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back.gifクテーシアス断片集(2/7)


ペルシア誌・インド誌

クテーシアス断片集(3/7)






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Fragmenta(2/6)

断片"1c"
ANON. De mul. 1:セミラミス。

 クテーシアスの主張によれば、シュリアの女神デルケトーと、あるシュリア人との間にできた娘で、この娘はニノス王の家来シムマスに育てられたが、王の家臣であったオンネスに娶られ、2人の息子を得た。しかし、夫とともにバクトラを攻略したので、ニノスが寵愛し、すでに高齢であったにもかかわらず、結婚した。彼との間に子どもニニュアスを生んだ。ニノスの死後、バビュローンを焼成煉瓦とアスファルトの城壁で囲み、ベーロスの神殿を建造した。しかし息子ニニュアスの策謀によって命終した(F 1 m)、享年62歳、王位にあること42年間であった。
断片"1d"
STRABON 16, 4, 27:

 この種の名称、とりわけ非ヘッラス人のそれが変化した例は多い。ヘッラス人は、例えばダリエーケース〔王〕をダレイオス、パルジリス〔王女〕をパリュサティス(F15 §47?)、アタラ〔女神〕をアタルガティスと呼んだ――ただし、クテーシアスは、彼女〔アタラ〕をデルケトーと呼んでいる。
断片"1e, Alpha"
ERATOSTH. Catast. 38 p.180 Ro:

 ……「大魚」と呼ばれる魚……これについて記録されているところでは、クテーシアスの主張であるが、昔、〔シュリアのヒエロポリス・〕バムビュケーの湖にいたという。そして、デルケトー――この地方の住民がシュリアの女神と名づけている――が、夜、落ちたとき、これを救ったという。
断片"1e, Beta"
HYGIN. Astr. 2, 41:

 Piscis qui notius appellatur .... qui laborantem quondam Isim servasse existimatur/ pro quo beneficio simulacrum piscis et eius filiorum .... inter astra constituit. itaque Syri com- plures pisces non esitant et eorum simulacra inaurata pro diis penatibus colunt. de hoc et Ctesias scribit.
断片"1e, Gamma"
TZETZ. Chil. 9, 502:

 アッシュリアのある女王(anassa)で、名前はデルケトー、恋情からシュリアのある若者と姦通する。そして身ごもったが、評判を恥じて、くだんのシュリア人は抹殺し、嬰児を生んだが、野に捨てた。そしてみずからはミュリスの泉に投身して、ここで溺れ死んだ。しかしシュリアの物書きたちの言うところでは、彼女は魚となったという、だからシュリア人たちは魚に類したものは食べることさえしない。
断片"1f"
ARNOB. Adv. nat. 1, 52:

 age nunc veniat quaeso per igneam zonam magus ab in- teriore orbe Zoroastres, Hermippo (IV) ut adsen- tiamur auctori Bactrianus et ille convenial, cuius Ctesias res gestas Historiarum exponit in primo.
〔断片"1g"欠番〕
断片"1h"
STEPH. BYZ. "Chauon"の項。

 メーディアの地方。クテーシアスが『ペルシア誌』第1巻の中で。「セミラミスは、彼女自身もその征軍も、ここから脱出し、メーディアのカウオーンにたどり着いた」。
断片"1i"
SYNKELL. p.119, 11:

 音に聞こえたセミラミスは、大地の至る所に塚(choma)を築きあげた、口実は洪水のためだが、本当は、恋情の泥に埋もれた生き物の墓(taphos)であったと、クテーシアスが記録している。
〔断片"1j"欠番〕
断片"1k"
DIODOR. 1, 56, 5:

 上述の諸都市〔エジプトのバビュローンとトロイア〕についてクニドス人クテーシアスが異なったふうに記録していることを、わたしは知らないわけではない、その主張によれば、セミラミスとともにアイギュプトス攻撃に加わった者たちの一部がこれらの諸都市を建設し、自分たちの祖国にちなんでその名をつけたという。
断片"1l, Alpha"
ANTIGON. Hist. mir. 145:

 クテーシアスによれば、アイティオピアにある(scil. 泉)は、水は辰砂のように真っ赤であるが、この泉から飲む者たちは、精神錯乱になると(scil. カッリマコスが主張している)。このことは、『アイティオピア誌』を編纂したピローン(670 F 1)も記録している。
断片"1l, Beta"
PARADOX. FLOR. 17:

 クテーシアスの記録するところでは、アイティオピアにある泉は、色は辰砂色、これから飲む者たちは精神を狂わせ、その結果、ひそかに行ったことをも認めてしまうという。
断片"1l, Gamma"
Plin. N.H. 31, 9:

 ……発狂する、エティオピアで赤い泉の水を飲んでそうなった人々のことをクテーシアスが書いている。
断片"1m"
ATHENAG. Pro Christ. 30:

 デルケトーの娘セミラミスも、好色な殺人鬼の女で、シュリアの女神と思われていた、そしてこのデルケトーゆえに、シュリア人たちは鳩たちをもセミラミスをも崇拝しているのは、不可能なことだが、この女〔セミラミス〕が鳩に変身したからである。この神話はクテーシアスの作品にある。
断片"1n"
ATHEN. 12, 38 p.528 EF:

 クテーシアスは『ペルシア誌』第3巻の中で主張している、アシアの王はいずれもみな贅沢にふけっていた、とりわけニノスとセミラミスとの間の息子ニニュアスはそうだったと。実際、この人物は内にとどまって贅沢にすごし、宦官たちや自分の妻たちよりほかには、誰にも姿を見られることがなかった。
〔断片"1o, Alpha"欠番〕
断片"1o, Beta"
AGATHIAS Hist. 2, 25, 3 (SYNKELL. p.676, 15):

 [3]最初に現れたのはニノスで、ここに(scil. アッシュリア地方に)王国を確立し、彼の後で今度はセミラミスが、そしてこれら両人から、じつにデルケタデースの子ベレウスに至るまでの子孫が次々と〔現れた〕。[4]というのは、まさしくこのベレウスまでで、セミラミス一族の後継は途絶え、名をベレータラスという者が、園芸師であり、王宮の庭園の庭番にして管理人であったが、王位を詐取して食い物に、これをみずからの血筋に接ぎ木し――このことはビオーン(89 F 1)によってどこかに書かれ、アレクサンドロス・ポリュイストール〔"polyistor"は"great learning"の意〕(273 F 81)によっても〔書かれていることだが〕――サルダナパッロスまで至る、この〔サルダナパッロスの〕世に、かの人たちの主張では、支配が衰え、メーディア人アルバケースとバビュローン人ベレセウスがこれ〔支配権〕をアッシュリア人たちから剥奪し、王朝を滅ぼし、メーディア族に交替させた(F 1 c.24 ff...F 5 c. 32, 5)、〔こうして〕最初にニノスがかの地に樹立した帝国の支配者になって以来、1000年に加えること306年、あるいはまた、少なくともそれ以上の年月がすでに経過したことになる。というのは、年代をそういうふうに書き留めているのはクニドス人クテーシアスだが、シケリア人ディオドーロスもこれに賛同しているからである。そういう次第で、メーディア人たちが……支配権を握ったのは……300年足らずで終わり……ペルシアの諸王が在位したのも、200と28年間……
断片"1p, Alpha*"
ATHEN. 12, 38 p.528 F_529A:(断片1n の続き)

 サルダナパッロス[ある人たちはアナキュンダラクセースの子だといい、ある人たちはアナバラクサレースの子だというが]もそういう〔贅沢をきわめた〕人であった。だからして、アルバケース――彼の臣下の将軍の一人で、生まれはメーディア人――が、宦官の一人スパラメイゼースに、サルダナパッロスに謁見できるよう取り計らってもらい、その望みがやっとのことでかなえられた時、このメーディア人〔アルバケース〕が参内して見ると、彼が眼にしたのは、かの〔王〕が顔に白粉を塗って女のように身を飾り、紫に染めた羊毛を、側妻たちといっしょに梳きながら、彼女らといっしょに座り、眉を〔描き〕、女用の衣裳を着け、髭を剃りあげ、顔を軽石でこすり――そのために牛乳よりも白く、眼の下に隈をいれていた――姿であった。そして白目をむいてアルバケースを見つめた。[多くの人たち――この中にはドウリス(76 F 42)も入っている――が記録しているところでは、こんな男が自分たちを王支配しているのかと、このことに腹を立て、刺し殺したという]。(断片1q〔に続く〕)
断片"1p, Beta*"
ARISTOT. Pol. 5, 8, 14 p.1311b35:

 ……ある者たちは亡き者にされ、ある者たちは策謀された……〔ある攻撃は〕軽蔑によって起こった、例えば、サルダナパッロスが〔殺されたのは〕女たちといっしょに羊毛を梳いているのをある人が目撃したからである、神話作者たちはこういうことを言っている、それが真実ならばだが。
断片"1p, Gamma"
POLLUX 2, 60:

 クテーシアスがどこかの箇所で主張している、――サルダナパッロスは白眼をむいたと。
断片"1q"
ATHEN. 12, 38 p.529B_D:(断片1m...nの続き)

 しかしクテーシアスの言うには、彼〔サルダナパッロス〕は戦争態勢をとり、多数の征討軍を集めたが、アルバケースに撃砕され、王宮内でみずからに火を放って命終した。〔そのさい〕薪を4プレトロンの高さに積み上げ、その上に黄金の椅子100と50と、同数の卓や、そういった黄金造りのものを据えた。さらに、薪の中に〔縦横〕100プースの木造の館までつくり、そこに一面に椅子をしつらえ、自分ばかりか自分の妻もいっしょにもたれかかり、則女たちも別の椅子に〔もたれかかった〕。というのは、3人の息子たちと2人の娘たちは、事態の悪化を眼にして、ニソスに――そこの王のもとに、前もって送り届けていたのである、黄金3000タラントンを彼らに与えて。さて、かの館を、大きな太い梁の屋根で覆い、次いでぐるりに多くの材木でびっしりと囲いこんで、出られないようにした。その中に、黄金は1万の1千倍タラントン、銀は1万の1万倍タラントン、さらに長衣(ヒマティオン)や紫の衣装やありとあらゆる種類の装身具を収納した。そうして、薪に火をつけるよう命じたが、〔その火は〕15日間燃え続けた。その煙をみた人々は驚いたが、彼〔サルダナパッロス〕が供犠を執り行っているのだと思っていた。事実を知っていたのは、宦官たちのみであった。かくて、サルダナパッロスは、尋常ならざる快楽をきわめたうえで、できるかぎり高貴なしかたで命終したのであった。

断片"2*"
CLEM. AL. strom. 1, 102, 4:

 クテーシアスが言っているところからして、アッシュリア史がヘッラス史よりもはるかに古いとするなら……

断片"3*"
PLIN. N.H. 7, 207:

 長い船で初めて航海したのは、ピロステパヌス(IV)はイアソーンだとし……ヘーゲシアス(142 F 21)はパルハルヌだと、クテーシアスはセミラミスだと、アルケマクス(424 F 5)はアイガイオーンだとする。

断片4
ATHEN. 14, 44 p.639C:

 ベーローソスが『バビュロニア誌』第1巻の(680 F 2)中で主張しているところでは、〔マケドニアの暦月〕ローオス月の16日に、バビュロニアではサカイアと命名されている祭りが5日間にわたって執り行われる、この〔祭りの〕期間、主人たちは家僕たちに支配されるという習慣がある、彼ら〔家僕たち〕のひとりが家政を取り仕切り、王の着るような衣装を身にまとうが、この〔家僕〕はゾーガネース(zoganes)と呼ばれるという。この祭りについてはクテーシアスも『ペルシア誌』第2巻の中で言及している。

断片5
DIODOR. 2, 31, 10-34, 6:

 [31_10]カルダイオイ人たち〔カルデア人。ペルシア支配以前のバビロニアの支配階級、天文学・占星術の祖として知られる〕についても、以上述べられたこと(2_29_31)で充分であろう……そこで、アッシュリア人たちの王権については、これがメーディア人たちの手で解体された次第を、すでに述べ終えた(F 1, c.23-28)ので、横道に逸れた岐点に立ち返ることにしよう。
[32_]
 [1]メーディア人たちの最大の覇権をめぐっては、最も古い歴史編纂者たちの間で異論が生じているから、ふさわしい仕事とわたしどもが考えるのは、……歴史著作相互の喰い違いをはっきりさせることである。[2]まず、ヘーロドトスは、クセルクセース〔1世〕の治世下に生きていた人だが、その話によると(1, 95_107)、アッシュリア人たちはアシアを統治すること500年にして、メーディア人たちの手によって解体された〔前7世紀後半〕。それから何世代にもわたって、アシア全土の王位を争おうとする者は、ひとりも出ることがなく、諸都市はそれぞれに単独の組織を作って、民主的に運営されていた。そして、多くの年月を経過してついに、メーディア人たちの間から正義を格段に重んじた人物が王に選ばれ、王の名をキュアクサレースといった。[3]この人物は、最初その近隣諸地方を併合しようと企て、メーディア人たちがアシア全土の覇権を握る基を作った。次にこの王の子孫たちが、隣接する地方を絶えず広範に自領に加えながら、王国の版図を増やしてアステュアゲースの代に至り、この王がキュロスの率いるペルシア人たちとの戦に破れた。以上の歴史について、差しあたって本書ではその要項をすでに述べたし、その細目は後にそれ相応の年代史にかかったところで、詳しく正確に記録するつもりである。すなわち、第17オリュムピア期の第2年〔707/6〕に、キュアクサレースがメーディア人たちから選ばれて王となった、というのがへロドトスの説である。[4]これに対して、クニドス人クテーシアスは(T 3)、時代からいえば、キュロスが兄弟のアルタクセルクセース〔2世〕に征戦を起こしたときの人で、捕虜にされたが、医術の知識のおかげで大王〔アルタクセルクセース2世〕に召し抱えられ、17年間、王に重宝がられて過ごした。この人物が主張するところでは、王家の皮革文書中に、ペルシア人たちが、ある種の法習に従って、古代の諸功業を編集したものがあったのを基に、それぞれの功業ごとに広く探索し、史書にまとめてヘッラス人たちのために公刊したという。[5]この人の主張では、アッシュリア人たちの覇権が解体した後、メーディア人たちがアシアの覇者となり、その際アルバケースがサルダナパッロスを戦に破って王位についたが、これはすでに述べられたとおりである(F 1 c.24 ff.)。[6]そして、この王が28年間支配した後、王権を引き継いだのが、その息子マウダケースで、これが50年間にわたってアシアを支配した。この王の次に、ソーサルモスが王位にあること30年、アルテュカスが50年、アルビアネースと命名された人物が20に加える2年、そしてアルタイオスが40年〔それぞれ在位した〕。
[33_]
 [1]この〔最後にあげた王の〕治世に、メーディア人たちとカドゥシオイ人たち〔カスピ海南西山岳地帯に住むメーディア系民族〕との間に大きな戦争が生じたが、その原因は次のようであった。――ペルシア人パルソーンデースは、勇武、知力、そのほかの諸徳において驚嘆された人物である上、王の友であり、王宮の会議に参与する人びとの中でも最も大きな力を揮っていた。[2]しかしこの人物が、何かの裁定のおりに、王のせいで苦痛を受け、歩兵3000、騎兵1000を率いて、カドゥシオイ人たちの領内まで亡命すると、この人々のもとにいる間に、これらの地方の最有力者に、自分の姉妹を嫁がせた。[3]そして、この地で反乱に立ちあがると、族民全体に自由を取りもどそうと説き、その勇武ゆえ将軍に選ばれた。それから、自分を討つため大軍が集結していると聞き知り、カドゥシオイ人たちを全員武装させ、この領地への進入路そばに陣を敷き、そこに擁した兵は総数20万を下らなかった。[4]かくて、王アルタイオスが80万の軍をもって自分に向かい遠征して来たのを、会戦に制して敵五万以上を亡き者とし、全軍をカドゥシオイ人たちの領地から追い出した。それゆえ、地元民の間で驚異の的となり、選ばれて王となると共に、メーディア地方を立てつづけに掠奪し、全域を壊滅させた。[5]かくて、大いに評判を高めて老境に達し、その生涯を終えようとするとき、支配権を受け継ぐ者が側に立ったときに、呪いをかけた、――カドゥシオイ人たちがメーディア人たちに対して未来永劫敵意を解消することのないよう、そして、もしも(和解の)協定を結ぶことがあれば、自分の一族から出た子孫とカドゥシオイ人たち全員とがともに絶滅するように、と。[6]まさしくこういった理由で、カドゥシオイ人たちはメーディア人たちとこれまで絶えず交戦状態にあったし、後者の人々の諸王に臣従したこともないまま、ついにキュロスがペルシア人たちに覇権を移した時代に至ったのである。
[34_]
 [1]さて、アルタイオスの命終した後、メーディア人たちを王支配したのは、アルテュネースが20に加える2年、アスティバラスが40年。そして後者の治世に、パルトイ人たちがメーディア人たちに背いて、土地と都市をサカイ人たちの手に渡した。[2]だからこそ、サカイ人たちとメーディア人たちとの間に数年以上にわたって戦争が起こり、何度も会戦して、双方ともにおびただしい数の戦死者を出したあげく、ついに和平協定を結んだ。そして、その条件として、パルトイ人たちはメーディア人たちの支配下に入り、どちら側も以前に領していた地方を支配した上で、永久にお互い友となり同盟を結ぶことになった。[3]ところで、当時、サカイ人たちを王支配していたのは女人で、軍事面では闘争心が強く、大胆さと実行力では、サカイ人たちの女人のなかではるかに格段にすぐれ、名をザリナといった。総じて、この民族は女性が勇敢で、男性といっしょに戦に加わって危地に身を投じるが、話によるとこの女王は、その美しさですべての女人のなかでも最も目立つ上に、さまざまな策略そのほか細かな計画の巧みさでも、驚異の的であった。[4]すなわち、近隣地方の非ヘッラス人たちのなかで、勇敢さを鼻にかけサカイ族を隷属させている諸族を戦に破り、領内の大半を平穏の地にし、都市を少なからず建設し、総じて、同胞の暮らしを一段と幸福なものにした。[5]それゆえ、地元民も女王の命終後その功労の数々に感謝を表し、その徳を記念し、墓を築いては自分たちの間に現に存在するものをはるかに凌ぐものにした。まず、土台として三角形状ピラミッドを据えると、その各辺3スタディオン、高さ1スタディオンに築き、頂上を尖らせた。また、墓の上に黄金造りの巨像を据え、半神並みの祀りを捧げ、そのほかあらゆる点で、女王の父祖たちに認められて来た以上に壮大な、祀り方をした。  [6]他方、メーディア人たちの王アスティバラスが、老境に達してエクバタナにおいて命終すると、その息子アスパンダスが支配権を継承し、ヘッラス人たちによってアステュアゲースと呼ばれた。そして、この王がペルシア人キュロスによって戦に破れて、王権がペルサイに移る。このことについては、その本来の年代のときに(9_22-24)、わたしたちは細部にわたって精確に書き留めるつもりである。

