第91章-100章
第101章 [1]他方、アテナイ人たちは、アルギヌウサイでの慶事を伝え聞いて、その勝利に将軍たちを称讃したが、嚮導によって最期を遂げた者たちを埋葬しないまま見過ごしたことには腹を立てていた。[2]しかも、テラメネスとトラシュブウロスとが先にアテナイに舞い戻ったので、将軍たちは、最期を遂げた者たち〔について〕大衆に向かって中傷するのはこの者たちだと受けとめて、この者たちのことで書簡を民衆〔民会〕に送り、最期を遂げた者たちを回収するようこの者たちに命じたということをはっきりさせようとした。よりによってこのことが、自分たちにとって諸悪の原因となってしまった。というのは、彼らはテラメネス一派を――言葉でも有能な人士たちにして、多くの友人をもち、また、何よりも重要なのは、海戦の状況の関与者たちを――裁判の共同係争者として持つことができたのに、あべこべに、係争の相手、痛烈な告発者として持つことになったのである。[4]というのは、民衆の前〔民会〕で書簡が読み上げられたとき、すぐに、大衆はテラメネス一派に怒ったが、これらが弁明するにおよんで、その怒りを今度は将軍たちに向けて急変させることになったのである。[5]こうして、民衆は彼らを裁判にかけ、コノンはこの責めから外してこれに軍勢を引き継ぐよう言いつけ、その他はできるかぎり速やかに帰国すべし旨を決議した。このうち、アリストゲネスとプロトマコスとは、大衆の怒りを恐れて亡命したが、しかしトラシュロスとカリアデス、なおその上にリュシアス、ペリクレス、アリストクラテスは、大多数の艦船を帯同してアテナイに帰航した。艦船の搭乗員――多数であった――が、裁判のさいに助けてくれるだろうと希望をいだいたのである。[6]しかし、民会に大衆が集まるや、告発と、気に入ることをめざした民衆演説者たちとには耳を傾けても、弁明者たちには、大騒ぎをしてその言葉を受け付けなかった。しかも、彼らに決定的に不利となったのは、最期を遂げた者たちの親類の存在で、民会に喪服姿で出席し、祖国のために献身的に最期を遂げた者たちを埋葬せぬまま見過ごしにした者たちを罰するよう、民衆に懇願した。[7]最後には、この者たちの友たちや、テラメネス一派の同志たち――多数が出席していた――とが優勢を占め、将軍たちは死刑と家産の没収という有罪判決を下される結果となった。 第102章 [1]そういうことが可決され、彼らが廷吏たちによって死刑のために引き立てられようとしたとき、将軍の一人ディオメドン――戦争のことにも積極的で、義しさやその他の諸徳においても抜きんでているとの評判の人物――が中央に進み出た。それで全員が静かになると、言った。「アテナイ人諸君、わたしたちに対して執行されることが、国家にとってふさわしいものでありますように。しかし、勝利のための祈願は、わたしたちが捧げるのを運命が妨げたけれども、あなたがたが配慮するのは美しいことであるからして、救主ゼウスにも、アポロンにも、厳格な女神たちにも捧げていただきたい。なぜなら、これらの神々に祈って、わたしたちは敵勢に海戦勝利したのだから」。[3]ディオメドンはこういうことを述べたうえで、死刑を執行されるために、他の将軍たちともども、引き立てられていった。同市民たちのうちの善き人たちに多大な悲嘆と落涙とを引き起こしながら。というのは、不正に最期を遂げようとしているこの人は、わが身の受難には何ひとつ触れず、不正する国家のために、神々に祈りを捧げるよう要請して、敬神的な人物の行動、また高邁で、その身の運命にふさわしくない人物の行動の何たるかを明らかにしたのであるから。[4]こういった人々を、法習に任じられた11人の役人たちが処刑した――国家に対していかなる不正もしたことがなく、ヘラス人たちに対してヘラスで起こった海戦の中で最大の海戦に勝利し、他の諸々の戦闘においても華々しく嚮導してきた人たち、しかも、個人的な諸徳のおかげで敵たちに対して勝利牌をいくつも立ててきた人たちを。[5]そして、これほどまでに民衆が無分別となり、民衆指導者たちによって不正に刺激されて、その怒りを報復に値する人たちにではなく、多くの称讃と花冠に値する人たちにぶつけたのである。 第103章 [1]しかし、すぐに、説得した者たちも説得された者たちも、あたかも精霊的なものの怒りに触れたかのように、後悔した。