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[16] では、諸々の卓越性と諸構成要素に関する論は果たしたから、今度は、政治的技術が研究対象となる論争の分野についても述べよう。ところで、弁論家の弁論は三種に区分され、その目的に応じて異なる三分野が対応し、法廷弁論、評議会弁論、そして、いわゆる演示的ないし祝祭用弁論がそれであるが、これらすべての分野において彼は語るに足る人物であるが、とりわけ法廷用争論においてそうである。また、この分野においても、細々した、意想外な、行き詰まった事柄を美しく述べることにかけては、荘重な、大きな、筋の通った事柄を有能に語ることよりも、よりすぐれているのである。だから、リュシアスの能力を厳密に学びとりたい人は、これを祝祭用や評議会用の弁論よりも、法廷弁論から考察するのがよいのである。そこで、諸種の〔弁論〕についてもふさわしいことを述べることが私にできるように、話はここまでにして、弁論の序論、陳述、その他の部分について、話もし、明らかにもしたい。諸種のそれぞれにおいてこの人物がいかなるふうであるかを。ところで種類は、イソクラテスおよびあの人に倣って配列した人たちの気に入るよう区分したうえで、序論から始めよう。 [17] さて、弁論の導入(eisbola)において、この弁論家は誰よりも腕利きであり、最も魅力的な人物だと私が主張するさいに、私が思いを致すのは、美しく言い始めることは容易ではないということである。特に、ふさわしい言い出し方をしたい、思いつきの言葉で述べたくない場合は(なぜなら、最初に述べられる部分ではなく、冒頭に置く以上に効果を発揮するところはどこにもないといった前置きの語の部分、――これこそが言い出しであり序論なのだから)なおさらであり、またこの弁論家が、〔弁論術の〕技術論が推奨し、事態が望む方法をすべて駆使しているのを眼にするからである。すなわち、時には、自己賞賛の言葉で始め、時には、訴訟相手に対する非難から始めるが、たまたま自分が先に非難されている場合には、自分に対するその責めを先ず解消するのである。また、時には、裁判官たちを賞賛し、追従して、自分と事情とに親身にならせ、時には、個人的な弱さと、訴訟相手の強欲さと、この争いが両者にとって対等でないことを示唆する。時には、事件は公的で万人にとって必然的であり、聞き手たちになおざりにされてよいものではないことを述べ、時には、自分は益されるが訴訟相手は不利にすることのできるような他のことをそなえさせる。しかもこれらを簡潔・平明に、有用な思想や時宜をえた箴言や適度な説得推論によって取り巻き、前置きへと突き進み、これによって論証部において述べるはずの事柄を予告し、述べるはずの弁論を聞き手が理解しやすいように準備させたうえで、陳述部へと移行する。すなわち、彼の前置きは、種々の弁論のいずれにおいても、たいてい中間的であるが、前置きだけから始めることもしばしばである。この場合には、序論なしに、陳述部を最初にして本題に入るのである。しかし、この形式で生彩に欠けることなく、動きに欠けることもない。とりわけ、序論における彼の力量にひとは驚かされるであろう、――200編を下回ることのない法廷弁論を書き、どれひとつも、説得力のない序論を書いたこともなく、内容に無関係な始め方をしたこともなく、いや、同じ説得推論を思いついたこともなく、同じ思想内容に陥ったこともないことに思いを致すならば。実際のところ、わずかな数の弁論を書いたにすぎない人たちでさえ、こういう事態に陥っているのが見出される。私が言っているのは、彼らは同じ場所で行進しているということである。もちろん、他人の表現を剽窃しても、ほとんど全員がその所業を恥としないということは、放置しておこう。これに反し、この弁論家は、弁論の一つ一つにおいて、ともかく導入や序論において、斬新であり、何でも望むことを遂行するに有能な人物である。すなわち、〔聞き手の〕好意・傾聴・理解を惹きつけようと望んで、その目的を逸したことは一度もないであろう。それゆえ、この分野においてこそ、彼をば第一人者であるとか、誰の亜流でもないとか、私は言明するのである。 [18] 次に、事実の陳述――この部分こそ、最も多くの配慮と注意を必要とすると私は思う――においては、いかなる弁論家たちよりも文句なく彼が最も優れていると私は考え、彼こそはこの分野の目標であり規準だと私は言明する。