11章-20章
第21章 [1]かくて、キュロスは、キリキアを通過した後、イッソスという都市に到着した。この都市は海浜にあって、キリキアの最も端の都市である。同じころおい、ラケダイモン勢の艦隊もこの都市に寄港し……下船してキュロスと遭遇し、彼に対するスパルタ人たちの好意を伝え、ケイリソポス麾下の陸兵800をも上陸させて引き渡した。[2]これはキュロスの友たちが傭兵として派遣したかのように装ったが、真実には、万事、監督官たちの考えで実行したことであった。しかしラケダイモン人たちは、いまだ戦争を公然とは引き受けておらず、目論見を秘匿したままであった。戦争の帰趨をうかがっていたのである。しかしキュロスは、軍を帯同して転進し、シリアへと行軍を開始し、艦隊指揮官たちにも全艦でもっていっしょに沿岸航行するよう命じた。[3]かくて、いわゆるピュライ〔pyleの複数で「門」の意。山峡の隘路が多くこの名で呼ばれる。〕に至り、その地が守備隊不在なのを見出して、大喜びした。というのは、ここを先に占拠している者たちがいるのではないかと、大いに思い煩っていたからである。それほどこの地の地勢は狭く険阻であって、ために、寡勢でもって容易に守備できたのである。[4]というのは、山々が相互に接近していて、一方の山は語るに足るほど切り立った崖を有し、もう一方の山は道のすぐそばから始まって、この地方一帯の中の最高峰で、アマノス山と呼ばれて、ポイニキアに沿って延びていた。さらに、山と山の中間地は、長さおよそ3スタディオンを有し、完全に城壁を築かれて、隘路を閉ざす門まで有していた。[5]ところで、キュロスはこれらの門を危なげなく通過し、残りの部隊はエペソスに立ち返るよう派遣した。内陸部を行軍するため、もはやこれからの自分には無用だったからである。こうして20日間行軍して、タプサコスという都市に到着した。この都市はエウプラテス河畔にある。[6]ここに5日間駐留し、必需品の潤沢さと糧秣あさりの戦利品とによって軍を手なずけたあとで、軍会(ekklesia)を召集し、このたびの出征の真意を明かした。ところが、将兵たちがこの言葉を受け容れることに反発したので、自分を見捨てないよう全員に懇願し、他に大きな贈り物ばかりか、彼らがバビュロンについた曉には、兵士一人につき銀子5ムナを与えるとまで公約した。それで、将兵たちは希望に陶酔して、説得されて追随することにした。[7]そこでキュロスは軍にエウプラテス河を渡河させ、休みなく行軍を急かせ、バビュロニアの国境地帯に到着して、軍を休養させた。 第22章 [1]対して、大王アルタクセルクセスは、キュロスが自分に向けてひそかに出征軍を集結させているということは、かねてよりパルナバゾスから聞き及んでいたが、この時には彼の攻め上りを聞き及んで、至るところから軍勢をメディアのエクバタに呼び寄せた。[2]しかし、インドやその他の民族からの軍勢は、地域が遠く離れていたために、遅れたので、動員された征討軍のみを帯同して、キュロスを迎え撃つために進発した。将兵たちは騎兵隊を含めて全部で40万を下らなかったと、これはエポロスの主張しているところである。[3]かくして、バビュロニア平野にやって来るや、エウプラテス河畔に軍陣をしいた。ここなら軍用行李を残置できると思案したのであった。というのは、敵勢が遠くないと伝え聞いて、敵の敢行の猛烈さを予想したからである。[4]そこで、長さ60プウス、幅10プウスの塹壕を掘り、車蓋馬車(harmamaxa)で城壁のようにぐるりを囲った。こうして、この陣屋の中に軍用行李と無用な群衆とを残置し、ここには充分な守備隊を配備し、自分は遊撃隊を引率して、近くにいる敵勢を迎撃せんとした。[5]対して、キュロスは、大王の征討軍が接近するのを眼にするや、ただちに自分の部隊を戦闘配置につかせた。このとき右翼は、エウプラテス河沿いに位置取りをしていたが、これを受け持った陸兵はラケダイモン勢と傭兵の一部で、この全体を指揮したのはラケダイモン人クレアルコスであった。これと共闘したのは、騎兵のうちパプラゴニアからいっしょに出陣した者たち、1000以上であった。もう一方の部分を受け持ったのは、プリュギアならびにリュディアからの将兵、なおその上に騎兵の約1000で、これの指揮を執ったのがアリダイオスであった。