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back.gifプトレマイオスの『テトラビブロン』要約

論考

月宿と初期の暦

(LUNAR MANSIONS AND EARLY CALENDARS)



[出典]
S. Weinstock,
'Lunar Mansions and Early Calendars',
Journal of Hellenic Studies, LXIX (1949), p.48-69.



第1部.暦の伝統
1.Codex Cromwellianus のテキスト
2.宿の名称とシンボル
3.諸々の前兆
4.諸々の太陰暦
第2部.月の「獣帯」
1.London Papyrus のテキスト
2.アニマル・セット
3.アニマル・シンボルと宿
4.天界と神界の法則
5.要約

 月宿とは、月が眼に見える28夜の間における、白道上にある28の星座ないし単独の星辰のことである。天文学上の単なる物珍しさとして、これらは魅力的でも注目に値するものでもなかった。したがって、学問的な討論は、これらが最初に確立したのはどこで、いつか(バビュローニアか、インドか、中国か)という議論、ないし、中世期の証拠の目録に帰着させることに限定されてきた [001]。しかし、それらがそれら自身のために観察されるのではなく、月の公転は最初の暦の創作に導く初期の時間認識の基礎であったから、天文学的問題を宗教的問題に関係づけることによって、限定的な関心以上の結論が引き出されるだろう。しかもこの関心は、我々の獣帯星座が、初め太陽太陰暦を提供したように月宿の継承にほかならず、前者は月の1ヶ月の公転をもたらす装置を、太陽の1年間の公転(後者は太陽の公転のみに基づく)と調和させる仕組みであった [002]

 しかし、勝利したシステムでさえ重要な点では神秘的なままであること、すなわち、諸々の宮の奇妙な選択や、それらの間における動物や人間の形態の存在に対する理由を見て、遠い過去に取って代わられたシステムを再構築するための材料を見つけ出すことが、われわれはいかにして可能か? われわれは二つの状況に助けられている。ひとつは、 われわれの諸々の暦の自然な保守性、占星術の諸々の前兆、そして魔術テキスト:これらがしばしば人間の思考の初期段階の痕跡を保存するのである。2つめの状況はそれほど自然ではない。月を優先することで、モハメッドは可能な限り太陰暦を復活させ、閏日の挿入ないし何らかの改暦の導入を禁止した。この個人的な気まぐれが例外として確認するのは、思うに、カプリスは、宿が再び使われたこと、そしてそれらについての十分な宿が再び使用されたこと、それに関する充分な証拠は、東洋、アラビア、ペルシア、インド、中国の諸民族の間のみならず、中世ヨーロッパにおいても、簡単に言えば、イスラムがその、政治的・文化的影響力を発揮したところでは、どこでも見出せる。われわれの好機はかくも明白である:この教義の初期の段階を再構築するのにわれわれを助けることができるかぎり、この豊富な材料を使うに遅すぎることはない。

 この再構築は、ボルの『天球論(Sphaera)』の1章になるはずであった、もし彼が東洋の適切なテキストをいくつか知っていたならば、そして何よりも、同じ頃、ライツェンシュタインによってその『ポイマンドレース(Poimandres)』の中で議論されたロンドンの魔術パピルスが彼の注意を免れなかったらだが [003]。ボルは、その「ヘレニズム期における東洋の周期(Der ostasiatische Tierzyklus im Hellenismus)」[004] という論文の中でこの主題にちょっとだけもどり、詳細な議論を約束したが、早い死がその約束を果たすことを妨げた。私の注意は、オックスフォードの Bodleian 図書館の写本 Cromwellianus 12(15-16世紀)のギリシア語のテキストによって宿に引き寄せられ、Catal. codd. astrol. Graec. (=CCAG.), ix, I. [005] で公刊されることになった。これは新しい問題であり、直接的な注意に値する。ロンドン・パピルスは第2部で続き、概要は最後に試みられるであろう。


第1部.暦の伝統

1.Codex Cromwellianus のテキスト
 このテキストの題名は p. 402 に AiJ ei[kosi ojktw; monai; th:V SelhvnhV e[cousi ou{twV〔月の28の宿は以下のとおり〕として、第1宿は次のように記されている:

 第1宿はスゥルタイン<つまり「牡羊」の小角>と呼ばれる。〔これは〕木星の領するところで、「牡羊」の第1度〔端緒〕から、その12度11〔51?〕分26秒までである。インドイ人たちは言う。月がこのような宿にとどまるとき、善いのは飲み物を飲むこと、騎乗用動物〔言葉なきものら〕に青草をやること、調教すること、買い入れること、旅すること。しかしながら、このような宿にある月の出口の第1日の終わりは悪いと言われる。他方、ドーロテオスは言う。結婚の約定にとっては、「おひつじ」の全星座も逆である。奴隷たちの購入にとっても逆である。なぜなら、逃亡する恐れがあるからである。海を旅するのは美しい。というのはと彼は謂う、美しく航行するから。他方、公的な行為は善くない。ペルサイ人たちは言う。善いのは、戦車で行くこと?、樹木を植えること、爪や毛髪を切ること、新しい織物を裁断し、これをまとうこと、言葉なきものら〔動物〕を訓練すること。奴隷たちを購入したり公的な行為は縁起が善くない。なぜなら、このような宿には、「牡羊」の2つの小角に2つの星〔牡羊座β星γ星〕があるからである。他方、この宿は火のごとくで悪を為すものである。そうして、この〔宿〕で誕生が起こるとき、男性の場合は、悪人、同性愛者、人生において放埒な者、非難さるべき者たることを特徴とする。女性の場合は、ムスティコポルネイア?を働く者たることを〔特徴とする〕。男たちの方は、彼女に対する欲求者となる、ただし、彼女がそれを禁じることなく、熱心ならばだが。
この〔宿の?〕図像。
 互いに頷き合う2人の女が、装身具に飾られている。その着衣は、帯に至るまで真紅で、そのほかは青色である。

 わたしたちの目的には、この見本で充分である、それは自余の27宿も同様に述べられているからである。このテキストが後期のものであり、アラビア語から翻訳されたものであることは言うまでもない。この作者は、おそらく、アルボハゼン・ハリ・フィリウス・アベンラゲルによるラテン語のテキスト『De iudiciis astrorum libri octo』の助けを借りで見つけ出すことができる、その1章(VII, 101)De electionibus secundum motum Lunae per mansiones〔〕は非常に短いが、われわれのテキストに密接に関係している [006]。ラテン語のテキストに言及されているアラビア人の著者アリー・イブン・アビ・ッリジャールは11世紀に存命したこと、彼の作品はアラビア語からカスティーリア語に訳され、1256年、カスティーリア語からラテン語に訳されたことをわれわれは知る [007]。Stegemann によれば、より包括的なアラビア語の原本のコピーが、例えば大英博物館の Cod. Add. 23399 の中に見出される。もしこれがわれわれのテキストの原本でもあるとするなら、Cromwellianus よりも400年前にこの形式で存在したことを証明する [008]。しかしその場合、彼は最後の編集者にすぎず、真の著者ではなかったろう。このテキストの初期の歴史に達するには、われわれはその内容を調べなければならない。わたしは先ず記述内容を議論し、次に諸々の前兆を議論することを提起する。

2.宿の名称とシンボル  (a)宿の名称は最初にアラビア語 Sourtavi&n、次いでギリシア語 Keravtia tou: Kriou:(1行目;後者は11行目と他の証拠から補われなければならない)である。アラビア語の名称は必ずしも正しく書き写されておらず、他のテキスト、とりわけビールーニー『古代民族年代記(Chronology of Ancient Nations)』によって確かめられうる [009]。今の場合、ビールーニーはAlsharatân「2つの徴」という形を与え、この宿の他の名称 — 中世のテキストでAlnath「角」— を与えている。(b)星座は牡羊座の第2の角の2つの星から構成される(11行目)ビールーニーは、これらの星を、牡羊座の2本の角の根元に位置する星と同一視する点で異なるが、よりふさわしい。(c)宿の広さ(1行目以下)は、宮の12x30度を28で割ることで得られる:結果は12度51分26秒、すなわち、各宮は2+1/3宿、あるいは3つの宮が7宿から成る。(d)宿の図像は、互いに向き合った二人の着飾った婦人から成る(15行-17行)、明らかに牡羊の2本の角に照応し、装飾的な形象以上ではない;他の宿の象徴はしばしばより意義深い(54頁以下参照)。

 (1)Cromwellianus のリスト この記述の最も重要な要素は、宿の名称である:これが、天文学的概念と、その国と原型の時代とに至る鍵を持っているかもしれない。われわれのテキストからそのすべての名称を抽出し [010]、これを検討すれば、未知の星座とか新しい名称をもった星座とか、新しい環境に置かれた星座、要するに、獣帯12宮の伝統的用語とは異なったそれを見つける希望があるかもしれない。この見地から、「牡羊の角」「牡羊の腹」等々の14の名称はただちに除外できる、これらは獣帯12宮を腑分けしたことを反映しており、したがって二次的産物だからである。行われるべき唯一の註釈は、獣帯の図式化のために、通常、全周の12分の1に限定される獅子宮が、双子宮、巨蟹宮、処女宮といった他の諸宮を犠牲にしてそれに値する拡張を持つということである。しかし、これはすでに古典的な天文学で知られており、ビールーニーの主張とは異なり、単なるアラビアの習慣ではない。他の4つの大きな宿(3. プレイアデス、4. アルデバラン、14. スピカ、17. コロナ)は、明らかな教訓をわれわれに教える:諸々の宮の部分であるにもかかわらず、目立った星座として独立して知られてもおり、宿のどのリストにも現れるよう結びつけられている。しかし残りのものは、非常に不可解ではあるが興味深い。11.「二羽の兎」(?)と20.「二頭の駱駝」 は他には知られていない(後者はビールーニーによっても言及されている)が、動物の象徴についての教義を反映しているようであり、それについては以下(p. 54)でさらに詳しく述べる。54. 21. Kavstronは、下のコプト語のリストで見るように、PovliV〔都市〕を意味する後期ギリシア語である。この用語も珍しく、ビールーニーと他の人たちはこの宿を、星がないので、「砂漠地帯」(albalda)と呼ぶ。古典的な天文学も同様に、射手座の中にある同じ場所に星のない区域を知っていて、これをTovpoV〔場所〕ないしOujtanovV〔天空〕と呼んだ(cf. Boll, Sphaera 253; 263 f.)。しかし、私たちのリストがその区域をPovliV〔都市〕と呼び、12の星をそれに帰属させるのは何故か? 私が提供できる唯一の説明は、それが聖書、とりわけ黙示録第21章でいう天上のエルサレムの異教徒の原型として貢献するだろう [011]、ということである。この提案に賛成して言及されるのは、この都市は天の川に適切に位置しており、12個の星も、黙示録の算術的推測(12個の門、12柱の天使、12個の宝石 etc.)によく適しているということであろう。しかし、これは単なる可能性であり、それ以上のものではない。第22から第25までの宿は、Eujtuciva〔幸運〕の種々相 — 「屠殺者の幸運」、「呑み込む者の幸運」、「幸運の中でも最も幸運なものの幸運」、「天幕の幸運」— として記述され、神秘的ではあるが、コプト語とアラビア語のリストの中に見られるもので、正しい。Eujtuciva〔幸運〕とは、より古い用語 Tuvch〔遇運〕を表すと推測するのが安全であるが、確信をもって比較しうる天文学的伝統が他にない。新しいヘルメス文書は、射手座のなかにFortuna〔フォルトゥナ〕という星座を知っているが(Gundel, Neue astrol. Texts 262)、ここのように、山羊座と水瓶座の中ではない:TycheはさらにOctotropos〔12トポスの最初の8トポス〕とDodecatropos〔黄道12宮の軌道〕の教義の中に登場するが、これらは星座とは直接関係しない。それらを Tyche から切り離すことができれば、すなわち、それらを「屠殺者」「呑み込む者」「幸運の中でも最も幸運なもの」「天幕」と呼ぶことができれば、宿と同等のものを見つけることはより容易であろう。第26. 「アルゴの先端」は水瓶座や魚座の中では正しくないし、アラビア人たちはそれを知らない:しかし、他の形で他の箇所に見出されるので、この誤りは明らかに古い(ボル『天球論(Sphaera)』142 参照)。

