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イソップ伝

Testimonia Veterum De Aesopo Fabulisque Aesopiis



[出典]
AESOPICA :
Relating To Aesop Or Ascribed To Him Or Closely Connected With The Literary Tradition That Bearrs His Name;
Collected And Critically Edited, In Part Translated From Oriental Languages,
With A Commentary And Historical Essay;
by Ben Edwin Perry;
The University Of Illinois Press, Urbana, 1950.



TESTIMONIA VETERVM DE AESOPO FABVLISQVE AESOPIIS



VITAE MINORES(小伝集)

1
Prooemium de Aesopo ex Recensione Fabularum 1a

aesop.jpg 物語作家(logopoios)アイソーポスは、生まれはリュディア人であったが、運命(tyche)によって、アテーナイでケラシアという添え名を持つティマルコスの奴隷となった。性格的にはすこぶる高潔な人物にして、主人思いの奴隷として仕え、学芸(mousike)が彼の舌に霊感を与えたので、ヘッラス人たちをさまざまな寓話(mythos) — とりわけ、活き活きとした教育ならびに若者たちの教導に不適切ならざる — によってもてなした。教訓的にして有益な寓話(logos)を編集し、人生に寄与したが、それは言葉なき動物たちの共同体を縒りあわせてたもので、その寓話の中で、人間たちのひねくれた行為や自発的な習慣、種々様々な性格を譬えて、後付(epi-mythios)の中に明らかにした。また、教育の法則に合致した自然本性を有していたので、最善の書籍として尊重された。そのため、市民たちや、語ることを選択した人たちの間に、名誉愛をかけての競いあいが起こり、物語の豊富さを増した。こうして、ある人たちは〔例えばストバイオスのように〕、悲劇作品の中から要点を寄せ集めて、*詩人たちの警句の*真ん中に置いた、個々人の知識には、詩人たちの警句を証言として提示し、そうすることによって、その性格をより信じられるものにできると考えたからである。また他の人たちは、人生について美しく述べられた名言集の中から、はるかに多くを掻き集めた、われわれがそれの模倣者として、言葉〔書物〕の中から大事な事柄をより多く得られるとみなしたからである。またある人たちが手がけたのは、同じように言葉〔書物〕の中から矛盾点や合意点を、おのおのの種類ごとに譬え話に結びつけて、市民たちに伝え、そうすることで、多数の譬え話を競作に付すことができ、これによって反対論を強化することが可能となるためである。このような方法をアイソーポスが発見したのは、大衆演説においては、先ほど述べられたような奴隷たちや自由人たちにとって、寓話(mythos)による説明が有用であることを眼にしたからである。すなわち、ライオンたちやオオカミたちやシカたちやその他の動物たちの義務や、それが有する驚嘆すべき特質を眼前に据えて、聞き手の魂を導くを彼は常とした。つまり、われわれは作品に含まれる警句の中に、似たり寄ったりの話(diegesis) — これ〔作品〕によって構想・制作されてはいるけれど、それ〔警句〕に類似した — を見出すけれども、それは、われわれが要点を真理そのものと対比的に置いて、おのおのの寓話(mythos)の中で何が言われているかを考えるからである。

 これは、A. Eberhardumの"Fabulis Romanestibus Graece Conscriptis", (lipsiae 1872) 所収 pp.306 sqq. "Vita II"である。

 画像は、VEL[A]ZQUEZ, Diego Rodriguez de Silvay (b. 1599, Sevilla, d. 1660, Madrid)の"Aesop"(1640)

1a
 寓話作家(mythopoios)アイソーポスは、生まれはプリュギア人であったが、運命(tyche)によって奴隷となった、黒人にして、途方もないまでにはなはだ不細工だったからである。この人物は善行者にして、「運命(Tyche)」がこの人物のもとに立ち現れて、彼に知恵の言葉という恩恵を施し、かくてその理性(nous)に相応しい者となった。すなわち、綜観的教育と教訓にとって有益にして教訓的な多彩な寓話(mythos)を編集し、人生に寄与したのであるが、そのさい、言葉なき動物たちの共同体(koinonia)を縒り合わせ、その〔寓話の〕なかで、人間の所行や眼に見えぬ習慣や多彩な性格を譬えて、寓話の中に明らかにした。これによって、市民たちの間に名誉愛をかけての競作が起こり、物語の豊富さが増した。すなわち、ライオンたち、シカたち、その他の動物たちの驚嘆すべき特質が眼前に置かれることで、聞き手の魂を導くようになったのである。そこで、まったく同様にして、彼の物語は作品の警句の中に、婉曲に表現され、これ〔警句〕類似していることをわれわれは見出すのである。なおそのうえに、おのおのの寓話の中で言われていること — それが何なのかをも眼にするのである。

 Eberh., pp.309 sq. 所収 "Vita III"

1b
 寓話作家(mythopoios)アイソーポスは、生まれはプリュギア人であったが、運命(tyche)によって奴隷となった、黒人にして、途方もないまでにはなはだ不細工 — 頭でこぼこ、やぶにらみ、たらこ唇、太鼓腹、せむし、鼻べちゃ、どこをどうとっても形を成していなかったからである。だから、哲学者のクサントスなる者に買われて、〔彼の畑で〕畑起こしに従事している農夫たちの監督のために彼の畑に遣わされたが、時まさに真っ昼間で、暑さにぐったりとなって、樹蔭にもたれて眠りに落ちた。このとき「運命(Tyche)」が彼のもとに立ち現れて、夢の中で女神から月桂樹を馳走されたように思われた、まさにその苦さのために夢から覚めてみると、自分の舌がべらべらと動くことがわかり、何でも望みのことを話せるようになった。「見よ、ウシ、ウマ、イヌ、二本鋤、おんどり。神々にかけて」と彼は言った、「現(うつつ)なのだ、見たのは夢ではなかったのだ」。というのも、〔愚鈍でしゃべることのできなかった〕彼にとって、これこそはその他の諸々の害悪に対立するものであり……その善行と平和はどんなことにも由来したからである。そしてこういう次第で、われわれが謂ったとおり、「運命(Tyche)」が彼に常緑の月桂樹によって言う能力を恵み、そして〔彼は〕その理性に相応しい者となった。すなわち、綜観的教育と教訓にとって有益で教訓的な多彩な寓話を編集し、人生に寄与したのである、言葉なき動物たちの共同体を縒り合わせることによってであるが、その〔寓話〕の中で人間たちの所行や眼に見えぬ習慣や多彩な性格を導入として[l. 譬えとして]、寓話の中で明らかにした。ここからして、市民たちの間に名誉愛をかけての競い合いが生じ、言葉〔物語〕の豊かさを増し、云々

 Hoc est prooemium 1a duabus Vitae Aesopi recensionibus, W et Planudea, contaminatum.

2
Prooemium Vitae Aesopi a Maximo Planude Compositum

 人間界の出来事の自然本性をはっきりさせ、後世の人たちに伝え広めた人たちは他にもいる。しかしながら、アイソーポスほど、倫理的な教えの神的な霊感にはるかに深く触れて、他の多くの人々をはるかに凌駕した者はいないように思える。というのも、教訓(nouthesia)をたれるにしても、意見表明するわけでもなく、論理展開するわけでもなく、またもちろん、自分の世代より前の時代がもたらした歴史〔話〕に依拠することもなく、万事を寓話(mythos)によって知的訓練をし、しかもそれが聞き手の魂をあまりに強くとらえたので、理論派の人たちでさえ、小鳥たちも狐たちも〔登場し〕ないような話をしたり思考することを恥じ、あまつさえ、言葉なき〔生き物〕たちの多くが時宜を得た教訓をたれてきた事柄に改めて心を傾注しようとしたほどである。そこから、ある話は身にふりかかった危難を洞察させ、ある話は、時宜にかなった最大の利益を得させたのである。とはいえ、この — 国制の模像としての哲学者の独立不羈の人生を過ごし、言葉によってよりもむしろ行動によって哲学者であった人物は、生まれは、大プリュギアの呼び名を持つ地のアモリオンの出身であるが、運命(tyke)によって奴隷となった人であった。このことについては、プラトーンの『ゴルギアス』中に述べられていることが、すこぶる美しくかつ真実なこととしてあてはまるようにわたしには思える。すなわち、「たいていの場合、これらは」と彼は謂う、「お互いに正反対なのである、自然(physis)と法(nomos)は」(482E)と。すなわち、アイソーポスの魂を自然(physis)は自由人として引き渡したけれども、人間界の法(nomos)はその身を奴隷身分に引き渡したのである。しかしながら、彼は堅固であって、したがって魂の自由によってそこなわれることもなく、なるほど身体は多くの地方、さまざまな身分に住みかわったけれども、かの魂はその本来の位置を逸れることはなかったのである。とはいえ、彼は奴隷以外の何ものでもなかったばかりか、彼より後の時代のいかなる人間よりも不格好であった。というのも、頭でこぼこ、鼻はぺちゃんこ、首ずんぐり、たらこ唇、黒人(名前もここに由来した。というのは、アイソーポスとは、アイティオピア人というのと同じだから)、太鼓腹、扁平足でせむし、この姿の醜怪さは、たちまちにしてホメーロスのテルシテースをも凌駕した。けれども、彼のなかで何にもまして最悪だったのは、どもりで、音声のしるしなく、言語不明瞭だったこと。一事が万事、アイソーポスには奴隷身分が用意されていたとさえ思える。というのも、身体がこれほど奇態な男に、奴隷たるの網の目からのがれられたとしたら、それこそが驚くべきことであったろうから。とにかく、この男の身体はこのとおりであった。しかし魂は、生まれつき抜け目なきことこのうえなく、ありとあらゆる思いつきにかけては、犀利なことこのうえなかった。

 さて、この男を所有している旦那は、〔アイソーポスが〕内向きの仕事にはてんでなじめないものだから、畑仕事をするよう野良にさしつかわした。そこで彼は出かけて行き、その仕事を熱心にやった。やがて主人も、仕事の監督をするために畑にやってくると、ひとりの農夫が善きものらの中からイチジクをもぎとって、贈り物として差し出した云々

Textum dedi secundum Eberth. Variae lectiones paucae sunt ac parvi momenti. De Vita Planudea in universum vide supura, pp.1 et 30 sq.

