女性として伝えられているものの、いくつかの逸話によると容姿の美しさより知的関心に重きを置いていたらしく、熱を上げて近寄る男性の教え子たちにすげなく肘鉄を食らわせたという。

 ヒュパティアの死の数年前、アレクサンドリアの大規模なユダヤ人共同体と、権力を渇望するキリスト教徒とのあいだで憎悪と暴力が急激に渦巻き始めた。キリスト教徒たちは同市の司教キュリロス〔376-444〕に率いられていた。なおキュリロスは、391年にセラピス神殿内の有名な図書館を含む異教徒のいくつかの神殿を熱心に破壊したもう一人の司教〔テオピロス(? -412)〕の甥にあたる。暴力はエスカレートし、キリスト教徒とユダヤ教徒それぞれの共同体に属する人々は、激して路上で争いを繰り広げ、たがいに教会とシナゴーグを襲撃し合った。

 アレクサンドリアを統治するローマ提督オレステースは秩序を保とうと試みた。しかし同市を純粋にキリスト教徒の町にしようと目論むキュリロスの恨みを買った。オレステースは少なくとも名目上はキリスト教徒であったはずであるが、キュリロスの信奉者たちは砂漠の修道院から集まった500人の狂信的な修道士の集団に先導されて、路上で提督の馬車に群がり、オレステースを異教徒だとして罵った。オレステースがヒュパティアの友人であり、彼女の講義に出席していたという事実も、狂信的なキリスト教徒の反感を買う理由の一つであった。

 オレステース襲撃ののちに修道士の一人が提督の衛兵に殺されると、キュリロスは死んだ修道士が聖人であると宣言し、このをオレステースへの反感をかき立てるために利用した。しかしローマ提督の権力は強大で、オレステースには直接に手を下すことができないため、狂信者はそれ以外の者、つまりヒュパティアに矛先を向けた。四旬節のときヒュパティアは路上で襲われ、キュリロスの司教座教会まで引き回され、裸にされ、殴打され、陶器の破片で刺し殺された。死骸はばらばらに切り刻まれ、高々と往来へと運ばれ、そして焼かれた。何らかの理由により — おそらくオレステースがさらなる殉教者を出すことを好まなかったため — 誰もこの殺人のかどで罰せられなかった[1]。1882年、教皇レオ13世はキュリロスを「教会の博士」と称賛し、彼を聖人の列に加えた[2]

 ヒュパティアのにはいくつかの原因を挙げることができる。女性ということ、そして当時ますます人気をなくしていた異教の主知主義の代表者という立場が、キリスト教徒とユダヤ教徒の一連の紛争に直面した際に彼女の身を危うくした。ローマ帝国によるキリスト教徒迫害は背教者ユリアヌスが統治したごく短期間(361-363)を除き、四世紀はじめには鎮まった。370年代には、きわめて厳格な司教エビファニオスが著書『バナリオン』で異端と同様ギリシア哲学も攻撃するようになる。四世紀半ば頃、ナグ・ハマディ文書として知られる異端文書がエジプトの砂漠のなかに隠された。

 五世紀はじめになると、異教徒と認められた者は一連の皇帝の勅令によって徐々に高位の行政職・軍事職を追われた。異教の知識人たちの多くはひっそりと社会から身を退くか、もしくはペルシアのようなキリスト教圏外の国々へ流れるようになった。彼女のを契機として、エジプトにおける異教的な学問研究に終止符が打たれた[3]。(C・S・クリフトン『異端事典』p.168-169)


[画像出典]
Hypatia
The Lady Philosopher of Alexandria


[1]Gibbon 2, 816-17. 〔第47章〕
[2]Attwater, 100.
[3]Seligmann, 82.