 (2)アラビア語のリスト この内的証拠は、それ自体興味深いが、リストの主要問題であるその起源と年代を解決する役には立たない。その起源は、Cromwellianus のテキストがアラビア語の原典に依存しているという観察によって明らかにされるであろう。しかし、アラビア語とギリシア語の名称を比較すると、Cromwellianus はしばしば同じことを意味する(しかしいつもではない)同定という翻訳を提供するのではないことを見出す。例えば、第3月宿プレアデス星団はアラビア語でアッ=スライヤー(Althurayyâ)すなわち「多くのものを持つもの」、ギリシア語で$Exastron(6つの星)と呼ばれる。第4月宿、アラビア語でアッ=ダバラーンAldabarân「追随するもの」は、ギリシア語でtw:n +Uavdwn(ヒュアデスの燈火)で表される。第12月宿、アッ=サルファAlsarfa「(熱が)変わること」は気象用語で、ギリシア語ではOujra; tou: LevontoV(ライオンの尻尾)として現れる、等々。換言すれば、ギリシア語の訳者は、アラビア語の用語の等価物を知り、それをわれわれのテキストの中に挿入した;それらはアラビアの影響下にビュザンチンの星学者たちによって創作されたか、アラビアのリストとは独立していたか、後者より古いかもしれない。その年代に関して、印象としては、古くて本物の名前が含まれているという印象があるが、証明できるのは、Cromwellianus の年代である15〜16世紀より前であることが最も確かである。このアラビア語のリストは、9世紀のパリのラテン写本『Liber Alchandri』に初めて登場するが、間違いなく200〜300年前のものであるため、イスラムの初期に属しているはずである(cf. Koran, Sura 10, 5; 36, 39)。しかし、ここで再びわれわれは2つの二者択一に直面する。アラブ人は復活した月の計算に役立つリストを作成したのか、それとも翻訳を通してそれを受け取ったのであろうか、もしそうなら、ギリシア語からか、他の言語からか、ということである。月宿については広範なアラビア語の証拠があるが、命名法に関しては、これらの質問に答えるのに役立つには、あまりにも画一的に過ぎるのである。

 (3)コプト語のリスト コプト - アラビア語の語彙辞典『(Scala magna)』は、Abû'l-Barakat(14世紀)によって編纂され、アタナシウス・キルヒャーによって、cod. Vat. Copt. 71 (a. 1319)から公刊されたが、その『エジプトの言語の再構築(Lingua Aegyptiaca restituta)』(1643)の中に、月宿のコプト語リストを含んでいる [012]。このリストは、7つの実例で、Cromwellianus からわれわれの知るとおり、わずかばかりの置き換えでギリシア語の用語を再生している。1.kutwrion (Keravtia);2.koliwn (Koiliva);3.exastran ($zastron);17.stefani (StevfanoV);18.karqian (Kardiva);22.poliV (Kavstron);28.kutwn (Koilia tw:n =Icquvwn これはおそらく Kh:toV の代わり)。〔次の〕3つの名称はギリシア語と同義のコプト語である。7.copt1.jpg(”肘尺” = Ph:cuV <tou: Levontos>;10.copt2.jpg(”額” = Mevtwpon tou: LevontoV);20.copt3.jpg(”駝鳥”? = Duvo strouqokavmhloi);23-26 の4つの名称は、説明されていないが、それらがすべて upeu で始まるかぎり、ギリシア語リストとの対応を示し、そこではギリシア語の用語 Eujtuciva- を含む。コプト語リストの残りの14の用語は曖昧であるが、それらの大部分はギリシア語らしく、アラビア語ではない。この判断は、天文学の他のコプト語用語も、原語はアラビア語ではなくギリシア語であるという観察結果によって裏付けられる。われわれは、コプト人たちがリストを持っていた、Cromwellianus のそれに密接に関連していた、と結論をくだす。彼らは、コプト語が話し言葉であることをやめた7世紀以前に、それを持っていたに違いない、そして彼らはギリシア人からそれを得ていた。結局、Cromwellianus のギリシア語リストと非常によく一致するアラビア語リストも、やはりギリシアの起源のものでなければならない。

 (4)ギリシア語のリスト この結論は不自然でも驚くべきことでもないらしく、コプト語のリストの助けを借りなくても、ずっと以前に描かれており、そこではギリシア語の証拠が簡単に利用できた。わたしが見つけたのは、ギリシア語の2つの可能なバージョンであるが、どちらも絶対に確信のもてるものではない。ジョヴァンニ・フォンタナ [013] (c. 1450)はその作品『De omnibus rebus naturalibus』I, 30 の中で諸々の宿の「ラテン語の」名称のためにユリアーヌスを引用しているが、〔それによると〕第5月宿。Caput canis validi〔〕;第11月宿。Canes Leonis;第13月宿。Canis;第15月宿。Velamen;第20月宿;Trabs vel Lignumである。これらは再びわれわれのリストの名称と密接に関係する。そしてもしこの著者がラオディケイアの占星術師ユリアーヌス〔5世紀末〕ないし『ラテン詞華集(Anthologia Latina)』(6世紀初頭)のユリアーヌスと同一人物なら、これはこの術語の古代の使用について直接的証拠を意味するであろう。しかし、われわれのユリアーヌスは、アラビア語のリストを訳した等しく知られざる中世の作家であり、その存在証明は結局無価値である。もうひとつのバージョンは、アラビア語から翻訳されたギリシア語のリストであるが、そのアラビア語の用語は、純正の古いギリシア語の名称に対面する [014]。リストには、アンドロメダ、コロナ、ヒュアデス、レグルスのような明白な宿が登場するが、その順序には当惑させられる。アンドロメダは牡羊座に属するので、矢座に従われることはできず、後者は山羊座に属し、カペラは牡牛座に、鷲座は今度は山羊座に属する;プレアデスとヒュアデスはコロナに付き従うことができず、等々である。このリストは今のところ役に立たない;しかし、誰かがそれに困惑する前に、それは真正なギリシア語のリストであったかもしれない。もしそうであれば、それはただ1つであったのではなく、Cromwellianus のリストとコプト語のリストとは別のものであった。両者の違いは、前者はその位置に関係なく、有名な星や星座で宿を徴づけたが、後者は黄道をより厳密に追跡し、目立った星が利用できなかった場所では、獣帯12宮の区画か、あるいは、知られているならどこでも、そのような区画の特別な名前を導入した。われわれが Cromwellianus のリストだけに頼ることができるのは明らかである;それは獣帯の命名法の影響を示すので、それは比較的遅いということでもある。この、コプトとビュザンティンの2つの証拠の出現は、アラブ人たちが彼らのリストをギリシア人以外の人々、例えばバビロニア人たちに負っているという提案を議論する義務からわれわれを解放する [015]。この結論は非常に重要で、いかなるさらなる証明も、たとえどんなに取るに足りないものであっても、その支持に歓迎されるであろう。われわれが遭遇した天文学的用語としての nomehv〔宿〕は、今までのところコプト語リストとビザンチン写本においてのみであった;それはまたテーベのヘーパイスティオン(後4世紀)I, 21 peri; tw:n ejkleivyewn tw:n fwsthvrwn ejk monw:n tw:n zw/divwn〔諸々の宮の宿からの光をもたらすものらの欠如について〕[016]、また同じ章である p. 82, 11Engelbrecht 校訂? ejn tw/: kairw: th:V ejmptwvsewV kai; monh:V〔落下と宿の時機〕[017]。第2に、占星術詩人マクシモス(後2世紀)は、その詩 peri; katarcw:n〔諸々のカタルケーについて〕の中で Cromwellianus と同じ種類の前兆を扱っており、それゆえわれわれは下の p. 56 で彼にもどってくるつもりである。ここで注目すべき重要なことは、一般的なギリシアの習慣どおり、マクシモスは宮から宮へと進むが、彼は時折、月が宮の諸部分ないし、同じ日に2つの宮に滞在することに言及し、それがひとつの宮の末端や、次の宮の初端であり、これらが宿以外の何ものも意味し得ない、ということである。例えば、p. 84 Ludw. SelhvnhV +Ydrocovw/` ejn me;n th/* prwvth/ hJmevra/ ouj dei: ajpodhmei:n... ejn de; th*/ deutevra/...〔月が宝瓶宮にあるとき。第1日に出郷してはならない……第2日には……〕;p. 80 SelhvnhV ou[shV ... Toxovth/ tai:V ejscavtaiV moivraiV kai; Aijgovkerw/ tai:V prwvtaiV....〔月が、人馬宮の末端、磨羯宮の初端にあるとき……〕以上のことすべてが、古典期のギリシア人は宿を知っており、それを使っていたという結論を裏付けるのである。

