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back.gif第61章-70章


歴史叢書

第13巻(8/12)





第71章

 [1]他方、アルキビアデスは、リュサンドロスがエペソスで艦隊を完備したと聞きつけて、全艦船を帯同してエペソス向けて船出した。そして港港に攻め寄せたが、迎撃する者が誰もいなかったので、多くの艦船はノティオン近辺に投錨させ、これの指揮を自艦の操舵手アンティオコスに引き渡し、自分が帰ってくるまでは海戦はせぬよう彼に言いつけ、将兵たちの艦船を引き連れて、急ぎクラゾメナイ向け航行した。この都市が、アテナイの同盟国でありながら、一群の亡命者たちによって破壊されてひどい目に遭っていたからである。[2]しかし、アンティオコスは性本来軽率な男で、ひたすら自力で何かめざましいはたらきをしようと、アルキビアデスの言葉をなおざりにして、最善の艦船10艘を艤装し、その他の艦船にも、海戦の必要が生じた場合に備えておくよう三段櫂船指揮官たちに下知をまわしておいて、敵勢のところに押しかけ、海戦へと挑発した。[3]他方、リュサンドロスは、何人かの脱走兵たちから、アルキビアデスとその麾下の最善の将兵たちとの出発を伝え聞いていたので、何かスパルタらしい作戦行動をする好機と受け取った。そこで、全艦船をもって反撃に乗りだし、〔アテナイの〕10艘の先頭を切っていた1艘――ここにアンティオコスが配置についていた――を撃沈し、その他の艦船を背走させて、追撃を続けた――アテナイの三段櫂船指揮官たちが他の艦船を艤装して、戦列も何もなく救援に駆けつけるまで。[4]ここに、岸から遠くないところで、結集した両艦船による海戦が起こり、アテナイ勢は戦列なき状態だったので敗北し、20に加える2艘の艦船を失った。また、この艦船の搭乗員のうち、生け捕りにされ者はわずかで、残りは岸に泳ぎ着いた。アルキビアデスは、事件を伝え聞き、急ぎノティオンに引き返し、全三段櫂船を艤装して、敵の港港に攻め寄せた。しかし、リュサンドロスは敢えて反撃に乗り出そうとしなかったので、航路をサモスにとった。


第72章

[1]こういったことが起こっている間に、アテナイの将軍トラシュブウロスは、艦船15艘を帯同して、タソスに航行し、この都市の人々に戦闘で勝利し、その200人ばかりを殲滅した。さらに彼らを攻囲へと封じ込め、アテナイの流儀を愛する亡命者たちを受け容れさせ、守備隊を引き受けてアテナイの同盟者とならせた。[2]その後、アブデラ向けて航行し、当時トラキア地方の諸都市のうち最も勢力のある都市のひとつであったこの都市を臣従させた。

 以上が、アテナイの将軍たちが家郷からの出航後実行したことである。[3]他方、ラケダイモンの王アギスは、たまたま軍勢を帯同してデケレイアで過ごしていたが、アテナイの最強兵団がアルキビアデスとともに出征していると聞きつけて、月のない夜、アテナイに向けて軍隊を引率した。[4]彼が率いたのは、陸兵2万8000,このうち、半分は選抜された重装歩兵、半分は裸兵であった。また彼には騎兵も1200騎足らずが追随したが、このうち900騎はボイオティア人たちが提供したもの、残りはペロポンネソス人たちがいっしょに派遣したものであった。こうして、都市に近づくや、気づかれることなく前哨に接近し、思いがけないことゆえこれを易々と背走させ、わずかを殲滅し、その他を城壁内に追い込んだ。[5]しかし、アテナイ人たちは、何が起こったかを知ると、年長者たちや偉丈夫の少年たち全員に、武装して出合うよう下知した。彼らはすぐに下命されたことを実行し、城壁のぐるりは共同体の危難のために馳せ参じた者たちで満たされたが、[6]アテナイの将軍たちは、夜明けになって、敵の軍勢が縦深4層、幅8スタディオンにわたって密集隊形で配備についているのを目の当たりにして、このときになって初めて驚いた。城壁のほとんど3分の2が敵勢によって包囲されているのを眼にしたからである。[7]しかし、次には、騎兵を差し向けた。数の上で相手勢と同等だったからである。騎兵は都市の前で騎兵戦を展開し、しばらくの間、激戦が起こった。というのは、密集隊は城壁から5スタディオンほど離れており、騎兵たちは城壁そのものの近くでお互いに絡み合いながら戦っていたからである。[8]そうして、片やボイオティア人たちは、デリオンにおいて自力でアテナイ人たちに先勝したことがあるので、負けた相手よりも劣ることがはっきりするのは恐るべきことだと考えていた。片やアテナイ人たちは、城壁の上に立っている人たちを勇徳の観客として持っており、各人が知己であったので、勝利のためならどんなことにも持ちこたえたのである。[9]しかし、結局は、〔アテナイ勢が〕対抗配置されていた相手を突破し、そのおびたたしい数を殲滅し、その他を陸兵の密集隊まで追いつめた。しかしその後、陸兵が前進してきたので、彼らは都市に撤退した。


