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back.gif歴史叢書・目次


歴史叢書

第13巻(1/12)





第1章

 [1]われわれが他の人たちと同じように歴史を編纂しようとすれば、前書きの中で何らか〔の話題〕について時宜を得た程度に論じ、かくすることによって以降の歴史的事実の方へと話を誘導するのがほとんどであろう。たしかに、その著書に取り上げるのがわずかな期間である場合には、前書きによって成果を挙げるだけの猶予も持つことができるであろう。[2]しかし、わずかな紙幅で、歴史的事実を可能なかぎり書き記すばかりか、〔ここに〕1100年以上に及ぶ期間を含めると公言した以上、前書きでの長広舌を差し控え、歴史的事実そのものに向かうのはやむを得ないことで、ただ、次のことを前置きしておけば事足りる。すなわち、先行する6巻では、トロイ戦争以来、シュラクウサイ人たちに対する戦争がアテナイ人たちによって決議される――トロイア攻略以来768年――まで〔前1184-前415年〕の史実を書き上げた。[3]そして本巻では、これに続く時代を追加言及した上で、シュラクウサイへの遠征から始めて、シュラクウサイの僭主ディオニュシオスに対するカルケドン人たちによる第2次戦争の初め〔前415-前404年〕までを叙述するつもりである、ということである。


第2章

 [1]さて、アテナイにおいてカルビアスが執政のおり、ローマ人たちは、執政官(hypatos=consul)に代えて、3人を千人指揮官(chiliarchos=tribunus militum=総司令官)を任命した。レウキオス・セルギオス、マルコス・パピリオス、マルコス・セルウリオスである。この年、アテナイ人たちはシュラクウサイ人たちに対する戦争を決議し、艦船を装備し、大いなる熱心さで軍資金をかき集め、征戦の準備万端を整えた。また、アルキビアデス、ニキアス、ラマコスの3人を将軍に選び、これを本戦争全般の全権者に任じた。[2]かくて、私人たちのうち資産の豊かな者たちは、民衆の熱意に迎合せんと望み、ある者たちは私的に三段櫂船を建造し、ある者たちは軍を給養するために金銭を贈与しようと公言した。さらにまた、公民たちや外国人たち、さらには同盟者たちまでも、その多くの者たちが進んで将軍たちのもとに出向き、自分たちを兵籍登録するよう頼み込んだ。かくほどに皆がみな希望に酔いしれて、シケリアを意のままに分配せんことを望んだのであった。[3]ところが、すでに遠征隊の準備が整ったとき、都市中に満ち満ちていたヘルメス像が、一夜のうちに、破壊されるという事件が起こった。そこで民衆は、この行動が起こったのは、庶民のせいではなく、民主制解体目的に、声望の点で抜きんでた者たちのせいだと信じ、犯行を憎み、犯人たちを追及するに、密告者に多額の贈り物をもってした。[4]すると、私人たちの中に、評議会に出向いた者があり、――新月の日の真夜中ごろ、寄留民の邸宅に入ってゆく連中を目撃した、その中にアルキビアデスもいた、と主張した。しかし、夜中なのに、どうやって顔を見分けられたのか、と評議会に質問されると、月の光で目撃したと主張した。そこで、この男は、嘘をついていることを自分で糾明したので信じられず、その他の者たちの中には、犯行の足跡さえ誰ひとり見つけだせなかったのである。

 [5]三段櫂船は140艘の準備が整い、さらにまた、騎馬輸送船はもとより、まして兵糧その他の装備を運ぶ輸送船にいたっては、その数じつにおびただしかった。さらにまた、重装歩兵や投石兵、これに加えて騎兵も、〔市民たちの中からはもちろん〕同盟者たちの中からも、搭乗員を除いて7000人以上の数にのぼった。[6]ところで、このとき、将軍たちは評議会と秘密裏に寄り合って、〔シケリアの〕島を制覇したあかつきに、シケリアのことをいかに処置すべきか評議した。そして、セリヌウス人たちとシュラクウサイ人たちとは奴隷人足に売り払い、その他の人たちには、毎年アテナイに貢納する貢祖を課するにとどめることが彼らによって決定された。


