第41章-50章
第51章 [1]アテナイ勢がこういったことに関わり合っている間に、ラケダイモン勢の指揮官ミンダロスの方は、自分は、引き離されそうになる艦船のためにアルキビアデスと闘い続ける一方、スパルタ人クレアルコスをば、ペロポンネソス人たちの部隊とともにトラシュブウロス隊に向けて急派した。また、彼〔クレアルコス〕には、パルナバゾスに従軍している傭兵隊をもいっしょに派遣した。[2]対して、トラシュブウロスは、艦上戦闘員と弓兵を帯同して、先ずは、敵勢を頑強に受けとめ、多数を殲滅したが、味方の将兵も少なからず斃れるのを目にした。しかし、パルナバゾス麾下の傭兵たちがアテナイ勢を取り囲み、数にものをいわせて四方八方から押し寄せたとき、テラメネスが手下の将兵とカイレオス麾下の陸兵とを率いて現れた。[3]そこで、トラシュブウロス麾下は疲労困憊し、助かる希望を断念していたのが、これほどの救援隊が現れたために、突如、再び生気に目覚めた。[4]そして、長時間にわたって頑強な戦闘が続いたが、先ずは、パルナバゾスの傭兵隊が逃走を始め、ために、通常の戦列の連続が突破された。最後には、ペロポンネソス勢がクレアルコスともども取り残され、多くの突進をかけ、またかけられたうえで、排撃された。[5]ここが制圧されたので、テラメネスの戦隊はアルキビアデス麾下の救援に進発した。かくて、軍勢が一カ所に押し寄せたが、ミンダロスはテラメネスの戦隊の襲来に驚倒することなく、ペロポンネソス勢を分けて、半分には襲来者を迎撃させ、半分は自分が率いて、そして各人に、スパルタの名誉を辱めぬよう、また、陸戦においても同様であるよう要請して、アルキビアデスの戦隊を迎え撃った。[6]そして、艦船をめぐって英雄的な戦闘を引き起こして、誰よりも先に立ってみずからが危険を冒し、対抗戦列の者たちの多くを殲滅、最後には祖国にふさわしく闘い続けたうえで、アルキビアデスの戦隊によって殲滅された。これが斃れるや、ペロポンネソス勢ならびに全同盟者たちは駆け寄り、驚倒し、次いで敗走に陥った。[7]対してアテナイ勢は、しばらくは敵勢を追跡したが、パルナバゾスが多数の騎兵を帯同して急ぎ疾駆してくると伝え聞いて、艦船の方に立ち返り、都市〔キュジコス〕を引き取り、それぞれの勝利に対して二つの勝利牌を立てた――ひとつは、いわゆるポリュドロス島における海戦のそれ、ひとつは、最初の勝利牌を作った場所の陸戦のそれである。[8]こうして、市内のペロポンネソス人たちと、戦闘から逃れた者たち全員とは、パルナバゾスの陣に逃げた。対してアテナイの将軍たちは、全艦船と多数の捕虜とをわがものとし、数え切れぬほど多くの鹵獲品を集めた。これほどの軍勢の二つに同時に勝利したからである。 第52章 [1]さて、勝利の報せがアテナイにもたらされると、民衆は、先の災禍以来初めて、願ってもない善運が国にもたらされたのを見て、この慶事に陶酔して、神々には国を挙げて供犠と大祭を挙行し、この戦争のために最強の重装歩兵1000、さらに騎兵100を兵籍登録し、これに加えるに三段櫂船30艘をアルキビアデスの戦隊に急派した。海を制して、ラケダイモン側の諸都市を無難に破壊するためである。[2]他方、ラケダイモン人たちの方は、キュジコス周辺で自分たちに起こった災禍を聞くや、和平のために使節団をアテナイに派遣した。これの首席使節がエンディオスであった。彼に〔発言の〕許可が与えられると、進み出て、簡潔かつラコニア風に説明した。それゆえ、わたし〔筆者〕は語られた言葉を省略しないことにした。「[3]われわれはあなたがたと和平を結びたい、おお、アテナイ人諸君、そして、諸都市は、おのおのが支配しているのを保持し、守備隊は、お互いのもとに駐留しているのを解散し、捕虜は、アテナイ人ひとりにつきラコン人ひとりを身代金を取って取得するということである。