第21章-30章
第31章 [1]それゆえ、こいつらのためにとっておきの義しい憐憫などというものは存在しないのだ。なぜなら、やつらは自分の当て外れのせいで、自分でそれを放棄したのだからだ。いったいどこに、庇護を求める資格がやつらにあろうか? 神々にか――神々から父祖伝来の栄誉を剥ぎ取ることを選んだのは彼らであるのに? 人間たちにか――これを奴隷にせんとして来着したのに? デメテルとコレ、ならびに、これらの女神たちの秘儀を勧請するのか――女神たちの聖なる島を劫掠したのに? [2]なるほど、責任はアテナイの大衆にはなく、これを忠告したアルキビアデスにあるという。しかしながら、諸君は気づかれようが、忠告者たちは、たいていの場合、聴衆の企みを狙いすまし、そうやって、挙手する者は自分たちの意図にかなった言葉を演説者にしゃべらせるものである。すなわち、大衆の支配者は発言者ではなく、民衆が、役に立つと思うことを最善事として演説者に発言させるのがならいなのである。[3]だから、取り返しのつかぬ不正をする者たちに許しを与えようとする場合には、忠告者たちに責めを帰すれば、邪悪な者たちに弁明の機会をたやすく提供できるのである。だが、端的に言って、何にもまして不正きわまりないことは、善行に対する感謝の場合には、善くしてもらった相手から〔感謝を〕受け取るのは忠告者たちではなくて、民衆であるのに、不正事に対する報復の場合には、演説者たちにそれを押しつけることである。[4]ところが一部の人たちは、思考力を甚だしく失ったあまりに、アルキビアデス――これをわたしたちは思いのままにすることはできない――は報復されるべきであるが、捕虜たちはふさわしい報復に導けるのに、これを放免して、これによってシュラクウサイの民衆は邪悪に対する義しい嫌悪を持たなかったことを万人に示すべしと主張する始末である。[5]かりに、戦争の忠告者たちがじっさいにその責任者であるのなら、大衆をして彼らが過ちを犯した廉でその忠告者たちを非難せしめよ、しかし諸君は、不正された廉で大衆を追及するのが義しいのである。総じて、はっきり自覚しながら不正した場合は、その選択ゆえに報復を受けるに値するが、当てずっぽうに考えて、戦争を始めた場合にも、やはり彼らを放免すべきではない。他者の生活に無頓着であることが習いとならないためである。なぜなら、アテナイ人たちの愚かさがシュラクウサイ人たちに破滅をもたらすのは義しいことではなく、まして、為されたことが取り返しのつかないことである場合には、過ちを犯した連中に申し開きの余地があるというのも義しいことではないからである。 第32章 [1]なるほど、ゼウスにかけて、ニキアスはシュラクウサイ人たちの側に立って政治活動し、開戦せぬようひとり忠告したという。そこでなされた言説は、われわれの耳にするところであるが、ここで為されたことは、われわれが目の当たりにしてきたところである。すなわち、彼はかしこで遠征に反対したが、ここでは軍勢の将軍であった。また、シュラクウサイ人たちの側に立って政治活動したという彼は、諸君の都市を遮断するため城壁を築いた。また、諸君に対して人道的に過ごしたという彼は、デモステネスやその他の全員が攻囲を解くことを望んだのに、とどまって戦争を続けることをひとり強行した。だからこそ、わたしとしては信じるのである――諸君のところでは、言葉を事実よりも、伝聞を体験よりも、見えざるものを万人によって目撃された事柄よりもより強化してはならない、と。[3]なるほど、ゼウスにかけて、敵意を永続化させないのは美しい。しからば、不正者たちを懲らしめた後で、あなたがたによいと思われるなら、敵意を解けばよろしい。なぜなら、義しいことではないからである――勝った場合には、捕らえた相手を奴隷のように扱うくせに、負けた場合には、何も不正したことがないかのように容赦に与ろうとするのは。つまり、やつらはしでかしたことに償いをすることから逃れようとし、自分たちに寄与する間は、格好のよい言葉で友好を口にすることであろう。[4]ただし、諸君がそんなことをしたら、自余の多くの人たちに対してと同時に、ラケダイモン人たち――あなたがたのために、あちらでも戦争を引き受け、ここにも同盟軍を急派したのに――に対しても不正することになるということは放置しておこう。なぜなら、自分たちにとっては、和平を維持し、シケリア攻略を座視することが歓ばしかったのだから。