第3章

[1]次の日には、将軍たちは将兵たちとともにペイライエウスに下り、都市の群衆は、町衆といわず外国人といわず皆入り混じって、いっしょに付き従った。各人が自分の親類や愛友たちを見送るためである。[2]見よ、三段櫂船は港に錨を接してびっしり停泊し、艦首の標識と武具の輝きに彩られていた。そして港の全周は香炉や銀製の混酒器にあふれ、混酒器から黄金製の杯で献酒しながら、人々は神霊を讃え、この遠征の成功を祈願していた。[3]かくて、ペイライエウスから出航し、ペロポンネソスを廻航し、コルキュラに下船した。ここに留まって、同盟者たちの隣人を召集するよう下命されていたからである。かくして、全員が集結するや、イオニア海峡を渡ってイアプギア岬に下船し、ここからはずっとイタリアを沿岸航行した。[4]ところが、タラス人たちには受け入れられなかったが、メタポンティオン人たちとヘラクレイア人たちのもとに寄航した。そしてトゥリオイ人たちのところに下船すると、熱烈な歓迎を受けた。そこからさらにクロトンに出航し、クロトン人たちから物資を調達し、ラキニア岬のヘラ神殿を廻航して、いわゆるディオスクウロイ岬を折り返した。[5]そののち、いわゆるスキュレの難所とロクロイをかすめ、レギオンの近くに投錨して、レギオン人たちを説得して同盟を結ぼうとした。しかし彼らは、他のイタリア人たちと評議すると回答した。


第4章

 [1]一方、シュラクウサイ人たちの方は、アテナイの軍勢が〔メッセネの〕渡し場にいると聞いて、全権将軍3名を任命した。ヘルモクラテス、シカノス、ヘラクレイデスで、これら3名は将兵を兵籍登録し、使節団をシケリアの諸都市に派遣し、共同体の救済に馳せ参じるよう要請した。すなわち、アテナイ人たちは、言葉では、シュラクウサイと戦火を交えると言っているが、真実には、この島全体を降さんと望んでいるのだ〔と言って〕。[2]ところが、アクラガス人たちとナクソス人たちはアテナイ人たちと共闘すると主張し、カマリナ人たちとメッセネ人たちは講和を結ぶことには同意したが、同盟の回答は先送りした。しかし、ヒメラ人たちとセリヌウス人たち、これに加えてゲラ人たち、カタネ人たちは、シュラクウサイ人たちとともに戦うことを公約した。とにかく、シケリアの諸都市は、好意の点ではシュラクウサイに傾いていたとはいうものの、平静を保って成り行きを見守ろうとした。[3]他方、エゲスタ人たちが30タラントン以上を寄贈する〔『戦史』第7巻 83節〕ことに同意しなかったので、アテナイの将軍たちは彼らに催告したうえ、軍勢を引き具してレギオンから船出し、シケリアのナクソスに寄航した。その国の人々は彼らを友好的に受け入れたので、そこからカタネに回った。[4]しかし、カタネ人たちは将兵たちを市内に受け入れようとしなかったが、将軍たちが入ることは許し、民会の場を提供してくれたので、アテナイの将軍たちは〔民会で〕同盟について説明した。[5]しかし、アルキビアデスが演説しているときに、将兵たちの何人かが小門をこじ開けて都市に押し入った。これがために、カタネ人たちは対シュラクウサイ戦に共同せざるを得なくなった。


