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back.gifクテーシアス断片集(4/7)


ペルシア誌・インド誌

クテーシアス断片集(5/7)






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Fragmenta(4/6)

断片17
PLUTARCH. Artox. 2, 3:

[2_]
 [3]……しかし母親〔パリュサティス〕は、もともとキュロスの方をいっそう愛し、これが王になることを望んでいた。父親の病が進んだので、すでに海から呼びもどされたときには、彼女の策動によって、すっかり、自分が支配の後継者になるという善望をいだいて参内したのである。[4]というのも、パリュサティスはもっともらしい言葉を持っていた。それは、デーマラトスが教えて〔Hdt. VII_3〕、クセルクセースも利用したもので、アルシアスはダレイオスが私人のときに、しかしキュロスはダレイオスが王位にあるときに〔パリュサティスが〕生んだというものであった。[5]むろん彼女は説得できず、兄が王位を受け継いで、アルトクセルクセースと改名した。
[3_]
 [1]ダレイオスが命終して少し経って、大王〔アルトクセルクセース〕はパサルガダイ〔ペルシアの主都、ペルセポリスの北北東40Km.。ペルシア大王の国庫があり、戴冠式がここで行われる〕に出馬し、ペルシアの神官たちによって王の即位式を受けようとした。[2]〔ここには〕戦いの女神――これをアテーナに擬する人がいる――の神殿がある。即位しようとする者がなすべきことは、この神殿に入ってゆき、自分の衣裳は奉納し、いにしえのキュロスが王となる前に身につけていたのを着け、無花果菓子を食べ、テルミントスをかじり、湯飲み1杯の酸乳〔ヨーグルト〕を飲まなければならない。これに加えてほかに何をするか、余人には不明である。[3]こういったことをアルトクセルクセースがしようとしているところに、ティサペルネースが、一人の神官を伴って、彼のもとにやってきた。この〔ティサペルネース〕は、キュロスが子どもとき、仕来りの教育の監督者となり、魔術の仕方をも彼に教えた人物だったので、彼〔キュロス〕が王位を受け継げなかったことを、ペルシア人たちの中で誰にも劣らず不快としていると思われていた。それだけに、彼のキュロス告発は信頼できた。[4]彼が告発するには、〔キュロスは〕神殿内で待ち伏せし、大王が衣服を脱いだときに、襲撃してこれを滅ぼすつもりだというのである。[[5]ところで、ある人たちは、この〔ティサペルネースの〕寝返りのせいで〔キュロスの〕逮捕が生じたと主張し、ある人たちは、キュロスが神殿に入って、隠れているところを神官によって引き渡されたと〔主張する〕。][6]とにかく、彼〔キュロス〕がもはや処刑されようとしているとき、母親が腕で抱きつき、巻き毛を巻きつけ、彼〔キュロス〕の頸におのが〔頸〕を押しつけて、慟哭し金切り声をあげて命乞いをした。かくて再び海に下向したが、その支配には満足せず、放免されたことさえ覚えず、逮捕されたことを〔うらんで〕、以前にまして王位への思いをつのらせた。
[4_]
 [[1]なお、一部の人たちの主張では、日々の食事のために受け取ったものに満足できなくて大王に離反したというが、ばかげた発言である云々]。

断片18
PLUTARCH. Artox. 8:

 [1][この戦闘は、多くの人たちが報告している中で、クセノポーン(Anab. 1, 8)は、眼に見たまま、事実ありのまま、過去のことではなく今現に起こりつつあることとして示したも同然なので……語るに足る事であの人が省いた事を除けば、今更くどくど述べるのは、心ない者のやることであろう。][2]ところで、彼らが布陣した場所は、クゥナクサと呼ばれ、バビュローンから500スタディオーン離れている。キュロスは、戦闘の前、戦士たちの背後にあって、自身が危険を冒すことのないようクレアルコスが勧めたのに対し、こう云ったと謂われている。「何を言うか、おお、クレアルコスよ、王位を希求している余に、王位にふさわしからぬことをせよと、おぬしは命ずるのか?」

断片19
PLUTARCH. Artox. 9:

 [1]ヘッラス人たち〔軍〕は、望みのままに非ギリシア人の軍に勝利し、追撃しつつはるか遠くまで前進したが、キュロスには、血統よき馬、クテーシアスの主張によれば、パサカスと呼ばれる、気性荒く猛々しいのを走らせているところに、カドゥウシオイ人たちの指揮官アルタゲルセースが走りかかり、大音声。[2]「おお、キュロスという、ペルシアにおける最美の名前を辱め、人間どもの中で最も不正にして無思慮な者よ、悪しきヘッラス人たちをペルシアの善きものらへと導き、悪しき征旅につかせるとは。おぬしが亡き者としたいと望んでいるおぬしの主人にして兄は、おぬしより幾万倍も優れた奴隷を持っておられるのに。ここでおぬしの武運を試してもみよ。大王の尊顔を拝するよりも先に、おぬしの頭をここで失うことになろうが」。[3]こう言うと、相手めがけて槍を投げた。しかし鎧がしっかと食いとめ、キュロスは傷を負わなかったが、よろめいた、それほどに命中した衝撃が強かった。するとアルタゲルセースが馬をとって返したので、キュロスが〔槍を〕投げると命中して、その穂先で鎖骨のあたりから喉を通して刺し貫いた。
 [4]ところで、アルタゲルセースがキュロスに殺されたことは、ほとんどすべての人たちが同意している。しかし当のキュロス本人の最期については、クセノポーンは自分がその場にいなかったものだから、単純・簡略に述べているだけであるから、ここでデイノーンの〔記述〕(690 F 17)と、そのあとでクテーシアスの〔記述〕(F 20)とを述べても、おそらく、何ら差し支えあるまい。

