断片1 Vetus Grammaticus Pausanias
アグライ(Agrai)は、アテーナイ市郊外の地域で、ここでデメテルの小秘祭が挙行されるが、〔この秘祭が〕アグラ区の秘祭と言われるのは、アスクレピオス〔神殿〕の祭と同様である。ペレクラテスは『老女たち』に、「アグラ区に腰を落ち着けるとすぐ」と。また、同所にはアグラ区のアルテミス神殿も〔ある〕。プラトン『パイドロス』には、「アグラ区の神殿の方へ渡ったところに」と(229c)。デモスも『アッティス』第1巻のなかで、イリソス川の、市場に向かう内側はエイレテュイア(Eilethyia)。この河岸は、今はアグラと呼ばれるが、古名はヘリコンで、ヘリコン山の頂上にあるポセイドンの火床もある」と。「第4巻のなかでも、アグラなる母神〔キュベレ〕神殿の中へ」と。
断片2
Athen. XIV, 23〔660d-e〕
『アッティス』第1巻の中でクレイデーモスは、料理人(mageiros)たちが職人としての栄誉をになった階級を形成していることを説明し、たいていの仕事も彼らに影響を受けると云っている。
断片3
Athen. X, 7〔425e〕
クレイデーモスは、料理人たちは伝令官と呼ばれたと主張している。
断片4
Harpocrat.
メラニッポス神殿〔のことは〕、リュクウルゴスが『リュコプロン反駁』の中で。テセウスの子メラニッポスの英雄廟があると、アスクレピオスの裔が悲劇作品によって主張している。しかしクレイデーモスは、『アッティス』首巻の中で、それはメリテ〔マルタ島〕にあると言っている。
断片5
Plutarch. Thes. 19
このこと〔クレタ島でのテセウスの活躍〕については、クレイデーモスが、ずいぶん以前に初めて、独特かつ詳細に報じている。「いかなる三段櫂船も乗組員5(?)人以上を収容してどこからも出航してはならないというヘラス人たち共通の取り決めがあった。しかし、アルゴスの支配者イアソンだけは、海上の掠奪団を駆逐すべく巡航した。ところで、ダイダロスが商船でアテーナイに逃亡したとき、ミノスは、取り決めに違背して長船で追跡したが、冬嵐のためにシケリアに運ばれ、その地で往生を遂げた。そのため、彼の息子デウカリオンは、アテーナイ人たちに敵愾心をいだき、ひとを遣ってダイダロスを自分に引き渡すよう命じ、さもないと、ミノスが人質に取っていた子どもたちを殺すぞと脅した。テセウスは、これには穏やかに応える一方、戦備を整えようと――というのは、ダイダロスは従兄弟にあたり、エレクテウスの娘メロペを母とするその子であるため、氏族の上からいって自分にとっても親類になるので――、自らは造船に取りかかった。その地が、外人の使う道から隔たり、ひとつはテュマイタダイの地、他がトロイゼンのピッテウスを通る地だったのは、気づかれまいとしたからである。かくて、準備がなるや、ダイダロスならびに、クレタからの亡命者たちを案内人にともなって、出航したが、クレタ人たちは一人として予知する者なく、友邦の船が接近すると思っていたので、〔テセウスは〕港を制圧し、さらにラビュリントス門前で戦闘を交え、デウカリオンおよびその槍持ちたちを殺害した。国事にはアリアドネがあたっていたので、彼女と誓約を交わし、若者たちを取り返すとともに、アテーナイとクレタとの友好を定めて、以後は決して戦争を始めないことを誓った」。
断片6
Plutarchus Thes.
すべての点にわたって厳密たらんとしたクレイデーモスが記録しているところでは、アマゾン女人軍の左翼は、現在アマゾン神殿と呼ばれるところまで展開し、右翼によってはクリュサの向かいのプニュクス丘に達した。これに対峙してアテーナイ勢は、ムウセイオンから撃って出てアマゾン女人軍と激突した。このときの戦没者たちの塚は、カルコドンの英雄廟から、現在ペイライオス門と名づけられている都門へと通じる街路のほとりにある。この地点では、エウメニデス神殿まで撃退され、女人軍に陣地を明け渡した。しかし、パラディオン、アルデットス、リュケイオンから撃って出た者たちは、彼女らの右翼を本陣まで圧倒し、多数を倒した。かくて4ヶ月目に、ヒッポリュテスによって和議が成立した、という。テセウスと同棲した女性の名を、この人物〔クレイデーモス〕はヒッポリュトスであって、アンティオペではないという。
断片7
Constantin. Porphyrog. De themat. lib. 2, them. 2
マケドニアの領地もマケティアと言われると、マルシュアスが『マケドニア史』首巻の中で。……それどころか、マケドニア全土もマケティアと名づけられているのを、クレイデーモスは『アッティス』首巻の中で知っていた。「アイギアロスを越えて、いわゆるマケティアと呼ばれる内陸部に移住した」。
t8
《第3巻》
断片8
Photii Lex.