第5章

 [1]さて、こういった事が起こっている間に、アテナイでは、私的な敵意からアルキビアデスを憎んでいた者たちが、奉納物〔ヘルメス神像〕の毀損を口実に、議会演説のおりをとらえて、民主制転覆の陰謀を企てたとして彼を誹謗した。また、アルゴス情勢も彼らの誹謗に味方した。というのは、〔アルキビアデスの〕私的な客友たちが、アルゴスの民主制解体を申し合わせていたため、その全員が市民たちによって抹殺されたのである。[2]そういうわけで、民衆は告発者たちを信じ、しかも民衆指導者たちによってひどく焚き付けられて、サラミニア号をシケリアに派遣し、アルキビアデスを審判のためにできるかぎり速やかに連れてくるよう命じた。かくて、船がカタネに着いたとき、アルキビアデスは、使節団から民会の決定事項を聞いて、被告人仲間を自分の私的な三段櫂船に収容し、サラミニア号といっしょに出航した。[3]だが、トゥウリオイに寄港したときに、アルキビアデスは自分の涜神行為を自覚してか、危険の大きさを恐れてか、被告人仲間といっしょに逃亡して足跡をくらました。サラミニア号の乗組員たちは、初めはアルキビアデス一統を探した。だが、見つけることができなかったので、アテナイに引き上げて、民会に出来事を報告した。[4]そこでアテナイ人たちは、アルキビアデスならびにその他の共同被告人たちの名前を民衆裁判に付託し、欠席裁判で死刑の有罪判決を下した。一方、アルキビアデスはイタリアからペロポンネソスに渡海し、スパルタに亡命した。そして、ラケダイモン人たちを焚き付けて、アテナイ人たちに攻めかからせようとしたのである。


第6章

 [1]一方、シケリアにあった将軍たちは、アテナイの軍勢を引き具してエゲスタに沿岸航行し、シケリアの小都市ヒュッカラを攻略して、戦利品の中から100タラントンをかき集めた。さらにまた、エゲスタ人たちからも30タラントンを取り立ててから、カタネに帰港した。[2]そして、シュラクウサイ人たちの大湾の前〔オリュムポス神殿の近く〕に危なげなく地歩を占めることを望んで、あるカタネ人――自分たちにとっても信頼が置けるが、シュラクウサイの将軍たちにも信頼されている――を遣って、シュラクウサイの嚮導者たちに言うよう言いつけた。――カタネ人たちの一部の同志たちは、おびただしい数のアテナイ人たちが、夜間、兵舎を離れて市内で宿営しているところをひそかに取り押さえ、港にある艦船に火を放つつもりである。ついては、このことが成就するために、この策略を逸することのないよう、将軍たちは軍勢を引き具して現れてもらいたいと要請するよう〔言いつけた〕。[3]このカタネ人がシュラクウサイの嚮導者たちのもとに赴いて、上述のことを説明すると、これを将軍たちは信じて、軍勢を出動させるはずの夜を申し合わせ、件の人物をカタネに送り出した。[4]かくて、シュラクウサイ人たちは申し合わせの夜、軍隊をカタネに出動させ、対してアテナイ人たちは、シュラクウサイの大湾に粛々と廻航し、オリュムポス神殿を制圧し、周辺土地すべてを占拠して攻撃陣をこしらえた。[5]対してシュラクウサイの将軍たちは、奇計を察知するや、ただちに方向転換してアテナイ人たちの陣に突撃した。かくて敵方も迎撃に撃って出て、戦闘が起こり、この戦闘でアテナイ人たちは相手方の400を亡き者とした上、シュラクウサイ勢を敗走のやむなきに至らしめた。[6]しかし、アテナイ人たちの将軍たちは、敵が騎馬隊において優勢なのを見て、また、攻囲の準備がよりよく整うことを望んで、再びカタネに引き上げた。そしてアテナイに何人かの使いを遣って、民衆に手紙を書き送り、これによって、騎兵と軍資金を送るよう要請した。攻囲には時間がかかるだろう、と言って。そこでアテナイ人たちは300タラントンと騎兵隊のいくつかをシケリアに送ることを決議した。[7]さて、こういったことが為されている間、無神論者と呼ばれたディアゴラス*が、不敬涜神のかどで誹謗に遭い、民衆を恐れて、アッティカの地を逃れた。対してアテナイ人たちは、ディアゴラスを亡き者にした者に銀子1タラントンの賞金をかける旨布告した。

