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back.gifクテーシアス断片集(3/7)


ペルシア誌・インド誌

クテーシアス断片集(4/7)






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Fragmenta(3/6)

断片"9a"
TZETZ. Chil. 1, 87:

 〔クテーシアスの〕主張では、アステュアゲースはキュロスに打倒されたが、彼〔キュロス〕によってバルカニオイ人たちの支配者に任じられたという。
断片"9b"
THEON Progymn. 11 (II 118, 21 Sp):

 道具類や武具類や兵器類のいかなるものが、それぞれいかなる仕方で装備されたかという、その方法についても描写が、クテーシアスは第9巻の中に……。例えば、長い材木の先につけられたペルシア兵の人形を夜明けの薄明のもとに遠くからアクロポリスの方に見てリュディア人たちは、敗走に転じた、アクロポリスはペルシア兵でいっぱいで、すでに攻略されたと信じたのである。
断片"9c"
POLYAEN. Strat. 7, 6, 10:

 キュロスはサルディスを攻囲し、城壁と同じ長さの長い材木を多数これの後ろに立てかけ、人形――ひげ面で、ペルシアの衣裳を身につけ、背に矢筒を負い、手に弓を持ったの――を夜の間に〔その先に〕取りつけ、あかりを頼りに〔?〕城壁の先端より上に出るようにした。こうしておいて、彼〔キュロス〕は、夜が明け初めるや、都市の別の部分を攻撃した。かたやクロイソスの軍勢の方は、キュロスの攻撃に応戦していたが、そのうちの何人かの者たちが振り返って、遠くから高市の上の人形を見て叫び声をあげた。かくて、ペルシア勢に高市が占拠されたという恐怖に全員が駆られ、城門を開けて、各人各様に逃走し、キュロスは総攻撃でサルディスを攻略した。

断片"10a"
APOLLON. Hist. mir. 20:

 クテーシアスは『ペルシア誌』の第10巻の中で、カスピア地方にラクダのようなものがいる、これの毛の柔らかさは、ミーレートスの羊毛に匹敵する、神官その他の権力者たちはこの毛を使った衣裳を身につけるという。
断片"10b"
AELIAN. N.A. 17, 34:

 カスピのヤギたちは純白であるが、角は生えない、大きさは小さく、獅子鼻である。ラクダは数えきれないほど多い、最大のものはいちばん大きな馬ぐらいあり、すこぶる美毛である。というのは、その毛はすこぶるしなやかで、柔らかさではミーレートスの羊毛にさえ匹敵するほどである。だから、これから作った衣服は神官たちやカスピの最も富裕な者たちや最高権力者たちが身にまとうのである。

断片11
STEPH. BYZ. "Dyrbaioi"の項。

 バクトリアとインディケーまでを領有する民族。クテーシアスが『ペルシア誌』第10巻の中で。「南側の方面の地域は"Dyrbaioi"が占め、バクトリアとインディケーに広がっている。この人たちは幸福で富裕できわめて義しい人たちである[バクトリアとインディケーに広がっている人たちは]。この人たちは、不正もせず、人間をだれ一人殺すこともしない。道で金なり服なり銀なり何か他のものなりを見つけても、移動させることをしない。この人たちはパンも作らず、食さず、神事のため以外は〔欠損〕信じない。挽き割り麦は、ヘッラス人たちのように、かなり細かくする。またマザ〔大麦の菓子パン〕を作って食する」。

断片12
STEPH. BYZ. "Choramnaioi"の項。

 ペルシアの野人の民族。クテーシアスが『ペルシア誌』第10巻の中で。「この野人は、すこぶる俊足で、シカでも追跡してつかまえるほどである」。

断片13
PHOT. Bibl. 72 p.37a26_40a5:

[9]
 〔クテーシアスの〕第12巻は、カムビュセースの王支配から始まる〔カムビュセース2世、在位、前530-522年〕。この〔カムビュセース〕は、王位につくと、父親の死体を埋葬するため宦官バガパテースによってペルサイに送り、その他のことにおいても、父親の定めたとおり取り仕切った。ところで、彼のもとで最大権力を握ったのは、ヒュルカニア〔カスピ海の南東岸の地帯〕人アルタシュラス、宦官たちの中ではイザバテースとアスパダテースとバガバテース――この人物は、父王の代にも、ペテーサカスの死後、最大であった――である。
[10]
 この〔カムビュセース〕は、アイギュプトスと、アイギュプトス人たちの王アミュルタイオス攻撃に出征し、アミュルタイオスに勝利したが、それは宦官コムバペース――この人物はアイギュプトス人たちの王のもとで大きな権力を握っていた――が、アイギュプトスの代官(hyparchos)になるという条件で、橋その他、アイギュプトス人たちのものを売り渡したからである。そしてそのとおりになった。というのは、このことをカムビュセースはコムバベースの従兄弟にあたるイザバテースを介して伝え、後には自らも口頭で〔伝えた〕からである。かくて、アミュルタイオスを生け捕りにしたが、アイギュプトス人6000人――〔アミュルタイオスが〕自分で選んだ――とともに、スウサに強制移住させられた以外、他には何の害悪も働かれなかった。こうして〔カムビュセースは〕アイギュプトス全土を服属させた。しかしこの戦闘で戦死したのは、アイギュプトス人の5万、ペルシア人の7000である。
[11]
 マゴス僧で名をスペンダダテースという者が、過ちを犯して、タニュオクサルケースに鞭打たれ、カムビュセースのもとにやってきて、あなたに策謀していると、兄弟タニュオルクサルケースを讒言した。そして、謀反の証拠として示したのは、参内するよう呼びつけられても、参内しないだろうということだった。そこでカムビュセースは、その兄弟に参内するよう指示する。しかし相手は、他によんどころない用事ができたので、留まると答えた。くだんのマゴス僧は、讒言でもってますます言い立てた。しかし母親のアミュティスは、マゴス僧のいうことを疑っているふうで、息子カムビュセースに耳を貸さないよう警告していた。相手も、耳を貸さないと返事していたが、いのいちばんに耳を傾けた。
[12]
 かくて、カムビュセースが三度目に兄弟のもとに使いをやったときに、〔タニュオクサルケースは〕参上した。すると、兄弟は彼を歓迎し、亡き者にしようとしている気配などさらさらなかったが、アミュティスに隠れて、もくろみを実行に移すことを急いだ。そしてその実行は成就したのである。すなわち、このマゴス僧は、策略を王と共有し、こういうふうに進言したのである。このマゴス僧は、タニュオクサルケースとひどく似通っていた。まさにそのゆえに、こう進言したのである――表向きは、兄弟の王にいつも反対するとして、自分の首が刎ねられるよう下命し、裏ではタニュオクサルケースが亡き者にされ、その衣裳をマゴス僧〔=自分〕が身につけ、身につけたもの自身でさえタニュオクサルケースだと思うほどにしよう、と。そしてその通りになった。すなわち、タニュオクサルケースは、いつも飲んでいた牡牛の血で亡き者にされ、マゴス僧が〔その衣裳を〕身につけ、タニュオクサルケースだと信じられたのである。
[13]
 かくして長らくの間、誰にも気づかれなかった――アルタシュラスとバガバテースとイザバテースを除いては。というのは、これらの者たちだけには、カムビュセースは所行を打ち明けていたのである。で、宦官たちの筆頭ラビュクソス――タニュオクサルケースの仲間であった――を、そしてまた他の者たちをもカムビュセースは呼び寄せて、それらしい恰好をして座っているくだんのマゴス僧を指さして、「そなたらはそやつを」と謂った、「タニュオクサルケースだとおもうか?」。ラビュクソスが驚いて、「他にいったい誰を」と謂った、「〔タニュオクサルケースだと〕おもいましょうや!?」。くだんのマゴス僧は、それほどまでに似ていて、気づかれなかったのである。かくして、バクトリア人たちのところに派遣され、タニュオクサルケースとして万事を執り行った。かくて5年の歳月が過ぎ、アミュティスは出来事を宦官ティベテウス――くだんのマゴス僧がこの男をたまたま殴ったのである――を通じて知った。そこでスペンダダテースの引き渡しをカムビュセースに要求したが、相手は認めなかった。そこで彼女は呪いをかけ、毒を飲んで命終した。
[14]
 カムビュセースが供犠をした、すると犠牲獣は、喉をかききられても血がほとばしらなかった。〔カムビュセースは〕落胆した。彼にロークサネーが無頭の赤子を産んだ。ますます落胆した。マゴス僧たちも、支配の後継者を遺すことは出来ないだろうという天象の指示をかれに言った。しかも、夜、母親が立ち現れて、殺人の穢れで脅迫した。ますます落胆した。そして、バビュローンにたどり着き、暇つぶしに小刀で木片を削っていて、太股の筋肉に突き立て、11日目に命終した、王位にあること20年に†2年足りなかった。
[15]
 バガパテースとアルタシュラスは、カムビュセースが命終する前に、マゴス僧が王位につくことを画策した。そして彼〔カムビュセース〕が命終すると、〔マゴス僧が〕王位についた。かくてカムビュセースの遺体をとって、ペルサイに運んだ。ところがマゴス僧がタニュオクサルケースの名前で王位につくと、イザバテースがペルシスから参内し、ことごとく命令に反対し、マゴス僧のことを暴露して、神殿に庇護を求めたが、そこ場で逮捕されて斬首された。