第73章

[1]他方、アギスの方は、この時は攻囲の決心をしていなかったので、アカデメイアに布陣し、次の日、アテナイ勢が勝利牌を立ててから、軍勢を配備し、その勝利牌をめぐって戦闘を続けるよう都市の人たちを挑発した。[2]対してアテナ勢は、将兵たちを繰り出し、城壁のたもとで攻撃態勢をとらせたとき、先ずはラケダイモン勢が戦闘に突進したが、城壁から自分たちに向けて放たれる飛び道具のあまりの数の多さに、都市から軍勢を退却させた。その後、アッティカの残りを荒らして、ペロポンネソスへと立ち去った。

 [3]他方、アルキビアデスはと言えば、サモスから全艦船を帯同してリュディアに航行し、キュメ人たちに偽りの責めを着せた。口実をもうけて彼らの領土を略奪したいと望んだからである。そして、最初は多数の捕虜の身柄を領して艦船に連れ込もうとした。[4]ところが、都市からの者たちが全軍で救援に駆けつけ、思いがけなくも襲撃してきたため、しばらくはアルキビアデス隊が制していたが、その後、都市からと地方からと多数がキュメ人たちに加勢したため、捕虜を置いて艦船に逃げ込まざるを得なくなった。[5]このためアルキビアデスは、この敗北に激怒し、ミテュレネから重装歩兵を呼び寄せ、都市の前に軍勢を配備し、キュメ人たちを戦闘に挑発した。しかし撃って出る者が誰もいなかったので、土地を荒らしてミテュレネへと引き揚げた。対してキュメ人たちはアテナイへ使節を派遣し、アルキビアデスを告発した。同盟都市を、何ら不正していないのに、破壊したとしてである。さらに、他にも彼を誹謗する諸都市が多く現れた。他の仕方では、例えば、サモス駐留の将兵たちのうちの何人かは、彼と事を構えることがらを持っていて、アテナイに航行し、民会でアルキビアデスを告発した。彼がラケダイモン人たちの流儀を愛し、パルナバゾスと友好関係を持ち、これがために、戦争が終わった曉には、同市民たちを抑圧することを望んでいると言ってである。


第74章

[1]すると、大衆がすぐにこれらの誹謗に信を置いたので、アルキビアデスの評判は、海戦の敗北とキュメをめぐる過失とのために傷つけられ、アテナイの民衆はこの人物の向こう見ずを猜疑して、将軍10人を選んだ。コノン、リュシアス、ディオメドン、ペリクレス、これに加えてエラシニデス、アリストクラテス、アルケストラトス、プロトマコス、トラシュブウロス、アリストゲネスである。これらの中からコノンを抜擢し、すぐさまアルキビアデスのもとに派遣して、艦隊を引き継がせた。[2]対して、アルキビアデスは、指揮をコノンに譲渡し、軍勢を引き渡すと、アテナイへの帰国を断念し、三段櫂船1層を引き具してトラキアのパクテュエに退去した。なぜなら、大衆の怒りは別にしても、自分に提起されている裁判をも用心したからである。[3]というのは、自分がうまくゆかないのを多くの人たちが目の当たりにして、多くの訴えを起こしていたからである。中でも最も重大であったのが馬に関するそれで、8タラントンの罰金がかかっていた。というのは、友人の一人ディオメデスなる者が、四頭立て馬を彼とともにオリュムピア祭に派遣したのだが、アルキビアデスは慣例の登録のさいに、馬は自分のものであると登録し、四頭立て競技で優勝したとき、勝利の名声を自分が引っさらったばかりか、信任者にその馬を返さなかったのである。[4]じつにこういったことすべてを思案してみて、アテナイ人たちは自分が彼らに対して犯した過ちすべてに、好機を捕らえて報復をはたす気ではないかと恐れた。こうして彼は自分で自分に追放の有罪判決を下したのである。