また私の思うに、弁論の技術論(そこでは、陳述についてひとかど言うに値することが述べられるのであるが)も、リュシアスによって書かれたものよりほかのものからは教訓や素材が得られたわけではないのである。というのも、陳述そのものが簡潔さ(syntomon)を特に有し、明解さの点で、類を見ぬほど快適にして説得的であるばかりか、同時にまた気づかれぬうちにも信用をたらし、かくして、ひとつの陳述の全体もその部分も、嘘であったり説得力に欠けたりする点が見出されるのは容易ではないほどである。言われた内容はこれほどの説得力と麗しさを有しており、真実であれ拵えものであれ、聞き手たちにそれと気づかれることはないのである。したがって、ホメロスがオデュッセイアをほめて、ありもしないことを述べ且つ拵えるに説得的な者といったそのままを、リュシアスのためにいってもよいように私には思われる。 多くのうそを言いながら、真実と同等のことを述べた。〔オデュッセウス、19巻203行〕 すべての人に、また、なかんずくこの部分を、リュシアスを例証に訓練をしようとする人たちが練習するよう私は勧めたい。なぜなら、この人物を最高度に模倣するなら、この分野において最も優れた作品を提示しうるだろうから。 [19] さて、事柄を説得する際には、この人物は以下のごとくである。そこで、いわゆる技術に基づく説得〔証拠立て〕からはじめて、各々の種類について別々に話をしよう。すなわち、それは事柄(pragma)、感情(pathos)、人柄(ethos)の三つに分けられるが、事柄による〔説得〕を発見することにかけては誰にも劣らず、これを言い表すことの可能なのは、リュシアスであった。というのも、この人物は尤もらしさ(eikos)の最善の想像者であり、また例証(paradeigma)のそれであって、本質的に等しいのはいかなる仕方によってか、あるいは、異なっているのは〔いかなる仕方によってか〕という、事実に随伴する徴証を抽出することにかけて明解至極の判定者であるばかりか、〔それを〕証拠(tekmerion)なりとの思いにまで導くことにかけても、強力至極な人物であった。また、人柄に由来する信用をもまったく言うに値するほどに備えさせたように私には思われる。なぜなら、時には、生活と本性をもとに、時には、昔の行為や流儀をもとに、信ずるに足る人柄をそなえさせるからである。しかし、このような素材を事実からは得られない場合は、みずからが人柄づくりをし、信頼にたる有用な人柄を言葉によってそなえさせ、彼らの流儀を安全なものと前提し、適度な感情を結びつけ、しかも、適正な説明を付して、不遇に見舞われたことを思慮する人物として紹介し、言葉においてであれ行動においてであれ、不正者には憤慨する者、正義を流儀とする者となし、こういった人たちにそなわったこと――適正な(善良な)人柄や適度な人柄が現れる源――を何でもそなえさせるのである。しかしながら、感情はやや手ぬるく、増幅法(auxesis)も誇張法(deinosis)も哀訴法(oiktos)も、こういった人たちにそなわっているかぎりのことをまったく若々しく力強くそなえさせることはできていない。これだけはリュシアスに求めるべきではない。そして、結語においても、論述の要約的部分は適度・魅力的に数え上げるのだが、あの感情的部分――悲嘆や憐憫や恐怖や、こういったものに兄弟のものが存在する部分――への割り当ては、適切さには幾分遠いのである。 [20] 以上のようなものこそ、リュシアスの特徴であり、私が彼について評価するところのものである。だが、これに反して他に知っていることのある人がいるなら、言ってもらいたい。それがより説得なことだとしたら、その人に大いに感謝したい。だが、私たちが以上のことをふさわしく説得し終えたにせよ、判断に過ちを犯したにせよ、望む人がよりよく学べるよう、あの人の書き物によって検証してみたい。一つの弁論を取り上げて(というのは、多くの事例を扱うだけの余地はないから)、これによってあの人の流儀と力量とを明示してみたい。教養ある適度な魂には、長い弁論の中の短いもの、多くの弁論の中のわずかなものが事例となると思うからである。さて、この弁論は後見人問題に関するもので、「ディオゲイトンに対して」との表題がつけられているが、その梗概は次のごとくである。 |