[16]
 このころ、ペルシア人たちの7人の貴顕がマゴス僧に対してお互いに約定をかわした。オノパス、イデルネース、ノロンダバテース、マルドニオス、バリッセース、アタペルネース、そしてヒュスタスペスの子ダレイオスである。これらの者たちがお互いに保証を交わし合ったので、アルタシュラスも加勢し、次いでバガバテース――王宮のすべての鍵を持っていた――も〔加勢した〕。そしてバガバテースの手引きで7人は王宮に押し入って、マゴス僧がバビュローンの妾と共寝しているのを見つけた。〔マゴス僧は相手を〕眼にするや、跳び起き、戦闘具が何もない(バガバテースが気づかれぬようすべてを持ち出していたのだ)とわかると、黄金製の腰掛けをたたきつぶして、その脚を取って闘ったが、結局は7人に刺しまくられて死んだ、王位にあること7ヶ月であった。
[17]
 こうして、7人のうちダレイオスが王位についた〔ダーラヤワウ1世、在位、前522-486年〕、お互いに交わした約束により、太陽が日の出の方に昇ったとき、〔ダレイオスの〕ウマが工夫と技で〔最初に〕いなないたからである。
[18]
 ペルシア人たちによってマゴス僧殺しの祭りが執行された、このときマゴス僧スペンダダテースが亡き者にされた。
[19]
 ダレイオスは、滑らかな山〔の断崖の斜面〕〔ナクシェ・ロスタム、ホセイン山と呼ばれる伊藤義教『古代ペルシア』p.90 ff〕に自分の墓をこしらえるよう下命した。その通りこしらえられた。そこで彼は検分したいと欲したが、カルダイオイたちと両親にとめられた。かわって両親が引き上げられることを望み、彼らを引き上げている最中に、神官たちがヘビを見て、恐れおののき、恐れおののいたせいで綱を放したため、〔両親は〕墜落して命終した。ダレイオスの苦痛は深く、首が刎ねられたが、亡き者になったのは40人であった。
[20]
 ダレイオスはカッパドキアの太守アリアラムネースに、スキュティア攻撃に渡海し、男たちも女たちも槍の穂先にかけるよう言いつけたこと。そこで彼は五十櫂船30艘で渡海し、槍の穂先にかけた。さらにまた、スキュタイ人たちの王の兄弟マルサゲネースをもいっしょに捕らえた、みずからの兄弟に悪行が見つかるのを恐れたからである。スキュタイ人たちの王スキュタルベースは怒って、ダレイオスに傲岸無礼な手紙を書き、〔ダレイオスも〕これに同じように返書を書いた。
[21]
 ダレイオスは軍勢80万を集結させ、ボスポロス海とイストロスとを軛にかけ〔=運河で結び〕、道程を15日間短縮して、スキュティアに渡った。かくてお互いに弓で応酬した。しかしスキュタイ勢の方が優勢であった。そのためダレイオスは船橋を渡り、軍隊がすべて渡る前に、急ぎ解体した。このため、エウローペーに取り残された将兵8万がスキュタルベースによって殺害された。かくてダレイオスは船橋を渡って、カルケードーン人たちの家屋や神殿に火を放った、自分に逆らって船橋を解体しようともくろんだからであり、また、ダレイオスが海を渡るときに越境神ゼウスの名において据えた祭壇を、彼らが粉砕したからでもあった。
[22]
 一方、ダティスは、ポントスとメーディアとの遠征から取って返して嚮導し、島嶼とヘッラスを蹂躙した。しかしマラトーンではミルティデースが迎え撃ち、非ヘッラス勢に勝利し、ダティス本人も落命した。またペルシア人たちが引き渡し要求しても、その遺体さえ渡さなかった。
[23]
 ダレイオスの方は、ペルサイに立ち返り、供犠をし、30日間病に伏し、命終した、享年72歳、王位にあること31年であった。さらに、アルタシュラスも死んだ。さらにバガバテースも、ダレイオスの遺体の側に座すこと7年にして、命終した。
[24]
 息子クセルクセース〔1世、クシャヤールシャン、在位、前486-465/4年〕が王位につき、アルタシュラスの子アルタパノスが、父親が父王〔ダレイオス1世の〕のもとで〔大きな権力を握った〕ように、彼〔クセルクセース1世〕のもとで大きな権力を握った、また老マルドニオスも〔大きな権力を握った〕。しかし宦官たちの中で最大の権力を握ったのは、ナタカス〔?〕であった。さて、クセルクセースはオノパスの娘アメーストリスを娶り、彼に子どもダレイアイオスが生まれた、また2年後、もうひとりの子ヒュスタスペースが、さらにまたアルトクセルクセースが〔生まれた〕。また2人の娘――このうちひとりは祖母の名をとったアミュティスが、もうひとりはロドグゥネーが〔生まれた〕。
[25]
 ところで、クセルクセースがヘッラス人たち攻撃に出征したのは、すでに述べられたところであるが(§21)、カルケードーン人たちが船橋を解体したばかりか、ダレイオスが据えた祭壇を取り払うということさえやってのけたからである。また、ダティスをアテーナイ人たちが亡き者にし、その遺体さえ引き渡さなかったこともそうである。
[26]
 それより先に、〔クセルクセースは〕バビュローンに赴き、ベルタナスの塚を見ることを欲し、マルドニオスのおかげで見、じっさい書かれているとおり、オリーヴ油の浴槽さえ満たす力はなかった〔???〕。クセルクセースはエクバタナに脱出し、その彼に、バビュローン人たちの叛乱と、彼らの将軍ゾーピュロスが彼らによって亡き者にされたことが報告された。これらのことについても、クテーシアスはそういうふうに主張しているが、ヘーロドトスはそうではない。
