第31章-40章
第41章 [1]ラケダイモン勢の艦隊指揮官ミンダロスは、敗北を喫してアビュドスに逃走、傷んだ艦船を補修するとともに、エウボイアにある三段櫂船のもとに、スパルタ人エピクレスを急派、できるかぎり速く引率するよう下命した。[2]彼〔エピクレス〕はエウボイアに入港すると、艦船――50艘あった――を集め、急いで船出した。しかし、これらの三段櫂船がアトス山に到着したとき、猛烈な嵐が起こり、ために、艦船は全艦が破滅し、人員も助かったのは12人にすぎなかった。[3]これに関することは、コロネイアの近くの神殿にある奉納物に、監督官が言っているとおりで、その碑文は以下のとおりである。 [4]ちょうど同じころ、アルキビアデスは三段櫂船13艘を率いて、サモスですごしていた者たちのもとに入港した。この者たちは、〔アルキビアデスが〕パルナバゾスを説得したおかげで、もはや艦船300艘がラケダイモン勢を救援することはないことを、とっくに聞き知っていた。[5]それで、サモス駐留隊は親愛の情をもって彼を迎え入れたので、〔アルキビアデスは〕自分の帰還の件を彼らと相談した。祖国のために多くの点で有為の士となることを申し出、同様にまた自分の一件も、祖国に逆らって敵に対する己の徳〔忠誠心〕を示すよう強いられていると言って、弁明し、自分の運命に滂沱の涙を流して。 第42章 [1]彼の言葉を将兵たちが喜んで受け容れ、また、このことについてアテナイに言い送ったので、この男の訴訟を破棄し、将軍職に与ることが民衆によって決定された。というのは、〔民衆は〕彼の敢行の実際と、ヘラス人たちの間における評判を目の当たりにして、尤もなことではあるが、この男が味方につけば、自分たちの事態に少なからぬ影響力があると受けとめたからである。[2]というのも、このとき国制を嚮導していたテラメネス――どちらかといえばむしろ利口すぎるとの評判のある男――も、アルキビアデスを帰還させるよう民衆に忠告していたのである。そして、これらのことがサモスに通達されると、アルキビアデスは自分の持ち船13艘に9艘を加えて受け取り、その後ハリカルナッソスへと出航して、その都市から金を徴収した。[3]さらにその後、〔コス島の〕メロピスを破壊、おびただしい掠奪品を持ってサモスに引き揚げた。そして、多くの鹵獲品が集まったので、サモス駐留の将兵ならびに自分の麾下の将兵たちにその戦利品を分け与え、いい目をした者たちをたちまちにして自分に対する好意者に仕立て上げた。[4]他方、同じころ、アンタンドロス人たちは、〔ペルシアの〕守備隊を受け入れていたが、ラケダイモンから将兵を呼び寄せ、これといっしょになってその守備隊を放逐し、祖国を自由に統治した。というのは、ラケダイモン人たちは、パルナバゾスが300艘の艦船をポイニキアに送り返した件で彼を非難して、アンタンドロスの住民たちと共闘したのである。 [5]ところで、歴史編纂者たちのうち、トゥキュディデスは、〔この年で〕記述を中断しているが、22年間を8巻にまとめた。もっとも、9巻に分けている人たちもいるが。他方、クセノポンとテオポムポスとは、トゥキュディデスが残したところから始め、クセノポンは48年間をまとめ、テオポムポスはヘラスの事跡を17年間にわたって述べ、12巻でクニドスの海戦までの歴史を記述している。 [6]さて、以上は、ヘラスと〔小〕アジアとに関することであった。他方、ローマ人たちはアイコスと戦争を続け、大軍勢でその領地に侵入した。そして、ボライと名づけられている都市に包囲陣をしいて、これを攻囲・攻略した。 第43章 [1]この年の事件が終わりを告げたとき、アテナイではグラウキッポスが執政官となり、ローマでは、執政(hupatoi)に任命されたのはマルコス・コルネリオスとレウキオス・プウリオスとであった。彼らの治世下に、シケリアのアイゲスタ人たちはシュラクウサイに抗してアテナイの同盟者になっていたのだが、敗戦となったため、彼らは恐慌状態に陥った。