3
『スーダ』所収の伝記

 アイソーポスは、サモス人ないしサルデイス人である、しかしエウゲイトーンはメセームブリア人だと云い、他の人たちはプリュギアのコテュアイオン人だと云っていた。物語作家(logopoios)となったが、物語作家(logopoios)とは、物語(logoi)と回答書(apokrima)〔?〕の創始者のことである注1)。クロイソスに寵愛され、そこで過ごした、ピュタゴラスの同時代である。彼の盛時は第40オリュムピア年である。デルポイで自分の身にふりかかった事件を2巻本に書いた。むしろ、一部の人たちの主張では、アイソーポスが書いたのは回答書(apokrima)のみであったという。なぜなら、デルポイにおいてパイドリア断崖と呼ばれる断崖から彼らデルポイ人たちによって突き落とされて不正に亡くなったから、それは第54オリュムピア年〔前564年〕だ、という。また、リュディア人クサントスの家僕となった〔という人もいるが〕、他の人たち〔の主張で〕は、サモス人イアドモーンなる者の〔家僕〕であって、この人物の女奴隷に、ロドーピスもいた。この女奴隷は娼妓で、生まれはテッサリア女、サッポーの兄カラクソスが妻にとり、この女から子を成したという。[『スーダ』の「アイソーポス」の項]


DE PATRIA AESOPI(アイソーポスの生国について)

4
 アイソーポスをプリュギア人と証言するのは、上記『イソップ伝』の作者たち(上のTest.1a, 1b, 2 以下)と『スーダ』の前述の箇所、さらに Phaedrus III prol.52 App.11,2; Dio Chrys. Or. XXXii 63; Gellius II 29(後出の Test.99); Lucian. V.H. II 18; Zenob. V 16(後出の Test.37); Max. Tyr. XXXii 1; Ael. Var.H. X 5; Libanius Socr.Apol. 181(Test.29), Ep. 764(ed. Foerster X 689); Himerius Or.xiii 5(Test.30); Isidorus(Test.64); Constant. Porphyr. De Them. I 4(ed. Bekker, Corp. Hist. Byz. XI 25):

 ……ドリュライオン〔プリュギアの都市〕と当のコテュアイオン〔プリュギアの都市?〕まで、当地の出身者は、あの最も有名な古人アイソーポス — 物語を人生に適用・導入した最初の人物である。

5
 アイソーポスはトラキア人なりと確言するのは Heraclides in Re Pub. Samiorum (M[u]ller FHG II 215):

 アイソーポスは昔、物語作家として好評を博した人物。生まれはトラキア人であったが、自由を得たのは、おし(kophos)のイドモーンによってで[Aristoph. Aves 471 に対する古註もそう〔おし(kophos)と〕なっているが、知者(sophos)となっているのは、Cora[e]s post Gelenium ad Aristoph.; Grauert 60]、初めはクサントスの奴隷であった。

 Constat hunc locum ex Aristot. Re Pub. Samiorum sumptum esse, id quod dilucide ex eis apparet quae simillima legimus apud schol. ad Aristoph. Aves 471(=Aristot. fr.573, Rose):

 物語作家としてアイソーポスを〔ひとびとは〕尊敬していた。しかしアイソーポスはトラキア人であった。自由を得たのは……奴隷であった[この部分は上記を見よ]。喜劇作家のプラトーンも……昔アイソーポスのそれのように[後出 Test.45]。寓話のうち、言葉なき動物に関するものがアイソーポス風、人間たちに関するものがシュバリス風である。しかし、短くて簡明なのをシュバリス寓話という人たちもいる、ちょうど『薬種屋(Pharmakopoles)』におけるムネーシマコス(Mnesimachos)のように。〔ひとびとは〕アイソーポスを尊敬し、アリストテレースも『サモス人の国制』の中で、彼は寓話を語って好評を博していると主張している。

 その寓話とは、おそらくは、「狐と針鼠」(f.427)であろう;Test.41 参照。

6
Suidas l.c. (supra Test.3):

 "Rugeit[o]n de Mes[e]mbrianos eipen". Mesembria uebs Thraciae. Nomen "Eugeit[o]n" falsum esse videtur: veri similius "Eugei[o]n" quod a Cupero propositum probant Grauert p. 66, M[u]ller FHG II 16, alli. "Eugai[o]n onoma kurion" laudat Suidas s.v.; quocum conferas lemma "N[e]is" de bestiis quibusdam in Samo, ubi "[ho]s Eutai[o]n" latere probabile est (Dobree) ; idem Suidas de "Eugeit[o]n" ceteroquin silet . De Eugeone Samio, qui teste Dion. Hal. (Thuc. Iudic. 5) ante bellum Peloponnesiacum vixit et "[Ho]rous Sami[o]n scripsit, vide M[u]llerum l.c. et Jacoby RE VI 819, s. Euagon. Iure suspiceris et ea quae Aristoteles in libro de re publica Samiorum de Aesopo retulisset ab Eugeone esse petita. "Mes[e]mbrianos" Suidae libri plerique, "Marmarianon" unus cod. Parisinus (G); unde "Amorianon" coni. Hemsterhusius coll. Planude ad init. (Test.2), sed perberam.

7
 Quod Aesopus interdum Lydus vocatur (Test.1) vel Sardianus (Test.3, 23) vel Samius (3, 50, 58), id nil aliud significare videtur nisi quod in Lydia aut in insula Samo aliquam vitae partem degisse credebatur, id quod inter omnes convenerat. Max. Tyr. alio loco (p. 412 Hobein) Lydum eum appellat, alio Phrygem (p. 367).


DE AETATE(年齢について)

8
Diog. Laert. I 3, 72所引、カッリマコス派ヘルミッポス:

 第52オリュムピア年〔前572-569〕のころ、[キローンは]年老いていたが、このころ、物語作家アイソーポスは盛時にあった。

9
 Eusebi Chron. Canonum Liber, ed. Schoene II p. 94 (interp. Armen.) ad annum Abrahami 1452 = Ol. 54.1 = annum a.C.n. 564: Aesopus fbbellarum auctor a Delphicis interemptus est. Ib. interpr. Hieron. ad Ol.54. 1: Aesopus interimitur a Delphis.

10
IG XIV 1297 col. II 15-18 (cf. Iahn-Michaelis, Gr. Bilderchroniken oo.77, 79):

 このときから知者たち(hoi sophoi)がこの名で呼ばれた、.....年
 このときからペイシストラトスがアテーナイで僭主となり、アイソーポスがデルポイ人たちによって突き落とされた、579年。

11
『スーダ』引用せる文中(Test.3):

 亡くなった.....突き落とされて.....第54オリュムピア年ごろ。

12
 昔の作家たちにおいて、アイソーポスが盛時にあったとき、同時代人として述べられているのは、ソローン〔前594年の筆頭執政官〕、クロイソス〔在位、前560-546〕、七賢人、サッポー〔前600頃〕、アマシス〔エジプトのファラオ、エジプト名はアアフ・メス、在位、前569-525〕、シュロスのペレキュデース〔ピュタゴラス派、前544頃〕;
 参照:Test.5, 10, 13, 17, 24, 34-39


DE DOMINIS AESOPI DE RHODOPIDE CONSERVA(アイソーポスの主人について、奴隷仲間の女ロードピスについて)

13
Herodotus II 134-135:

[134]
 ……ギリシア人の中には、このピラミッドが遊女ロドピスの作ったものであるというものがあるが、誤った説である。このような説をなす者たちが、ロドピスが何者であったかも知らず……、またロドピスの盛時はアマシス王の時代に当たり、ミュケリノスの代ではないことも知らぬのは明らかである。ロドピスというのは、右に述べたピラミッドを残した諸王よりも遙かに後の人物で、生まれはトラキア人で、ヘパイストポリスの子イアドモンというサモス人に仕えた奴隷女で、かの寓話作家アイソポスとは朋輩の奴隷であった。アイソポスがイアドモンの奴隷であったことは確かで、それには次のような有力な証拠もある。すなわちデルポイ人が神託に基づきアイソポス殺害の補償金の受取人を求めて、幾度も触れを廻した時、出頭したのはこのイアドモンの孫で同名のイアドモンただ独りで、他には誰も現れず、このイアドモンが補償金を受けとったというわけで、アイソポスは確かにイアドモンの奴隷であったのである。
[135]
 ロドピスはクサンテスなるサモス人に伴われてエジプトへ来ると、媚びを売って生業を立てていたが、ミュティレネ人のカラクソスなる者に大金をもって身請けされた。カラクソスはスカマンドロニュモスの子で、かの詩人サッポーの兄である。
 こうして自由の身となったロドピスはエジプトに留まったが、まことに妖艶な女であったので、莫大な産をなした。その富はしかし、ロドピスという女一人には確かに莫大な富であったろうが、宏壮なピラミッドの費用を賄うに足るほどの額ではなかった。……というのはロドピスはギリシアに自分を記念するものを何か残したいと思い、ほかの誰も思いつかず、また神殿に奉納したこともないようなものを作らせ、これを自分の記念物としてデルポイへ奉納したのである。ロドピスは自分の財産の十分の一を費やして、牛の丸焼きに使えるほどの鉄串多数を金の許す限り作らせ、これをデルポイに送ったのであった。この鉄串は今でも、本殿正面のキオス人奉納の祭壇の背に積み重ねてある。
 ナウクラティスには妖艶な遊女が多かったようで、今の話の主である女も、ギリシア人でロドピスの名を知らぬ者がないほど有名になったし、またロドピスより後の時代になってからアルキディケという遊女がギリシア中にその名を謳われたが、ロドピスほどには騒がれなかった。
 カラクソスはロドピスを身請けしてから国許のミュティレネに帰ったが、サッポーはその詩の中で兄のことを大いに責めている。(村川堅太郎)
(参照:Sappho fr.25, 26[Diehl], および Test.17)。
 参照:主人のイアドモンないしイドモンについては、Test.3, 5, 14, 17, 24 ;クサントスについては、Test3, 5;アテナイ人ティマルコスについては、Test.1
 In Vita primus Aesopi dominus nomine caret, secundus Ophelion mango (c.12), tertius Xanthus Samius, philosophus, a quo manumissus est (c.90). Aesopum solum quondam domino fuisse familiae refert Phaedrus III 19 (f.510〔野次馬とアエソプス〕)。

14
Ptolemaeus Hephaest. apud Photium in Bible. cod. 190 (Migne CIII 628):

 そしてアイソーポスも、奴(やっこ)(doulikos)のようなものであったから、主人のイドモーンから「奴(Thes)」と呼ばれていたと謂われる。"thes"とは奴隷のことだからである。

15
Plin. N.H. XXXVI 12, 82:

 彼女[sc. ロドーピス]は、あの寓話集をつくった哲学者アイソーポスの奴隷仲間にして連れ合いであったが、売春によってあれほどの富が獲得されたことを考えると、われわれの驚きはいっそう大きくなる。