 ゾーピュロスについて後者が言っていることはといえば(3, 150 ff.)、彼〔ゾーピュロス〕の半ロバが〔仔を〕産んだということだけで、その他の事柄は、前者の言によれば、メガビュゾス――クセルクセースの娘アミュティスにつながる姻戚であった――がやり抜いたという[のだからである]。そうだとすれば、メガビュゾスの働きでバビュローンは陥落した。クセルクセースは彼に他に多くのものらとともに、秤の重りを下に引く〔=重さ〕6タラントンの黄金製の挽き臼――ペルシア人たちの間では、王の贈り物の中で最も高価なもの――を与えた。
[27]
 さて、クセルクセースはペルシア軍を集結させた、戦車を除外して80万と三段櫂船1000艘、ヘッラスにむけて突進し、アビュドスを軛につないだ。対してラケダイモーン人デーマラトスは、すでにその前に到着し、渡し場で相手と対面し、ラケダイモーンへの入り口を塞いだ。そこでクセルクセースは、テルモピュライで、1万を率いるアルタパノスをもって、ラケダイモーン勢の将軍レオーニダスに突撃させた。ペルシアの大部分が粉砕されたが、ラケダイモーン勢で亡き者にされたのは2,3人であった。次いで、2万でもって突撃するよう命じ、先ほどの人数よりもさらに少なくなった。次いで〔将兵が出撃をいやがるので〕鞭でもって戦闘に駆り立て、鞭で駆り立てられた者たちは、〔戦死して人数が〕なおもっと少なくなった。次の日には、5万をもって戦闘するよう命じた。しかし、何の効もなく、このとき戦闘をやめた。そこへテッサリア人トーラクスと、トラキス〔テッサリア南部オイタにある都市〕人たちの有力者たち――カッリアデースとティマペルネース――が、軍隊を率いて到着した。クセルクセースは、この者たちと、デーマラトス、エペソス人ヒュギアスを呼んで、包囲されないかぎり、ラケダイモーン勢は負けることがないということを教えられた。そこで2人のトラキス人たちの嚮導で、ペルシア軍は難路を通り抜けた、その数4万、ラケダイモーン勢の背後に現れた。かくて〔ラケダイモーン勢は〕包囲され、男らしく闘って、全員が戦死した。
[28]
 そこでクセルクセースは、今度は軍隊をプラタイアに派遣した、その数12万、これの嚮導者にマルドニオスを任命した。クセルクセースを動かしたのは、プラタイアにあったテーバイ勢であった。迎え撃つはラケダイモーン人パウサニアス、率いるはスパルタ兵300、周住民(perioikoi)の1000、その他の諸都市からの6000である。そして力攻めでペルシア軍は〔相手に〕勝利され、マルドニオスも負傷して敗走した。
[29]
 そのマルドニオスが、アポッローンの神殿を略奪するようクセルクセースから派遣され、(彼〔クテーシアス〕の主張では)猛烈な霰が降ってきて、その場で死んだ。このことにクセルクセースはひどく心を傷めた。
[30]
 そこでクセルクセースはアテーナイそのものに突進し、アテーナイ人たちは三段櫂船110艘を艤装してサラミスに避難した。クセルクセースは空っぽの都市を攻略し、アクロポリスを除いて火をかけた。そこ〔アクロポリス〕にはまだ何人かの者が立てこもり、闘っていたからである。結局、その者たちも夜陰に乗じて逃れたので、〔クセルクセースは〕この〔アクロポリス〕をも焼き払った。さらにクセルクセースは、そこからアッティカの最も狭い地点(ヘーラクレイオンと呼ばれる)に進撃し、サラミスに向かって堤防を築こうとした、その島に徒歩で渡れるようにとの思いつきである。しかしアテーナイ人テミストクレースとアリステイデースとの策略で、クレーテーからは弓兵たちが呼び寄せられ、それが到着した。次いでペルシア勢とヘッラス勢との海戦が起こった、ペルシア勢の率いる艦船は1000艘以上、その将軍はオノパス、対してヘッラス勢は700。しかしヘッラス勢が勝利し、ペルシアの艦船500が壊滅、クセルクセースは敗走した、これもまたアリステイデースとテミストクレースとの策と術であった。こうして、残りのすべての戦闘において、ペルシア勢12万が戦死した。
[31]
 そこでクセルクセースはアシアへと〔海を〕横断し、サルディスへと〔馬で〕駆け去り、デルポイにある神殿を略奪すべくメガビュゾスを派遣した。しかし、彼が辞退したので、宦官マタカス(?)が派遣された、アポッローン神にたいして傲岸不遜にも、ありとあらゆるものを略奪、身ぐるみ剥ぐためである。まさにその通りのことをして、クセルクセースのもとに引きあげた。
[32]
 クセルクセースはバビュローンからペルサイにやってきた。するとメガビュゾスが、自分の妻アミュティス――先に述べられたとおり(§24)、クセルクセースの娘にほかならない――に対して、姦通のかどで諍いを引き起こしていた。アミュティスは父親に言葉で叱りつけられ、慎み深くすると約束した。
[33]
 ところで、アルタパノスは、宦官アスパミトレース亡き後、クセルクセースのもとで大きな権力を握り、自分が大きな権力を握ったために、クセルクセースを亡き者にしようと〔主語は3人称複数〕画策した。かくて彼らは亡き者にした。そして息子のアルトクセルクセースを、もうひとりの子ダレイアイオスがおまえを亡き者にしようとしていると説得した。そしてダレイアイオスがアルタパノスの導きでアルトクセルクセースの屋敷にやってきた、自分は父親の殺害者ではないと、大変な叫び声をあげ、否認しながらである。そして死んだ。