というのは、騙された者たちは、愚かさの報いを受けて、久しからずして、たったひとりの主人によってではなく、じつに30人もの〔主人によって〕敗戦したのである。[2]他方、騙した者、つまり、議案を申し立てたカリクセノスの方は、すぐに大衆が心変わりしたため、民衆を騙したとの責めを問われた。そして弁明を認められず捕縛され、公的な番所に投獄され、何人かの者たちとひそかに牢獄を掘り抜き、デケレイアの敵のもとに逃亡し、ひとりアテナイ人たちのもとでのみならず、その他のヘラス人たちからも死を免れようとし、全生涯を通してその邪悪さに後ろ指をさされ続けた。 [3]かくして、この年の出来事はといえば、だいたい以上のごとくである。歴史編纂者のひとりピリストスは、その『シケリア史』の第1部をこの年、つまり、アクラガスの陥落までで終わり、7巻の中で800年以上の時代を述べ、第2部の初めは、先の部の終わりから始めて、4巻本に記述した。[4]同じころ、ソピロスの子ソポクレス――悲劇詩人――は90歳でなお存命中で、18回の優勝をした。言い伝えでは、この人物は最後の悲劇を制作し、優勝して比類のない祝福を浴びたが、これのせいでまた最期を遂げたという。[5]また、同時代史を労作したアポロドロスは、エウリピデスも同じ年に最期を遂げたと主張している。しかし、一部の人たちの主張では、マケドニア王アルケラオスのもとで、地方に出かけていって犬と遭遇し、細切れに引きちぎられたのは、この時代よりも前であるという。 第104章 [1]この年が終わると、アテナイではアレクシアスが執政官となり、ローマでは、執政に代えて千人指揮官3人が任命された。ガイオス・イウウリオス、プウプリオス・コルネリオス、ガイオス・セルウイリオスである。これらの者たちが権職を引き継いだとき、アテナイ人たちは将軍たちの選出後、ピロクレスを嚮導役に配属し、海軍をこれに引き渡して、コノンのもとに送り出した。共同で軍勢の嚮導に当たるよう下命してである。[2]彼はコノンのもとにサモスへと寄港すると、全艦船――170に加える3艘である――を艤装した。このうち20艘はそこに残置して、その他の全艦でもってヘレスポントスへと船出した。嚮導したのはコノンとピロクレスとである。[3]対して、ラケダイモンの艦隊指揮官リュサンドロスは、ペロポンネソスの近隣の同盟者たちから艦船35艘を集め、エペソスに寄港した。そしてキオス(Chios)からも艦隊を呼び寄せ……整備した。さらには、大王ダレイオスの息子キュロスのもとにも参上して、多くの軍資金を受け取り、将兵たちの給養に充てた。[4]しかし、キュロスは、父王が彼をペルシアに呼び寄せたため、自分の支配下にある諸都市の委任をリュサンドロスに引き渡し、貢納を彼に納める態勢をとらせることになった。そこでリュサンドロスは、戦争に必要な万事を潤沢に調達してエペソスに引き返した。[5]まさにこのときである――ミレトスで何人かの連中が寡頭制をめざして、民主制を解体したのは。彼らに協力したのがラケダイモン人たちであった。つまり、先ず初めに、ディオニュソス祭のおりに、最も過激な反対派をその居宅において拉致し、およそ40人いたのを殺戮し、次いで、市場が人だかりするころ、最も裕福な者たち300人を選び出して殲滅した。[6]さらに、民衆の体制に心を寄せている者たちのうち最も優美な者たちは、1000人を下らなかったが、状況に恐れをなして太守パルナバゾスのもとに亡命した。この人物は親愛の情を持って彼らを受け入れ、スタテル金貨をひとりひとりに贈り物とし、リュディアの要塞ともいうべきブラウダに居住させた。[7]そこでリュサンドロスは大多数の艦船を帯同してカリアのイアソスに航行し、アテナイの同盟者であったこの都市を力攻めで攻略し、壮年たち――800人いた――は殺戮し、子どもたちや女たちは鹵獲品売却して、その都市を徹底破壊した。[8]その後、アッティカおよびその他の場所に航行したが、大きなことはもとより、記録に値するほどのことも実行しなかった。だから、わたしたちはそういったことを書き留める気にならないのである。しかし最後には、ラムプサコスを攻略して、アテナイの守備隊は休戦の申し入れを受けて退散させ、所有物は掠奪して、ラムプサコス人たちのために都市を取り返してやった。 