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back.gifクテーシアス断片集(1/7)


ペルシア誌・インド誌

クテーシアス断片集(2/7)






"3c, 688, F"
Fragmenta(1/6)

断片"1b"
DIODR. 2, 1_28:

[2, 1]
 [1]前巻は……エジプト方面の出来事を含んだ。……[2]……[3]この巻では、アシア方面で古代に起こった出来事を書き留めることにして、アッシュリア人たちの覇権から始めることとする。[4]さて、古くは、アシア方面で王となったのは地元出身だが、これらの王の功業は何ひとつ目立ったものもなく、王の名も記録に残るものはない。歴史と記憶に伝わって今日に残る最初の王はニノスで、アッシュリア人たちを治め大きな功業をやり終えた。そこで、この点について細部にわたり記録することにしよう。すなわち、この王は、天性戦争上手で勇徳を熱心に求めた。また、若者たちのなかで最も優れて力のある者たちを武装させたが、それ以上に時間をかけてこの若者たちを鍛え上げ、どのような苦難や戦の危険にも平然と対応できるようにした。[5]かくして、王は大規模な軍を集結させると、アラビアの王アリアイオスと同盟を結んだ。その頃アラビア地方は勇敢な戦士に満ちている、という評判だった。総じてこの族民は自由を愛し、どんな形でも多族出の覇者を受け入れることをしなかった。……[6]……[7]そこで、アッシュリア人たちの王ニノスは、アラビア人たちの中の最高権力者を味方につけると、大軍を率い、バビュローニア人たちが自分たちの隣の地方に住みついていたのに向かって、遠征した〔前539年、バビュロン陥落〕――その頃、今日のバビュローン市はまだ建設されていなかったが、バビュローニア地方には、これ以外にもふれるに足るほどの都市が、いくつも存在した――王はこの地方民を楽々と征服したが、これは相手が戦場での危険に慣れていなかったからである。王は地元民に毎年一定の貢納を行うよう命じ、戦いに敗れた族民の王を、その子ともども捕虜にして殺した。[8]その後、大軍をもってアルメニア地方へ攻め入り、いくつかの都市を破壊して、地元民を震え上がらせた。だからこそ、地元民の王バルザネースは、互角に渡り合うだけの力が自分にないと見て、数多くの贈物をたずさえて出迎え、相手の王が下す命令には全面的に従うことにする、と謂った。[9]対してニノスは、この王を寛大に遇し、アルメニアを治めることに加えて、友としての立場からニノスの軍営に、(同盟)軍の提供と必要な物資の供給を行うことをも、承認した。そして、絶えずますます国力を増しつづけて、メーディア地方へ遠征した。[10]メーディア地方の王パルノスは、大規模な軍を率いて陣を張ったものの、戦いに敗れて大部分の兵を失い、自分は子供7人と妻ともども捕虜となって捕まり、磔に処された。
[2, 2]
 [1]このようにして、諸事業がニノスにとってうまく行ったので、タナイスとナイルとの両河の内側にあるアシアを、ことごとく征服しようという恐ろしい野望をいだいた。運のよい人々にはありがちだが、事業が順調に進むと、一段と大きな事業へと欲望をかき立てられる。だからこそ、〔王は〕自分を囲む友のひとりをメーディア地方の太守に任じると、自分はアシア方面の諸族の征服へ出立した。そして17年間を費やして、インド、バクトリアネー両地方を除く残りの諸族を、ことごとく支配下に置いた。[2]そこで、戦闘を何度行ったか、全部でどれだけの数の部族を戦いに破ったかについては、他の何れの史家もひとりとして記録に留めていないが、しかし、そのなかでも最も名の通った諸族については、クニドスのクテーシアスの著(があるので、それ)にしたがって簡単にふれることにしよう。[3]すなわち、王が海沿いの土地やそれに引きつづいての地方のなかで、征服したのは、アイギュプトス、ポイニケー、さらにコイレー・シュリア、キリキア、パムピュリア、リュキア。これらに加えてカリア、プリュギア、ミュシア、リュディア〔の諸地方だった〕。また併合したのは、トローイアス、ヘッレースポントスのほとりのプリュギア、プロポンティス、ビテュニア、カッパドキアの諸地方、ポントスからタナイス河にかけて住みついている非ヘッラス諸族。さらに支配下に置いたのは、カドゥシオイ、タピュロイ両族の地方、さらにはヒュルカニオイ、ドランゴイ両族の地方、これらに加えてデルビコイ、カルマニオイ、コーロムナイオイ、さらにボルカニオイ、パルテュアイオイ諸族の地方。さらに、ペルシス、スウシアネー、カスピアネーと呼ばれる諸地方――この〔カスピアネー〕地方への進入路はまったく狭く、このためカスピアイ・ピュライ(狭門)とさえ命名されていた。[4]このほかにも、これらより小規模な諸族を数多く併合したが、これらにふれると話が長くなるかもしれない。ただ、バクトリアネーー地方は侵入の困難なところで、戦士も数多いため、数多くの困難を重ねたあげく失敗に終わった。そこで、バクトリアノイ族との戦いはもっと別の時機まで延期し、アッシュリアまで〔軍を〕引き揚げると、都市の建設に格好の場所を選び出した。
[2, 3]
 [1]王は、それ以前の人々のなかでも最も顕著な諸功業を成就すると、都市の建設に熱中した。この都市の規模はきわめて大きく、そのためこの都市は、人の住む世界全域に当時存在していた都市の中で最大であるのみならず、後世の諸王の誰かが、もうひとつ別の都市の建設を企てたとしても、それを凌駕することは容易なことではないほどであった。[2]とにかく、アラビア人たちの王には豪華な贈り物と戦利品を数多く与えて軍功を賞し、自軍を率いて故郷の地へ立ち去らせ、自分はあらゆる地方から人手と、仕事に必要な物資をすべてを集めると、エウプラテス河沿いの地にりっぱな城壁を廻らせた都市を建設し、その際市の地割りを長方形状に定めた。市は長辺をどちらも150スタディオン、短辺90スタディオン、としていた。[3]したがって、囲壁全体を合わせると480スタディオンとなり、王の期待を裏切ることはなかった。というのは、囲壁の長さといいその壁廻りの壮麗さといい、これほどの都市を建設した王は後代にもひとりとして現れなかった。壁は高さ100プース、上幅は戦車3台が並んで走ることができた。城壁上の小塔はその数1500で、高さ200プースに達した。[4]王は市内へ、アッシュリア族のほとんどを、しかも最有力者たちを住まわせ、そのほかの族民でも希望する者には住むことを許した。都市には自分の名をとってニノスと名付け、住みついた民には近隣地方の大半の土地をそれぞれに割り当てた。
[2, 4]
 [1]この都市建設の後、ニノスはバクトリアネーーに出征し、その地でセミラミスを娶った、――わたしたちが聞き伝えているあらゆる女たちのなかでも最も名高い女人であるので、この女性について、取るに足りない偶然がもとで、あれほどの評判を得るまでに至った事の次第を、あらかじめ述べなければならない。[2]さて、シュリアにアスカローンという都市があり、ここからほど遠からぬあたりに、大きく深い湖がひとつあって、魚がたくさんにいる。この湖畔に、名高い女神の神苑が位置していて、シュリア人たちはこの女神をデルケトーと名づけている。この女神は、顔は女人のそれだが、そのほかの身体はすべて魚のそれで、これには何か次のような理由がある。[3]地元民のなかでも一番の物識りたちが語る神話によると、アプロディーテーが今あげた女神に対して腹を立て、供犠役の若者のなかで姿形のなかなかに美しいひとりに対する恐ろしいほどの恋心を送りこんだ。かくてデルケトーは交わって、このシュリア人に娘を産んだが、過ちを冒したのを恥じて、若者を抹殺し、赤児は荒野の岩がちの場所へ捨て[ここは、おびただしい数の鳩の大群が巣をかけることを常とし、おかげで、嬰児は意外にも食べ物と安全を手に入れることができたのである]、自分は羞恥と苦痛から湖に身を投げて、身体の形を魚身に変身させた。それゆえ、シュリア人たちは、今に至るもこの生き物を食べるのを控え、魚たちを神として尊崇しているのである。[4]ところで、新生児が捨てられたあたりには、鳩の大群が巣をかけ、意外にも霊妙にも、これらの鳩のおかげでこの赤児は育てつづけられた。すなわち鳩たちは、あるいはその翼で赤児の身体をすっかり包んで暖め、他の鳩たちは近在の農家から、牛飼いなど牧人たちが留守になるのを見張っていては、(留守の間に)口ばしのなかに牛乳を含み、赤児の口を割って中へたらしこんで育てつづけたのである。[5]赤児が1歳になって、もっと固い食べ物をも必要とするようになると、鳩たちはチーズの切れを囓り取ってきては、食べ物をじゅうぶんに与えていた。牧人たちは、家に帰るとチーズがあまりに囓り取られているのを見て、奇異な出来事を怪しみ、それゆえ見張っていてその原因をつきとめようとして、美しさのきわだった嬰児を見つけた。[6]そのため、これをすぐさま農家まで運んでくると、王の家畜を管理していたシムマスという男に預けた。この男が子がなかったので、この児を自分の娘として万事に慈しみ、セミラミスと名づけたが、この名こそシュリア人たちの話し言葉で鳩にちなんで命名されたものである、そして、この時以来シュリア地方の住民は誰もが、鳩を女神として尊崇するところとなったのである。