 [8]また、イタリアでは、ローマ人たちがアイコス人たちと戦火を交え、ラビコスを攻囲・攻略した。こういった事が起こったのが、この年であった。
 *メロスのディアゴラス。前5世紀後期の抒情詩人。私人としてよりも、世に知られた無神論者として名を留めているが、現存する短い詩の断片は、伝統的な敬神の念が吐露されている。Loeb, Lyra Graeca iii


第7章

 [1]アテナイではティサンドロスが執政官の年、ローマ人たちは千人隊指揮官4名を執政官に任命した。ポプリオス・ロクレティオス、ガイオス・セルウイリオス、アグリッパ・メネニオス、スプウリオス・ウウエトゥウリオスである。これらの者の年に、シュラクウサイ人たちは使節団をコリントスとラケダイモンとに派遣し、救援と、すべてを賭して危険に挺身している自分たちを座視しないこととを要請した。[2]すると、これにアルキビアデスが賛同の意を表したので、ラケダイモン人たちはシュラクウサイ人たちの救援を決議し、将軍としてギュリッポスを選び、他方、コリントス人たちの方は、もっと多くの三段櫂船を送る準備を始めたが、さしあたり、グリッポス麾下のピュテスを、三段櫂船2艘とともにシケリアに先遣した。[3]他方、カタネでは、アテナイ勢の将軍たち――ニキアスとラマコス――とが、アテナイから騎兵250、銀子300タラントンが自分たちの手に入ったので、軍勢を乗船させてシュラクウサイへ出航した。そして、夜陰に乗じて都市に接岸すると、シュラクウサイ人たちに気づかれることなくエピポライ*1を押さえた。しかしシュラクウサイ人たちはそれと察知して、すばやく救援しようとしたが、しかし将兵300を失って、都市に追い込まれた。[4]しかも、その後、アテナイ勢のもとには、アイゲスタからは騎兵300、シケリア人たちのもとからは騎兵250、〔アテナイからのものと併せて〕全部で騎兵800が集結した。そして、ラブラドンに砦を築き、シュラクウサイの都市を遮断壁で囲んで、シュラクウサイ人たちに多大な脅威をもたらした。[5]それゆえ、彼らは都市から撃って出て、城壁を建設している者たちを妨害しようと企てた。かくして騎兵戦が起こったが、おびただしい数を失って背走した。こうして、アテナイ人たちは軍勢の一部によって港を見おろす地点を押さえ、ポリクネといわれるところに壁を作って、ゼウス神殿を封鎖し、両面からシュラクウサイ人たちを攻囲した。[6]こういった劣勢がシュラクウサイ人たちに降りかかったため、都市の人々は意気消沈した。しかし、ギュリッポスがヒメラに入港して将兵を集めていると聞くや、今度は勇み立った。[7]というのは、ギュリッポスは、三段櫂船4艘を引き具してヒメラに入港、艦船を〔乾かせるために〕揚陸する一方、ヒメラ人たちを説得してシュラクウサイ人たちと同盟させるとともに、これらの人たちのみならず、ゲラ人たちからも、さらにはセリヌウス人たちやシカノス人たち*2からも将兵を集めていたのである。そして、全部で陸戦隊は3000、騎兵は200を集結すると、島中央を通って、シュラクウサイに向けて出陣した。
 *エピポライ……シュラクウサイの西ないし西北に広がる高台。
 *2シカノス人たち……シカノス人たちはイタリア半島からシケリアに渡ってきた先住民で、シケリアはもとシカニアと呼ばれていた。彼らは後からの植民者たちによって西部に押し込められ、トゥキュディデスによれば、ヒュッカラが彼らの都市である(第6巻 62章)。