尤もなことではあるが、シュラクウサイ人たちに対して犯した過ちのゆえに、彼らに報復権を与えることになろうと予想したからである。[2]案の定、セリヌウス人たちが、係争の地をめぐって自分たちに戦争を仕掛けてきたので、彼らは自発的に撤退し、これを口実にシュラクウサイ人たちがセリヌウス人たちといっしょになって戦争に加担して、祖国を完全に失うことのないようにしようと用心した。[3]ところが、セリヌウス人たちは係争の地以外に広大な隣接地の割譲を求めてきたので、事ここにいたって、アイゲスタの住民は使節団をカルケドンに急派し、救援を要請して自分たちの都市を手渡そうとした。[4]かくして〔アイゲスタの〕派遣団が寄港し、民衆から与えられた指示どおりを長老会に述べたが、カルケドン人たちは並々ならぬ窮地に立たされた。というのは、かつは、要衝の地を占めるその都市を手に入れたいと欲しながらも、かつは、シュラクウサイ人たちを恐れたからである。最近、〔シュラクウサイが〕アテナイの軍勢に戦勝したのを目にしていたので。[5]とはいえ、彼ら〔カルケドン人たち〕のところの指導者も、その都市の入手を〔……〕したので、使節団には救援すると回答し、戦争が必要となった場合に、彼らを監督するために、将軍としてアンニバス――このとき法にしたがって王支配していた――を任命した。この人物は、対ゲロン戦争をしてヒメラで落命したアミルコスの曾孫にして、ゲスコン――祖国が敗北したために亡命者となり、セリヌウスで生涯を閉じた――の孫であった。[6]ところで、このアンニバスは、根っからのヘラス嫌いでもあったが、同時に、祖先の不名誉を挽回したいと望み、自力で何とか祖国にとっての有為の士となりたいと熱望していた。そこで、セリヌウス人たちが係争の地の割譲では満足していないのを目の当たりにして、使節団をアイゲスタ人たちに連れ立たせてシュラクウサイ人たちのもとに急派して、そのことの裁定を彼らに委ね、言葉では善処するがごときふりをしながら、真実には、セリヌウス人たちが仲裁を望んでいないところから、シュラクウサイ人たちが彼らと同盟を結ぶことはあるまいと信じていたのである。[7]そこで、セリヌウス人たちも使節団を急派し、仲裁は望まず、カルケドンならびにアイゲスタからの使節団に向かって長々と反論したので、結局、シュラクウサイ人たちによって決定されたのは、セリヌウス人たちとは同盟を、カルケドン人たちとは和平を、遵守するべく決議するということであった。 第44章 [1]使節団の帰国後、カルケドン人たちは、アイゲスタ人たちのところに、リビア人5000ならびにカムパニア人800を急派した。[2]この者たちは、〔シケリアの〕カルキディケ人たちによって対シュラクウサイ戦争のためにアテナイ人たちのために雇われた者たちであったが、敗戦後、寄港したまま、雇い主を見つけられないでいた連中であった。そこでカルケドン人たちは、全員に馬を支給し、語るに足るほどの報酬を与えて、アイゲスタに駐留させたのである。[3]対して、セリヌウス人たちの方は、当時繁栄しており、彼らの都市は人口稠密であったので、アイゲスタ人たちを見くびり、先ずは戦闘態勢で国境地帯を破壊した。軍勢の点ではるかに優勢であったからである。その後、見くびって全土に散開した。[4]対してアイゲスタの将軍たちは、機をうかがって、カルケドン人たちならびにカムパニア人たちとともに、これに襲いかかった。この襲撃が予期せず起こったために、彼らはセリヌウス人たちを易々と背走させ、将兵およそ1000を殲滅し、掠奪品をすべて手中にした。そしてこの戦闘の後、ただちに使節団を急派した――セリヌウス人たちはシュラクウサイ人たちに、アイゲスタ人たちはカルケドンに、救援を要請して。そこで、いずれもが共闘を公約した。カルケドン戦争は、こうして始まったのである。