むろん、この戦争が両陣営にとって損失であり、むしろわれわれにとってはるかにそうであるということを、われわれは知らないわけではない。[4]しかし、わたしの言葉は聞き捨てにして、事実から知ってもらいたい。われわれはペロポンネソス全体を耕作しているが、あなたがたはアッティカのわずかな部分を。また、ラコン人たちにとってこの戦争は多数の同盟者たちを結合させたが、アテナイ人たちからは、敵勢に与えたと同じ数だけを奪い去った。また、わたしたちにとっては、〔人間の〕住む土地の王たちのうち最も富裕な王〔ペルシア大王〕がこの戦争の後援者となっているが、あなたがたには〔人間の〕住む土地の〔王たちのうちの〕極貧者たちが。[5]それゆえに、われわれの〔将兵は〕報酬の大きさゆえに熱心に出征するが、あなたがたのは、私的資産の中から臨時財産税を供与するので、被害からと同時に出費からも免れようとするのである。[6]第二に、われわれはより海で戦争する時も、国有の船体で危険を冒すが、あなたがたは艦船の中にたいてい市民を乗り組ませている。しかし最も重要なのは、われわれは、海での作戦行動で制圧されたとしても、少なくとも陸上での覇権は一致承認されている。なぜなら、スパルタ陸軍は逃げるということを知りもしないからだ。だが、あなたがたは、海の〔……〕陸の覇権のためではなく、存立のために闘うことになろう。[7]わたしにとって指摘し残されているのは、これほどの量と質とで、戦争に有利を占めながら、われわれが和平締結を呼びかけるのはなぜかということである。わたしとしては、戦争によってスパルタが儲けるということを否定するが、しかしながら、少なくともアテナイよりは損をすることは少ないのである。しかし、ちっとも不運を体験しないでもすむのに、敵といっしょに不運になることを喜ぶというのは、たわけのすることである。なぜなら、味方の辛苦がもたらす苦痛に匹敵するほどの喜びを、敵の破滅がもたらすことはないからである。[8]しかし、われわれが仲直りに熱心なのは、動機はそれだけではなく、父祖の習慣を遵守しようとしてである。というのは、戦争における愛勝心が、多くの恐るべき受難をこしらえるのを目にして、われわれは決してそういったことすべての原因にはなるまいということを、神々にも人間たちにも、すべてのものに明らかにしなければならないと思うからなのだ」 第53章 [1]こういったこと、および、これに類したことをこのラコン人が述べ立てたとき、アテナイの貴顕層は、その考えが和平に傾いたが、主戦論者や、公的な騒動で私腹を肥やそうとしていた連中が、戦争を選んだ。[2]この考えをたきつけたのが、クレオポン――当時、民衆指導者中最大の人物――もそうであった。彼は、進み出て、疑わしい点を独特の仕方で長々と述べ立て、慶事の多さを持ち出して、民衆を陶酔させた。あたかも、運命は戦争の有利さを交互に害するものではないかのように。[3]かくて、アテナイ人たちの評議の仕方が悪く、――何の役にも立たないときになって後悔にくれたのだが――気に入るように述べられた言説に騙されて、しくじり方があまりに決定的だったために、名実ともに自分たちが回復することはもはや二度とできないことになったのである。[4]しかし、これは後に起こったことであるから、その本来の時代に言及されるようにしよう。つまり、このときは、アテナイ人たちは慶事にしがみつくとともに、アルキビアデスが自分の軍勢を指揮下においていることに多くの、かつ、大きな希望を託して、すぐにも覇権を奪回できるものと思っていたのである。 第54章 [1]さて、この年の出来事が終結したとき、アテナイではディオクレスが権職を引き継ぎ、ローマでは執政の職に就いたのは、コイントス・パビオスとガイオス・プウリオスとであった。