 (5)バビロニアのリスト しかしながら、2つの理由で、宿はギリシアの発明ではありえない。そもそも、それらは月の一般的な計算と同様に、天文学の初期の層に属していなければならず;第二に、それらはヴェーダ時代のインド人には知られており、このことはギリシア時代の彼方に引き戻す。そのため、出身国は、天文学に専念している2つの初期の文明の源郷、バビロニアまたはエジプトのいずれかでなければならない。この選択は難しくない。エジプトは、コプト語のリストにもかかわらず、a priori〔先験的に〕除外される、最初から太陽暦を使用していた古代世界の唯一の国であったからである。バビロニアが真っ先に、公理のごとくに残る;そのうえ、ひとがこれを認めることに躊躇しようと、宿の詳細な知識が初期天文学の疑問の余地なき蓄えであった者にとっては、事実としていくつかの証拠が汎-バビロニア人たちの不当な主張を思い出させる [018]。この証拠は、ひとつは大英博物館の前6世紀の [019]、もうひとつはベルリンの前3世紀の [020]、この同じテキストを含む2つの楔形文字版から成る:一般的な原本は2千年紀にまで遡ると(おそらくはあまりに性急に)思われてきた。文字版が言及するのは、「月の道」の上にあり、月々にその軌道を通過する際にそれら〔月々〕が触れる領域にある星座:髪の房(プレイアデス)、天上の牡牛(牡牛)、天の忠実な羊飼い(オーリーオーン)、老人(ペルセウス座)、大鎌(?御者座)、大いなる双子(双子座)、(蟹座)、ライオン(獅子座)、(乙女座)、天秤(天秤座)、サソリ(蠍座)、[神の名前](射手座)、山羊-魚(山羊座)、巨人(水瓶座)、大きな燕の尾(魚座 ⅰ)、[女神](魚座ⅱ)、雇人(牡羊座)。これらの星座の数は〔月宿の数の〕28でも〔獣帯星座の数の〕12でもなく、その名が独立した星座を表し、宮を完成する17である。言い換えれば、このリストが、月宿から黄道星座への発展の一段階を示しているというワイドナーの見解に同意したい [021]。したがってわたしはその時代を、2つの銘刻文字のうちの早い方の実際の日付よりもはるかに過去にさかのぼるべきではない。その日以前に、おそらく安定した完全な集合体ではない月宿が、バビロニア人によって観察された、と推定できよう。[022]

 これらの観察をする必要がなぜあったのか? 暦月を確立するのに天文学を知る必要はない、なぜなら、それはひとつの1周期からもうひとつの1周期の月の相を数えれば足りるからである。しかし、1ヶ月の期間を超えて自然年をその季節とともに年表を延長しようとするいかなる試みも、天文観測から始めなければならず、そしてこれは、われわれの見たように、宿の確立に導く。事実、12 X 29+1/2日という太陰年は、太陽計算の助けと補正によってのみ存在できるのである。しかし、諸々の断片 — 初期インドと後期アラビアの — があり、これらは別種の純粋な月の計算法が存在し十分であったことを示している。ヴェーダ文学には、或る星座における月の或る位相がしばしば言及されている、例えば、「phalguni〔パルグニー宿〕における満月」(=第9宿、獅子座)[023]:この日付は、1年に1度だけ現れるものとして、星の上昇によって与えられる日附ぐらいには正しい。この日付は、詳述され、最終的にアラビア人たちのもとに達した。ビールーニー(『古代民族年代記(Chronology of Ancient Nations)』336 f.)は、天体気象学の予報に関する幾つかの一般的な詩句を引用している、例えば、「月が暦月の第3夜にプレイアデス(=第3宿,金牛宮)と合になり、このとき冬が去るのはいつか」;あるいは:「暦月の新月が夜の初めに初めて人びとの目に見え、Alna'â'm(=第20宿,人馬宮)に入坐する、そのとき汝があらゆる方向から冷たい風に吹かれるのはいつか」。

 (6)諸々のシンボル  Cromwellianus 写本の記述内容の検証を完了するために、われわれは短い回想によって図解的表現を通過しなければならない。これらの表現が構成するのは、(a)ひとの形:男の、もっとしばしば女の、単独で、あるいは2人一組で、さまざまな恰好で;(b)動物の:牡鹿、バブーン、兎、グリフォン、駝鳥、魚;(c)混ざり合った形象:ネーレイスたち;鳥の脚をもった有翼のひと;猿の頭、グリフォンの耳、雉の身体;鷹の頭、十字架につけられたひとの身体、等々。これらの形象の大多数は謎であるが、幾つかの類推は、それらが気まぐれではないことを示している [024];混合した形象に関しては、デカンとの並行が、それらが古い伝統に依拠しなければならないことを示唆している [025]。われわれが比較できるものはほとんどない:写本の挿絵。Urbin. lat. 1384 (saec. xv)は別のセット [026]を表し、第3のセットはWolfenbüttel cod. 29. 14 Aug. 40 (saec. xv)[027]。これらの挿絵を議論するには、特別な研究を要するだろう;しかもその諸問題は、関係するアラビア語の稿本の挿絵が知られないかぎり、取り除くことができなかった。この短い調査では、われわれのものとは異なる原理に基づいて建てられたインドの表現 [028]もあると付け加えれば十分であろう。それらは、人間や動物の形象のほかに、あらゆる種類の対象物、つまり、寝台、花、網、手、等々を含む [029]。 中国のものも、そのような混在した物体を有するが [030]、インド人たちと同じではなく、追加に動物のセットを含むが、これに関しては下の p. 60 ff. で検討される。

 以上のごとく表現は神秘的で多様であるが、その機能はすべて共通で、その星座を解釈することにある。これはやはり名前の機能でもあり、それらが同一であることを見出すことが期待されよう。この事情は、Cromwellianus とか他所でいつもというわけではないので、異なる起源の組み合わせが推定されなければならない。しかし、この複雑な表現の歴史について、ここでさらに調べる必要はない。われわれは、アニマル・セットに帰せられるこの内容にとって重要な伝統の部分を見つけるだけでいいのである。

 われわれの予備的な結論は、宿についての話はバビロニアから来ているということである。つまり、それはギリシア人には知られていたが、当時は時代遅れのシステムだった;かくてアラブ人に届き、アラブ人は再びそれを実用化した。さらに、写本 Cromwellianus(またはその原型)のアラビア語原文は、すべての宿に図像を伴っていた;そしてすべての宿は月の1日を表しているので、次の節でわれわれが再構築しなければならないのは、28の形象を含む図暦である。

3.諸々の前兆  われわれの見本にもどると、占星術の詳細に至る。この宿の惑星の支配星はユーピテルである(2行目)。この宿は火のごとくにして悪意に満ちている(11行以下)ので、それは火星と読むべきである。諸々の前兆は、月がその特定の宿にある間、その日に着手さるべき、あるいは、着手さるべきでない諸々の活動を助言する(2行 - 10行)。それら(の活動)は、医療、馬の繁殖、旅行、結婚、奴隷の売買、髪の毛や爪を切ること、衣類、農業、等々を射程内におく。情報源として、インド人たち、ドーロテオス、そしてペルシア人たちが引用されている。ホーロスコポスは、その日に生まれた子どもの性格と未来、男女を記述する(12行 - 14行)。男の子は悪く、手に負えず、その行動は不快、女の子は売春婦になるだろう。

 宿の一般的な性格は、その星座の自然によってか、月の特定の位相の意味によってか、あるいはその両方によって決定されると考えられる。ここでは、余り明白ではないが、決して孤立しているわけではない教説どおりに、惑星の支配者によって決定されている。長い伝統の相続人として、われわれはわれわれの週日の曜日の名前に、惑星の支配者たちをまだ使用しているのである。第2宿は金星に、第3月宿は火星に、第4宿は再び金星に、第5宿は月に、第6宿は太陽に云々、というように割り当てられる。この順序は任意である。われわれの、そしてまた古代の週ごとの順序が必要とするものは以下のこと、もし月宿が太陽に与えられるならば、次は月に、3番目は火星に、4番目は水星に、以下同様に与えられなければならない [031]。しかしながら、月の星位に注意が払われるように思われる1つのポイントがある。それは、半月および満月の日を表す第7,第14、および第21番目の宿(第28番目ではない)は、クロノス-サートゥルヌスに割り当てられる。それらは土曜日だとわれわれは言うだろう。これが単なる偶然の一致ではない場合、それは月のそれらの星位が安息日 [032](sabbatu、旧約聖書のいうサバト)を構成するバビュロニア暦との重要な関連を確立する。

 ホーロスコポスについて言われうることはほとんどない。明らからしいのは、これらは毎月のホーロスコポスよりも早く、獣帯星座に基づき、獣帯星座に関する論文 [033] の中や、一種の現代の暦の中にもしばしば現れるということである。もっと明らかなことは、毎月のホロスコープとは対照的に、これらの毎日のホロスコープは、誕生の瞬間に読まれた個々のホーロスコポスの真の先祖であるということである。しかし、これらの個々のホーロスコポス「先史」はまだ十分に調べられていないので、私たちはそれ以上先に行くことはできない。私たちの目的のためには、それらがこれらの前兆に属していること、そしてそれらが毎日変わることを知ることで十分であるので、どちらも必要ではない。

 最も重要な部分は前兆のそれである。典拠への言及はそれ — 例えばインド人たちは医療を扱い、ドーロテオスは結婚を、ペルシア人たちは農業を扱うということ — を意味しているのではない。他の諸々の宿において、同じ前兆が他の典拠に帰せられ、その結果、この観点ではそれらは利用できないのである。しかし、それは帰属が恣意的であるということにはならない。(1)インド人たちの天文学的・占星術的教義がアラブ人たちによってしばしば議論されたことは事実である、例えば、アポマサルによって『大序説』、あるいは、匿名の魔術的作品『ピカトリクス』[034]の中で。さらに知られていることは、諸々の宿naxatrasは、ヴェーダ時代 [035]と同じくらい早期にインドで用いられ、再び後世の作家たちによって使用されているということである。例えば後6世紀のヴァラーハミヒラは、ギリシア語作品の訳以上のものは与えていないらしい [036]。(2)上で言及された諸々の前兆は、性格的に疑いもなくギリシア語であるが、唯一の疑問は、ギリシア語原典の供給が充分であったかどうかである。シドンのドーロテオスへの言及は、吟味なしに受け取ることはできない。紀元前/紀元後1世紀のこの天文「詩人」は、中世の諸テキストに数多く引用されたが、その引用はしばしば、ヘルメースとかプトレマイオスの場合同様、黙示的であった。宿を明示的に扱ったギリシア語テキストはなかったのが真実である。しかしコプト語のリストと、monhv〔宿〕という用語が古語であること(上記 p. 53)が、わずかに現存する証拠である。そしてもしドーロテオスなる者が、そのような文脈においてありそうな著者であるなら、彼の主張な関心事は katarcaiv、つまり何事かが引き受けられるべきか否かということであり、それはまたわれわれの前兆の関心事でもあった。彼の書き物は失われているので、われわれにできるのは、彼の後継者マクシモス(後2世紀頃)の「諸々のカタルケーについて(peri; katarcw:n)」という詩とわれわれのテキストとを比較することだけであるが、そこには実際直接的な類似がある。そのうえ、マクシモスは宮から宮へと進むにもかかわらず、彼はしばしば、特定の宮における月の滞在の第1日、第2日、また時には第3日に異なった前兆を与えることしばしばである [037]。このことが示唆しているのは、彼の典拠が、月の場合に、諸々の宮による手配よりも自然な宿による手配にあるということである [038]。ペルシア語への言及はそれほど信頼できるものではない。宿は、前500年頃インドからペルシア導入されたことが知られ [039]、例えば『ブンダヒシュン(Bundahesh)』第2章[040](後8〜9世紀)に登場する。われわれのテキストに言及された典拠は実在したとわれわれは結論づける;しかし、これらへの言及は、その著者が全部を用いたということを意味するわけではない。わたしはむしろ、インド人たちはギリシア語テキスト、おそらくはドーロテオスの散文版を用い、ペルシア人たちはインド語テキストを、そしてアラビア人たちはペルシア語テキストを〔使った〕;そして最後に Cromwellianus(ないしその原型)の翻訳者は、大いに増幅しまた削除して、その原典の言語にそのテキストを再びもとにもどした、と考えたい。こうして東洋の改正は、後1世紀の韻文または散文のギリシア語テキストにわれわれを導く。それは28の数字、神的な支配者たち、諸々の前兆、そしてホーロスコポスを含む(または1つにした)図解暦であった。