16
Plut. De Pyth. Orac. 14(400e〔正しくは f〕):

 アカントス人たちやブラシダスの<無人の>屋敷に通りがかり、案内人がわたしたちに、一画 — ここにかつて遊女ロドーピスの鉄串があった — を示したとき、ディオゲニアノスが憤慨して、「するって〜と、同じ都市が」と謂った、「ロドーピスには、稼ぎの十分の一を寄進して奉納する場所を提供し、彼女と奴隷仲間のアイソーポスは破滅させるということをしたってわけか」。

17
Photius Lex. sub 「ロドーピスの奉納物」(=『スーダ』の項目):

 デルポイには多数の鉄串がある。ポントス人アペッラスは、アイギュプトスのピラミッドも〔ロドーピスの奉納物〕だと思っている、この考えにヘーロドトスは批判的だが。〔ロドーピスは〕生まれはトラキア女であった。アイソーポスと同じくミテュレーネー人アドモーンの奴隷となったが、サッポーの兄カラクソスがこれを自由とした。もっとも、サッポーは彼女をドーリカと呼んでいる。

18
Strabo XVII 33(ed. Meineke):

 また言われているところでは、[このピラミッドは]遊女の塚で、恋慕者たちによって作られたという。その遊女を、抒情詩人サッポーはドーリカと呼び、自分の兄カラクソスが、交易で葡萄酒をレスボスのナウクラティスに陸揚げした際に馴染みとなった恋人だというが、他の人たちは、ドローピスという名で呼んでいる。伝説では、その遊女が入浴していたところ、彼女の履き物の片方を、ワシが召使いからさらってメムピスに運び、王が野外で裁判をしていたところ、その頭上にやってきてその履き物を膝の上に落とした。王はその形にも予想外の出来事にも心を動かされて、それを身につけていた女人を探索するため、処々方々に人を遣わし、かくてくだんの女がナウクラティス人たちの都市に見つけられて伴いゆかれ、王の妻となったが、命終後、上述の塚を得たという。
 Eadem fere narrat Aelianus V.H. XIII 33, qui addit regem fuisse Psammetichum.

19
Athenaeus XIII 596 b-c (Kaibel):

 ネウクラティスも、評判の高い、美しさの点でもきわだった遊女たちを産した。ドーリカもそうで、美しきサッポーは彼女のことを、自分の兄のカラクソスが、交易でナウクラティスに航行したときの恋人だが、カラクソスから多額の金銭を着服したといって、詩を通して非難している。しかしヘーロドトスはこの女人のことをドローピスと呼び、〔ドローピスは〕ドーリカとは別人だということに気づいていない、〔ドローピスの方は〕デルポイに音に聞こえた〔鉄〕串をも奉納した女人であり、その〔奉納物〕についてはクラティノスが次の詩句を通して言及している…〔欠損〕…ドーリカについては、以下のような寄物詩(エピグラム)をポセイディッポスが作り、[たしかに]『アイティオピア』の中でもしばしば彼女に言及している。その詩はこうである。

 ドーリカよ、おまえの骨は、とうに灰、身にまとわれし房なす
 長髪と、香の香る打ち掛け、
  — かつて、愛しのカラクソスをこれで包み
 肌に肌を寄せて、寝覚めの盃を味わったもの。
 サッポーの詩は今も愛され、白き頁は
 歌を響かせつづける。
 浄福きわまりなきおまえの名を、ナウクラティスの町は守りつづけよう、
 ネイロス河の舟が外つ潮海に旅立つときまで。

AESOPVS APVD DELPHOS(デルポイにおけるアイソーポス)

20
Aristoph. Vesp. 1446 sqq.:

ピロクレオーン「アイソーポスをデルポイ人たちはあるとき — 」
ブデリュクレオーン「そんなことおいらに関係ねえ」
ピロクレオーン「神の大杯(phiale)を盗んだという罪を着せた。そこで彼は彼らに言った、昔々、クソムシ(kantharos)が — 」
 参照:f.3〔鷲とセンチコガネ〕; Vitae c.134 cum adn.〔?、寓話が語られるのは『イソップ伝』133章だが……〕; Test.21 Test.69

21
Schol. Aristoph. Vesp. 1446:

 言い伝えでは、彼[アイソーポス]はある時デルポイに行ったが、彼らをからかって、耕して身過ぎ世過ぎとする大地を持たず、いたずらに神の奉納物で生きながらえているといった。そこでデルポイ人たちは怒って、聖なる大杯(phiale)を彼の道具類に忍ばせた。そうして、彼は何も知らずにポーキスへ向かう旅に出発した。そこで彼ら〔デルポイ人たち〕が襲いかかって、〔大杯を〕探り出し、彼を神殿荒らしの罪で告発した。こうして彼は神殿と都市から程遠からぬ断崖(神殿荒らしはここから突き落とすのが定めだった)に連行されたとき、クソムシの寓話(mythos)を彼らに語った。こ〔の寓話〕には、……この詩人は『平和』[129行、Test.69 を見よ]の中でも言及している。

22
Heraclides de re publica Magnetum (?), FHG II 219:

 パミス(Phamis)は執政官だったが、彼の息子たちを〔人々は〕神殿荒らしとして生贄にするために逮捕した。これと同じことがアイソーポスについても起こった。というのも、彼は神殿荒らしの罪で亡き者にされたからである、彼の敷物の中から黄金の大杯(phiale)が探り出されて。

23
Callimachus in P. Oxy. 1011, vss. 171-173:

 さて、こういったこと[s.c. f.431「人間の饒舌さ」q.v.]をサルデイス人アイソーポスは言ったが、どんな物語(logos)を話してもデルポイ人たちは美しく受け容れようとはしなかった。

24
Plut. De Sera Num. Vind. 12, 556f.:

 そういうわけで、もちろん、アイソーポスはそこから出かけていったと言われている、クロイソスから黄金を受けとって、その神〔アポッローン〕に気前よく供犠し、かつ、デルポイ人たちのおのおのに4ムナを分かち与えるためである。ところが、どうやら、彼に一種の腹立たしさと、当地の人々に対する反感がわきおこったらしく、供犠の方はしたけれど、金銭の方は、人々は益されることを望んではいないからといって、サルデイスに送り返してしまった。〔これをデルポイ〕人たちは知って、彼に神殿荒らしの罪を着せて、あのヒュアムペイアとひとびとの呼ぶ断崖から突き落として処刑してしまった。ところがそのせいで、言われているところでは、この神格が祟りをなして、彼らに大地の不作とありとあらゆる種類の異常な病気とを見舞ったので。ヘッラスの全祭のおりに巡回して、アイソーポスのために望む者は自分たちから償い(dike)を受けるよう触れまわり、呼びかけたという。そして3世代後に、サモス人イドモーンがやって来て、生まれのうえではアイソーポスと何の縁故もなかったが、サモスで彼を購入した者たちの子孫という。そこでこの者になにがしかの償いをして、デルポイ人たちは諸悪からまぬがれた。また、彼のせいで、言い伝えられるところでは、神殿荒らしたちに対する処罰〔の場所〕も、ヒュアムペイア(Hyampeia)からアウリア(Aulia)へと変更されたという。

25
P. Oxy. 1800, saeculi ut videtur secundi p.C.n. exeuntis, ed. Grenfell et Hunt, XV 139 sq.:

 語られているのは、次のような理由である。ひとが参内してこの神に供犠しようとするとき、デルポイ人たちは戦刀(machaira)を身におびて祭壇を取り囲み、犠牲獣[原文のままでは"hiere[o]s〔神官〕]の喉が切り裂かれ、犠牲獣の皮が剥ぎ取られ、臓物が掻き出されると、まわりに立っている者たちがめいめい自分の力の及ぶかぎりの分け前を切り取って立ち去る、そのため、供犠した当人が分け前なしで立ち去ることしばしばであった。このことでアイソーポスはデルポイ人たちを悪く言い、嘲笑したので、これに多衆が怒り、彼に投石し、崖下に突き落とした。ところが、程経ずして、飢饉という受難がこの都市にふりかかり、この神が彼らに託宣して、アイソーポスを清祓するまでは、この病のやむことなしと述べ伝えた。そこで彼らは、彼が斃れた場所を壁囲いし、祭壇と病気の救済像を建立し、半神に供犠を捧げたのであった。

 Continebat papyrus varias illustrium vitas breviter ac summatim compositas, inter quas haec de Aesopo.

26
Schol. ad Callimachi iambos in PSI 1094 (Papiri Greci e Latini IX [1929], ed. G.Vitelli, pp.160 sq.), saec. secundi (?) p.C.n.:

 Call.:〔未訳〕

Schol. ad alterum versum:

27
Zenobius I 47 (CPG I 18):

 アイソーポスの血(Ais[o]peion haima):ぬぐいがたい汚名や害悪に悩まされる人々について〔云われる慣用句〕。デルポイ人たちが不正にアイソーポスを亡き者にしたとき、精霊的なもの(to daimonion)が怒ったからである。そして、そのためにピュティアは、言い伝えでは、アイソーポスにまつわる穢れ(mysos)を祓うよう彼らに〔神託で〕指示したという。なにしろ、アイソーポスが神の寵愛を受けた人物であった程度たるや、テュンダレオースやヘーラクレースやグラウコスのように、彼が生き返ったと話されるほどだからである。

 似たような伝説が伝えられるのは、『スーダ』の「アイソーポスの血(Ais[o]peion haima)」や「生き返る(anabi[o]nai)」(後出 Test.45)といった語彙、その他の慣用句編集者の作品においてである;出版物の当該箇所を見よ。

28
Libanius De Iuliani Vind. 31 (ed. Foerster II 528):

 デルポイに飢饉が起こったのは、アイソーポスが彼らを笑いものにしたかどで撃ち殺されたせいであった。それにしても、この人物を殺すことがそれほどの意味を持っていたのは道理なのか? とはいえ、やはり、この国(polis)は飢饉になり、たったひとつの解決策は、償いをすることであった。

29
同 in Socratis Apologia 181 (Foerster V 118 sq.):

 このとき、この神ご自身は、ご自分の神官たちに立腹なさり、諸々の害悪をふりかからせなさった。それにしても、論争好きな人なら、プリュギア人アイソーポスを後のソークラテースに比較しないような者がいようか? しからば、くだんの前者が恐るべしと思ったその死を身に引き受けることが容易であったなどと、どうして考えてよいであろうか?

