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back.gif第51章-60章


歴史叢書

第13巻(7/12)





第61章

 [1]この戦闘がすでに終わりを告げたときに、20に加える5艘の三段櫂船がシケリア人たちのもとからヒメラに入港したが、これは先に〔34章4、40章5、63章1〕ラケダイモン人たちの援助に急派したが、この時、出征から呼び戻したものであった。[2]さらには、国中にある噂が広まり、シュラクウサイ人たちは全軍で同盟者たちとともにヒメラ人救援に行軍中であるが、アンニバスはモテュエの三段櫂船を最強の精兵で艤装し、シュラクウサイに回航して、自衛軍のいない都市を占領しようとしているという。[3]このため、ヒメラにある兵の将軍ディオクレスは、艦隊指揮官たちにできるかぎり速やかにシュラクウサイへ出航するよう忠告した。最強の精兵がこちらの戦闘で消耗している間に、都市が力攻めで攻略されることにならないようにである。[4]そのため、自分たちにとって寄与するように思われたのは、この都市は放棄して、半分は三段櫂船に乗船させ――これによって彼らをヒメラ領の外まで移送するためである――、半分は三段櫂船が再びもどってくるまで持ちこたえることであった。[5]しかし、この提案にはヒメラ人たちが不平を鳴らしたけれども、他にどうしようもなかったので、三段櫂船は夜の間に、女たちや子どもたち、さらにはその他の身柄も混ざって急ぎ艤装しメッセニアにまで航行し去った。[6]他方、ディオクレスの方は、自軍の将兵を引き連れて、戦闘で斃れた者たちを後に残して、家郷〔シュラクウサイ〕向けて行軍するため進発した。ヒメラ人たちの多くは、生子や女たちともどもディオクレス隊といっしょに出発した。三段櫂船がこの群衆を運びきれなかったからである。


第62章

 [1]都市に残留した者たちは、武装したまま城壁の上で夜を徹した。しかし、夜明けとともにカルケドン勢が都市に包囲陣をしき、厳しい突撃を開始するや、ヒメラの残留者たちは逡巡することなく闘い続けた。艦隊の来援を期待しながら。[2]かくてその日は持ちこたえたが、次の日、三段櫂船が現れたときには、すでに城壁は兵器によって崩され、イベリア勢が一団となって都市に突入する事態となっていた。そして、蕃族の一部は救援に駆けつけたヒメラ勢に対して自衛し、他は城壁を押さえて、自軍を受け入れていた。[3]かくして、力攻めによって都市が陥落するや、長い時間をかけて、蕃族は捕まえられた者たち全員を同情心なく殺害した。しかし、アンニバスが生け捕りにするよう下知したときには、殺害は止んだが、家屋からのめっけものは運び去られた。[4]アンニバスはといえば、神殿を掠奪し、逃げ込んでいた嘆願者たちを引きずり出したうえで〔神殿に〕火をかけ、都市を更地になるまで破壊しつくした。治められて240年になる都市をである。また、捕虜のうち女たちや子どもたちは軍陣に引き渡して警護させ、捕まえられた男たちは、3000人足らずであったが、かつて曾祖父のアミルカスがゲラ人によって殲滅された当の場所に引き立て、全員をなぶりものにした上で虐殺した。[5]その後、彼は陣を解き、シケリアからの同盟者たちはそれぞれの祖国に帰したが、これにはカムパニア人たちも同道した。慶事の最高の功労者であるのに、功績にふさわしい謝礼を受け取っていないとカルケドン人たちに訴えたからである。[6]他方、アンニバスの方は、長船と輸送船とに軍を乗船させ、同盟者たちのために充分な将兵を残置して、シケリアから出航した。そして、多量の鹵獲品をともなってカルケドンに帰航するや、全員が彼のもとに拝謁にやってきて、右手を差し出し、褒め称えた。わずかな間にそれまでの将軍たちよりも大きな事業を成し遂げたとして。