4.太陰暦  この定義は多くの例において月齢表(Zelhnodrovmia)として知られている諸々のテキストにも当てはまるが、それらはそれらの存在の天文学的基盤つまり星座に言及していないという違いを有しており、太陽太陰の計算の利便のために29日から30日間続くように作られている。幸いなことに、ヘーシオドスからビュザンチン時代の写本までのギリシア・ローマ時代の月齢表の歴史が最近大いに明らかになった [041]、そしてまた、バビロニアの日暦と、月暦は今も利用されており、その点で、バビロニア起源の問題をもわれわれは起こすことができる、もちろん、それがわれわれの質問に役立つ限りにおいてだけ証拠として考慮しなければならないが。

 ギリシア人とローマ人は、古代世界の大部分の人々と同様に、月の数え上から始まったが、すぐにそれを太陽太陰年に置き換えた。それでも、彼らは月の位相を数えることを決して捨てなかった:ギリシアの証拠はすぐ詳細に引用されるであろう。ローマ人に関しては、例えばウェリギリウス(『農耕詩(Georg)』第1巻、432「4度目に昇る時(ortu quarto)」)とホラティウス(c. IV, 2, 58「第3日に月が……昇る」(tertium lunae...ortum)を参照すれば十分であろう。彼らの日読みの原理的用語は、カレンダエKalendae、イドゥスIdus、そしてノナエNonaeであること、〔これらは〕今でも新月と満月と、その間の位相であるふりをしていること、そしてまた、農夫たちは、その珍しい用語octavo Ianam lunam[042]を使う時、もっと密接に月に固執した。最後に、西洋よりも東部の方が、特にキリスト教の時代には、x K(alendas) Iunias, luna xviii, die Iovis 型の二重日附に出会う[043]

 ヘーロドトス(II, 82)は、月の日々を特定の神に割り当てた詩を知っていて、彼らの誕生日に基づいてみんなの性格、運命、そして死を予測した。そのような詩は、ヘーシオドス自身によって書かれたか、このような迷信をヘーラクリトスに攻撃された(Plut. Camill. 19)ところから、前6世紀以前に彼に帰されるかのどちらかであった。われわれが持っているものは、完全な暦ではなく、その断片のほんの一部にすぎない [044]。それは、ひと月30日、ギリシアの慣習に従って、3デカンに分割され、3つのデカン(4−14−24; 5−15−25; 6−16)内に対応する日々に関連する前兆を割り当てているらしい;しかし、アポッローンとその第7日の誕生日に与えられた重要性は、東洋の週体系の重要な痕跡を表している [045]。 前兆は、農業、動物の繁殖、木材の伐採およびその建築への利用に及ぶ。日々は聖なる、善い、悪い、あるいは変更があり得る。「ホーロスコポス」は男性と女性で異なり、2つの事例では、第6日に生まれた少年は嘘つきであり、第20日に生まれた少年は賢い人であると彼らが述べるとき、より明白である。諸々の神格への帰属は、第5日 — これは $OrkoV の誕生日である —、第7日 — これはアポッローンの誕生日である — を取っておかれる。これらの断片は、いくらかヘーシオドスに至る太陰暦の構造を再構成するに十分である:これはその日の一般的な性格、その守護神、諸々の前兆、そしてホーロスコープを与えるが、これは原理的にわれわれの暦の構造でもある。思うに、ヘーシオドスによって残された隙間をわれわれが他の断片で埋めても、何の障害にもないであろう。

 オルフィック教の =EfhmerivdeV〔日録〕[046] の始まりは、おそらく遅いはずはなく、ことによるとヘーシオドスよりも早く、もちろんヘレニズム期よりはずっと早い。 「オルフェウス」もまた、神聖な誕生日を記録しているが、それらのセットは異なる:第1日はアレースの誕生日、第7日はアポッローンの、第17日はアテーの〔誕生日である〕。後者の帰属は、彼がデカンの体系に従っていないことを示している。前兆に関しては、オルペウスはヘーシオドスとその後の暦に原則的に同意している。しかし彼は他のカレンダーが記録していなかったものを加えた — 月の日々変化するアニマル・シンボル(ejpwnumivaV MhvnhV kata; moi:ran)をである [047]:第1日のアニマル・シンボルは若い一角獣(fr. 273 K. monovkerwV movscoV)であり、下の p. 62 f.の他の動物たちの幾つかを結びつけることで補うことができよう。したがってこの断片は、動物の象徴と暦の内容との間に重要なつながりがあることを証明するであろう [048]

 デーモクリトスの弟子メンデスのボーロス Selhnodrovmion〔月齢〕(ウェルギリウスの『農耕詩』I, 276 ff. によって使われた)[049] と「メランプース」のそれ [050] とは、初期ヘレニズム時代に属するが、このわずかな諸断片が、われわれの知識に付け足すことは多くない。彼らの同時代人であるアッティス作家ピロコロスが、その『日々について(pari; hJmerw:n)』という作品 [051] の中で与えているのは次のリストである:〔月の〕第1日はヘーリオスとアポッローンの誕生日、第3日(13日、23日)はアテーナーの、第4日はヘーラクレースとヘルメースの、第6日(16日)はアルテミスの、第7日はアポッローンの、第8日はテーセウスの、第9日はカリスたちの〔誕生日である〕[052] 。この概要を完成するためにわれわれが付加するのは、プルータルコスもまた日々について(pari; hJmerw:n)、やはりヘーシオドスに対する註釈を書いているが [053] 、その多くはヘーシオドスに対する古註に現れ、彼からプロクロスを介して来ている、ということである [054] 。その古註からは、以下の異文を引用すれば充分であろう:第4日はアプロディーテーとヘルメースの誕生日(498)、第8日はポセイドーンの(788)、第9日はムーサたちの〔誕生日〕(809)。誕生日のこの完全なリストは、13世紀のMilan写本の月齢の中に保存されている [055] :これは多くの点で他方と合致し、デカン体系のわずかな足跡をまだ示している。この写本もまた聖書の登場人物の誕生日を含んでおり(第1日、アダム;第2日、イヴ;第3日、カイン;第4日、アベル;等々)、これらは単独で他の月暦表の中に与えられ [056] 、これがユダヤの編集を経て来ていることを示している。最後に、いくつかの月齢表は [057]、通常の前兆の前に、毎日のために月の異なる星位を記録する(第1日、生まれる;第2日、光をもたらす;第3日、上昇する;第4日、三日月形に生長する;第5日、昂揚する;第6日、頂点に達する??;第7日、半月になる、等々)。これらの幾つかは、よく知られている天文学の位相と異ならず、段階と変わらないものもあれば、より恣意的なものもあるが、それでも占いの目的に役立つ傾向がある。

 重要なのは、この月暦はその初期においては実用的だったということである:ギリシアの祭は、もともと毎月祝われ、そのうちのいくつかは、何世紀もの後の今でもそうである [058]。この暦が、前兆の代わりに宗教教説のようないくつかの必要な変更を加えて、石に記録されることさえ可能である、そしてこのことは、ピロコロスがこの暦に註釈を書いた事実を説明するのである、ちょうど官職の例年の暦に註釈を書いたように [059]。しかし、これは暦の始まりにすぎない;ギリシアとローマの祭りは、月の変化によってあまり影響されなかった彼ら自身の歴史を持っていた。それでも、その日の「質」は、あらゆる活動に影響を与え続けた:皇帝アウグストゥスはNonaeには何にも手をつけなかったし、Nundinaeの次の日々には旅行しなかった(Suet. Aug. 92, 2);皇帝時代の「社会の」人々は、その私用の暦(ephemerides)に相談するのが普通で、それに従って行動し(Iuven. VI, 753; Amm. Marc. XXVIII, 4, 24)、このような暦は医師たちによっても(Pliny XXIX, 9)、初期のキリスト教徒たちにも(Gal. 4, 10 hJmevraV parathrei:sqe kai; mh:naV kai; kairou;V kai; ejniautouvV[060]。これが、かくも数多くの月齢教が占星術写本の中に伝存し、アラビア時代の太陰暦を復元する役に立った理由である[061]