カルケドン人たちはこの戦争の大きさを見越して、軍勢の大きさについて将軍アンニバスに一任し、万事につけて献身的に奉仕した。[6]そこでアンニバスは、その夏と、これに続く冬、イベリアからは大勢の外人兵を登録し、さらには同市民からも少なからざる数を兵籍登録した。さらにはリビアにも赴いて、全都市から最強の精鋭たちを選抜し、艦船も装備した。季節が春になったら、軍勢を渡海させる心づもりで。以上が、シケリアで起こったことである。 第45章 [1]他方、ヘラスでは、ロドス人ドリエウス――イタリアからの三段櫂船の艦隊指揮官であった――が、ロドスの争乱〔前412年冬、ロドスはアテナイに離反。38章5、トゥキュディデス8_44〕を収めた後、ヘレスポントスに向けて出航、ミンダロスと合流すべく急いでいた。ミンダロスはアビュドスで時を過ごしつつ、至るところから、ペロポンネソス勢の同盟艦船を集結させていたのである。[2]そしてドリエウスがすでにトロアスのシゲイオンあたりにあったとき、セストスにあったアテナイ勢は、〔ドリエウスが〕沿岸航行していると伝え聞いて、全艦船――74艘であった――をもってこれに向けて乗り出した。[3]ドリエウスの方は、しばらくは、何が起こったかに気づかないまま海上を航行していた。だが、気づいて、艦隊の多さに驚倒し、他に助かる途はないと見てダルダノスに逃げ込んだ。[4]ここで将兵たちを下船させ、この都市を守備していた者たちを加え、すぐにおびただしい飛び道具を搬入するとともに、将兵の一部は船首に配備し、一部は陸地の要所要所に配置した。[5]対してアテナイ勢は、疾風迅雷のごとくなだれ込んで、〔敵〕艦船を〔陸から〕引き離そうとし、数に物言わせて四方八方から殺到し、相手勢を翻弄した。[6]このことを伝え聞くや、ペロポンネソス勢の艦隊指揮官ミンダロスは、ただちにアビュドスから80に加える4艘の艦船を帯同してダルダネイオンに寄港し、ドリエウス麾下を救援しようとした。さらには、パルナバゾスの陸戦隊陣地も同所にあって、ラケダイモン勢を救援しようとした。[7]かくして、双方の艦隊がお互いに接近するや、いずれもが三段櫂船を海戦のために戦列を組み上げた。そしてミンダロスは90に加える7艘を率い、左翼にはシュラクウサイ勢を配置し、自分は右翼の指揮を執った。対してアテナイ勢は、指揮を執ったのは、右翼の部隊はトラシュブウロス、もう一方はトラシュロス。[8]こういう配置で、彼らが態勢を整えるや、双方の指揮官たちは戦闘の合図を掲げ、喇叭兵たちは、命令一下、戦闘開始の指令を出し始めた。そして、漕ぎ手たちは熱意に何ら欠くるところなく、操舵手たちは器用な舵つかいをし、この武勇争いは驚倒にあたいするものとなることになった。[9]というのは、三段櫂船が衝角を食らわせようとするたびに、操舵手たちはきわどい一瞬で艦船をうまく旋回させ、そのため、その打撃は衝角のところに生ずることになったのである。[10]かくて、艦上戦闘員はといえば、自分たちの艦船が敵勢の三段櫂船を舷側で持ちこたえているのを目の当たりにして、恐慌に陥り、われとわが身を気づかったのである。しかし操舵手たちが、経験によってその体当たりを凌ぐたびに、今度は大喜びして、希望に満たされるのであった。 第46章 [1]とはいえ、甲板上に乗り込んでいた者たちも、功名心を発揮しないどころではなく、ある者ははるか遠くに隔たっているときには間断なく弓を射かけ、たちまちその場は飛び道具で満たされた。またある者は近くに接近するたびに、投げ槍を投擲したのである。ある者は防御している艦上戦闘員に、ある者は操舵手当人に投げつけようと功名心に燃えて。また、艦船どうしが突き当たるたびに、長柄で武勇争いをするとともに、ぶつかったときに敵の三段櫂船に乗り移って、両刃剣でお互いに渡り合ったのである。[2]そして敗北が生じたときには、勝利者は勝ち鬨を上げ、他の者たちは喚声を上げて救援に駆けつけるので、叫び声が海戦の戦場全体に入り混じった。