断片"13a"
ATHEN. 13, 10 p.560DE:

 カムビュセースのアイギュプトス遠征でさえ、クテーシアスの主張するのには、女人が原因で生じた。すなわち、カムビュセースは、アイギュプトスの女人たちは性交のさいにほかの女たちより秀抜だと伝え聞き、アイギュプトス人たちの王アマシス〔アアフ・メス。在位、前569-525頃〕に使いをやって、娘たちの一人との結婚を所望した。しかし彼〔アマシス〕が、自分の娘たちの中からは与えなかったのは、これが妻としての栄位をもてないのではないかと猜疑したからで、側妻の一人を〔与えた〕。彼が送りつけたのはアプリアスの娘ネイテーティスで、そのアプリアスは、キュレーネー人たちとの間で生じた敗北のせいで、アイギュプトス人たちの王位を失い、アマシスによって抹殺された者であった。ところがカムビュセースはこのネイテーティスを寵愛し、すっかりのぼせあがって、事情をすべて彼女から聞き出した。そして、アプリアス殺害の仇を返すよう頼まれて、アイギュプトス人たちと戦争するよう説き伏せられた。しかし、ディオーンが『ペルシア誌』(690 F 11)の中で、またナウクラティス人リュケアスも『アイギュプトス誌』第3巻(613 F 1)の中で主張しているところでは、アマシスによってネイテーティスが送り届けられたのはキュロスのもとであって、その彼女から生まれたのがカムビュセース、このカムビュセースが母親の仇を返さんとして、アイギュプトスに征戦したという。

断片14
PHOT. Bibl. 72 p.40a5_41b37:

[34]
 アルトクセルクセース〔1世マクロケイル〕はアルタパノスを性急に王支配しようとして、逆に相手によって策謀された。そしてアルタパノスは策謀の共犯者としてメガビュゾス――自分の妻アミュティスが姦通のかどで捕らえられたためすでに苦痛を受けていた――選んだ。そしてお互いに誓約を交わして保証しあった。ところがすべてをメガビュゾスが密告し、アルタパノスは、自分がアルトクセルクセースを亡き者にしようとした方法で亡き者にされた。また、クセルクセースとダレイアイオスとに対して企てられた万事が露見し、アスパミトレース――クセルクセースとダレイアイオスとの殺害の共犯者であった――が酷い最悪の刑死によって滅ぼされた。というのも、箱責めにかけられ、そうやって滅ぼされたからである。しかしアルタパノスの死後、彼の盟友団とその他のペルシア人たちとの間に戦闘が起こり、アルタパノスの3人の息子たちは戦闘のさなかに斃れ、またメガビュゾスも深手を負った。そのため、アルトクセルクセース、アミュティス〔メガビュゾスの妻〕、ロドグウネー、また彼らの母親アメーストリスも悲嘆したが、コースの医師アポッローニデースの多大な手当のおかげで、かろうじて恢復した。
[35]
 バクトラと太守、別のアルタバノスがアルトクセルクセースに離反した。そして形勢互角の戦闘が起こった。そして再び2度目に起こり、バクトリア勢の面前で風が吹き、アルトクセルクセースが勝利し、バクトリア全土が彼に帰服した。
[36]
 アイギュプトスが離反した、反乱をもくろんだのは、リビュア人イナロスと他のアイギュプトス人で、戦闘準備はよく整えられていた。アテーナイ人たちも、彼〔イナロス〕の要請に応じて、艦船40艘派遣した。アルトクセルクセースも、本人は外征もくろんだが、友たちが相談に乗らなかったので、兄弟のアカイメニデースを派遣したが、これが引率したのは、陸戦隊40万、艦船80艘である。イナロスがアカイメニデースを迎え撃って会戦し、アイギュプトス勢が勝利、アカイメニデースはイナロスの槍に撃たれて、戦死、その死体はアルトクセルクセースのもとに送り返された。イナロスは海でも勝利したが、それはカリティミデースが勇名を馳せたからで、彼〔カリティミデース〕はアテーナイからの艦船40艘の艦隊指揮官という肩書きを有していた。また、ペルシア軍の艦船50艘のうち、20艘は兵士もろとも拿捕され、30艘は壊滅した。
[37]
 次いで、イナロスに対してメガビュゾスが派遣され、彼が引率したのは、残存部隊のほかに、〔陸戦隊〕20万と〔艦船〕300艘――これの監督はオリスコス――で、結局、艦船を別にして他の大隊は50万になった。というのは、アカイメニデースが斃れたとき、彼の率いた40万のうち、10万がともにお陀仏となったからである。かくて激烈な戦闘が起こり、両陣営から多数の斃死者が出たが、アイギュプトス人あっちの方が多数であった。そして、メガビュゾスがイナロスの太股めがけて槍を投げ、敗走させ、力攻めでペルシア人たちが勝利した。イナロスはビュブロス(これはアイギュプトスの強力な都市)に逃げ、彼といっしょにヘッラス人たちも、カリティミデースの死後もこの戦闘で戦死しなかったかぎりの者たちも〔逃げた〕。かくて、アイギュプトスはビュブロスを除いてメガビュゾスに帰服した。
[38]
 しかし、あれ〔ビュブロス〕は難攻不落に思えたので、メガビュゾスはイナロスおよびヘッラス人たち――なおまだ6000人がいた――と休戦条約を交わしたが、その条件は、大王から何の害悪も受けない、ヘッラス人たちは、望むときに、家郷に引き上げられるという内容であった。こうして、アイギュプトスの太守としてサルサマスを据え、イナロスとヘッラス人たちを引き具して、アルトクセルクセースのもとに参内したが、〔イナロスが〕〔アルトクセルクセースの〕兄弟アカイメニデースを殺したことで、〔アルトクセルクセースが〕イナロスに対してひどく立腹しているのを〔メガビュゾスは〕見いだした。メガビュゾスは何が起こったかを、つまり、イナロスおよびヘッラス人たちと忠誠を交わし、ビュブロスを占領したことを説明した。そして、彼らの助命を王に懇願・嘆願し、引き取って、最後は軍隊に誘った、イナロスとヘッラス人たちが何の害悪も受けないようにである。
[39]
 しかし、アメーストリスは、イナロスとヘッラス人たちを罰しないのは、我が子アカイメニデースのために恐るべきことと考え、これを王に要請したが、王は許さなかった。そこで次にはメガビュゾスに〔要請した〕。このため彼は追い払われた。次いで息子〔アルトクセルクセース王〕を責めたて、ついに思いを遂げた。つまり、5年が経って、イナロスを、それからヘッラス人たちをも、王のもとから引き取った。そうして〔イナロスは〕三叉杭に架けて処刑した。ヘッラス人たちのうち、彼女が引き取ることを説き伏せられた50人は、その首を刎ねた。
[40]
 このため、メガビュゾスははなはだしい苦痛にさいなまれ、嘆き、自分の領地シュリアに引退することを願い出た。ここには、ヘッラス人たちの〔残った〕他の者たちをも気づかれぬように先遣した。こうして引退し、王に離反し、大軍を集めたが、〔その数は〕騎兵[と陸兵]を別にして15万におよんだ。これに対して派遣されたのは、20万の兵員とともにウウシリスで、かくて戦争が勃発し、メガビュゾス、ウウシリスともに互いに槍を投げ合い、後者が槍を投げ、メガビュゾスの太股に命中し、指2本分におよぶ傷を負わせたが、前者も同様に投げ槍でウウシリスの太股を撃った。次いでその肩を撃ち、こちらは馬から落ちたが、まわりこんできたメガビュゾスが、収容して助命するよう下知した。こうして、ペルシア人たちの多数が斃れ、メガビュゾスの子どもたち――ゾーピュロスとアルテュピオス――は男らしく戦い、メガビュゾスに圧倒的勝利がもたらされた。ウウシリスの助命に気を配り、引き渡し要求されると、同じくアルトクセルクセースのもとに送り返した。
[41]
 しかし、これに対して派遣されのは別の軍隊と、アルタリオスの子メノスタテースであった。アルタリオスはバビュローンの太守にして、アルトクセルクセースの兄弟である。かくてお互いに激突して、ペルシア軍は敗走、メノスタテースもメガビュゾスに肩を撃たれた。次いで頭の急所ではないところを弓で射られた。そのため、やはり彼とその麾下の兵は敗走し、輝かしい勝利がメガビュゾスのものになった。
[42]
 アルタリオスはメガビュゾスに使者を遣わし、王と〔和平協定を結ぶための〕灌酒をするよう勧めた。すると彼〔メガビュゾス〕は、灌酒は自分も望むところだが、しかしながら王のもとに出頭するのではなく、自分の領地にとどまってという条件でと明かした。このことが王に伝えられ、パプラゴニア人の宦官アルトクサレースが、いやそれどころかアミュティスまでが、灌酒するよう熱心に進言した。かくて、アルタリオス本人と〔メガビュゾスの〕妻アミュティスと、すでに20歳になっていたアルトクサレースと、ウウシリスの子ペテーサスと、父親スピタマが派遣された。かくて数々の誓約や言葉によってメガビュゾスを満足させ、やはり王のもとに出頭すべきことをやっとのことで説得し、出頭したら、最終的に王も数々の過ちの許しを与えるという使いを遣わした。
[43]
 王が狩りに出かけ、ライオンがこれを襲った。そして野獣が空中に跳びあがったとき、メガビュゾスが投げ槍を放ち、屠った。しかしアルトクセルクセースは、自分より先に、たまたまメガビュゾスが投げたことに腹を立て、メガビュゾスの首を刎ねるよう下命した。しかしアメーストリス、アミュティス、その他の人たちの哀願により、死罪はまぬがれたものの、エリュトラの、名をキュルタイアという都市に流人となった。さらに宦官のアルトクサレースもアルメニアに配流された、メガビュゾスのためにしばしば王を誡めたためである。メガビュゾスは配流生活を5年過ごし、脱走した、"pisagas"のふりをしてである。"pisagas"とはペルシア語で癩病患者のことと言われ、誰も近づいてはならなかった。かくてアミュティスとその館にたどり着き、かろうじて識別された。そしてアメーストリスとアミュティスによって王は心変わりさせられ、彼を以前と同様、陪食者とした。享年76歳で亡くなり、王はひどく悲嘆にくれた。
[44]
 さて、メガビュゾスが命終すると、アミュティスが男たちと交わることが激しくなり、彼女以上に、母親も同様になった。コース人の医師アポッローニデースは、アミュティスが病弱であったので(よしんば繊細で強くなくても、この男は彼女に恋していた)、男たちと交われば、彼女は健康に立ち返れる、子宮の病気なのだからと主張した。そうして、自分に仕事が出来るたびに、彼女と交わっていたが、この女性は弱る一方で、性交を避けるようになった。こうして最期に、アポッローニデースから身を守るよう母親に言明した。そこで彼女〔母親〕はすべてを王に報告した、いかにして交わったか、いかにして暴行を避けたか、そしてアポッローニデースから身を守るよう、いかにして娘が言明したかを。彼〔王〕は母親に、彼女の思いつくことを実行するよう任せた。彼女は引き受けて、アポッローニデースを捕縛し、2ヶ月にわたって懲罰を加えた。その上で生き埋めにしたが、このときアミュティスも死んだ。
[45]
 ところで、メガビュゾスとアミュティスとの子ゾーピュロスは、自分の父親も母親も命終したので、王のもとを離れ、アテーナイにたどり着いた。彼らに対する母親の善行を頼りに。そして彼らがついてくるのといっしょに、カウノスに入港し、その都市を引き渡すよう命じた。カウノス人たちは、彼には、都市を引き渡すことを肯定したが、随伴していたアテーナイ人たちには、拒否した。そこでゾーピュロスが城壁の内に入ろうとしたのを、カウノス人アルキデースがその頭めがけて石を命中させ、こうしてゾーピュロスは死んだ。そこで〔ゾーピュロスの〕祖母アメーストリスが、そのカウノス人を杭に架けて処刑した。
[46]
 そのアメーストリスも、ひどく年老いて、死んだ。アルトクセルクセースも、王位にあること42年〔在位、前464-424年〕で死んだ。
 〔こうして〕『〔ペルシア〕誌』第17巻が終わり、第18巻が始まる。
断片"14a"
STEPH. BYZ. "Kyrtaia"の項。

