第71章-80章
第81章 [1]他方、アンニバスの救援が島中に知れ渡ると、誰しもがこの軍勢もすぐに撃破されると予想した。しかし、諸都市は軍備の大きさを聞き、存亡をかけての戦いになることを推し量って、並々ならぬ不安に駆られた。[2]そこで、シュラクウサイ人たちは、イタリアのヘラス人たちに向けても、ラケダイモン人たちに向けても、共闘要請の使者をあちこち送った。さらには、シケリア諸都市にも、共通の自由のための危難に多勢を扇動する者たちを急派した。[3]しかし、アクラガス人たちは、カルケドン制覇に同意していたので、戦争の悲惨が真っ先に降りかかるのは自分たちであることを悟った。そこで、彼らによって決定されたことは、穀物やその他の収穫物を、さらにはありとあらゆる所有物を、地方から城内に運び込むことであった。[4]当時は、アクラガスの都市も領土も繁栄に満ち満ちていた。この繁栄ぶりについて述べるのは、調子外れなことだとは私には思われない。というのも、ブドウ畑は〔……〕その大きさといい美しさといい飛び抜けており、また領地の大部分はオリーヴ樹が植え付けられていて、おびただしい果実をここからカルケドンに運んで売りさばいていた。[5]というのは、この当時、リビアではまだ植樹されていなかったので、アクラガス地方を分有した人たちは、リビアからの富に換金して、その多さにおいて信じられなほどの家産を所有したのであった。彼らの間のこの富に関する多くの証拠は、これについて手短に述べるのは、そぐわないことではない。 第82章 [1]例えば、神域の建設、とりわけゼウス神殿は、当時の人たちの気宇壮大さを証明している。ところが、その他の神域のうち、あるものは消失し、あるものは完全に破壊されてしまった。たびかさなる都市の陥落のせいである。が、このオリュムポス神殿は、屋根を葺こうとするところで、戦争が邪魔した。その後、都市が破壊されたため、その後は二度とアクラガス人たちはこの建造物の完成をみなかったのである。[2]しかしこの神殿が有するのは、長さは340プース、幅は60〔プース〕、高さは、基礎を除いて120〔プース〕である。つまり、シケリアにあるもののうちで最大であり、島外の〔諸神殿〕と比較しても、下部構造の大きさにおいて無茶なことではないであろう。というのも、この企てが完成をみなかったとしても、少なくともその目論見は明白だからである。[3]つまり、他の人たちなら、神殿を側壁まで建造するか、あるいは、内陣をぐるりと柱で囲うかだが、この神殿はそれらいずれもの下部構造を有しているのである。すなわち、柱が側壁といっしょに建造されていて、外部は円形、神殿内部は四角形になっているのである。そして、これらの外部の周辺は20プースあり、この周辺には縦溝に人〔体像〕をあしらうことができ、この内部は12プースである。[4]また、ポーチコ〔円柱または迫持ちで支えられた破風付きの玄関〕はとてつもない大きさ高さを有し、東向きの部分には「〔神々と〕巨人との戦い」を、大きさといい美しさといい飛び抜けた彫刻で描き、西向きの部分には、「トロイアの陥落」――この中で、英雄たちはおのおのが役割にふさわしく制作されているのをみることができる――を〔描いている〕。[5]当時はまた都市の外に人工の池があって、その周囲は7スタディオン、深さは20ペキュスあった。ここに水が張られて、この中にあらゆる種類の大量の魚が公的饗応に供せらるよう工夫を凝らし、魚と同時に白鳥たちやその他の鳥たちの非常に多数がいっしょに過ごして、そのため、見物者たちに大きな満足をもたらしていたのである。[6]また彼らの贅沢さを表しているのは、記念物の高価さもそうであって、あるものは競走馬で造作し、あるものは乙女たちや少年たちによって家で飼われている小鳥たちで〔造作し〕、これをティマイオスは自分の存命中まで伝存していたのを見たと主張している。[7]また、上述のオリュムピア祭の前のオリュムピア祭、すなわち、90回のあとの第2回オリュムピア祭で、アクラガス人エクサイネトスが優勝したとき、彼を車に乗せて都市に帰還させた。