第105章 [1]これに対してアテナイの将軍たちは、ラケダイモン人たちが全軍でもってラムプサコスを攻囲していると伝え聞き、至るところから三段櫂船を召集するとともに、180艘の艦船でこれにむけて急ぎ船出した。[2]しかし、その都市がすでに陥落した後なのを見い出して、このときはアイゴス・ポタモイで艦船を投錨させ、その後、毎日、敵勢のところに攻め寄せて、海戦に挑発した。しかしペロポンネソス勢が迎撃してこなかったために、アテナイ勢はこの事態にどう対処したらよいか窮した。より長期間にわたってここで軍勢を補給できなかったからである。[3]このときアルキビアデスが彼らのところに出向いてきて、次のように言った。――メドコスとセウテスといったトラキアの王たちは自分の友であり、ラケダイモン人たちと決着をつけたいと望むなら、大軍を与えようと同意してくれている。ついては、嚮導権に与らせるよう彼らに要請して、二つに一つ、敵勢に海戦せざるを得なくさせるか、あるいは、トラキア人たちを帯同して陸戦で相手と渡り合うかしようと申し出た。[4]アルキビアデスがこういった申し出をしたのは、自分の力で祖国のために何か大きな働きをして、その善行によって民衆をかつての好意に立ち返らせたいと欲したためである。しかしアテナイの将軍たちは、敗北すれば自分たちに非難がつきまとい、戦果はすべてアルキビアデスに結びつけられると信じ、彼に対して、すぐに立ち去って、もはや陣に近づかないよう命じたのである。 第106章 [1]しかし、敵勢は海戦を拒否し、陣地に食糧不足がとりついたために、この日嚮導の任にあったピロクレスは、他の三段櫂船指揮官たちには三段櫂船を艤装した上で追随するよう下命し、自分は用意のできた艦船30艘を率いて大急ぎで出航した。[2]対してリュサンドロスは、何人かの脱走兵たちからそのことを耳にしていたので、全艦を帯同して船出し、ピロクレスを背走させ、その他の艦船の方へと追いつめた。[3]しかし、アテナイ勢の三段櫂船はまだ艤装できていなかったため、全艦大騒動に陥った。思いもかけず敵勢が出現したためである。[4]そこでリュサンドロスは、相手勢の混乱を見抜いて、エテオニコスには、手慣れた兵たちを帯同して陸上で闘うようすぐに下船させた。彼は絶好の機会をとらえてすばやく陣屋の一部を占拠した。他方、リュサンドロス自身は、整備の整った全艦船で攻め寄せ、「鉄の手」を投げつけて、海岸に投錨していた艦船を引き剥がそうとした。[5]対してアテナイ勢は、思いがけなさに驚倒して、艦船で船出する余裕もなく、陸で戦い抜くこともできず、短時間抵抗して陸戦したものの、すぐさま、ある者は艦船に、ある者は、各人自分が助かる望みのある方向へと、陣屋を後に敗走した。[6]こうして、三段櫂船のうち10艘だけは脱走し、この中の1艘が将軍コノンの率いていたものであるが、民衆の怒りを恐れてアテナイへの帰国は断念し、キュプロスの嚮導の任にあったエウアゴラスのもとに庇護を求めた。自分と友好があったからである。しかし将軍たちの大多数は、陸路セストスに逃れて無事助かった。[7]対してリュサンドロスは、残りの艦船を捕虜として捕獲し、将軍ピロクレスを生け捕りにして、ラムプサコスに引き立てていって殺戮した。その後、ラケダイモンにこの勝利の報告者たちを最快速の三段櫂船で急派した。最も高価な武器や鹵獲品で艦船を飾ってである。[8]さらに、セストスに逃げ込んだアテナイ勢に対して征討にかかり、その都市を攻略、アテナイ勢を休戦の申し入れを受けて放免した。さらに、すぐに軍勢でサモスに航行し、自分はこの都市を攻囲したが、ギュリッポス――海軍によってシュラクウサイ人たちといっしょに闘うためにシケリアに行っていた――をスパルタに急派し、戦利品ならびにこれといっしょに銀子1500タラントンを運ばせた。[9]しかし、この金は小袋に入っていて、この小袋はそれぞれ密書をつけていた――この密書は金額を表す記号を含んでいたが、これを知らずにギュリッポスはその小袋をほどいて、300タラントンを取り出したが、記号のために監督官たちにばれ、亡命して死刑を宣告された。[10]同様にまた、ギュリッポスの父親クレアルコスも、以前、アッティカ侵入はないということに関してペリクレスから金品を受け取ったと思われて、死刑の判決を受けて亡命することになり、イタリアのトゥウリオイに亡命することになったことがある。