ちょうどこのころ、カルケドンの将軍アンニバスは、イベリアから外国兵登録した将兵、ならびに、リビアから兵籍登録した将兵を動員し、長艦〔=軍船〕60艘を艤装し、輸送船およそ1500艘を準備した。[2]そして、これに乗せて、軍勢、ならびに、攻囲用の兵器、飛び道具、その他の装備万般を移送した。こうして艦隊を帯同してリビア海を越え、リビアの対岸、シケリアの岬――リリュバイオンと呼ばれる――に接岸した。[3]ちょうどこのとき、セリヌウスの騎兵が何騎か、この地域で過ごしていて、接岸した艦隊の多さを目撃して、すぐさま敵勢到来を市民たちに明かした。そこでセリヌウス人たちはただちに文書運びをシュラクウサイに急派し、救援を頼んだ。[4]他方、アンニバスの方は、軍勢を下船させ、陣営を設営したが、井戸掘りから始めた。この井戸は、その当時はリリュバイオンと名づけられたが、後に、久しくたってから、この近くに国が建設され〔前396年〕、この国の命名〔Lilybaeum〕の原因となった。[5]さて、アンニバスの総勢は、エポロスの記録では、陸兵20万、騎兵4000騎というが、ティマイオスの主張では、10万を越えることそれほど多くないという。とにかく、艦船は全艦モテュエに近い港で揚陸し、シュラクウサイ人たちに、彼らと戦争する気はなく、まして海軍力でシュラクウサイに攻め寄せる気のないことを気づかせようと望んだ。[6]さらに、アイゲスタからの将兵とその他の同盟者たちからの将兵とを編入すると、陣を引き払い、リリュバイオンからセリヌウスへと進軍を開始した。そして、マザロス河にたどりつくと、そのほとりにあった取引所を一撃で攻略、都市に着くと、軍勢を二つの戦隊に分けた。そして都市に対して包囲陣をしき、大急ぎで兵器を設置して突撃を開始した。すなわち、巨大な櫓6基を設置して、同じ数だけの装甲された破城槌を城壁にぶつけたのである。さらに、これとは別に、多数の弓兵と投石兵とを使って、胸壁上の戦闘員を排除した。 第55章 [1]対して、セリヌウス人たちは、久しく攻囲に無経験であったし、対ゲラ戦争ではシケリア人中唯一カルケドンとともに戦ったので、善行を施された者たちによってこういう恐怖にとらわれようとはまったく予想もしなかった。[2]だから、兵器の大きさや、敵勢の多さを目の当たりにして、戦々恐々、見舞われた危難の大きさに打ちのめされたのである。[3]それでも、救済をまったくは諦めず、間もなくシュラクウサイ人たちやその他の同盟者たちが来援してくれるものと期待して、国を挙げて敵勢から城壁を自衛しようとした。[4]すなわち、年齢的に盛りにある者たちは武装して危険に挺身し、年長者たちは、戦闘準備に携わりながら、城壁をまわって、自分たちが敵の手中に陥るのを座視することのないよう若者たちに要請してまわった。また女たちや子どもたちも、祖国のために戦っている男たちに、食料や飛弾を運んでいた。平和時のしとやかさや恥じらいを無に等しいと考えて。[5]衝撃があまりに強烈だったので、〔危機的〕状況の大きさが、女たちの援助さえ必要としたのである。他方、アンニバスの方は、将兵たちに掠奪目的にその都市を与えることを公約して、兵器を打ち当てるとともに、最強の将兵たちによる波状攻撃を城壁にかけた。[6]で、喇叭は一斉に戦闘開始を合図するとともに、命令一下、カルケドンの軍勢は鬨の声をあげ、「牡羊」〔=破城槌〕の威力に城壁は揺れ動き、櫓の高みから戦闘者はシュラクウサイの多数を殲滅した。[7]というのは、久しく和平に耽り、城壁に何の配慮もしていなかったために、易々と制圧された。木製の櫓が高さの点ではるかにまさっていたからである。こうして城壁が落ちるや、カムパニア人たちはひたすら何か目覚ましい働きをしようと、すぐさま都市に突入した。