親らの活動と外形から、相異なった宮の区分に合致した呼称について
[底本] 1. (85) 暦年の識別以下に述べられるのは、あらゆる民族 ペルサイ人たち、キリスト教徒たち、偶像崇拝者達、ケルタイ人たち、天文学者たち、インドイ人たち が諸々の暦年をどのように把握しているか、ということである。 天文学者たちは主として、暦年を太陽によって把握し、太陽の上昇によって、そこを暦年の初めとして数える。 ペルサイ人たちは諸々の暦年を月によって数え、Moucaravm〔ムハッラム月。アラビア語。ヒジュラ暦の第1月〕を最初の暦年として把握するが、彼らの月の最初は、新月を目にしたとき、そこから計算する。 キリスト教徒たちは諸々の暦年を太陽によって数える。しかしそれが主でないのは、彼らの暦年は365日と1/4〔日〕だからだが、この暦年は太陽によって完成するものではないと言及されている。そこで、この暦年を彼らは、暦年は完全な太陽よりはるかに遠いという条件で、把握している。そして彼らの暦年の初めを天秤宮の真ん中に置いている。もちろん、その月々の初めもセプテムブリオス月〔9月〕から計算する。〔ここで言う「キリスト教徒たち」は、マケドニア暦を使っていた意か???〕 (86) ペルシアの拝火教徒〔ゾロアスター教徒〕たちは太陽の暦年を365〔日〕と余り1/4の2倍で把握する。というのも、彼らの暦年は365日になるからである。??? アイギュプトス人たちは暦年を、ペルサイ人たちと同様に、把握するが、アダムの末裔たる者たちも、前者と同様今も諸々の暦年を数えることをならわしとする。 ヘブライオイ人たちとインドイ人たちとケタイオイ人たちは、主として太陽の諸々の暦年を把握するが、同様に月の諸々の〔暦年〕をも主として〔把握する〕〔いわゆる太陰太陽暦〕。そこでは、暦月の初めを太陽と月との合によって把握するが、そうするのは、昼の中央の前ないしその後に、月が太陽と合になるからである。彼らの暦月の初めは、後に続く日で計算する。 インドイ人たちは自分たちの暦年の初めを、太陽が白羊宮に近くなったときから計算する。しかし(ijsthma:)ないし……に近くなったら、これによってこれを把握する。ヘブライオイ人たちは、自分たちの暦年の初めを把握するのは、太陽が天秤宮に近くなったときによってである。ケタイオイ人たちの暦年の初めは、太陽が主として宝瓶宮に その真ん中か、末端か、初めに 入ったときによってである。 (=Epei; ou\n ou|to)。彼らは暦年を太陽によって、暦月を月によって把握し、太陽と月との暦年の真ん中に、10日が不足し、5日が余ることを発見した???。だから、総計すると、3暦年ごとに1暦月が余ることになる。そこで、これらの第1暦年は余り、つまり13ヶ月である。この暦月〔閏月〕を各民族は個別に、インドイ人たちはガトマサン、ヘブライオイ人たちはエムペイル、ケルタイ人たちはスゥンと呼んだ。??? さて、時と日々の数価における(すべての暦法内にあり、この教えはあらゆる暦法の土台として有益なはずである)考察は述べられたから、知識の他の行動と扱いも、アラエーの暦法において述べられたごとくに、述べられるべきである。アラエーの件の暦法においては60章が当てられたが、第1章の初めもまた、述べられるごとく好機の教えである。 諸々の暦年は、それぞれがあるがままに残されたので、それぞれの〔暦年の〕好機も述べられるであろう。さて、好機は土台であり、諸々の暦年もここにおいて、自余の好機の認知によって支えを有する。しかしその土台は、暦年によって把握される必要がある、例えば、その時に、(87) 大いなる働き 太陽や月の食や、大洪水や、大いなる予言者の出現や、族民の破滅や、幸福者の誕生とかが、この世とか、天界とか、地上において顕現するからである。 紀元第1の紀元は これはペルサイ人たちのもとでは(terivc)と言われるのだが ナブゥコドノソルを起点とする〔新バビロニア王国の祖ナボナッサル Nabonassar が即位した前747年〕。この年の初めもまた、この人物がその初めを定めた。その年の初めは第4日である。その初めはアイギュプトス人たちのキプティデス(KiptivdeV)〔コプト人たち?〕ところで最初であるトート月の初めである。そしてこれらの〔民族の〕諸々暦年をキプティデス人たち(KiptivdeV)が把握する。後者は、ペルサイ人たちが把握するように***そのように暦月をその対話的〔〕において365日と〔把握する〕。またプトレマイオスも、星辰の軌道をその書の中で(muzath:V)と名づけ、この年に含めている。 第2の紀元は、バビュローン王[つまり]ナブゥコドノソルの後、マケドニア人アレクサンドロス〔アレクサンドロス3世(大王)?〕を起点とする。この年を用いるのが上述のキプティデス人たち(KiptivdeV)で、彼らの暦年はペルサイ人たちに基づく。だから、この暦年の初めは、あの者が第1日と定めた時に始まり、それは、ナブゥコドノソルの年の後、トート月の第1日である。この時からアレクサンドロスのそれまで424年が経過した〔ネブカドネザル紀元424年すなわち〕。そして425年こそが、第2の紀元である。プトレマイオスも、恒星の軌道をこの年に置き、アレクサンドリア人タウゥネースも星辰の軌道をこの人の暦法 これこそ規範と名づけられるものである をこの年に置いたのである。 第3の紀元は、ピリッポス〔3世アッリダイオス〕の子アレクサンドロス〔4世。