[2, 5]
 [1]セミラミス誕生時の説話は、だいたい以上のとおりである。この娘がすでに結婚適齢期に達した頃には、その美しいことは、他の処女たちをはるかに凌ぐほどだったが、その頃ひとりの総督(hyparchos)が王から派遣されて、王の家畜群の査察に出ることになった。この人はオンネスと呼ばれ、王の顧問会議の最上席を占め、シュリア全土の総督として指命されていた。この人がシンマスの家に泊まり、セミラミスを見かけてその美しさのとりことなった。それゆえ、シンマスにも頼みこんでこの処女を自分の正式の妻とすることとし、彼女をニノス市へ連れてくると妻に迎えて、二人の子――ヒュアパテースとヒュダスペース――をもうけた。
 [2]セミラミスは、見目美わしさのほかにもさまざまな麗質を備えていたので、ついに夫はすっかり妻の奴隷になりはて、何をするにも妻の意見を求めはじめて、万事にうまく行くほどであった。
 [3]ちょうどこの頃、王は自分の名をとった都市の建設をめぐる一連の仕事を完成させると、バクトリアネー地方へ遠征を企てた。そして、相手の族民が大部族で武勇に優れているのを知り、さらにその地方が、要害の地であるために、近付き難い地点も数多いのを知ると、自分の支配下の諸族から大量の兵を集めた。先の遠征に失敗してしまっていたので、(今度は)その何倍とも知れぬ兵力をもってバクトリアネー地方へ向かえるよう努めていた。  [4]八方から遠征軍が集められ、クテーシアスがその『歴史』のなかに書き留めたところでは、その数は歩兵170万、騎兵20万を越える1万、鎌付き戦車は1万と600に少し足りない数であった。
 [5]遠征軍の規模は、これをいきなり耳にすると信じ難いが、アシア地方の広さとそこに住みついている族民の数の多さを見渡して見れば、明らかに、ありえないことではない。ダレイオスがスキュタイ人たちへの遠征に率いた兵が80万、クセルクセスがギリシアの地へ向け(海峡を)わたった折りに、数えあげられた数は別としても、昨今ヨーロッパ地方で行われた諸功業を調べれて見れば、上述の話がもっと速やかに信頼できるものとなることであろう。
 [6]……
 [7]……今日、上記の諸市周辺が無人の地であることを根拠に、古代におけるこれら諸族の人口数を推定している人々に対しては、以上の(反論)説明でよしとしなければならない。
[2, 6]
 [1]さて、ニノスはこれほどの軍勢を率いてバクトリアネー地方へ遠征すると、諸地域で地形が侵入し難く狭かったので、軍をいくつかに分けざるをえなかった。[2]というのは、バクトリアネー地方には数多くの大きな都市が築いてあったが、なかでも一番名高い市がひとつあって、市中には当然、王宮をも含んでいた。この都市はバクトラと呼ばれ、その規模の大きさといい、アクロポリスあたりの要害堅固さといい、ほかのすべての都市をはるかに越えていた。この地を王支配していたのはオクシュアルテースで、領内で兵役年齢にある者たちをすべて登録し、集めた数40万に達した。[3]王はこの軍を引き具して国境入口あたりで敵勢を迎え討ったが、ニノス軍の一部には侵入を許した。そして、敵勢が平原内へじゅうぶん数多く入りこんだと思われた時、全軍を展開した。戦闘が激しくなるとバクトリア勢は、アッシュリア勢を撃退し、平原より向こうに位置する山地まで追撃を行って、敵兵10万をたおした。[4]しかし、この後(アッシュリア側の)全軍が進入すると、その大軍に押されて市をつぎつぎに放棄した。バクトリア勢がそれぞれに自分たちの故郷を助けようとしたからであった。そこで、ニノスはほかの諸市をば造作なく手中に収めたが、バクトラ市は要害堅固なのと市内の軍備が整っていたため、力でこれを陥れることができないでいた。[5]包囲戦が長引いたので、セミラミスの夫は、妻が恋しかったこともあり王に従って遠征していたので、この女人を王の陣営へ呼んだ。妻には知力、胆力、そのほか自分の卓越性を示すのに与って力のあるような、数々の資質が備わっていたが、今や自分の優れた力を人々に示す好機を得た。[6]まず、何日もの道程を旅して通るつもりで服装を考案し、それをまとっていると男か女か見分けがつかないようにした。この服装は炎熱の中での行旅の間中、肌を焼かずに容色を保ち、また、何でも思うように振る舞うのに役立った。それというのも、この服装なら動きやすく若者に似合ったからである。総じてこの服装は非常な人気を得たあまり、後世メーディア族がアシアの覇者となった時、族民はセミラミスの服装を身にまとい、その後ペルシア民も同じように装ったほどであった。[7]セミラミスはバクトリアネー地方に着いて包囲戦の状況を見渡すと、平原や進入しやすい諸地点の方面では攻撃が行われているのに、アクロポリスに対しては要害堅固なので一兵も近づこうとしていなかった。また、内側でもこの方面の守備を固めたまま、下方の城壁上で危険にさらされている兵を支援しているのを、目にした。[8]だからこそ、この女人は兵の中から岩山を歩き慣れているのを手許に集め、これを率いてとある険しい谷沿いに登り、アクロポリスの一角を陥れると、平原に面した城壁を包囲して味方に合図した。場内の兵は、市の上の砦が陥落したのに衝撃を受けて城壁を放棄し、市を守り通すのを断念した。[9]市がこのようにして陥落すると、王はこの女人の優れた資質に驚嘆し、最初多大の贈り物をもってその功を讃えた。しかし、その後その容姿の美しさに恋慕し、夫に進んで妻を譲らせようと説得に努め、その際このお礼に自分の娘ソサネスを添わせようから、と伝えさせた。[10]そして夫が渋ると、この命に即座に従わないと両眼を奪いとるぞ、と脅した。オンネスは王の脅しを恐れたのと妻を愛するあまり、いわば錯乱狂気の状態に陥り、わが手で頸に縄を巻いて縊死した。  セミラミスは以上のような理由で王宮の華となった。
[2. 7]
 [1]ニノスは、バクトラ市内の宝庫に多くの銀や金があったのを受け取り、バクトリアネー地方の支配体制を確立すると、軍を解散した。その後、セミラミスとの間に息子ニニュアスをもうけてその生涯を終え、後に残した妻が女王となった。女王は夫王を王宮内に葬り、夫王のためまったく大規模な土墳を築き、その高さ9スタディオン、広さはクテーシアスによると10スタディオンに達した。
 [2]市もエウプラテス河沿いの平野内に位置していたので、遠くから見ると、墳墓はまるでアクロポリスか何かのように見えていた。話によると、メーディア族がアッシュリア王国を亡ぼした際、ニノスの市は破却されつくしたのに、この墓は今もなおその姿を留めている。さて、セミラミスは天性大業を企てる人物でもあり、自分より前に王となっていた夫を越えるほどの評判を立てさせようと努めていたので、バビュロニア地方に市を建設しようと企てた。そこで、全土から建築棟梁や職人を呼び集め、さらにそのほかの必要な道具類を準備すると、事業を完成させるため王国内のあらゆるところから、労働者200万を集めた。
