1章-10章
第11章 [1]こういうことが行われている間に、ダレイオス大王の太守パルナバゾスは、アテナイ人アルキビアデスを逮捕して抹殺した。ラケダイモン人たちの歓心をかおうとしたのである。ところがエポロスは、その策謀には他の理由があったと記しているので、この歴史編纂者によって伝えられているアルキビアデスに対する策謀なるものを対置するのは無益ではないと私は信ずる。[2]すなわち、第17巻において彼が主張しているところによると、キュロスとラケダイモン人たちとは、〔キュロスの〕兄のアルタクセルクセスに対していっしょに戦端を開くべく、ひそかに準備を整えていたが、アルキビアデスが何人かの連中からキュロスの目論見を察知し、パルナバゾスのもとに赴いて、この件についてつぶさに説明し、自分がアルタクセルクセスのもとに参内する通行を認めるよう要請した。大王に策謀を最初に暴露したかったのである。[3]しかしパルナバゾスは、話を聞いて、その通報役を奪い取り、この件について大王に明かすために腹心の部下たちを派遣した。こうして、大王のもとへの護衛者たちをパルナバゾスが与えなかったので、彼〔エポロス〕の主張では、アルキビアデスはパプラゴニアの太守のもとに進発し、この者の力で参内を果たそうとした。そこでパルナバゾスは、この件について大王が真実を聞き知るのではないかと恐れ、陸路、暗殺者たちをアルキビアデスに差し向けた。[4]かくして、彼がプリュギアのとある村で幕営しているところを捕らえた連中は、夜間、大量の薪を積み上げた。こうして大火が燃え上がったとき、アルキビアデスは自衛を試みたが、火と、彼めがけて投じられる投げ槍とに制せられて最期を遂げた、と。 [5]同じころ、哲学者のデモクリトスも、90年の生涯を閉じた。また、テバイ人ラステネスはこの年のオリュムピア祭で、競走馬で走って優勝したと言われている。その走路は、コロネイアからテバイまでになった、と。 [6]またイタリアでは、ローマ人たちがウウオレスカ人たちの都市エッルウカを守備していたが、敵勢が侵攻してきて、この都市を制圧し、守備隊の大多数を殲滅した。 第12章 [1]この年の行事が終了したので、アテナイではエウクレイデスが執政官となり、ローマでは執政の職を千人指揮官4名が継承した。ポプリオス・コルネリオス、ヌウメリオス・パビオス、レウキオス・ウウアレリオス〔、……〕である。[2]この者たちが職を引き継いだとき、ビュザンティオン人たちがお互いに党争を始める一方、隣国のトラキア人たちと戦端を開いたが、対処の仕方が悪かった。そのため、お互いに対する愛勝心の解消法を手に入れることができす、ラケダイモンから将軍を懇請した。そこでスパルタ人たちはクレアルコスを、この都市の事態を処理するために送り出した。[3]しかしこの人物は、絶対的な信頼を得、多数の傭兵を集めると、もはや指導者ではなく、僭主となった。そして、先ずは、彼らの支配者たちをある供犠に招いたうえで殲滅し、次いで、都市が無政府状態になると、名のあるビュザンティオン人たち30名を拉致して、縄を巻きつけて絞め殺した。こうして破滅させられた者たち全員の家産を奪い取り、その他の者たちの中から裕福者たちを選抜して、偽りの責めを着せてある者たちは殺害し、ある者たちは追放刑に処した。こうして多くの金品を手中にし、多数の傭兵を集めて、専制体制を安泰としたのである。[4]僭主の残忍さや権力が知れ渡ったので、ラケダイモン人たちは、先ずは、彼のもとに使節団を派遣し、専制支配をひかえるよう説得させた。しかしその要求を受け容れなかったので、彼に向けて軍勢と、将軍としてパントイデスとを派遣した。[5]攻撃を察知するや、クレアルコスはメリュムブリア――この都市の支配者でもあったから――に軍勢を移動させた。というのは、多くの点でビュザンティオン人たちに過ちを犯したので、ラケダイモン人たちのみならず、この都市の住人たちも敵になるだろうと受けとめたからである。[6]かくしてセリュムブリアに依って闘い続ければより安全と判断して、金品も軍勢も移動させたのである。