[5]要は、もしも、諸君が捕虜を放免して〔アテナイと〕友好関係を結ぶなら、諸君は同盟を結んだ者たちに対する明らかな裏切り者となるであろうし、共通の敵を弱体化させることができるのに、これほどの将兵を引き渡せば、再び強化してやることになろう。なぜなら、わたしとしては、アテナイ人たちがこれほどの敵意をいだきながら、友好を確実なものとして守ろうとは、決して信じられず、むしろ、自分たちが弱体である間は、好意を見せかけるであろうが、自身を取り戻すや、もともとの選択を究極まで進めるであろう〔と信じる〕。[6]だから、わたしとしては、おお、ゼウスならびに万の神々よ、諸君の全員に証言するのである――敵を救済すべからず、同盟者たちを見捨てるべからず、またもや別の危険を祖国に招来すべからず、と。他方、諸君は、おお、シュラクウサイ人諸君、連中を放免して、何らかの難儀が結果すれば、諸君は格好のよい申し開きの機会さえ自分たちに残せないことになろう」。 第33章 [1]こういったことをこのラコン人が言い立てたので、大衆は一転して、ディオクレスの提案を可決した。かくして、将軍たちは即座に処刑され、同盟者たちもそうされて、アテナイ人たちはラトミア〔シケリアの石切場を利用して作られた牢獄〕に引き渡され、このうち、高度な教育を受けた者たちは、後に〔シケリアの〕若者たちによって奪い去られて助かったが、残りの者たちは、牢獄の劣悪な環境のもと、悲惨のうちにその生を終えたのである。 [2]終戦後、ディオクレスはシュラクウサイ人たちのために法習を編纂したが、この男に思いがけぬ巡り合わせが生ずることになった。というのは、この男は懲罰に際して無慈悲となり、過ちを犯した者たちを頑固に懲らし、法習には、何びとたりと武器を持って市場に現れた者は、罰は死刑たるべしと起草し、知らずにであろうと何か他の事情であろうと容赦しなかったのである。[3]ところが、敵勢が領地に侵入したとの報告が入ったとき、彼は両刃剣をとって出撃した。しかし、党争が突発し、市場に混乱が生じたので、思わず知らず両刃剣を携えて市場に現れた。すると、私人のひとりがこれに気づいて、彼は自分で自分の〔定めた〕法習を破っていると言ったとき、彼は叫んだ、「ゼウスにかけて、さにあらず、わたしがまた〔法習を〕有効にしてやる」と。そうして、両刃剣を抜き放つと、自死して果てたのである。さて、以上がこの年に起こったことである。 第34章 [1]さて、アテナイではカリアスが執政官の年、ローマ人たちは執政の代わりに千人指揮官4名を任命した。すなわち、ポプリオス・コルネリオス、〔……〕そしてガイオス・パビオスであるが、エリスでは、90回に加えること第2回のオリュムピア祭が挙行され〔前412年〕、ここにおいて、アクラガス人エクサイネトスが徒競走で優勝した。この年には、アテナイ人たちがシケリアで躓いたあと、彼らの嚮導権は蔑ろにされるようになった。[2]すなわち、すぐさまキオス人たち、サモス人たち、ビュザンティオン人たち、および、同盟者たちの多数が離反してラケダイモン人たちのもとに奔ったのである。そこで、〔アテナイの〕民衆は意気阻喪し、民主制を断念し、400人を選んで、これに共同体の統治を委ねたのである。そこで、この者たちが寡頭制の前衛となり、多数の三段櫂船を建造し、40艘と将軍団とを急派した。[3]この者たちは、お互いに党争し合っていたけれども、オロポス向けて出航した。そこに敵の三段櫂船が投錨していたからである。こうして海戦が起こったが、ラケダイモン勢が勝利し、舟艇22艘をわがものとした。 [4]他方、シュラクウサイ人たちは、アテナイに対する戦争をやめたのち、共闘したラケダイモン勢――これを指揮したのはギュリッポスであった――には、戦争によって得た戦利品でもって栄誉を授け、35艘の三段櫂船――これを指揮したのは、〔シュラクウサイ〕市民中の第一人者ヘルモクラテスであった――をこれにつけて、対アテナイ戦の同盟軍として急派した。[5]そうして、自分たちは、戦争によって生じた戦利品を集め、神殿は奉納物と鹵獲品とで飾り、将兵たちのうち最も勇敢であった者たちには、相応の贈り物によって栄誉をたたえた。[6]その後、民衆指導者たちのうちで、彼らのもとにあって最も強力であったディオクレスが、民衆を説得して、公職が籤で統治されるように国制を転換させ、さらには、国制を制定し新しい法習を私かに編纂するために立法者たちを選ばせた。 