断片20
PLUTARCH. Artox. 11:(F 19〔に続いて〕)

 [1]また、クテーシアスの叙述は、方々を刈りこんで簡潔に伝えると、ほぼこういうふうになる。キュロスはアルタゲルセースを殺してから、大王本人に向かって馬を駆り、王もまた彼〔キュロス〕に向けて〔馬を駆り〕、両者とも無言。そこで、キュロスの友アリアイオスが先んじて王に槍を投げたが、傷はつけられなかった。[2]そこで王が長柄を放ったが、キュロスにはあたらず、キュロスの信任あつき貴族サティペルネースに命中して、これを殺した。キュロスは彼〔大王〕に向けて槍を投げて、鎧を通して胸を傷つけ、槍の穂先は指二本の幅だけ突き刺さり、王はこの打撃によって馬から落ちた。[3]王側近の者たちに敗走と混乱が生じたが、王は立ち上がって、クテーシアスも含めた少数の者とともに近くの丘に辿り著いて立止まり、キュロスは敵に取り巻かれながら、いきりたつ馬に遠くまで還ばれて行ったが、すでに暗くなっていたので敵兵はこれを見知らず、味方の者はこれを探していた。[4]しかしキュロスは勝利に思ひ上って憤激に充ちながら馬を乗り廻して、「乞食ども、さがれ」と叫んだ。これを度々ペルシャ語で叫んだので人々は平伏して路を明けたが、キュロスのティアラ〔円錐形の帽子〕が頭から落ちた。[5]そこを通り掛かったペルシャの青年のミトリダテースという者が、槍を投げて眼の近くのこめかみにあてながら、相手が誰であるかを知らずにいた。キュロスは傷から血がおびただしく流れ出て眩暈を感じ、気が遠くなって落馬した。[6]馬は逃げ去って彷徨っていたが、鞍のフェルトの布がずり落ちたのは、ノキュロスを撃った人の供の者が取り上げると血だらけになっていた。[7]キュロスがやっとのことで気を取り直したのを、そこに居合わせた少数の宦官が別の馬に乗せて逃がそうとした。[8]しかし馬に乗る気カもなく、自分の足で歩きたいと云うので、抱へ上げて蓮れて行つたが、頭が重くて蹟きがちになっても、逃げて行く連中がキュロスを王と呼んで命乞ひをするのを聞くと、自分の方が勝つたのだと思った。[9]そうしているうちに、みじめな生活を送っている貧窮の民族で賎しい仕事のために王の軍隊に従っているカウノス〔カリア南部の町〕の人が幾人か、偶然キュロスの部下の間に味方だと思つて混ざりこんでいた。この連中がやっと人々の胸当の上に著ている衣が紅いのを見て、王の部下はみな白いのを使っているのでこれは敵だなと気づいた。[10]そこでその一人が元気をふるってキュロスとは知らずに後ろから槍を投げた。膝の後の静脈が裂けてキュロスが倒れると同時に、傷ついたこめかみを石にぶつけて息が絶えた。これがクテーシアスの記事であるが、鈍刀で斬るやうになかなか捗取らずやっと殺している。
[12_]
 [1]すでにキュロスが死んだところへ、王の眼〔ペルシア王が諸州に派遣した検察官〕アルタシュラスがちょうど馬で通り掛かった。そこで嘆いているのが宦官だと知って、その中でも一番信頼できる者に、「パリスカス、そなたが嘆いているこの倒れた人は誰だ」と訊くと、「アルタシュラス、あなたにはわからないのか、キュロスが亡くなったのだ」といった。[2]そこでアルタシュラスも驚き、その宦官に元気を出せと励まして、遺骸を守るように命じ、自分は大急ぎでアルタクセルクセースのところへ駈けつけ、すでに情勢に落胆し身体も渇きと傷のために具合が悪くなっていた王に、自分の眼でキュロスが亡くなったのを見て来たと大喜びで告げた。[3]そこで王も最初は自分ですぐ出掛けようと急ぎ、了ルタシュラスにその場所まで連れて行けと命じたが、ギリシア軍のことがいろいろと取り沙汰され、それが追撃してすべてを破り支配していると懸念されたから、王は大勢のものを検分に遣すことに決し、30人に炬火を持たせて送り出した。[4]王が渇きのために死にそうになっていたので、宦官のサティバルザネースは馬を乗り廻して飲物を探したが、その場所には水がなく宿営も近くにはなかった。[5]ところがやっと、あのみじめな生活をしているカウノスの佳民の一人が汚い革嚢に腐ったひどい水を8コテュレばかり入れているのに出会ったので、それをもらって来て王に差し出した。[6]王がすっかり飲み終わると、ひどい水でしたろうと訊いた。王は神々にかけて誓ひ、今まで一度もこんなに甘い酒やこんなに軽く清い水を飲んだことはないと云い、「おまえにこれをくれた男をわたしが探し出してそれに褒美をやることができないとしても、神々に祈って幸幅と富を援けていただこう」と云った。
[13_]
 [1]そうしているうちに30人の兵士が上機嫌に大喜びで戻って来て、王に思いもかけない幸幅な知らせをもたらした。すでに王のところに再び駈けつけて集まる者の数が増したので、王も元気を取りもどし、多くの灯を周りに輝かせて丘から下りて来た。[2]遺骸の傍に立ち止まり、ペルシアの掟に従って右の手と首を刎ねた後、首を自分のところへ持って来させてその長い房々した髪を掴み、まだ疑いを懐いて逃げようとしている人々にそれを示した。[3]人々は驚いて平伏し、やがて王のもとには7万人集まって再び宿営に入った。