第8章

[1]かくて数日後、シュラクウサイ勢といっしょになって軍勢をアテナイ勢にぶつけた。で、激戦となり、アテナイ勢の将軍ラマコスが戦って果てた。また、両軍ともに多数が亡き者となったものの、アテナイ勢が勝利した。[2]だが、この戦いのあと、三段櫂船13艘がコリントスから来着し、乗組員から成る者たちをギュリッポスは収容して、シュラクウサイ勢とともに敵勢の陣地に突撃し、エピポライを攻囲した。対してアテナイ勢も出撃してきたので、シュラクウサイ人たちは戦火を交え、アテナイ勢の多数を殺害して勝利し、エピポライ全域を通じて城壁を粉砕した。かくてアテナイ勢はエピポライを前にした地点を捨てて、全軍を他の陣地に引き下がらせた。[3]こういうことが起こっている間に、シュラクウサイ人たちは、コリントスとラケダイモンとに救援依頼の使節団を派遣した。これに、コリントス人たちはボイオティア人たちならびにシキュオン人たちの1000人をつけ、またスパルタ人たちは600人をつけて派遣した。[4]他方、ギュリッポスも、シケリアの各都市を歴訪し、多くの人たちに共闘するよう誘いかけ、ヒメラ人たちやシカノス人たちから将兵3000人を得て、島中央を通って引率した。対してアテナイ勢は、彼らの接近を聞き知って、攻めかかってその半数を亡き者にした。だが、生き残った者たちはシュラクウサイに無事のがれた。[5]こうして同盟者たちがやってきたので、シュラクウサイ人たちは海上の争いでも反撃を加えたいと望んで、持ち前の艦船を――他にも追加建造してであるが――進水させた。演習は小湾で行った。[6]対してアテナイ勢の将軍ニキアスは、アテナイに書簡を送り、その中で彼は明らかにした――多勢がシュラクウサイ人たちの同盟者となり、それゆえにまた彼らは艦船も少なからず艤装して海戦する心構えである。ついては、早急に三段櫂船、金銭、ならびに、いっしょになってこの戦争の采配を振る将軍団を送るよう要請した。なぜなら、アルキビアデスは亡命し去り、ラマコスは果て、残ったのは自分一人であるが、それとても病弱である、と。[7]そこでアテナイ人たちは、将軍としてはエウリュメドンとともに、艦船10、銀子140タラントンを、シケリアに送った。冬の太陽の回帰日〔=冬至〕のころおいである。その一方で、春季に大遠征軍を派遣すべく準備をしていた。そのために、いたるところで同盟者たちから将兵を兵籍登録し、金銭をかき集めた。[8]対して、ペロポンネソスでは、ラケダイモン人たちがアルキビアデスに焚き付けられて、アテナイ人たちとの協定を破棄し、かくてこの戦争は12年間〔正確には、前413-404年までの10年間。〕続くことになったのである。