 次のことは同意される、つまり、ヘーシオドスとその後継者たちは、その月齢表を発明したのではなく、外国の例 — これはエジプト人のもの(とヘーロドトスは示唆するが)では確実になく、バビロニア起源のものである [062] — に従った、ということである。そしてもしわれわれがギリシアの月齢表とバビロニアの暦法 [063] (これは前10世紀以前に遡るが、疑いなく、初期の時代の実践を記録している)とを比較するなら、われわれは数多くの一致のみならず、ギリシア語テキストにおいて恣意的に見える事項の幾つかの説明さえ見出す。例えば、式服の着替えは、バビロニアの誰にでも関係するのではなく、王にのみ関係する:これはもともと儀式の一部である。髪や爪を切るとか切らないとか規則は、それが普通の迷信になる前は、等しく古代の儀式の部分だったに違いない。われわれのテキストにおける陸路や海路による旅行は、王が特定の日に騎行するべきか、それとも歩行するべきか否かについてのバビロニアの考察と一致している。薬剤を摂ることに関する諸規則は、両方の箇所に現れるが、バビロニアにおいてはより大きな正当化を有し、そこでは医師の仕事はまだ神官たちの手中にあり、ギリシアやビザンチン時代のごとき忠告以上のことを構成していなかった。しかしバビロニアの暦法においては、普通のことさえ違った光の中に現れる。わたしは月の第14日に対する前兆を引く[064] :「吉にして凶、病人には難。医師たちは処置できず、占い師たちは予言できないだろう。何か欲することをするに不適。もしひとあって働けば、彼はその金銭を失うだろう。ひとは神の名にかけて誓うことがないだろう……妻をその家に迎える者がいるかもしれない;彼はその家を整えるだろう」。われわれのテキストには、あらゆる(あるいは、ほとんどあらゆる)種類の行事に対する類似した忠告が無差別に起こるが、ここではそれは満月や、月の他の主要な相(第7日、第14日、第21日、第28日)と結びついている。換言すれば、1つの場所において星の(ここでは月の)宗教の部分をなすものが、他所においては、おもにギリシアにおける世俗化のせいで、迷信になっている、ということである。最後に、日々の一般的な特徴と諸々の前兆は、バビロニアに由来するだけでなく、守護神たちからも来る:ここでは、最初、それぞれの日が誕生日としてか祭日として最初に神格に帰せられた:第1日はエンリルに;第日はイシュタルに;第3日はマルドゥクに;第4日はナブーに、等々、ということである[065]

 要約。 Cromwellianus のテキストは、通常の類型ではないにもかかわらず、われわれを図解歴の再構成に導く。通常の暦の軌道は、太陽が同じ星座にもどってくる期間を年とする;その下位区分である暦月は、太陽が1つの宮から別の宮まで動くことによって与えられる;その天文学的な登録は、この太陽の公転運動内に起こる重要な星々の「出」と「入り」で構成されている;その宗教的登録が毎年の祭であり、われわれの時代では、日々のキリスト教の守護者たちである。図暦は12宮を描写し、しばしば月の擬人化(これは季節とその仕事と何らかの結びつきをもっているかもしれません)を付け加える;ホロスコープと前兆は1年全体を覆うが、変わるのは毎月だけ、すなわち、太陽が新しい徴に切り替わっているときだけである。しかし、われわれがここで議論してきたことは、まったく異なるものである。その範囲は月の公転によって決められる;その日の神的な守護者たちあるいは聖書の登場人物たちは、毎月(惑星の守護神に至っては毎週さえ)繰り返し現れる;。諸々の祭りや誕生日は毎月祝われる;暦が含むのは28(12ではない)の絵であり、これらは宿のそれであって、宮のそれではない;前兆は毎日異なるのである。


第2部.月の「獣帯」

 片や月齢表と Cromwellianus のテキストと、片や peri; kararcw:n〔諸々のカタルケーに関する〕書き物との間には、ひとつの重要な違いがある。前者は月の位相に従い、後者は諸々の星座に従う。どちらも数は28だが、同じ宿の中の同じ位相が現れるのは、1年に一度だけである。その結果、Cromwellianus の図像的象徴と惑星の支配者たちとは月宿に属しているのであって、その位相に属しているのではない。しかし月齢表の諸々の位相もまた、その象徴と神的な支配者たちを有している結果、2つの体系の間の関係は、いくつかの説明を必要とする。これを達成するために、先ず、その本当の意味はあまり明らかでない別の伝統に目を向ける。基本テキストは、魔術の祈りに含まれる月の28の象徴のリストである;これは、刻限と暦月を表す12の獣の関連するセットと、神話的・民間伝承的な性格のばらばらの幾つかの証拠とによって支えられている。

1.London Papyrus のテキスト
 大英博物館の、後4世紀の魔術パピルス121は、ばらばらのテキスト群を構成しているので、その環境に顧慮することなくわれわれの経過を議論できる [066]

 祈り。御身に呼びかけん、よろずの形とよろずの名号もつ二本角の女神メーネーよ、その形は、この全宇宙を創造せるかたを除いて誰ひとりとして知らない、〔その創造者とは〕イアオー、<御身を>宇宙の20と8つの形に造形したもうたかたであるが、〔それは〕御身がおのおのの生き物と植物にあらゆる形相と気息を仕上げ、養うためであった

 して、御身の名号の第1の同輩は沈黙、第2は舌打ち、第3は呻き、第4は口笛、第5は歓声、第6は呻吟、第7は咆吼、第8は唸り声、第9は轟き、第10は楽音、第11は声の風、第12は風のつくる反響、第13は必須の音声、第14は必須の最後の流出。

 牛、禿鷲、牡牛、黄金虫、鷹、蟹、狼、ドラコーン、馬、キマイラ、コブラ、牝山羊、牡山羊、犬頭、猫、ライオン、豹、鼠、鹿、多形の処女、燈火、稲妻、冠、杖、子ども、鍵。

 御身の諸々の徴と、名号の割り符を述べたてしは、全宇宙の女主人たる御身に余が祈願していると、御身がわれに耳傾けたもうため。

 創造行為は、ここでは月(暦月)によって、その盈ち虧けする光の期間に達成される。このコースでは、人間と動物とのあらゆる可能な音(沈黙、唇の舌打ち、溜め息、等々)である14の仲間によって手助けされ、その日々の舞台はその28のシンボル 、つまり、21の動物と他の7つ(牛、禿鷲、牡牛、蟹、鷹、等々)によって特徴づけられる。月のこれらの音響的で視覚的なシンボルを呼び出すことによって、ひとはある魔術的な行為に奉仕するために、その創造的な力を呼び出すことを望むのである。

 これは、創造を月に帰する唯一の一節ではない。それをよりよく理解するために、創造神話のすべての可能な変奏を検討する必要はない。ここでの観念は時間の観念に依存しており [067]、その最も近い関係は、創造を太陽または太陽と月に結合して帰属させる節であると言えば十分であるように思われる。彼らの変革は新しい期間を生み出し、地球上の生命の周期的な革新を引き起こす。初めにさかのぼるこの変革は、創造の観念に導く。この観念はさまざまな表現を見つけることができる。例えば、オシリスは月を意味し、イシスは太陽を意味する。オシリスは28年間生き、あるいは支配し、テュポーンによって14に切り刻まれて、三日月形の棺に埋葬された。この埋葬は月の第29日に定期的に、イシスのオシリス探究と彼らの再結合とともに祝われる。これは、もちろん、太陽と月の結合を意味する。別の象徴によると、この日に月は生まれ変わり、世界はその誕生日を祝う [068]。第二に、28という数に関する推測は、地上の生は月の革新によって支配されることを証明するのに役立つ。この種の例は、猫が全部で28の子猫、すなわち7、6、5、4、3、2、1を生み出すこと [069]。あるいは、スカラベが、糞を「宇宙の表象」である球に丸めてその子孫を産出し、それからこれを28日間土の中に埋め、最後の29日目に水の中に投じると、このとき若いスカラベが出生するということ[070]。一連の推測の第3番目のものは、神的な「ことば」が創造しうるという、たいていの宗教に共通の観念から出発したものである。アルファベットの母音や子音の意味 [071]、事物や神格の秘密の名前、魔法の単語や音節、さらに人間や動物の不明瞭な音などさえ [072] についての議論や変奏に終わりはない。これらの音や単語が創造的な力を持ってるとするなら、その力は「月」起源のものであるはずだ。ロンドン・パピルスの14の音の多くは、他の諸テキストでは、月の満ちる光に対応するのだが、他の諸テキストでは、このような創造的な力を有するものとして言及されているのである [073]。さらに、それは7つの母音を4度繰り返すという魔術的実践の一部でなのである。かくしてわれわれは、アガトス・ダイモーンの秘密の名前が、7つの母音と、これはまた月の28相とも調和的な7文字から成ることを聞く [074]。イアムブゥロスが訪れた物語上の7つの島の住民は、7つの基本的な徴から発展した28文字ないしシンボルであった [075]。音楽における28(ないし4 x 7)という数の役割に関して、ピタゴラス派のニコマコス(A.D. 150 頃)[076]は、月ではなく、プラトーンの『ティマイオス』の魂の誕生に帰しているが、この範囲ではわれわれには関係がない。しかし、彼がヒューヒュー音、唇の舌打ち、他の不明瞭な音で宇宙の調和の創造的な力を得ようとする魔術師たちの実践に言及する時〔Tim. 〕、われわれは再び親しい地盤に立ち、プラトーンの教説もまた魔術の理論的正当化を利用したことに気づくのである [077]

 このような諸々の異種の断片の共通分母を見つけることは容易ではない。それは月の神学と呼ばれるかもしれないが、用語をそんなに勿体ぶらすには値しないし、太陽神学が世界を征服しようとしたときにすぐに時代遅れにされた。証拠はおもにエジプトであり、ヘレニズムより早くはない。これは、もちろん、教義の最後の改訂に関してのみ真実である。それが構成していた観念は至る所で一般的であった。しかし、特にペルシア人たちにとっての時間、プラトーン派とピタゴラス派にとっての数、そして「カルデア人たち」にとっての月信仰についての推測を立てることは便利かもしれない。しかしながら、この理論の歴史にこれ以上従う必要はない。枠組みは簡単である。われわれの文脈においてもっと重要なのはアニマル・セットである。これもまた、エジプトのものヘレニズムのものであることを証明するだろう。しかし、これもまた最後の編集に適用されるにすぎない。その究極の起源と意味は今から確立されなければならない。

2.アニマル・セット
 月のアニマル・シンボルは、太陽に関する同様の象徴性の助けを借りると、最もよく理解することができる。そこで、後者から始める。太陽は朝に若く、夕方に古く、翌日から年を通してaliusque et idem生まれ変わる、と一般的に考えられている [078]。同じことが、その年間の経過にも当てはまる。つまり、冬至の時期に生まれ、夏に成人し、秋に老い、11月の終わりに、数週間後に再び生まれ変わるために地下世界に沈む [079]。太陽の日々の象徴は、そのさまざまな強さによって、1年は諸季節によって尤もらしくつくられている。月の日々の変化はもっと明白に、その影響は──民間伝承を無視すれば──より少ない。太陽と月の変化に共通する根拠は、それらが時間の経過を示すということである。そして月は、それを考慮する方がより容易であるという理由で、より一般的である。太陽への祈りの中でエジプトたち人によって使用された公式は、以下の内容を含む……kaq= w{ran ta;V morfa;V ajmeivbonta kai; kata; zwv/dion metaschmatizovmenon.....〔一刻ごとにその姿を変え、小獣の形に変わる〕[080]。プロクロスは関連するオルペウス詩(fr. 92 K)の一節を引用してこう付け加える、太陽が1時間ごとに姿を変えるように、月は毎日そうする [081]。これは最近の証拠であるが、記録されているものは古い。しかも、太陽にとってよりも月にとっての方がそうなのである [082]。 太陽の1時間ごとの「形」は、「12刻限」の12の獣、つまり、猫・犬・蛇・驢馬・ライオン・山羊・牡牛・鷹・猿・朱鷺・鰐・である [083]。これはヘレニズム・エジプトの伝統であり、天文学者テウクロスその他によって記録されている。他の「12刻限」は、Papyrys Mimautに現れ、若い猿・一角獣・猫・牡牛・ライオン・驢馬・蟹・朱鷺である [084]