そして、ラケダイモン勢が近くにあると伝え聞くや、これを迎撃し、いわゆるポロス近辺でパントイデス隊と戦端を開いた。[7]こうして長時間に渡って危険が続き、ラケダイモン勢は華々しく闘って、僭主隊は壊滅した。しかしクレアルコスは、初めは少数とセリュムブリアに押し込められて攻囲された。が、次いで恐れをなして、夜間、逃げだし、イオニアに渡った。そして、ここで大王の弟キュロスと親交を結び、軍隊の嚮導の任に当たることになった。というのは、キュロスは海浜の太守たちの支配者と宣告され、知慮に富んだ人物であったが、兄王アルタクセルクセス攻撃への出征を思案していた。そこで、クレアルコスが向こう見ずさを有し、大胆さで抜きんでているのを見て、これに金品を与え、できるかぎり多数の外国兵を登録するよう言いつけたのである。自分の敢行に好都合な共闘者を得たと信じて。 第13章 [1]ところで、スパルタ人リュサンドロスは、ラケダイモンの支配下にある諸都市をすべて監督官たちの意見にしたがって、そのあるものには「十人支配制(dekadarchia)」を、そのあるものには寡頭制を樹立して統治したので、スパルタにおいて属目の的となった。というのは、彼はペロポンネソス戦争を、陸上においても海上においても、一致承認された嚮導権を祖国にもたらすという形で終了させた。[2]それゆえ、こういう次第で自負心が強くなり、ヘラクレス末裔の王制を解体させ、王の選出を全スパルタ人たちの中から共同で行うことを思案した。最大・最美の所行を成し遂げたのであるからして、その権職はすぐにも自分のところに転がり込むとの希望をいだいたのである。[3]そして、ラケダイモン人たちがことのほか占いごとに心を寄せることに目を付けて、デルポイの予言を金銭で買収することを企てた。というのは、自分の策謀の有用な同盟者を得られれば、目論見を達成するのは容易だろうと信じたのである。[4]ところが、莫大な金銭を、占いに従事する者たちに約束したにもかかわらず説得できなかったので、ドドネで占いに携わっている神官たちと同じ件について折衝した。仲介したのはペレクラテスという者で、生まれはアポロニア人の出であったが、神事に従事する者たちと親交のあった人物である。[5]しかし、何の成すところもなかったので、キュレネに外遊した。口実はアムモン神に祈願するということであったが、実際は、占いを買収しようと望んでいたのである。それで、多くの金銭を運び、これによって占いに従事する者たちを説得できるとの希望をいだいていた。[6]というのも、その地域の住民たちの王リビュスは、彼の父祖伝来の客友であって、リュサンドロスの弟も、その人との交友関係にちなんでリビュスと名づけられたほどだったからである。[7]まさにこういうわけで、また、運び込まれた金銭によっても、説得できるとの希望をいだいたのだが、この策を得損なったばかりか、占いの指導者たちはいっしょになって使節団を送り出して、神託買収の廉でリュサンドロスを告発したのである。そのため、リュサンドロスがラケダイモンに帰着すると、彼には裁判が提起されたが、みずからのために説得的に弁明したのであった。[8]そのため、当時は、ヘラクレスの血を引く王たちを解体することをめざしたリュサンドロスの目論見について、ラケダイモン人たちは何も知らなかった。しかし少し後に、彼が亡くなり、神託のようなものが邸宅で探されたとき、金をかけて起草された言葉が見つけられたが、それは彼が大衆向けに労作したもので、王たちは全市民から選ばるべきことを説いているものであった。 第14章 [1]他方、シュラクウサイの僭主ディオニュシオスはと言えば、カルケドンとの和平を締結し、国における党争を免れたので、国境を接するカルキス人たちの諸都市を併合することに腐心した。[2]それらの都市とは、ナクソス、カタネ、レオンティノイである。これらを彼がわがものにしたいと欲したのは、それらがシュラクウサイに国境を接していることと、専制支配の拡張に多くの利点をもたらすからであった。そこで、先ずはアイトネの近くに布陣して砦を押さえた。これほどの軍勢に匹敵する亡命者たちはいなかったからである。