30
Himerius Or. XIII 5-6 (ed. D[u]bner p.69):

 言い伝えでは、プリュギア人の物語作家アイソーポスも……(Test.56 を見よ)全治者(pansophos)となり、それゆえ、アポッローンの犠牲となったという。デルポイ人たち、それも占術によってこの神の近くに住まう者たちは、この人物についてあまりに無知だったので、これに不正な〔有罪〕票決をくだし、崖下に投げすて、アイソーポスを抹殺してしまった。けれども、母親は竪琴を持ったオルペウスをけっしてなおざりにしなかったごとく、アポッローンもこのプリュギア人をなおざりにはしなかった。むしろ、レイベートロン〔オルペウスの育ったトラキアの山〕人たちは、辱めを選んだオルペウスの竪琴を、狂気と無音学と沈黙とに変えた……デルポイ人たちはアイソーポスに対する暴慢(hybris)の償いを、祖国の神自身に払ったのである。

31
『スーダ』の「突き落とした(E[o]sen〔"[o]theo"のアオリスト3人称単数)」の項:

 アイソーポスについても。デルポイ人たちは彼を断崖の下に激しく〔?"mala"〕突き落とした。

 「彼を断崖の下に激しく〔?"mala"〕突き落とした」という詩句については、以下を参照せよ:Crusium in Babrii Fab. p.208 sq.,また既出 Test.23. Versum ita refecit Cr.: 「彼をひどく(mala)<涜神的にも>断崖の下に突き落とした」。

32
Lucian. Phalaris I 6 (Phal. Delphos adloquitur):

 ……それはちょうど、あなたがたのところにいる誰かが、ひとりの神殿荒らしが断崖から突き落とされるのを眼にしたときに、〔その男のしでかしたことを〕考えもせず、云々。

同所に対する古註(ed. Rabe p.4):
 この断崖はヒュアムペイア(Hyampeia)と呼びならわされ、ここからは神殿荒らしたちだけを突き落とした。ここでは暗黙裏にデルポイ人たちをあざけっているのである。アポッローンに奉納されていた黄金の混酒器を彼〔アイソーポス〕が盗んだと濡れ衣を着せて、断崖からアイソーポスを突き落としたといって。


DE AESOPI CVM SOLONE ALIISQVE SAPIENTIBVS ET CVM CROESO COMMERCIO

33
Athen. X 431d 所引 喜劇作家Alexis、ここではアイソーポスとソローンとの対話を述べている(=Kock CAF II 299 sq.):

 似たようなことはアレクシスも『アイソーポス』の中で次のように述べている。

  「ソロンさま、これはお国のアテナイの
  なかなか賢い発明でありますな。
  「何のことかな」。「宴会で生酒は
  お飲みにならぬ」。「ところがそれは容易じゃない。
  車で売りに来る酒は、もうちゃんと割ってあってな。
  それで儲けようというのではなく、買う側のことを考えてで、
  酒宴の後も頭をすっきりさせておくため。これがギリシャ流でな。
  盃もほどほどの大きさのものにする。そして、
  おしゃべりも、馬鹿をいうのも、楽しくやる。
  酒冷まし器だの壺だの、そういうのは別の用途、
  つまり宴会ではなく、入浴用じゃな」。「それじゃ死んだも同然だ」。

34
Diod. Sic. IX 28 (in excerptis):

 アイソーポスは同じころ、七賢人といっしょに盛時をむかえ、この者たちは権力者とのつきあい方を知らない、というのも、ああいう連中とはなるべくいっしょに生活しないようにするか、なるべく快くいっしょに生活すべきなのに、と云ったということ。

35
Plut. Vit. Solon. 28:

 物語作家のアイソーポスは、クロイソスに招かれてたまたまサルデイスに至り、尊敬されていたが、ソローンはいっこう愛想よくしてもらっていないのを気遣っていた。そこで彼に勧めて、「おお、ソローン」と謂った、「王侯連中とは、なるべくつきあわないようにするか、なるべく気に入られるようにつきあうべきです」。するとソローンが、「ゼウスにかけて」と云った、「そうではなくて、なるべくつきあわないようにするか、なるべく善くなるようにつきあうべきなのだ」。

 [この話はTzetzes Chil. V 382 sq と比較せよ。]

36
Plut. Sept. Sap. Conv. 4 (150a):

 アイソーポスも(というのは、つい最近、クロイソスからペリアンドロスのもとと同時に、デルポイにまします神のもとに遣わされ、たまたま陪席していたのである、高い席を占めたソローンの傍に、地に這うような座席に腰をおろして)、「リュディアの半驢馬は」と謂った、云々。

 f.315a〔騾馬〕を見よ。賢者アイソーポスはここで

37
Zenob. V 16 (CPG I 122):

 「プリュギア人の方がまし(Mallon ho Phryx)」。言い伝えられるところでは、クロイソスが賢者たちを歓待して、誰が最も幸福者か知っているかと質問した。すると各人各様に言った中で、寓話作家のプリュギア人アイソーポスは、クロイソスが他の者たちよりも〔幸福である〕程度たるや、海が諸々の河川により優位にあるほどであると〔答えた〕。これを聞いてクロイソスは云った、「プリュギア人の方がましだ」。

 Proverbium "mallon Phryx" usurpatur ab Heronda in Mim. V 14; habent etiam Photius, Suidas, Apostolius cum simili explicatione. Suidas s.v. (quocum faciunt Phot. et Apost.):
 「プリュギア人の方がまし(Mallon ho Phryx)」は、当時からの諺(proimia)である。七賢人たちがクロイソスから、この世にあるものらの中で最も幸福なのは誰かと質問されて、ある人たちは野生の動物と答えた、独立不羈に死ぬからと、またある人たちはコウノトリと〔答えた〕、自然本性的に法習の義しさを二つながら持っているからと、またソローンは、最期の日まで何びとも〔幸福〕ならずと〔答えた〕。すると、そばに立っていたプリュギア人の物語作家アイソーポスが、「これほどまでに」と云った、「陛下は余人を凌駕しておられます、海が河川にまさっているほどに」。これを聞いて云々。

38
 アイソーポスとキローンとの対話を伝えるのは、infra in Sent.9〔152E〕、イビュコスとの対話は、Sent. 24 所引 中の詩。Celaeto(Croeso?)との対話は、Sent. 4 において。


AESOPVS ATHENIS VERSATVR

39
Phaedrus I 2, vss. 1, 5, 6, 9:

 アテナエが平等な法のもとに栄華をきわめていたころ……
 ペイシストラトスが城塞を占領して僭主となった。
 アッティカの人々は惨めな隷属を嘆いた……
 アエソプスは次のような寓話を話してきかせた。
 [以下に続く寓話は「王様を欲しがる蛙」(後出 f.44 参照)。
 あてはまらなくはないのは、Ph. III 14(=f.505〔ゆとりと緊張〕), Ph. IV 5(f.512〔謎の遺言〕); 既出 Test.133; f.73〔海豚と猿〕参照。]


AESOPVS IN SAMO CAVSAM DICT(サモスで弁護するアイソープス)

40
Diog. Laert. II, 5, 42:

 また[ソークラテースは]アイソープスふう寓話(mythos)をも詩作した、大して上出来ではなかったが、その初めは、

 あるとき、アイソーポスはコリントスの町に留まっている人たちに言った、
 民の裁くような知恵(laodikos sophia)で徳(arete)を裁いてはならないと。
 f.424〔コリントス人に語るイソップ〕と Test.73 参照。

AESOPVS IN SAMO CAVSAM DICIT

41
Aristot. Rhet. II 20:

 アイソーポスはサモスで死刑判決を受けた民衆指導者を弁護して謂った、狐が云々
 Vide f. 427 et supra Test.5.


AESOPVS IN ITALIA(イタリアにおけるアイソーポス)

42
Hesychius:「シュバリス物語(Sybaritikoi logoi)」

 つまり、アイソーポスはイタリアにやってきて、すこぶる熱心になったという[言い伝えられる?]のは、彼の物語の種類が豊富になり、シュバリス物語と命名されることであったという。だから、シュバリス物語とは寓話のことである。


ORACVLA AESOPO DATA(アイソーポスに下された神託)

43
Athen. V 219a:

 なぜなら、こういった神託のお伺いを立てる連中を、神はばっさりと打ち据えたもう、例えば、アイソーポスだったか他の誰だったか、「どうしたら富裕になれましょうや、ゼウスとレートーの御子〔アポローン〕さま?」とお伺いを立てた者に、神はせせら笑って答えた、「コリントスとシキュオーンとの間を所有するなら」と。
Schol. Aristoph. Av. 968:
 寓話作家のアイソーポスが富裕について神託をこうたところ、神は云った、「間を〔所有する〕なら云々。
 Cf. Suid. 「「間を〔所有する〕なら」の項、Zenob. III 57.も。

44
Avianus in praef. ad Theodosium (ed. Ellis):

 この主題をわたしは、世に知られた先師アエソプスからとってきた。彼はデルポイのアポッローンの忠告に応えて、教訓を確立するため、面白いことを始めた。


DE AESOPO REDIVIVO(生き返ったアイソーポスについて)

45
Schol. Aristoph. Av. 471 (既出 Test.5 参照):

 喜劇作家のプラトーンも、彼〔アイソーポス〕は生き返ったとして、『ラコーン人たち』の中で次のように主張する。「じっさい、わしにとっては死んでないのも同然、魂は昔アイソーポスのそれのように、もとのまま」。ところで寓話には、云々(以下、Test.5 に続く)

『スーダ』の「 "anabionai"〔生き返る〕」の項:
 今までにも一部の人たちが主張しているところだが、そもそもアイソーポスはすこぶる神に愛された人物だったので、彼は生き返りさえした、あたかもテュンダレオースやヘーラクレースやグラウコス[Zenob. in Test.27 参照]。喜劇作家プラトーンも主張している。「今もわしにとっては身体は死んでないのも同然。わしわな。魂は勝利している、昔アイソーポスのそれのように」。

Versus sic redintegrat Cobet :
 じっさい、わしにとっては死んでないのも同然。B「身体はべつにして、
 昔アイソーポスのそれのように、魂はもとのままじゃ。

 De aliorum emendationibus vide Kock CAF I 619, qui scribit
 じっさい、わしにとっては死んでないも同然。わしは身体は〔死んでいる?〕が、/魂はもとのまま……

46
Hermippus Callimachius apud Plut. in Vita Solonis 6 (cf. FHG III 39):

 さてこのこと[i.e. ソローンがターレスと対話したこと]を記録しているのはパタイコスで、アイソーポスの魂が存続したと主張していたのは彼だとヘルミッポスは主張する。