在位316-305 BC〕の時を起点とする。これは Doulkarnavhn と名づけられる。ローマ人たちとシュロイ〔シリア人たち〕とがこの年を用い、この年の周期をもローマ人たちは把握する。さて、(88) この者たちの全時は365日と1/4日である。この1/4〔日〕は、4周年に1〔日〕を満たす。スゥムパト(Soumpavt)月ないしペウルゥアリオン(Feupouavrion)月に加算する。そのため、その時は366日になる。これは(kapisav)と呼ばれるが、ローマ人たちはこれを両性年(bivsextoV, bisextus)と呼ぶ。加算によるこの日を持たない時は(patitav) と言われる。さて、この年の初めは第2日で、これはまた彼らの (Tasirh:)月の初めでもある。その時の初めをも一部の者たちは第6日から把握する???。その者たち〔ユダヤ人〕の月の名前はアダル(=Adavr)であるが、それは、この月において世界の初めが更新されるか、あるいは、初めを得るからである。 このゆえにパタネース???も、その暦法の中で星辰の軌道をこの年に置き、年そのものの始点をアダルに置いたのである。 第4年の紀元。ペルサイ人たちのこの把握の仕方では、この年の初めはモーハメト〔ムハンマド〕がマッカからマディニアイア〔マディーナ〕へと遷行〔アラビア語で「ヒジラ」、英語で「ヒジュラ」と呼ぶ〕した年〔ユリウス暦622年7月16日〕を起点に数えられる。この年の初めは第6日、ムゥカラム〔ムハッラム〕月の初めでもある。この名をそう呼ぶのはアラベス〔アラビア〕人たちである。彼らの諸々の時も月の時〔太陰暦〕で、時〔1年〕は354日と22分。だから20分は3紀年ごとに1日になるが、2分の方は30年ごとに1日になり、結局、30年ごとに11日を満たす。そこで、30年に一度11日……(kapisav)……。(kapisav)のこの時は355日である。〔1年を〕354日とする他の時は、この人たちの名称で(pasitav)である。だから、この年の月々は、2様の仕方で合算される。1つの仕方で数えるのがペルサイ人たち。後者は合算する。後者は、新月を目にした時を起点に初めを把握する。そこで、この合算によって時機は3ヶ月が29日ずつを得る。しかし他の時機は、30日ずつ4ヶ月を得る。この合算が(rJoiavtoucilali)と呼ばれる。このゆえに、一覧に何もない???。しかし天文学者たちは、時の始点から1ヶ月を30日ずつで把握し、その後は29日ずつで〔把握し〕、そうやって時の終わりまで交互に数える。この計算法を(a[mpri alousavt)と呼ぶ。あらゆる暦法の数え方も、この数え方に帰着する。??? (88) ???。(CazhnovV)人(=AbdoulacmanhV)も このひとは(Zantzarh:)の安全・確実な暦法を作った人物であるが 星辰の軌道をこの年に据えた。ところでこの年の初めは第6日、(Kai&avk)(ナブウコドノソルの月の第3月)の第28日である。これを起点とする周期は、マケドニアのアレクサンドロスからこの年まで946年である〔1268〕。 第5の紀元は、自余の王たちの後、メストレ人サキアレーの子イアシアントザレーの時機を起点とする〔1278年〕。これで諸々の時を把握するのが拝火教徒である。この年の初めは3日。その日はファルバディーン〔「フラワシの月」3/21-4/20〕(Farbadivn)の初めである。そしてこの年の初めはカイカケー月(Kaivcakh)の第19日。だから、ナブゥコドノソルを起点としてこの時機まで1280年、マケドニア暦を起点として956年、(Doulkarnavhn)を起点として、カジュラン(Xazuravn)からこの〔年〕まで946年。だから、ラムパウゥアル月(RJampaouavl) の第22日、時の点で、モーアメト年エイジラット月(Eijziravtto)第11日である。暦法の作者(Kasiariv)は、この年に生まれ、その名が(=Abdouloukarivm)の(=Alh:V)である。このアラエーが暦法をこの年に置いた。(CousavmhV Salavr)はその暦法(=Isach:)をこの年に置き、(Feceivr)の暦法はこの年に、(Macciv Magriph:)の暦法もこの年に〔置かれた〕。また(Contzanasssuvrh)という暦法の方は、この年に置かれた。さらにもっと多くの別の暦法の方も、この年に置かれたのである。なぜか? この年は、別のものらに比べて、よりわかりやすかったからである。 2017.12.31. 訳了 [プトレマイオスの王名表] 「天文学上の計算には、さまざまな記年法に基づく年代の数え方に、統一した基準を与える必要があったから」(中山由里子『アレクサンドロス変相』p.316)、プトレマイオスは新バビロニア王国の祖ナボナッサルが即位した紀元前747年を紀元とする年表を用いた。ところが、アレクサンドロス3世(大王)によってアケメネス朝ペルシアが滅び、マケドニア王朝が交替する画期の記述に曖昧さを残した。つまり、ピリッポスからアレキサンドロスへという王位継承が2回続いた(ピリッポス2世→アレクサンドロス3世、ピリッポス3世→アレクサンドロス4世)ため、混乱した。これがアラビアに伝わり、混乱を増大させたのである。
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