他のことは別にして、白馬300頭が2頭立てで彼といっしょに行列したが、そのすべてがアクラガス人たち自身の持ち物であった。[8]要するに、その暮らしぶりも子どものときからすぐに贅沢をきわめ、とびきり繊細な衣服を身にまとい、金持ちで、さらには銀製・金製の櫛や香油壺を用いていたのである。 第83章 [1]このアクラガス人たちのうち、当時、最高の富裕者はテリアスであって、この人は、館に多くの外国人客をかかえていたが、それは、門前に家僕たちを配し、外国人たちをみな客に招くよう言いつけていたからである。その他のアクラガス人たちの多くも同じようなことをしたのは、古習に則り、愛想よく交際しようとしたからである。だからエムペドクレスも彼らについて言っている。 第84章 [1]富の豪勢さは、テリアスの場合にかぎらず、他の多くのアクラガス人たちの場合も同様であった。例えば、ロドス人と添え名されているアンティステネスは、娘の結婚式を挙行するさいに、両家の住んでいる中庭で市民たちを饗応し、800台以上の二頭立て馬車が花嫁に随伴した。しかも、これ以外に、自市の騎兵ばかりか、隣国からも多くの人たちが結婚式に呼ばれ、花嫁に随行した。そして、灯火の備えのことで途方もないことが起こったと伝えられている。すなわち、あらゆる神殿の祭壇、ならびに、都市中の中庭の祭壇に薪を積み上げ、店にいる者たちに薪や柴を与え、アクロポリスから火が見えたら、全員が同じようにするよう言いつけておいた。[3]彼らが言いつけを実行したので、花嫁が案内されるちょうどその時、松明持ちたちが多数先導していたので、都市は光に満ちあふれ、行列の通る公道は随伴する大衆を収容しきれなくなった。皆がみな、名誉愛を持ってこの人物の豪勢さを支援したからである。当時、アクラガス人たちは2万以上であったが、定住した外国人たちを入れると20万人を下らなかったのである。[4]さらに言い伝えでは、アンティステネスは、息子が貧しい農夫と諍いをし、相手の耕地を売るよう強要しているのを見て、しばらくは〔息子を〕叱りつけていたが、〔息子の〕欲の皮が突っ張り始めると、言ったという――真剣になるべきは、どうやって農夫を困窮させるかということではなく、正反対に、どうやって富ませるかということだ。そういうふうにすれば、彼はもっと広い耕地を欲しくなろうが、隣人から買い足すことができないから、手持ちのものを売ることになろうから、と。[5]このように、この都市の裕福さは絶大であったので、アクラガス人たちのもとでは贅沢があたりまえになったことから、しばらくして攻囲が起こったとき、守備隊詰め所で夜明かしする者たちに関して次のような決議をしたほどである。つまり、何びとも、台布団、掛布、毛被、そして枕二つ以上は持つべからず、と。[6]これでさえ過酷きわまりない寝具であるからして、自余の生活上の贅沢さは推して知るべしである。とにかく、こういったことに関しては、わたしたちが省略も、長々しく長広舌を振るうこともしようとしなかったのは、より必要なことを得損なうことのないようにするためである。 第85章 [1]さて、カルケドン人たちは軍勢をシケリアに渡海させると、アクラガス人たちの都市に向けて転進させ、二つの陣屋を作った。ひとつは、とある丘陵地帯の上で、ここにイベリア人たちやリビュア人たちの一部を配した、その数4万弱。もうひとつは、都市からほど遠からぬところに作って、深い壕と防御柵で囲った。[2]そして先ず初めに、使節団をアクラガスに派遣し、最もいいのは自分たちの同盟者になること、さもなければ、和平を守って、おとなしくしてカルケドン人たちの友邦となることを要請した。だが、都市内の人たちがこの言葉を受け容れなかったので、すぐに攻囲の作業が開始された。[3]そこでアクラガス人たちの方は、兵役年齢にある者たち全員を武装させ、戦列を組ませて、一部は城壁の上に立たせ、一部は辛勝した者たちの後を継ぐ予備隊とした。他方、彼らと共闘したのが、ラケダイモン人のデクシッポスで、外国兵1500人を帯同してゲラからやって来ていた。というのは、この人物は、その当時、ティマイオスの主張では、ゲラに駐留していたが、その祖国ゆえに尊敬を受けていた。