47
Ptolem. Hephaest. apud Photium in Bibl. cod.252:

 アイソーポスはデルポイ人たちによって亡き者にされたが、生き返り、テルモピュライでヘッラス勢と共闘したという。

48
 Huc, si quidem omnino usquam, referendae sunt ineptiae scholiastae ad Aristoph. Vesp. 566 (アイソーポスの面白いやつ(Aisopou ti geroion)):

 アイソーポスは悲劇の滑稽役の俳優(hypokrites)になった。ただし、アイスキュロスの俳優(hypokrites)であったが。


DE STATVIS ET IMAGINIBVS(彫像と肖像について)

49
Phaedrus II 9, 1-4:

 アッティカの人々はアエソプスの才能を讃えて人像を建て
 永遠の台座の上にひとりの奴隷を据えた、
 そのおかげであまねく知られた — 名誉への道が開かれていること、
 栄光は生まれではなく徳に与えられるということが。

50
Agathias in Anth. Plan. IV (Pal. XVI) 332:

 〔アイソーポスの像に寄せて〕
 よきかな、老いたるリュシッポスよ、シキュオーンの彫像家よ、
 サモス人アイソーポスの像を建てたるが
 七賢人の向かいとは。何となれば、この連中はおのれらの発言に
 余儀なさ(ananke)を植えこむ、説得にはあらずして、
 されどかの〔アイソーポス〕は、知恵ある寓話や作り話によって主要なことを言いつつ、
 真剣に戯れつつ、慎重であれと説得する。
 おしつけがましい訓告なんてご免だ。されどサモス人の
 寓話の甘美さは、美しき魅力を有する。

51
Tatianus Contra Graecos 34 (ed. E. Schwartz):

  寓話(mythologemata)はアイソーポスをそらごと語り(pseudologos)として永遠に記憶さるべき人物たることを立証するのみならず、アリストデーモスの彫像は、丹念な造りであることを〔立証する〕。

52
Philostratus in Imaginibus I 3 (ed. Benndorf et Schenkl):

 「寓話」たち(Mythoi)が彼アイソーポスを歓愛して彼のもとに通うのは、自分たちの世話をしてくれるからである。たしかに、神話(mythos)にはホメーロスもヘーシオドスも意を用いたし、さらにはまたアルキロコスもリュカムベースにこと寄せて〔意を用いた〕けれども、人間どもの諸事万般はアイソーポスによって語り出されたのであり、〔アイソーポスは〕言葉〔道理〕(logos)のために獣たちを言葉(logos)に与らせたのである。すなわち、強欲(pleonexia)を打ち倒し、暴慢(hybris)や欺瞞(atate)を追い払い、しかもそのうえ、彼に代わって演じるのが、ライオンといったものやキツネや、ウマや、ゼウスにかけて!カメさえも無音ではなく、これらのもののおかげで、子どもらは人生の諸事の生徒となるのである。かくして、「寓話」たちはアイソーポスのおかげでよき評判を得たので、この知者の門前に通い、彼に〔栄誉の〕鉢巻を巻きつけ、彼に〔オリーブの〕若枝の花冠をいただかせる。〔この絵の中で〕わたしが思うに、彼は何かの寓話(mythos)を織りなしているところなのだ、大地に向けられた顔の微笑と両眼が、そのことを明らかにしている。この肖像画家は、「寓話」たちを思案するには、魂の解放が必要なことを知っている。つまり、絵画術は「寓話」たちの身体をも研究する〔=愛知する(philosophein)〕。なぜなら、獣たちは人間たちと落ちあって、アイソーポスを取りまいて、彼の天幕〔舞台〕で役割を演じながら、合唱舞踏をくりひろげるからである。この合唱舞踏の指揮者としてはキツネが描かれている、なぜなら、アイソーポスはたいていの題材の中でこれを従者(diakonos)として、ちょうど、喜劇作家がダウオス(Davos or Davus)を〔使う〕ように、使っているからである。


VARIA DE AESOPO FABVLATORE(物語作家アイソーポスに関する様々)

53
Aristoph. Vesp. 566:

 ある連中はわしらに神話(mytoi)を言い、ある連中はアイソーポスの滑稽なのを。
同 1258:
 それともあんた自身が何か雅やかな話(logos)を言う、/アイソーポス風の滑稽なのとか、シュバリス風のとか、酒宴で学んだやつの中から。

54
Lucian. V.H. II 18:

 アイソーポスも[sc. 幸福の島に]いて、彼には好きなだけ滑稽譚をこしらえることが許されていた。

55
Avianus, 既出 Test.44:

 ……彼はデルポイのアポッローンの忠告に応えて、教訓を確立するため、面白いことを始めた。

56
Himerius Or. XIII 5 (cf. Test. 30):

 言い伝えでは、さらにまたアイソーポスも……(一部の人たちは、彼の物語(logoi)はもとより、顔そのものも声も滑稽でおかしいと考えていたけれども)、全知者(pansophos)となって、云々。

57
Phaedrus III prol. 33-40 8ed. Postgate):

 そもそも、寓話という種類はなぜ発明されたのか、
 すこしく説明しよう。罰を怖れて何も言えない奴隷が、
 自分の気持ちを短い話に託し、
 滑稽を隠れ蓑にして叱責をまぬがれた。
 それがしは彼〔アエソプス〕のために小径を大道となし、
 彼が残してくれたより多くを考案した。
 もっとも、それがしの選んだもののおかげで、ひどい災難に遭ったが。

58
Iulian. Or. VII 207c (ed. Hertlein):

 ところで、物語(mythoi)の中のホメーロスとかトゥキュディデースとかプラトーンとか……サモス人アイソーポスは、運命(tyche)によってよりはむしろ自己選択(proairesis)によって奴隷であったのであり、無知慮ではなかったが、ありのままの姿では一人前の男でもなかった。なぜなら、法が発言の自由を分かち与えることのなかったこの男には、忠告(symboule)を供するにも、快楽と愛嬌によって陰影と彩りをつけることがふさわしかったからである。思うに、それはあたかも、医者でも自由人の医者たちは、必要なことを言いつけるが、運命(tyche)によって家僕であると同時に、その術知(techne)においては医者であるような者は、主人に追従し奉公することを強いられて事に当たるようなものである。

59
Hermogenes in Progym. 1 (後出 Test.101参照):

 ……アイソーポスはつきあいのために寓話を使った。

60
 さまざまな場面でアイソーポス自身が語る寓話、とくに『イソップ伝』中に見出されるのは、c.33〔?〕(=f.382〔デルポイ人の先祖〕 infra), ib. 67(f.380〔心を放り出した男〕), ib.94 (f.383〔二つの道〕), ib.97 (f.153〔狼と羊〕), ib.99 (f.387〔キリギリスを捕る男〕), ib. 128(f.388〔寡婦と農夫〕), ib. 130(f.386〔愚かな娘〕), ib. 132(f.384〔鼠と蛙〕), ib. 134(f.3〔鷲とナイチンゲール〕, cf. Test.20), ib.139 (f.381〔年老いた農夫と驢馬〕), ib.140 (f.379〔娘に恋をした男〕); item Phaedrus I 2(f.44〔王様を欲しがる蛙〕, cf. Test.39), I 6(f.314〔太陽と蛙〕), IV 15(f.515〔プロメテウス〕), IV 17(f.78〔船旅をする人々〕), App.10(f.540〔若い牛と年寄りの牛〕); item Ps. Dositheus 15(f.284〔いっしょに旅をする人間とライオン〕); item infra f.8〔造船所のイソップ〕, 424〔コリントス人に語るイソップ〕, 427〔狐と針鼠〕, 429〔波を数える男〕, 453〔狼と羊飼い〕。

61
 寓話の中でアイソーポスが主人公をなしているのは次のとおり:

 Phaedrus II 3〔悪党の成功について語るアエソプス〕(f.64), III 3〔アエソプスと牧場主〕(f.495, cf. Plut. Sept. Sap. Conv. 149 c sqq.), III 5〔アエソプスと図々しい男〕(f.497), III 14〔ゆとりと緊張〕(f.505), III 19〔野次馬とアエソプス〕(f.510), IV 5〔謎の遺言〕(512), App.7〔アエソプスとひとりの作家〕(f.537), App.11〔アエソプスと格闘競技の勝利者〕(f.541), App.15〔アエソプスと女主人〕(f.545), App.18〔アエソプスと逃亡奴隷〕(f.548); Vita 37〔野菜に水をやる庭師〕(f.119); Aristoph. Vesp. 1401 sqq.(f.423〔アイソーポスと牝犬〕)。

62
Philostratus in Vita Apoll. V 15 (ed. Kayser):

 わたしはといえば、おお、メニッポスよ、アイソーポスの知恵に関する寓話をも、わたしがほんの幼少のみぎり、母がおしえてくれた、それによれば、アイソーポスは、昔は羊飼いで、ヘルメースの神域のほとりで放牧していたが、知恵を恋し、それを神に祈った、ところが、他にも多くの者たちが同じものを祈願してヘルメースのもとに通いつめ、ある者は黄金を、ある者は銀を、ある者は〔伝令官の〕象牙の職杖を、ある者は同じような華美なものを〔祭壇に〕吊したが、アイソーポスは、そういったものは何ひとつ持っていないという、そういう有様であったので、自分の持っているものはのけておき、羊が搾乳されるとき与えてくれるだけの乳で彼〔ヘルメース〕に灌頂し、手に持てるだけの蜂の巣を祭壇上に運び、さらにはミルテでもてなそうと思った、バラないしスミレの花をほんの少し供えて。「願わくば、おお、ヘルメース神よ」と彼は言った、「〔あなたのために〕花冠を編み、家畜のことを気にせずにすみますように」。さて、〔願掛けをした者たちが〕知恵の分配に与るため、所定の日にやって来たとき、ヘルメースは賢明にして利得の神であるから、「おまえは」と、謂った、「哲学を受けるがよい」と、もちろん最も多くのものを奉納した者に、また、「おまえは弁論家たちの間に立場を占めよ」と、きっと2番目に嘉された者に、「おまえには天文学の分野が、おまえには音楽家であることが、おまえには半神の韻律の作家たることが、おまえにはイアムボス詩の……」。こうやって、たしかに〔ヘルメースは〕最も賢明な神だけれども、心ならずも、愛知の部分のすべてを使い果たし、われ知らずアイソーポスのことを抜かしていたが、思いついたのは、ホーラたち — 彼女らによって自分はオリュムポス山のいただきで育てられた — が、当時、自分が産衣にくるまっているときに、牝牛に関する寓話 — 牝牛が自分自身と大地について人間と対話するという話 — を話して聞かせてくれた、〔そのおかげで〕自分をアポッローンの牛たちに対する恋におちいらせたということであった、そこで、この寓話語り(mythologia)を、「知恵」の家には残りがなかったので、アイソーポスに与え、「受け取るがよい」と云った、「わしが初めて学んだことを」。