[6]キュロス本人は、密集隊の真ん中に位置を占め、ペルシア人ならびにその他の蕃族の最強の兵およそ10000を率いた。そして、彼に先導されたのは、騎兵のうち最美に武装を凝らした1000騎で、胸甲とヘラス式の両刃剣を身に帯びていた。[7]対してアルタクセルクセスの方は、全密集隊の前に大鎌つき戦車を少なからざる数配置した。そして両翼にはペルシア人の嚮導役を配置し、中央部には、5万を下らぬ選抜隊を率いた自分が位置を占めた。 第23章 [1]かくて、両軍がお互いにほとんど3スタディオンの隔たりまで来たとき、ヘラス勢は吶喊歌を歌いながら、先ずはしずしずと前進した。しかし射程内に入るや、全速力で突進した。ラケダイモン人クレアルコスが、彼らにそうするよう下知しておいたのである。というのは、長い距離を走らないことで、戦闘者たちが身体的に無傷で戦闘に臨めるよう気づかい、接近してから駆け足で攻め込むことで、弓の飛弾やその他の飛び道具の飛弾を飛び越えさせられると思ったのである。[2]こうして、キュロス麾下の将兵が大王の軍隊に接近したとき、これに向けて放たれた飛弾の多さたるや、40万から成る軍勢から放たれたら、さもありなんというほどであった。しかしながら、ごく短時間、パルトン槍による応酬の後、以降はすぐに白兵戦による戦いとなった。[3]ラケダイモン勢は、その他の傭兵たちとともに、初回の交戦からすぐに対向戦列の蕃族を、大楯の威力と手練とによって撃破した。[4]というのは、後者が身を庇っていたのは小さな楯であるばかりか、手にした武具の多くは軽装備であり、かてて加えて、戦争の危険に無経験であった。これに対してヘラス勢は、ペロポンネソス戦争の長きに渡って、持続的に戦争状態にあったので、経験の点ではるかに凌駕していた。それゆえ、すぐに対向戦列を背走させ、追撃に移り、蕃族の多くを殲滅したのである。[5]ところで、戦列中央には、たまたま両軍とも、大王のための戦闘者たちが配備されていた。そのため、何が起こったかを知ると、お互いに進発した。功名心から自分の力で戦闘に決着をつけようとしたのである。というのは、どうやら、運命が兄弟の嚮導権争いを、一騎打ちに導いたらしいのである。ちょうど、むかしのあの、悲劇にも作られた、エテオクレスとポリュネイケスとにまつわる敢行の模倣のように。[6]こうして、先制したのはキュロスで、離れたところから投げ槍を投げ、大王に命中させて、これを地上に転落させた。これをすぐに、取り巻きの連中が引っさらって、戦闘の場から運び去った。そして、大王の嚮導権を受け継いだのが、ペルシアの大夫ティッサペルネスで、かつは大衆を激励し、かつはみずからも華々しく闘った。こうして、大王の身に起こった劣勢を立て直し、選抜隊を帯同してありとあらゆる場に出現して、対向戦列の多数を殲滅し、その結果、彼の出現は遠目にも際だっていた。[7]対してキュロスは、自軍の優勢に勇み立ち、敵勢の真っ直中に強攻をかけ、初めは、惜しみない敢行によって多数を殲滅したが、やがて、早まって危険を冒し、遭遇したペルシア人の一人に致命的な打撃を受けて斃れた。そして彼が抹殺されるや、大王の軍勢は戦闘に勢いづき、最後には、数と敢行とにものにをいわせて対向戦列に辛勝した。 第24章 [1]別の部署では、キュロスの太守で嚮導の任に配置されていたアリダイオスが、初めは、攻め寄せる蕃族を頑強に受けとめていた。が、やがて、敵密集隊がはるかに長く延びて取り囲まれ、キュロスの最期を伝え聞いたので、自隊の将兵たちを帯同して私有の宿駅――不都合でない避難所を有していた――の一つに逃げた。[2]他方、クレアルコスの方は、中央戦列、ならびに、同盟者たちの他の部分が破られたのを目撃して、追撃を中止し、将兵たちを呼び戻して態勢を立て直した。敵の全軍がヘラス勢に攻め寄せて包囲され全滅させられることのないように用心したのである。[3]対して大王麾下に配属された将兵たちは、対向部分を背走させると、先ずはキュロスの軍用行李を掠奪し、次いで、すでに夜になりかかっていたにもかかわらず、集結して、ヘラス勢に向けて進発した。