第75章

 [1]この同じ〔前408年、第93回〕オリュムピア祭のときに、2頭立て戦車競技も追加されたのであるが、ラケダイモン人たちのところでは、王プレイストナクスが在位50年にして命終し、パウサニアスが権職を引き継いで14年間在位した。他方、ロドス島の住民たちは、イエリュソスのもリンドスのもカメイロスのも一つ都市――現在ロドスと呼ばれる都市――に移り住んだ。[2]また〔63章に続く〕、シュラクウサイ人ヘルモクラテスは、麾下の将兵を引き連れて、セリヌウスから進発し、ヒメラ近辺に到着すると、陥落したこの都市の近郊に陣を敷いた。そうして、シュラクウサイ勢が攻撃態勢をとった場所を聞きただして、最期を遂げた者たちの遺骨を収拾し、贅沢に飾られた荷車を用意し、これに載せてそれをシュラクウサイへと運んだのである。[3]しかし、亡命者たちがいっしょに入ることは法によって妨げられたので自分は国境にとどまり、麾下の者たち数名を急派して、この者たちがその荷車をシュラクウサイへ運び込んだ。[4]ヘルモクラテスがこういったことをしたのは、一方ではディオクレスが、彼の帰国に反対しており、しかし最期を遂げた者たちを埋葬せぬまま座視している責任者と思われていたので、大衆と悶着を起こさせ、他方、自分〔ヘルモクラテス〕は、その戦死者たちを人道的に扱うことで、大衆から以前の好意を引きだそうとしたためである。[5]案の定、遺骨が運び込まれると、大衆の間に党争が勃発した。ディオクレスが埋葬を妨害し、大衆が賛同したためである。そして、結局は、シュラクウサイ人たちは最期を遂げた者たちの遺骨を埋葬するとともに、全市民で葬列によって名誉をたたえた。かくてディオクレスは追放されたが、それにもかからずヘルモクラテスを歓迎することもしなかった。この男の敢行を猜疑したからである――主導権を握った曉には、自分で僭主に就任するのではないかと。[6]そこでヘルモクラテスは、この時は、強行するに好都合な時機にあらずと見て、再びセリヌウスに引き揚げた。しかし、しばらくたって、友人たちが自分を呼び寄せたので、将兵3000を帯同して進発し、ゲラの地を進軍して、夜、申し合わせの場所にたどりついた。[7]しかし、将兵たち全員が随従してくることができなかったので、ヘルモクラテスは少人数を帯同してアルカディネに向かう門に接近し、友人たちの何人かがその場所を先に占拠しているのを見て、後発隊を待機した。[8]他方、シュラクウサイ人たちは、事件を聞いて武装して市場に集まり、そこで、〔ヘルモクラテス一派が〕多数の大衆とともに出現したので、ヘルモクラテスならび彼の共謀者の大多数を殺害した。また、戦闘から助かった者たちは裁判にかけて、追放の有罪判決を下した。[9]このため、彼らのうち深手を負った何人かの者たちは、大衆の怒りに委ねられないために、最期を遂げたと親類に言い広めてもらったが、その中に、後にシュラクウサイの僭主となった〔前405-367年〕ディオニュシオスも含まれていたのである。