 ロンドン・パピルスにおいて一覧表にされた月の28の象徴は、その日々変化する月相を擬人化する;われわれのテキストにおいては、最後の7つ(多相の処女、燭台、燈火、花冠、王笏、少年、鍵)が異なっているが、もともとそれらはすべてアニマル・シンボルであったことは疑いない。これは2つのセット[085]──ひとつはアニマル・セットを、他は、月の文化において意味を有する形象と対象から構成されるセット [086]を、指し示しているという ライツェンシュタイン の指摘は正しかったと私は思う。第3のセットは、オルペウス教の『日録(=EfhmerivdeV)』〔上記の p.58 を見よ〕の断片集によって代表され、これは第1日の象徴として一角獣に言及するものである。これが違ったセットに属するに違いないことは、一角獣はロンドン・パピルスには登場しないからである。ところで、テウクロスの「12刻限」がロンドン・パピルスの獣たちからの選択であることは、 ライツェンシュタイン によって観察された [087]。一角獣を含むMimaut Papyrusのそれは、オルペウス教セットからの選択にちがいないことをわれわれは付け加える。かくて、上にリスト化された獣たちの助けをかりて、部分的に再構成されるのである。

 太陽と月は同じ象徴で表現されうること、月のそれはより早かったこと、それらはもともとはみな獣であったことをわれわれは観察した。なぜ獣たちなのか? おおむね、神性の動物的表現は、たいていの宗教の初期の層に属し、われわれの扱っている特別な場合に、夜の月の時として幽霊じみた出現は、後世になっても人間の想像力を掻き立てて幻想的な表現を採らせる。セレネーの髪は蛇たちに取り巻かれ、彼女は牛のように唸り、彼女の身体は蛇の鱗で覆われている。あるいは、彼女の顔、眼、そして声は牝牛のそれ、彼女は犬のように吠え、ライオンに側を守られ、狼のような足首を持っている、等々 [088]。また、Thessala vatesがルカヌス〔39-65〕VI, 685以下で魔術行為に月の力を必要としたとき、彼女〔月〕は吠え、唸り、シューシューいい、そして怒鳴る──他はロンドン・パピルスの「音声の」類語に並行している。このような動物の象徴のさらなる痕跡は、ミトラとイシスの秘儀に見出される。ライオンの階位(他の動物の階位は、烏、鷲、鷹)は、黄道帯の動物形像のすべてを帯びていると推測され [089]、またイシスの秘儀において手ほどきされたそれらは、12の異なる衣服を纏い、ドラコーンたち、グリフォンたち、その他のような動物たちに飾られていた [090]。これらの儀式は、入信者を天体の領域へ引き上げるのに役立ち、それらは太陽の象徴と黄道帯に言及するが、それらは同時に月のシンボリズムの理解に寄与するのである。

3.アニマル・シンボルと宿
 当初部分の議論にもどると、これら28種の動物が原則的には Cromwellianus の主にアニマル・シンボルに対応しているが、しかしながら細部においては大きく異なるかもしれないことにわれわれは気づく。しかし、ここでもまた、月暦をCromwellianuのテキストと突き合わせる際に出会った困難さに直面しなければならない。それは、諸々の星座と関連する図形と、月の位相と関連する図形とが別々だということである。これら2つの図形の間の関係は何か?

 ロンドン・パピルスのアニマル・シンボル は、時間についての宗教的な憶測の結果であり、他に天文学・暦学的な意味をもたなかった、論じることができた。この議論は、(a)オルペウス教断片、(b)中国のリスト、および(c)12刻限類推への言及によって出会うことができた。オルペウス教のルナリウムであるOrphic Ephemeridesが、通常の予報に加えて、月の最初の日のシンボル が若いユニコーンであることを記録していたことが思い返されるであろう(上記p.58を見よ)。かくて、ロンドン・パピルスの28匹の動物も月暦に属し、魔法の行動のためにそれらから抽出されたと示唆することは安全でである。かくて彼らのカレンダー機能の疑問が生じる。わたしたちがこの疑問に最善の接近ができるのは、われわれの2つ目の関心である中国のリストを考慮することによってである。その一例は、紀元後8世紀から9世紀にChavannesによって公刊された中国の鏡に見られる [091]。その一部を再現しよう。

1. 角(Chio) 木星 青龍
2. 亢(K'ang) 金星
3. 氏(Ti) 土星 穴熊(?)
4. 房(Fang) 太陽
5. 心(Sin)
6. 尾(Wei) 火星
7. 箕(Ki) 水星
8. 斗(Teou) 木星 一角獣
9. 牛(Nieou) 金星
等。

最初の列は、28の宿を表す伝統的中国語の名称を含む。上に書き写されたもののうち6つは「青龍」の星座(角、頸、胸、家、心臓、尾)に属し、続く3つは手押し車、斗升、牛である。2列目は、われわれの週日の順に、宿の惑星の支配者を与え、3列目は動物のリストである。 Cromwellianus の配置は同じく、宿の名前、惑星の支配者、絵のシンボルであることをわれわれは観察する。われわれはオルペウス教の月齢へのさらに別のタイプの対応、一角獣があちこちで起こるのを観察する。われわれの現在の問題は動物リストに関係している。彼がエジプトの「12刻限」と結び付けた中国の「12刻限」について議論したとき、ボルが注目した [092] のはこのリストだった(上記、p.62 参照)。ついでに、彼はわれわれのセットの諸動物と、ロンドン・パピルスにあるエジプトの28の動物とを比較し、12の諸動物と28の諸動物という中国の2つのセットは、おそらくキリスト教時代の初め頃、バクトリアを介して中国に到達したグレコ-エジプト起源に基づくという彼の結論の支持のもと、その大きな類似性を主張した。ボルの結論(それらは専門家たちによって一般に受け入れられている)を受けて、われわれもまた結論を下さなければならない、中国のアニマル・セットのギリシア語原典は、(オルペウス教の類推によって示唆されたように)普通の型の月齢においてヘレニズム化されたエジプトで用いられたのみならず、Cromwellianus のテキストないし peri; oatarcw:n〔諸々のカタルケーに関する〕書き物の中でひとつに結びつけられて用いられた。しかし、この動物たちが月の日々のシンボルであるならば、宿とのそれらの連繋が唯一可能になるのは、月が毎月同じ宮の中で公転運動を始めかつ終わる場合であって、太陽とともに宮から宮へと変わる(実際はそうしているのであるが)場合ではない。言い換えれば、これもまたわれわれの古い、しかし宿のシンボルと月相のそれ〔シンボル〕とが1つの同じ図式に現れるかぎり、天文学的にはばかげて見えるが、より悪質な問題である。

 3つ目の類推である「12刻限」のセットが、ここでいくらか助けになるかもしれない。2つの1式は、以下の特徴を共通してもっている。それらは「月の」動物の選択である「12刻限」という同じ動物を含む。どちらも時間 — 1つは日々の、1つは時間の — 象徴である。そして、どちらももともと一定の天文学的位置を持っていない、ということである。さて、「12刻限」は以下の展開を示す。(1)それは、黄道帯の機能を引き受けることができる。パウロス・アレクサンドリノスを通して最もよく知られている占星地理の古いリストは、さまざまな国を黄道帯の12宮に帰属させるが、宮の代わりに12の動物を伴って無名の抜粋の中に現れる [093]。(2)12年周期dodecaeteris Chaldaica〔カルデアの12年周期〕[094] の中で、各1年は獣帯星座の連続した宮に従い、1年は白羊宮に、次年は金牛宮に、それから双子宮、巨蟹宮、以下同様である;「12刻限」の諸動物は、どちらかというと神秘的なバビロニアの言及 [095] の代わりに、「蛇の年」(ギリシア語では「ネズミの年」(=後1336年)[096] に、中国ではまったく一般的に、その誕生日は「子年、寅年、等々)として与えられることができる[097]。(3)動物たちは、テウクロス(前1世紀)からのレートリオスの抜粋の中で、対応する宮のparanatellonta〔ある宮と同時に昇る星〕として天文学的に位置づけられる [098];例えば(CCAG. VII, 196, 15) kai; tw/* me;n a' dekanow/ (tou: Tauvpou) paranatevllousin...kai; hJ kefalh; tou: Kuno;V th:V dwdekawvrou~〔(金牛宮の)第1デカンに連れもって昇るのは……12刻限の「犬」座の頭と〕; あるいは(VIII, 4, 217, 6) +Ermh:V kai; =Afrodivth...mivmouV h] politikou;V poiou:sin, mavlista ejn Aijgokevrwti dia; to; paranatevllein to;n Pivqhka.〔水星と金星は……俳優たちとか政治家たちをつくる、特に磨羯宮において「猿」座が連れもって昇ることによって〕。(4)これらはテウクロス、アテーナイのアンティオコスによって、また、ヘルメース・トリスメギストスの新しいテキストの中においてはもっと頻繁に、対応する諸々の宮の区界内にさえ位置づけられるのである[099]。例えば、(白羊宮)〔猫座の17度まで;(人馬宮)鷹座の正面;(宝瓶宮)a quarto gradu usque ad septimum oritur volucris Ibis.〕。(5)反対に、兆候は数時間の動物の機能を引き受けることができる:アレキサンダーの誕生は猿および山羊座の不都合な時間が過ぎるまで幾分遅れたと報告されている [100]。この展開はいかにして説明されうるか? おそらく、最初の2例は、もし孤立しているなら、体裁をつくろうことができるだろう;しかし、よき伝統の議論の余地なきその他の例がある。そして事実として、それらは古代天文学と占星術によくある行為によってのみ説明されるうる:2つの図式が何らかの共通の根拠を有しているとき(ここでは、12という数と時間の番人の機能とにおいて)それらはそれぞれ他方の役割を終熄させ背負いこみがちである。それゆえ、「12刻限」は、基本的には天文学的観念ではないにもかかわらず、獣帯星座12宮と連結に置き換えられ得る。