断片6
ATHEN. 12, 40 p.530D:

 クテーシアスが記録しているところでは、大王の代官(hyparchos)としてバビュローニアを統治したアンナロス〔?〕は、女の衣装と装身具を用いたという。また、大王の奴隷にすぎない彼の食事には、弾奏したり歌ったりする女たちが100と50人も参内した、そして彼が食事している間、彼女たちは弾奏し歌っていたとも〔記録している〕。

断片7
ANONYM. De mul. 2:ザリナイア(Zarinaia)

 この女人は、自分の最初の夫――兄のキュドライオス、サカイ人たちの王である――が亡くなると、パルティア人たちの領地の権力者メルメロスに娶られた。かくて、ペルシア人たちの王が遠征してきたたとき、〔彼女は〕戦ったが、傷を負って敗走した。そしてストリュアンゲイオスに追撃され、嘆願して助けられた。その後久しからずして、彼女の夫は彼〔ストリュアンゲイオス〕を配下に従え、亡き者にしようとした。しかし彼女が助けるよう要請したが、説得できなかったので、捕らえられていた者たちの何人かを解放し、これとともにメルメロスを亡き者にし、領土をくだんのペルシア人に引き渡し、これと友好を結んだ、これはクテーシアスが記録しているところである。

断片"8a"
DEMETR. De eloc. 213 (TZETZ. Chil. 12, 893/8):(T 14)

 ストリュアンガイオスなる者、メーディアの男、サカイ人の女を馬上より撃ち落とす。「というのは、サカイ人たちの女たちは、アマゾーン女人族のごとく戦闘するからである」。ところが、そのサカイ女の見目麗しく若々しげなるを見て、心変わりして助けた。その後、和平条約が成って、この女性に対する恋に落ちてしまった。そして、自分にとっては餓死するのがよいと思われたが、その前に、くだんの女性に次のような非難の書簡を書いた。「われは御身を救いしことあり、而して御身はわれによって恋せらるるも、われは御身によって滅ぼされたり」。
断片"8b*"
P. Ox. 2330 s. IIp:

 〔判読困難〕そこで男は言った、「それでは、ともかく、まずザレイエナイア(?)に手紙を書こう」。そして彼は書いた。
 「ストリュアンガイオスはザレイエナイアにかく申す。
 われは御身を救いしことあり、而して御身はわれに救われたるも、われは御身に滅ぼされ、而してわれと我が身を殺せり。御身、われに懇ろにするを望まざればなり。われはこれら諸々の災悪と、この恋情をみずから選びしにあらずも、この神は御身にも、人間どもすべてにも共通なり。されば、慈悲もて来臨せるときは、快楽は最も多くを与え、他にも最多の善きことどもをもって相手を遇すも、怒りもて来臨せるときは、今のわれに対してのごとく、最多の諸悪を働き、根絶やしの最期をもって破滅させ、道を逸れさせる。証拠はわが死をもって証しせん。すなわち、われは御身に何ら嫌悪されたにあらざれば、このうえなき義しき祈りを御身に捧げん。御身もしわれを義しく扱いたれば、多〔欠損〕……

断片9
PHOT. Bibl. 72 p.36a9_37a25:(T 8...5b〔から続く〕)

 さて、彼〔クテーシアス〕はすぐにアステュアゲース〔メーディア朝帝王、前585-550年頃〕についてこう主張する、――キュロス〔2世、ペルシア語名クル。アカイメネス朝ペルシア帝国初代帝王、在位 前559-529年〕は彼と血縁上何のつながりもない。また彼〔クテーシアス〕は彼〔アステュアゲース〕のことをアステュイガスとも呼んでいる。そして、キュロスの面前からアステュイガスはエクバタナに敗走。王の館の牡山羊のヘルメット〔?〕の中にかくまわれた。彼をかくまったのは、娘のアミュティスと、その夫のスピタマスである。これを知ったキュロスは、スピタマスとアミュティス、いやそればかりか彼らの子どもたち――スピタケースとメガベルネース――をも、アステュイガスについて拷問にかけて尋問するよう、オイバラスに言いつけた。そのため彼〔アステュイガス〕は、自分のせいで子どもたちが〔拷問で〕ねじられることのないよう、自首して出た。かくて逮捕されて、オイバラスによって頑丈な足枷をはめられたが、久しからずしてキュロス自身によって解放され、父親のごとく尊敬された。また娘のアミュティスも、初めは母親にふさわしい尊敬を受け〔???〕、次いで、キュロスの妻に迎えられた。彼女の夫のスピタマスは亡き者にされた、アステュイガスを探索しているとき、知らないと言って虚言したかどで。キュロスについてこういったことを言っているのはクテーシアスで、ヘーロドトスはそういうことは〔言って〕いない。
[2]
 また、バクトリア人たち〔バクトリアはオクソス河上流の地域で、主邑はバクトラ。ペルシアの東方経略の重要な拠点となる〕に戦争を仕掛け、戦いは形勢互角だったということも。しかし、バクトリア人たちは、アステュイガスがキュロスの父親であり、アミュティスが母親にして妻であると知って、すすんで自分たちをアミュティスとキュロスに委ねた。
[3]
 また、サカイ人たちにキュロスが戦争を仕掛け、アモルゲース――サカイ人たちの王にしてスパレトレースの夫――を捕らえた。スパレトレーは、夫を捕らえられた後も、軍隊を動員し、キュロスと戦った。男の軍隊30万、女の軍隊20万を率いた。そしてキュロスに勝利し、他の大多数とともに、アミュティスの兄弟パルミセースならびに彼の子どもたちを生け捕りにした。これらのせいで後にアモルゲースも解放されたが、その際、彼らもまた解放されたということ。
[4]
 また、キュロスはクロイソスと都市サルディス攻撃に出征したが、協働者としてアモルゲースを伴った。オイバラスの策略で、ペルシア兵の木像が〔敵の〕城壁の上に現れ、住民を恐慌に陥れ、これによって都市そのものも陥落した次第。陥落の前に、精霊的な幻影がクロイソスを欺いたため、クロイソスの子が人質並みに与えられた次第。クロイソスが罠にはめられ、その子が両眼をくりぬかれた次第。また、母親がその受難を見て、城壁から身を投げ、死んだ次第も。
[5]
