断片8
Philoponus In Aristotelis Categorias comment., Prooemium p.7, 16 Busse(cf. Eudemus fr. 7):
すなわち、アリストテレースの著作の改竄に3つの場合がある。ひとつは、<著者の>詐称等……、第二は著作の詐称である。というのは、彼〔アリストテレース〕の学徒たちは、エウデーモスにせよパニアスにせよ、テオプラストスにせよ、師匠にあこがれるあまり、解説にすぎぬものも範疇論とか分析論として書いたのである。そして第3は、そういった場合である。
断片9
Alexander In Aristotelis Metaphysica A9(990b15) comment. p.84, 16 Hayduck:
パニアスが『ディオドーロス・ポリュクセノスに寄す』という書の中で言っているところでは、このソフィストは「第三の人間」〔という説〕を唱道したと言っているという。〔その説によれば〕、「もしも、形相(idea) 例えば、人間そのもの(autoanthropos)〔=人間のイデア〕 への参与(metoche)と分有(metousia)によって〔現実界の個々の〕人間が在るのなら、〔現実界の個々の〕人間はその「在る」を形相に仰ぐところのもので在るはずである。しかるに、人間そのものは、イデアであるからして、イデアへの参与によって〔在る〕ことはないし、〔現実界の〕個々の人間も〔在ることは〕ない。「在る」を形相に仰ぐ第三の人間が他にもうひとり在ることが必要になる」。
断片10
Athenaeus 〔第14巻〕638b:
さらにまた、卑猥な歌曲の作詩者たちがおり、彼らについてはエレソス〔レスボス島南西岸の都市〕人パイニアスが主張して、『学者たちに対して』という書の中に次のように書いている。「ビュザンティオン人テレニコス、さらにアルガスも、卑猥な旋律の作詩者として、作詩の独自の特徴においては成功をおさめたが、それでもテルパンドロスやプリュニスの旋律にはわずかばかりも及び得ていないのである」。
断片11
Athenaeus 〔第6巻〕231e:
ところで、デルポイに納められている銀器・金器といった奉納物は、最初はリュディア人たちの王ギュゲースによって献上されたものである。つまり、この人が王位に就く前は、ピュティオスは銀なしであったし、さらにまた金なしでもあったとは、エレソス人パイニアスが主張し、テオポムポスも『ピリッピカ』(F Gr Hist 115 F193)の第40巻の中で〔主張しているところである〕。すなわち、この人たちが記録しているところでは、ピュティアの神殿が飾られたのは、ギュゲースの、彼の後ではクロイソスのおかげであって、この者たちの後では、シケリア人のゲローンやヒエローンのおかげである、前者が、黄金でこしらえられた鼎やニケー像を献上したのは、クセルクセースがヘッラスに遠征した時代であり、他方ヒエローンも同様のものを〔献上した〕。そこで、テオポムポスは次のように言っている。「昔、神殿に飾られたのは青銅の奉納物で、人像ではなく、青銅でこしらえられた釜や鼎であった。ところがラケダイモーン人たちは、アミュクライに鎮座するアポッローンの顔を黄金製にすることを望んだが、ヘッラスに黄金を見つけることができず、神託をうかがうために人を遣り、いずこにゆけば黄金を売ってもらえるか、この神に尋ねた。すると神は、リュディア人クロイソスのもとにゆき、彼に売ってもらよう彼らに託宣された。そこで出かけていった者たちが、クロイソスに売ってもらった。他方、シュラクゥサイ人ヒエローンは、精錬された黄金によってこしらえられた鼎とニケー像をこの神に献上したいと望んだが、長年にわたって黄金に窮し、後になって、探索者たちをヘッラスに派遣した。このとき、やっとコリントスにたどり着いた者たちが、探索して、コリントス人アルキテレースのもとにあるのを見つけた、この男は、久しきにわたって、少しずつ買いあさり、その蓄えを少なからず所持していたのである。とにかく、ヒエローンの使いの者たちに、彼らの望むだけを差し出し、あまつさえ、彼ら使者たちのおのおのの手をもこれで満たし、持てるだけを彼らに贈与した。この礼にヒエローンは船いっぱいの穀物や、他にも多くの贈り物をシケリアから送った」。パイニアスも『シケリアの僭主たちについて』という書の中に同じことを記録して、いわく、昔の献上品は、鼎にせよ釜にせよ短剣にせよ、青銅製であって、その中のひとつにこう刻銘されていると彼は主張する。
われを見よ。げに、イリオンの幅広き櫓に
われは在りき、髪美しきヘレネーをめぐって争いし時。
して、われを帯びたるは、アンテーノールの子、剛勇のヘリカオーンなり。
されど今、われを持てるは、レートーの御子の神的な境内。
鼎 パトロクレースの〔葬送競技〕にかけられた褒賞のひとつである の上には〔こう刻銘されている〕。
われは青銅の鼎、ピュトーの奉納物として供えられたもの。
われをまた、パトロクレースのために足速きアキッレウスがかけしもの。