[8]かくて、先ず初めに、向かってきた相手――数は多くはなかった――を撃滅した。しかしその後、大勢が救援に馳せ参じたので、押し出されて、おびただしい味方を失った。というのは、まだ完全には城壁が取り払われてはいないにもかかわらず、強行突破しようとし、この襲撃のさいに悪い足場に陥って易々と敗北したのである。かくて夜になったので、カルケドン勢は攻囲を解いた。 第56章 [1]対して、セリヌウス人たちの方は、騎兵の中から最強の者たちを選抜して、夜陰に乗じてすぐさま、一部はアクラガスへ、他はゲラとシュラクウサイとへ急派し、救援を要請した。もうこれ以上は都市は敵の軍勢に持ちこたえられないからと言って。[2]そこでアクラガスとゲラの人たちは、シュラクウサイ勢を待機した。カルケドン攻撃に結集した軍勢を引率して欲しいと望んで。ところが、シュラクウサイ勢は、この攻囲のことを伝え聞いて、対カルキス戦を戦っていたのを中止し、その地の軍勢を集結させはしたが、大きな装備をこしらえることに時を過ごした。都市は攻囲されても、掠奪されることはあるまいと信じて。[3]ところが、アンニバスは、夜が過ぎて、日の出とともに、四方八方から突撃をかけ、都市の城壁の壊れた部分、および、それに隣接した部分を兵器で破壊した。[4]そして、城壁のその箇所を取り払い、最強の精兵によって破城攻撃をかけ、徐々にセリヌウス勢を押し出していった。しかしながら、存亡をかけて戦い抜こうとしている相手を強行突破することはできなかった。[5]そのため、両軍とも多数の戦死者が出たが、カルケドン勢には新部隊が入れ替わり、セリヌウス勢には救援部隊がなかった。かくして、攻囲は比類のない名誉愛をもって9日間にわたって続き、カルケドン勢は多くの被害を被るとともに恐るべきことをしでかすこととなった。[6]しかし、崩れた城壁のところにイベリア兵がのぼったとき、家屋の上にいた女たちが悲鳴をあげ、セリヌウス人たちが、都市が掠奪されているものと思って驚倒し、城壁を捨てて、路地の入り口に密集隊形を組み、道路のバリケード封鎖にとりかかり、敵勢に対して長時間にわたって防衛した。[7]そこで、カルケドン勢が強行突破しようとしたが、女子どもの多数が家屋の上に逃げ、石や屋根瓦を敵勢めがけて投げつけたため、カルケドン勢は長時間に渡って悪い対処の仕方をした。家屋の側壁のせいで路地の兵を取り囲むこともできず、屋根の上から投げる者たちのために互角に戦うこともできなかったからである。[8]しかしながら、危険〔闘い〕は午後まで延長したとはいえ、家屋の上から戦っている者たちには飛弾が尽き、カルケドン勢には被害を被った者たちの代わりに無傷の者たちが闘い続けた。そのため、結局は、内の者たちは減り続け、対して敵勢はその都度より多数が都市に殺到して、路地からセリヌウス人たちを押し出したのである。 第57章 [1]こうして、都市も占拠されるや、ヘラス人たちには悲嘆と涙を目撃することができたが、蕃族には、悲鳴とこもごもの叫び声が起こったのである。というのは、ある者たちは、見舞われた災禍の大きさを目にして恐怖に陥ったのであり、ある者たちは、慶事に気をよくして殺戮を申し立てたのである。[2]こうして、セリヌウス勢市が場に馳せ参じたとき、この者たちはその場で戦って全員が殲滅された。蕃族の方は、都市中に散開して、家屋の中のめっけものは掠奪し、取り押さえられた身柄は、あるものは家屋といっしょに焼き尽くし、あるものは道路に引きずり出して、性も年齢も特別なく、幼児も女も老人も等しく殺害し、同情心のかけらも持たなかったのである。[3]さらには、父祖伝来の習慣どおり、死体をバラバラにして、ある者は集めた腕を身体にまとい、ある者は生首をガイソス槍やサウニオン槍の先に突き刺して持ち歩いた。