第35章 [1]こういう次第で、シュラクウサイ人たちは同市民たちの中から、知慮に抜きんでた人たちを立法者に選んだが、中でもとりわけ異彩を放ったのはディオクレスであった。というのは、彼は理解力・評判ともに他の人たちをはるかに凌駕していたので、立法は全員によって共同で起草されたにもかかわらず、ディオクレスの法習と名づけられたほどである。[2]そして、この人物を、シュラクウサイ人たちは存命中讃歎したのみならず、死後も、神人の栄誉でたたえ、神殿――後にディオニュシオスによって、城壁造りのさいに破壊されたが――を公費で建造した。さらに、この人物は他のシケリア人たちからも讃歎された。[3]じっさい、この島の諸都市の多くは、この人の法習を採用し続けた――シケリア人たち全員がローマ人たちの国制を尊重するようになる時代〔前43年?後79年?〕まで。それで、シュラクウサイ人たちは、新しい時代――例えばティモレオンの時代には、彼らのためにケパロスが立法し〔前339年〕、王ヒエロン〔2世〕の時代〔在位 前270頃-前216年〕にはポリュドロスが〔立法した〕が、これらの人たちのいずれをも立法者とは呼ばずに、立法者の解釈者とのみ〔呼んだ〕。〔この人たちが立法したのは〕昔の言い回しで書かれた法習が、理解困難であるように思われたためである。[4]とにかく、〔ディオクレスの〕立法について大いに熟慮してみれば、明らかに彼は悪徳嫌悪者であり――いかなる不正者たちに対しても、立法者の中で最も厳しい刑量を課したゆえに――、正義の人であり――各〔罪〕人にふさわしい罰を課することにかけて、彼以前の人たちよりも過度であったことからして――、さらには現実的で経験豊かな人物であった――公的ないさかいにしろ私的ないさかいにしろ、あらゆる訴えや面倒に、規定されたとおりの報復を要求したことから――。さらにまた彼の文体は簡潔にして、読者に熟慮の余地を多く残した。また、彼の徳性と魂の厳格さを証言しているのが、その最期の急転の様であった〔第33章〕。いずれにせよ、こういったことをより詳しく述べる気になったのは、歴史編纂者たちの多くが彼について語ることがあまりに少ないからである。 第36章 [1]さて、アテナイ人たちは、シケリアで自軍が徹底的に殲滅されたと伝え聞き、災禍の大きさに深く傷ついた。しかし、だからといって、嚮導権をかけてのラケダイモン人たちとの名誉愛が衰えるどころか、より多くの艦船を装備して、資金を手に入れ、一等賞をかけて最後の希望まで愛勝できるようにした。[2]そうして400人を選んで、この者たちに戦争のことを管理する全権を与えた。すなわち、かかる情況においては民主制よりも寡頭制の方が都合がよいと解したのである。[3]ところが、事態は彼らの判断どおりに進むどころか、はるかに拙く戦争を管理した。つまり、艦船40艘を急派したのはよいが、お互いによそよそしい将軍二人を指揮者としていっしょに派遣したのである。そのため、アテナイ人たちをめぐる事態が萎えているにもかかわらず、時まさに大いなる同心をも必要とするときに、将軍たちはお互いに党争を続けたのである。[4]そして最後には、オロポスに向けて出航したが、準備もなしにペロポンネソス勢と海戦した。しかも、戦闘に突入する仕方が悪かったばかりか、危険を持ちこたえるのもびくびくもので、艦船20に加える2艘を放棄し、残りの艦船もエレトリアに逃れて助かるのがやっとであった。[5]事態がこういう結果になったので、アテナイの同盟者たちは、かつは、シケリアでの不運ゆえに、かつは、指揮官たちの悪弊ゆえに、ラケダイモン人たちの方へ転向した。また、ペルシアの王ダレイオスがラケダイモン人たちの同盟者となったので、海上の領域の制海権を握っていたパルナバゾスは、ラケダイモン人たちに資金提供をした。その上、ポイニアキアから三段櫂船300を呼び寄せ、ラケダイモン勢の救援のために急派する心算でいた。 第37章 [1]こういった不利な状況が一挙にアテナイ人たちに押し寄せたので、誰しも戦争は終わったと考えた。というのは、もはやアテナイ人たちはわずかの間もこういった事態を持ちこたえらるとはだれひとり想像もできなかったからである。しかし、事態は多くの人たちの思い通りの結果になるどころか、主戦派の優勢のため、万事が正反対に転落する結果になったが、それは以下のような原因による。