そして献上せしは、テュデウスの子、雄叫びも勇ましいディオメーデース。
ヘッレスポントスの野の馬くらべに勝利したゆえに。
断片12
Plutarchus De defectu oraculorum XXII 422b (Petron Vorsokr. 6 16):
すると彼(sc. 外国人)がこう言った、 世界の数は無限にあるわけでもなければ、1つでも5つでもなく、その数は183、形は三角形に組成されており、各辺に60の世界を有する。残りの3つはそれぞれ〔三角形〕の頂点に位置しており、隣り合って連続した世界が、あたかも合唱舞踏においてのように、穏やかに回転しながら接している。また、三角形の内側の平面には、万物共有の炉床になっており、「真理の野(pedion aletheias)」と呼ばれ、ここに諸々の言葉も諸形相(eide)も過去および未来の諸々の範型も不動のまま横たわり、この周りに永遠(aion)があって、そこから流出するように時間(chronos)が流れ出てくる。しかし、これらのものを眼にし観想できるのは、人間的魂にとっては1万年に1度きりである、〔その1万年間〕生き方が良ければであるが。ここにおける完徳(telete)の最善のものでさえ、かの観入(epopteia)と完徳(telete)の夢にすぎない。そして愛知における言説こそは、かしこの美しきことどもを想起するためであって、さもなければ無駄な努力にほかならない。
同 XXIII 422d:
ところが、世界の数が彼(sc. その外国人)を批判する、というのは、それはアイギュプトス人のものでも、インドイ人のものでもなくて、シケリア出身のドーリス人 その名はヒメラ人ペトローン のものだからである。このひと本人の書は読んだことはないが、伝存しているものもわたしは知らないが、レーギオン人ヒッピュス(F Gr Hist 554 F 5) この人についてはエレソス人パニアスが言及している が記録しているところでは、この思いつきと言葉はペトローンのものであって、世界は183あって、構成要素(stoicheion)にしたがって相互に接しているという。しかし、この「構成要素にしたがって接している」というのがいったい何のことなのか、説明を進めていないし、他に何か説得的なことを付け加えてもいない。
断片13
Athenaeus 〔第1巻〕6e:
パイニアスの主張するところでは、キュテーラの詩人ピロクセノスは、さかなに目がなく、あるときディオニュシオスのところで食事をしていて、相手〔ディオニュシオス〕には大きなアカボラ(trigla)〔Mullus surmuletus, Mullus barbatus。イタリアでは今でもtrigliという。ピュタゴラス強とは食べなかったが(『断片集』189〕、ローマでは珍重した(Plinius, IX, 30 島崎註)が給仕されたのに、自分のは小さかったのを眼にして、これを[両手にとって]持ち上げて、耳に押し当てた。そこでディオニュシオスが、「何のためにそんなことをするのか」と尋ねると、ピロクセノスは云った 「ガラテイア〔の詩〕を書いているので、ネーレウスのことについて何かこいつから聞こうとしたのです。ところが、尋ねられてこいつが答えていうには、『あたしはまだ若いのに捕らえられました。ですから、お近づきになっておりませぬ。けれどもあちらのディオニュシオス様に給仕されましたのは、姉ですから、何なりとしりたいとお望みのことをはっきりと知っております』と」。そこでディオニュシオスは、笑いながら、自分に給仕されたアカボラを彼の方に渡してやった。こういうふうに、ディオニュシオスはピロクセノスといっしょに快く酩酊したのであった。けれども、〔ディオニュシオスの〕愛妾ガラテイアを〔ピロクセノスが〕堕落させたことが発覚するや、石牢にぶちこんだ。その中で〔ピロクセノスは〕『キュクロープス』を詩作して、自分の身にふりかかった受難を神話に著したのであった、ディオニュシオスをキュクロープスに、笛吹女にはガラテイアを、そして自分自身はオデュッセウスに見立てて。
断片14
Athenaeus 〔第10巻〕438c:
またエレソス人パイニアスは、『報復による僭主殺害』という表題をもつ書の中で主張している、 クレオーンの息子で、老スコパスの息子の息子〔=孫の〕スコパスは、酒飲みで生涯を終えた人物だが、酒宴からの帰りは、椅子に腰掛けたまま、四人の男に運ばれて、そうやって家に帰ったという。
断片15
Athenaeus 〔第3巻〕90e:
これらの貝を集める者たちは「マテガイ屋(solenistai)」と呼ばれると、エレソス人パイニアスが『報復による僭主殺害』という表題をもつ書の中で記録して、次のように書いている。「いわゆるマテガイ屋ピロクセノスは、民衆指導者から僭主に成り上がった人物で、初めは漁師をして、マテガイ漁師であった。これによって資金を得て、貿易証人となって生業を営んでいた」。
断片16
Parthenius Erotika pathemata VII.