[3]その後、レオンティノイに転進し、都市の近くのテリアス河畔に布陣した。そうして、先ずは軍の戦闘態勢を解いて、レオンティノイに伝令使を派遣した。都市を引き渡すよう命じれば、城内の者たちは恐怖に打ちのめされるだろうと信じたのである。[4]ところが、レオンティノイ人たちは意に介さず、万事攻囲に対する準備を整え始めたが、ディオニュシオスは兵器を持っていなかったので、さしあたり攻囲は断念して、領土全体を荒らし回った。[5]そして、そこからシケリア人たち攻撃へと転進した。彼らとの戦争を放棄したと見せかけて、カタネやナクソスが都市の守りに気を抜くためである。[6]こうしてエンナ近辺に駐留している間、エンナ人のアエイメンストスを、僭主制をめざすよう説得した。この提案に援助を約束してである。[7]こうして彼〔アエイメンストス〕は策謀をものにしたものの、ディオニュシオスを都市に入城させなかったので、〔ディオニュシオスは〕腹を立てて心変わりし、僭主制を解体するようエンナ人たちに呼びかけた。エンナ人たちが武装して市場に馳せ参じ、自由をめぐって争いが起こったので、都市は混乱に満たされた。[8]そこで、ディオニュシオスは党争を伝え聞くや、裸兵を引き連れて、すぐにとある人気のない地点を通って都市になだれ込み、アエイムネストス〔アエイメンストス?〕を逮捕して、処罰するためにエンナ人たちに引き渡し、自分たちは何の不正も働かずにその都市から退去した。彼がこんなことをしたのは、正義を気づかったからではなく、その他の諸都市が彼を信用するよう方向転換させたいと望んだからである。 第15章 [1]そこからさらに転進して、ヘルビタ人たちの都市の破壊に手を染めた。しかし何の成すところもなく、彼らとは和平を成して、軍勢をカタネに引率した。というのは、アルケシラオス――カタネ人たちの将軍であった――が彼に都市を売ると約束したからである。かくして、真夜中ごろ、この男に手引きされてカタネの支配者となった。そして、市民たちから武器を取りあげると、この都市に守備隊を充分に配備した。[2]その後、ナクソス人たちの嚮導の任にあったプロクレスが、多額の約束の金で説得されて祖国をディオニュシオスに売り渡した。彼ディオニュシオスはこの売国奴に贈り物を支払い、これの同族の歓心を買ったうえで、都市を奴隷人足として売り払い、所有物は将兵たちの掠奪にまかせ、城壁と家屋は徹底破壊した。[3]さらに、カタネをも同様に処理し、捕虜たちをシュラクウサイで鹵獲品として売却した。こうして、ナクソス人たちの領土は国境を接するシケリア人たちに贈与し、カムパニア人たちにはカタネの都市を居住地として与えた。[4]その後、レオンティノイに全軍で出征し、その都市に包囲陣をしき、城内の者たちに使節団を派遣して、みずから都市を引き渡し、シュラクウサイの国制に参加するよう命じた。しかしレオンティノイ人たちが、何ひとつ救援を得られる期待はできず、ナクソス人たちやカタネ人たちの災禍が予測されたために、打ちのめされた。同じ悲運に見舞われるのではないかと恐れたからである。それゆえ、この危機に屈して承伏し、都市を捨ててシュラクウサイに移住したのであった。 第16章 [1]一方、ヘルビタの管理者アルコニデスは、ヘルビタの民衆がディオニュシオスとの和平を取り交わしたので、都市を建設しようと思案した。というのは、多数の傭兵たち、ならびに、対ディオニュシオス戦のために都市に馳せ参じた群衆の混成隊を彼は保有していた。さらには、他のヘルビタ人たちも多数が植民に共同すると彼に申し出たのである。[2]そこで、彼は馳せ参じた大衆を引き連れて、海から8スタディオン離れた丘陵地帯のとある丘を占拠し、ここに都市ハライサを建設した。しかし、シケリアには他にも同名の都市があったので、自分にちなんでこれをアルコニディオン・ハライサと命名した。[3]後世、この都市が大躍進をとげたのは、海上の商行為と、ローマ人たちによって与えられた免税権のゆえであるが、ハライサ人たちはヘルビタ人たちとの同族であることを否定していた。自分たちが亡国の植民者たちとみなされることを恥と考えたからである。