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back.gif第14巻・目次


歴史叢書

第14巻(1/12)





第1章

 [1]おそらくは、自分に対する呪詛を聞きたくないのは、誰しも当然のことであろう。というのも、あらゆる点で自分の悪さを明白なものとしてもっており、したがって、否定し通すことなど到底できないような人々でさえ、誹謗を受ければやはり激昂し、その告発に対してあれこれ言い訳を持ち出そうとするからである。そうであってみれば、何かつまらぬことをするのは、誰しも万策を講じて用心すべきである。とりわけ、支配に駆り立てられる人々とか、何かめざましい幸運に与った人たちとかは、特に〔用心すべきである〕。[2]なぜなら、こういう人たちの人生は、その見かけのためにあらゆる場面で人目に付くので、自分の無知〔愚かさ〕を隠すことは不可能である。その結果、何かを得た人たちのうち、卓越した人で、何か大きな過ちを犯した場合、最後まで罰せられないですむことを望める者は誰もいないからである。というのも、自分の存命中に、非難の言葉を免れたとしても、後に、黙秘された事柄を真理が直言(parresia)をもって告知して、自分のところにやってくるのを受け入れさせられるからである。[3]したがって、つまらぬ人たちにとっては、全生涯のいわば不死なる似像を、個人的命終の後に、後生の人たちに残すことは難しい。というのも、哲学者たちのある一派が騒いでいるように、死後のことはわたしたちにとって何もないにしても、それでもやはり、少なくとも過去の人生が、その悪徳を記憶されて、全生涯にわたってはるかに劣悪なものになるからである。そして、この巻を詳細に読む人たちは、こういったことの明白な事例を得ることができるのである。


第2章

 [1]例えば、アテナイ人たちのもとでは、「三十人」僭主が生じ、その私的な強欲によって祖国を大きな不運に陥れ、自分たちはすぐに権力を投げ出して、自分たちに対する不死なる悪罵を後世に残し、他方ラケダイモン人たちの方は、文句の付けようのないヘラス支配権を確立しながら、同盟者たちに対して不正行為を遂行しようとした、まさにそのときに、この支配権を奪われた。というのは、嚮導者たちの優位さは、好意と正義によって保たれ、臣従者たちへの不正行為と憎しみによって解体するからである。[2]同様にまたシュラクウサイの僭主ディオニュシオスも、権力者たちの間でも善運この上ない者であったにもかかわらず、生きている間は、絶え間なく陰謀を企てられ、その恐怖ゆえに、内衣(chiton)の下には鉄製の胸当てをつけざるをえなくされ、死んでの後は、おのれの人生を呪詛の最大の具体例として、未来永劫に残したのである。[3]しかし、これらのことについては、それぞれ固有の時代に、おのおのをもっとはっきりと記述することにして、今は、先に述べられたことの続きに向かうために、時代だけ限定しておこう。[4]すなわち、本巻の前の巻においては、トロイアの攻略からペロポンネソス戦争と、アテナイ人たちの嚮導権との解体に至るまでの事績をわれわれは記述したのだが、詳述すること779年であった。しかし本巻においては、それに続く事績を付加したうえで、アテナイにおける「三十人」僭主の樹立から始めて、ガラタイ人たちによるローマ攻略まで及ぶことにしよう。その間108年である。


