万能者にささげる讃歌から(断片)
[占星医学] 初期においてバビロニア思想とエジプト思想が混じり合ったことを示す別の証拠は、占星医術に求められる。ベロッソスは、ヒッポクラテス派医学の本拠地であるコス島に定住したと言われていたが、初期の占星術はヒッポクラテスの医学文献集に自らの道を見い出していた。エジプトでは、医学が天文学と同じくトトの保護下にあった。トトはヘルメース・トリスメギストスを装って占星術を我がものとした時、当然その保護のもとに占星医術を、あるいは古代ギリシア語で言えば「イアトロマテマティカ」(ijatromaqhmatikav)を取り入れたのである。 前4、3世紀のある段階で、身体部分が宮に割り当てられていた。身体は頭から始まり足で終わり、獣帯は春分点のある雄羊宮から始まり獣帯の順番に進み双魚宮で終わる。このような解剖学的な組織と星との結びつきは、おそらく宇宙的共感の概念、すなわちストア派哲学において重要な役割を果たした、人間を含む宇宙の統一性の概念の影響下にあったギリシア人自身によるものだろう。マクロコスモスとしての宇宙とミクロコスモスとしての人間という考え方は、ギリシアのものであり、主としてストア派の概念である。 ところで、ヘルメス文書の中には、同毒療法とも呼ぶことのできる医学書がある。その全般的な考え方は、身体の特定部分を支配する宮が凶星か悪いアルペクトにある惑星によって影響を受けるというものであった。身体部分は、共感によっても影響を受けて病気になった。その結果、治療は関わりのあるような植物や動物を使って宮の力を増大することを意味した。すでにエジプト医学には古くからの半魔術的治療の十分な蓄えがあった。また星との結びつきはおそらくバビロニアの影響によるものだろう。 バビロニアでも医学は魔術的であったが、それに対してギリシア人は科学的な医学を発展させた最初の民族であり、医学は最古の経験的科学であった。バビロニア人は星と惑星の位置をアスペクトの吉凶という観点で見ていたので、医学的なまじないや魔除けは、天界の好ましい状態に調和するように行われたり選ばれたりしたのである。 (S・J・テスター/山本啓二訳『西洋占星術の歴史』(恒星社厚生閣、1997。2。)p。31-32) [略伝] テッサロス トラッレス〔小アジア〕出身の医師。ローマで活動し、おそらく紀元後79年没。作品は伝存しないが、他の医術著作家たちによってしばしば引用されている。 ガレノス〔c。 129-201〕(10。7 Kühn)は、新しいセクト、それも唯一真実なものを創設したと自慢したネロ〔54-68〕のために著述したと主張している。プリニウス(NH 29。9)は、彼は自分のことを「医者たちを征服した者」と書いていると言う。 新しいセクトとはメソディズムのことであるが、彼が本当にその創設者であるのか否か、また、それをラオディケイアのテミソンに負うのかどうは不明である(後代のメソディストの中には、彼が創設者でないにしても、彼をある意味で先駆者に違いないとみなしたにもかかわらず)。 メソディストの方法とは、正常でない星辰の影響を受けた身体の中の2つの事象のひとつ、緊縮、流れ(あるいは、ある場合には2つの連係)を矯正する治療法であった。メソディストは、メソディストの重要な源泉のひとつとなったエペソスのソラノスのように、理論からの独立の重要性を強調し、カエリウス・アウレリアヌスはテッサロスを攻撃し、方法の背景の説明があまりに空論的だとした。これは、このセクトが内的首尾一貫性を欠いている反映、あるいは、あらゆる医術のセクトの中で許容されていた意見の相違の水準の徴にすぎない。(OCD) 「イアトロマテマティカ」(ijatromaqhmatikav)のテキストである「草木の徳について(De virtutibus herbarum)」は、テッサロスの名前で伝存しているが、これを信ずべき理由は何もない。
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