第76章

 [1]この年の行事が終了すると、アテナイではアンティゲネスが執政官を引き継ぎ、ローマ人たちは執政にガイオス・マニオス・アイミリオスとガイオス・ウウアレリオスとを任命した。この時期、アテナイの将軍コノンは、サモスで軍勢を引き継ぐと、現有艦船を整備するとともに、同盟諸国からのも集結させ、ひたすら敵勢の艦船に匹敵する艦隊を装備しようとした。[2]他方、スパルタ人たちは、リュサンドロスの艦隊指揮官の任期がすでに切れたので、カリクラティダスを後任に急派した。この人物はまったく若かったが、悪擦れのしない魂の単純な男で、外国の風習にまだ未経験であったが、スパルタ人たちの中で最も義しい人物であった。そして、指揮官在職中も、周知のごとく、都市に対しても個人に対しても何ら不正なことをしなかったばかりか、自分を金銭で堕落させようとした連中に腹を立て、連中に償いをさせさえしたのである。[3]この人物が、エペソスに入港すると、艦船を引き継ぎ、さらに〔……〕呼び寄せて、リュサンドロスからの艦船も併せて全部で104艘を引き継いだ。そして、キオス(Chios)の地でアテナイ人たちがデルピニオンを押さえたので、これに向けて全艦船を帯同して航行し、攻囲を企てた。[4]対してアテナイ勢は、およそ500人であったが、敵勢の多さに驚倒して、休戦を申し入れて占領地を後に撤退した。そこでカリクラティダスは守備所を引き継ぐと徹底的に破壊し、テイオス向けて航行し、夜陰に乗じて城壁内になだれ込み、この都市を掠奪した。[5]その後、レスボスに航行し、メテュムネ――アテナイからの守備隊を擁していた――に軍勢を帯同して突撃をかけた。しかし、続けざまに突撃をかけたにもかかわらず、初めのうちは何の得るところもなかったが、少ししてから、何人かの者が彼にこの都市を明け渡したので城内になだれ込み、所有物は掠奪したが、人々は助命して、メテュムネ人たちに都市を引き渡した。[6]こういったことが行われれたあと、ミテュレネに進発し、重装歩兵たちはラケダイモン人トラクスに引き渡し、急いで陸路を急行するよう命じ、自分は艦船で沿岸航行した。


第77章

 [1]他方、アテナイの将軍コノンの方は、艦船70艘を保有していたが、〔その艦船は〕それまでの将軍たちのうち他に誰ひとり装備したこともないほどに海戦用に整備されたものであった。こうして、たまたまメテュムネ救援のために全艦で船出していた。[2]しかし、それ〔メテュムネ〕が陥落したのを見て、その時は「百島」と呼ばれる島の一つで野営したが、夜明けとともに、敵艦船が接近するのに気づいて、この場で2倍の三段櫂船と交戦するのは危ないと判断し、心づもりとしては、島外に航行して逃げ、敵三段櫂船の何艘かを後に引きつけておいて、ミテュレネの近くで海戦に持ち込むことにした。そうすれば、勝利したら背走させて追撃に移れるし、負けたら港に逃げ込めると考えたのである。[3]そこで、将兵たちを乗船させ、ゆるゆると櫂を使って航行し、ペロポンネソス勢の艦船が追いつけるようにした。対してラケダイモン人たちの方は、前進に次ぐ前進をし、よりいっそう艦船を走らせて、敵の最後尾の艦船を捕らえようと望んだ。[4]するとコノンが退却したので、ペロポンネソス勢の最善の将兵を擁する艦船は急いで追撃し、漕ぎ続けたために漕ぎ手たちを消耗させたものの、自分たちは他の艦船から遠く引き離されてしまった。これを見るやコノンは、すでにミテュレネに近かったので、自艦から赤旗を揚げた。これこそは、三段櫂船指揮官たちに対する合図であったのだ。そこで艦船は、すでに敵艦が触れるばかりであったが、突如、一時に向き直り、大衆は吶喊歌を歌い、喇叭は戦闘開始の合図を吹き鳴らした。対してペロポンネソス勢は、いきなりの出来事に驚倒し、艦船を戦闘配置につけようと企てたが、旋回の好機もなく、こなたは大混乱に陥った。後続艦船がいつもの配置を置き去りにしたからである。