第3章

 [1]すなわち、嚮導権の解体によって、アテナイに無政府状態が出来したが、それはトロイア攻略後700に加える80年目で、ローマでは千人指揮官〔tribunus militum〕4人が執政の職を継承した。すなわち、ガイオス・ポルウイオス、ガイオス・セルウイリオス、ガイオス・ウウアレリオス、ヌウメリオス・パビオスである。また、この年に、90に加える第4回オリュムピア祭が挙行され、ここにおいてラリサ人コルキナスが優勝した。[2]この時期に、アテナイ人たちは疲弊しきったはてに、ラケダイモン人たちと和平条約を結んだが、これによれば、国の城壁を取り壊し、父祖の国制を適用しなければならなかった。そして、城壁は取り払ったものの、国制については、お互いに意見を異にした。[3]というのは、寡頭制の渇仰者たちは、古来の体制――そのもとでは、少数者が全体を完全に主宰していた――を復活すべきだと主張した。対して、大多数は、民主制の熱望者であって、父親たちの国制を押し立てて、民主制こそそれであると一致して表明した。[4]かくて、この点に関して数日にわたって論争が生じた間に、寡頭制を選ぼうとする者たちは、リュサンドロスのもとに一人のスパルタ人――このスパルタ人は、戦争終結のおり、諸都市に関することを統治するために急派され、そのため大多数の諸都市に寡頭制が樹立した――を使節に送った。当然のことながら、自分たちの企みに与してくれることを望んでである。そこで、彼はサモスに渡った。というのは、リュサンドロスが最近その都市を占領して、たまたまその地に駐留していたからである。[5]彼に協力を呼びかけると、彼は承知し、サモスにはスパルタ人の総督としてトラクスを残置し、自分は艦船100とともにペイライエウスに入港した。そして民会を召集すると、国制の嚮導の任に当たる者として、また、国事全般の統治者として、三十人を選ぶよう勧告した。[6]ところが、テラメネスが反対し、父祖の国制を適用することで自分は同調したのだと言って、条約を読み上げ、誓約に違反して自由を取り上げるのは恐るべきことだと発言したところが、リュサンドロスは、条約はアテナイ人たちによって破棄されたのだ、城壁を取り壊したのは、取り決めの期限よりも後だったのだから、と主張した。さらには、テラメネスに対してもたいそうな脅しをかけて、ラケダイモン人たちに逆らうのをやめなければ、殺すぞと言った。[7]事ここにいたって、テラメネスおよび民衆は驚倒して、挙手によって民主制解体を余儀なくされた。かくして、国家共同事の統治者三十人が選ばれたのであるが、彼らは言葉の上では調整者(harmozontes)であったが、実際上は僭主であった。


第4章

[1]こうして、民衆は、テラメネスの適正さを眼にし、この人物の善美さによって、指導者たちの強欲を幾分かは阻止してくれるものと信じ、この人物をも三十人の支配者たちの中に挙手選出した。かくて、選ばれた者たちがしなければならなかったのは、評議会ならびにその他の役人を任命すること、また、自分たちが為政しようとするさいに依拠すべき法習を編纂することであった。[2]ところが、立法に関することは投げ出して、尤もらしい口実でそのつど言い逃れをする一方で、評議会その他の役人は個人的な友たちの中から任命し、かくて、この連中は為政者と呼ばれはしたけれど、実際は「三十人」の奉仕者となった。そして、先ず初めに国内の人たちの中の最も邪悪な連中を裁きにかけ、死刑の有罪判決を下した。ここまでは、その所行は市民たちの中の最も公正な人たちに歓ばれた。[3]ところが、その後、もっと暴力的で違法なことをすることを望むようになり、ラケダイモン人たちのもとに、彼らにとって得になる国制を樹立するつもりだと申し立てて、守備隊を要請した。というのは、人殺しを実現するには、外国の武力なしには不可能である、誰しもが共同の安全性(koine asphaleia)にしがみつくだろうから、ということを承知していたからである。[4]そこで、ラケダイモン人たちが守備隊と、これの嚮導者としてカリビオスとを派遣すると、「三十人」はこの守備隊指揮官には贈り物やその他の愛想よさで取り入る一方、富裕者たちの中から適当な者たちを選んで革命を起こそうとしたとして逮捕し、死刑に処して、その家産を没収した。[5]そこで、テラメネスが同僚の支配者たちに逆らって、救済を求めている者たちといっしょになって自衛するぞと脅したので、「三十人」は評議会を開催した。そして、彼らの指導者であるクリティアスが、この男〔テラメネス〕はみずから進んで国制に参与しながら、その国制を裏切っていると、じつに多くの点でテラメネスを告発したとき、テラメネスはその発言を受けて、細々した点ついても弁明し、評議会全体の好意を得た。[6]対して、クリティアス一派は、もしや寡頭制を解体するのではないかとの恐れをいだき、抜き身のままに戦刀を携えた将兵たちに取り囲ませ、テラメネスを逮捕しようとした。[7]しかし彼は、いちはやく評議会のヘスティア女神〔=竈〕のところに飛び退き、神々のもとに逃げ込んだのは、と彼は主張した、助けてもらえると信じるからではなく、自分の脅迫者たちがひたすら神々に涜神行為を見舞うようにとだ、と。