 これこそがわれわれの問題の解決策かもしれない。宿とわれわれの動物たちに、同じ「引力の法則」を適用すると、次のような展開が示唆されるかもしれない。第1に、神格の、そしてまた月の、動物による表現、これは星々とは何の関係もなかった。次に、諸動物が月とその相のシンボルとなり、かくして月暦表への道を見出した。月の軌道上のあらゆる星座が観察され、その宿として体系化されて、諸々の宿と諸々の動物とが対応する図式となり、互いに動きはじめた [101]。諸動物は月の自由なシンボルのままであり、Cromwellianus のテキストにおけるように、宿の図形表現となり、したがって特定の星座に関連付けられることができた。言うまでもなく、他にも絵画的表現を形成するのに役立った影響があったが、ここでのわれわれの関心は、それらの後期の発展ではなく、それらの起源なのである。

4.天上の神的な法
 暦が天文学的な観察と宗教的な事柄をどれほど結びつける傾向にあるかをわれわれは見てきた:宿jは前者を代表し、動物は後者を代表する。この象徴および類似した象徴が、目に見える星々の側または背後でこれを動かせる神々で天を満たした天の宗教に大いに貢献した。彼ら〔神々〕は星々と時間が進む間、時間、日々、暦月、そして年々を動かせてきた。この観点のもとで、わたしたちは二つの図式(最初の部分で説明されたよりはむしろ記述された)の議論を再開しなければならない:神的な守護者と惑星の支配者たち:そしてこれらにわたしたちは第三のもの、つまり、boulai:oi qeoiv〔評定する神々〕を付け加えねばならない。これらの相反する図式は互いを排除し合うにちがいないとひとは思うだろうが、しかし実際は、彼らは共存し合うことを許されたのである。

 (1)守護神たち (a)バビロニア、ギリシア、ユダヤの月暦は、月の1日1日を神格または聖書の登場人物の保護下に置いたことが思い出されるであろう。諸々の神格が月の動物の象徴の後継者であることは明らかだが、選択と配分の方法は、聖書の登場人物を除いて、明確ではない。この体系は孤立したままではなかったのである。(b)「12刻限」のシンボルは必ずしも動物ではなかった。魔術テキストと占星術のテキストには、秘密の、判読不能な神々の名前を含み [102]、ヒッポリュトスは、ペラテスのグノーシス派の「12刻限」からオシリスとイシスという2つの名前を引用し、それぞれオーリーオーンと犬狼星〔シリウス〕に取って代えている [103]。(c)12の宮ないし暦月の神々は、バビロニア、エジプト、ギリシア、そしてローマの伝統から知られている。最もよく知られているセット、アテーナー、アプロディーテー、アポッローン、ヘルメース、ゼウス、デーメーテール、ヘーパイストス、アレース、アルテミス、ヘスティアー、ヘーラー、ポセイドーンである [104]。(d)1年の10日周期である36デカンの神々は、オスタネスによって公表された。アイドーネウス〔ハーデースの別名〕、ペルセポネー、エロース、カリス〔「雅」〕、ホーライ〔「季節」〕、リタイ〔祈願の女神(複数形)〕、テーテュス、キュベレー、プラクシディケー、ニケー〔「勝利」〕、ヘーラクレース、ヘカテー、ヘーパイストス、イシス、サラピス、テミス、モイライ〔「運命」〕、ヘスティア、エリーニュス〔「血讐」〕、クーロス、ネメシス、ニュムパイ〔「ニュムペー」の複数〕、レートー、カイロス〔「好機」〕、ロイモス〔「疫病」〕、コレー〔「乙女」〕、アナンケー〔「必然」〕、アスクレピオス、ヒュギエイア〔「健康」〕、トルマー〔敢行〕、ディケー〔「正義」〕、ポボス、オシリス、オーケアノス、ドーロス〔「賜物」〕、エルピス〔「希望」〕である [105]

 この概観は、これらのリストが原則的に一致し、詳細において異なることを示している。刻限の神々に関する証拠は、何らかの観察を許すには、あまりにも乏しい。暦月の神々は、基本的に「オリュムポスの」神々、つまり6柱の男神と6柱の女神であるが、その配列の仕方は明らかではない。デカンに関して、その図式はエジプト起源であるので、エジプトの神格を見出すことは驚くべきことではない。しかし、他のもの、特に抽象名詞は不可解で、それらの起源を説明するに成功した試みがないのを知っている。

 (2)惑星の支配者たち。 (a)上記 p. 55 の Cromwellianus の文章の中で、任意の順序にある惑星の神々を見つけ出し、「正しい」配列はどうあるべきかを述べた。その起源の説明は、同時に、神的な支配の別の体系にわれわれを直面させる。諸々の時間もまた諸惑星に服従していたことが知られている。最初は、これが恣意的な方法で生まれたのかもしれない。しかし、紀元前3〜2世紀から [106]、刻限の支配者たちは、地球からのその距離に応じて定められた順序に互いに並んだ。1 = 土星、2 = 木星、3 = 火星、4 = 太陽、5 = 金星、6 = 水星、7= 月、8 = 土星、等々。そしてその惑星は、その第1刻限を支配する1日を支配する。だから、もし土星が第1刻限と第1日目を支配するならば、第25刻限つまり第2日目は太陽に、第49刻限つまり第3日目は月に、こうして第4日目、第5日目、第6日目となり、そしてこの7日間はそれぞれ火星、水星、木星、金星に該当する。そしてこれらの惑星の神々が、この順序でわれわれの週日を今でも支配しているのである。(b)獣帯星座の宮は、今の場合、暦月でもあるが、「住まい(domiciles)」という幾分曖昧な教理の中に主張されているとおりである [107]。巨蟹宮は月の住まい、獅子宮は太陽の、双児宮と処女宮は水星の、金牛宮と天秤宮は金星の、白羊宮と天蝎宮は火星の、人馬宮と双魚宮は木星の、磨羯宮と宝瓶宮は土星の〔住まいである〕。(c)年々について、12年周期(これは木星の公転周期であるが)は、古代世界で広く使われ、極東では今でも使われている [108]。対応する暦、つまりカルデアの12年周期(dodecaeteris Chaldaica)[109] では、この期間の各1年はその宮によって支配され、第1年目は白羊宮に、第2年目は金牛宮に、第3年目は双児宮に支配される。しかし諸惑星もまた、その住まいを介して支配するのである、火星は白羊宮とともに、金星は金牛宮とともに、水星は双児宮とともに、等々。

 アニマル・シンボルについて上記で達した結論は、必要な変更を加えてここでも繰り返すことができる。諸々の惑星に与えられた役割は、天文学に根拠があるわけではない。彼らの「移動の自由」は、恒星と比較して、彼らに早くから重要性をもたらし、宗教的想像力を刺激した。彼らが最初に結びつけられ、次いで同一視された諸々の神格は、上で述べられた自余のものらのように、天界において、先ずその諸々の惑星と、次には独立して、その住居を受け取った。そして彼らの力は、いかなる所定の時、時刻と日、月と年でも感じられたのである。

