死というものが存在するようになったのは、人間が意識を持つようになってからである、と言われてきた。このことは、死を口にすることは、人間にはあるが、動物にはないということを婉曲に表したものである。人間だけが死を予知するからである[1]。人間という動物には独得の能力があって、自分たちは必ず死ぬとわかっている。このことのおかげで宗教というものが存在しうるのである。
死ぬということがわかっていても、それをなんとか打ち消そうとして、想像力を動員する。しかし、すべての知覚が停止した無の状態を知覚することは、知覚する心にとってはむずかしい。カーリーを崇拝する人々は、あの世を、夢を見ない眠りの世界である、と見ることができた[2]。しかし、古代の人々にとっては、知覚が欠如した状態に関して、それを明確な観念で表そうとしても、できるものではなかった。
バビロニア人が考えたように、死者の国が知覚を刺激するものがほとんどない場所であったときでさえも、人間の感覚は死者の国をはっきりと知覚できた。死者の国とは「ちりの家」であり、「帰らざる道の行き止まり」であった。死者は、鳥のように、羽毛につつまれていた。「ちりが死者の食べ物であり、土が食べる肉である……光はなく、死者は暗いところに座っている」。しかしその「ちりの家」には、聖職者たちも、支配する王たちも、焼いた肉を運んできてくれたり、皮の水袋から水を注いでくれる従者たちもいた[3]。
バビロニアの文献を見ると、死を免れるために、それにふさわしい祭式が、やがて、発見されるかもしれないという望みを人々が持っていたことがわかる。現代の人々がやがて癌の治療法が見つかるものと思っているのと同じである。バビロニアでそれを探る方法として推奨されたのは、霊の交わりによって死者の意見を求める方法であった。「不死を求めるには、それにふさわしい祭式を求めることが必要であった。祭式は、死後もなお肉体が引き続いて存在するためには、いったい、何をしたらよいかを知ることであった。祖先の人たちはそれを知っていた。だからそうした知識を得るためには祖先の人たちから得るしかない」[4]。
死がいったいどういうものであるかについて知るためには、死を経験したことのある人々から知るしかない、と人々はつねに考えてきた。そのために、偽死もふくめて、通過儀礼のさまざまな方法が考えられてきた。偽死と言えば、たとえば、シベリアのシャーマンたちが体験するが、彼らは忘我の状態になると、体がばらばらになって骨もあらわな状態になる境地を体験する。「かくして自分が裸であることを目で見ると、朽ちやすくつかのまの肉体と血から全く解放され、シャーマンたちの聖なる言葉において、偉大な仕事に身を捧げることになる。それは、死後、太陽や風や天候の動きにいつまでも耐えられる肉体のその部分を通して行われるのである…‥起源が、あるい少くともその構造が、仏教的でありタントラ的である中央アジアのある瞑想では、骸骨状態になってしまうことは……禁欲的な、形而上学的な価値があることである。すなわち、時の作業に先手を打って、深く考えることによって人生を真の姿にすることである。これはつかのまの幻想ではあるが、永遠なる変身の幻想である」[5]。
死の世界の幻想があまりにもあざやかであるために、オリエントの賢人たちの中には、十分なる意識感覚が持てることを神に祈った者もいた。それは、そうなれば、死の国の幻想が自分の心の産物以外の何物でもないということがわかるからであった。「私の意識の反映としてどのような幻想が現れようとも、どうか私にそれが理解できますように。その幻想が中間にある世界 (死の世界)に現れるものの本質を示しているということが私にわかりますように。私が考えるもろもろのもの 平和な神々であっても、怒りに燃える神々であっても どうか私がそれにおびえないように。すべての音は自分が発する音であり、すべての光輝は自分が発する光輝である、とどうかわかるようになりますように」[6]。