第5章

[1]それでも、従士たちが飛びかかり、彼を引きずり出す間、テラメネスはといえば、この不運を雄々しく甘受したが、それは、長期に渡ってソクラテスのもとで愛知にも参加してきたからである。が、残りの大衆はといえば、テラメネスの不幸に憐憫はしても、あえて助けようとは決してしなかった。それは、多数が武装して取り囲んでいたからである。[2]しかし、哲学者のソクラテスと、親しい者たちの中の二人とが、駆け寄って従士たちを妨害しようとした。だがテラメネスが、そんなことを決してしてくれるなと懇願した。なぜなら、あなたがたの友愛と勇気はありがたいが、自分のせいで、かくも親しい人たちが死ぬようなことになれば、それこそ自分にとって最大の災禍だから、と。[3]そこで、ソクラテス派の人々は、他の人たちの助けを何も得られず、上層部に緊張が広がっているのを見て、おとなしくした。かくしてテラメネスは、指図されていた者たちが祭壇から引き剥がして、市場の中央を通って、死刑にするために引っ張っていった。[4]対して、多衆は、守備隊の武器に殴り倒されながらも、その不運に同情し、彼の災禍と同時に自分たちの隷従に涙した。なぜなら、一般人のおのおのが、テラメネスの徳がかくも泥を塗られたのを目撃して、自分たちの脆弱さなどは文句なく犠牲に供されると覚ったからである。[5]そして、彼の死後、「三十人」は富裕者たちを選んで、これに偽りの罪名を着せ、殺害して、その家産を奪い取った。とりわけ、彼らはシュラクウサイ攻撃の将軍であったニキアスの子ニケラトスまで抹殺したのである。――誰に対しても親切で愛想よく、富裕さでも名声でも、全アテナイ人たちの中で第一人者であったのを。[6]このために、家門すべてがこの人物の最期に痛みを共にする結果となった、それは、彼の善良さゆえの記憶が涙にくれさせたからである。しかるに、「三十人」は違法行為を差し控えるどころか、狂気に憑かれていよいよ激しさをまし、外国人たちのうちでは、最も富裕な60人を、財産を手中に収めるために屠り、市民たちのうちでは、日々抹殺されたために、生活手段のふんだんにある者たちは、ほとんど全員がこの都市から亡命した。[7]彼ら〔「三十人」〕はさらに直言者アウトリュコスをも抹殺したばかりか、〔抹殺するためには〕総じて、最も優美な人々を選び出したのであった。これほどまでにこの国を蹂躙したために、アテナイ人たちは半数以上が亡命してしまった。


第6章

 [1]他方、ラケダイモン人たちは、アテナイ人たちの党争を眼にしても、アテナイ人たちが強くなることを決して望んでいなかったので、悦び、自分たちの態度をはっきりさせた。すなわち、アテナイ人たちの亡命者たちはヘラス全土から「三十人」に引き渡されるべし、これを妨げる者たちは、罰金5タラントンに処さるべし、と決議したのである。[2]この決議は恐るべきものであったので、他の諸都市は周章狼狽してスパルタ人たちの圧力に屈した。だが、まっさきにアルゴス人たちは、ラケダイモン人たちの残忍さを憎んで、無産者となった人たちの運命を憐憫し、人間愛からこの亡命者たちを受け入れた。[3]さらには、テバイ人たちも、亡命者が連行されるのを座視し、可能なかぎり救援しなかった者には罰を課さるべしとの決議をした。アテナイをめぐる状況とは、かくのごとくであった。


第7章

 [1]他方、シケリアでは、シケリア人たちの僭主ディオニュシオスが、カルケドン人たちと和平を成した後、僭主制の安泰について、それがいや増すよう思案した。というのは、シュラクウサイ人たちは、戦争が終結するや、自由を取り戻すための暇を持つであろうと彼は受けとめたからである。[2]そこで、都市の「島」がこのうえなく堅固で、容易に守備可能なのを眼にして、金をかけた城壁でこれを町の他の部分から遮断し、高い櫓をびっしりと建造し、さらに、これの前に祭場と、大群集を収容する柱廊とを〔建造した〕。[3]さらに、その内部には、緊急の避難所とするために金をかけて堅固にされたアクロポリスを建設し、これの城壁でもって、小湾――ラッキオンと呼ばれる――に面した船渠もろともそっくり囲い込んだ。この船渠は、三段櫂船60艘を擁し、開閉可能な扉を有し、これによって艦船1艘ずつ入港できるようになっていた。[4]さらに土地も、その最善なのを選んで、これを友たちや嚮導の任に配属されている者たちに恵贈し、その他の土地は、外国人や市民に――といっても、解放された奴隷たちに市民という名称を冠し、これを新市民(neopolitai)と呼んで――平等に分配した。[5]さらにまた、群集にも家屋を――「島」内部にあるそれは除いて――分かち与えた。また、友たちや傭兵たちにもこれを恵贈した。かくて、僭主支配のことが美しく運んでいるように思われたので、軍をシケリア人たちに向けて繰り出したが、それは、自治独立者たちをみな――とりわけ、シケリア人たちがかつてカルケドン人たちと同盟関係に入ったがゆえに――自分の支配下に置くことを熱望したからである。[6]そういう次第で、この男〔ディオニュシオス〕は、ヘルベシノン人たちの都市に向けて出兵し、攻囲の準備を始めた。ところが、従軍したシュラクウサイ人たちは、武器が手に入ったことから、徒党を組んで、お互いに相手を、僭主制解体のために騎兵隊に協力していると告発し合った。そこで、将兵たちの嚮導官としてディオニュシオスによって任命されていた男が、直言する連中の一人を、初めは脅しをかけたが、この男が抗弁したので、大胆にも殴るつもりで詰め寄った。[7]これに将兵たちが激昂し、名をドリコスというその士官を殺害し、市民たちにむかって自由を呼号し、アイトネの騎兵たちを呼びにやった。この〔騎兵たち〕は、僭主制の初期の段階に追放されて、その守備地で暮らしていたのであった。