 都市が陥落し、市内にあったアポッローンの神殿にクロイソスが庇護を求めた次第、また、神殿の中でキュロスに三度足枷にかけられたが、神殿に封印が施され、その見張りをオイバラスに信託したにもかかわらず、目に見えず三度解かれた次第。クロイソスの協働者たちが首を刎ねられた次第、あたかもクロイソスが解放されることに対する裏切り者であるかのように。そして、王宮に収容され、より安全に囚われていたが、雷と落雷が急襲したので、再び解放し、このときやっとキュロスによって解放されたこと。この時以降、厚遇され、キュロスはクロイソスに、エクバタナの近くの大都市バレーネーを与えた、この都市には騎兵5万、さらにまた軽楯兵と投げ槍兵と弓兵1万がいた。
[6]
 さらに彼〔クテーシアス〕は挿話として次のようにいう、ペルシスにあったキュロスは宦官ペテーサカス――彼のもとで大きな権力を握っていた――を派遣して、バルカニア人たちのところからアステュイガスを連れてこさせようとした。自身も、娘のアミュティスも父親に会いたがったからである。そして、オイバラスが、アステュイガスを荒れ地に置き去りにし、飢えと乾きで破滅させるよう、ペテーサカスに助言した。そのとおりのことが行われた。しかし、夢を通して殺人の血の穢れが告げられたので、ペテーサカスは、アミュティスが何度も要求し、報復のためにキュロスから引き渡された。彼女は〔ペテーサカスの〕両眼をえぐり出し、生皮を引き剥いて、磔に処した。他方、オイバラスの方は、キュロスは何もそういうことを容認する気はなかったが、同じことを被るのではないかと恐れて、10日間、自ら食を断って、自決して果てた。かくてアステュイガスは盛大に埋葬された。ところで食を失った彼の死体は、荒野にずっとそのままあった。ライオンたちが(彼〔クテーシアス〕の主張であるが)、ペテーサカスが再びやってきて収容するまで、その死体を守っていたからである。
[7]
 キュロスはデルビケス人たちの攻撃に出征した、彼らを王支配していたのはアモライオスである。デルビケス人たちは待ち伏せていて象部隊を立ち上がらせ、キュロスの騎馬隊を潰走させた。キュロス当人も落馬し、インドス兵――インドイ人たちもデルビケス人たちと共闘していた、象隊も彼らからもたらされたものであった――このインドス兵が、落馬したキュロスを投げ槍で臀部の下の太股に命中させた。これが原因でまた命終した。このとき、まだ生きている彼を家族が収容して、軍陣に運んだ。この戦闘では、ペルシア兵も多数が、デルビケス人たちも同数が戦死した。〔戦死したのは〕彼らも1万人だったからである。さて、アモルゲースはキュロスのことを聞き、急遽、サカイ勢の騎兵2万を引き具して駆けつけた。かくてペルシア人たちとデルビケス人たちとの間に戦闘が起こり、力攻めで、ペルシア・サカイ軍が勝利し、デルビケス人たちの王アモライオスも――王自身も彼の二人の子供も――亡き者にされた。さらにデルビケス勢の3万が、ペルシア勢は9000が戦死した。かくて領地はキュロスに帰服した。
[8]
 キュロスは最期に臨んで、長子カムビュセース〔2世、在位 前530-522年〕を王位に据え、弟タニュオクサルケースをバクトリア人たち†とその領地、コーラムニア人たち、マルティア人たち、カルマニア人たちの主人に任命し、不完全な領土を保持するよう定めた〔???〕。さらにスピタマスの子どもたちのうち、スピタケースはデルビケス人たちの太守に指名し、メガベルネースはバルカニア人たちの〔太守に指名した〕。また万事母親に聴従するよう下命した。また、アモルゲースには、これら跡継ぎの最右翼に位する者たち[とお互い]にとっての友となってもらい、留まる〔=忠実な〕者たちには、相互に対する好意に幸い〔=善事〕あれと祝福し、先に手による不正行為〔=急襲〕を仕掛けようとする者たちに呪いをかけた。こういったことを述べたうえで、負傷から4日後に命終した、王位にあること30年。ここでクニドス人クテーシアスの第11巻が終わる。

forward.gifクテーシアス断片集(4/7)
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