 [3]そして、エウプラテス河の流れを中央へ移すと、市の城壁を360スタディオンにわたって廻らせ、壁上に大きな塔を林立させた。この壁の長さはクニドスのクテーシアスによるが、ただしクレイタルコスや、そのほか後世アレクサンドロスに従ってアシア大陸へわたった人々のなかには、365スタディオンと誌した例もある。さらに後者の記録によると、女王は、1年間の経過日数と同じだけの単位距離数を基礎にしたい、と思っていた。[4]そして、焼成煉瓦をアスファルトのなかへ浸し(固め)た後、この壁を築き、その高さはクテーシアスによると50オルギュイア、それより後代のいくつかの記録によると50ペキュス、幅は馬の引く戦車2台分以上の広さがあった。壁上の塔はその数250,高さと幅は壁部分の構造物が持つ重さに比例していた。[5]しかし周壁の長さはこれほどの規模に定めておきながら、塔はわずかばかり築いたとしても、驚異をおぼえるにはあたらない。市は数多くの場所ごとに沼地に囲まれていたので、女王の考えではこの地に壁上の塔を築くまでのことはない。それというのもこれら沼地が天然のりっぱな要害となっているからであった。家屋や城壁の間には、道路の、どこでも幅2プレトロンなのが敷かれていた。
[2,8]
 [1]これらの建造物の建設を速やかに行うため、女王は有力者である友それぞれに1スタディオン区画を割り当て、その際この工事を行うのにじゅうぶんな用材を与え、これらの仕事を1年で完成させるよう命じた。
 [2]この人々が命ぜられた仕事を懸命になって行ったので、女王は功名争いの成果を受け取ることとなった。そして、自分では河が一番狭くなったあたりに長さ5スタディオンの橋を架け、その際技術を駆使して川底へ12プース間隔で(橋脚)円柱を建てた。(柱には)石にくぼみをつけて両側から合わせ、(内に)鉄棒を入れて繋ぎ、これらの継ぎ目に鉛を溶かし込んで塞いだ。また、円柱のうち流れに沿い(両方へ)丸みをつけると、すこしずつ絞り込みながらひとつに丸く結びつくように設計した。この狙いは、角をつけたあたりで鋭角(的な弧)が流れ下る水を両側へ分断し、丸みを帯びた変は水勢に順応しながら河の激しい流下を和らげることにあった。[3]橋には杉や糸杉を桁材に使い、さらに、やし樹の幹の巨大な材をその上に渡して、幅30プースの橋とした。女王の工事が数多いなかでも、技術を駆使していることで、この工事を凌ぐものは他にひとつとしてない、と思われていた。また、河の両岸共に多額の費用をかけて堤防を築き、その幅は城壁とおなじで、長さ160スタディオンに及んだ。女王はまた、橋の両側からはじめて河岸沿いに王宮二群を建てると、その何れからも市内全域を同時に見渡し、まるで、市内でも最適の場所を扼す閂の役を、はたすようにした。
 [4]エウプラテス河はバビュロン市の中央を流れ南に下るので、王宮の一方は東へ、もう一方は西へ寄り、何れも高価な造りであった。女王はまず、夕陽の方を向いて位置する王宮の周壁60スタディオンを造り、壁には焼成煉瓦を使い、壁は高く、多額の費用をかけて守りに堅固な城壁にしていた。そして、この周壁内にもうひとつの城壁を円形に築き、その壁面には、まだ煉瓦を焼かないうちにあらゆる種類の動物の形を浮彫にし、動物は巧みを極めた彩色で真に迫った模像になっていた。[5]この周壁は長さ40スタディオン、幅は煉瓦300枚分、高さはクテーシアスによると50オルギュイア、城壁上の小塔は高さ70オルギュイアに達した。
 [6]そして、それよりさらに内側に三つ目の周壁をも築いて、これがアクロポリスを取り巻いた。アクロポリスは周囲20スタディオンに及び、構造物(としての周壁)は高さ幅共に中間のそれを上まわっていた。壁上の小塔にも壁にもあらゆる種類の動物が含まれ、何れも彩色や浮彫模写像で、巧みを極めたものであった。図柄は全体として狩りの場面を構成し、あらゆる野獣に満ちていて、獣の大きさは4ペキュス以上もあった。女王も自分を、これらの動物のなかで馬上から、豹を槍で仕留めるように造らせ、女王の近くには夫ニノスがライオンを手槍で突く姿があった。[7]また、門を3組取り付け、そのうち2か所はブロンズ造り、機械仕掛けで開くようになっていた。こちらの王宮は規模といい造りといい、もう一方の河岸へ延びる王宮をはるかに凌いでいた。後者の王宮では、城壁の周囲は30スタディオンで焼成煉瓦造り、精巧な動物浮彫の代わりにブロンズ像があった。像はニノス、セミラミス、その廷臣たち、さらにはゼウスで、バビュロンではこの神をベロスと呼ぶ。こちらの王宮にも、隊列を組んだ兵の図やあらゆる種類の狩りの図があって、見るものの心を多彩な魅力で引きつけていた。
[2, 9]
 [1]つぎに、女王はバビュロニア地方の一番の低地を選んで、正方形の遊水池を造った。池は、それぞれの辺が300スタディオン、焼成煉瓦とアスファルトを使って縁を築き、その深さは35プースに達した。
 [2]そして、この池の方へ河の流れを外らせると、こちら側の王宮からもう一方の王宮へ坑道を掘り、両側から焼成煉瓦を使ってアーチ状に覆うと、それにアスファルトを融かして塗りつけ、このアスファルト部分の厚みが4ペキュスになるまでにした。坑道の側壁は、幅が煉瓦20個分、高さは曲線部の壁面を別にして12プースあり、(坑道の)幅15プースであった。[3]この坑道が7日のうちに築かれると、河を元通りの流れの方へ戻したので、流れは坑道の上を通っているのに女王は、対岸の王宮から河を渡らないまま、もう一方の王宮へ通り抜けることが出来るようになった。坑道にも両側にブロンズの門扉を取り付け、これらの門はペルシア王朝期まで残っていた。  [4]女王は、つぎに市内中央にゼウスの神域を造営し、この神をバビュロンでは上述どおりべロスと呼ぶ。しかし、この神域をめぐっては史家の間に論争があり、建造物が時を経て崩れ落ちてしまっているので、詳しく正確なことを述べるわけにはゆかない。意見の一致を見ているのは、高さが群を抜いていたこと、神域内でカルダイオイ民が星の観測を行っていたこと、の点である、違造物が高かったため、東西何れの方向も細かいところまではっきり見えていた。[5]神域建物は全体がアスファルトと煉瓦を使って巧みを凝らし、多額の資金を注ぎこんで造ってあり、階段の天辺には黄金を打ち延べて造った神像がゼウス、ヘラ、レアの三体あった。像のうち、ゼウスは立形で歩く姿をとり、身の丈40プース、重さはバビュロニア単位で1000タラントンもあった。レア像は黄金造りの二頭立て戦車の上に坐し、重さは前像に等しく、両膝の傍に二頭の獅子を立たせ、近くにはきわめて巨大な蛇を銀で造り、蛇は一頭の重さ30タラントンであった。[6]ヘラ像は座形で重さ800タラントン、右手に蛇の頭を押え左手に貴石をちりばめた玉杖を持つ。[7]また、三体の傍には共通の机が黄金を打ち延べて造ってあり、長さ40プース、幅15プース、重さ500タラントンに達する。机上に高杯一対を置き、それぞれの重さ30タラントンである。[8]香炉もあって数はおなじく一対、重さはそれぞれ300タラントン。黄金造りの混酒がめ三箇も傭えてあり、そのうちゼウスに供えたかめの目方はバビュロニア単位の1200タラントン、残りの二つはそれぞれ600タラントンであった。[9]しかし、これらの品を後にペルシアの諸王が盗み出し、王宮そのほかの築造物の方は、時が一部を完全に消減させ一部をば破損させた。当のバビュロン市も今日ではわずかな区域に人が住み、城壁内でもほとんどが耕地となっている。
[2, 10]
 [1]アクロポリス沿いに「懸垂庭園」も位置するが、これは、セミラミスでなくそれより後のシュリア族の何れかの王が、側室のひとりのために築いた。話によると、この側室はペルシア族の出で、山地内の牧場をしきりに恋しがるため、王が、植物園造りの技術を駆使してペルシス地方の特色を写し出すのが良かろう、と考えた。[2]園はそれぞれの辺が4プレトロンも伸び、園への寄り付き道は山路に似て、建物が互いに重なり合うから、そばから見ると劇場風になっている。[3]階段道を作ったその下方に歩廊が出来ていて、これらが植物園の全重量を支え、上記の寄り付き道に沿って、わずかな刻みで層々とすこしずつ上積みされて行く。一番上の歩廊は高さ50ペキュス、そのすぐ上が園の最上階の表面となり、ここで市の城壁上の塔の壁面とおなじ高さになっていた。[4]つぎに、(園を支える)壁は多額の費用をかけて築いたもので、厚さ22プース、壁面間の通路はそれぞれ幅10プースであった。また、天井を石材の桁が覆い、桁材は長さが壁上の積重ね部を含めて16プース、幅4プースであった。[5]桁上にまず天井が来て、そこには葦を下に敷き延べて上にアスファルトを大量に流した。つぎに、焼成煉瓦を二重に並べて間を漆喰いで繋ぎ、三層目には鉛を被せて盛り土から出る湿気が底へ抜けないようにした。そして、これらの上にじゅうぶんな深さになるまで土を積み上げ、この上ないほどの巨木の根にも不足のない深さにした。そして、地面をすっかり均すと、ありとあらゆる種類の樹々でいっぱいにした。樹木は何れもそれらを目にする人びとの心を、大樹であることなどそのほか見ごとな姿で、とりこに出来るものであった。[6]歩廊は互いに層をなして重なり合うため、そこに光りが差し込み、王家の部屋が数多くさまざまな形に造られていた。歩廊のなかのひとつには、最上階の屋根から穴が開いていて地水用の仕掛けが納めてあり、この仕掛けを通して河からの水が大量に汲み上げられていた。ただし、外側からは誰ひとり、この室内で何が行われているのかを知ることは出来なかった。この庭園は先に述べたとおり女王より後の代に築かれた。