こなたはこの攻撃を雄々しく受けとめたので、蕃族はわずかの間は踏みとどまったが、やがて敢行と手練をくらって敗走に転じた。[4]クレアルコス隊は蕃族の多数を殲滅したが、すでに夜になっていたので、退却して勝利牌を立て、ほとんど第2夜警時のころ、陣屋に急いだ。[5]戦闘がこういう結末を迎えたために、大王の部隊の1万5000以上が殲滅されたが、その大部分を殲滅したのは、クレアルコス麾下に配属されたラケダイモン勢および傭兵隊であった。[6]他方の部分では、キュロスの将兵たちのおよそ3000が斃れた。しかしヘラス人たちのうち、言い伝えでは、殲滅された者は誰もおらず、負傷した者もわずかだったという。 [7]こうして夜が過ぎると、宿駅に逃走していたアリダイオスが、クレアルコスのもとに数名を急派し、将兵を自分のところに引率し、海に臨む地域まで共同で無事のがれようと呼びかけた。というのは、キュロスが抹殺され、大王の軍勢が優勢であるので、アルタクセルクセスの王権の解体のために出征を敢行した者たちには、数多くの戦闘が待っていたからである。 第25章 [1]そこでクレアルコスは、将軍たち、ならびに、嚮導の任に配置されている者たちを召集し、現状について評議した。しかし、彼らがこういったことに関わっているときに、大王からの使節団がやってきた。これの主席使節はヘラスの人士で、名はパリュノス、生まれはザキュントス人であった。で、評定の場に案内されて言うには、大王アルタクセルクセスはこう言ったという。――キュロスを殺して余が勝利したゆえ、汝ら武器を引き渡して、わが門前に進み出て、いかにすれば余に心服して何か善きことのおこぼれに与れるかを探し求めよ、よ。[2]しかし、この口上が告げられると、将軍たちはめいめいが、レオニダスと同じような回答を与えたのであった。それは、時あたかも彼が、テルモピュライの通路を守備しているとき、クセルクセスが伝達官たちを急派し、武器を棄てるよう命じた時のことである。[3]というのも、この時レオニダスは大王に伝達するようにと言ったのである、――われらがクセルクセスの友であるなら、この武器を携えていることでより善き同盟者となろうし、御身と戦争せざるを得ぬなら、これを持ってより善く闘うことになると信ずるゆえに、と。[4]で、この件について、クレアルコスも同じように応えたとき、テバイ人プロクセノスが言った、――今、われわれは他のものはほとんど失ってしまって、われわれに残されたのは勇徳と武器のみである。だから、われわれは信ずるのである、これを守るなら、勇徳もわれわれにとって役に立つであろうが、引き渡してしまっては、これ〔勇徳〕さえもわれわれの助けにはなるまい、と。それゆえ、大王に言うよう彼は命じた、われわれに対して何か悪事を企むなら、こ〔の武器〕で御身と戦い抜こう……共通の善事をかけて、と。[5]さらに、嚮導の任に配置されていたソピロスも言ったと言われている、――大王の言葉には驚いた。なぜなら、自分がヘラス人たちよりも強いと思っているなら、軍を帯同してやって来て、われわれから武器を取り上げるがよかろう。しかし説得を望むなら、これと引き替えにいかなふさわしい謝礼を寄越すつもりか、言ってもらおう、と。[6]彼らに続いて、アカイア人ソクラテスが言った、――どえらいこけおどしを大王はわれらにかけてくる。それは、われわれから手に入れたいと望むものを、即座に要求するくせに、これと引き替えに喰らわせられることは後で払うと言い張るのだから。要は、誰が勝者かを知らずに、あたかも敗者に対してのように、下命されたことを実行するよう命じているのなら、数多の軍を帯同してやって来て、勝利がいずれの側にあったかを思い知るがよい。しかし、われわれが勝利者であることをはっきり知っていながら虚言しているなら、これから先の約束事についてどうして彼を信じてよいであろうか、と。[7]とにかく、伝達官たちはこういった回答を受け取って、引き揚げていった。対してクレアルコスの部隊は、宿駅に転進した。そこは、無事助かった軍隊が退却することになっていた場所である。そうして、同所に全軍が集結した後、海に至る退却路について、また、その道筋についても共同で評議した。[8]こうして、進撃を開始したと同じ道で撤退しないのがよいと彼らに思われた。