[4]とはいえ、今に至るも両者のもとでは数多くの同族性が保たれているばかりか、アポロニア地方の供犠も同じ習俗で執り行っているのである。しかし、カルケドン人たちによってハライサは建設された、その時期はイミルコンがディオニュシオスと和平を締結したときだと主張している人たちも一部いる。 [5]他方、イタリアでは、ローマ人たちとベイイ人たちとの戦争が勃発したが、その原因は以下のとおりである。〔……〕。このとき、ローマ人たちは、最初、将兵たちに出征費用を、毎年、与えるという決議を可決した。そしてウウオルスコイ人たちの都市をも攻囲・攻略した。この都市は、当時はアンクソルと呼ばれ、今はタッラキネと名づけられている。 第17章 [1]この年次が終わると、アテナイではミキオンが執政官となり、ローマでは執政の職を継いだのは千人指揮官3名、ティトス・コインティオス、ガイオス・イウウリオス、アウロス・マリオスであった。この者たちが権職を引き継いだとき、オロポスの住民たちがお互いに党争を始め、市民たちの中の何人かを亡命者となした。[2]しかし亡命者たちは、しばらくは自力での帰還を志したが、目論見を達成することができなかったため、自分たちのために軍を派遣するようテバイ人たちを説得した。[3]そこでテバイ人たちがオロポス向けて出征し、その都市を手中にし、彼らを海からおよそ7スタディオンの距離に移住させ、しばらくは自分たちで為政することを認めていたが、その後、国制〔市民権〕を与えて土地をボイオティア領とした。 [4]こういったことが為されている間に、ラケダイモン人たちは他にも多くの点でエリス人たちに難癖をつけていたが、特に、自分たちの王アギスが神に供犠するのを妨害したこと、および、オリュムピア祭でラケダイモン人たちが競技するのを認めなかったという理由で、激しく〔難癖をつけていた〕。[5]それゆえ、彼らに対して戦端を開くことを決し、10人の使節団を急派して、先ずは、周辺諸都市の自治独立を認めるよう命じ、次いで、対アテナイ戦の出費を、彼らに規定の割り当ての支払いを要求した。[6]彼らがこんなことをしたのは、自分たちにとって尤もらしい口実と、戦端を開く説得的な方法を模索してのことであった。しかし、エリス人たちが心を寄せないどころか、ヘラス人たちを奴隷化するものだと難癖をつけさえしたので、王の中の〔アギスとは違う〕もう一人パウサニアスを、将兵4000とともに彼らに向け急派した。[7]彼には、多くの将兵が――同盟者たちのほとんどすべてからも――随伴したが、ボイオティア人たちとコリントス人たちは例外である。この者たちは、ラケダイモンのやり方に不満を持ち、エリス出兵には参加しなかったのである。[8]こうして、パウサニアスは、アルカディア経由でエリスに侵入し、すぐにラシオンの砦を一撃で攻略し、その後、アクロレイアを通って軍隊を引率し、トライストン、ハリオン、エピタリオン、オプウスという4つの都市をわがものに加えた。[9]ここからすぐにピュロの近くに布陣して、その堡塁を押さえた。エリスからおよそ70スタディオンの距離である。その後、エリスに向けて直接進軍し、〔ペネイオス〕河の向かいの丘陵地帯のとある丘の上に布陣した。対してエリス人たちは、少し前にアイトリアから選抜された兵士1000を同盟者として得ていて、これに体育所周辺の地点を守備するよう与えていた。[10]パウサニアスの方は、その地点を先に攻囲しようと企てたが、それがまったく見くびった態度であったのは、エリス人たちが撃って出ることを敢行したことは未だかつてなかったからであるが、突然、アイオリス勢と〔エリス〕市民たちの多数とが都市から雪崩をうって殺到してきて、ラケダイモン勢を驚倒させ、そのほとんど30人を撃滅した。[11]このため、パウサニアスは、このときは攻囲を解き、その後、攻略は一仕事なのを見てとると、その土地――神域であった――を破壊し台無しにしながら退却し、おびただしい戦利品をかき集めた。[12]しかしすでに冬が近づいたので、エリスには要塞を壁囲いし、ここに充分な軍勢を残置して、自分は残余の部隊とともにデュメで冬越しをした。 