第9章

 [1]この年が過ぎると、アテナイの執政官にはクレオクリトスがなり、ローマでは千人指揮官4名が執政官の代わりを勤めた。アウロス・セムプロニオス、マルコス・パピリオス、コイントス・パビオス、スポリオス・ナウティオスである。[2]この者たちの時代に、ラケダイモン人たちは同盟者たちを引き具してアッティケに侵攻したが、これを嚮導したのはアギスと、アテナイ人アルキビアデスとであった。彼らはデケレイアの堅固な砦を押さえると、これをアッティカ攻撃の拠点となした。これがために、この戦争はデケレイア戦争と呼ばれることとなった。対してアテナ人たちは、ラコニアの地には三段櫂船30艘と、将軍としてカリクレスとを急派し、さらにシケリアにも、三段櫂船は80艘、重装歩兵は5000人を送ることを決議した。[3]対してシュラクウサイ人たちも海戦を決意し、三段櫂船80艘を艤装して、敵勢に立ち向かった。対してアテナイ勢は60艘の艦船で迎撃し、ここに、たちまちにして活発な海戦が始まったので、アテナイ人たちは全員が守備陣から海べりに降りていった。一部は海戦〔の模様〕を見物したいと思い、一部は、海戦においてしくじるようなことがあった場合に、敗走者を救助したいと望んだからである。[4]ところが、シュラクウサイの将軍たちは、何が起こるかを予見して、都市にある人たちをアテナイ人たちの砦――財貨、船の装備、なおその上に他の装備で充満している――の攻撃に急派した。かくして、シュラクウサイ人たちは、まったく寡勢の監視兵しかいないところを押さえ……海べりから加勢に駆けつけた多勢を殺害した。[5]かくて、守備隊と軍陣におびただしい悲鳴が起こったので、海戦に臨んでいたアテナイ人たちは驚倒して方向を転じ、残りの守備所に逃げ込もうとした。しかし、シュラクウサイ人たちが算を乱して追撃したとき、アテナイ勢は、シュラクウサイ勢が2ヶ所の守備所を制圧したために、陸地に避難することもできず、回れ右をして海戦の再開を余儀なくされた。[6]対して、シュラクウサイ勢はすでに戦列が解けてしまっていたうえ、追撃のために散開していたところを、〔アテナイ勢は〕密集した艦船で立ち向かい、10艘は沈め、残りは「島」*まで追撃した。かくて戦いがすんだとき、それぞれが勝利牌を立てた――アテナイ人たちは海戦勝利の、対してシュラクウサイ人たちは、陸上での見事な働きの〔勝利牌を〕。
 *オリュテュギア島。シュラクウサイ近くの半島ないしは島で、城壁を持った都市の一区画をなす。


第10章

 [1]さて、海戦はこのような結末をむかえたが、アテナイ人たちはデモステネス麾下の艦隊が数日のうちに来着すると伝え聞き、その軍勢が到着するまでは、もはや危険を冒すまいと決めたが、シュラクウサイ人たちの方は、逆に、デモステネス麾下の遠征隊がやって来るまでに、万事決着をつけたいと望み、日々、アテナイ人たちの艦船に立ち向かい、戦闘をつづけようとした。[2]そして、コリントス人の操舵手アリストンが、艦船の舳先を短くして低位置につけるよう彼らに忠告し、シュラクウサイ人たちが聴従するに及び、これがために以降の危難〔=戦闘〕においては彼らが大いに優位を保った。[3]というのは、アッティカの三段櫂船は、舳先は脆弱なのを高位置に装備していた。そのために、彼らの激突は、海上に突き出た部位を損ないはしたが、敵勢はそれほど大きな損害に見舞われることはない結果となった。これに対してシュラクウサイの三段櫂船は、舳先周辺部位に強度をもたせ、低位置につけたので、激突をくらわせたさいに、アテナイの三段櫂船を一撃で撃沈させることもしばしばであった。[4]こうして、来る日も来る日も、シュラクウサイ勢は敵の陣に、陸上からも海上からも攻撃を仕掛けたのであるが、効はなかった。アテナイ勢が平静を保っていたからである。しかるに、何人かの三段櫂船指揮官たちが、シュラクウサイ勢の侮りにもはや我慢できなくなって、大湾内で敵勢を迎撃したため、三段櫂船全体の海戦が勃発した。[5]ところが、アテナイ勢は、快速の三段櫂船を保有し、海上の経験の点でも、なおその上に操舵手の技術の点でも凌駕していたにもかかわらず、これらの優越性を活かすことができなかった。海戦が狭い場所で生じたためである。対してシュラクウサイ勢は、絡みつき、敵勢に旋回の機会も与えず、甲板戦闘員に投げ槍を浴びせ、かつ、投石によって舳先を空けわたさざるを得なくさせ、多くの場合、後はただ遭遇する艦船に激突をくらわせ、相手の艦船に乗り移って、艦上で陸戦に持ち込むだけのことであった。[6]こうして、アテナイ勢は至るところで圧しつぶされ、敗走に転じた。これをシュラクウサイ勢が追撃して、三段櫂船は7艘を撃沈し、多くを使用不能にしたのであった。

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