title.gifBarbaroi!
back.gifモハメットに基づくウゥアレースの判断

ギリシア占星術文書目録4350_189

競馬場について





[底本]
TLG 4350 189
Peri; iJppodromivou (e codd. Vat. gr. 1056, fol. 177)
Astrol.

Date of manuscript = A.D. 14
J. Heeg, Codices Romani [Catalogus Codicum Astrologorum Graecorum 5.3. Brussels: Lamertin, 1910]: 127-128.



5.
(127)

第18。競馬場について

 土星と水星と金星は青系の(kuvanoV)部類、つまり青緑色(bevnetoV)に帰属する。火星と月は緑系(cloavzwn)〔つまり〕黄緑(pravsinon)に〔帰属する〕が、木星は両者に共通である。これらの星々の基本方位、基本方位に続く点、固有の宿ないし昂揚点ないし区界において (128) 吉星たちによって区切られ、あるいは衝になる、あるいは木星の三分となる点が、ホーロスコポスが推測する部分において、競技の刻限に勝利をもたらす。また、月が、そこから流出する星も、競技について恋する者を明らかにする。だが、月が合になる沈むもの?や星は、訴訟相手を〔明らかにする〕。先に生じた合は青緑色のものらに帰着するが、満月は黄緑色のものらに〔帰着する〕。

2019.05.10. 訳了


[惑星の色]
 錬金術における惑星と金属との対応は、以下のとおりである。
planet_color.jpg  月:銀
 水星:水銀〔ギリシア語では文字通りuJdravrguroV→白〕
 金星:銅〔緑青→緑〕
 太陽:金
 火星:鉄〔鉄錆→赤〕
 木星:錫〔空気→青〕
 土星:鉛〔土→黒〕

 錫は、ホメーロスやピンダロス(それぞれ前9世紀、前5世紀頃の詩人)の古註では水星に当てられていたが、紀元500〜700年に水星の記号が水銀に当てられ、錫は、それまでエレクトロンに与えられていた木星の記号を採るようになった。錫は紀元1世紀のプリニウスに plumbum album(白い鉛)として出てくるように(大槻真一郎『錬金術辞典』)、最も重い金属である(四元素の土に配当される)鉛と対照的な金属として空気に当てられた。

[色の象徴]
 天と地の戦いで青と白は赤と緑に対抗し、連合する。キリスト教のイコノグラフィー、とくに、ドラゴンと聖ゲオルギウスとの戦いの絵がこのことを証明している。ビザンティウムの競馬場で争う戦車の4組の一方は、赤か緑、もう一方は、青か白い服を着ていた。……あらゆる点で、この東ローマの競技は、高い宗教的、宇宙的な意味をもつものと信じられる。どれも神聖な劇場を形成し、内在的と超越的、天と地の対立を演じていた。(『世界シンボル大事典』)

[キルクス=サーカス]
circus_maximus.jpg  KivrkoVは「輪、円形」の意。ローマで主に戦車競走が行われた長円形の競技場。最も古く最大の規模を誇ったのはキルクス・マクシムス〔右図〕で、数々の技祭の中心となり、帝政期には25万人の観客を収容(約650 m x約150 m)、走行コースは1500 mであった。この他、前221年に監察官C・フラーミニウスが建設したフラーミニウス競技場Circus Flaminius (約400 m x約260 m)や、力リグラ帝およびネロー帝がウァーティカーヌス丘に造営したガーイウス競技場 Circus Gaii et Neronis (約 590 m x 約100 m。別名キルクス・ウァーティカーヌスC. Vaticanus、現・サン・ピエトロ大聖堂周辺)が名高い。キルクスで催された各種競技キルケーンセースcircensesのうち、最も評判の高かったのは、2頭立てbigaeもしくは4頭立てquadrigaeの戦車競走で、スピーナspinaと称する中央の島の部分を囲む楕円形の走路を、4〜6台でせり合いながら7周するのが一般的な競技法。スピーナに設置されたブロンズ製の7頭の海豚と7つの卵を倒して周回数を算えた。普通1日に24レースあり、時には100レース行われた。出場選手の組 factio は当初、赤(rJoussa:toi)と白(ajlba:toi)との2組だけだったが、後に青(bevnetoi)と緑(pravsinoi)とが加わり四季の色を表すようになった。さらにドミティアーヌス帝(在位・後81〜96)は、これに紫と金の2組を加えたものの、すぐに4組に戻り、次いで青と緑 の2組の対立となった(この2組はビザンティン時代まで続いていく)。各組の御者、馬丁および戦車は、おのおのの色の衣服を着せられるか、塗られるかした。競技の日が近づくと、ローマ中の人々がこれらの組、特に青組と緑組に分かれて勝負の予想と賭博に熱狂し、町や家での話題といえば、贔屓の御者や騎手のことでもちきりだった。彼らは当時の大スターであり、莫大な賞金を稼ぎ、フォルムに自分の彫像を建てたり、取り巻きを引き連れて街を闊歩しながら狼藉を働いたりした。御者のディオクレースDiodes は3500万セーステルティウスもの財産を遺し、緑組の御者エウテュクスEutychusは力リグラ帝からただ1度の座興に200万セーステルティウスの金を贈られている。赤組の人気御者フェーリークスFelixの葬儀の折、熱烈なファンが火葬の炎の中に身を投げて死んでしまったという話も残っている。とはいえ、彼らの身分はおおむね市民権を持たぬ奴隸に過ぎなかった。

 キルクスはローマのみならずイタリア諸市、ガッリアやヒスパーニアなど属州各地にも建てられ、かたや東方ではアレクサンドレイア、アンティオケイア、コー ンスタンティーノポリスらの諸都市にヒッポドロモスと呼ばれる同様の建造物が設けられた。東ローマ帝ユースティーニアーヌスの頃、コーンスタンティーノポリスのヒッポドロモスでは、戦車競走は年間に100日以上開かれ、1日に数十レースも行なわれていたという。

 なお戦車競走は古来オリュンピア競技祭などギリシア の祭典においても催されており、アクラガースの僭主 テ一ローンやスパルタ一王デ一マラートス (ダーマラー トス)、アテーナイのキモーン、アルキビアデースらの著名人が優勝。後世ネロ一帝も10頭立ての戦車を馭してオリュンピア競技祭に出場した(後67)が、戦車から投 げ出されてゴールまで完走できなかった──とはいえ審査員は帝に迎合して優勝の栄冠を贈っている──。

 ローマ権力者が国民の機嫌をとるべく無料で「パンと 戦車競走をpanem et circenses」提供したことは、ユウェ ナーリスの諷刺詩でも名高い。またキルクスという言葉 は、後代のヨーロッパ諸国では、一般に円形広場や曲馬団の興行場を指す語(サーカス)に転用され、さらにサークル circleやサーキットcircuitなど類縁の名詞が派生した。(松原國師『西洋古典学事典』)

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