QVAEDAM AD FABVLARVM HISTORIAM PERTINENTIA(寓話の歴史に該当するもの)

63
Babrius II 序 (ed. Crusius)

 寓話(mytos)というものは、おお、アレクサンドロス王の御子よ、
 昔のシュリア人たちのめっけものにして、
 その人たちは、往古、ニノスやベーロスの御代の人たちであった。
 言い伝えでは、これを最初に、ヘッラスの子どもたちに語ったるは
 賢者アイソーポス、またリュビア人たちに物語(logoi)を
 語ったるはキュビッセース。されどそれがしは、新たな調べもて
 この物語(mythiambos)を与えん、軍馬のごとく
 黄金の額飾りもて身ごしらえさせて。

64
Isidorus Etymol. I 40 (ed. Lindsay) :

  Fabulas poetae a fando nominaverunt, quia non sunt res factae, sed tantum loquendo fictae. Quae ideo sunt inductae, ut fictorum mutorum animalium inter se conloquio imago quaedam vitae hominum nosceretur. Has primus invenisse traditur Alcmeon Crotoniensis, appellanturque Aesopiae quia is apud Phrygas in hac re polluit. Sunt autem fabulae aut Aesopicae aut Libysticae. Aesopicae sunt, cum animalia muta inter se sermocinasse finguntur, vel quae anilnam non habent, ut urbes, arbores, montes, petrae, flumina. Libysticae autem, dum hominum cum bestiis, aut bestiarum cum hominibus fingitur vocis esse commercium.

65
Theon in Progym. 3 (Spengel, Rh.Gr. II 73):

 しかし、一般的にアイソーポス寓話集と名づけられるのは、アイソーポスが寓話(mythoi)の最初の発明者だったからではなく — というのは、ホメーロス、ヘーシオドス、アルキロコス、他にも彼の先達が何人か知られているばかりか、じっさいのところキリキア人コンニス(Konnis)、シュバリス人テゥーロス(Thouros)、リュビア人キュビッソスが、寓話作家(mythopoios)として一部の人たちによって言及されている — 、しかしアイソーポスは、〔それらの人たちよりも〕もっと派手に、かつ、器用に、それら〔寓話〕を使用したがためである。

66
『スーダ』既出 Test.3:

 彼[アイソーポス]はデルポイで自分の身にふりかかった事件を2巻本に書いた。むしろ、一部の人たちの主張では、アイソーポスが書いたのは回答書(apokrima)〔?〕のみであったという。

67
Vita Aesoi, c.100(G):

 かくてアイソーポスは彼[クロイソス]のために自作の物語(logoi)や寓話(mythoi)を編集し、これは今もその名で呼ばれているが、これを文庫に残した。Ib. recens. W:
 かくて自作の物語を編集して、これは今に至るも読み継がれているが、王のために残した。

68
Apthon. Progym. 1:

 アイソーポスの[寓話(mythos)]と言われるのは、アイソーポスが誰よりも最善に寓話を著したことによって、勝利したからである。
 Test.102 を参照。

69
Aristoph. Pax 129 sq:

 アイソーポスの物語集なるものの中に見いだせるが、/こいつ〔クソムシ〕のみが神々のところまで行きついたと。
  f.3〔Perry3「鷲とセンチコガネ」〕 と既出 Test.21 を見よ。

70
ARISTOPH. Av. 470:

 アイソーポスにも精通しておらんな、/彼はこう言って主張しとる、云々
 (f.447「父親を埋葬する雲雀」).

71
同 651:

 ほれ、あの、アイソーポスの物語の中にじっさいに言われていることやけど、キツネが、昔、ワシと下手に仲良くなって(f.1〔鷲と狐〕)

同上の古註:
 この寓話は、はっきりとアイソーポスに帰せられているが、アルキロコスの作品の中で言われており、〔アルキロコスはアイソーポスよりも〕もちろん年長である。

72
 アイソーポスに帰せられる寓話は、しばしば他の作家の作品の中に登場して語られる — Hesiodus Op.201 sqq(f.4a〔ナイチンゲールと鷹〕), Archilochus (f.1〔鷲と狐〕と 81〔王に選ばれた猿と狐〕), Aristot. Rhet. II 20 所引 Stesichorus(f.269a〔猪と馬と猟師〕), Aischylus (f.276a〔射られた鷲〕), ソポクレス『アイアス』1142-58(この寓話は、ペリー『Aesopica』には収録されていない), Herodotus I 141(f.11a〔笛を吹く猟師〕), Aristophanes(Test.70 と f.423〔イソップと雌犬〕を見よ), Xenophon Mem. II 7,13 (f.356a〔羊と犬〕), Plato Phaed. 60c(f.445〔快と苦〕), Alcib. I 123a(f.142〔老いたライオンと狐〕), Aristoteles 同上(f.427〔狐と針鼠〕), Meteor. II 3, ad init. (f.8〔造船所のイソップ〕), Pol. III 8, 2, 1284a(f.450〔ライオンと兎〕)。

73
Plato in Phaed. 60d, 61b(Burnet):

 「というのは、じつは、そのアイソーポスの物語(logoi)や、アポッローンへの讃歌を、張り切って詩作しておられるという作品の件ですが、今まで他にも何人かの人たちがわたしに質問したのです……〔その彼らに〕何と言えばいいのか、云ってください」。
 ケベスのこの問いに答えてソクラテス、
 「そういうわけで、まず最初に、もっか供犠が行われている神〔アポッローン〕に捧げる詩作をした。そして神のあとで、思いついた、いやしくも詩人(poietes)たらんとするからには、詩人は物語(logoi)ではなくて、寓話(mythoi)をつくるべきだと。ところが自分は寓話作家(mythologikos)ではない、そこで、手近な寓話(mythoi)で、よく知っているアイソーポスのそれの中から、先ず初めに行き合ったのを詩作したってわけだ」。
 Test.40 参照。

74
Diog.Laert. V 5, 80 sq:

 著書の多さと詩行の数の点で、[パレーロン区のデーメートリオスは]彼と同時代のペリパテース派の人々ほとんど全員を凌駕していたのは、どのようなひとよりも教養があり、経験豊かだったからである。それらの著書のうちには、あるものは歴史書、あるものは政治書、あるものは詩人に関する書、あるものは弁論書 — 公的集会や使節報告書 — 、いやそればかりか、アイソーポスの物語の集成や、他にも数々ある。また、アテーナイの立法に関する書が第1,第2,第3,第4巻……弁論術に関するのが第1,第2巻……アイソーポスの書が第1巻、金言集が第1巻。

75
 Fragmenta collectionis cuiusdam alioqui deperditae exstant graece apud C.H. Roberts, Catalogue of the Greek and latin Papyri in the John Rylands Library vol.III (1938) nr.493. Hic liber descriptus est saeculo ut videtur primo p.C. n. ineunte, sermone pedestri. Praebet vestigia fabularum quattuordecim, quarum tantummodo quinque vel sex agnosci possunt, eae scilicet quas nos infra sub numeris 269, 208, 110 (an 174?), 111, 437, 93(?) digessimus. Facile credas hanc collectionem ipsius fuisse Demetrii, frustra tamen demonstrare tentaveris. En specimen (以下の f.111〔ヘーラクレースとプルウトス〕)

 富裕にして同じく邪な者には、次の物語があてはまる。
 ゼウスが、神々の仲間に引き上げられたヘーラクレースにご馳走したとき、他の神々にをも食事に呼んだ。それぞれの神がやってくるたびに、ヘーラクレースは慇懃に挨拶したが、最後に「富裕(Ploutos)」が近づいてくると、ヘーラクレースは下を向いて背を向け、相手に話しかけなかった。ゼウスが驚いて、どうしてそんなことをするのかヘーラクレースの尋ねたところ、こう答えた、「おお、父神よ、この方がいつも極悪人どもといっしょにいて、連中とたくらみ事をしてすごしていたのを、わたしはを存じておるのです」。これに対して「富裕(Ploutos)」が云った、「極悪人の人間よ……」

76
Phaedrus I prol.:

 アエソプスはわが先達、これらの素材を見出した、
 それがしはこれにセナリウスの韻律で磨きをかけた。
 この小著の持参金に二つあり。笑いをさそい、
 賢明なる助言で人生のふるまい方を導くこと、
 動物ならまだしも、植物までが喋るなんてと
 けなす人あらば、たわむれに作り事を語っていることを思い起こされたい。

76a
同 II prol. 8-11:

 あの有名な老人に精いっぱい従うつもりでいる。
 とはいえ、それがしのものをさしはさむとしたら、
 話し手の感覚で変化をつけるため、
 そんなときは、読者よ、どうか大目に見ていただきたい。

76b
同 III prol. 29, 38-40:

 第3の巻をアエソプスの筆で書き記そう
 ……
 それがしは彼〔アエソプス〕のために小径を大道となし、
 彼が残してくれたより多くを考案した。
 もっとも、それがしの選んだもののおかげで、ひどい災難に遭ったが。

76c
同 IV prol. 10 sqq.:

 されば、パルティクロどの、寓話に魅せられている貴殿ゆえ
 (これを「アエソプスの」ではなく、「アエソプス風の」とそれがしは呼ぶ。
 彼が世に出したは僅か、それがしが生み出せしは数多なれば、
 昔ながらの容れ物に新しき中身を詰めこんで)
 暇を見つけてこの第4の巻も読み通していただけよう。

76d
同 V prol. 1-7

 アエソプスの名前をいずこかにさしはさむとすれば、
 返すべき負債はとっくの昔に返し終えたゆえ、
 あとは権威づけのためだと考えていただきたい。
 あたかも、今の世の工芸家たちが新作品でたんまり儲けようとするとき、
 大理石の像にはプラクシテレス、
 磨き銀細工にはミュス、絵画にはゼウクシスと書きこむごとく。

77
Seneca ad Polyb. de Consol. VIII 3:

 Non audeo te eo usque producere ut fabellas quoque et Aesopeos logos, intemptatum Romanis ingeniis opus, solita tibi venustate connectas.