第8章

[1]対して、ディオニュシオスは、シュラクウサイ人たちの反乱に驚倒し、攻囲はやめにして、シュラクウサイへと急行した。ひたすらこの都市を確保しようとしたのである。彼が逃走している最中、反乱を起こした者たちは、士官の殺害者たちを将軍に選び、アイトネからの騎兵たちを迎え入れ、エピポライと呼ばれる〔丘陵〕に、僭主に対する対抗陣を築き、領土へ通じる彼の出口を封じ込めた。[2]そして、すぐに、メッセニア人たち、および、レギオン人たちのもとに使節団を急派し、自由のために海路助けに来てくれるよう頼んだ。というのは、これらの都市は、ちょうどこの時期、三段櫂船80艘を下らぬ数で航海するのを常としていたからである。そこでこれらの都市はシュラクウサイ人たちのために艦船を急派し、自由を得るための協力にいそしもうとした。[3]さらには、この僭主を抹殺した者たちには莫大な賞金のあることを布令し、外国人たちの中で心変わりした者たちにも国政への参加を公約した。さらに、反動をつけて城壁を破壊する装置を装備し、また、毎日「島」に突撃をかけて、外国人たちのうち心変わりした者たちを愛想よく受け入れた。[4]対してディオニュシオスは、領土へ通じる出口を封じられ、傭兵たちからも見捨てられたので、現状について評議するため、友たちを召集した。というのは、専制政事にすっかり絶望したあまりに、彼が求めていたのは、いかにすればシュラクウサイ人たちに戦勝できるかということではなく、いかなる死を甘受すれば、支配の解体を完全には不名誉でないようにすることができるかということであったからである。[5]このとき、ヘロリス――友たちの一人であるが、一部の人たちの主張によれば、養父であるという――が、彼に言った、僭主制は美しき経帷子である、と。ところが義理の兄弟のポリュクセノスが反対して言った、――最も俊足の騎馬を駆って、カルケドン人たちの支配下にあるカムパニア人たちのところに駆け込むべきだ。なぜなら、彼らはシケリア地区の守備のためにイミルコンが残置したものだから、と。ところが、後に歴史を編纂することになるピリストスが、ポリュクセノスに反論して、――ふさわしいのは、と彼は主張した、駆ける馬に乗って僭主制から逃げ出すことではなく、脚を引きずられて追いだされることだ、と。[6]ディオニュシオスはこれが気に入って、専制を自分から放棄するぐらいなら、どんなことにでも服することに決めた。そういう次第で、使節団を反乱者たちのもとに急派して、私兵たちを帯同してこの都市から撤収する許可を自分に与えるよう頼むとともに、その一方で、気づかれないようにカムパニア人たちに使いを送って、攻囲に必要なものは何でも与えると彼らに同意を与えた。