 エリュトラ海にある都市、この都市にアルタクセルクセースはメガビュゾスを追放した。クテーシアス『ペルシア誌』の第†3巻。

断片15
PHOT. Bibl. 72 p.41b38_43b2:

[47]
 アルトクセルクセース〔1世〕が命終して王位についたのは、息子のクセルクセース〔2世〕であった、彼のみがダマスピア――アルトクセルクセースが命終したその同じ日に往生を遂げた――の嫡子だったからである。バゴラゾスが父親と母親の死体をペルサイに葬送した。ところでアルトクセルクセースは庶子の息子を17人もっていた、その中には、バビュローニア女アログウネーの胎から生まれたセキュンディアノスも含まれ、コスマルティデーネー(?)――この女もバビュローニア女――の胎から生まれたオーコスとアロイテースも〔含まれていた〕。このオーコスこそ、後にじっさい王位についた人物〔ダレイオス2世〕である。さらにまた、彼〔アルトクセルクセース〕の子どもには、上述のほかに、アンドリア――彼女もバビュローニア女であった――の胎から生まれたバガパイオスとパリュサティスがいた。このパリュサティスは、アルトクセルクセース〔2世〕とキュロス〔小キュロス〕との母親となった女性である。
 さて、オーコスは、父王が生前、これをヒュルカニア人たちの太守となし、名をパリュサティスという妻をもこれに与えたが、この女性がアルトクセルクセース〔1世〕の娘であり、自身の妹であった。
[48]
 一方、セキュンディアノスは、宦官パルナキュアスを味方に引き入れ、バゴラゾス、メノスタテース、その他の何人かもいっしょであったが、〔セキュンディアノスは〕クセルクセースのある宴席で酩酊し、王城内で横になり、〔彼らは〕押し入って彼〔クセルクセース2世〕を殺した。父王の命終後、45日目が過ぎたときである。かくして両者〔アルトクセルクセース1世とクセルクセース2世と〕を同時にペルサイに葬送する結果になった。というのは、有蓋馬車を牽く半ロバ〔ラバ〕たちは、子ども〔クセルクセース2世〕の死体をも待っていたかのように、前進することを拒んでいたからである。ところが事件が起こると、さっさと遠ざかっていったのである。
[49]
 かくてセキュンディアノスが王位につき、メノスタネースが彼の近習(azabarites)(?)となった。他方、バゴラゾスは〔葬送のために〕下向していたが、セキュンディアノスのもとに立ち返ってきた、彼らの間に以前からくすぶっていた敵意に火がつき、自分〔セキュンディアノス〕の許しもなく[彼の]父親の死体を置き去りにしたとして、王の命令で石打の刑に処せられた。この仕打ちに軍隊は痛苦にとらわれた。そこで彼〔セキュンディアノス〕はこれ〔軍隊に〕贈り物を与えた。しかし彼ら〔将兵たち〕は、兄弟のクセルクセースを殺害し、今またバゴラゾスを〔殺害した〕ことで、彼を憎んだ。
[50]
 セキュンディアノスは、オーコスを呼び寄せようと、使者を遣わした。が、彼は約束しながら、参内しなかった。そしてそのことが度重なった。最後には、オーコスは多数の軍隊を擁し、王者のごとくであった。アルバリオス――セキュンディアノスの騎兵隊指揮官――が離反して、オーコスについた。次いでアイギュプトスの太守アルクサネースが〔離反した〕。また宦官アルトクサレースもアルメニアからオーコスのもとにやってきた。そして彼にキタリス(kitaris)を冠した、まったく喜んでではなかったが。オーコスが王位につき、ダレイアイオス〔ダレイオス2世〕と改名した。そして、パリュサティスのさしがねで、欺瞞と誓約でもってセキュンディアノスに迫ったが、メノスタネースが、誓約を信じないよう、まして欺瞞者たちと灌酒しないよう、さんざんセキュンディアノスに忠告した。にもかかわらずやはり説き伏せられ、捕らえられた。そして灰の中に投げこまれた。かくて王位にあること6ヶ月と15日で、滅び去った。
[51]
 かくて王位にあるのはひとりオーコスつまりダレイアイオスのみとなった。彼のもとでは3人の宦官が権力を握り、最大なのはアルトクサレース、第二がアルティバルザネース、そして第三がアトーオスであった。しかし、彼が忠告者として重用したのは、妻が第一であった、この女性から、王位につく前に、二人の子を得た、娘のアメーストリスと息子のアルサカス(?)で、この息子は後にアルトクセルクセース〔2世ムネーモーン〕と改名した。また、王位についてから、彼に別の息子を産み、その名を太陽にちなんでキュロスとつけた、次いで産んだのがアルトステース、そして次々と子どもを13人まで〔産んだ〕。そしてこの歴史編纂者〔クテーシアス〕本人の主張では、このことはあのパリュサティス当人から聞いたということである。しかしながら、生子の他の者たちは産後すぐに往生を遂げ、上述の者たちというのは、たまたま生きながらえた者たちで、さらに第四番目に、オクセンドラスと名付けられた息子もいた。
[52]
 王自らの――同父・同母の――兄弟アルシテースが王に離反し、またメガビュゾスの子アルテュピオスも〔離反した〕。彼らの追討にアルタシュラスが派遣され、アルテュピオスに戦争を仕掛け、二度の戦闘でアルタシュラスが敗北した。次いで、今度会戦したらアルテュピオスに勝てるよう、彼〔アルテュピオス〕麾下のヘッラス人たちを賄賂で味方につけた、そのため、彼〔アルテュピオス〕のもとに残留したのは、ミーレートス人が3人のみであった。結局、アルシテースが現れなかったので、〔アルテュピオスは〕アルタシュラスから誓約と保証をもらって、王に帰服した。パリュサティスは、王がアルテュピオスを死刑にしたい思いに駆られているのに対して忠告した、――しばらくは亡き者にしないよう、それは、アルシテースの帰服のためにも、これが欺瞞手段となろうから、あやつも欺かれて捕らえられてから、「そのときこそ両方を処断するがよい」。じっさい、策謀がうまくいったとき、その通りのことが起こった。すなわち、アルテュピオスとアルシテースは灰の中に投げこまれたのである、王はアルシテースは滅ぼすことを望まなかったのではあるが。けれどもパリュサティスが、かつは説得しかつは強制して、破滅させた。さらにまたクセルクセースを暗殺したセキュンディアノスの共犯パルナキュイアスも石打の刑で処刑された。さらにまたメノスタネースも、すでに捕らえられて死刑を目前に、自らの手で亡き者となった。
[53]
 ピスウトゥネースが離反し、これの追討にティッサペルネースとスピトゥラダテースとパリミセースが派遣された。しかしピスウトゥネースは攻め寄せ、アテーナイ人リュコーンばかりか、同時に彼の指揮するヘッラス勢を引き具していた。そこで王の将軍たちは、リュコーンとヘッラス勢を金銭で籠絡し、ピスウトゥネースから離反させた。次いで、これと保証を交わし、王のもとに連行した。王は灰の中に投げこみ、ピスウトゥネースの太守の地位をティッサペルネースに与えた。また、リュコーンは裏切りの代償に、諸都市をも諸領地をも拝領した。
[54]
 宦官アルトクサレース――王のもとで大きな権力を揮っていた――が王に対して策謀し、自分が王になろうとした。というのは、自分にあごひげや口ひげをつけて、まるで男のように見えるようにすることを女に言いつけたのだが、その女によってまた密告もされたのである。こうして逮捕され、パリュサティスに引き渡され、亡き者にされた。
[55]
 王の子アルサケース、つまり、後にアルトクセルクセースと改名した人物は、イデルネオースの娘スタテイラを娶り、他方、王の娘の方は、イデルネオースの息子が〔娶った〕。その〔王の〕娘とはアメーストリスで、彼女の婿の名はテリトゥクメース――父親が命終して、その代わりに太守に任じられた――であった。ところで、彼には同父の妹ロークサネーがいた、見目麗しく、弓射も槍投げも練達の女性であった。テリトゥクメースはこの妹に恋し、心許して、アメーストリスを憎んだ、そのあげく、彼女を山羊皮の袋に投げこみ、将兵300人――これらとともに彼は反乱をももくろんだのである――によって刺しまくられることを望んだ。しかしながら、名をウゥディアステースなる者がいて、テリトゥクメース配下の剛の者で、自分〔王〕の娘が助命された場合、王からの多くの約束事を記した手紙を受け取り、テリトゥクメースを襲って亡き者にした――反乱にさいし、気高く男らしい働きをし、多数を殺した人物を。言い伝えでは、彼が殺害したのは37人に及ぶという。
[56]
 他方、ウゥディアステースの息子ミトラダテースは、テリトゥクメースの楯持ち(hypaspistes)であったがその場に居合わさなかった、〔事件を〕知って、父親を大いに非難攻撃し、ザリスという都市を占領し、テリトゥクメネースの子のためにこれを守備した。対して、パリュサティスはテリトゥクメースの母親、兄弟――ミトローステースとヘーリコス――、姉妹――スタテイラの他に二人いた――を、生き埋めにするよう、他方、ロークサネーの方は、生きながら切り刻むよう命じた。そしてその通り実行された。また王は、妻のパリュサティスに、我が子アルサケースの妻スタテイラをも同じようにするよう云った。しかしながらアルサケースは、父親と母親を、大変な落涙と慟哭でとりなし、パリュサティスが心を動かされたのでオーコスことダレイアイオスも譲歩した、パリュサティスに、おまえは大いに後悔するぞと云って。
 第18巻終わり。