ヒッパリノスについて。
エレソス人パニアスが記録している。
イタリアのヘーラクレイアに、容姿秀抜な少年(その名はヒッパリノス)がいて、これにきわめて声名高き人たちのひとりアンティレオーンが恋をした。あれこれ手を尽くして言い寄ったが、どうしても相手を同調させることができなかったので、少年が体育訓練を大いに時を過ごしているところに押しかけて、自分の情熱のほどを打ち明け、いかな労苦にも持ちこたえてみせる、何を言いつけようと、自分がし損じることはないと言い張った。そこで相手は、からかうつもりで、とある堅固な砦 ヘーラクレイア市民たちの僭主によって厳重この上なく警護されていた から、鐘(kodon)を自分のために運び降ろしてくれるよう下命したが、それは相手がこの競争に成功することは決してあるまいと信じてのことであった。ところがアンティレオーンは、ひそかに要塞に潜入し、鐘の番人を待ち伏せて殺害し、約束を果たして若者のもとにもどってきたので、彼に対する多大な好意が芽生えた、そしてそれ以降は、お互いに深く愛し合った。ところが、僭主がこの少年の若々しさに横恋慕したが力ずくでなびかせることができなかったので、アンティレオーンが心配し、少年には、反抗して危険を冒さないようすすめ、自分は家から僭主のところに出かけていって、襲いかかってこれを亡き者とした。そして、これをしでかしてから、走って逃げ、もしも縛り上げられた家畜〔ヒツジ〕の上に倒れて手に落ちることがなかったら、逃げおおせられたことであろう。それゆえ、都市が〔僭主制から〕旧に復したとき、ヘーラクレイア市民たちの間では、両者のために青銅の似像を建立し、以降は、縛り上げられた家畜は一匹たりと駆り立てるべからずという法習が制定施行された。
断片"17a"
Athenaeus 〔第8巻〕333a:
さらにまた多くの場所で、神が魚の雨を降らせたのをわたしは知っている。とにかく、パイニアスは『エレソスの評議員たち』の第2巻の中で、ケッロネーソスでは3日間にわたって神が魚の雨を降らせたと主張している。
断片"17b" Eustathius In Homer. A39 p.35, 17:
神は多くの場所で魚の雨さえ降らせたもうたというふうに、アテーナイオスが記録している。じっさい、パイニアスは、ケッロネーソスでは3日間にわたって神が魚の雨を降らせたもうたと主張している。
「魚まめ知識48」
「1900年の5月15日午後ニューヨークに強風と雷雨があり、黒雲の中から5cm〜12cm位の生きた魚が降ってきて、それがピチピチはねているので、子供たちはグショ濡れになりながら夢中で捕らえたとある。
18世紀のトランシルバニアに降った魚の雨の光景は、木版画となって残っている。また、1896年ドイツのエッセン地方に降ったニワトリの卵ぐらいのヒョウの中には43mm位の大きさのフナの稚魚が入っていたという記録が残っている。 同様の話は、50例以上記録され、ヨーロッパに降った魚も、ニシンなどをはじめとし多種類が記録されている」。
断片18
Athenaeus 〔第1巻〕16e:
さらにまた〔ペネローペーの〕求婚者たちも、彼(sc. ホメーロース)の作品において、扉口の前で双六に打ち興じているが(Od. I_107)、双六を学んだのは、大ディオドーロス[あるいはテオドーロス]からではなく、ましてアテーナイ人の血を引くミテュレーネー人レオーンからでもない。このレオーンは、双六で負けたことがないと、そうパイニアスが主張している。
断片19
Clemens Stromateis I cap. XXI 139, 3:
トロイア陥落から、ヘーラクレイダイの帰還まで、120年あるいは180年と集計している人たちがいる。この時から、エウアイネトスが執政官の時 この時に、アレクサンドロスがアシアに渡ったと言い伝えられている まで、パニアスは715年といい、エポロスは735年といい、ティマイオスは云々。
断片20
Plutarchus Solon XIV:
そこで、アテーナイ人たちのうちで最も知慮深い人びとは、独りソローンのみが諸々の過ちから最も外れており、富裕者たちと結託して不正をおこなうこともなく、貧民の逼迫状態に陥ることもないのを見て、公事に携わって不和・反目を終息させるよう頼んだ。ところが、レスボス人パニアスが記録していることはといえば、彼ソローンは両陣営に対して欺瞞の手を使い、救国のために、窮民たちには土地の分配を、財産家たちには契約の確保を、ひそかに請け合っていたという。しかし、ソローン本人の主張では、最初は政事に接することをためらい、一方の愛銭と、他方の尊大を恐れていたという。
断片21
Plutarchus Solon XXXII:
さて、ソローンが生涯を閉じたのは、ペイシストラトスが僭主支配を始めてから後、ポントス人ヘーラクレイデース(fr.148)が記録しているところでは、長らくたってから、しかしエレソス人パニアスによれば、2年もたたぬうちだという。すなわち、ペイシストラトスが僭主支配を始めたのは、コーミアスが執政官の時(561/60)、そしてソローンが死んだのは、パニアスの主張では、コーミアスの後を継いだヘーゲストラトスが執政官の時(560/59)である。