ナウクラリア(Naukraria)。そういうふうに、以前からナウクラリア(Naukraria)とかナウクラロス(Naukraros)と呼ばれていた。ナウクラリアとは、いわばシュムモリア(symmoria)やデモス(demos)のようなもの、ナウクラロスとは、いわば部族王(demarchos)のようなもので、ソロンがそういうふうに名づけたとは、アリストテレスも主張しているところである〔『アテーナイ人たちの国制』第8章、第21章 参照〕。法習上は、ナウクラリア義務や、ナウクラリアにもとづくナウクラロスたちについて異議申し立てをできる。クレイステネス以後には諸デモスが存在し、アリストテレスの『〔アテーナイ人の〕国制』によれば、彼らは区長(demarchos)と呼ばれ、こういう仕方で国制を制定したのはソロンであった。部族(phyle)は従前どおり四つで、部族王(phylobasileus)も四人であった。そして、各部族においてtrittys は三つに分けられ、ナウクラリアは各部族ごとに12であった。クレイデーモスは第3巻のなかで主張している、「クレイステネスは部族を四つに代えて十にしたので、50部に分けられることになった。これがナウクラリアと呼ばれたのは、現在、100部に分割されてシュムモリア(symmoria)と呼ばれているのと同様である」。
t9
《第12巻》
断片9
Hesych.
アガメムノーンの井戸。記録されているところでは、アガメムノーンはアウリスや、ヘラスのあちこちに井戸を掘ったと、デモスも『アッティス』第12巻の中で。
t10-16
出典不詳断片(FRAGMENTA INCERTAE SEDIS)
断片10
Schol. Eurip. Med. 19
クレオンの娘については、歴史編集者たちはエウリピデスに同意していない。例えば、クレイトデモスは、〔クレオンの娘は〕クレウウサと呼ばれ、クスウトスと結婚したと主張するが、アナクシクラテスは、グラウケだと。
断片11
Athen. VI. 6〔235a〕
クレイデーモスは『アッティス』の中で主張する。「さらにまた陪食官たち(parasitoi)もヘラクレスのために選任された」。
断片12
Suidas
パラディオン〔その所有者たる町を保護する力があると信じられ、トロイアのアテナ神殿に安置されていたパラス・アテナの古い神像〕について……クレイトデモスの主張するところでは、アガメムノーンがパラディオンとともにアテーナイに立ち寄ったとき、デモポンがそのパラディオンを掠奪し、しかも追撃者たちの多くを亡き者にした。そのためアガメムノーンは憤慨し、連中をアテーナイの50人、アルゴスの50人の裁きにゆだねた。彼らはエペタイ(Ephetai)と呼ばれ、両国とも、訴訟事は彼らに付託することになっていたからである。
断片13
Plutarch. Themist. c. 10
しかしクレイデーモスは、これ〔ペルシア戦争の出動兵士に8タラントンを給付したこと〕をもテミストクレスの用兵に帰している。すなわち、アテーナイ軍がペイライアへ下ってゆこうとしたおり、〔アテナ〕女神の奉納物〔=神像〕からゴルゴンの仮面(Gorgoneion)が紛失したと主張している。そこでテミストクレスは、それを探すふりをして、くまなく探索し、軍行李の中に隠しておいた多量の財貨を見つけた。これが中央〔国庫〕に収納されたので、艦船に乗り組む者たちは、たっぷりと旅費の支給を受けたという。
断片14
Plutarch. Aristid. cap. 19
これら〔プラタイアにおける対ペルシア戦の戦死者1360人〕のうち、アテナ人たちは52人であったが、そのすべてが、最善の闘いぶりをしたアイアンティス部族の出身者であったと、クレイデーモスが主張している。だから、アイアンティス部族民は、スプラギデオンのニンフたちにも、この勝利のお礼に、ピュトの託宣にもとづく供儀として、その奉納物を公費でささげるのが習慣となっていた。
断片15
Pausanias X, 15
しかし、クレイトデモスは、アテーナイ地方誌を書いた人としてはもっとも古い人物であるが、この人が『アッティカ論』の中で主張している、――アテーナイ人たちがシケリア遠征の準備をしていたとき、ある日、無数の烏の群がデルポイに舞い降り、その神像をつつきまわし、嘴でその像の黄金をちぎりとった。さらには、長柄や梟、また、木の実が熟れごろを真似て真っ赤にこしらえられていたが、それらまでも烏たちは壊してしまった。アテーナイ人たちには、彼らがシケリアに向けて出航することを禁じる徴が他にもあったと、クレイトデモスは記述している。
断片16
Hesych.