[2, 11]
 [1]セミラミスは、エウプラテス、ティグリス両河沿いに、このほかにもいくつかの市を建設して、それらの市内にメーディア、パライタケネそのほか近隣すべての地方から、商品を運んでくる人びとのため、交易場を設けた。ナイル、ガンゲス両河のつぎに、アシア大陸方面で最も名の通った、といってもよいほいの河はこれら両河で、何れもアルメニア地方の山脈にその源泉を持ち、源は相互に2500スタディオンの間を隔てる。[2]そしてメーディア、パライタケネ両地方を経由してメソポタミア(河中)地方へ入る。両河がこの地方を間に閉じこめているいるのが原因で、そこにこの呼び名が決まった。両河は、つづいてバビュロニア地方を通過しエリュトラ海へ流れ入る。[3]何れも大河で広大な土地を通り過ぎ、交易の仕事にたずさわっている人びとに基地を数多く提供している。従って結局、河沿いのいくつもの場所が富裕な交易場で溢れることにもなり、これら交易場はバビュロニア地方の名声があがるのへ大いに力を貸している。[4]セミラミスはアルメニア山地から、石材の長さ130プース幅と厚みそれぞれ25プースもあるのを切り出させ、[5]これを二頭立てのロバや牛の大群に引かせて河へ向け運び下ろすと、筏に乗せた。そして、筏で流れをバビュロニア地方まで運び下ると、一番名高い街道沿いに建てて、通り過ぎる人びとの目に途方もない奇観物とした。これを、形状に因んでオベリスク(焼串)の名で呼ぶ人びともあり、またこれを、「七奇観物」の名で呼ばれる築造物のうちに数えてもいる。
[2, 12]
 [1]バビュロニア地方には常識はずれの奇観物が数多いが、この地方内で産するアスファルトの多量なことも、なかなかに驚異の的である。これがあまりに多量なため、あれほどに数も多く規模も大きな建物用にも、まったくじゅうぶん間に合うだけでなく、民衆が産出場所へ集まって惜しげもなく汲み上げ、乾かして薪代わりに燃やしてまでいる。[2]数え切れないほど多くの人が、まるで大きな泉からでも汲むように取り出しているのに、全体として見れば依然、しずくほども減っていない。この源泉の近くにも(アスファルトの)噴出場所があって、規模は小さいながら噴出する力は驚異の的である。はじめ、硫黄を含んで鼻を突く臭いのする蒸気を吹き出し、この蒸気に生き物が近付くとすべて死に、しかもその最期はあまりに早くてあっ気にとられるほどである。すなわち、一瞬息を止められたようになった後にたおれ、そのありさまはまるで、ひとつの力が呼吸作用へ襲いかかって、息を吐き出すのを遮っているようである。そして、たちまち身体が腫れてふくれ上り、とりわけ肺のまわりにそれが著しい。
 [3]河の対岸にも湖がひとつあって、当の湖水の縁は堅い土なのに、湖に不案内な人が水へ入りでもすれば、わずかの間は泳いでいるが、中心あたりへ進むと、まるで何かが力づくで掴んだかのようにして引きずり込まれる。自力で助かろうとして引き返そうと企てても、脱け出すことに低抗する力が働いて、そのさまは、何ものかが反対方向へ引っ張っているようである。そして、最初は両足先が冷えて感覚がなくなり、それから肢体が腰のあたりまで、ついには全身が麻痺させられて、深みへ落ちて行く。さらに、しばらくの後まったくの死体となって、(水面へ)投げ上げられる。
 バビュロニア地方内で驚異をおぼえるほどの事物については、以上の話でじゅうぶんだとしなければならない。
[2, 13]
 [1]セミラミスは、その諸事業に終止符を打つと、大軍を率いてメーディア地方へ出陣した。そして、「バギスタノン」山へ達すると、その近くに陣を張り庭園を造った。園は周囲12スタディオン、平原内にあって内に大きな泉があり、苗木床へはここから水を遣ることになった。[2]上記の山はゼウスの神山で、庭園に沿った斜面は切り立ったような岩場となって高く、17スタディオンもの間を聳えている。女王は岩場の一番下の部分を削って自分の像を彫らせ、自分のそばには槍持ち100名の立像を加えさせた。そして、シュリア文字で岩壁に刻銘し、それによると、セミラミスは連れて来たロバの群の荷鞍を使って、平原から上記の断崖へと土を盛り、これらの駄獣を使って山頂へ登りついた。[3]そして、そこから軍を発してメーディア地方のカウオン市へ達したが、とある高原内で、高さと大きさ何れにも度肝を抜くような岩山に気づいた。それゆえ、ここでもうひとつ桁外れに大きな庭園を作り、岩山をその中央に閉じこめると、岩の下へ贅を尽した建物を設け、そこから園内の苗木床と平原に展開していた全軍を見渡すことにしていた。[4]この場所に長い間滞在し、贅沢きわまることをことごとく楽しみつくしたが、法に基いた結婚をしようとは思わなかった。王権を奪われることがけっしてないよう気を配ったからで、兵士たちのなかから、容姿の際だって優れた者たちを選び出しては相手をさせ、しかも自分に近付いたこれら男たちをすべて消し去っていた。
 [5]その次に、エクバタナ方面に進軍して「ザルカイオン」山へ着いた。この山はひじょうに長い間を上へと伸び、断崖や峡谷に満ち満ちていたので、道は山をめぐって長くなっていた。それゆえ、自分の名を留める不滅の記念物を遺すと同時に、通過路を縮めることを強く望んだ。だからこそ、断崖を砕きくぼ延を埋めて高価な近路を築き、これには今に至るまでセミラミス道の呼び名がある。
 [6]〔そして、エクバタナ市へ着き、市は平原のなかにあったが、ここに多額の費用をかけた王宮を築き、そのほかこの地に並み並みならぬ配慮を示した。すなわち、市には水がないし、市のそばのどこにも水源がないので、市内全域に水が流れるように企て、そのため多くの苦難に遭い多額の財を投じて、この上なく豊かで美しい水を引き入れた。[7]市から12スタディオン離れたところに「オロンテス」山があった。険しいことと高みへ登る路の長さでは群を抜き、頂上まで二25スタディオンもの山路がまるで垂直なようであった。また、市から見て山のもう一方の側には大きな湖があって、その水は川へ注いでいた。そこで、女王は今あげた山の根方を掘り抜いた。[8]このトンネルは幅15プース、高さ40プースで、ここを通って湖からの水を引き入れ、市にじゅうぶんな水を提供した。
 女王はメーディア地方内では以上の事業を行った。
[2, 14]
 [1]つぎに、女王はペルシス地方をはじめアシアに属するあらゆる地方へも進軍した。そして、いたるところで山や険しい岩場を開削しては、多額の費用をかけた道を作り、平原内に土盛り塚を造った。これには、生涯を終えた将軍たちの墓として築いたものもあれば、高みに市を建設しようとしてのものもあった。
 [2]また、陣を張る折にも小さな盛り塚を築くことにしてもいて、この塚上に自分の幕舎を設営し、全軍の陣営を見下ろしていた。それゆえ、アシア方面には今に至るまで、女王の築いた盛り塚が数多く残ってもいて、セミラミスの造った塚と呼ぶ。
 [3]つぎに、エジプト全土へ進軍し、リビュア地方のほとんどを切り従えると、アンモンの地へ達した。これは、この神に自分の最期について神託を伺うつもりがあってのことであった。伝承によると、女王に届いた神託には、女王が人間界から姿を消し、アシア方面でいくつかの種族の間では不滅の栄典をかち取ることになろう、とあった。そして、自分の息子ニニュアスが自分に対して陰謀を企てる時こそ、まさに最期となろう、というのであった。
 [4]以上の出来ごとがあって後、女王はエチオピア地方へ軍を進めてそのほとんどの地域を征服し、この地方内の途方もない物を目にした。
 この地方に正方形の湖がひとつあり、周囲約160プース、水は色が朱に近く、たとえようもないほど快い香りがあって古酒にかなりよく似ているが、思いもよらない効能がある。話によれば、これを飲むと錯乱状態に陥り、以前に自分が人知れず犯していた過ちをひとつ残らず話しては、自分を責める。しかし、以上の話を聞かせてもらっても容易には賛成しかねるかも知れない。