断片"22a"
Suda K 2745:
"kyrbeis"〔「回転柱」。アリストテレース『アテーナイ人の国制』VII_1(2)参照〕。
〔文意不明。強いて訳すと、「"kyrbeis"は神々の祝祭を内容とし、"krybies"のようなもので、この中に神々の隠された〔受身用法〕事柄が含まれていなければならなかった。アスクレーピアデースは、エレソス人パニアスの主張では、財産を規定した告示板(kyrbis)に由来する、という。この〔告示板〕によって、その内容が法文として有効になる」。〕
断片"22b"
Etymologium Gudianum "kyrbes"の項 (cf. Etym. Magnum "kyrbeis"の項):
〔文意不明。強いて訳すと、「神々の祝祭を内容とするか、さもなければ制度に関わることを内容とする。というのは、"kyrbastai"とか"kyrbies"という〔語形〕があるからである。神々の隠された事柄を知らなければならないから。アスクレーピアデースは、回転軸("axiones"。"axon"(車軸)の複数で、アテーナイにおける法の告知板(木製)を意味する〕の解説書の中で、エレソス人パニアスの主張では、財産を規定した告示板(kyrbis)に由来するか、あるいは、その内容が法文によって有効になること(kyrothenai)に由来するという」。〕
断片23
plutaruchus Themistocles I:
テミストクレースの氏素性の相当な曖昧さは、彼の名声を高める用をなさなかった。というのは、父親ネオクレースは、アテーナイにおいてそれほど著名な人の中に入らず、レオーンティス部族に属するプレアッロイ区民のひとりにすぎず、母方からいえば庶子であった〔このことは、母親の次の墓碑からわかる〕
生まれはトラキア女ハブロトノン。けれどわたしは主張す
ヘッラス人たちのために偉大なるテミストクレースを生んだと。
しかしながら、パニアスは、テミストクレースの母親はトラキア女ではなく、カリア女であり、また名前もハブロトノンではなくて、エウテルペーだと書き記している。ネアンテース〔前4世紀、プロポンティス(今のマルモラ海の南岸キュジコスで生まれた歴史家・弁論家〕にいたっては、彼女の〔生まれた〕カリアの都市はハリカルナッソスだとまで付け加えている。
断片24
Plutarchus Themistocles VII:
さて、異邦人の艦隊がアペタイ〔テッサリアの東南端、エウボイアの北に当たる岬と港〕に押し寄せたとき、エウリュビアデースは、舳先を並べた敵艦船の多さに驚倒し、あまつさえ、200艘がスキアトス〔テッサリアの東エウボイアの北にある島〕の外側をぐるりとまわって来航中と聞き知って、最も近い道を通ってヘッラス領内にもどり、ペロポンネーソスに接岸して、陸戦隊に艦隊を取り囲ませようと望んだ。〔ペルシア〕王の海軍力は無敵と思えたからである。〔これに対して〕エウボイア勢は、ヘッラス勢が自分たちを見捨てるのではないかと恐れ、ひそかにテミストクレースと談合すべく、多額の金銭を持たせてペラゴーンを派遣した。彼〔テミストクレース〕はこれを受け取り、ヘーロドトス(VIII 5)が記録しているところであるが、エウリュビアデース麾下の者たちに与えた。
〔アテーナイ〕市民たちの中で、最も強く彼〔テミストクレース〕に反対したのはアルキテレースであったが、この男は、聖船の三段櫂船指揮官であったが、船員たちに手当てを支給することができず、帰港を急いでいた、〔そこで〕テミストクレースは、この男に対する三段櫂船の船員たちの怒りをもっとけしかけたので、〔船員たちは〕結束して食い物を略奪するに及んだ。この事態にアルキテレースが意気阻喪し、落ちこんでいたとき、テミストクレースは彼のもとに箱に入れたパンや肉の食い物を送り届け、その底に銀子1タラントンを隠し、さしあたって食事をとり、次の日には三段櫂船の船員たちの世話をするよう彼に命じ、さもなけらば、敵方から銀子を受け取ったとおまえを市民たちに告発するぞといった。とにかく、こういうことをレスボス人パニアスが述べている。
断片25
Plutarchus Themistocles XIII:
テミストクレースが旗艦の三段櫂船で血祭を執り行っているところへ、3人の捕虜が連れてこられた。彼らは見るからに見てくれが最美にして、さらには黄金の衣装で豪華に着飾っていた。〔ペルシア〕王の妹サンダラケーとアルタユクテースとの子どもたちだと言われていた。彼らを占い師エウプランティデースが眼にしたとき、かつは犠牲獣から大きな、しかも輝く火が燃えあがり、かつは右手からくしゃみの予徴があったので、テミストクレースの右手をとって〔喜び〕、その若者たちをもって犠牲祭の手始めとして、生肉食いのディオニュソスに祈願して生贄に捧げるよう命じた。かくすればヘッラス人たちに救いと勝利がともにもたらされようというのである。テミストクレースは、その占いと恐ろしさの何と大きいことかと驚愕したが、大きな戦いや困難な事態に際してはよくあるように、合理的な事柄よりもむしろ思いがけぬ事柄(paradoxa)にこそ多衆は救いの望みをかけ、声をそろえてこの神を呼び降ろし、捕虜たちを祭壇のところまで引いていって、占い師の命じたとおり、供犠を執り行うよう強要した。このことは、哲学者であり、歴史書に無経験どころでないレスボス人パニアスが述べているところである。
断片26
Plutarchus Themistcles XXVII:
トゥキュディデース(I 137, 3)やラムプサコス人カローン(F Gr Hist 262 F 11)記録しているところでは、クセルクセースが死んだので、その息子とテミストクレースとの会見が行われたたという。これに反し、エポロス(F Gr Hist 70 F 190)やデイノーン(Muler FHG II p.93 fr.20)、クレイタルコス(F Gr Hist 137 F 33)、ヘーラクレイデース(Muler FHG II p.97 fr.6)、さらには他にもっと多くの人たちは、クセルクセース本人に謁見したという。年代的には、トゥキュディデースの方が合致していると思われるが、年代記そのものも相当に混乱している。さて、テミストクレースは、危機の瀬戸際にあって、先ず千人隊長アルタバノスに会って、自分はヘッラス人だが、重大な事柄 王がすこぶる熱心に知りたがっている事柄について王と面会したと言った。すると相手が謂った。「おお、外国の方よ、人間界の法習は相異なっている。何が美しいかは各人各様である。しかし、万人にとって美しいのは、みずからの法習を守り保つことである。ところで、あなたがたは、自由(eleutheria)と平等(isotes)とを最高に賛嘆しているという話(logos)だ。ところがわれわれには、多数の美しい法習がある中で最も美しいのは、王を崇敬し、万物を救う神の似像に額ずくこと、これである。そこで、あなたがわれわれの法習を尊重して平伏するならば、王に目通りすることも話しかけることもあなたに許されよう。しかし何はほかの考えを持っているなら、王への使者としては別の連中を使ってください。なぜなら、平伏しない者のいうことに耳を貸すということは、王にとって父祖伝来の仕来りにないからです」。これを聞いてテミストクレースは相手に向かって言った。「いや、わたしは、おお、アルタバノスよ、王の声名と権力を拡張するためにやってきたのです、だから、ペルシア人たちを偉大にした神に、そうするのがよいと思われるなら、わたし自身もあなたがたの法習に聴従しようし、わたしのおかげで今までよりももっと多くの王たちが平伏することになろう。そんなことで、わたしがあの王に云うことを望んでいる言説に、いかなる邪魔立てもしてはいけません」。アルタバノスが云った。「それでは、ヘッラス人たちの何者がやってきたわたしたちは謂えばいいのですか? 見識からいって、ただ者とは見えないから」。するとテミストクレースが、「そのことは」と謂った、「アルタバノスよ、王より先に聴き知る者がいてはいけないのです」。以上のように主張しているのは、パニアスである。しかし、エラトステネースは、『富について』という書物の中で、この千人隊長が妻としているエレトリケーという女のおかげで、テミストクレースとこの人物〔千人隊長〕との会見と会合が持てたのだと追加記録している。
断片27
Athenaeus 〔第2巻〕48c:
ヘーラクレイデース(Muler FHG II p.97 fr.5)が主張するところでは、ペルシア人たちが最初に、いわゆる「しつらえ人(strotes)」をも発明した、それは、〔寝台の〕しつらえが整美と感触の良さを有するためだったという。ところが、[クレーテー人]ティマゴラスとかゴルテュン出身のエンティモス これは逍遙学派のパイニアスの主張であるが とかが、テミストクレースにあこがれて、〔ペルシア〕王のところに参内し、アルタクセルクセースはこれをたたえて、美しさの点でも大きさの点でもとびきりの天幕(skene)と、銀の脚の寝椅子を彼に与え、さらには、高価な掛布(stroma)と、これをしつらえる者まで送り届けた、ヘッラス人たちはしつらえ方を知るまいと謂ってである。そして、このクレーテー人は王族の朝食にも呼ばれた、王の心をとらえたからである。こんなこと受けた者は、それまでのヘッラス人たちにはひとりもなく、後にもいない。というのは、この名誉は、王族にのみ守り通されてきたものだったからである。だから、アテーナイ人ティマゴラスには、王に跪拝の礼をし、特別にたたえられたけれども、彼にはそんなこと〔王族の朝食に招かれること〕は授からなかった。ただ、王に給仕されたもののなかから、そのいくばくかを、食卓から彼のもとに送り届けただけである。また、ラコーン人アンタルキダスには、自分の花冠を天仁花に浸して送っただけである。しかるにエンティモスには、そういった多くのことをしたばかりか、王族の朝食にまで呼んだのである。ペルシア人たちがこのことを快く思わなかったのは、名誉が俗っぽくなるばかりか、ヘッラスへ向けての再度の遠征がある予定になっていたからである。しかし、さらに〔王が〕彼〔エンティモス〕に送ったのは、銀の脚つき寝椅子、掛布、花のごとき天蓋付き天幕、銀の椅子、金箔の日除け、宝石をちりばめた黄金製大皿(phiale)20枚、さらに銀の大杯100枚、銀の混酒器(krater)、下女100人、僕童100人、金貨6000枚。日々与えられる必需品は別にしてである。