第63章

 [1]他方、シケリアに帰帆したのはシュラクウサイ人ヘルモクラテスであった。この人物は、対アテナイ戦では将軍となって、祖国にとって多くの点で有為の士となり、シュラクウサイ人たちのもとで最も大きな影響力を持つことになったが、その後、艦隊指揮官として艦船35艘とともに派遣されてラケダイモン勢と共闘していたが〔34章4〕、政敵たちによって失脚させられ、追放刑の被告となり、艦隊は後任として急派された者たちにペロポンネソスで〔ヘレニカ1_1_31では、エペソスで〕引き渡した。[2]しかし自分は、出征していたおかげでペルシアの太守パルナバゾスと友好関係にあり、彼から多額の金銭を受け取って、これを持ってメッセネに寄港し、三段櫂船5艘を建造、将兵1000を雇った。[3]さらには、放逐されていたヒメラ人およそ1000を加え、友たちが自分のために戦っていたので、シュラクウサイへの帰還を企てたが、この策はし損じたので、進発して島中央部を通って、セリヌウスを押さえて、この都市の一部を城壁化し、至るところからセリヌウス人たちの生き残りを呼び集めた。[4]さらには、他の多くの人たちを同所に受け入れて、選抜された兵6000の軍を動員した。そして、ここから進発して、先ずはモテュエ人たちの領土を破壊し、この都市から迎撃に出た相手を戦闘で制して多数を殲滅し、その他は城壁内に追い込んだ。その後、パノルモス人たちの領土を荒らして、数え切れない掠奪品を手中にし、パノルモス勢が全軍で戦闘に望むや、その都市の前でその500ぐらいを殲滅し、他は城壁の内に封じ込めた。[5]同様にして、他にも、カルケドン人たちの支配下にあった全領土を破壊して、シケリア人たちからの称讃を博した。そこで、シュラクウサイ人たちの大多数もすぐに心変わりした。ヘルモクラテスが追放されたのは、その徳にふさわしくなかったのを見たからである。[6]そこで、彼について何回もの民会で長々しい議論が尽くされた結果、民衆は、この人物を受け容れることを望んでいることが明らかとなったが、ヘルモクラテスは、自分に対するシュラクウサイ人たちの間の評判を耳にして、自分の帰還を注意深く準備した。政敵たちが反対するのを知っていたからである。以上が、シケリアで起こったことである。


第64章

 他方、ヘラスでは、トラシュブウロス〔トラシュロス?〕が艦船30艘と、騎兵100を含む多数の重装歩兵を帯同して、アテナイから派遣され、エペソスに寄港した。そして軍を2カ所で上陸させて突撃をかけた。対して、城内の人たちが撃って出て激しい戦闘が起こることになった。そして、エペソス人たちが全軍で戦ったので、アテナイ勢400人が斃れ、トラシュブウロス〔トラシュロス?〕は自余の軍を艦隊に回収してレスボスへ退散した。[2]他方、キュジコス周域にあったアテナイの将軍団は、〔ビュザンティオンの対岸の〕カルケドンに航行し、クリュソポリスを守備所として建設し、ここに充分な軍を残置した。そして、ここの駐留軍に、ポントスから航海してくる者たちから「十分の一」税を徴収するよう下知した。[3]その後、彼らは軍を分けて、テラメネスは艦船50艘を帯同してカルケドンとビュザンティオンとを攻囲せんとし、トラシュブウロスはトラキア方面に派遣されて、その地方の諸都市を臣従させることになった。[4]また、アルキビアデスは、トラシュブウロス〔トラシュロス?〕に艦船30艘をつけて別命を与え、パルナバゾス支配下の領地に航行すると、その多くの地を共同で破壊し、将兵たちを戦利品で満ち足りさせ、自分たちも鹵獲品によって金品をかき集めた。民衆の臨時財産税を軽減させようと望んだのである。[5]これに対してラケダイモン勢は、ヘレスポントス海域にアテナイの全軍がいることを聞きつけて、ピュロス――メッセニア人たちが守備隊によって占拠していた――に出征し、海上は艦船10艘――シケリアからの市民たちによって艤装されていたものである――で、陸上には充分な軍を繰り出して、その守備所に包囲陣をしいて、陸海同時に攻め立てた。[6]まさにこのことをアテナイの民衆が聞きつけて、攻囲された者たちのために艦船30艘と、将軍としてアンテミオンの子アニュトスとを救援に急派した。そこでこの人物は出航したが、かなりの嵐のせいでマレア岬をまわることができず、アテナイに引き返した。このことに民衆は怒り、彼に売国の責めを帰せて、裁判にかけた。しかしアニュトスは断固として危険を冒し、金品によって自分の魂を守り、アテナイ人の中で法廷を買収した最初の人となったと思われている。[7]他方、ピュロスでは、メッセニア人たちがしばらくは持ちこたえた。アテナイからの救援を期待して。しかし、敵勢は突撃を波状的に続け、味方のある者は負傷がもとで死に、ある者は食糧不足から始末が悪くなったので、休戦を申し入れてその場を立ち退いた。こうして、ラケダイモン勢はピュロスの征服者となった。アテナイ勢がここを占拠していたのは、デモステネスがここを城塞化して以来〔第12巻63_5〕、15年間であった。