なぜなら、その道にはまったく人気がなく、敵軍が追尾する中で、糧秣を手に入れられるとは考えられなかったからである。そこで、パプラゴニアに転進することに決し、彼らは軍を帯同してパプラゴニアに向けて進発し、ゆるゆると行軍した。同時に糧秣を調達するためである。 第26章 [1]一方、大王の方は、傷がよくなり、相手の撤退を聞いて、相手は敗走するものと信じて、軍を帯同して急いで進発した。[2]そして、相手がゆっくりと行軍していたので、追いついたが、その時はすでに夜であったので、近くに陣地をこしらえ、夜明けと同時にヘラス勢が軍隊に戦闘態勢を取らせたので、伝達官たちを派遣して、さしあたって3日間休戦にした。[3]この間に折り合いがつき、大王は領土を友邦として提供し、海への案内人たちを与え、通過する者たちに市場を提供すること、対してクレアルコス麾下の傭兵たちならびにアリダイオス麾下の全員は、領土を通過中何らの不正もはたらかずに行軍すること、となった。[4]その後、両軍は行軍を開始し、大王は軍をバビュロンに率い去った。そして、この地で、戦闘において武勲をたてた者たちのうち、それぞれ手柄に応じて報償を与え、全員の中で最善者はティッサペルネスなりとの決定を下した。それゆえ、大きな贈り物で彼を讃えるとともに、自分の娘を伴侶に与え、それ以降、最後まで彼を最も信用のおける友として持ち続けた。さらに、彼には、キュロスが海浜の太守たちを支配していた嚮導権をも与えた。[5]そこでティッサペルネスは、大王がヘラス人たちに怒りを持っているのを見て、これに申し出た、――全員を殲滅しましょう、自分に軍勢を与え、アリダイオスと仲直りしてくださるなら。そうすれば、やつによってヘラス人たちは行軍中に裏切られることになるでしょう、と。そこで大王は喜んでこの言葉を受け容れ、全軍から自分の選びたいだけの最強の兵を選抜することを彼に赦した。[6]〔……こうしてティッサペルネスはクレアルコスの部隊に追いつき、彼と〕他の嚮導役たちには、〔自分のところに〕出向いて来て、面と向かって言葉を聞くように〔伝えた〕。そこで、クレアルコスとともに将軍たちのほとんど全員と、旅団長(lochagoi)の20人ばかりとがティッサペルネスのもとに出向いていった。さらに、将兵たちで市場に行きたいと望んだ者たちのおよそ200人ばかりもついていった。[7]すると、ティッサペルネスは、将軍たちは幕屋の中に呼び入れたが、旅団長たちは門前で過ごした。そして、少したって、ティッサペルネスの幕屋から赤旗が揚げられるや、彼は内にいた将軍たちを逮捕し、旅団長たちは、指図を与えられていた連中が襲いかかって殲滅し、他の者たちは、市場にやってきていた将兵たちを殲滅した。その中から一人が自分の陣屋に逃れて、この災禍を明らかにした。 第27章 [1]そこで、将兵たちは何が起こったかをこの男から伝え聞いて、その時は驚倒して、全員が秩序もなにもなく武器を執って立ち上がった。指揮官なしの状態になったからである。しかしその後、誰ひとりお互いにぶつかり合うことなく、より多くの将軍たちを選び、全体の嚮導権を一人に――ラケダイモン人ケイリソポスに引き渡した。[2]こうして、この者たちが軍隊に行軍の態勢をとらせ、当初最善と彼らに思われたとおり、パプラゴニアめざして先導した。一方、ティッサペルネスは、将軍たちを捕縛してアルタクセルクセスのもとに送った。そこで大王は、他の者たちは殲滅したが、メノン一人は放免した。この男だけは、同盟者たち〔同僚将軍団〕と党争していたので、ヘラス人たちを裏切るだろうと思われたからである。[3]他方、ティッサペルネスは、軍を帯同してヘラス勢を追尾しながらまとわりついたが、正面では敢えて攻撃態勢をとらなかった。自棄になった兵たちの向こう見ずさと死に物狂いを恐れたからである。しかし、好都合な場所ではぶつかっていったが、何ひとつ大きな害悪を相手に見舞うことはできなかったものの、小さな損害を与えつつ、いわゆるカルドゥウコイ〔ニニベの北、ティグリス河上流域左岸に住む山岳民族。いわゆるクルド人のこと。〕民族の地域まで追尾していった。[4]そのためティッサペルネスはもはや何らの作戦行動もできず、軍を帯同してイオニアに撤収した。