こういった連中はといえば、その他の点では充分な人物と評判されながら、そんなことをしたために自余の自分たちの人生を恥辱にまみれさせたのである。 第107章 [1]さて、アテナイ人たちは軍勢の壊滅を聞いて、海に固執することは放棄し、城壁の備えに従事し、港湾を閉鎖した。当然のことながら、攻囲に見舞われると予想したのである。[2]というのは、すぐにラケダイモンの王たち――アギスとパウサニアスと――が、大軍勢を帯同してアッティカに侵攻し、城壁の前に布陣し、他方リュサンドロスの方は、200艘以上の艦船でペイライエウスに寄港したのである。対してアテナイ人たちは、これほどの災悪に見舞われながらも、それでも持ちこたえ、しばらくの間都市を易々と守護した。[3]そこで、ペロポンネソス勢によって決定されたのは、攻囲は難しいから、軍勢をアッティカから退却させ、艦船で遠くから待ち伏せし、これによって穀物を運ばせないことであった。[4]これが達成されるや、アテナイ人たちは恐るべき欠乏状態に陥った。あらゆるものが、とりわけ、彼らの食料は常時海路輸入されていたため、その欠乏状態に。こうして、欠乏は、日々、深刻となり、都市は屍体に満たされ、生き残りの年長者たちはラケダイモンとの和平を締結し、かくて、長壁とペイライエウスの城壁とを取り払うこと、長船は10艘以上保有せぬこと、すべての都市から撤退すること、ラケダイモンを嚮導者とすることになった。[5]こうしてペロポンネソス戦争――われわれの知っている中でも最も長い戦争――は、20に加える7年間続いた後に、こういう終わり方をしたのである。 第108章 [1]この和平の少し後に、アジアの王ダレイオスが、19年間支配した後、亡くなり、その嚮導権を受け継いだのは、息子たちの中の長男アルタクセルクセスで、40に加える3年間支配した。ちょうどこの時代に、詩人アンティマコスも全盛期にあったとアテナイ人アポロドロスが主張している。 [2]他方、シケリアでは、カルケドン人たちの嚮導の任にあったイミルコンが、夏が始まると、アクラガス人たちの都市は徹底破壊し、神殿のうち、火による壊滅のされ方が美しくないと思われたかぎりは、彫刻や秀逸に制作された作品を切り刻んだ。そして自分は、全軍を引き連れて、ゲラ人たちの領土に侵入した。[3]そして、その全土ならびにカマリナの領土を侵攻しつつ、軍隊をありとあらゆる戦利品で満たした。その後、ゲラに向けて進軍し、この都市と同名の河の畔に布陣した。[4]そして、ゲラ人たちが都市の外にアポロンの青銅製の非常に大きな像を保有していたので、これを掠奪してテュロスに送った。この像は、ゲラ人たちが神の神託にしたがって建立したものだが、テュロス人たちは、後世、マケドニア人アレクサンドロスに攻囲されたときに、敵勢と共闘したとして虐待した。しかし、アレクサンドロスがこの都市を陥落させたとき、ティマイオスの主張では、同名の日に、しかも、カルケドン人たちがアポロンをゲラで掠奪したのと同じ刻限に、ヘラス人たちによって最大の供犠と祭列をもって讃えられることとなった。攻略の原因になったとしてである。[5]ところで、こういったことは、他の時代に起こったことではあるけれども、その不可思議さゆえに、並置するにふさわしくないとは我々は考えないのである。とにかくカルケドン人たちは、耕地の樹木を伐採して、塹壕で軍陣を取り囲んだ。というのは、ディオニュシオスが大軍を帯同して、危険を冒している者たちの救援にやってくると危惧したからである。[6]対してゲラ人たちは、初めは生子や女たちをシュラクウサイへ移動させることを決議した。予想される危険の大きさゆえである。ところが、女たちが、市場の祭壇に庇護を求め、男たちと同じ運命を共有することを懇願したので、容認した。[7]その後、最多の戦列を作って、順番に将兵たちを地方に急派した。そしてこの者たちは、経験を積んでいたので、敵勢の遊撃隊に襲いかかり、その多くを毎日生け捕りにし、少なからざる数を殲滅した。[8]しかし、カルケドン勢は交代で都市に突撃し、強力な破城槌で城壁を引き裂いたが、〔ゲラ人たちは〕雄々しく自衛した。すなわち、昼間破られた城壁の箇所を、夜の間に建造したのであるが、女たちや子どもたちもいっしょに手助けしたのである。なぜなら、年齢的に盛りにある者たちは武装して闘い続け、その他の大衆は作業やその他の戦備に全身全霊でいそしんだのである。