第65章

 [1]こういったことが起こっている間に、メガラ人たちが、アテナイの支配下にあったニサイアを攻略し、これに対してアテナイ人たちはレオトロピデスとティマルコスとを、陸兵1000と騎兵400とともに急派した。これをメガラ勢は、武装した全軍で迎撃せんものと、シケリアからの兵もいくたりか加えて、ケラタ〔「角」の意。サラミスの対岸、アッティカとメガラとの国境をなす丘陵。〕と呼ばれる丘陵地帯の近くで攻撃態勢をとった。[2]しかし、アテナイ勢の闘いぶりは華々しく、何倍もの敵勢を敗走させたので、メガラ勢の多くが斃れたにもかかわらず、ラケダイモン人たち〔で斃れたの〕はわずか20名にすぎなかった。というのは、アテナイ人たちはニサイアが占領されたことに憤慨して、ラケダイモン人たちは追撃せず、メガラ人たちに立腹して、おびただしい数を殲滅したからである。[3]対してラケダイモン人たちは、クラテシッピダスを艦隊指揮官に選び、自分たちの艦船25艘を同盟者たちで艤装し、同盟者たちを救援するよう下命した。しかし、この人物は、しばらくの間はイオニアあたりで過ごして、何ら語るに足るほどのことをしなかった。だが、その後、キオス(Chios)からの亡命者たちから金品を受け取るや、彼らを復帰させ、キオスのアクロポリスを占拠した。[4]こうしてキオスの帰還者たちは、自分たちの政敵や亡命の〔起因をなした連中〕のうち、数の上で600足らずいたのを追放刑に処した。しかしこの者たちは、本土の対岸のアタルネウスと呼ばれていた地――〔そこは〕自然本来すこぶる荒涼たる地であった――を占拠し、以降、ここを基地にして、キオスを領有した者たち相手に戦争を続けたのであった。


第66章

 [1]こういったことが起こっている間に、アルキビアデスとトラシュブウロスとはラムプサコスを城塞化し、ここに充分な守備隊を残置すると、自分たちは軍勢を帯同してテラメネスのもとに出航した。〔テラメネスは〕艦船70,将兵5000を率いてカルケドンを破壊しようとしていたのである。かくして軍勢が一か所に集結すると、この都市を〔ボスポロス〕海から〔プロポンティス〕海まで木製の壁で遮断した。[2]しかし、都市には、ラケダイモン人たちによって嚮導者――これをラコン人たちは総督(harmostes)と呼んでいた――として任命されたヒッポクラテスが、自国の将兵ならびに、カルケドン人たち全員とを繰り出してきた。かくて激戦となり、アルキビアデス隊も頑強に闘ったので、ヒッポクラテスが斃れ、残りもある者は殲滅され、ある者は深手を負って都市に逃げ込んだ。[3]その後、アルキビアデスはヘレスポントスとケロネソス方面に出航した。金銭を集めたいと望んだのである。他方、テラメネス隊は、カルケドン人たちと、従前どおり彼らから貢祖をとることで合意に達した。そこで、ここから軍勢をビュザンティオンに引き上げさせ、この都市を攻囲しようと、大いに熱心に遮断壁を築きだした。[4]一方、アルキビアデスは、金銭を集めた上で、トラキア人たちの多くを説得して、自分に従軍させ、さらには、ケルソネソスの住民たちの全軍をも加え、全軍を帯同して移動して、先ずはセリュムブリアを裏切りによって攻略した。この都市から多くの金銭を徴収すると、ここには守備隊を残置し、自分は急ぎビュザンティオンのテラメネス隊のもとにやってきた。[5]かくて、軍勢が集結すると、彼らは攻囲の準備を始めた。というのは、彼らが勝利しようとしている都市は、厳重であるばかりか、これのために自衛せんとする者たちにあふれていたからである。すなわち、ビュザンティオン人たち――多数である――を別にしても、ラケダイモン人の総督クレアルコスが、都市のペロポンネソス人たちの多数や傭兵たちを保有していたからである。[6]こうして、しばらくは突撃をかけたものの、内にいる者たちに何ら語るに足るほどの害悪を与えられないでいた。ところが、都市の管理者がパルナバゾスのもとに、軍資金を受け取りに出かけたとき、この時とばかりにビュザンティオン人数名が、この管理者の厳格さを憎んでいたので――クレアルコスは気むずかしい男であったから――、都市をアルキビアデス隊に売ったのである。