[4]そこで、アクラガス人たちが彼に、できるかぎり多数の将兵を雇い入れてアクラガスに来るよう要請した。さらに、これらと同時に、かつてアンニバスと共闘した〔44章1、62章5〕カムパノス人たち――約800いた――も雇い入れられた。これらの連中が都市を見おろす丘――アテナの丘と名づけられ、都市に対して要衝を占めていたて――を押さえた。[5]対して、カルケドンの将軍イミルカスとアンニバスは、城壁を調査して、この都市に入りやすいのは1カ所なのをみて、2基の巨大な櫓を城壁に接近させた。こうして、最初の日は、これらの上で城壁戦を展開し、おびただしい数を殲滅した上で、喇叭によって戦闘者たちを呼び戻した。しかし夜になると、都市の者たちが撃って出て、それらの兵器を焼き払った。 第86章 [1]これに対してアンニバス隊の者たちは、ひたすらもっと多くの地点で突撃をかけようと、将兵たちに下知をまわし、記念物を破壊して、城壁に達する塚をこしらえようとした。かくて、その作業は、多数の人手によってたちまち完成したが、陣中に大いなる畏怖が降りかかった。[2]というのは、テロン〔アクラガスの僭主。在位、前488-472年〕の墓――途方もなく大きいものだった――が稲妻に揺れ動くことになったのである。そのため、これが取り除かれようとしているときに、占卜者たちの何人かが予言によってこれを妨げるとともに、すぐに疫病までが軍陣に降りかかり、多数の者が亡くなり、少なからざる者たちがねじれるような恐るべき苦痛に斃れたのである。[3]将軍アンニバスまでが死に、守備隊として派遣されていた者たちの中には、夜間、命終した者たちの影像が見えたと報告した。そこでイミルカスは、先ずもって記念物の除去を中止させ、次に、父祖伝来の習慣にしたがって、クロノス神には少年を血祭にささげ、ポセイドンには多数の犠牲を海に沈めた。しかしながら作戦行動は中止せず、都市のそばの河を城壁に達するまで堰き止めて、兵器をすべてあてがって、日々、突撃をかけたのである。 [4]他方、シュラクウサイ人たちの方は、アクラガスの攻囲を眼にして、攻囲されている人たちがセリヌウスやヒメラと同じ運命〔57章、62章〕に遭うのではないかと恐れ、前は救援派遣に熱心であったが、このときはイタリアからやメッセネからの同盟者たちが到着したので、これの将軍にダプライオスを選んだ。[5]かくて軍勢を集結させると、途中、カマリナ人たちやゲラ人たちを加えた。さらにその上、島内の人たちの何人かをも呼び寄せ、アクラガスへと行進を開始した。艦船30艘も彼らといっしょに沿岸航行しながらである。かくして陸軍は全部で3万以上、騎兵は5000を下らなかった。 第87章 [1]対してイミルコン〔=イミルカス〕は、敵勢接近を伝え聞いて、これを迎撃するためにイベリア人たち、カムパノス人たち、その他、4万を下らぬ兵を派遣した。しかし、すでにシュラクウサイ勢はヒメラ河を渡り終えていたので、蕃族が迎撃し、長時間にわたって攻撃が生じ、シュラクウサイ勢が勝利して、6000以上を殲滅した。[2]最終的には、軍陣全体を壊滅させ、都市まで追い込むところであろうが、実際は、将兵たちが無秩序に追撃したので、将軍が、イミルカスが敗軍を救出するために残りの部隊を帯同して現れるのではないかと用心した。というのも、ヒメラ勢が同じ理由で全滅した〔60章〕のを知っていたからである。それでも、蕃族がアクラガス前の陣屋に逃げ込んだとき、都市の将兵たちは、カルケドン勢の敗北を目の当たりにして、自分たちを引率するよう将軍たちに要求した。敵の軍勢を壊滅させる好機だと称してである。[3]ところが、彼ら将軍たちは、噂どおり、金銭で堕落させられたためであれ、都市を無防備にしては、イミルコン〔=イミルカス〕がこれを占拠するのではないかと恐れたためであるにせよ、将兵たちの衝動を抑えた。このため、敗走兵たちはまったく安全に都市の前の陣屋に無事のがれた。他方、ダプナイオスの方は、軍を帯同して蕃族に置き去りにされた陣地に到着し、ここに陣屋をこしらえた。[4]そこで、都市からの将兵たちもすぐに混成し、デクシッポスもこれに合流したので、雑踏のなか大衆は民会へと集まった。