第78章

[1]対してコノンは、めざとく好機を捕らえてすぐに襲いかかり、相手の攻撃態勢を妨害し、何艘かの艦船を破損させ、何艘かはその櫂列を撫で切りにした。そのため、コノンに対向配置されていた艦船は1艘も敗走に転ずることができず、逆漕しながら持ちこたえ、後続隊を待とうとした。[2]しかし、左翼戦列を受け持っていたアテナイ勢が対向戦列を背走させ、名誉愛を持って襲いかかり、長時間にわたって追撃した。しかし、やがてペロポンネソス勢の全艦船が集結したので、コノンは敵勢の多さを用心して追撃を中止し、艦船40艘を帯同してミテュレネに引き揚げた。[3]しかし、追撃を続けていたアテナイ勢は、ペロポンネソス勢の全艦船が押し寄せて驚倒させ、しかも都市にもどる道をふさいで、陸へ逃れざるを得なくさせた。そして、ペロポンネソス勢が全艦船で襲いかかってきたので、アテナイ人たちは他に助かる途のないのを見て、陸に逃れ、船体を捨ててミテュレネにのがれて無事助かった。[4]こうして、カリクラティダスは艦船30艘を拿捕したので、敵勢の海軍は壊滅したのを見たが、陸上での戦闘が残されていると予想した。そこで、この人物はその都市に向けて航行を続けたが、コノンの方は、上陸すると同時に、攻囲を見越して港の入り口に備えをした。すなわち、港の浅いところには、石を満載した小さな舟艇を沈め、深いところには、石を積んだ貨物船を係留したのである。[5]こうして、アテナイ人たち、ならびに、戦争のために地方から集まってきたミテュレネ人たちの大群衆とは、ただちに攻囲に対する備えをしたのである。他方、カリクラティダスの方は、将兵たちを都市の近くの浜辺に上陸させ、陣屋をこしらえ、海戦の勝利牌を立てた。そして次の日、最強の艦船を選び出し、自艦から離れないよう下知すると船出し、急ぎ港へと航行して敵勢の障害物を解体しようとした。[6]一方、コノンの方は、一隊は三段櫂船に乗船させ、通路にあたる場所で直接対決させ、一隊は大きな貨物船の〔帆桁の〕上に整列させ、また、一部は港の防波堤の上に差し向けた。陸上であれ海上であれ、至るところで〔港が〕遮断されるようにするためである。[7]かくしてコノン本人は、三段櫂船を率いて海戦せんものと、障害物の隙間の場所を充満した。他方、大きな貨物船の船上に持ち場を定めた者たちは、敵の艦船向けて帆桁から石を投げつけた。また港の防波堤上に配置された者たちは、陸に飛び移ろうとする者たちを妨害した。


第79章

[1]しかしペロポンネソス勢も、アテナイ勢の名誉愛に何ら後れをとることはなかった。というのは、艦船一丸となって押し寄せ、甲板上に最も善勇の兵を配置し、海戦と同時に陸戦をも実行したからである。すなわち、対向配置された艦船を強攻し、櫂を使って果敢に乗り込んだ。先に負けた方が恐怖に堪えられないかのようにである。[2]対してアテナイ勢とミテュレネ勢とは、残された唯一の救いは勝利に存するのを見て、持ち場を捨てないために雄々しく死ぬことをひたすら念じていた。かくのごとく両陣営とも名誉愛がとりついていたので、おびただしい殺戮が生じた。全員が惜しみなくその身を危険に投げ出していたからである。[3]というのは、甲板上の者たちは、これに向けて放たれる飛び道具の多さに深手を負い、致命傷を負ったものは海に転落したが、まだ打撃〔の傷が〕なま暖かくてそれと気づかぬ者は闘い続けた。だが大多数は、投石機の腕のために斃れた。アテナイ勢が右上方の地点から巨石を投じたからである。[4]しかしながら、戦闘は長時間にわたって続き、両軍から多数の戦死者が出たので、カリクラティダスは喇叭の合図で将兵たちを呼び戻した。彼らに中休みをとらせたいと望んだのである。[5]しかし、しばらくすると、またもや艦船を艤装して、はるかに長時間にわたって闘い続け、やっとのことで、艦船の多さと艦上戦闘員の強さとによってアテナイ勢を押し出した。彼らが都市の港に逃げ込むと、彼は障害物を通り抜けて、ミテュレネ人たちの都市の近くに投錨した。[6]というのは、出入り口――これをめぐって彼らが闘い続けた――は、美しい港を持っていたが、都市の外側にあった。というのは、本来の都市は小さな島で、その後近くに建設された都市は、対岸のレスボスにあった。この両都市の間に狭い海峡があり、その都市を堅固なものにしていたのである。[7]そこでカリクラティダスは、軍を下船させてその都市に包囲陣をしき、四方八方から突撃をかけた。ミテュレネにおける情勢はといえば、まさしく以上のごとくであった。