78
『スーダ』の項目:

 バブリアス(Babrias)ないしバブリオス(Babrios)、寓話集(Mythoi)あるいはイアンボス詩形寓話集(mythiamboi)〔の作者〕。すなわち、跛行イアンボス詩形(choliambos)による10巻本の中に含まれている。これをアイソーポス寓話集からとって、その物語化に際して韻律をつけた、もっといえば、跛行イアンボス詩形に変えた。

79
Babrius II prol. 9-12:

 この扉はわたしによって最初に開かれたのだが、
 他の人たちが入りこんできて、賢しらな調べの
 判じ物にも似た詩を送り出している、
 わたしが知っている以上のことは何も学ばず。

80
『スーダ』の「ニコストラトス(nikostratos)」の項:

 マケドニアのニコストラトス、弁論家。2流と判断された10弁論家のひとりで、アリステイデース注2)やディオーン・クリュソストモス注3)と同時代。すなわち、王マルクス・アントーニヌスの御代であった。書いたのは『十寓話集(Dekamythia)』『数多の寓話(Polymythia)』『海で働く人々(Thalattourgoi)』、その他多数。

81
Hermogenes『諸形相について』ed. Rabe p.407:

 ニコストラトスはといえば……上述の誰にも劣らず素朴(apheles)であったが……寓話と、それによる快楽とを喜んだ。またみずからも多数の寓話を創作したが、それはアイソーポスふうであったばかりか、いくぶん演劇的(dramatikos)でもあった。

82
Ioannes Siceliota in scholiis ad Hermog. l.c. (Walz Rh. Gr. VI 503):

 「アイソーポスふうであったばかりか云々」……例えば「燕と人食い鮫(lamia)について」という話を語る場合、また『十寓話集(Dekamythia)』の中に述べられている話も全体的に、政治的ではなく、演劇的で詩的であった。
 [註]"lamia"は"neania"の誤写とされる。f.169〔燕と放蕩息子〕参照。

83
Ausonius in epist. 12 ad Probum:

 Apologos Titani et Nepotis chronica quasi alios apologos.....ad nobilitatem tuam misi.....libello tamen apologorum antetuli paucos apodos.....sequuntur vss. 74 sqq.:

 Apologos en misti tibi
ab usque Rheni limite
Ausonius, nomen Italum,
praeceptor Augusti tui,
Aesopiam trimetriam,
quam vertit exili stilo
pedestre concinnans opus
fandi Titianus artifex.
 Cf. Crusium, Babrii Fab. p.7

84
 キュビッソス寓話については、Test.63, 65, 88, 89, 90 を見よ。キリキア人コンヌス(Connus)については 65; シュバリスのThuroについては 65


DE GENERIBVS(類別について)

85
Theon in Progym. 3 (Spengel Rh. Gr. II 72 sq.):

 寓話(mythos)とは、真理を譬えたところのそらごと(logos pseudes)である、ただし、知っておくべきは、ここで考察の対象としているのは、寓話全体ではなく、叙述の後に、譬えが何の譬えであるかをしめした言葉(logos)を後付けするような寓話のことだということである。もっとも、その言葉を先に述べて、寓話を後付けにするときもあり、これらはアイソーポス風寓話とかリュビア風寓話とかシュバリス風寓話とかプリュギア風寓話とかキリキア風寓話とかカリア風寓話、アイギュプトス風寓話、キュプロス風寓話と呼ばれる。これらはすべてお互いに異なっているが、ひとつのもので、これらの付け足し部(proskeimenon)には、それぞれに固有の類別(genos)があり、例えば、アイソーポスは言ったとか、リビュアの男が〔言った〕とか、キュプロスの女が〔言った〕とか、その他についても仕方は同じである。もしも類別(genos)を表す付け足し(prostheke)がひとつのない場合は、そういうのをわれわれはなべてアイソーポス風寓話と呼んでいる。しかるに、言葉なき動物たちについて編集したのはしかじかだが、人間たちについて〔編集したのは〕かくかく、できない人たちはしかじかだが、できる人たちに関与したのはかくかくと言う人たちは、お人好しの理解の仕方をしているようにわたしには思える。というのは、上述のすべての〔寓話の〕中に種類(idea)のすべてが含まれているからである。
 Test.65 参照。

 De hac re agunt etiam, sed minus feliciter, schol. Aristoph. Av. 471(Test.5); Hermogenes (Test.101), Aphthonius (Test.102), et Nicolaus (ed. Felten p.6) in Progymnasmatis; Diogen. in Praef. (CPG I 178); Quintilianus (Test.98); Isidorus (Test.64); 次の Test.86-93 参照。

86
Aesch. fr.139:

 リビュアの寓話の中にあの有名なのがある、弓の矢を射られたワシが、云々(fr.276a〔射られた鷲〕)。

87
Aristot. Rhet. II 20:

 物語(logoi)、例えばアイソーポスの物語やリビュアの物語のような。

88
Babrius 既出 Test.63:

 またリュビア人たちに/物語(logoi)を語ったるはキュビッセース。キュビッセースについては、既出 Test.65 参照。

89
Diogen. in Praef. (CPG I 180):

 リュビア喩言(ainos)はこの族民(ethnos)の、あるリビュア人によって発明されたと言われている。しかし一部の人たちは、この形式の発明者はキュビッソス(または、Kybisa)だという。

90
Hesychius 「リビュアの物語(Libykoi logoi)」の項:

 カマイレオーン(Chamaileon)の主張では、キュビッソス(リュビア人)がこれらの物語(logoi)を発明したという。

91
Aristot. Oecon. I 6:

 リュビア人が、どんな肥料が最善かと尋ねられて、「主人の足跡」と謂った。

92
Himerius Or. XX (f.432〔アポロンとムーサイとドリュアデス〕を見よ):

 さて、あなたがたに、リュビア物語とか、アイギュプトス物語とかではなく、寓話(mythos)が最初にでてきたところ、プリュギアのまっただ中に産したもの、ほかならぬアイソーポスの手すさびの中に見つけたものを、あなたがたにも物語りたい。

93
 リビュア人、アイギュプトス人、カリア人、キュプロス人、リュディア人、プリュギア人、シュバリス人が個々に運んだ寓話については、以下の個々の寓話に対する註釈ノートを見よ。nr.276〔射られた鷲〕 (リビュアについて), 130〔胃袋と足〕, 425〔漁師と蛸〕, 433〔アプロディテと商人〕, 439〔月桂樹とオリーブ〕, 448〔犬の音楽家〕, 428〔シュバリスの男〕; キリキア人について証言しているのは既出の Theon Test.8565(寓話作家キリキア人コンニス) と、後出 Aphthonius Test.102


LOCI QVIDAM DE FABVLARVM RATIONE, VSV, PROPRIETATIBVS, VIRTVTE ATQVE STILO

94
Aristot. Rhet. II 20, 1393a sqq. (ed. A. Roemer):

 例証(paradeigma)には2つの種類がある。すなわち、例証の種類のひとつは、過去にあった事実を言うことであり、いまひとつは論者自身が例を創り出すことである。後者のうちひとつは比喩(parabole)であり、ひとつは、例えばアイソーポスの物語やリビュアの物語のような物語(logoi)である。
 事実を言うというのは、次のようなことである。すなわち、〔ペルシア大〕王に対して備えを固め、エジプトに手をつけることを許してはならない、というのも、先にダレイオスは、エジプトを手中に収めるまでは渡海しなかったが、手中にするや、渡海したし、クセルクセスの場合もまた、エジプトを手に入れるまでは手を染めなかったが、手に入れるや渡海してきた、したがって、今の王〔アルタクセルクセス3世〕も、〔エジプトを〕手に入れようものなら、きっと渡海して来るであろう、それゆえ、彼にそれを許してはならない — こう語る場合がそうである。
 これに対し、比喩(parabole)とは、ソクラテスの論じ方がそうである。例えば、次のように語る場合がそれである — 籤で選ばれた者が為政者となってはならない。なぜなら、それはちょうど、競技者の場合、競い合う能力のある者ではなく、籤に当たった者を競技者として選び出すとか、或いはまた、水夫の中から舵をとるべき者を選ぶ際に、まるで、舵をとるのはその知識を身につけている者ではなく、籤に当たった者でなければならないとでも思ってか、籤引きで選ぶのと同じことであるから。
 また、物語(logos)とは、例えばステーシコロスがパラリスについて[f. 269a〔猪と馬と猟師〕]、またアイソーポスが民衆指導者弁護のために作った物語[f. 427〔狐と針鼠〕]がそうである。……
1394a:
 ところで、物語(logoi)は公的集会での弁論(hoi logoi demegorikoi)に適している。それにはまた、過去の同じような事実を見つけ出すのは困難だが、物語(logos)を創るのは容易である、という利点がある。というのは、物語を創るには、類似性を見つける能力さえあれば、あとは比喩に倣って創ったらよいのであるが、この能力は、愛知心があれば容易に手にすることができるからである。

95
Babrius I 序:

 最初に現れたのは、義しい人々の種族で、
 おお、ブランコス(Branchos)よ、これを黄金の種族とひとびとは呼んだ、
 この種族のあとに生まれたのが別の銀の種族と言い伝えられている。
 しかし彼らの次の第三の種族は、われわれ鉄の種族である。
 黄金の種族の時代は、ほかの動物たちさえ
 言語明瞭な音声を有し、言葉を口ずさんでいた
 ちょうどわれわれがお互いに話しているようなのを、
 彼らのアゴラが深い森の中にあったのだ。
 また、松の葉や月桂樹の葉もしゃべり、
 海行く魚も親愛な船乗りと語り合い、
 雀たちも農夫とわかりやすいことばを交わしていた。
 大地は、何も頼まれなくても、ありとあらゆるものを生み出し、
 死すべきものらと神々とは友だちどうしであった。
 事情かくのごとくであったことをおまえは学び、知るであろう、
 老賢者アイソーポスから、彼がわれわれに
 自由な調べの寓話(mythoi)を語ってくれたから。
 その中のひとつひとつを、今はわたしの「記憶(Mneme)」に彩りを添え、
 そなたのために蜜のしたたる蜂房に仕立てよう、
 辛口のイアムボス詩の硬き節を、やわくして。

96
Phaedrus II 序 1-7:

 アエソプスの類といえば訓話と相場が決まっている。
 話の目的は、過ちを正、質素と倹約を奨励すること以外にない。
 だから、語り方で何とか面白みを出し、聞く人の耳を楽しませながら、
 本来の目的もかなえようという試みがあれば、
 寓話の創始者の名声とは関係なく、それ自体に賞讃が与えられてしかるべきではないでしょうか。

97
Quintilianus I 9, I (ubi agitur de offlcto grammatici) :

 Adiiciamus tamen.....quaedam dicendi primordia, quibus aetates nondum rhetorem capientes instituant. Igitur Aesopi fabellas, quae fabulis nutricularum proxime succedunt, narrare sermone puro et nihil se supra modum extollente, deinde eandem gracilitatem stilo exigere condiscant : versus primo solvere, mox mutatis verbis interpretari, tum paraphrasi audacius vertere, qua et breviare quaedam et exornare salvo modo poetae sensu permittitur.