タントラ仏教の教えでは、死の世界、すなわち中間の世界というものは、どのようにでもなる、というものであった[7]。生きているときに正しい幻想をいだくことによって、記憶と意識と、そして、自分がより立派に再生するためにふさわしい「子宮-入り口」をえらぶという目標、を失わない覚悟ができているならばである。生きるということと死ぬということとは相互に補完しあってぐるぐる回っているものにすぎず、いずれも正しい教育を要するものであった。「物質界の生命というものは2極の間を行き来するものである」、とバッハオーフェンは言う。「物質界はあるという世界ではなく、生成して終わる世界である。そして、生の白と死の黒という2色が永遠に循環する世界である。この2色が等しく混合して初めて物質界は存続するのである。死がなければ若返ることはありえない。マイナスの力がなければ、プラスの力は、一瞬たりとも、存在しえない。死は、そのため、生に対極するものではなく、生を助けるものである」[8]。
太女神は、何ものが生まれてもその生と密接な関わりを持ったように、何ものが死んでもその死と深い関わりを持った。そのために、太女神は、たとえばマリ-アンマ、アンカンマ、ムッテヤランマなどの上うに、不治の病すべてを「流出」させる力を持っていたのである。太女神に仕える巫女たちは死の床にある者を助け、そして教育した。「神々の場合もそうであったが、人間の場合も、死はどこでも女の扱うものであった。死者のために泣き叫ぶことは女性が考案したものであると言われている……女性は幼児を揺藍に入れ、死者を棺に入れる。それはそれぞれの新しい生に送りだすためである」[9]。
古代ローマ人は死はいつも心に留めておくべきものであると考えていた。人生が最高潮にあって、そのために、死を忘れてしまいそうなときには、とくにそうすべきであると考えていた。生と死はいずれも輪廻転生には欠かせないものであったからである。戦争で勝利を収めた英雄が、黄金の戦車に乗って、ローマに凱旋行進して入ってくるときには、古代の神よろしく、紙吹雪の中を行進して、人々の歓呼にこたえた。しかし、そのとき、「死」の仮面と衣裳を着けた人がその英雄のすぐそばに立って、その耳に絶えず「おい、いつかはお前も死ぬということを忘れるなよ」、と言って、自信過剰の罪におちいらないようにしてやった[10]。
生成と衰亡は循環するものである、というタントラ思想は、異教思想にもあった。「昔の豊穣神は、死という事実にぶつかっても、それにひるむことはなかった。子供っぽく死を回避するようなことはせずに、約束された再生と復活を求めた」[11]。一方、キリスト教は、キリスト教徒になれば死ぬことはない、とした。死んだ初期キリスト教徒は、「眠りについた」のであって、キリストが再臨すれば、またすぐに目を覚ます、と言われた。死の不安に病的なまでにとりつかれると、祭式を否定するようになることが多かった。カーモードは、「偉大な宗教のうちで、キリスト教が最も死を恐れ、死の恐怖を最も強調した宗教である」[12]、と言った。
そうした恐怖感は、死との愛憎関係のうちに、ときには、強迫観念ともなった。『ヤコブの秘密の書』(いわゆるグノーシス派の福音書の1つ。1945年、上エジプトのナグ・ハマディで発見された。使徒ヤコブが書いたものであると言われている)では、イエスは自殺をすすめている。死の王国は、自らの命を自らの手で絶つ者のものであって、それを避ける者は救われない、とイエスは言った[13]。
死に対する強迫観念がつのると、死にまつわる儀式やしきたりが念に念を入れるようになり、数えると膨大な数になった。それは死ぬという現象を包み隠すためであった。そして日常生活の体験から死という現象を切り離してしまったために、死は避けられないものであるということは十分に理解しなくてもよいということになってしまった。フレーザーの考えによると、そうしたしきたりや儀式は、人間社会で最も無駄なものであった。
「霊魂の不滅を信ずることほど、人類の経済的、それ故、社会的進歩を遅らせるのに役立った考えはない。そんなことを信じたために、次々と各民族が、そして各世代の人々が、生きている人々の現実の欲求を犠牲にして、想像にしかすぎない死者たちの欲求を満たしてやろうとしてきたのである。霊魂の不滅を信じたために、それにともなって、生活も財産も無駄に費やされ、破壊されたが、それは莫大で計算できないほどである」。[14]
異教徒の哲学者たちは死を肯定したが、その方が、後世、死を巧妙に否定したことよりもずっと現実的であったと思われる。暗いが、しかし勇気ある平静な気持で、エウリビデスは、死について意見を述べることはできないという異教思想を、次のように述べた。
遥かな遠い国があって
死よりも生にやさしい国で
暗黒の手がしっかりと握りしめ、