しかし、子どもを連れて神殿に逃れていた女たちで、彼らがつかまえたかぎりは、殺害しないよう申し立て、この女たちだけは命の保証を与えたのであった。[4]しかし、彼らがそうしたのは、哀れな者たちを憐れんだからではなく、女たちが救済を断念して、神殿に火を放ち、ために、神殿内の聖別された宝物を盗めなくなるのではないかと用心したのである。[5]つまりは、これほどまでに蕃族は野蛮さの点で自余の者たちを抜きんでていたので、ほかの者たちなら、精霊的なものに涜神を働くことのないよう、神域に庇護を求めた者たちは助けるものだが、カルケドン人たちが敵を手に掛けることを控えるのは、正反対に、神々の神殿を盗むためなのだ。[6]こうして、すでに夜になったが、都市は掠奪され、家屋のあるものは焼き払われ、あるものは打ち壊され、至るところ流血と屍体とに満たされた。1万に加える6000体が死体となって発見されたが、それも、捕虜として捕らえられた5000人以上を別にしてである。 第58章 [1]人生の反転を目の当たりにして、カルケドンと同盟関係にあるヘラス人たちは、その哀れな人たちの運命を憐れんだ。女たちはといえば、当たり前の養育を奪い去られ、敵たちの凌辱に曝されて毎夜を過ごした。恐るべき苦痛に耐えながらである。その中のある女たちは、結婚適齢期の娘たちが、その年ごろにふさわしくないことを被るのを見ざるを得なくされた。[2]なぜなら、蕃族の野蛮さは、自由人の子どもたちであれ乙女たちであれ、この不運に遭遇した者たちに恐るべき災禍をもたらすことに何のためらいもなかったからである。それゆえにこそ、女たちは、かつは、リビアで自分たちを待ち受けている奴隷状態を推測し、かつは、自分たちが生子といっしょに不名誉にして不面目に主人たちに仕えなければならぬのを目の当たりにして、しかもその主人たちたるや、言葉は通じず、性格は野獣的なのを眼にして、生子たちについてはその生を嘆き、これに対する違法行為を働いては、魂をつんざかれるように狂乱し、自分たちの運命を多々号泣した。他方、父親や、さらには兄弟たちについては、祖国のために戦い抜いて最期を遂げた彼らを、浄福視した。彼らがみずからの徳に値しないようなことは何も見ずにすんだからである。[3]他方、虜囚を免れたセリヌウス人たちは、数は2000に加える600人であったが、アクラガスに無事のがれ、ありとあらゆる人道的援助に与った。すなわち、アクラガス人たちは、彼らのために公的に食料援助し、それぞれの家に宿割りをし、私人たちにして彼らのために熱心な者たちに、何でも生活援助をするよう呼びかけたのである。 第59章 [1]こういうことが行われている、その時を同じくして、シュラクウサイから選抜兵3000がアクラガスに来着した。救援のために急遽派遣された先遣隊である。しかし、都市がすでに攻略されたと聞き、使節団を急派して、アンニバスに、捕虜は身代金を取って解放すること、神々の神殿には手をつけないことを呼びかけた。[2]これにアンニバスは応えた、――セリヌウス人たちは自由を得る機会をものにすることができなかったのだから、奴隷状態を甘受すべきであるし、神々は住民に立腹してセリヌウスを立ち去られた、と。[3]しかしながら、亡命者たちがエムペディオンを使節として急派していたので、この人物にはアンニバスはその家産を返還した。というのは、彼は常にカルケドンのことを気にかけ、今回の攻囲の前にも、カルケドンと戦争すべきでないと市民たちに忠告していたからである。さらに、この人物のために、彼は捕虜となっていた親類をも放免してやり、亡命していたセリヌウス人たちに、カルケドン人たちに貢納を納めることで、都市に住み、耕地を耕す権利を与えたのであった。 [4]ところで、この都市の陥落は、創設以来、242年間の長きにわたる統治の後であった。