対してヘラス勢は、5日間、カルドゥウコイ人たちの山岳地域を行軍し、現地人――好戦的で土地に精通した――たちによって多くの損害を被りながらである。[5]ところで、この人たちは、大王の敵対者であったが、自由人にして戦争のことも修練し、とりわけ最もよく熟練していたのは、投石具によってできるかぎり大きな石を投げつけることと、巨大な弓を用いることであって、これによって右手上方からヘラス勢に深手を負わせ、多数を殲滅し、少なからざる数をさんざんな目に遭わせた。[6]というのは、その矢は通常2ペキュス以上あって、軽楯と胸甲とを身にまとっていたので、いかな武具もその強力さを持ちこたえるだけの強さを持たなかった。これほど大きな矢を使っていたので、ヘラス勢は放たれた矢弾に投げ紐をつけて、〔サウニタイ式〕投げ槍として使って投げ返したと言われている。[7]こうして上述の土地を艱難辛苦のすえ通過して、ケントリテス河〔ヴァン湖の南、ティグリス河の東の水源。〕にたどりついた。この河を渡ってアルメニアに侵入。ここの太守がティリバゾスであって、これと休戦条約を結んで、この領地を友邦として進軍していった。 第28章 [1]しかし、アルメニアの山岳地帯を行軍中、大雪に見舞われ、全滅の危機に瀕した。というのは、初め、天候が乱れ、空から少しずつ雪が降り始めたが、そのために行軍が前進を妨げるということはなかった。しかし、その後、風が起こると、次第次第に強まって、地面を覆い隠し、もはや道路も土地の特徴も皆目見分けられなくなった。[2]そのため、意気阻喪と、さらには恐怖までが部隊を包み込んだ。雪の多さのせいで前進できなくなったのである。しかも、雪が最高潮に達するや、多くの雹をともなった大風が起こり、このため顔面が吹きつけられて、全軍が立ち往生せざるを得なくなった。おのおのが行軍のひどさに堪えられなくなって、その場その場で、留まらざるを得なくなったのである。[3]こうして、ありとあらゆる必需品に行き詰まり、その日とその夜とは、野天で徹夜したが、多くの災悪が引き続いた。というのは、間断なく降り続いた雪の多さのせいで、武器はすべて覆い隠されたばかりか、身体は寒気のせいで冷え切ってしまった。そのため、災悪の猛烈さのせいで、夜どおし、眠れなかった。こうして、火を燃やして、これのおかげでたまさか助かった者たちもいるが、寒さに身体中取りつかれて、あらゆる助けを断念した者たちもいる。彼らの突出部がほとんどすべて壊死していたからである。[4]こういうわけで、その夜が過ぎてわかったのは、荷駄獣の大部分が駄目になったばかりか、兵士たちも多くは落命し、少なからざる者たちが、魂は意識を持っていたものの、身体は寒さのせいで身動きできなかった。さらに何人かは、冷えと雪の反射のせいで眼が見えなくなっていた。[5]ついには、全員が壊滅していたことであろう、――もしも、わずかに進んだところで、必需品に満ちた村落を見つけられなかったとしたら。この村落は、荷駄獣のための下降路には隧道を有し、人間たちのためのには梯子で……家の中で家畜も飼料で養われていたが、人々には必要品がふんだんにあった。 第29章 [1]この村落に8日間留まったのち、パシス河にたどりついた。ここではまる4日間をすごしたのち、カオイ人たちとパシス人たちの領地を行軍しようとた。しかし、現地人たちが自分たちに攻めかかってきたので、闘いによってこれに勝利し、多数を殲滅し、自分たちは現地人たちの所有物――善きものに満ち満ちていた――を略取し、この領地で15日間に渡って時を過ごした。[2]さらにここから転進して、いわゆるカルダイオイ人たちの領地を7日間かけて通過し、ハルパゴスと名づけられた河にたどりついた。〔この河は〕幅4プレトロンあった。ここからさらにスキュティノイ人たちの〔領地〕を通って前進するときは、平野の道を通過したが、ここでは3日間休養した。ありとあらゆる必要品が潤沢に享受できたからである。その後、さらに転進して4日目にギュムナシアと名づけられた大都市にたどりついた。[3]この都市からは、この地方の嚮導の任にあった者が彼らと条約をかわし、海への道案内人たちをつけてくれた。