こうして長時間にわたって、戦闘は形勢互角であったが、それは、両軍ともに功名心に駆られていたからである。しかしその後、思いがけずアルキビアデスがサモスから艦船20艘を帯同して現れた。たまたまヘレスポントスに航行してきたのである。[3]しかし、その艦船は遠かったので、両軍とも自分たちの救援に駆けつけてくれたとの希望をいだき、希望に満たされて、ますますはるかに献身的に敢行に挺身した。しかし、艦隊がすでに近くなって、ラケダイモン勢には何の合図も見えず、アテナイ勢にはアルキビアデスが自艦から合図の深紅の旗――これこそ彼らの申し合わせの合図だった――を掲げたので、ラケダイモン勢は驚倒して背走し、アテナイ勢は優勢に気をよくして、逃れ去ろうとする相手を急ぎ追撃した。[4]そして艦船10艘をすぐに手中にしたが、その後、嵐と暴風が起こり、彼らは追撃の多くを妨害されることとなった。というのは、波浪の大きさのため、艦艇は舵のいうことをきかず、衝角は無効になってしまった。体当たりを食らう艦船が低くなったからである。[5]結局のところ、ラケダイモン勢は海岸に上陸し、パルナバゾスの陸戦隊陣地に逃れ、アテナイ勢は、最初は艦船を陸から引き離そうと試み、必死になって危険に挺身したが、ペルシア軍に撃退されて、セストスに引き揚げた。[6]というのは、パルナバゾスは、ラケダイモン人たちが非難する点に関して彼らに弁明したいと望んでいて、アテナイ人たちに対してより強力に闘ったのである。同時にまた、艦船300艘をポイニキアに送り返した件についても、彼は説明した、――そうしたのは、アラビアの王とアイギュプティアの王とがポイニキア情勢に対して策謀をめぐらせていると伝え聞いたからだ、と。 第47章 [1]海戦がこういう終わり方をしたとき、アテナイ勢は、このときすでに夜になったので、セストスに引き揚げ、翌、夜明けとともに船の残骸を回収するとともに、前回の勝利牌〔第40章6〕に加えて、再び別の勝利牌を立てた。[2]他方、ミンダロスの方は、第1夜警時のころ、アビュドスに船出し、破損艦船を補修するとともに、ラケダイモン人たちのもとに人を遣って、陸戦隊と海戦隊の救援を要請させた。というのは、艦隊の準備が整うまでの間、〔小〕アジアにおけるアテナイ同盟諸都市を、パルナバゾスとともに陸戦隊で攻囲しようと心づもりしていたのである。[3]さらにまた、カルキス人たち、および、エウボイアの住民の残りのほとんど全員が、アテナイから離反していたが、だからこそ、島に住んでいるために、もしや制海権を握っているアテナイ人たちに攻囲・攻略されるのではないかと、戦々恐々としていたのである。そこで、彼らはボイオティア人たちに、エウリポス海峡に共同で堤防を築き、エウボイアとボイオティアとを繋ぐことを要請した。[4]するとボイオティア人たちは賛同したのであるが、それは、エウボイアが他の誰の島であろうと、自分たちの陸地になれば、自分たちにとっても有利となるからであった。そういうわけで、全都市が堤防作りに奮起し、お互いに競い合った。というのは、市民たち全員に出動するよう言いつけたばかりでなく、在住していた外国人たちにも〔言いつけた〕ので、その結果、作業に従事した人数の多さによって、分担量はすぐに達成できたのである。[5]こうして、土手が築かれたのは、エウボイア側ではカルキス、ボイオティア側では、アウリス近郊であった。ここで瀬戸は最も狭くなっていたからである。しかし、この地点は以前からも常に潮流があり、海は激しく方向転換していたのであるが、このときには、潮の流れははるかに強力なものになった。海があまりに狭いところに押し込められたからである。というのは、船1艘が通過できるだけの狭さが残されたのみだったからである。さらに、両端に高い櫓をこしらえ、水路に木製の橋を架けた。