[2, 15]
 [1]エチオピア方面の住民は死者の墓を独特なやり方で造る。すなわち、遺体をミイラにし、そのまわりにガラスを大量に注いで標柱の上に置き、そばを通ると死者の遺体がガラスを通して見えるようにする。これはヘロドトスの説である。[2]しかし、クニドスのクテーシアスは、この作家が思いつきを話していると断定し、その当人の説によると、遺体をミイラにはするが、遺体をむき出しにしたままガラスを周りに注ぐのではない。これでは、遺体は炎熱にすっかり曝され損壊してしまうから、結局は生前とおなじような姿を保ちつづけることが、できないはずである。[3]それゆえ、内側を空洞にした黄金の似像をもあつらえ、そのなかへ屍を納めると、その似像のまわりにガラスを注ぐ。そしてあつらえた似像を墓室へ置くと、ガラスを通して死者に似た姿の黄金像が見えた。[4](つづいて)クテーシアスの話だが、死者でも富裕だった人びとは以上のようにして葬ってもらうが、財産をそれほど多くは遣さなかった人びとは銀の似像、貧しい人びとは陶製像を、それぞれあてがわれることになる。他方、ガラスはどの死者にもじゅうぶん供されるが、これはこの品がエチオピア方面で一番多く産出され、結局は地元民の間に行き渡っていることによる。[5]エチオピア民の間での仕来りや、そのほかこの地方内での出来ごとのうち、最も重要なもの、話しがいのあるもの、については、もうすこし後で記録するつもりで、その折、この種族の古代における諸功業や神話を述べることにする。
[2, 16]
 [1]セミラミスは、エチオピア、エジプト両地方内の諸問題を決着させると、軍を率いてアシアのバクトラ市へ打って返した。そして、大軍を擁して長い間平安の時を過しながらも、戦時下での輝かしい勲功を何かやりとげたい、という願いに取りつかれていた。
 [2]その時、インド族が人の住む世界のなかの諸族のうちでも一番の大種族で、一番広くもあり美しくもある土地を占めているのを聞き知ると、その地方へ遠征しようと考えた。その頃インド地方の王となっていたのはスタブロバテスで、配下の兵も数限りないほど多勢であった。それに、多くの象をも備えて、戦闘の際には敵の肝を潰させるような装具を付けさせ、際だってきらびやかに飾り立てていた。
 [3]インド地方は類いなく美しい上に、河川が数多く分れて流れるので、多くの土地が水に潤い、毎年二度も実りをもたらす。それゆえ、暮しに必要な物もひじょうに豊富だから、どんな時でも地元民は、これらの物をふんだんに享受させてもらえるほどである。話によると、この地方では気候のほどよい土地柄ゆえ、飢餓や穀類の不毛な時は未だ一度も来たことがない。[4]象の多いことも信じ難いほどで、勇敢さと体力の何れでもリビュア産の象よりはるかに優れている。金、銀、鉄、銅の産出量、加えて、あらゆる種類の貴石の当地方内での産出量、さらには贅沢と富を助けるようなほとんどあらゆる資源、の多いことでも、事情はおなじである。女王は以上の産物について事細かに耳にすると、これまで何ひとつ(相手から)被害を受けていないのに、インド民との戦に出発しようという誘惑に駆られた。
 [5]そして、自分には今以上に法外な大軍が必要だと見ると、すべての属州に使者を出して、総督たちに領内一番の優秀な若者たちを登録するよう命令を通達し、その際それぞれの族民数に応じて(徴兵すべき)数を課した。さらに、全員に新式の完全装備を準備し、そのほかあらゆる物で華やかに身を飾って、三年目にバクトラ市へ到着するよう、命じた。[6]また、船大工を、フェニキア、シュリア、キュプロス、そのほか海沿いの諸地方から呼び集めると、木材を運んでやって、組立て式の川舟を建造するよう命じた。[7]インドス河はその地方内の諸地域にある河川のなかでも一番大きく、国の境界を限っているので、この河を渡るためと渡舟団をインド民の攻撃から守るため、いやが上にも数多くの舟が必要となった。河の流域には木材がなかったので、止むを得ずバクトリアネー地方から陸路で舟を運んで来させた。
 [8]また、自軍に象隊がいないため、ひじょうな劣勢に立たされているのを見てさらに思案した結果、この動物の模像を作らせ、これによってインド勢の度肝を抜くことができようと思った。これは、相手が自分たちの地方以外に象はまったくいるはずがない、と考えているからであった。[9]そこで、黒牛を30万頭集めて、肉の方は職人たちと作り物の象を操る役に当った人びとに配分し、皮を縫い合わせ干し草を詰めて模像を作らせ、全体として象の本来の姿に似せるようにした。そして、一体ごとにその内側に、操る人ひとりとらくだ一頭を入れ、これがらくだの背で運ばれると遠目に見るものには、ほんものの象の姿に見えるようにした。[10]職人たちは、これらの像を女王のために作り上げるのに、終始いわば囲みのなかでその仕事に従事しつづけた。囲みには周りに壁が築いてあって、壁に付いた門扉には見張りが用心怠りなく、このため、内側の職人は誰ひとりとして外へ出ることもなく、外部の人問も誰ひとり、内へ入って職人たちに近付くこともなかった。このようにしたのは、外部の者がひとりとして、なかで行われていることを見ることもなく、インド勢へこれらの模像作りについての噂が流れることもないように、するためであった。
[2, 17]
 舟と動物(像)を2年で作ると、3年目には、領内全土からの軍勢をバクトリアネー地方へ招集した。集まった遠征軍の数は、クニドスのクテーシアスの記録によると、歩兵300万、騎馬20万、戦車10万になった。[2]らくだに乗った男子もいて、4ペキュスの剣を持ち、その数は戦車とおなじであった。川舟の制作数は2000で組立て式、これらの舟を陸路で運ぶ役のらくだをも準傭した。像の模像をも、らくだが運んでいたことはすでに述べたとおりである。兵士たちは馬を(模像を被った)らくだのところへ連れて行き、いっしょにしてその姿に馴れさせて、(敵方の持つ)野獣の荒々しさを恐れないようにした。[3]これに近い対策をとったのは、はるか後代ながらマケドニア王ペルセウスで、ローマ軍がリビュア地方から象隊を連れて来たのへ、立ち向かう危険が生じそうになった折のことである。しかし、この王のばあいも、この種の準傭に努力と技術の粋を注ぎこんだものの、結局は戦闘の行方に決定的な力を及ぼすことにならなかったし、この点ではセミラミスのばあいもおなじ結果となった。その経緯については話が進むにつれて明らかになろう。
 [4]さて、インド族の王スタブロバテスは、敵方の兵力が上に列挙したとおりの大編成で、戦備も桁はずれのものだということを聞き知ると、すべての点で敵の女王を上廻ろうと努めていた。
 [5]まず、葦を使って川舟4000を作らせた。インド地方には川や沼地沿いに葦が茂り、その太さは、人ひとりで抱えるのが容易でないほどだった、という。話によると、この葦で作った舟は格段に使いやすく、それというのもこの材料は腐らないからである。[6]武具の準傭にもひじょうに気を配った上に、インド全域へ出かけて行って、敵の女王が集めた数を上まわる軍勢を集めた。[7]野生の象をも狩って、以前に所有していた数の何倍とも知れぬ数にふやし、そのすべてを、戦闘で相手の肝を潰すような装備で、目ざましく飾らせた [8]それゆえ、象軍が出撃する際には、数の多さと背中のやぐら籠の装備のため、その光景が、人間の手では対抗のしようがないもののように、映ることにもなった。
[2, 18]
 [1]ハインドの王は戦の準備をすべて終えると、進軍途中の敵の女王に使をやり、相手が何の被害をも蒙っていないのに先んじて、戦をはじめようとしていることを、非難させた。そして、文書を通じて女王を、まるで遊女でもあるかのように散々に口汚なく罵り、神々を証人に立てて、女王を戦に破り、はりつけにしてやる、と脅した [2]女王は書簡を読むと文面をあざ笑って、インド王には実際の結果を通して自分の卓越さを体験してもらおう、といった。そして、軍勢を率いて進みインドス河へ着いた時、戦闘に備えた敵舟に出会った。[3]だからこそ、自軍もす早く舟を用意し、舟戦に最も精強の兵を満載すると河中で会戦した。同時に、流れ沿いに布陣した陸上軍も功名を立てようとはやった。[4]激戦が長い間つづいて両軍何れも懸命に戦い合ったが、ついにセミラミスが勝ち、敵舟1000以上を沈め、かなり多くの兵を捕虜にした。[5]そして、勝利に奪い立って河中の島や市をいくつも隷属させ、集めた捕虜の数は10万をこえた。その後インド族の王は河畔から兵を引いたが、これは、恐れて退却したと見せかけながら、真実には敵に河を越える気を起させようとしてのことであった。