断片"15a"
PLUTARCH. Artox. 1, 2:

 [2]すなわち、ダレイオス〔2世〕とパリュサティスとの間には4人の子どもたちがいた。長男はアルトクセルクセース〔2世〕、次男がキュロス、この2人の弟がオスタネースとオクサトレースである。[3]ところで、キュロスの方は、その名を昔のキュロス〔2世〕にちなみ、この〔キュロス2世〕には太陽にちなんで〔名前が〕つけられたと云われている。すなわち、ペルシア人たちは太陽のことを"kyros"と呼ぶのだと。[4]アルトクセルクセースの方は、初めはアルシカスと呼ばれていた。ただし、デイノーン(690 F 14)の主張ではオアルセース〔と呼ばれていたという〕。とはいえ、クテーシアスが、信じがたい途方もない神話のありとあらゆる種類の寄せ集めをその書に挿入したとはいえ(T 11d)、大王〔アルトクセルクセース2世〕の名前を知らなかったとは、尤もなこととはいえない。その大王のもとで、大王自身にも、その妻にも、その母親〔パリュサティス〕にも、その子どもたちにも仕えて過ごしたのであるから。

断片16
PHOT. Bibl. 72 p.43b3_44a19:

[57]
 『歴史』第19巻に含まれるのは、オーコスことダレイアイオス〔ダレイオス2世〕が病弱をもってバビュローンで死んだ、王位にあること†35年、そして王位についたのがアルサケースで、アルトクセルクセースと改名したということ。
[58]
 またウゥディアステースは舌を切除され、しかもそれを奥から引きずり出されて、刑死した。その子ミトラダテースは父親の代わりに太守に任じられた。しかし、スタテイラの強請で〔父親と〕同じことをされた。もちろんパリュサティスは嘆いた。
[59]
 キュロスはティサペルネースのせいで兄弟アルトクセルクセースの前に誹謗され、母親パリュサティスに庇護を求め、誹謗はまぬがれる。キュロスは兄弟に処罰されて自らの太守領に脱出、反乱をもくろむ。
[60]
 サティバルザネースが、オロンデースを、パリュサティス――彼女はすこぶる貞潔な女人(sophronouse)であったにもかかわらず――と交わっていると誹謗した。そしてオロンデースは亡き者にされ、母親〔パリュサティス〕は王に腹を立てた。
[61]
 パリュサティスがテリトゥクメースの息子を毒薬でお陀仏にしたということ。
[62]
 父王を、法習に反して、火葬にしたことについても。この〔記事の〕ため、ヘッラーニーコス(687 a T 2)とヘーロドトスは嘘つきだという批判も起こった。
[63]
 キュロスの兄弟に対する叛乱。そしてヘッラス部隊と非ヘッラス部隊との動員。ヘッラス勢の将軍クレアルコス。キリキア人たちの王シュエンネシスが、いかにして両者――キュロスとアルトクセルテース――と共闘したか。また、キュロスは私兵に、アルトクセルクセースは自らの軍隊に、いかに説いたか。ラケダイモーン人クレアルコス――ヘッラス勢を指揮した――と、テッタリア人メノーン、この二人がキュロスに従軍したが、いつもお互いに仲違いしていた、そのため、キュロスはクレアルコスには万事相談したが、メノーンには言葉ひとつかけなかった。ところで、アルトクセルクセースからキュロスのもとに脱走した者は多かったが、アルトクセルクセースのもとにキュロスから〔脱走した者は〕ひとりもいなかった。だから、アルタバリオスもキュロスに帰服しようともくろみ、誹謗されて、灰の中に投げこまれた。
[64]
 王の軍隊に向かってのキュロスの突撃、キュロスの勝利、しかしまたキュロスの死、クレアルコスの言うことを聴かなかったために。そしてキュロスの身体に対する兄アルトクセルクセースによる蹂躙。すなわち、頭と手――これでアルトクセルクセースに槍を投げた――を、自ら切り離し、勝ち誇った。
[65]
 ラケダイモーン人クレアルコスの退却、麾下のヘッラス勢と同時に、夜間に。そして、パリュサティスの諸都市のひとつの占拠。次いで、王とヘッラス勢との間に休戦協定が。
[66]
 パリュサティスはキュロスを悼んで、バビュローンにたどりつき、彼〔キュロス〕の頭と手をやっとのことで手に入れた次第。そして埋葬し、スウサに送り届ける。王の命令でキュロスの身体から頭を切り離したバガバテースのこと――母親〔パリュサティス〕は王と賭で賽子遊びをし、勝って、バガバテースの身柄を引き取った、そして、パリュサティスによって生皮を剥がれ、磔に処された次第。このとき、キュロスに対する彼女の大いなる哀悼も、アルトクセルクセースの度重なる要請で、しずまった。
[67]
 アルトクセルクセースは、キュロスのフェルト帽〔ティアラと呼ばれる〕を持ってきた者に贈り物を与えた。キュロスに槍を投げたと思われていたカラを、アルトクセルクセースがいかに褒めたたえか、そして、パリュサティスは褒められたカラをいかにして拷問にかけ、殺したか。アルトクセルクセースは、ミトラダテースを、引き渡し要求するパリュサティスに引き渡した、宴席で、キュロスを殺したのは自分だと豪語したからである、彼女は〔身柄を〕引き取ると、むごたらしく亡き者にした。
 以上が『歴史』第19巻と第20巻〔の内容〕である。

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