第18章 [1]他方、シケリアでは、シケリア人たちの僭主ディオニュシオスが、専制支配体制が自分の思い通りに運んだので、カルケドン人たちと戦端を開く思案をしていた。しかし、まだ準備が充分でなかったので、その目論見は秘匿し、将来の危難に対して役立つものを建造した。つまり、アッティカとの戦争のさい、都市が海から海まで遮断壁を築かれたことを知って、同じような劣勢に見舞われて領地への出入り口を封鎖されるようなことのないよう用心したのである。すなわち、いわゆるエピポライは、シュラクウサイ人たちの都市のたもとで、自然の要害をなしているのを彼は見た。そこで建築士たちを同行させて、彼らの意見にしたがって、現在「六門」の前に城壁がある地点で、エピポライに城壁を築くことを決定したのである。[4]というのは、この地点は北向きであったが、全体が崖になっていて、その急峻さゆえに外部からは難攻不落であった。かくして、この城壁の備えができるかぎり速やかにできることを望んで、地方から群衆を集め、この中から都合のよい者たちを6万足らずを選抜し、この者たちに城壁の築かれる場所を分担させた。[5]そうして、1スタディオンごとに、建築士を任命し、1プレトロンごとに大工と、この大工に仕える者たちを、1プレトロンにつき200人を私人たちの中から配置した。さらに、これとは別に、膨大な数の者たちが未加工石を切りだし、牡牛6000番が所定の場所に搬送した。[6]労働者たちの人手の多さたるや、見る者たちを大いに驚倒させた。皆がみな課せられたことを熱心に完遂したからである。それは、ディオニュシオスが大衆の熱心さを呼び覚まし、一等賞の者たちに大きな贈り物を授与したからである。建築士たちには2倍を、これとは別に大工たちやさらには労務者たちにも。しかも自分も、友たちといっしょに日程の間中仕事に専心し、あらゆる場所に現れては、その都度激務者たちの手助けをしたのである。[7]要するに、支配の威厳を捨てて、みずからを私人として示し、仕事の中でも最も激務の場に赴いて、他の者たちと同じ激務を引き受け、結果として日中の仕事にも多大な競い合いが生じ、夜業に従事する者たちさえいた。これほどの献身ぶりが大衆にわき起こったのである。[8]このため、思いもかけず20日で城壁は完成した。長さ30スタディオン足らず、高さはそれ相応にこしらえられ、その結果、城壁には堅固さが具わり、強攻によっては難攻不落となった。というのは、隙間のない高い櫓によって仕切られ、4歩長の巧みに結合された石によって建造されていたからである。 第19章 [1]この年が終わると、アテナイではエクサイネトスが執政官になり、ローマでは執政の職を引き継いだのは6人の千人指揮官たち、すなわち、ポプリオス・コルネリオス、カイソン・パビオス、スポリオス・ナウティオス、ガイオス・ウウアレリオス、〔そしてJunius Lucullus〕であった。[2]このころ、海浜の太守たち〔第12巻8章〕の嚮導者キュロスは、かねてから兄王アルタクセルクセスに向けて出征することを思案していた。この若者は野心に満ち、戦争の闘いに消極的でならざる熱意を持っていたからである。[3]かくて、充分に多くの傭兵が彼によって動員され、出征の準備がまとまったので、大衆には真実を明かさず、大王に離反した連中を攻撃するためにキリキアに軍を引率すると称した。[4]彼はまたラケダイモン人たちのもとにも使節団を派遣して、対アテナイ戦での善行を思い返させ、自分と共闘するよう頼んだ。そこでラケダイモン人たちは、この戦争は自分たちの得になると信じて、キュロス救援を決定し、ただちに使節団を自分たちの艦隊指揮官――サモスという名であった――のもとに送り出した。何でもキュロスの命ずることを実行するためである。[5]そこでサモスは、三段櫂船20と5艘を率い、これを帯同してエペソスに、キュロスの艦隊指揮官のもとに航行して、万事これに協力することにした。他方、〔ラケダイモン人たちは〕陸兵800をも派遣することにし、嚮導者にケイリソポスを任命した。