断片21
XENOPH. Anab. 1, 8, 23:

 [23]事実、この時も大王は自軍の中央部にいたのであるが、それでもなおキュロス軍の左翼の外にはみ出していた。しかし大王にも彼の前面に配置された部隊にも、正面から戦いを仕掛ける者がいないので、大王は部隊を旋回させて包囲の態勢をとろうとした。
 [24]この時キュロスは、敵が背後に廻ってギリシア人部隊を粉砕することを恐れ、大王に向かって突進した。600の騎兵隊とともに突入して大王前面の部隊を破り、敵6000を潰走させ、キュロス自らその手で敵の指揮官アルタゲルセスを討ち取ったという。
 [25]敵が潰走し始めると、キュロス麾下の600の騎兵隊も、敵を追撃するに急であったために散り散りになってしまい、キュロスのまわりには極めて僅かの人数しか残らず、ほとんど「陪食方(ホモトラペゾイ)」と呼ばれる者たちだけになってしまった。[26]これらの者たちと共に踏み止まっていたキュロスは、大王と彼をとりまく密集陣を認めるや、もはや自らを制し切れず、「彼奴が見えたぞ」と言うなり、大王に向かって突進して胸の辺りに切りつけ、胸当を貫いて傷を負わせたという。これは医師クテシアスの言うところであり、彼は自分がこの傷を治療したとも言っている。
 [27]ところが大王に打って掛かったキュロスに、一人の兵士が手槍を投げ、眼の下の辺りを激しく撃った。ここにおいて大王とキュロス、それに双方の部隊が、それぞれの主君を守って戦ったのであるが、大王側の戦死者の数はクテシアスが記している。(彼は大王に扈従していたのである。キュロス自身も命を落とし、側近の重臣8人も彼の骸に折り重なって倒れた。

断片22
PLUTARCH. Artox. 13, 3:

 (scil. 〔アルタクセルクセース2世〕王は)、クテーシアスの主張では、兵40万をもって出陣した。もっとも、デイノーン(690 F 16)やクセノポーン(Anab. 1, 7, 11/2)の流れをくむ人たちは、戦闘員はそれよりはるかに多数にのぼったと言っている。[13_4]また死体の数を、クテーシアスの主張では、アルタクセルクセースのもとには9000と上奏されたというが、彼自身には、戦死者は2万をくだらないと見えたという。

断片23
PLUTARCH. Artox. 13, 5:

 この点〔戦死者の数〕は、たしかに、論争の争点になっている。しかし、クテーシアスのいうあのこと、すなわち、自分はザキュントス人パウッロス(?)ほか何人かといっしょに、ヘッラス軍に派遣されたと主張しているのは、明らかな嘘である。[13_6]なぜなら、クセノポーンは、クテーシアスが大王のもとで過ごしていたのを知っていた。だから、彼〔クテーシアス〕のことに言及しているのであり(F 21)、その諸著作品に遭遇していたことも明らかである。ところが、〔そのクテーシアスが〕到来し、あれほどの言葉の通訳となったのを、無名のまま放置しながら(Anab. 2, 1, 7 ff)、ザキュントス人パウッロス(?)の名はあげるなどということはなかったであろうから。

断片24
DEMETR. De eloc. 216 (GREGOR. COR. VII 1180 Walz):(T 14a〔に含まれる部分〕)