[2]アルキビアデスは、アテナイからの亡命者となって、しばらくの間、ラケダイモン人たちのために戦争協力し、この戦争において大きな有利さをもたらした。というのは、言葉においても最も有能にして、果敢さにおいても市民たちをはるかに凌駕し、なおそのうえに生まれの善さや富裕さにおいてもアテナイ人たちの第一人者だったからである。[3]ところが、この男は、祖国への帰還〔の許し〕を得ることを欲し、アテナイ人たちのために何か有用なことを実践するためなら何でも目論んでいたが、とりわけ、〔アテナイ人たちが〕劣敗とあらゆる人たちにおもわれていた時機にそうであった。[4]そこで、ダレイオスの太守パルナバゾスと交友関係にあり、また、彼〔パルナバゾス〕が艦船300艘をラケダイモン人たちとの共闘のために急派しようとしているのを見て、その実行を思いとどまるよう説得した。すなわち、彼が教示したのは、――ラケダイモン人たちをあまりに強大化するのは大王にとって得策ではない。ペルシア人たちの得にならないからである。だから、もっと得なのは、主戦派が同等になるのを見逃し、そうやって、相互にできる限り長期間仲違いするようにさせることである、と。[5]これによってパルナバゾスは、アルキビアデスはいいことを言っていると理解し、艦隊を再びポイニキアに送り返した。こうして、この時はラケダイモン人たちから相当な数の同盟軍を引き剥がした。また、しばらく後には、帰還〔の許し〕を得て、軍隊を嚮導し、多くの戦闘でラケダイモン人たちに勝利し、結局は、アテナイの没落した事態を再び生き返らせたのである。[6]いや、この件については、しかるべき時にもっと詳しくわれわれは述べるであろう。記述の時機を先取りして、自然〔な順序〕に反しないために。 第38章 [1]すなわち、この年の終わり、アテナイではテオポムポスが執政官となり、ローマ人たちは執政の代わりに千人指揮官4名を任命した。ティベリオス・ポストゥミオス、ガイオス・コルネリオス、さらにこれらに加えて、ガイオス・ウウアレリオスとカイソ・パビオスである。このころ、アテナイ人たちは400人から成る寡頭制を解体し、国制の組織を市民たちから組織した。[2]こういったことすべての使嗾者はテラメネスで、この男は生き方の点でも端正、知慮の点でもその他の人たちに抜きんでていると思われていた。というのも、アルキビアデスを帰還させるよう忠告したのはこの人物のみで、この〔アルキビアデスの〕おかげで〔アテナイ人たちは〕再び自信を取り戻し、また〔アルキビアデスも〕祖国の善きことのために他にも多くのことの使嗾者となり、並々ならぬ喝采を博したのである。[3]しかし、これらのことはすこしく後に起こったことであって、アテナイ人たちはといえば、戦争のために将軍としてトラシュロスとトラシュブウロスとを任命し、両人は艦隊をサモスに集結させ、将兵たちに海戦の訓練を施した。日々、演習をさせてである。[4]他方、ラケダイモン人たちの艦隊指揮官ミンダロスはといえば、しばらくの間ミレトスで過ごしていた。パルナバゾスからの援助を期待していたのである。というのは、三段櫂船300艘がポイニキアから入港したと聞いて、希望にわくわくして。これだけの艦隊があれば、アテナイ人たちの嚮導権を解体できると確信したからである。[5]ところが、少しして、ある人たちから、〔パルナバゾスは〕アルキビアデスに説得されて、舟艇をポイニキアに再び送り返したと聞いて、パルナバゾスにかけた希望を断念し、みずからペロポンネソスからの艦船、ならびに、外地の同盟者たちからのそれを整備し、ロドス人たちの一部が革命のために団結したと伝え聞くや、ドリエウスを艦船13艘をつけてロドスに急派した。[6]というのは、最近、イタリアにあるヘラス諸都市の一部が、上述の艦船〔13艘〕を共闘のためにラケダイモン人たちに急派していたからである。他方、〔ミンダロス〕自身は、その他の全艦船――83艘あった――を率いてヘレスポントス向け出発した。アテナイ人たちの艦隊がサモスで過ごしていると伝え聞いたからである。[7]アテナイ人たちの将軍たちは、接近する艦隊を目撃するや否や、これに向けて艦船60艘を帯同して船出した。