 [6]女王の考えでは、事態はうまく進展していた。そこで、河に多額の費用をかけた大きな橋を造らせて両岸を繋ぎ、これを通って全軍を渡すと橋上に守備兵6万を残し、自分はそのほかの遠征軍と共に前進してインド勢を追跡した。その際、象の模像を先行させたのは、敵方の物見のものたちが、女王方にも多数の象がいると王に報告するように、狙ってのことであった。[7]この目論見に関する限り期待を裏切られることはなく、物見に出された兵たちがインド勢に、敵陣内に象の大群がいると報告したものの、これほど数多くの象を女王がいったいどこから伴って来たのかは、誰にも見当がつかなかった。
 [8]とはいえ、この偽計はあまり長く隠し通せるものではなかった。女王の側にいた兵のなかに、夜間陣営内で見張りの仕事を怠けているのを見つかり、これに伴う処罰を恐れて敵陣の方へ脱走し、象についてのからくりを告げた兵たちがいた。インド族の王はこの話に勇気づけられ、模像の件を自軍内にあまねく知らせると、陣容を整えてアッシュリア軍の方へ引き返した。 [2, 19]
 [1]セミラミスもおなじく陣容を整えると、両軍の戦列が相接近したので、インド族の王スタブロバテスは主力陣のはるか前方へ、騎馬隊に戦車隊を付けて送った。
 [2]女王はこれら騎馬隊の出撃を雄々しく迎え討つと、自軍の主力陣の前方に敵方とおなじだけの間隔を置いて、人工の象隊を配したが、インド側の馬がおびえてしまった。[3]すなわち、模像でも遠目には本物の象と見た目がおなじようなので、インド軍の馬は象に馴れているため、すっかり元気を出して馳け出して行った。しかし近付いて見ると、(模像から)出る匂いがなじみのないものである上、そのほかあらゆる特徴がまったくの大違いなので、馬たちはすっかり混乱してしまった。インド兵も、馬から地上へ落ちるものもあり、馬が手綱を引いてもいうことを聞かないため、自分を乗せた馬ごと敵陣へ走りこむ、という突発事に見舞われた兵もあった。
 [4]女王は選りすぐりの兵を率いて戦い、優位に立ったのを巧みに利用して、インド勢を敗走させた。騎馬隊が主力陣の方へ敗走すると、インド王は落胆もせずに歩兵陣を前進させた。その際、象隊を先行させると自分は右翼に陣取り、一番強い象に乗って会戦すると、女王がたまたま自分が位置する側へ陣取っていたのへ、恐ろしい勢いで攻めかかった [5]残りの象隊もこれにならったので、女王の率いる軍勢がこの動物の一団に対抗したのはわずかの間だった。この動物は、勇敢なことでも自分の体力からいっても桁外れに強いので、あらゆる攻撃が出来るから、抗戦する相手を造作なくたおした。[6]だからこそ、大量のあらゆる形での殺りくが行われ、象の足元にたおれる兵もあり、牙に引き裂かれるものもあり、なかには鼻で投げ上げられる兵もいた。大へんな数の屍体が積み重なり、あまりの危険が、見るものに恐ろしいほどの衝撃と恐怖をもたらしたので、もはやひとりとして戦列に止まろうとするものはなかった。[7]敵兵の集団がいっせいに退却したので、インド族の王は当の女王へ襲いかかって行った。まず、矢を射かけて肩口に当てると、つぎに槍を投げて女王の背を貫いたが、槍先が斜めに外れた。だからこそ、女王は恐ろしい目に遭わず馬を駆って逃れたが、これは追跡する動物の方が速度でははるかに劣るからであった。[8]〔橋上の戦い〕兵たちは全員が筏橋へ脱れたものの、ひじょうに多数の兵が、一箇所でしかも狭い場所へ殺到するから、女王側の兵は互いに踏み付け合い、騎馬の兵と歩兵が落ち合って異常な形で混ざり合っては、命を落していた。インド勢が追いすがると橋上では白兵戦となり、戦は恐怖のあまり激しいものであったので、多くの兵が橋の何れの側へも(横に)押し出されて、河中へ落とされた。[9]女王は、戦を生きのびた兵のほとんどが河のおかげで安全地帯に辿りつくと、橋を結び付けていた綱を切った。綱がほどけると筏は数多くの部分に分れ、筏上には追跡中のインド兵が多数乗ったまま、たまたま流れが激しかったため押し流された。こうして、橋はインド兵を多数死亡させながら女王側には多大の安全をもたらしたが、これは、女王の敵方が女王の軍へ向かって河を渡るのを、橋が邪魔したことによる。[10]その後、インド族の王にゼウスからの予兆が生じ、予言者たちがこの河を渡るなとの意味だと主張するので、王は休戦し、女王は捕虜の交換を行った後バクトラ市へ引き揚げた。兵力の三分の二を失ってしまってのことであった。
[2, 20]
 [1]しばらくの後、女王の息子ニニュアスが、ひとりの宦官を通して女王に陰謀を企てた。女王はアンモンの神託を思い起して、陰謀を企てた息子に何らかの処罰をも課さず、逆に王国を息子に譲って臣下の人びとに新王のいうことを聞くよう命じると、たちまちの間に自ら姿を消した。まるで神託どおり神界へ移ろうとしてのことのようであった。[2]一部の神話作家たちによると、女王は鳩になり、多くの鳥が館めがけて飛び降りると、その鳥たちと共に飛び立った。それゆえ、アッシュリア民もこの鳥を神として大事に扱い、セミラミスが不死の身を得たとしている。女王はインド以外のアシア全土の王となった後、今述べたようにして生涯を終え、その生年は62歳、40有2年の間王位にあった。
 [3]クニドスのクテーシアスはセミラスについて以上の歴史を報告した。しかし、アテナイオスそのほか一部の史家によると、この女人は遊女となって容色優れ、その美しさゆえアッシュリア族の王が恋心を抱いた。[4]そこで、最初この女人は王宮内で並みの待遇を受けたが、その後正室として公式の宣言を得ると、王を説いて5日の間自分に王権を譲らせた。[5]セミラミスは王杖を手に取り王の装束を着けると、第一日目に祝宴を張り大盤振舞をして、その席で軍の将と高官全員を説いて自分に協力させようとした。つぎの日になると、大衆と一番の名望家たちの何れもが自分を女王として尊んでいるので、夫王を捕えて牢に入れた。そして当人が性来ひじょうな野心家で大胆な人物なので、王国を支配し、老境に至るまで在位して大事業を数多くなしとげた。
 セミラミスに関わる件については史家の間に以上のような異説が生じている。
[2, 21]
 [1]セミラミスの死後、ニノスとこの女王の間の子ニニュアスが王権を引き継いで、平和な治政を敷いた。その間、亡き母に張り合って、好戦的で危地に赴くような振舞を見せることは、まったくなかった。
 [2]第一に、新王は終始その王国内に止まりつづけ、しかもその間、側妾と自分を取り巻く宦官たち以外の誰にも、その姿を見せることがなかった。しかし、反面で贅沢と安逸にふけり、苦痛や煩わしさを蒙るのを極度に嫌い、その際、王国を幸福にしておくのは、自分があらゆる快楽を、何ものにも邪魔されずに享受するためだ、と考えていた。
 [3]そして、王権を安全に維持し、また支配を受ける側(の反乱)に恐れを抱いたため、毎年それぞれの部族のなかから一定数の兵と指揮の将ひとりを招集した。[4]こうして、全土から集まった軍を市外地に集結させ、白分の側近のなかからこの上なく思慮に富んだ者を、それぞれの部族の支配者に指命した。そしてその1年が過ぎると、ふたたび諸族のなかから前年と同数の兵を招集し、前年度の兵の任を解いて故郷の地へ帰らせた。[5]この制度が執行されると、王権の下に属する人びとはすべて恐怖に襲われることになった。これは、人びとが絶えず大軍の露営するのを見、さらに、反乱を起しまたは服従しない人びとには、即座に懲罰を加えられるのを、見ることになるからであった。
 [6]王が兵を毎年交替させることを思いついたのは、将軍やそのほかの指揮者たちが、お互いにすっかり知り合いにならないうちに、それぞれを離れ離れにさせて、自分の故郷へ帰すのを狙ってのことであった。軍隊生活を長い間つづけると、指揮者たちは戦時の諸間題についての経験や判断力を身につけるし、何にもまして、反乱や支配者たちに対する陰謀に大きなはずみがつく。[7]また、外部の人びとが誰ひとりとして(王を)目にしない結果、王の贅沢が誰にも知られないままになっていた。これは、神が目に見えないまま恐ろしくて、誰も神に悪態を吐こうとしないのとおなじである。将軍、地方総督、財務担当の役人たち、さらには裁判官までも、それぞれの部族ごとに(王が)任命し、そのほかあらゆることを自分に都合がよいと思われるように処理しながら、生涯ニノス市のなかに止まりつづけた。[8]残りの諸王もこの王と似たようなもので、すべて自分の父からその子として統治権を継承し、三〇代にわたって王位についてサルダナパロスに至った。この王の治世にアッシュリア族の覇権はメーディア族へ移ったが、その間1300年以上も続いたとは、クニドスのクテーシアスがその著、巻二に述べるところである。