かくて、15日間でケニオン山にたどりつき、先頭を行進していた者たちが海を眼にするや、欣喜雀躍、あまりに大騒ぎしたために、殿にあった者たちは、敵襲と勘違いして、武具に飛びついたほどであった。[4]しかし全員がその場に――海が見えるところに登りつくや、彼らは神々に両手をさしのべ、すでに無事助かったと思って祈った。そして、おびただしい石を一所に持ち寄って、それによって大きな塚を作り、蕃族の〔屍体から剥ぎ取った〕武具を奉納した。この出征の不死なる記念を残したいと望んだのである。また、道案内人には銀製の容器(phiale)とペルシアの衣服とを与えた。道案内人は、マクロネス人たちの方への道を彼らに指し示してから立ち去った。[5]こうしてヘラス人たちはマクロネス人たちの領地に侵入し、条約を結び、保証として、相手からは蕃族ふうの投げ槍を受け取り、自分たちはヘラスふうのそれを与えた。こうするのが、自分たちにとって最も確実な保証として先祖から受け継いできたと蛮族たちが主張したからである。こうして、彼らの国境地帯を通過するや、コルキス人たちの領地にたどりついた。この地に、彼らを攻撃するために現地人たちが集結したので、これを戦闘で制覇して多数を殲滅し、自分たちは堅固な丘を押さえて、この領地を破壊し、戦利品をここに集めて、たっぷりと休養した。 第30章 [1]さらに、この地域には、おびただしい蜂群も見つかり、これによって高価な蜜蜂の巣が手に入った。しかし、これを味わった者たちは、妙な症状にとりつかれた。すなわち、これに手を出した者たちは意識不明になり、死人のようになって地面に倒れたのである。[2]しかし、多くの連中が、それを口にする甘美さに食したので、たちまち多数の卒倒者が発生し、あたかも戦争で背走が生じたようになった。そのため、その日は軍は意気阻喪した。思いがけない多数の不運事に満たされたからである。しかし次の日には、同じ頃おいになると、全員が我に返り、少しずつ正気を取り戻して、立ち上がり、身体も、服薬して助かった者たちと同じような状態になった。[3]こうして、3日間休養をとるや、ヘラスの都市トラペズウス――シノペ人たちの植民市であるが、コルキス人たちの領地内にある――まで前進した。ここでは30日間を過ごし、現地人たちからは華々しく贖罪をしてもらい、自分たちはヘラクレスならびに救主ゼウスに対する供犠と体育競技とを執り行った。こここそは、アルゴ号とイアソン一統とが寄港したと伝えられる土地である。[4]ここでは、嚮導の任にあったケイリソポスを、輸送船や三段櫂船を求めてビュザンティオンに急派した。彼が、ビュザンティオンの艦隊指揮官アナクシビオスと友であると言ったからである。そこで、この男の方は小舟で送り出した。その一方で、トラペズウス人たちから漕艇のうち輸送船2艘をもらって、近隣蕃族を地上からも海上からも荒らした。[5]こうして30日間ケイリソポスを待っていた。しかし彼は遅れるばかりで、人々の糧秣が少なくなったので、トラペズウスから転進し、3日目にしてケラスウス――ヘラスの都市で、シノペ人たちの植民市――にたどりついた。この都市では数日間を過ごし、モシュンオイコイ人たちの民族の地にたどりついた。[6]しかし蕃族が自分たちを攻撃するために集結したので、戦闘で制覇して多数を殲滅した。そのため、〔敵は〕とある堡塁に逃げ込み、そこには7層の樹の塔を持っていたが、ひっきりなしの突撃を開始して、力攻めで攻略した。ところが、この堡塁は、その他の防御施設〔のある諸都市〕の母市であって、ここには彼らの王も住んでいて、最も高い場所を保有していた。[7]また、父祖伝来の慣わしを有していて、〔王は〕全生涯この中にとどまり、ここからあちこち群衆に命令を与えるというのであった。また、最も蕃族的な慣わしだと将兵たちが主張したのは、次のような習慣を説明したことだという、つまり、彼らは女たちとは衆人環視の中で睦み合い、最高の富裕階級の子どもたちは煮た胡桃で養育され、子どものころから全員が背中と胸に入れ墨を彫る、というのである。こういった土地を8日間かけて押し通り、次の都市――ティバレネと呼ばれた――は3日間かけて〔押し通った〕。 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