しかし、ラケダイモン人たちはキオス(Chios)に入港してしまったので、アテナイ人たちの将軍たちによって決定されたのは、レスボスに向かい、そこで同盟者たちからの三段櫂船を集結させ、艦船の数で敵を上回るようにしようということであった。 第39章 [1]そのため、この者たちはそういうことで時を過ごしていた。他方、ラケダイモン人たちの艦隊指揮官ミンダロスの方は、夜陰に乗じて、全艦隊を帯同してヘレスポントスに向けて出航し、道中熱心に突き進み、2日目にシゲイオンに寄港した。他方、アテナイ人たちは、この沿岸航行を聞き知り、同盟者たちからの三段櫂船全艦〔の到着〕を待たず、3艘だけが自分たちのもとに到着したにすぎなかったけれど、ラケダイモン人たちを追跡した。[2]そして、シゲイオンに着くや、艦隊はすでに出航した後で、艦船3艘が取り残されているのを発見して、すぐにこれをわがものとした。そしてその後で、エレイオンに寄港して、海戦の準備を整えた。[3]対してラケダイモン人たちは、敵勢が戦闘の備えを整えたのを目撃して、自分たちも5日間にわたって演習をかさね、漕ぎ手の訓練をしていたので、海戦のために艦隊を配置につかせた。90艘に2艘足りぬ数であった。かくて、こなたは〔小〕アジア沿岸部から艦船を布置し、対してアテナイ勢はヨーロッパ側を確保して迎撃体勢を取った。が、数の上では後れをとっていたが、経験の点では凌駕していた。[4]さて、ラケダイモン勢は右翼にシュラクウサイ勢――これを率いたのはヘルモクラテスであった――を配置し、左翼はペロポンネソス勢――これの嚮導権を取ったのはミンダロスであった――がこぞって充満した。対してアテナイ勢の方は、右翼に配置されたのはトラシュロス、左翼はトラシュブウロスであった。そして、先ず最初に、両軍とも、潮に逆行しないために、場所をめぐっての功名争いに熱中した。[5]そのために、じつに長い間、お互いの周りを回航して、海峡を遮断しょうとし、また、地の利をめぐっての場所争いをした。というのは、アビュドスとセストスとの中間で海戦が起こった場合、狭い場所で潮の流れが並々ならず妨げとなるからである。とはいえ、アテナイ勢の操舵手たちは、経験の点ではるかにまさっていて、勝利に多大な貢献をしたのである。 第40章 [1]というのは、ペロポンネソス勢は艦船の数と艦上戦闘員の勇徳との点でまさっていたが、操舵手たちの技術は、相手に対する優越を帳消しにしていた。すなわち、ペロポンネソス勢は一丸となった艦船で熱心に衝角攻撃をかけるのだが、そのたびに〔アテナイ勢は〕自分たちの〔艦船〕を非常に巧みに操ったので、船体のほかの部分は壊すことができず、衝角の口にだけ激突せざるをえなかったのである。[2]そこでミンダロスは、衝角による力押しが無効なのを目にして、数艘や1艘で〔敵艦に〕絡み合うよう命じた。ところが、ここでも、〔アテナイ勢の〕操舵手たちの技術によって、〔その攻撃が〕無効になったばかりか、攻めかかってくる艦船の衝角を器用にかわして、〔敵船の〕船腹に突撃し、その多くを傷だらけにしたのである。[3]しかし、両軍ともに功名心にはやり、衝角攻撃によって危険に挺身しただけでなく、絡み合って、艦上戦闘員によっても闘い続けた。しかし、潮の力で多くの作戦行動を妨げられながら、たっぷりの時間にわたって危険に挺身しつづけたが、両軍どちらもが勝利を得られなかった。[4]かくて、この戦闘は形勢互角であったが、ある岬のかなたに艦船25が出現した。同盟者たちからアテナイ勢に急派されたものだった。このため、ペロポンネソス勢は恐れをなして、アビュドス方面へ逃走しようとし、アテナイ勢が追いすがり、功名心に燃えて追撃した。[5]かくて、この海戦はそういう結末を迎え、アテナイ勢はキオス(Chios)からの艦船8、コリントスからのを5、アムブラキアからのを2、シュラクウサイとペレネとレウカスからのをそれぞれ1艘ずつ拿捕した。自分たちは5艘を失ったが、これはすべて沈没する結果になったものである。[6]その後、トラシュブウロスの部隊は、ヘカベの記念碑のある岬の上に、勝利牌を立て、勝利の報告者たちをアテナイに派遣し、自分たちは全艦隊を帯同して、キュジコスへと航行した。というのは、この都市が、海戦の前に、ダレイオスの太守パルナバゾス、ならびに、ラケダイモン勢の嚮導者クレアルコスに離反していたからである。そして、この都市が城壁なしなのを見出して、易々とその攻撃を制し、キュジコス人たちから資金を徴収して、セストスへと引き揚げた。 |