他方、アンニバスの方は、セリヌウスの城壁を取り払った上で、全軍を帯同してヒメラ攻撃に移動したが、彼はこの都市の打倒を特に欲していた。[5]そのわけは、自分の父親がこの都市のせいで亡命者となったからであり、曾祖父のアミルカスがここを前にゲラによって討ち果たされて殲滅され、彼とともに15万の将兵が殲滅され、他にこれに劣らぬ数の者たちが捕虜とされたからである。[6]ひたすらこれの報復をなさんと、アンニバスは4万の兵をもって、都市からほど遠からぬとある丘陵の上に布陣し、その他の全軍でもって都市に包囲陣をしいた。他にもシケリアおよびシカノスからの2万の将兵が加わったからである。[7]そして、兵器を据えて城壁を数カ所で揺り動かせ、はるかに多勢でもって波状攻撃をかけ、攻囲されている相手を疲労困憊させた。同時にまた、将兵たちは善運に駆り立てられていたのである。[8]さらにはまた、城壁を掘り崩し、薪を積み上げて、これに火が放たれると、たちまち城壁の多くの部分が崩れた。ここからじつに激戦が起こることとなった。片や、強行突破して城壁内になだれ込もうとし、片や、セリヌウス人たちと同じ目に遭うのではないかと恐怖して。[9]こういう次第で、彼らが生子たち、両親、万人にとって戦争の目的たる祖国のために、極端な闘いぶりを見せたため、蕃族は押し出され、彼らは城壁の部分をすぐに再建したのである。この時、彼らのもとに救援に到着したのが、アクラガスから来たシュラクウサイ勢およびその他の同盟者たちの何人か、総勢4000人に達し、これの指揮を執っていたのがシュラクウサイ人ディオクレスであった。 第60章 [1]時あたかも、夜がさらなる勝利の機会を奪ったので、彼らは攻囲を解いた。しかし、ヒメラ人たちには、夜明けとともに、セリヌウス人たちと同じように、自分たちが文字どおり封殺されるのを座視すべきではないと思われたので、城壁の上に守備兵を配置した上で、その他の将兵には、来着した同盟者たちとともに出陣させたが、その数およそ10000であった。[2]そして、敵勢にとって思いもかけぬ奇襲であったため、蕃族は周章狼狽に陥った。攻囲されている相手の同盟者たちがやってきたと思ったからである。しかも、相手は敢行と手練れの点ではるかに凌駕していたので、また最も重要な点は、この戦いを制すれば救済に唯一の希望があるとあって、真っ先に立ち向かってきた相手をすぐさま殲滅した。[3]さらに、蕃族の多勢が、算を乱して向かってきたが、それは、封じ込められた連中がこれほどの敢行に出るとは予想もしなかったからで、半端でない敗北を喫した。なぜなら、ひとところに8万の軍勢が無秩序に馳せ参じたため、蕃族はお互いに衝突しあい、敵勢によってよりも自分たち自身によってはるかに多くの害を被ったからである。[4]しかも、ヒメラ人たちは、城壁から両親、子どもたち、さらには家族たちといった、ありとあらゆる観衆を持っていたので、共同体救命のために自分の身命を惜しげもなく用立てたのである。[5]こうして彼らの戦闘ぶりが華々しかったので、蕃族はその敢行と思いがけない行動に驚倒して敗走に転じた。しかし彼らは何の秩序もなく、丘の上に布陣していた味方のもとに敗走したので、彼ら〔ヒメラ勢〕は、一人も生け捕りにせぬよう互いに声を掛け合いながら追跡し、ティマイオスの言うところでは6000人以上、しかしエポロスの主張では20000人以上を殲滅した。[6]これに対してアンニバスは、自軍が寸断されたのを見て、丘の上に布陣していた兵を攻め下らせ、敗軍の救援に当たり、配置に外れて追撃していたヒメラ勢を捕らえた。[7]かくして激戦となり、ヒメラ勢の大隊は敗走に陥ったが、彼らのうち3000人はカルケドンの軍勢をくい止め、多くの武勲をたてながらも、全員が殲滅された。 |