しかし誰しもが好機を逸したことに――つまり、蕃族を制圧しておきながら、これにふさわしい報復を果たさず、都市からの将軍たちは撃って出て、敵の軍勢を壊滅させることができたのに、これほどの無量の者たちをとりのがしたことに腹を立てていた。[5]しかも、騒々しさと大怒号とが民会を支配したときに、カマリナ人のメネス――嚮導の任に配されていた――が進み出て、アクラガスの将軍たちを告発し、全員をあまりに焚き付けすぎたため、告発されている者たちが弁明をしようとしたとき、その言葉を受け容れようとする者は誰もおらず、大衆は衝動的に石を投げ始め、そのうち4人を石打処刑したが、5人目――アルゲイオスと呼ばれる人物――だけは、年齢がまったく若かったので、放免した。また、ラケダイモン人デクシッポスも誹謗を受けた。嚮導の任に配されながら、そして、軍事行動に無経験ではないとの評判を持ちながら、これを売国のために実行したという理由である。 第88章 [1]この民会の後、ダプナイオスの部隊は軍勢を繰り出してカルケドン人たちの陣屋を攻囲しようとしたが、これが金を使って強化されているのをみて、この計画は断念し、代わりに道路を騎乗して、相手勢の糧秣運びに従事している連中を捕まえるとともに、穀物輸送を阻止して、多大な窮乏に陥れた。[2]しかしカルケドン人たちは、あえて反撃に出ようとはせず、恐るべき食糧不足に陥ったので、大不運に見舞われた。というのは、将兵たちの多くは、欠乏のために死亡し、カムパノス人たちに至っては、他の傭兵たちを帯同して、ほとんど全員がイミルカスの天幕に押しかけ、取り決めの穀物支給を要請し、さもなければ、敵に寝返ると脅迫したのである。[3]しかしイミルカスは、シュラクウサイ人たちが大量の穀物を、海路、アクラガスに輸送しているということを、ある者から耳にしていた。そこで、これを唯一の救いの希望に、将兵たちには、数日間待つよう説得し、質として、カルケドンからの将兵たちの所有になる飲用器(poteria)を与えた。[4]そしてみずからは、パノルモスとモテュエから三段櫂船40艘を呼び寄せ、補給物資の輸送船に襲いかかった。対してシュラクウサイ人たちは、前々から蕃族が海から撤退し、すでに冬になっていたので、もはやカルケドン人たちがあえて三段櫂船を艤装することはあるまいと、これを侮っていた。[5]そのため、彼らは不用意に補給物資を輸送していたので、イミルカスはいきなり三段櫂船40艘をもって出航し、長船8艘を撃沈し、他の艦船を浅瀬に追いつめた。そして、他の商船すべてをわがものにし、こうして両軍の希望を正反対の方向へ転じさせたので、アクラガス側についたカムパノス人たちは、ヘラス勢の状況から判断して、15タラントンで堕落させられ、カルケドン人たちの側に寝返った。[6]対してアクラガス人たちは、初め、カルケドン人たちの対処の仕方が悪い間は、穀物もその他の生活必需品も惜しみなく享受し、すぐにも攻囲は解かれるといつも期待していたが、蛮族の希望が頭をもたげる一方、これほど無量の人たちが一都市に集結したため、自分たちの気づかぬうちに穀物が消尽していた。[7]さらには、ラケダイモン人デクシッポスも15タラントンで堕落させられたと言われている。というのは、彼はイタリアの将軍たちに即答している――戦争はよその土地でするのが得である、〔自国ですれば〕生活手段がなくなるから、と。そういうわけで、将軍たちは、将軍職に配された任期が切れたという口実を設けて、軍勢を海峡〔porthmos。地名の意か?〕へと退却させた。[8]そして、この退却後、将軍たちが、嚮導の任に配された者たちと寄り合って、都市にある穀物を調査することを決心した。これがまったく少ないのを発見して、都市を見捨てるのはやむを得ないと見た。そこですぐに、次の夜になったら、全員転進することを下知したのである。 第89章 [1]これほど多くの男、女、子どもが、急遽都市を見捨てたために、多くの悲嘆と涙が家々を見舞った。というのは、かつは敵の恐怖が打ちのめし、かつは急いだために、自分たちを浄福視する基となったものを置き去りにして、蕃族の掠奪にゆだねざるを得なかった。