第67章

[1]すなわち、彼ら〔アルキビアデス隊〕は攻囲を解き、軍勢をイオニア方面に引き上げさせるかのように、午後、全艦船でもって出航し、陸戦隊も少し離れたところまで引き上げさせたが、夜になるや、再び方向を転じ、真夜中ごろ、都市にしのびより、三段櫂船には、〔ビュザンティオンの〕舟艇を曳航しようとして、全軍がそこにいるかのように騒動を起こすよう下命して派遣し、自分たちは陸戦隊を帯同して、城壁のたもとで、内の者たちからのかねて申し合わせの合図をうかがった。[2]かくて、三段櫂船の者たちが下命されたことを実行しようと、舟艇のあるものは衝角攻撃で破砕し、あるものは「鉄の手」で引き離そうとし、なおその上にとんでもない騒動を起こしたので、都市にいたペロポンネソス人たちや、騙されているとは知らぬ全員が、港へと救援に駆けつけた。[3]そこで、都市を売ろうとしていた者たちは城壁から合図を掲げ、梯子を使ってアルキビアデス隊を引き入れたが、それはきわめて安全であった。大衆は港へ馳せ参じた後だったからである。[4]ペロポンネソス人たちは、何が起こったかを聞き知ると、先ずは半分を港に残し、残りの者で、占拠された城壁に急ぎ救援に向かった。[5]すでに、アテナイ勢のほとんど全軍がなだれ込んでいたが、それでも彼らは驚倒することなく、長時間にわたって頑強に持ちこたえ、アテナイ勢に対して自衛できたのは、ビュザンティオン人たちが共闘したからである。だから、アテナイ勢がこの都市を戦いで最終的に制するには至らなかったことであろう――もしも、好機を見計らって、アルキビアデスが、ビュザンティオン人たちには何も不正はしないと布令なかったとしたら。つまり、そうすることで、都市住民は心変わりして、ペロポンネソス勢に対して自衛したのである。[6]ここにおいて、彼らの大多数は気高く闘ったはてに殲滅され、生きながらえた者500足らずは、神殿の祭壇に庇護を求めた。[7]そこでアテナイ人たちはビュザンティオン人たちには都市を返して、彼らを同盟者とし、祭壇にすがっていた嘆願者たちとは同意をかわし、武器は取り上げ、身柄はアテナイに送って、彼らについて民衆に委ねることにした。


第68章

 [1]この年が終わると、アテナイ人たちはエウクテモンに執政官職を引き継ぎ、ローマ人たちは執政にマルコス・パピリオスとスポリオス・ナイティオスとを任命し、また、90に加える第3回のオリュムピア祭が開催され、ここにおいて徒競走でキュレネ人エウバトスが優勝した。このころ、アテナイの将軍たちは、ビュザンティオンを制覇して、ヘレスポントスに侵入し、ここの諸都市を――〔ラケダイモンの基地であった〕アビュドスを除いて――すべて降した。[2]その後、ディオドロスとマンティテオスとを管理者として充分な軍勢をつけて残置し、自分たちの方は、艦船と鹵獲品をともなってアテナイに向け航行した。多くの大きな成功を祖国にもたらしたからである。彼らが〔祖国に〕近づくや、民衆はみなその慶事に大喜びで出迎えた。そしてペイライエウスには、外国人たちも、さらには子どもたちや女たちも多くが馳せ参じた。[3]将軍たちの帰航が大層な驚嘆を引き起こしたからである。というのは、彼らが持ち帰ったのは、拿捕された艦船200艘を下らず、捕虜たちや鹵獲品も多数だったからである。しかも、彼らは自分たちの三段櫂船を黄金製の武器や花冠、さらには鹵獲品やその他のありとあらゆるものによって入念に飾り立てていた。しかしながら、大多数の人たちが港に馳せ参じたのは、アルキビアデスを一目見るためであり、そのため、都市はまったく人気がなくなったほどである。奴隷たちも自由人たちといっしょに争って〔港に押し寄せた〕からである。[4]というのは、この時期、この男がどれほど驚嘆されることになったかと言えば、アテナイの貴顕階級は、この男の中に、公然・敢然と民衆と対抗しうる有能な人物をやっとのことで見つけだしたと信じ、また窮民階級は窮民階級で、死に物狂いとなって国家を動乱させ、自分たちの貧窮を立て直してくれる最善の共闘者を得たと理解したのである。[5]つまり、彼は他の人たちよりもはるかに秀抜にして、弁舌に最も有能、帥軍術は最善、敢行においては最も果敢な人物であった。また、見た目は際だって優れ、魂は華々しく大志を抱いた人物であった。[6]要するに、ほとんどすべての人々が彼に対してこれほどの思い入れを持っていたので、彼の帰還と同時に事態の善運も国家に到来すると考えたのである。かてて加えて、この人物の共闘しいているときラケダイモン人たちが優勢であったごとく、この人物を同盟者として持てば、今度は自分たちが立ち直れるとの希望をいだいたのである。