蕃族の艦隊の嚮導の任に当たっていたのはタモスで、彼は金をかけて整備された三段櫂船50艘を率いていた。そして、ラケダイモン勢が寄港するや、両艦隊は船出して、キリキアまで航路を取った。[6]他方、キュロスの方は、アジアからの徴募兵ならびに傭兵1万3000人をサルディスに集結させ、リュディアならびにプリュギアそれぞれの管理者として自分の同族のペルシア人たちを任命し、イオニアならびにアイオリス、さらにはその近隣地域のそれには、タモス――信頼の置ける友であったが、生まれはメムピス人であった――を〔任命した〕。そしてみずからは、軍を帯同してキリキアとピシディアまで先導した。この地の住民たちの一部が離反したとの話を広めてである。[7]ところで、アジアからの将兵は全部で7万――このうち騎兵は3000――であったが、ペロポンネソスおよび他のヘラスからの傭兵は、1万3000であった。[8]嚮導したのは、アカイア勢を除いて、ペロポンネソスからの兵はラケダイモン人クレアルコス、ボイオティアからの兵はテバイ人プロクセノス、アカイア勢はアカイア人ソクラテス、テッサリア勢はラリッサ人メノンであった。[9]また、蕃族のうち、補佐役の嚮導権を握ったのはペルシア人たちであったが、全軍を嚮導したのはキュロスその人で、彼は嚮導者たちには兄王に向かって攻め上ると明かしたが、大衆には隠していた。この出征の重大さに、〔大衆が〕自分の目論見を見捨てることのないように用心したのである。だからまた、行軍中も来るべき時を見越して、将兵たちをちやほやして、自分も共同者であるとの態度を示し、有り余る補給物資で厚遇したのである。 第20章 [1]こうして、リュディアとプリュギア、さらにはカッパドキアの国境地帯を通過して、キリキアの国境、つまり、キリキア門に向かう進入路に到着した。しかしこの道は、狭く険阻で、〔長さは〕およそ20スタディオンあり、しかもこれに両側から隣接しているのが、大きくて取りつきがたい高山であった。さらに、これらの山並みのそれぞれの部分から、城壁が道まで延び、この道をふさいでいくつかの門が建てられていた。[2]これらの門を通って軍を引率しながら、とある平野――美しさの点でアジアにあるそれのいずれにも引けを取らない――に侵入した。これを横切って、キリキア最大の都市タルソスに進軍すると、たちまちこれの征服者となった。対して、キリキアの権力者であるシュエンネシスは、敵勢の軍の大きさを耳にして、大いに窮地に陥った。敵し得ないからである。[3]そこで、キュロスが彼を呼びつけ、信義をかわしたあと、彼に拝謁して、この戦争の真意を聞いて、アルタクセルクセス攻撃に従軍することに合意し、息子の一人を彼といっしょに派遣し、キリキアの充分な従軍兵をキュロスに与えた。というのは、この人物は自然本性に抜け目のない男で、運命のおぼつかなさに備えて、もう一人の息子をひそかに大王のところにやって、大王に向けて軍勢までも集結していると暴露させたのである。それゆえ自分はやむを得ずキュロスとの共闘に参加するが、これに好意を〔……〕、機会があれば、これを見捨てて大王に従軍する、と。[4]一方、キュロスの方は、20日間、タルソスで軍勢を休養させた。その後、彼が転進を始めたとき、大衆はこの出征がアルタクセルクセスに向けてのものであることに感づいた。そして、道のりの長さや、敵性民族――この中を通って行軍を続けざるを得ない――の多さをおのおのが数え上げて、完全に腹を立てた。というのは、バクトリアまでの道のりが4か月の宿営になること、大王によって40万以上の軍が集結せられたことが知れ渡ったからである。[5]そのために彼らは戦々恐々となって腹を立て、怒りのあまり嚮導者たちを捕まえて、自分たちを裏切ったとして殲滅しようとした。しかし、キュロスが全員に懇願し、この遠征軍を動員したのはアルタクセルクセスに向けてではなく、シリアのとある太守に向けてだと確言したので、将兵たちは納得し、より多くの報酬を受け取って、もともとの好意に落ち着いたのである。 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