 [8]他方、〔62章に続いて〕シケリアでは、シュラクウサイ人たちがカルケドンに使節団を派遣し、戦争について非難するとともに、以降は仲違いをやめることを要請していた。これに対してカルケドン人たちは、どうとでもとれる回答を与えつつ、リビアでは大軍勢の軍備を整え、件の島〔シケリア〕にあるすべての都市を奴隷化せんと欲していた。で、軍隊を渡海させる前に、何人かの同市民たちや、その他のリビア人たちの中の望む者たちを兵籍に登録し、シケリアの温泉のすぐそばに都市を建設し、テルマと名づけた。


第80章

 [1]この年の行事が終了すると、アテナイで執政官を引き継いだのはカリアスで、ローマでは執政にレウキオス・プウリオスとガイオス・ポムペイオスとが任命された。このころ、カルケドン人たちはシケリアでの善運に陶酔して、ひたすら島全体をわがものにしようとし、大軍勢で戦備を整えることを決議した。そして、将軍に、セリヌウスとヒメラとの都市を壊滅させたアンニバスを選び、戦争に対する権限をすべてこれに委ねた。[2]しかし彼が老齢を理由に辞退したので、他にもアンノの息子――同族の出身である――イミルコン〔イミルカス〕を将軍に追加任命した。そこで両名は共同で協議した上、カルケドン人たちの間で尊敬されている人々の中から数名を、多大な金銭を持たせて、一部はイベリアへ、一部はバリアリス諸島へ派遣し、できるかぎり多数の外国兵を登録するよう下命した。[3]そして自分たちはリビアを巡回して、リビア人たちやポイニキア人たちや、同市民たちのうちの最強の者たちを将兵として兵籍登録した。さらには、自分たちの同盟者である諸民族や王たちのもとからも、マウルウシア〔アフリカ北岸の西端地域、現在のモロッコ〕人たち、ノマス人たち、キュレネ隣接部に住んでいる何人かを将兵として呼び寄せた。[4]さらに、イタリアからはカムパノス人たちを雇い入れて、リビアに渡来させた。というのは、彼らの重用は、大いに寄与するであろうが、シケリアに取り残されたカムパノス人たちは、カルケドン人たちに対して攻撃的であったので〔62章5参照〕、シケリア人たちといっしょになって戦闘配置につくだろうということを彼らは知っていたのである。[5]かくして、最終的に軍勢がカルケドンに集結してみると、騎兵をあわせて全部で、ティマイオスによれば、12万を、エポロスによれば、30万を、大きくは超えない数が彼らによって動員された。こうしてカルケドン人たちは、渡海の準備を整えて、三段櫂船全艦を用意するとともに、輸送船だけでも1000艘以上を動員した。[6]そして、彼らは前もってシケリアに艦船40艘を急派し、シュラクウサイ人たちはすぐに同数の艦船をもってエリュクス〔シケリア北西端にある山と都市〕の海域に現れた。かくして長時間にわたって海戦が起こり、ポイニキアの艦船中15艘が壊滅し、その他は、夜になったので、公海に逃れた。[7]敗戦がカルケドン人たちに報告されると、将軍アンニバスは艦船50艘を帯同して出航した。ひたすら、シュラクウサイ人たちが優位を保つのを阻止し、あわせて、みずからの軍勢によって安全な上陸準備をしようとしたのである。

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