[6]これに対してテラメネスが、艦船30艘とともにアテナイ人たちに急派され、先ずは、作業に従事している者たちを妨害しようと試みたが、はるかに多数の将兵たちが、土手をこしらえる者たちに付き添っていたので、この策は断念し、島嶼への航行にでた。[7]そして、市民たちや同盟者たちに、貢納をやめさせることを望み、敵の領土を破壊するとともに多くの戦利品をかき集めた。さらには、同盟諸都市に赴き、その都市にあって革命を目論んだ連中から金銭を徴収した。[8]そしてパロスに寄港し、この都市の寡頭制に遭遇して、民衆には自由を回復させ、寡頭制に携わっていた連中からは多くの金銭を徴収した。 第48章 [1]このころ、コルキュラで大きな党争と殺戮が発生することになったが、これには他の原因があったが、とりわけ彼らの相互にもとからあった敵意が原因といわれている。[2]つまり、同市民たちのこういう殺害が結果した都市はかつてひとつもなく、また破滅におよぶようなこれほど大きな争いや喧嘩もなかったのである。というのは、この党争以前に他の市民によって殲滅された人たちはおよそ1500人にのぼったと思われている。それも、その全員が指導的立場にある市民たちである。[3]しかも、こういう不運が発生したとき、運命は彼らに別の災禍を見舞い、お互いに対する仲違いをもう一度増幅させたのである。すなわち、コルキュラ人たちの中で身分の上の者たちは、寡頭制に憧れ、ラケダイモン人たちの流儀を好んでいたが、民主的な群衆は、アテナイ人たちとの同盟に熱心であった。[4]というのも、主導権争いをしていた民衆派は逆らうことに熱中していたからである。例えば、ラケダイモン人たちは同盟諸都市の指導的立場の者たちを共同体の管理職に就けたが、これに対してアテナイ人たちは、諸都市に民主制を確立するを常とした。そこでコルキュラ人たちは、市民たちの中の最有力者たちが都市をラケダイモン人たちの手に渡そうとしているのを目の当たりにして、都市を守護するための軍勢をアテナイから呼び寄せようとした。[6]そこで、アテナイの将軍コノンがコルキュラに航行し、ナウパクトスのメッセニア人たち600をその都市に残置し、自分は艦隊を帯同して沿岸航行して、ヘラ女神の神域の近くに投錨した。[7]ところが、600人は、突如、市場が人だかりするころに、民衆派の者たちといっしょに、ラケダイモン人たちの流儀を好む者たちに襲いかかり、ある者たちは逮捕し、ある者たちは殺害し、1000人以上を追放した。そして、奴隷たちを自由人とし、外国人たちを市民とした。亡命者たちの数と勢力とに対する用心のためである。[8]こうして、祖国から追われた者たちは、対岸の本土に亡命した。しかし、数日後、都市にあった者たちのうち、亡命者たちの流儀を好む数人が、市場を占拠し、亡命者たちを呼び寄せて、存亡をかけて闘い続けた。だが、夜が〔この争いを〕終わらせたので、お互いに同意しあって、喧嘩をやめて祖国を共同で治めることになった。かくて、コルキュラの殺戮は、こういう終わり方をしたのである。 第49章 [1]他方、マケドニア王アルケラオス〔在位、前413-399年〕は、ピュドナ人たちが聴従しないので、大軍勢でもってその都市に包囲陣をしいた。彼の救援には、テラメネスも艦隊を引き連れて駆けつけた。が、攻囲の最中に、全艦隊を指揮していたトラキアのトラシュブウロスのもとに立ち去った。[2]しかしアルケラオスはますます功名心に燃えて、ピュドナを攻囲し、制圧して、これを海からおよそ20スタディオン移動させた。他方、ミンダロスはといえば、あらゆるところの三段櫂船に動員をかけていた。そのため、ペロポンネスからも多数が到着し、その他の同盟者たちからも同様であった。対して、セストスにあったアテナイの将軍たちは、敵勢に動員された艦隊の多さを伝え聞いて、戦々恐々となった。もしや、全三段櫂船でもって敵勢が襲いかかってきて、〔自分たちの〕艦隊を手中にするのではないかと思ったのである。