第9章

 [1]さて、こういったことが行われている間に、シュラクウサイ人たちの方は、僭主に、艦船5艘を帯同して航し去る許可を与え、ますます無頓着になって、騎兵たちをば、攻囲には何の役にも立たないと、これを解散させ、陸戦隊の大多数は、すでに僭主制は解体したとして、持ち場を離れた。[2]これに対してカムパニア人たちの方は、〔僭主からの〕申し出に陶酔して、先ず初めに、アギュリオンに到着した。ここで、この都市の権力者アギュリスに軍行李を預け、軽装備でシュラクウサイ向け進発した。数は騎兵1200である。[3]そして速やかに路程を進み、不意をついてシュラクウサイ人たちの前に出現し、その多くを殲滅しながら、ディオニュシオスのもとに強攻突入した。さらに、時を同じくして、僭主の傭兵300も来航したため、僭主を希望でもって奮起させることになった。[4]対してシュラクウサイ人たちは、専制側が再び強力となったため、留まって攻囲を続けるべしと意見表明する者たちと、陣を解いて都市を見捨てるべしと意見表明する者たちと、お互いに党争を始めた。[5]これを見抜いたディオニュシオスは、彼らに向けて軍勢を繰り出し、足並みの乱れた相手勢に襲いかかって、いわゆる「新都市」付近で易々と背走させた。しかし殲滅された者は多くはない。というのは、ディオニュシオスが馬を駆りながら、逃亡者たちの殺害を禁じたからである。かくて、シュラクウサイ人たちはたちどころに地方に分散したが、やがてアイトネの騎兵たちのもとに7000人以上が集結した。[6]対して、ディオニュシオスは、シュラクウサイ人たちの戦没者たちを埋葬してから、使節団をアイトネに派遣し、亡命者たちは解散して祖国に帰還するよう要請し、彼らに遺恨は残さないと保証を与えた。[7]このため、一部の者たちは生子や妻女を後に残してきていたので、この呼びかけに聴従せざるを得なかった。だが残りの者たちは、戦没者たちの埋葬に関するディオニュシオスの善行を使節団が顕彰したところが、彼らは、やつこそ同等の親切を受ける価値があると主張し、できるかぎり速やかに彼がこれを受けるのを見物できますようにと神々に祈った。[8]かくして、この者たちは、いかようにしても僭主を信用しようとはせず、アイトネに留まって、僭主打倒の好機をうかがっていた。対して、ディオニュシオスは、帰還した亡命者たちは愛想よく処遇し、その他の者たちも、祖国に帰還する気になるよう望んだが、ただしカムパニア人たちに対しては、約束の贈り物をもって名誉を授けた上で、都市から送り出した。彼らの移り気を警戒したからである。[9]彼らはエンテラに進軍し、自分たちを共住者として受け入れるようその都市の人たちを説得し、夜陰に乗じて攻めかかって、壮丁たちは殺戮し、裏切られた者たちの妻女を娶って、その都市を占拠した。


第10章

 [1]他方、ヘラスでは、ラケダイモン人たちがペロポンネソス戦争を終息させ、陸上でも海上でも一致承認された嚮導権を握った。そして艦隊指揮官にリュサンドロスを任命し、諸都市を歴訪するようこれに下命し、いわゆる総督(harmostes)を自分たちのところから各都市に就任させた。というのは、ラケダイモン人たちは、民主制が気に入らず、寡頭制によって諸都市を統治したいと望んだのである。[2]さらにまた、敗戦者たちに年賦金を課し、従前より貨幣を使用していなかったにもかかわらず、以後、年賦金によって毎年1000タラントン以上をかき集めることになった。かくして、ヘラスの問題は自分たちの意のままに統治したので、貴顕層の中からアリストスという人物をシュラクウサイに派遣し、言葉では、専制を解体させるようなふりをしながら、真実には、ひたすら僭主制を拡張させようとした。というのは、支配体制をいっしょにこしらえるあげて、この善行によってディオニュシオスを臣下に持ちたいと望んだからである。[3]そこで、アリストスは、シュラクウサイに入港すると、上記の件について僭主と密議したうえで、シュラクウサイ人たちを持ち上げ、自由の奪回を公約しながら、シュラクウサイ人たちの嚮導の任にあったコリントス人ニコテレスを抹殺し、信頼してくれた者たちを裏切って、僭主制を強固ならしめるとともに、この行為によって自分と同時に祖国をもぶざまなものとしたのである。[4]他方、ディオニュシオスは、シュラクウサイ人たちを収穫に派遣し、その留守宅に押し入って、全員から武器を取り上げ、その後でアクロポリスのまわりに城壁をもう一重建設し、艦船を建造し、さらには多くの傭兵を動員して、以後、僭主制の安泰に備えた。シュラクウサイ人たちは、隷従しないためなら、どんなことでも我慢するということを、すでに事実によって経験ずみだったからである。

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