そして、幾重にも寿がかかっている。
我々は生に恋いこがれ、この世の
名もない、光り輝く物を手離さない、
あの世は密封された泉であり、
下の深淵は姿を現すことなく、
我々は、永遠に、伝説の上を漂っていく。[15]
ギリシアの哲学者たちは、西欧人であったために、実際以上に独創性があるものと信じられてきた。しかし本当のところは、彼らの死に対する考え方や、死が生者に対してどういう意味を持っているかということについての考え方は、たいていは、そうしたことを最初に考え出したオリエントの賢人たちから学んだことであった。「夢を見ない眠り」、再生、原初の「巨人族の時代」もふくめた人類の4つの時代、といったギリシア人の考えは、すべて、その起源はオリエントにあったのである。タントラの賢人たちは遥かなる「黄金時代」のことについて語った。人間がすべて巨人で、その人生は約1000年もあった。というのも、彼らが生きていたのは、この世界が創造された時代に近く、子供を生む女神の血は栄養豊富で、しかも、たっぶりとしていたし、また、女神から生まれた子供たちは親しく女神のことを知っていたからであった。聖書にあるように、そのころ、地には巨人たちがいたのである(『創世記』6:4)[16]。
『創世紀』を書いた人々は、こうした巨人族と同様に長命であった巨人たちを、その末裔とはしないで、同一視して書いた。「黄金時代」の人類が長命であったというヒンズー教の考えが、そっくりそのまま、聖書に摸され、初めに出てくる太祖たちは皆長命であった。太祖たち1人1人がきっちり1000年生きたわけではないが、少なくとも900年以上は生きた。アダムの生涯は930年、セツのは912年、エノスのは950年などであり、最高はメトセラの969年であった(『創世紀』5)。
しかし、どんなに長く生きても、死は必ずやってくる。父権制社会の思想家たちはこうした考えは認められないとした。しかし、母権制社会の宗教は古ければ古いほど、より現実的に死を受容した。自然の美を認識すると同時に、自然の醜さ、腐敗、崩壊をも十分に認識することを賢人の務めとした。すなわち、死にも生誕と同じ価値を与えたのであった。生と死も等しく重要なものであった。両方とも同じ扉を通っていく。一方はその扉から出てきて、他方は入っていくのである。そうした考えを表すために、女神の相は2つの異なったものになっていた。女神は、一方では、美しい年ごろの乙女、あるいは、やさしく子を養育する母親であり、他方では、恐ろしい食屍鬼、すなわち、女神自身が死体のような存在であって、同時に、死体を貪り食うものであった。女神はこのように2つの相を持つものであったが、その相はいずれも、等しく崇められるべきものであった。アヴァロン(Avalon)が、西欧では「この恐ろしくもあるが美しい女神の相は理解されない」、と言ったのは正しかった。宣教師たちは死の女神をただ女の悪魔とするだけであった[17]。しかし秘義を究めた人々にとっては、「この牙のある、血にまみれた女神は他の女神、すなわち、美しい母親であり恋人である女神と同じ女神である。この2つの女神像を1つに重ね合わせて崇めることができるということが、おそらく、『成就法J(サーダナsadhana. 瞑想法を説く書物。図像学書でもある)の説く道につき始めることになるであろう」[18]。
西欧文化の中にも、こうした女性の死の霊の原型とも言うべきものを、多かれ少なかれ自分で、幻視しえた人もいた。母なる自然という概念のあるところならばどこでも、ほぼ間違いなく、死ぬことは自然であって、すべての花の根は腐敗した有機物の中にある、ということに人々は気づくはずである。コールリッジ(Coleridge)は「悪夢のような死の中の生」を女性であると言った。キーツ(Keats)は自分は安らかな死を半ば愛していると語った。ヴィニー(Alfred de Vigny)〔19世紀フランスの詩人〕は、オリエントの賢人たちと同様、死を母親らしい女神であるとして、次のような詩を書いた。
おお聖なる死よ、お前に呼びもどされて
すべてが還ってくる、そして
お前に抱かれて消えていく、
星を散りばめたお前の胸にお前の子供たちを集めよ、
時と数と空間から我々を解放してくれ
生のために損われた安息を我々に返してくれ。[19]
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)