すなわち、家にある美しいものに対する権利を運命が奪い去ったので、とにもかくにも自分たちの身命が助かったことを歓ぶべきことと考えたのである。こうして目撃できたのは、こういう都市から幸福が離れてゆく光景ばかりか、多数の身命が〔離れてゆく光景〕であった。というのは、病弱な者たちは家族に見放された。各人は自分の救いを気にかけていたからである。また、年齢的にすでに老齢にある者たちは、老いの脆弱さゆえに取り残された。さらに多くの人たちは、祖国との別離は死にも等しいと、みずからに手をかけた。父祖伝来の家で息を引き取るためである。[3]しかしながら、国を出て行く大衆は、将兵たちが武装してゲラまで送り届けた。他方、道や、ゲラに向かう領土の至るところ、女や子どもで満たされ、ここに乙女たちも混じっていた。彼女たちは、慣れ親しんだ贅沢から、緊張した道行きと異常な逆境の変化に堪え続けた。恐怖が魂を張りつめさせていたのである。[4]とにかく彼らは安全にゲラに逃れて無事助かり、後に、レオンティノイに定住した。シュラクウサイ人たちが彼らにこの都市を居所として与えたからである。 第90章 [1]さて、イミルカスは、黎明と同時に軍を城内に突入させ、取り残されていた者たちのほとんど全員を殲滅した。まさしくこの時に、神殿に逃げ込んでいた者たちをまでもカルケドン人たちは引きずり出して殲滅したのである。[2]また、富と善美さにかけて市民たちの第一人者であったテリアスも祖国と不運をともにしたといわれている。彼は他の何人かの人たちといっしょにアテナ神殿に庇護を求めようとした。神々に対する違法をカルケドン人たちは避けるだろうと信じたのである。しかし、彼らの涜神行為を目の当たりにして、神殿と、これの中にあった奉納物もろとも、みずからとに火を放った〔といわれている〕。それは、この一つの行為によって、神々を涜神行為から、敵を多数の金品の掠奪行為から、そして最も大事なのは、自分自身をわが身におよぶ暴行から遠ざけられると考えたのである。[3]しかしイミルカスは、神殿や家屋から奪略し、功名心もって物色して、かき集めた戦利品たるや、この都市を略取したのなら当然であるほどのものであった――2万の人々によって居住された都市、しかし建設以来荒らされたことのない都市、当時のヘラス諸都市の中でほとんど最高に富裕であった都市を、しかも、この都市に住んでいたのは、ありとあらゆる家具調度の高価さに対する讃美者であった。[4]というのも、高度に労作された絵画がおびただしく発見され、巧みに制作されたありとあらゆる種類の人像の途方もない数が発見されたのである。そこで、作品の中で最も高価なもの――この中に、パラリス〔アクラガスの残忍な僭主。在位、前571-555年〕の牡牛も含まれることになった――はカルケドンに送り、その他の戦利品は戦利品売却した。[5]ところで、この牡牛を、ティマイオスは『歴史』の中で、まったく実在しないと断言したが、運命みずからの手で反駁された。というのは、この陥落のほぼ260年後に、スキピオスが〔前146年〕カルケドンを荒らし、カルケドン人たちのもとにあったその他の品々もろとも、アクラガス人たちのために牡牛を奪回し、これはこの歴史が書かれている時もアクラガスにあったのである。[6]これについてかなり功名心をもって述べるよう誘惑された所以は、ティマイオス――自分より前代の歴史編纂者たちに対する辛辣きわまりない批判者であり、歴史著述家たちに何一つ容赦の余地を残さなかった人物――が、最も精確に述べていると自己表明した箇所で、杜撰であることをみずから発見されたからである。[7]すなわち、わたしの思うに、歴史編纂者たちは、知らない事柄においては容赦を得るべきである。〔編纂者は〕人間であり、過ぎ去った過去の時代の真理は見つけがたいからである。しかしながら、目論見があって精確さを得損なう者たちは、批判を受けてしかるべきである。つまり、誰それに追従したり、敵意からより辛辣に攻撃したりして、真理を逸する場合である。 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