 これが、クテーシアスが死んだキュロスについて報告する際にしていることである。すなわち、報告者は参上しても、キュロスが亡くなったことをパリュサティスにすぐには言わず(それはスキュティア人たちに言われた話だからである)、先ずは、勝利したことを報告し、彼女の方は喜び不安に駆られる。そしてその後で尋ねる、「で、王はどうしたのか?」、相手〔報告者〕は、「逃げました」と謂う。そこで彼女は、「ティッサペルネースが彼にとってこれらのことの原因だ」と受け取る。そして再び問いただす、「で、キュロスは、今、どこに?」、報告者は応える、「善き人士たちはここの中庭に住まうべきです」。そしてこういうふうにして少しずつ、次第に進んで、何が言われているかというそのことは中断して、報告者は災禍を心ならずも報告しているのだということを印象的かつ明瞭に見えさせるとともに、母親を、そしてまた心ならずもの〔報告者〕をも、苦悶の中に投げこむのである。

断片25
APSIN. Ars rhet. (Rhet. Gr. I 2) p.320, 22 Sp_Ha:

 死者の所持品に関してなされる言葉〔話〕といったものも、憐憫の情を動かせる、例えば、クテーシアスがキュロスの母親に、彼〔キュロス〕の馬たちや犬たちや武具について対話させたように。こういったものからも彼は悲嘆を動かせたのであった。

断片26
PLUTARCH. Artox. 14:

 [14_1]戦闘の後、最美にして最大の贈り物は、キュロスによって斃れたアルタゲルセースの子に遣わし、クテーシアスその他の人々にも立派な褒美を与えた。[2]革嚢を寄越したあのカウノスの人(F 20c. 12, 4_6)も探し出して、名もない貧乏人を有名な金持にしてやった。[3]しかし、過ちを犯した人々の懲罰にも意を用いている。例えぱ、メーディア人アルバケースという者が戦闘中にキュロスのところに逃げキュロスが死んでからまた戻って来たのを、裏切りや悪意の罪ではなく、卑怯及び惰弱の罪に問うて、裸体の娼婦を肩車にのせて一日中市場を歩き廻るように命じた。また、別の男は向う側に移った上に敵を二人殺したと嘘をついたので、舌に針を三本突き刺すように命じた。また、王は自分でキュロスを殺したとすべての人に思われ且つ言われたかったので、最初キュロスに槍を命中させたミトリダテースに履物を遣って、それを屈けた使いの者に「これらの贈り物を王様がお前に下さるのは、お前がキュロスの鞍に掛けたフェルトの布を見つけて持って来たからだ」と云はせ、キュロスの膝の後ろを突いて倒したカリア人の男も、褒美にあづかりたいと願った時、それを授けた人々に「王様がお前にこれを下さるのは、二人目に吉報を持って来たからであって、最初の人はアルタシュラースであり、その後でお前がキュロスの最後を知らせたのだ」と云うように命じた。そこで、ミトリダテースは気を悪くして黙って退出したが、可哀そうなカリアの男は愚かだったため、よくあるような目に遭った。というのは、当然のことながら、手に入った結溝な物に心が乱れて、たちまち自分の力以上な真似ができると思いこみ、王の贈物を吉報の褒美だとすることに甘んぜず、キュロスを殺したのは他ならぬ自分であって、その名誉を不正にも取り上げられたのだと、証拠を挙げて憤慨しながら叫び立てた。それを聞いた王はひどく腹を立て、くだんの男の首を斬るように命じた、ところが、そこに居合わせた母后は「禍のもとになったそのカリアの男はそうやって片附けずに、私の手からその大それた言葉にふさはしい罰を受けさせて下さい」と云った。王が引き渡すと、バリュサティスは刑罰の係の者に命じて、その男に十日間呵責を加えさせた後、両眼を剔り抜き、死んでしまうまで両耳に熱い青銅の熔けたのを注ぎこませた。

 [15_1]ミトリダテース(F 16 §67)も、その後暫くしてから同じ愚かさのためにひどい殺され方をした。王および母后の宦官たちも列席する宴会によばれたので、王から授かった着物や黄金の飾りを附けてやってきた。酒を飲む段になってから、バリュサティスの最も有力な宦官がミトリダテースに向かって、「何と見事な着物を王様は君にお授けになったのだ。頸飾も立派だし腕環も立派だ。半月刀高価なものだし、全く王様は君を誰の目にも幸幅と仰がれる人にしてくださった」と云った。すでに酔っていたミトリダテースは、「スパラミゼース、こんなものが何だ。私は、あの日のはたらきで、王様にはもっとたくさん立派なものがいただけることをしてあげている」と云った。すると、スバラミゼースは徴笑していった。「王様は物吝みはなさらない。しかしギリシア人の諺に酒はすなわち真理だとあるが、馬からずり落ちたフェルトを見附けて持って来たのが、いったいどうして華々しい偉いはたらきなのだ」。これは真相を知った上で云ったのであるが、スパラミゼースは居合わせる人の前で暴露しようと思って、酒のために自分を制しきれずにおしゃべりになっているこの男の浮いた心を刺激したのである。すると、ミトリダテースは抑えきれずに云った。「あなたがたは御勝手にフェルトだとかがらくただとかおっしゃるがいい。はっきりと言えぱ、私がこの手でキュロスを殺したのだ。私は7ルタゲルセースのように空で無駄な槍は投げなかった。眼のところをちよっと外したけれども、こめかみにあたって突き通ったのがキュロスを倒して、あの人はその傷のために死んだのだ」。そこで他の人々はすでにミトリダテースの最後と不運を見て眼を伏せた。人々を饗応していたスパラミゼースは、「さあミトリダテース、王様の御恩を祝してもっと飲んで食べよう。我々の力に余る話はやめにしよう」と云った。