98
同 V 11, 19-21 (in cap. de exemplorum apud rhetores usu) :

  Illae quoque fabellae, quae, etiam si originem non ab Aesopo acceperunt (nam videtur earum prilmus auctor Hesiodus) , nomine tamen Aesopi maxirne celebrantur, ducere animos solent praecipue rusticorum et imperitorum, qui et simplicius quae ficta sunt audiunt, et capti voluptate facile iis quibus delectantur consentiunt ; si quidem et Menenius Agrippa plebem cum patribus in gratiam traditur reduxisse nota illa de membris huimanis adversus ventrem discordantibus fabula [f.130]. Et Horatius ne in poemate quidem humilem generis huius usum putavit in illis versibus :
 'quod dixit vulpes aegroto cauta leoni' [Epist. I 1, 73]. (ainos) Graeci vocant et Aisopeious, ut dixi,logos et Lybikous, nostrorum quidam, non sane recepto in usum nomine, apologationem. Cui confine est paroimias, genus illud, quod est velut fabella brevior et per allegorian accipitur : 'non nostrum,' inquit 'onus : bos clitellas.' (cf. f.1841 et adn.)

99
Gellius II 29, I (ed. Hosius, I 139) :

 Aesopus ille e Phygia fabulator haut inmerito sapiens existimatus est, cum, quae utilia monitu suasuque erant, non severe neque imperiose praecipit et censuit, ut philosophis mos est, sed festivos delectabilesque apologos commentus res salubriter ac prospicienter animadversas in mentes animosque hominum cum audiendi quadam inlecebra induit ; velut haec eius fabula de aviculae nidulo lepide atque iucunde praemonet spelm fiduciamque rerum , quas efficere quis possit, haut unquam in alio, set in semetipso habendam. Avicula, inquit, etc. (f.325〔雲雀と農夫〕).

100
Philostratus in Vita Apoll. V 14:

 〔アポッロニオス〕「ところで、アイソーポスについてどう考えるか?」
 「寓話語り(mytho-logos)」と彼〔メニッポス〕が云った、「どうみたって物語作家(logo-poios)です」。
 「寓話にしても、どちらの知者か?」。
 「詩人たちの寓話です」と彼が云った、「事実あったように歌うのですから」。
 「ところでアイソーポスの寓話はどうか?」。
 「蛙たちや」と彼が謂った、「驢馬たちといった、年寄りや子どもらに吸収されるような無駄話です」。
 「ところがしかし」と謂った、「わたしには」と彼アポッロニオスが、「アイソーポスの寓話は知恵にとって必要なもののように見えるのだ。なぜなら、あらゆる詩作が対象とするところの半神に関する寓話は、異常な恋情……だから確かに聴衆を堕落させる……これに反し、アイソーポスは、知恵によって、先ず第一に、そういった詩歌との共通性に自分を合わせようとすることなく、自分自身の道をとって進む、第二に、もっと安っぽい食べ物で美しくご馳走する人たちのように、小さな事柄によって大事なことを教授し、しかも、言葉(logos)を給仕することで、何を為し、何を為すべきでないかをこれに添える、第三に、詩人たちよりもっとよく真理愛に接する。というのは、前者〔詩人たち〕は、自分たちの言葉(logoi)を信ずべきものと見られるように強制するが、後者〔アイソーポス〕は言葉(logos)を広めても、その言葉はそらごとであって、真実を述べているのではないという、まさにその点で真実をいっていることを、誰もが知っているのである。さらに、詩人は自分の言葉を言い放ったまま、健全な聴衆に、何が起こったかは自分で吟味するがままに放置するが、これに反し他方は、そらごとの言葉を云ったあと、ちょうどアイソーポスのように、教訓を添えて、いかにすればそらごとを聴衆の役に立たせられるかを示すのである」。

101
Hermogenes Progym. 1 (ed. Rabe):

 寓話を最初に若者たちに適用することを〔ひとびとは〕要求する、そうすれば、彼らの魂を最善なものに向かって教化できるからである。そのうえさらに、彼らは軟らかいから、これを型どることを要求する。ところで、昔の人たちもこれ〔寓話〕を利用したように見える、ヘーシオドスは鷹の寓話を云い[f.4a〔ナイチンゲールと鷹〕]、アルキロコスは狐の寓話を[cf. f.1〔鷲と狐〕と 81〔王に選ばれた猿と狐〕]〔云って〕。また、名称は創案者にちなみ、あるものはキュプロス寓話、あるものはリュビア寓話、あるものはシュバリス寓話と呼ばれるが、すべてが共通してアイソーポス寓話といわれる所以は、アイソーポスが寓話を交際(synousiai (pl.))目的で使ったからである。ところで、これ〔寓話〕については次のような素描を〔ひとびとは〕提供している。すなわち、これはそらごとであるけれども、人生の諸事の何らかに完全に役立つことであることを〔ひとびとは〕要求する。なおそのうえにまた、説得的であることを要望する。いかにすれば説得的となるのか? 面前の人々にとってふさわしい事柄をわれわれが提供するときである。例えば、美しさをめぐってひとは競いあう。そのひとはクジャク注4)だと仮定されたとしよう。〔そうすると〕誰かによって何らかの知恵がつけられねばならない。それがこの場合は狐である。人間たちの所行を真似する者たちがいる。この場合は猿たちがそれである。ところで、それら〔寓話〕は、時には延長し、時には短縮しなければならない。いかにすればそんなことができるのか? さしあたっては、話すさいに裸の言葉(logos psilos=散文)でそれを語り、さしあたっては、与えられた役割ごとの言葉(logoi)を形成する場合にである。

 

102
Aphthon. Progym. 1 (Spengel Rh.Gr. II p.21):

 寓話は詩人たちに優先し、勧告という点では弁論家たちとさえ共通である。また寓話は、真理を譬えるところのそらごとであって、創始者たちに応じてシュバリス風、キリキア風、キュプロス風というふうにその名を変えて呼ばれるが、アイソーポスが誰よりも最善に寓話を編集したために、むしろアイソーポス風と言われがちである。この寓話は、あるものは理知的であり、あるものは倫理的、あるものは混合的である。そして理知的なものといえば、その中では何かを為す人間が形成され、倫理的なのでは、言葉なき〔動物〕たちの性格が模倣され、混合的なのでは、言葉なきものと理知的なものとの両方から〔形成される〕。さらに、寓話が任務とする勧告は、これを前に配置したものの名称を前付け(promythion)、後付け(epimythion)は、最後に持ち出されたものである。

103
Theon Progym.3 (Spengel Rh.Gr. II 72 sqq.:

 寓話(mythos)とは、真理を譬えたところのそらごと(logos pseudes)である、ただし、知っておくべきは、ここで考察の対象としているのは、寓話(mythos)全体ではなく、叙述(ekthesis)の後に、譬えが何の譬えであるかをしめした言葉(logos)を後付けするような寓話(mythos)のことだということである。もっとも、その言葉を先に述べて、寓話(mythos)を後付けにするときもある。これらはアイソーポス風寓話とか……呼ばれる[Test.8565 を見よ]。ところで、これらを、昔の人たちのうち、詩人たちはむしろ喩言(ainos)、ある人たちは寓話(mythoi)と命名する。しかし、最も多い割合をしめるのは、散文で(katalogaden)著作する人たちで、物語(logoi)と呼んで、寓話(mythoi)とは呼ばない、ここから、彼らはアイソーポスをも物語作家(logopoios)というのである。ただしプラトーンは、魂に関する対話編の中の、あるところでは寓話(mythos)、あるところでは物語(logos)と名づけている。しかし、寓話(mythos)が一種の物語(logos)のように述べられるのは、昔のひとびとは言うこと(legein)を寓話する(mytheisthai)とも呼んでいたからであり、喩言(ainos)の方は、一種の勧告(parainesis)をも含意していたからである。というのは、総じて行為(pragma)の元をたどれば、有用な教規(hypotheke)にまで行きつくからである。しかるに今は、謎々(ainigma)までも喩言(ainos)と呼ぶ人たちがいる。

〔以下、未訳〕

104
Nicolaus Progym. ed. Felten pp.9-11:

 後付け(epimythion)とは、寓話へと誘導し、その中で何が有用かを明らかにする言葉(logos)である。これが誘導する仕方は3様で、範例的(paradeigmatikos)であるか、説得推論的(enthymematikos)であるか、演説的(prosphonetikos)であるかである。さて、範例的とは。この寓話は、われわれに、しかじかのことを為すべしとか、為すべからずということを教示する。説得推論的とは、われわれが次のように言う場合である。すなわち、しかじかのことを為さない者は、非難にあたいする。演説的とは、例えば。君も、おお、少年よ、かくかくしかじかのことはさしひかえよ。ところで、一部の人たちは、この後付けまで前に置いて、それを前付け(promythion)と名づけている。より賢く、より追随的に分配する人たちにいたっては、寓話にはどんな場合もこれを配置しなければならないと確信し、こう言うのである、「わたしたちが寓話を発明したのは、まさに、若者たちがあからさまな教訓を快くは受け容れないからであるにしても、だからといって、かれらが魂を導かれ、寓話に内在する快さに欺かれて、かくまでも勧告に耳をかすようにさせるために、どうして、寓話の後にそれの有する有用さを配置してはいけない理由があろうか。なぜなら、彼らが勧告を歓迎しさえすれば、寓話の有用性は達成されるのだから」。
 文体はより単純にして無構想、いかなる技巧からもまわりくどい言いまわしからもまぬがれていなければならない、したがって、構想も言われている内容も、眼前にいる人たちの素質以上に見えてはならない。とりわけ、言葉なき動物たちによって寓話が構成されている場合にはそうである。

105
Philostratus in Vita Apoll. V 14:

 さらに彼〔アイソーポスのような寓話作家〕の素敵なところは、言葉なき〔動物たち〕をもより快適なものに、そして人間たちにとって真剣さにあたいするものにこしらえることである。というのは、子どものときからそういった言葉〔物語〕で成長し、それらによって育てられれば、動物たちのおのおのについてわれわれは思念(doxa(pl.))を身につけられる云々。

2003.05.20. 訳了

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