第69章

 [1]こういうわけで、艦隊が帰航すると、大衆はアルキビアデスの艦船に群がりより、この男が艦船から下船するとみなが右手を差し出した。帰還と同時に慶事を祝福してである。すると彼は、大衆を愛想よく喜ばした上で、民会を召集し、自分のことで長々と弁明し、群衆の好意を引きつけたあまりに、彼に対する決議の責任は国にあると全員が同意したほどである。[2]それゆえ、没収した家産をこの男に返還したばかりか、さらには、標柱――そこには、この男に対する有罪判決その他の事柄が刻されていた――を海に沈めた。また、エウモルピダイ家は呪詛――秘儀に対して涜神を働いたと思われたあの当時、彼に対してかけられていた――を解くべしと決議した。[3]挙げ句の果てには、彼を陸上・海上における全権将軍に任命し、全軍隊を彼に手渡した。さらに、彼の気に入る者たちを将軍に選んだが、アデイマントスとトラシュブウロスとがそれである。

 [4]かくて、アルキビアデスは艦船100艘を艤装してアンドロスに出航し、ガウリオン砦を押さえて城塞化した。そして、アンドロス人たちが、この都市を守備していたペロポンネソス勢とともに全軍で出撃してくると、戦闘が起こったが、これに勝利したのはアテナイ勢であった。かくて、この都市からの者たちの多くが殲滅され、助かった者たちのうち一部は地方に追い散らされ、一部は城内に逃げ込んだ。[5]しかしアルキビアデス自身は都市に突撃をかけ、守備されていた城壁に充分な守備隊を残置して、トラシュブウロスを嚮導者に任命した上で、自分は軍勢を帯同して出航し、コスとロドスとを荒らし、将兵たちの給養のためにおびただしい戦利品を集めた。


第70章

 [1]他方、ラケダイモン人たちの方は、海軍力を完全に失うとともに、これといっしょに嚮導者ミンダロスをも〔失った〕が、それにもかかわらず魂において〔精神的に〕参ることなく、艦隊指揮官にリュサンドロス――帥軍術において多衆に抜きんでているとの評判があり、いかなる状況に対しても臨機応変に敢行できる人物――を選んだ。この男は、指揮権を引き継ぐや、ペロポンネソス出身の将兵を充分な数兵籍登録するとともに、航行可能な艦船をすべて艤装した。[2]そしてロドスに出航し、かの地で諸都市が保有していた艦船をすべて編入して、エペソスとミレトスに航行した。そして、これらの諸都市の三段櫂船をも補修し、キオス(Chios)からの艦船を呼び寄せ、エペソスからの艦船ほぼ70艘を擁する艦隊を装備した。[3]そして、ダレイオス王の息子キュロスが父王によってラケダイモン人たちとともに戦うよう急派されたと聞いて、サルディスの彼のもとへ赴き、この若者を焚き付けて、対アテナイ戦のために、将兵たちの報酬として即座に10000ダレイコス金貨を受け取ったばかりか、以降も、何の遠慮なく要求するようキュロスは命じたのである。なぜなら、ラケダイモン人たちが欲しいだけを彼らに奉仕するよう父王からの言いつけだから、と。[4]こうして、エペソスに帰ると、諸都市から最有力者たちを呼び寄せ、この者たちと同志の申し合わせをして、事態が立ち直った曉には、それぞれの者を都市の主宰者としようと公約した。これが原因で、この者たちは課せられたこと以上を奉仕するようお互いに競い合い、予想外に速やかに、リュサンドロスは戦争に必要なものすべてをふんだんに有することとなったのである。

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