ボーロス 生涯と著作
ボーロス断片集
[底本]
TLG 1306 005
Fragmenta, FGrH #263: 3A:9-10.
(Q: 353: Hist.)
Fragmenta
"3a, 263, F"
断片1
CLEM. AL. Strom. 1, 69, 4:
[4]例えばデーモクリトスは、『バビュローン人の倫理的†言説』〔という書物〕を作成した。すなわち、アキカロス(Akikaros)の標柱〔アヒカル物語!!!〕が翻訳されたのを、自分の編著作物の中に編入したと言われているからである。そしてこのことは、彼自身が、「デーモクリトスはこう言っている」と書いていることから証拠立てられるのである。[5]いや、それどころか、どこかで博識を自慢しているやりかたで、自分自身について主張さえするのである。「わたしこそは、同時代人の中で、最も広範囲の事柄を記録しようと、最も広く大地を遍歴し、最も多くの気候風土や土地を眼にし、最も多くの学識者たちに傾聴し、証明を付して図形を構成することにかけては、わたしを凌いだ者はいまだ一人もいない、アイギュプトスのハルペドナプタイ(harpedonaptai)〔「縄を結ぶ人」の意、エジプトの土地測量技師〕と呼ばれる人々さえでさえも。〔外地にいた〕すべての期間のうち、この人たちとともに客地にあったのは5年間だが」。[6]たしかに、彼はバビュローン、ペルシア、アイギュプトスに行き、マゴス僧たちや神官たちに学んだ。また、ピュタゴラスは、ペルシアのマゴス僧ゾーロアステースをうらやみ……。
断片2
PLIN. NH 30, 7:
[7]わたしは、オルフェウスが彼の近隣の人々のところへ魔法をもたらした最初の人であり、彼の迷信は、もしオルフェウスの郷土であるトラキア全体が魔術によって汚されずにはいたかったとすれば、医術から発生したものと信じるだろう。[8]わたしが発見しうる限りでは、魔術について現存する論文を書いた最初の人はオスタネスであった。彼はペルシア王クセルクセスがギリシアに侵入したときこれに随伴し、わたしがこの奇怪な術の種子と呼びたいものを伝播し、道々彼らの旅行のすべての段階で全世界を汚染したのである。オスタネスより少し前にいまひとりのゾロアスターがいたと、もっと注意深い研究者が言っているが、それはプロコンネソスの住人であった。ひとつのことは確かだ。主として、この学問に対する熱心な研究欲をギリシア人の間にひき起こしたのはこのオスタネスであったが、それは彼の学問に対する熱望というよりはむしろ単なる狂気に過ぎなかったのだ。にもかかわらず、昔は、というより実際いつもといってよいくらいだが、学問上の傑出と名声は、そういう学問から求められたことにわたしは気がついている。[9]たしかにピュタゴラス、エンペドクレス、デモクリトス、そしてプラトンはそれを学びに海外へ行った。旅行をしたというよりは亡命したのであるが。そして帰ってからおおっびらにそれを教え、それを彼らのもっとも貴重た秘義と考えていた。デモクリトスはコプト人のアポロベックスとフェニキア人のダルダヌスを解説したが、その著書を入手して、彼らの教説を自分自身の教説の土台にしようとして、後者の墓にまではいりこんだ。これらのものが、とにかく人類に受け入れられ、記憶によって伝えられたということは、歴史におけるこの上ない異常な現象である。そういうものは、徹頭徹尾信頼性にも品位にも欠けているので、デモクリトスの他の著述を愛好する人々は、魔術に関する書物が彼のものであることを否定するほどである。しかし、それはまったく無駄だ。[10]というのは、とくにデモクリトスが、人間の心に魔術の甘美さをしみ込ませたことは間違いないのだから。いまひとつ異常なことは、これら二つの技術、すなわち医術と魔術が時を同じくして栄えていたということだ。デモクリトスは、ヒッポクラテスが医術について説明しているときに、魔術について説明していた。それはわが口ーマの建国300年からギリシアで戦われたペロポンネソス戦争の頃のことだ。[11]なおいま一派の魔術があって、これはモーゼ、ヤンネス、ロタペス、そしてユダヤ人に由来するものだが、これらはゾロアスターから何千年も後に生きていた。キプロスにある派のごときは、なおのこと近頃のものだ。アレクサンドロス大王の時にも、いまひとりのオルタネスによって、この職業の影響力に少なからず追加がなされた。この人物はアレクサンドロスに供奉していたというので尊敬され、全世界を旅行したことには少しの疑いもない。(中野定雄訳)
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2002.11.01.
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