[2, 22]
 [1]歴代の王の名をすべて記し、それぞれの王の在位年数を記すことは、さして必要ではない。これらの王は、記録に価することを何ひとつ行ったことがなかった。記録してもらった功業はただひとつ、アッシュリア民がトロイア方に援軍を送ったことで、この軍を指揮したのがティトノスの子メムノンであった。[2]テウタモスが、アシアの王でセミラミスの子ニニュアスから数えて、二〇代目にあたったが、話によるとこの王の治世に、アガメムノンの率いるギリシア勢がトロイア地方へ遠征した。その折アッシュリア族は、すでに1000年以上にわたって、アシアの覇権を握っていた。プリアモスも戦に苦しみ、トロイアス地方の王であると同時にアッシュリア族の王に臣従していたので、その王の許へ使節を送って助勢を願った。テウタモス王は、エチオピア勢1万に加えて、これと同数のスシアネ地方民の軍勢に、戦車200台を付けて送り出し、これにティトノスの子メムノンを将軍として付けた。[3]ティトノスもその頃ペルシス地方の将軍で、王の許では属州総督の任にあった役人のなかでも、とりわけ評価が高く、また、メムノンは壮年盛期に入って、その武勇と精神の輝きは衆に抜きん出ていた。後者はスサ市内の山頂に王宮を建設し、この館はペルシア族が覇権を握る時まで維持され、建設者に因んでメムノネイア宮の呼び名があった。さらに、この地方を通って大きな街道をも築き、この道には今に至るまでメムノネイア道の名がある。
 [4]しかし、エジプト周辺のエチオピア族の間にも異論がある。その説によると、この人物は自分たちの地方にいたことになり、また、族民は古代の王館を示して、これに今日までメムノネイア宮の名があるという。[5]ともかく、その話によると、この王は歩兵二万、戦車200台を率いてトロイア方を助け、王の勇気は驚異の的で、戦闘の間に数多くのギリシア兵をたおしたものの、ついにテッタリア勢の待伏せに遭って殺された。しかし、遺体はエチオピア勢の手に戻って亡骸を火葬に付し、遺骨をティトノスの許へ運び去った。これら非ギリシア民の話によると、メムノンについては以上の話が、王家の記録のなかに報告されている。
[2, 23]
 [1]サルダナパロスは、ニノスが覇権を確立してから三〇代目にあたり、アッシュリア民の王としては最後の代で、その贅沢と安逸ぶりで歴代の王の何れをも上廻った。側近以外の誰ひとりとしてその姿を目にしたものがない点を別としても、生涯を女人として送り、側妾たちと共に暮らした。一番柔かい羊毛を紡いで紫紺染めにしては、女人用の衣装を身にまとい、顔から全身まで白粉そのほか遊女のような装身具で、贅沢好きのどんな女人よりも柔弱な装いをしていた。[2]また、声色もつとめて女人らしく、宴席では飲み物食べ物何れも、できるだけ快楽を生むことのできるものを、絶えず味わうのに加えて、男をも女同様相手にして、愛の楽しみに耽けるようにしていた。男女どちらとの交わりをも遠慮会釈なくやってのけ、その振舞を恥じる気など微塵もなかった。[3]そして、贅沢と恥知らずの極みの快楽と放縦に、あまりに突き走ったあげく、自分のための挽歌を作って王国の後継者たちに、自分の死後その墓へ銘に刻むよう命じた。その詞は自分で非ギリシア民の言語で作ったが、後代ひとりのギリシア人がギリシア語に訳して――   お前は自分が生まれながらに何れ死ぬ身だということをよく承知し、
  その胸は宴の楽しみのままに高鳴った。
  死んでしまえばもはや何の楽しみも来ない。
  このわたしでさえ偉大なニノスの都に王であったのに、
  今は灰だからだ。
  食べ、非道に振舞い、恋ごとに楽しみを味わっただけは、
  みなわたしのものだ。
  だが、そのほか幸せをもたらしたあの数多くの物は、
  死後も残っている。
 [4]このような性分だから、自分で恥かしい最期を終えた上に、アッシュリア族の覇権が、記録に残っている限りで一番長く続いていたのに、それをも壊滅させた。
[2, 24]
 [1]アルバケースというメーディア族出の、武勇とすばらしい精神で衆に抜ん出ていた人物が、1年任期でニノス市へ送って来られる兵たちの、将となっていた。そして、遠征の折バビュロニア勢の将軍と親しく交わり、その勧めに乗ってアッシュリア族の覇権をたおした。
 [2]後者の将軍は名をベレシュスといい、バビュロニア民がカルダイオイ氏と呼ぶ祭司集団のなかでも、一番名の通った人であった。天文と予言の術にこの上なく精通し、多くの人びとに将来の出来ごとを予言して誤ることがなかった。それゆえ、これらの知恵では驚異の的となり、メーディア族の将と親しくなると、この相手に、「あなたは、サルダナパロス王が治めている全土をことごとく、王として治めなければならない身だ」と予言した。[3]アルバケースはその将軍を賞賛して、この反乱が成就すればバビュロニア地方の総督の地位を与えよう、と約束した。そして、まるで何れかの神の声に勇気付けられたようにして、進んでほかの諸族の将たちと結束し、その全員を宴席や共同の集会に熱心に招いた。そのひとりひとりと友情関係を築こうとしてのことであった。[4]また、王とも直接会ってその生活ぶりを隅々まで見定めよう、と努力した。だからこそ、宦官のなかのひとりに黄金の酒盃を贈って、サルダナパロス王の許へ案内してもらい、王の贅沢ぶりも身の廻りの品へ女人のように執心するのをも、事細かに知った。そして、王は何の値打ちもない人間だと軽蔑し、今あげたカルダイオイ氏出の将から贈られた希望を、これまでよりはるかに強く確信するようになった。[5]ついにベレシュスと誓いを交わして、自分ではメーディア、ペルシア両族を反乱に立ち上らせた。相手はバビュロニア民を説得してこの行動に参加させ、アラビア族の首長と親しかったので、これをも全軍決起の計画へ引き入れた。[6]招集軍の(滞在期間である)1年が過ぎ、つぎの引き継ぎ役の軍兵が来て、前任の将兵が解散し種族ごとにそれぞれの故郷へ向かうことになった。その時を見て、アルバケースはメーディア勢を説得して王の攻撃へ向かわせた。ペルシア勢は自由の身となることを条件にこの企てに参加して、(盟友の)誓いを交わした。これとおなじようにして、ベレシュスもバビュロニア勢を説得して自由を取り戻そうといった。また、アラビア地方へ使節を送って、その地元民を統治する任にあたっている人物が、自分の友であり客として遇した仲なのを、攻撃に参加させるよう手を打った。[7]1年任期が過ぎると、以上の将たち全員が兵を集結させ、押し揃ってニノス市へ着き、名目上では習慣どおり引き継ぎを行いながら、実際にはアッシュリア族の覇権を解体しようとした。
 [8]それゆえ、上記4族が一箇所へ集結し、その数は計40万に達したのがひとつの陣営へ集ると、どうすれば有利に事が運ぶかをめぐって相共に評定を重ねた。
[2, 25]
 [1]サルダナパロス王は反乱を知ると、直ちにほかの諸族からなる軍勢を反乱勢に差し向けた。最初、会戦が平原内で行われたこともあって、反乱を起した側が後れをとり、多くの兵を失い追いつめられて、ニノス市から70スタディオン離れた山中へ逃げこんだ。[2]しかし、ふたたび山を下って平原へ出ると会戦に傭えたので、王は自軍を対陣させると、まず触れ役の者たちを敵の陣営へ送って、王はメーディア人アルバケースを殺した兵たちに金貨200タラントンを与えようし、生け捕りにして引き渡せぱその2倍の額の財貨を贈り、メーディア地方の総督に任じよう、と触れさせた。[3]触れ役はおなじようにして、バビュロニア人ベレシュスを殺すか生け捕りにした兵たちに、下さり物があろう、と伝えた。しかし、誰ひとりこの触れを気にとめないので、王は戦を起し反乱勢を多数殺害し、残りの一団を山中の陣まで追撃した。[4]アルバケースは敗戦に気落ちして、仲間との集会を招集し、どうすべきかを協議したい、と提案した。