断片28
Plutarchus Themistocles XXIX:
彼(sc. テミストクレース)には3つの都市 マグネーシア、ラムプサコス、ミュウース が、大多数の〔歴史家たちが〕が言うところでは、パンと酒と魚の采邑として与えられたという。キュジコス人ネアンテース(F Gr Hist 84 F 17)とパニアスは、さらに他の2つの都市 ペルコーテーとパライスケープシス を、寝具と衣料の采邑として追加している。
断片29
Hesychius Lexicon "kerykes"〔「伝令使」の意〕の項(cf. Harpocration "kerykes"の項):
報告者(angeloi)、奉公人(diakonoi)、家来の勤めを果たす者たちのこと。嫡出の者(ithagenes)たちの"tenos"(?)もそう呼ばれていたのは、伝令使ヘールメスにちなむ。〔これは〕パニアス〔の説である〕。野生イチジクの枝吊りをする者たちをも"kerykes"と言う。
断片30
Diogenes Laert. VI 8:
パニアスが『ソークラテース学徒たちについて』という書の中で主張しているところでは、どうしたら美にして善なる者になれるかと、(sc. アンティステネースが)誰かに質問されて、こう主張したという。「君が持っている諸悪は逃れるべき対象だということを知っている人たちに学ぶなら」と。
断片31
Diogenes Laert. II 65:
この人物(sc. アリスティッポス)はソフィストとなり、逍遙学派でエレソス人パニアスが主張しているところでは、ソークラテース学徒の中で最初に報酬を取り立てて、金銭を師匠に送り届けたという。あるとき、20ムナを彼〔ソークラテース〕にに送ったが、送り返された。ダイモーンの合図が自分に許さないのだとソークラテースは云った。つまり、その送りものに不機嫌になったからである。
断片32
Athenaeus 〔第8巻〕352c:
逍遙学派パイニアスが『詩人たちについて』第2巻の中で。「アテーナイ人ストラトニコスは」と彼は謂う、「竪琴(キタラ)の独奏に初めて多弦による奏法を導入したと思われており、ハルモニア学の弟子をとった最初の人で、また音階(diagramma)を編成した。また滑稽な言動においても期待を裏切らなかった」。
断片33
Clemens Stromateis I cap.XXI 131, 6:
わけてもテルパンドロスにいたっては、これを古い時代の人とする者たちがいる。じっさい、ヘッラニコス(F Gr Hist 4 F 85b)は、この人をミダスの同時代人だと記録しているが、パニアスはテルパンドロスの前にレスボス人レスケースを置き、テルパンドロスをアルキロコスよりも新しいところに持ってゆき、レスケースは〔ミレトス人〕アルクティノスと競演して、勝利したと〔記録している〕。
断片34
Antigonus Historiae mirabiles CLV_CLVI p.37 Keller (Callimachus Fragmenta Grammatica fr.407, XXVII_XXVIII Pfeiffer):
パニアスが(sc. 記録しているとカッリマコスが主張している) †ピュラコイ人たちの†井泉は、乾あがると燃えだすという、また、アスカニアの泉〔ビテュニアのニカイアのそばの湖〕も飲める泉であるが、ここに運ばれたものは、洗剤なしでもきれいになり、この中に長い間放置しておくと、自然に消えてなくなるという。
断片35
Antigonus Historiae mirabiles CLXXI p.41 Keller (Callimachus Fragmenta Grammatica fr.407, XLII):
パイニアスが(sc. 記録しているとカッリマコスが主張している) レスボスのある地方や、ネアンドリア近辺では、土塊がヘビの咬み傷に有効である、〔この土塊は〕水の中に投げこまれても、沈みも溶けもしないと。(ピタネーでも、いわゆる煉瓦が浮くというのも、この種類に属するからであろう)。
断片37
Athenaeus 〔第2巻〕61f:
さらにパイニアスも『植物について』第1巻の中で。「花もつけず、種子や種子のもととなる瘤状の脚もなく、例えば、地上に生えるキノコ類(mykes)や、〔トリュフのように〕地下に生えるキノコ類(hydnon)、プテリス(pteris)〔Nephrodium filix-mas〕、セイヨウキヅタ(helix)〔Hedera helix〕がそれである。同人が主張する。「プテリスは、これをブラクノン(blachnon)と呼ぶ人たちもいる」。
断片38
Athenaeus 〔第2巻〕70d:
パイニアスは『植物について』第5巻の中で、シケリア産の棘のある植物をカクトス(kaktos)〔Cynara cardunculus〕と呼び、テオプラストスも『植物について』第6巻(Hist. pl. VI 4, 10)の中で同様に。「カクトスと呼ばれる植物は、シケリアにのみ産し、ヘッラスにはない」。
断片39
Athenaeus 〔第9巻〕371c:
パイニアスは『植物について』第5巻の中に次のように書いている。「種子本来の自然〔本性〕に従っているのは、いわゆるsepsなるもの、およびニンジン(staphylinos)〔Cynara carduncylus〕の種子である」。また第1巻の中で彼は主張する。「種子の自然が帽子形のものは除外、すなわち、アニス(anneson)〔Pimpinella anisum〕、ウイキョウ(marathon)〔Foeniculum vulgare〕、ニンジン(staphylinos)〔Cynara carduncylus〕、カウカリス(kaukalis)〔Tordylium apulum〕、ドクニンジン(koneion)〔Conium maculatum〕、コエンドロ(korion)〔Coriandrum sativum〕、スキッラ(skilla)〔Urginea maritima〕 これを「ネズミ殺し」と呼ぶ人もある」。しかし、ニカンドロスがアロン草に言及しているのだから、パイニアスも前述の書物の中で次のように書いていると付言しておくべきである、「ドラコンティオン(drakontion)〔Dracunculus vulgaris〕 これをアロン草(aron)〔Arum italicum〕*aronia*〔と呼ぶ人もある〕」と。
断片40
Athenaeus 〔第1巻〕29f:
エレソス人パイニアスの主張では、メンデー〔カリキディケー西部の都市〕人たちは、ブドウの木になっている房に野生キュウリ(elaterion)〔Ecballium elaterium〕〔の汁〕をふりかける。そうするとぶどう酒が甘口になるという。
断片41
Athenaeus 〔第1巻〕31f:
アントスミアス酒〔花の香のするブドウ酒〕のこしらえ方については、エレソス人パイニアスが次のことを主張している。「50クゥスのブドウ液に、1クゥスの海水が注がれると、アントスミアスができる」。また、こうも。「古いブドウの木よりは、新しいブドウの木からの方が、アントスミアスはより強烈である」。続けてまた主張する。「未成熟のブドウを踏みつけて液をとると、アントスミアスができる」。
断片42
Athenaeus 〔第2巻〕51e:
アルストテレースの学徒、エレソス人パイニアスは、野生種のクロミグワ(sykaminos)〔Morus nigra〕の実をモロン(molon)と呼び、それ自体もきわめて甘いが、完熟するときわめて快く〔=美味で〕さえあるという。さらに次のように書いている。「とげのあるモロンは、クロミグワのような球形の表皮がひからびても、クロミグワのような〔意味不明〕を保つ、あたかも〔意味不明〕や子房中隔がそぼろで風味のある〔?〕を保つように。
断片43
Athenaeus 〔第2巻〕54f:
パイニアスが『植物について』という書物の中で主張している。「食事の後付の場で出されるのは、なまの果物としてはエンドウマメ(ochros)〔Lathyrus orchrus〕、ソラマメ(kyamos)〔Vicia faba〕、ヒヨコマメ(erebinthos)〔Cicer arietinum〕、乾し果物としては、ほとんどがたいてい煮たもの煎ったものである」。
断片44
Athenaeus 〔第2巻〕58d:
パイニアスが『植物誌』という書物の中で主張している。「栽培種のゼニアオイ(malache)〔Lavatera arborea〕の種子の型は「厚焼き煎餅(plakus)」と呼ばれる、それに似ているからだ。というのは、櫛のように筋目だった部分は、ちょうど厚焼き煎餅の底のようだし、厚焼き煎餅本体の中央部には、臍状の出っ張りがある。この底部が取り除けられると、身ぐるみはがれた海のハリネズミ〔=ウニ〕に似ている。
断片45
Athenaeus 〔第2巻〕64d:
テオプラストスが『植物誌』第7巻の中で(Hist pl. VII 13, 8)。「各地で」と彼は主張する、「ボルボス(bolboi)〔Muscari comosum etc.〕はとても甘いので、なまのまま食べられるほどである、タウロスのケッロネーソス〔「半島」の意〕においてのように」。パイニアスも同じことを記録している。「さらに」テオプラストス(ib)の主張では、「毛の生えたボルボスの種類もあって、これは海辺に生える。そしてその毛は、最初〔一番外側〕の皮(chiton)の下、したがって、内側の食べられる部分と、その外側との間にはえている。この毛から、靴下(podeion)もその他の衣料も織られる」。パイニアスも同じように主張している。「インドイ人たちのところにある〔ボルボス〕は毛がある」。
断片46
Athenaeus 〔第2巻〕68d:
パイニアスが。キュウリ(sikuos)〔Cucumis sativus〕とペポーン(pepon)〔不明。スイカとかウリとか、そういったものであるらしい〕は、種を除いて外皮(perikarpion)がなまのまま食べられ、調理できるのも外皮のみである。セイヨウカボチャ(kolokynte)〔Cucurvita maxima〕は、生では食べられないが、煮たり焼いたりすると食べられる。
断片"47a"
Athenaeus 〔第3巻〕84c:
これら〔述べられたこと〕に対して、現在、セイヨウリンゴ(kitrion)〔Cicrus medica〕と言われているものが意味されているのではないといって反対する人がいるなら、もっとはっきりした証拠を提示しよう。じっさい、エレソス人パイニアスも、セイヨウリンゴ(kitrion)〔註〕はヒマラヤスギ(kedros)〔Juniperus ...〕にちなんで名づけられたわけではないということを、われわれに思いつかせてくれている。というのも、『植物について』第5巻の中で、ヒマラヤスギ(kedros)は葉のまわりに針を有する、と主張しているからだ。これと同じことがセイヨウリンゴ(kitrion)についてもいえることは、誰にでも明らかである。
〔註 TLGでは"kitrion"になっているが、柳沼は"kedrion"と読んでいる(何の注記もない)。"kedrion"は"kitrion"と同根の語とされる。L&S&Jの辞書も、"kedrion"の出典としてPhan. Hist.35を挙げているが、次の断片"47b"(Etymologicum Magnum p.515, 48)を参照せよ。〕
断片"47b"
Etymologium Magnum p.515, 48 Gaisford:
セイヨウリンゴ(kitrion)〔Cicrus medica〕。エレソス人パネースわたしたちに気づかせてくれているのは、セイヨウリンゴ(kitrion)はけっしてヒマラヤスギ(kedros)にちなんで名づけられたわけではないということである。というのも、ヒマラヤスギ(kedros)は、彼〔パネース〕の主張では、セイヨウリンゴ(kitrion)のように葉の周りに棘を有するからである。しかしアテーナイ人たちは、これの語源をその地名に求めている。〔すなわち〕オーロス。
断片48
Athenaeus 〔第9巻〕406b:
その後で配膳されたのは、焼いた鳥類、豆スープと土鍋で煮たシロエンドウ(pisos)〔Pisum sativum〕、なおその上に、エレソス人パイニアスが『植物について』という書物の中で次のように書いているものどもであった。「すなわち、およそ種子を播いて栽培される植物のうち豆を生ずるものは、煮て食するために播かれるのである、例えばソラマメ(kyamos)〔Vicia faba〕やシロエンドウ(pisos)〔Pisum sativum〕のごとく。こういったものからは、煮ればスープができる。また、ほかにはさらに、アラコス(arakos)〔Viora sibthoripii〕のごとく卵黄色をしたもの。豆スープになるものは、例えばホソバカラスノエンドウ(aphake)〔Vicia saltiva〕、レンズマメ(phakos)〔Ervum lens〕。さらに四つ足動物のための豆もある。例えばオロボス(orobos)〔Eruum ervilia〕は鋤牽く牛用、ホソバカラスノエンドウ(aphake)〔Vicia saltiva〕はヒツジ(probata)用である」。
断片50
Schol. in Theocriti Thalysia(VII)133/134 c p.110 Wendel:
パニアスの主張では、"oinarizein"とはブドウの蔓から芽を摘んで(periairein)裸にすること(trygan)だという。
断片51
Eustathius In Homer. I 521 p.1697, 60:
エレソス人が記録しているところでは、万一先陣切って飛びだしたら、亡き者にされようという神託が このことは後にじっさいに起こったのだが 、父親ピュラコスに与えられたとき、これを忘れないよう覚えておくため、プローテシラオスにも、テッサリア人ダルダノスが与えられたという。
〔???。プローテシラオスは、ヘッラス軍がトロイアの海岸に上陸したとき、最初に討ち死にした〕
//END
2002.10.24. 訳了