 (3)boulai:oi qeoiv〔評定する神々〕[110]。 (a)この名称で彼らを呼ぶテキストは、Schol. Apoll. Rhod. IV, 262とDiod. II, 30, 6 の2つだけがある。前者によれば、彼らは獣帯星座12宮の12柱の神々で、起源はエジプトであるが、後者は彼らを「カルデア人たち」に帰し、彼らのひとりが毎日、上なる半球から下なる半球に毎日vice versa〔代わる代わる?〕下ってくる、と主張する。1にちの刻限を表すには、30という数を24に変えるか、デカンの10日周期のおのおのを表すには36に変えるのが普通である [111]。月暦の30柱の守護神に関して、わたしは本源の数を保持したい。しかしこの一節は、10日の動きは、デカンに帰せられるにすぎない(下の6をも見よ)ゆえに、36柱の神々もまた boulai:oi qeoiv であるということを証言するように見える。したがって、われわれの一節では2片の証拠が混同されているように思う。(b)ライツェンシュタイン の『天球論(Sphaera)』478 は、これに Varro の証拠(Anob. III, 40)を付け加える。〔Varroは〕先ず、ローマ神話のペナーテース〔家庭の守護神〕を、諸天の内奥(penetoralia)にある無数・無名の星々として説明し、次いで、これらはエトルリア人たちによってConsentesとかComplicesと呼ばれるが、その所以は、それらの(個々の)名前が知られない、6つの男性と6つの女性の〔星々〕がいっしょに昇りかつ沈むからである、それらは非情な miserationis parcissimae であるにもかかわらず、ユーピテルの評定衆consiliariiである、と言う。エトルリア人たちの di Consentes を諸々の宮の神々と同一視し、また、評定衆 consiliarii としてboulai:oi qeoiv〔評定する神々〕とも同一視した点で、ライツェンシュタインは正しかったとわたしは思う。マルティアヌス・カペッラ I, 41は、関連する典拠に基づいて、ユーピテルのペナーテースを神々の元老院議員と呼び、その名前に di Consentes を帰して、彼らの(個々の)名前は諸天の秘密であると主張する [112]。にもかかわらず、彼はすぐに(I, 42)、宮と暦月のよく知られた12柱の神々(上記 p. 65を見よ)、ユーピテルのbis seni同僚の名前のためにエンニウスを引用している。そこには伝統における何らかの混乱があり、この文脈には無関係として、これ以上われわれを引き留めておく必要はない。この伝統が天文学的に正しいのは以下の伝統であることを考察すれば足る:暦月の12柱の神々は12宮の代用し、これらの対は事実として毎月昇り、それぞれ沈む。これが日々の30柱の神々について言われ得ないのは、彼らが毎月を違った星座と合致されなければならないからである。(c)この教義を理解するための決定的な一歩は、しかしその複雑さを増すもので、何年も後に ライツェンシュタイン がSethe の記事に帰した内容で、その中で彼が観察したのは、Quint. Smyrn. II, 595の中で、刻限の女神である12柱のホーラたちが、ゼウスの助言者として現れ、それが boulai:oi qeoiv であるということであった [113]。この観察から帰結するのは、この名称は宮の神々やその部署によってのみならず、12刻限のそれによっても生じ得ない;しかしまた帰結するのは、12刻限は恒常的な星の社会をもたず、星々が観念において原理的な役割を演ずることをやめたが、その星の起源は確かであろうということであった。(d)Diod. II, 31, 4 は、「カルデア人たち」の24の星 dikastai; tw:n o{lwn〔世界の裁判官たち〕に言及し、その半分は獣帯の北に、半分は南に位置しているという。(e)この一節が重要性を増すのは、Gunkel がこれら世界の24柱の裁判官を、〔ヨハネ〕黙示録4,4の24人の presbuvteroi〔長老たち〕— かれらは白い衣服を着、金の冠をかぶり、のまわりのその座席に坐していた — と同一視した時である [114]。ライツェンシュタイン はこの同一視を承け、24人の dikastaivpresbuvteroi 日の24時間を意味すると付言して、12刻限の教説に言及した(Aus der Offenbarun Johannis 35 f.)。ライツェンシュタイン は知らなかったが、ポエトヴィオのウィクトリヌス(後3世紀)に古代の先達をもっていた。 de fabric a mundi 10: constituti sunt ... diei angeli duodecim, noctis angeli duodecim, pro numero scilicet horarum. hi sunt namque XXIIII testes dierum et noctium, qui sedent ante thronum dei, coronas aureas in capitibus suis habentes, quos Apocalypsis Iohannis apostoli et evangelistae seniores vocat ... [115] 〔世界の創造の10日について:昼の時間の12人の天使と、夜の時間の12人の天使とが創造された……昼と夜の24人の証人のために、これらは、ヨハネの黙示録は、それを使徒と、を求めている伝道者の長老だった彼らの頭、上の金の神の御座の前に座って、彼らと、彼らの頭の上に王冠があります〕。
この一節は、12刻限に関するわれわれの証拠に対する歓迎すべき貴重な追加であるが、必ずしも presbuvteroi の正しい説明ではない。これが、Gunkel と ライツェンシュタイン という、現代の注釈者たちの間にそれほど賛同を得ることのなかった人たちの運命を共有した [116] 所以は、占星術に対する嫌悪感のためではなく、この一節が充分には明瞭でなかったからである。 presbuvteroi という用語は、天使たちよりはむしろ人間たち、おそらくは旧約聖書の族長たちを意味すると考えられる。彼らが天の宮廷を形成すべく現れることは認められるが、彼らの唯一の仕事はを讃えることであって — 星々とか諸々の時間に関する語はそこにない。天文学的な基礎の初めに、ディオドーロスによって獣帯の北と南にあると述べられた24個の星は、都合の良い時だけの印であるかもしれない。このように、天文学は始まったばかりのために使われ、そして、すぐに私たちに馴染みのある象徴主義を支持してすぐに却下された。私は、黙示録がこの教義をほのめかしているのは、その最後の段階だけであるという ライツェンシュタイン に、わたしは同意する方向に傾いている。しかし、わたしはまた彼の敵対者たちとも、presbuvteroi は天使ではなく男性であり、旧約聖書の家長であることに同意しよう。これはわれわれが教義の別の部分で観察した発展と一致するであろう:バビロニアの日暦はバビロニアの神々の下に、ギリシアの月暦はギリシアの神々の下に、あるいはユダヤ人の修正を経たならば家長の下に、置かれた。同じことがその日の時間帯にもあてはまることをわれわれは見た:それらはギリシアの神々、エジプトのデーモンたち、あるいはユダヤ-キリスト教の天使たちに害されるかもしれない。この類推が受け入れられるならば、それは教義の3つの段階を意味する:第1に、1日の24時間に対応する24個の星の天文学的な観察、第2に、ディオドーロスにおけるごとく、世界の裁判官たちとの彼らの同一証明、そして第3に、黙示録におけるごとく、彼らの家長への、そしておそらくキリスト教の暦のように、仲介者への変換である。(f)ヘルメース・トリスメギストス(Stob. I, 191 W.)によれば、36デカンは fuvlakes ajkribei:V kai; ejpivskopoi tou: pantovV〔厳格な番人にして万象の監督者〕で、王国や都市を破壊し、飢餓や疫病,等々を送ったりすることによって罰する力を持っている。この一節は fuvlakes ajkribei:V kai; ejpivskopoi tou: pantovV という用語を含んでいないが、W. Scott と Bidez がこれに注意を向けているのは正しいとわたしは思う [117]、その所以は、上に引用され単語は、ディオドーロスによって使われているものと非常によく似ているからである。II, 30, 6 と、さらにはデカンは、別の時間単位つまり1年の36x10日周期を表しているからである。

 結論として、boulai:oi qeoiv は、12刻限、月暦、暦月、年々の守護神と原理的に同一であったが、純粋ではない占星術の方向に発展した、ということである。この観念はカルデアの占星術師たちに発源したのかもしれない。その年代はヘレニズムよりそれほど早期ではない。もし、わたしの信じるように、プラウトスの『(Rudens)』の序説が、ある程度までこの教説に依拠するものなら、われわれは前4世紀、ディピルスの時代にたどりつく。われわれは、なるほど、彼らの機能についてはほとんど知らないが、その名前は充分に示唆的である。カルデアの占星術師たちは彼らを「世界の裁判官たち」と呼び、エトルリア人たちは、ユーピテルは彼らの忠告に基づいてその稲妻を送り、彼らは謹厳であったと考えた。キリスト教の伝統は彼らを執り成しをする者たちにした。換言すれば、人間の行動に対する監督と裁きが彼らの仕事であった、占星術の伝統の対応する力が、日、時、月、年の性格を決定し、それとともに何らかの特定の時に執り行われることの成功ないし失敗以外何も為さないとしてもである。

 われわれの議論に戻ると、われわれ以前の結論、すなわち、日々の boulai:oi qeoiv が最初に起こり、刻限、暦月、年々のそれが後に〔起こった〕ということをここに適用することはできない。われわれが言うことができるのは、最初に月の「獣帯星座」を創造した同じ動物シンボリズムが、それからこれらの神々がその星の領域12刻限はこれらの神々もまた、おそらく個々にではなく集合的にではあるが、彼らのアストラル地区に割り当てられた、しかも、それらは時間の象徴によって生み出されえたと同じだけ数多の変奏の裡に現れる、という事実に責任があるのである。

5.要約
 月の獣帯の起こりは次のごとくであったと結論づけよう。最初に、月の日々の位相が観察され、月の計算のために記録された。次いでこれらの位相は、月の聖なる動物と同一視されたが、これらは一般的な動物の表象のであって、非幽体起源のものであった。第三に、これらの動物は特定の星座と結びつけられ、徐々に同一視され、境界づけられて、宿になっていった。われわれ自身の獣帯は、太陽太陰計算の観点からつくられたこれらの動物の宮からの選抜を表しているのかもしれない。

 この図式のバビロニアの起源は、合理的な確実性をもって確立されている。第二千年紀からの日付をもつ暦学は、月の日々の位相の観察基づいて可能である。これらの位相は、いくつかのギリシアのルナリアに明示的に記録されている。アニマル・シンボルは、原始的な宗教の初期の概念ではあるが、最初にギリシア語、グレコ-エジプト語、および中国語のテキストの中に、体系的な順序で出現する。しかし、その子孫であるわれわれの獣帯は、思うに、正しくはバビロニア人に帰せられ、天文学の楔形文字テキスト、諸々の星座と宮の結合、月と太陽という2つの体形間の発展を特徴づけている。バビロニアにおけるこの体系の、間接的だがさらに深い証拠は、早期に実用していたインドから来る。

 この経緯のギリシア的側面は、きわめて重要であるが、決定するのは難しい。暦の内容、月の象徴、そして天文学の専門用語を区別すると、太陰暦は前6世紀より遅くない時にバビロニアから導入されたことをわれわれは見出す。アニマル・シンボルもまた、ほぼ同じ頃に「オルペウス」とその後継者たちに確実に知られており、ヘレニズム化したエジプトにおいて馴染みのものであり、そこにおいて、その中の幾つかはエジプト人たちの神聖動物に置き換えられた。天文学的な詳細に関しては、monhv〔宿〕という用語がギリシア人たちによって使用され、1つずつの宿が範囲を決められ、シドンのドーロテオスの時代以前にともかく名づけられた。伝存するコプト語、ビザンチン語、およびアラビア語のリストは、ギリシア語のセットに基づくか、あるいはむしろ、その後期の形は、元の用語が徐々に獣帯の区分によって、また、古典期の天文学においては部分的に知られなかった星座の名称によって、置き換えられた。

 東方は宿の知識を2度得た。最初に、インド人たちがこれをバビロニアから受け取って、どうやら、これを極東に伝えたようだ。二度目は、インド人たちはこれらのギリシア版を採用した。われわれが扱った事例では、彼らが使ったのはドーロテオスに基づく月暦であった。アラビア人たちはペルシアを介してインドからわれわれのテキストを受け取った。しかし、彼らはモハメッド以前の時代にはおそらくギリシアの情報源から宿を知っていたにちがいなく、中世の世界で教義の主要な代表となった。中国人は、キリスト教の時代の初め頃に、おそらくバクトリアを経由してヘレニズム・エジプトからアニマル・セットを受け取った。

 この再構成がすべての問題を解決するわけではない。例えば、われわれの獣帯が完全に動物で構成されていないのは何故か、あるいは、インド人と中国人がいかにしてまったく別のセットを作り出したのか、をわれわれに教えない。そして空想的な年表は避けられるが、正確な年表は示唆されていない。これらの疑問のいくつかは専門家たちによって答えられうるが、あるものは永遠に謎のままであろう。

 天文学的問題と暦学的問題の両方を覆う調査は、必然的に宗教の世界にも接触する。バビロニア人たちが彼らの月の体系を確立したときに、彼らの創造神話の中にその精巧な記録を作ったのかどうか、という質問にわたしは答えることができない。しかし、彼らは彼らの祭りを月の体系に適合させた:彼らは月の主要な相を聖なる日にした;彼らは、おそらく何らかの神学的体系化を通して、その日々を彼らの主たる神格に服従させた。同じことがギリシアでも起こった:聖日が導入され、暦月は最初は 3 x 10 日という、後には 30 日という神々の誕生日で構成された。ヘレニズム化されたエジプトにおいて、われわれは時間と創造に関する思索、文字と数のシンボリズム、神話学と魔法を見出す;手短に言えば、月の神学の基本である。なかんずく、ヘレニズムの占星術師たちは、この教義をたっぷり用い、12刻限の関係するシステム、つまり、boulai:oi qeoiv というシステムを発展させ、そしてまた古エジプトのデカンをも近代化した。彼らの神的な守護者たちのほかに、日々は彼らの 4 x 7 惑星の支配者たちをも受け取った。後者は今もわれわれの週日を支配し、その一方で、神的な守護者たちは、はじめは創世記の家長たちによって、次いでキリスト教の聖人たち — これはわれわれの太陽暦と一致して、1年の全体に広がった — によって置き換えられたのである。

STEFAN WEINSTOCK
 2019.08.16. 訳了。

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