[5]ほとんどの発言は、故郷の地へ脱れて要害の場所を確保し、そのほか戦の役に立つ物を、出来るかぎりじゅうぶんに準備しなければならない、というものであった。しかし、バビュロニア人ベレシュスは、諸神が自分たちに予示なさっているのは、苦労を重ね苦難に遭おうが最後には目的をとげるだろう、ということだといい、そのほか口をきわめて励ますと、全員この危難に耐えよう、と説いた。[6]〔三度目も反乱側が敗北〕それゆえ、三度目の会戦が行われたが、またも王側が勝ち、反乱側の陣営を制圧し、敗走する敵を追ってバビュロニア地方との境に達した。アルバケースも進んで華々しさきわまりない戦闘に身をさらし、アッシュリア兵を多数打ちはたしながら、手傷を負った。[7]反乱側の敗北の傷手は、立てつづけに生じたためもあってひじょうに深く、指揮に当った将たちは勝利への希望を失って、それぞれに自分の故郷の地へ引き揚げる準傭をはじめた。
 [8]しかし、ベレシュスは夜間、野天で眠りを断ちながら熱心に星の観察をつづけると、自分たちのやっていることに希望を失ってしまった将たちに向かって、五日の間辛抱しさえすればおのずと援助の手が来て、事態は全面的に逆方向へ巨大な転換をとげるであろう、といった。星の運行への経験から見て、諸神が自分たちに以上のことを予示しているのを見た、というのであった。そして、これだけの日数をここに止まって、自分の(予言の)術と諸神の御好意を試すがよい、と勧めた。
[2, 26]
 [1]それゆえ全員がふたたび呼び戻され、定めの時間を辛抱していると、誰かがやって来て、バクトリアネー地方から軍勢が派遣されて、王の陣の近くまで全力で進軍中だ、と報らせた。[2]それゆえ、アルバケース側としては、なるべく早くこれら軍の将たちを出迎えるのがよいと思ったが、その際自軍のなかから最強で装備も最も優れた兵たちを集めておいた。言論を通してバクトリア勢を説得して反乱に加わらせることが出来ればよし、そうでなければ武力に訴えて無理にでも、やはりおなじ目論見に加担させようとしてのことであった。[3]そしてついにまず将軍たち、ついで全軍も自由を求める呼びかけを喜んで聞き入れたので、ひとり残らず(反乱軍と)おなじ場所に陣を敷いた。
 [4]まさしくこの時、アッシュリア族の王はバクトリア勢の謀反に気付かず、それまでの事がうまく行ったのに有頂天となった。このため、気を抜いてしまい祝勝祭を行うとして、兵たちにくまなく、供犠の動物や大量の酒そのほか入用な晶を配る事態になっていた。だからこそ、全軍が御馳走に与っ ているところへ、アルバケース側は、一部の脱走兵から聞いて、敵の陣営内では誰もが警戒を解いて酔いつぶれているのを知ると、夜にまぎれて奇襲攻撃をかけた。[5]隊伍を整えた軍勢が隊伍もない兵と渡り合い、準備をすませた軍勢が何の用意もない兵と会戦して、敵の本陣を制圧し、多数の兵を殺し、そのほかの兵をばニノス市まで追撃した。
 [6]その後、王は妻の兄弟ガライメネスを将軍に任じ、自分は市域内で事の推移に注意を払っていた。反乱側は市の前方にあたる平原内に陣を敷くと、二度会戦してアッシュリア勢に勝ち、ガライメネスを殺し対陣した敵兵のうち敗走するものを殺した。市への退路を封じられて仕方なくエウプラテス河へ飛びこんだ兵もあったが、わずかの人数を除いてこれらもすべて命を失った。[7]殺された兵の数があまりに多かったので、行く河の流れが血と混って、かなりの地点まで色を変えるほどであった。それから後、王が包囲を受けて閉じ込められると、多くの族民が王から離反した。それぞれの種族ともに自由を目指しての脱走であった。[8]サルダナパロス王は、王国全土が最大の危機のなかにあるのを見ると、息子3人と娘2人に多額の財貨を持たせ、パプラゴニア地方へ送って、その地の総督コッタスが臣下のなかでもこの上なく思慮深かったのを頼らせた。そして、自分は直属の臣下全員の許へ使者に書簡を持たせてやって、軍を招集すると包囲戦に抵抗する準備に入った。[9]その王に父祖たちからの托宣が伝えられ、それによると、ニノスの都を武力で陥れることは、それに先立って河が市に敵対しない限り誰にもできない、とあった。それゆえ、王の側ではこのようなことが生じる時はけっしてないだろうと思ったので、期待をこめて抗戦したが、そこには、包囲戦に耐えていれば、自分の臣下が軍勢を送って来て加勢する、との考えがあった。
[2, 27]
 [1]反乱側は、優位に立ったのに力を得て包囲を強めたが、城壁が堅固なので、城内の兵に何ひとつ損害を与えることが出来なかった。大型投石器、穴掘り用の石除け屋根、破城槌、は城壁を倒壊させる仕掛けだが、何れもこの時代には未だ発明されていなかった。市内には寵城に必要な物資がきわめて豊富に貯えてあり、これは、王がこの点を予め考えていたことによる。それゆえ、包囲戦も長引いて2年にわたり、その間、反乱側は押し寄せては城壁に攻撃を加え、郊外への出口を封鎖して市から人が出られないようにしていた。3年目に入ると、大雨が降りつづいてその結果エウプラテス河が広がり、市の一部を水浸しにし、城壁を20スタディオンにわたって押し流した。[2]この時、王は、神託(が示した条件)が満たされ河はあきらかに市に仇した、と見なして、助かる希望を捨てた。そして、敵の手に落ちまいとして王宮内に薪を山と積ませ、金銀をすべてと、加えて王の衣裳もすべて薪の上に積み上げさせ、側妾、宦官を何れも薪の真中に作らせた一室へ閉じこめ終ると、これらすべてを道連れにわが身を王宮もろとも焼き尽した。[3]反乱側は、王の命終を知ると城壁の崩れ落ちたところから進入して市を制圧し、アルバケースに王の衣服をまとわせて王と呼びかけ、王国全土の支配を委ねた。
[2, 28]
 [1]まさにこの時、新王は共に戦った将軍たちに対し、その勲功に応じて隈なく贈物を渡した上、それぞれの族民の総督に任じた。バビュロニア人ベレシュスは、新王が将来アシアの王となることを予言していたので、王に近寄ると、自分が親切を尽したことにふれて、最初から約束してくれていたとおり、自分にバビュロンの支配権を与えてくれるよう、求めた。[2]〔ペレシュスの巧妙な要求そして自軍が危地に陥った際進んでベロスの神に願をかたことを、口にした。その願は、サルダナパロスを打倒し王宮が火に包まれた時には、そこから出た灰をバビュロン市へ運び去って、この神の神苑と河の近くに塚を築き、また、エウプラテス河を航行する人びとに向かっては、アッシュリア族の王権を解体した者を示すための不滅の記念物を築く、というものであった。[3]ベレシュスがこれを求めたのは、ひとりの宦官から銀や金についての話を耳にしていたからで、この宦官が王宮を逃れて自分の許へ逃げこんだのをかくまっていた。[4]アルバケースは以上の件について何ひとつ知らず、それというのも、王宮内の物はすべて王と共に焼けてしまったからであり、知らないまま、灰を運び去ること、バビュロン市を負担免除にすること、の何れをも認めた。ベレシュスは舟を集めて来ると、灰と共に銀や金をほとんど全部、手早くバビュロン市へ送り出した。しかし、この所行を王に告げたものがあって事が露見すると、王は共に戦った将軍たちを裁判官に任じた。
 [5]実行者は不正を行ったことを認めたので、法廷は被告に死刑を宣告した。しかし、王は度量が大きく、覇業をはじめるにあたって寛容を見せたかったので、被告を危地から解放し、銀と金を持ち去って行ったのをそのまま所有することに、同意した。これとおなじく、最初許したバビュロン市の支配権をも剥奪せず、その際、相手が以前自分に尽してくれた親切は、それ以後の不正行為より大きい、と述べた。[6]この寛容さが隅々まで宣伝されたので、新王は諸族民から並々ならぬ好意と評判を手に入れた。それは、悪事を働いた者たちにもこのような態度で接する人こそ、王権を握るにふさわしい、と誰もがこぞって判断したことによる。[7]新王は、市内の住民には寛容に接してこれらを村落に定住させ、その際それぞれに自分の財産を持たせると、市域を根こそぎ破却した。それから、銀や金が薪の炎の中から燃え残っていたのが、多額に上がったのを、メーディア地方のエクバタナ市へ運び去った。[8]アッシュリア族の覇権は、ニノス王から30代の間つづいて1300年を越えていたが、メーディア族の手で上述のようにして崩壊した。

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