[3]ここからして、彼らは、セストスにあった艦船を進水させ、ケロネソスを回航してカルディアに入港した。また、トラキアのトラシュブウロスとテラメネスとに三段櫂船を派遣し、艦隊を帯同してできるかぎり速やかにやってくるよう頼んだ。さらには、アルキビアデスにも人を遣って、手持ちの艦船とともにレスボスから呼び寄せ、かくて全艦隊が一カ所に動員され、将軍たちは存亡をかけて危険に挺身しようといきり立った。[4]対して、ラケダイモン人たちの艦隊指揮官ミンダロスは、キュジコスに航行し、全軍勢を下船させて、その都市に対して包囲陣をしいた。さらにはパルナバゾスも多くの軍勢を帯同して居合わせて、ミンダロスはこれとともにキュジコスを力攻めで攻略した。[5]そこでアテナイの将軍たちはキュジコスに航行する決心をし、全艦船を帯同して船出し、ケロネソスを回航した。そして、先ずはエレウウスに到着した。次いで、アビュドス人たちの都市を夜間に通り過ぎるという心の砕きようであった。艦船の多さを敵に悟られないためである。[6]こうして、プロコンネソスについたので、その夜はそこで野営し、次の日、乗船した将兵をキュジコス人たちの領土まで渡海させ、これの将であるカイレスに、この部隊をその都市の攻撃に引率するよう言いつけ、 第50章 [1]自分たちは艦隊を3つの戦隊に分け、指揮は、ひとつはアルキビアデス、もうひとつはテラメネス、三つ目はトラシュブウロスが執った。すると、アルキビアデスは、自身の戦隊を帯同して、他の者たちにはるかに先がけて、ラケダイモン人たちを海戦に誘い込もうと望んだ。しかし、テラメネスとトラシュブウロスとは、都市の出入り口から乗り出してくる者たちの包囲と封じ込めに腕を振るうことにした。[2]対して、ミンダロスの方は、アルキビアデスの艦船が押し寄せるのだけを目にして、他の艦船には気づかず、見くびって、艦船80艘をもって勇んで都市から迎撃に向かった。そして、アルキビアデス麾下の戦隊に接近したとたん、アテナイ勢は、自分たちに下知されていたとおり、逃走するふりをし、対してペロポンネソス勢は、喜び勇んで、勝利したと思って急ぎ追尾した。[3]しかしアルキビアデスが、相手を都市からかなり遠く引き離した時に、合図の旗を掲げた。それが掲げられるや、アルキビアデス麾下の三段櫂船は、突如、一斉に向きを変えて、敵勢に舳先を向け、さらにテラメネスとトラシュブウロスとは都市に向けて航行、ラケダイモン勢の退却路を遮断した。[4]対してミンダロス麾下の者たちは、初めて敵勢の多さを目の当たりにして、自分たちが術中にはまったことを悟り、恐怖にとらわれた。結局は、アテナイ勢が四方八方から現れて、ペロポンネソス勢を都市の出入り口から遮断したので、ミンダロスは領土のクレロスと呼ばれる地――ここには、パルナバゾスも軍勢を率いて駐留していた――に逃げ込まざるをえなくなった。[5]対して、アルキビアデスは、ひたすら追撃し、〔艦船の〕一部は沈没させ、一部は傷だらけにして手中に収め、大多数は、直接陸地に係留していたのをつかまえて、「鉄の手」を投げつけ、これによって岸から引き離そうと試みた。[6]しかし、陸路、陸戦隊がペロポンネソス勢の救援に駆けつけたので、おびただしい殺し合いが生じた。それは、アテナイ勢は優勢に立ったために有利さよりは大胆さによって闘いつづけ、ペロポンネソス勢は数の上ではるかに凌駕していたからである。というのも、パルナバゾスの軍がラケダイモン勢の救援に駆けつけ、戦闘を地上でして、足場をより安全に確保できたからである。[7]しかし、トラシュブウロスが、陸戦隊が敵勢を救援しているのを目撃して、艦上戦闘員の残りを陸に上陸させ、急ぎアルキビアデス隊を救援しようとした。またテラメネスにも、カイレアス隊の陸兵と連携して、陸戦で闘うために、できるかぎり速やかに来るよう頼んだ。 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