[16_1]それからこの宦官はこの話をバリュサティスに伝え、パリュサティスは王に伝えたので、王は実情を暴露されて勝利の最も立派な最も快い名誉を失ったことを憤慨した。王は、すべてのペルシア人にもギリシア人にも、馬上の奮戦に打ちつ打たれつしたあげく、自分は傷を負いながら相手を斃したと信じさせたかったのである。そこでミトリダテースを飼槽の刑で殺す(skapheuo)ように命じた。
 飼槽の刑とはこういうものである。互ひにぴったりと入れ子になる飼槽を二つ造らせて、その一つには罪人を仰向けに臥かせ、もう一つを上に載せて合わせると、頭と両手と両足が外に出るが、誰の他の部分は覆われる。そうしておいてその人に物を食べさせ、厭だと云っても眼を突ついて無理に嚥み込ませる。食べたら蜜と乳を混ぜ合せたものを口に注ぎ入れて飲ませ、顔一画にこぼす。それから絶えず太陽の方に眼を向けて置くと、蝿がいっぱいたかって顔全体を蔽ひ隠す。飼槽の中では、飲んだり食べたりした人間がどうしてもしなければならないことをするから、排泄物の腐敗によって蛆や虫が涌き、そのために身体は内まで侵されてむしばまれる。その人がすでに死んだことが明らかになってから、上の飼槽を取り去ると、肉はすっかり食いつくされて、臓腑のまわりには噛りついて大きくなったそういう虫の群が見えるのである。こうしてミトリダテースは、17日間さいなまれて、やっと死んだ。

 [17_1]なお、あとに残ったバリュサティスの目当ては、キュロスの首と手を斬り離した、王の宦官のマサバテースである。ところがこの人は白分の方から何一つきっかけを与えなかったので、パリュサティスはこういう計略を思いついた。とにかくこれは頭の利く女で、賽の遊びが上手だったから、戦争前には度々王を相手に賽を振ったし、戦争後も王と仲直りして、王の好意を拒まずいろいろな遊びに加わり、色事にも力を籍してその場その場に立ち会い、つまり王がスタテイラを相手にしていっしょにいる必要が殆んどないようにしたのは、この妃を誰よりも憎み、白分が最大の権力を握ろうとしたからである。さて或る日アルタクセルクセースが暇なので何かしたいと思っているのを見ると、パリュサティスは1000ダーレイコスを賭けて賽の遊びをしようと挑み、わざと相手に勝たせてその金を払った。それから心を傷めてやっきになっているようなふうをして、また改めて今度は宦官を賭けて賽を振ろうというと、王も承知した。そこで取りきめをして、めいめい最も信任の厚い五人ずつは除き、他の宦官の中から勝った方が選ぶものを敗けた方に与えるという條件で賽を振った。パリュサティスはこのことには恐ろしく気を入れて熱心に勝負をやり、賽も目がうまく出たので勝った結果、マサバテースを自分のものにした。(それは、別にした五人の中に入っていなかったからである)。そうして王がその計略について疑念を起こす前に、懲罰の係に命じてマサバテ一スを生きたまま皮を剥ぐことに掛かり、身体を斜に三本の杭に縛り、別の一本に皮を釘附けにした。そういうことをやったので、王は非常に怒って母后に対して憤慨すると、わけを知らないようなふうをして笑い、「けちな老人の宦官のことで機嬢を悪くするなどとは何と結構なおめでたい人だろう。私は賽の遊びで1000ダーレイコスも敗けながら黙って我慢している」と云った。そこで王は、騙される結果を招いた事柄を後悔してそのままにしたのに、他の事においても公然と反発していたスタテイラは、今度のことについても、王の信任している宦官その他の人をキュロスのためにパリュサティスが残忍不法に殺したのは赦して置けないと云った。

断片27
PHOT. Bibl. 72 p.44a20_b19:

[68]
 第21巻と第22巻と第23巻――これが『歴史』の最終巻である――の中では、要約次のようなことが書かれている。すなわち、ティサペルネースがヘッラス勢に策謀し、テッサリア人メノーンを味方に引き入れ、これを利用してクレアルコスとその他のヘッラス勢に欺瞞と誓約を用いた、クレアルコスはその策謀を予知もし、はねつけもしたのであるが。しかしながら、大衆はメノーンにたぶらかされ、クレアルコスは乗り気でなかったのに、ティサペルネースのもとに出向くよう無理強いした。またボイオーティア人プロクセノスも、自身がすでに囚われの身にあったにもかかわらず、欺瞞によって同調した。
[69]
 バビュローンにあったアルトクセルクセースのもとに、クレアルコスとその他を、足枷をはめて送り出した。クレアルコスを見物しようと、全員が押し寄せた。クテーシアス――パリュサティスの侍医であった――本人によれば、囚われの身にあったクレアルコスの快適さと世話のために、彼女を介して多くのことをなしたという。そして、もしもスタテイラが、彼が亡き者にされるよう夫アルトクセルクセースを説き伏せなかったら、彼は捕縛を解かれ放免になったであろうという。しかしクレアルコスは亡き者にされたのだが、その身体に前兆が現れた。というのは、大風が吹いて、塚が勝手に高々と巻き上げられ、彼の上に組み立てられたのだ。さらに、彼といっしょに送り届けられたヘッラス人たちも、メノーンを除いて、亡き者にされた。
[70]
 スタテイラに対するパリュサティスの悪罵と、〔殺害〕方法に工夫を凝らされた毒薬(なぜなら、スタテイラは、まさしく自分が被ったことを被らないよう、ひどく用心していたから)による殺害。小刀の一部分に毒薬が塗られ、他の部分には塗られない。この小刀で小さな小鳥――大きさは卵ぐらい。この小鳥のことをペルシア人たちはリュンダケーと呼んでいる――を切る。さて、二つに切られ、毒のついてないきよらかな方の半分は、パリュサティス本人が取って食べ、毒になじんだ方はスタテイラに差し出した。後者〔スタテイラ〕は、寄越した本人が半分を食べているのを眼にして、深く考えることが何もできず、自分もいっしょに食べた、死の毒薬を〔そして彼女は死んだ〕。このため、母親に対する王の怒り、彼女の宦官たちの逮捕と蹂躙と殺害。さらにまたギンゲー――パリュサティスと親密な女性――の逮捕。これに対する裁判、裁判官たちからは無罪放免、しかし王からは有罪判決。そしてギンゲーの蹂躙と殺害。このため、パリュサティスの息子に対する怒りと、息子も母親に対して。
[71]
 さらにまた、クレアルコスの墓は、8年間、ナツメヤシに満たされているように見えた、〔このナツメヤシは〕彼クレアルコスが命終した折りに、パリュサティスが密かに宦官たちの手で埋めておいたものであった。

断片28
PLUTARCH. Artox. 18:

 [18_1]さて、クレアルコスおよびその他の諸將軍をティッサペルネースは欺いて、誓いを立てながらそれを破り、逮捕した上、足枷を嵌めて王のところへ送った時に、クテーシアスはクレブルコスが櫛を都合してくれと自分に頼んだと云っている。[2]クレアルコスは櫛を手に入れると髪を調え、クテーシアスの心遣いを喜んで、スパルタにいる親戚や友人に対する友情のしるしとして指環を与えたが、その刻印の模様にはカリュアティデースの踊っているところが彫ってあったそうである。[3]なお、クレアルコスに送ってやった食料をいっしょにつかまっていた兵士が奪って食べてしまい、クレアルコスにはその中から少ししかやらなかったが、クレアルコスにもっと余計送り、別にめいめいの兵士にも分けてやるように手配してその窮状を救ったのは、パリュサティスの機嫌を取りその意見にしたがって尽力したのだとクテーシアスは云っている。[4]その食糧の外にクレアルコスには毎日腿の肉を屈けていたところが、クレアルコスは肉の中にうまく隠して小さな刀を送ってもたいたいと頼み、王の残忍な手で最後を遂げるまで待ちたくないと云ったが、クテーシアスは恐れて承知しなかったとも云っている。[5]王は母后からクレアルコスを殺さないようにと頼まれ誓を立てて承知したが、その後スタテイラに説得されて、メノーン以外は皆殺したそうである。[6]そこでパリュサティスはスタテイラを殺そうと図り、そのために毒薬を用意したと云っているが、この話は事実とは思えず、パリュサティスがクレアルコスのために、王位を縫ぐものとして育てられている子供たちの母になる正式の王妃を殺そうなどと考えてこんな恐ろしい行為を果たし危険を冒したというのは、理由としてばかげた事である。これらは明らかに、クテーシアスがクレアルコスの遣憶のために附け加えた芝居じみた話である。[7]現に、他の諸特軍は殺されてから犬や鳥に食われたのに、クレアルコスの屍には風が土をたくさん運んで来てその上に積み上げて屍を隠し、[8]ナツメヤシの実がいくつか落ちて暫くすると驚くべき杜が繁り、その場所に蔭を作ったので、王は、神々の友ともいふべきクレアルコスを殺したことをひどく後悔したなどと云っている。

断片"29a"
PLUTARCH. Artox. 6, 9:

 デイノーン(690 F 15)は、この策謀〔アルタクセルクセースの妻スタテイラ暗殺計画〕が遂行されたのは戦闘中だと述べ、クテーシアスは、戦後だと〔述べている〕。後者は、事件の現場に居合わせたのだから、その時を知らないというのは尤もなことでもなく、いかになされたかを叙述しながら――彼の言葉は、しばしば、真実から逸脱して、神話的・劇的なものと関係しているが(T 11e)――、故意に時をずらして事実を改変しなければならない理由も彼は持っていないから、この件は彼〔クテーシアス〕が割り当てた箇所〔断片"29b"〕で取りあげよう。
断片"29b"
同 19:

 [19_1]さてパリュサティスは、最初からスタテイラに憎悪と嫉妬を懐き、自分の罐力は王の畏怖と崇敬から来るものであるが、スタテイラの権力は愛情と信頼に基づく確実で強固なものであることを知り、最も大きいと思われる危険を目してスタテイラの命を鏡つた。[2]パリュサティスに信用されている一番有力な召使がいて、ギギスという名であったが、ディノーン(690F15)はこれが毒薬を作る手伝いをしたと云い、クテーシアスはこれが事情を知っていただけで気は進まずにいたのだと云っている。毒薬を盛った男の名をクテーシアスはベリタラスだと云い、ディノーンはメランタースだと云っている。[3]二人〔パリュサティスとスタテイラ〕は前に疑念と不和の間柄であったが、また再び往来していっしょに食事をするようになったけれども、互いに恐れて警戒し、同じ人々の出す同じ食物を取っていた。[4]ところで、ペルシアには身体中脂身ばかりで汚物が少しもない小鳥がいて、風と露を食べて生きていると考えられ、名前をリュンタケスと云った。[5]クテーシアスの云うところでは、この鳥をパリュサティスが二つに切る時に、片側に毒を塗った小さなナィフを使ってその方の身に毒を附け、汚れていないきれいな方を口に入れて食べ、毒の附いた方をスタティラにやったのだそうであるが、[6]デイノーンは、パリュサティスではなくメランタースがナィフで切って毒の附いた方の肉をスタテイラの前に置いたのだと云っている。[7]そこでスタテイラは非常に苦しがつって痙攣を起こして死ぬ時に、白分の災悪に気がついて、王も知っている通り残忍で宥めることのできない人であるからくれぐれも母后を警戒するようにと言い遺した。[8]王はそこで直ぐに捜索を開始し、母后の召使や給仕を捕えて拷間に掛けたが、ギギスはパリュサティスが長い間自分のところに置いて、王が要求しても引渡さず、その後本人が暇をもらって夜自分の家に行こうとするところを聞き知った王は待伏せて捉まえさせ死刑に処した。[9]毒殺者はペルシアでは法律によってこういうふうに殺されることになっていた。幅の広い大きな石があって、その上に罪人の頭を載せ、別の石で打って、顔も頭も潰れるまで叩きつけるのである。[10]さてギギスはこういうふうに殺されたが、パリュサティスにはアルタクセルクセースは別に何もひどいことを言ひもせずしもせず、バビュローンに行きたいというので送り出したが、そこにいる間は自分はバビュローンを見ないつもりだと云った。とにかく王家の話はこういうふうであった。

断片30
PHOT. Bibl. 72 p.44 b20_42:〔Testimonia 7c〕

 [72]サラミスの王エウアルゴスに大王アルトクセルクセースが離反された諸原因。アブウリテースから書簡を受け取るためのエウアルゴスからクテーシアスへの使者たち。クテーシアスから彼〔エウアルゴス〕への、キュプロス人たちの王アナクサゴラスと彼の和解に関する書簡。エウアゴラスからの使者たちのキュプロスへの到着と、クテーシアスからエウアゴラスへの返信の手紙。[73]コノーンからエウアゴラスへの、大王に対する攻め上りについての言葉。エウアゴラスの、彼によって要求された事柄に関する書簡。コノーンからクテーシアスへの書簡。大王へのエウアゴラスからの貢ぎ物。クテーシアスへの書簡の返信。コノーンについて、クテーシアスから大王への言葉。そして彼〔コノーン〕への書簡。エウアゴラスからサティバルザネースへの贈り物のお返し。キュプロスへの使者たちの到着。コノーンから大王とクテーシアスへの書簡。[74]ラケダイモーン人たちから大王のもとへ派遣された使者たちがいかに待たされたかということ。大王からコノーンとラケダイモーン人たちとへの書簡、これを運んだのはクテーシアス本人である。パルナバゾスのおかげでコノーンが艦隊指揮官となったこと。[75]クテーシアスの祖国クニドスへの到着、またラケダイモーンへも〔到着〕。ロドスにおけるラケダイモーン人たちの裁きと、追放。

断片31
ATHEN. 1, 40 p.22C:

 踊り手として有名なのは……クレタ人ゼーノーン(T 7d)、クテーシアスによれば、アルタクセルクセースに大いに愛顧された人物だ。

断片32
PLUTARCH. Artox. 21, 4:

 言われているところでは、こういうわけで、クテーシアスはその手紙(T 7d)を受け取ると、コノーンによってしたためられた内容に添え書きして、クテーシアスも海上の作戦行動に有益な人物であるから、自分〔コノーン〕のもとに派遣するようにと書き加えたという。しかしクテーシアスの主張するところでは、大王自身がみずからこの公共奉仕を彼に課したという。

断片33
PHOT. Bibl. 72 p.45a1_4:

 [76]エペソスからバクトラとインディケーまでの宿駅、日数、里程(parasanges)の数。ニソスとセミラミスからアルトクセルクセースまでの王名録。この中に業績も含まれる。

断片"33a"
SCHOL. ARISTEID. Panath. p.301 Ddf:

 王朝に5つの記録がある……第1はアッシュリア人たちの王朝で、初代ニノスから最後に王位にあったサルダナパロスまで、統治1450年。第2はメーディア人たちの王朝が、アルバケースから最後に王位にあったアステュアゲースまで470年(ただし、ヘーロドトースの主張〔第1巻130〕では125年)統治した。第3はペルシア人たちの王朝で、カムビュセスの子キュロスからダレイオスの子アタクセルクセースまで215年統治した。そしてこの人物までが、クテーシアスが年代記を書いており、以上〔5王朝〕が『ペルシア誌』の23巻の含む内容である。

断片"34a"
AELIAN. N.A. 7, 1:

 そもそも、スウサの牛たちは算術にも与っていないわけではないと聞いたことがある。述べられていることが、根も葉もない法螺話ではないということは、言っている言葉が証人である――スウサでは大王の牛たちが、多数の宮苑のあまり水流のないところに、日に100カドス水汲みをすると。そこで、牛たちにとって運命として紡がれているせいか、あるいは、久しく慣れ親しんで育ったせいか、この重労働をすこぶる熱心にやり遂げる。しかし、前述の100を超過するや、1カドスさえあなたは引き上げさせ続けることはできないのである、打とうが追従しようが、説得することはできず、強いることもできない。クテーシアスが言っていることである。
断片"34b"
PLUTARCH De soll. an. 21 p.974 DE:

 ……スウサあたりの牛たちが有しているように、数の観念と数える能力を有する自然本性。すなわち、ここにある王の宮苑には回転式の水汲み桶で潅漑することになっており、その数も規定されている。すなわち、それぞれの牛が、毎日、水汲み桶(antlema)100杯汲みあげるのである。これ以上は忘れさせることも、望んでも強制することもできず、試みにしばしば増加させてみるのだが、定められた分を果たすと、立ち止まったまま前に進まない。こういうふうに精確に合計し、総数を記憶しているとは、クニドス人クテーシアスが記録しているところである。

断片35
AELIAN. N.A. 16, 42:

 さらにクニドス人クテーシアスが主張するには、ペルシアのシッタケーあたりにアルガデースという名の河があるという。そもそもこの河には、多数のヘビが棲息していて、身体は頭だけ除いて黒色、その頭だけは白色で、これらのヘビは、長さは1オルギュイアに達するという。ところが、これに咬まれた者たちは死ぬという。また、日中は目撃されることはないが、水底を泳ぎ、夜間になると、水を汲みに来た者たちとか、着物を洗濯しに来た者たちとかをくたばらせるという。そもそも、多数がそんな目に遭うのは、水を汲み忘れて必要になったためか、日中暇なくして着物を洗うことができなかった者たちなのである。

断片36
ANTIGON. Hist. mir. 15:

 テッタリアのクランノーンには、オオガラスは二羽しかいない。……こんなことよりも特異なことをテオポンポス(115 F 267)は言っている。すなわち、彼の主張では、このカラスたちは、雛たちを巣立ちさせるまでは、クランノーンで過ごすが、それを終えると、雛たちは居残るが、自分たち親は飛び去るというのである。さらにエクバタナ〔メーディアの主都〕でもペルシアでも、クテーシアスが記録するところでは、これに似たようなことがあるという。しかし、この人物は多くの嘘を言っているので、抜粋は省略しよう。というのも、あまりに奇々怪々なこと(teratodes)に見えるから。

断片37
ATHEN. 2, 23 p.45AB:

 ペルシア人たちの王は、ヘーロドトスが第1巻(188)の中で主張しているところでは、「スウサの近くを流れるコアスペス河の水を飲料水として携行し、大王はこの水しか飲まない。このコアペス河から汲んで沸かした水を銀の器に入れ、おびただしい数に上る四輪の騾馬の車で運び、大王がいつ何時、どこへ行くのにも随行するのである」。クニドスのクテーシアスもまた、大王のためのこの水がいかにして沸かされたか、いかにして大王のために壺に入れられて運ばれたかを記録し、この水はきわめて軽くもあり、美味でもあったと言っている。

断片38
ATHEN. 2, 74 p.67A (EUST. Od. VI 79):

 クテーシアスの主張では、カルマニア地方では刺のあるオリーブが産し、これは王家が用いるものだと、またこの人物は……〔以下、断片53に続く〕

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