[9]要するに、カルケドン勢の攻撃を受けとめた頑強さたるや、都市も無防備なのを有しているにもかかわらず、同盟者もなく孤立無援であるにもかかわらず、かてて加えて、城壁は多くの箇所で破られるのを目の当たりにしながらも、降りかかった危難に周章狼狽することはなかったほどである。 第109章 [1]一方、シュラクウサイの僭主ディオニュシオスは、イタリア出身のヘラス人たちのもとから救援隊を呼び寄せ、また、その他の同盟者たちのもとからも軍勢を出陣させた。さらには、シュラクウサイ人たちのうち適齢にある者たちの大多数を選抜し、また、傭兵たちを軍隊に兵籍登録した。[2]こうして全軍で、ある人たちによれば、5万、ティマイオスの記録によれば、陸兵3万に、騎兵1000、掩蔽具付き艦船50艘を保有したという。これだけの軍勢を帯同して、ゲラ人たちの救援に進発し、その都市に近づくや、海沿いに布陣した。[3]隊を割くのではなく、陸上と同時に海上でも、ひたすら同じ地点から進発して闘おうと努めたのである。すなわち、裸兵たちによっては闘って、領地で糧秣あさりをするのを赦さず、騎兵や艦船によっては、カルケドン人たち自身の支配下にある地から補給物資を輸送するのを阻止しようと努めたのである。[4]こうして20日間は、語るに値するようなことは何もせずに過ごした。が、その後、ディオニュシオスは陸兵を3部隊に分け、1部隊はシケリア人たちから編成し、これに、左手に都市を確保しつつ、相手勢の防御策に進軍するよう下命した。別の部隊は、同盟者たちから編成し、右手に都市を確保しつつ、浅瀬のすぐそばに沿って急行するよう命じた。そして自分は、傭兵たちから成る編成部隊を率いて、都市を通って、カルケドン人たちの兵器が据えられている地点に向かって進発した。[5]また騎兵たちにも下知して、陸兵が進発するのを眼にしたら、河を渡って平野を疾駆し、自軍が優勢なのを見たら戦闘に合流し、敗勢なのを〔見たら〕、崩された者たちを受け容れるようにさせた。また艦船の搭乗員たちには、イタリア人たちの攻撃に合わせて、敵勢の陣屋に攻め寄せるよう下知した。 第110章 [1]こうして、彼ら〔艦船の搭乗員たち〕が下知されたことを好機に実行したので、カルケドン勢はその部分に救援に駆けつけて、艦船から下船してくる者たちを押し戻そうとした。というのも、陣地の浅瀬沿いの部分全体にわたって、防御施設で固められてさえいなかったからである。[2]そこでイタリア人たちはこの好機に海沿いに全行程を走破して、カルケドン人たちの陣屋に襲いかかった。大多数が艦船の方へ救援に駆けつけてしまったのを見たからである。そして、この部分に取り残されていた相手を背走させ、陣中へと押し入った。[3]こういう事態になったので、カルケドン勢は軍の大部分が方向転換して、長時間にわたって闘い続け、かろうじて、壕の内側に押し入った連中を押し出した。対してイタリア人たちは、蕃族の多さに疲労困憊し、防御柵の尖った方へと退却する羽目に陥った。救援を得られなかったからである。[4]というのは、シケリア人たちも平野を通って進軍中、好機に遅れ、ディオニュシオスの帯同する傭兵隊も、市中の道を何とか通り抜けたものの、個人的な目論見どおりには急行することができなかったのである。またゲラ人たちは、少しの距離は撃って出て、近い場所でイタリア兵を救援しようとしたけれど、城壁の守備をなおざりにすることを用心した。こういう次第で、救援に遅れた。[5]対して、イベリア人たちやカムパニア人たち――カルケドン人たちといっしょに出征してきていた――は、イタリアからのヘラス人たちに実に激しく襲いかかり、そのうちの1000人以上を撃滅した。しかし、艦船の者たちが弓攻撃で追撃者たちを押し戻したので、〔イタリア兵の〕残りの者たちは無事に都市に逃れて助かった。[6]しかし別の部分では、シケリア人たちが遭遇したリビア勢と闘い続けて、そのおびただしい数を殲滅し、その他を軍陣に追い込んだ。しかし、イベリア人たち、カムパニア人たち、なおその上にカルケドン人たちが、リビア勢の救援に駆けつけたので、およそ600人を失って都市に撤退した。[7]他方、騎兵隊の方は、自軍の敗勢を見たので、自分たちも都市に引き揚げた。敵勢が自分たちに襲いかかって来たのである。他方、ディオニュシオスはやっとのことで都市を抜けたが、軍隊が敗勢なのを見て、その時は城壁内に撤退した。 |