第7の牛(Bous hebdomos)。彼は第7の牛について言及している。つまり、セイレーネーの聖なる菓子でもあるということを、クレイトデモスが『アッティス』の中で主張している。
t17-18
『始祖(PRVTOGONIA)』
断片17
Athen. XIV, 23
しかも、製菓術が厳めしいものであったことは、アテーナイの伝令官たちからわかる。というのは、この者たちは、製菓司や畜殺司の地位を占めていたと、クレイデーモスが『始祖(Protogonia)』首巻の中で主張しているからである。
断片18
Harpocration 「"Pnyki"〔プニュクス丘で〕」の項。
……アテーナイの民会がそう呼ばれていた。この民会への言及は、『アッティス』諸作品に多い。クレイデーモスは『Protogonia』首巻の中で、「彼らが参集したプニュクス丘は」と主張している、「集住が確定された(pyknoumene)ことにちなんで名づけられた」。
t19-23
『神事解釈(EXEGETIKON)』
断片19
Suidas 「"Tritopatores"」の項。
『Exegetikon』の作者は、彼ら〔Tritopatores〕はウーラノス〔天〕とゲー〔地〕の子どもたちで、その名は、コットス(Kottos)、ブリアレオース(Briareos)、ギュゲーン(Gyge)だという。
断片20
Athen. IX, 18〔409f-410a〕
しかしアテーナイでは、アポニムマ(aponimma)は、遺体の 水や穢れた者たちを清める水という、特別な意味で使われると、クレイデーモスも『葬儀解説』の中で。すなわち、供物について説明した後で次のように書いている。「墓標の西面に穴を掘るべし。次いで、その穴のそばに西面して、水を注げ、次のように唱えつつ。『仕来りのあるところにしたがい、掟のあるところにしたがい、汝らに清めの水を注ぐ』。次いで再び香水を注げ」。
断片21
Suidas と Photius
ヒュエース(Hyes)は、デュオニュソスの添え名だと、クレイデーモスが。「われわれが」と彼は主張する、「この神のために供儀を執り行うのが、この神が雨を降らす(hyein)時期だからである」。
断片22
Suidas 「"Apeda"と"Epedizon"」の項。
"Apeda"とは、平野(isopeda)のこと。クレイデーモスいわく。「げに、彼らアクロポリスを平野に構えれど、ペラスゴイ族をば九門にて囲えり」。
断片23
Hesych.
"Proerosia (sc. thysia)"〔耕作前祭〕。耕作の前の祭事。クレイデーモスもこれを"Proaktouria"と呼んでいる。
断片24
Athenaeus XIII〔609c-d〕
ステパノポーリス〔Stephanopolis、「花売り娘」の意〕がいた、これをペイシストラトスは結婚目的に息子のヒッパルコスに与えたと、クレイデーモスは『NOSTOI』第8巻の中に記録している。「さらには、自分の添え乗りの役を務めた女――ソクラテスの娘ピュエー(Phye)――を息子のヒッパルコスに与えた。また、軍令官だったカルモスの娘――とびきりの美女だった――は、自分といっしょに僭主支配したヒッピアスに娶らせた」。その結果、彼の主張では、カルモスはヒッピアスの愛者となり、アカデミアにエロス〔神像〕を最初に建てた人となったが、その像には〔次のように〕刻まれていた。
手練手管のエロスよ、御身のためにこの祭壇を建てるは
カルモス 体育所の影濃き温泉場に
断片25
Hesych.
"Prooikiai"〔庇〕。クレイトデモスの書によれば、民衆(to demos)に同じ意で。
断片26
Theophrast. Histor. Plant. III, 2
クレイデーモスによれば、植物の機能は動物と同じであるが、ただ、濁って冷たいものになればなるほど、動物から遠ざかるという。
断片27
Theophr. De causs. plant. I, 10〔_3〕
冷たい〔植物〕は夏に、熱い〔植物〕は冬に生える。だから、おのおのの自然本性は、四季それぞれに順応しているのである。このようにクレイデーモスも考えていたが、それはまずい考えではなかった。
断片28
Theophr. De causs. plant. 3, 23〔_1〕
ある人たちはプレイアデス星が昇るようになってから〔播種するよう〕勧める。干からびて湿り気のない地が種を保護するからという。しかしある人たちは、クレイデーモスもそうであるが、プレイアデス星が沈むと同時に〔播種するよう勧める〕。沈んだ後7ヶ月目に雨期、それも多雨期が始まるからという。
断片29
Theophrast. De caus. plant. 5, 9〔_10〕
たいていの場合、こういったことがもとで、無花果樹は癌腫病になり、オリーブ樹には地衣がつき、葡萄樹は落葉するとは、クレイデーモスも主張するところである。
断片30
Aristotel. Meteorol. 2, 9(370a)
クレイデーモスもそうだが、稲光は実在するのではなく、そう見えるにすぎないと主張する人たちがいる、〔この人たちによれば〕ひとが竿で海を打つときも、似たような状態になるというふうに譬える。たしかに、夜間、水は燐光を発するように見える。そういうふうに雲の中で、蒸気が衝突して起こる光の像が稲光だというのである。
断片30a
Plinius H. N. IV, sect. 12(64) :
〔エウボイアは〕かつて……、そしてカリデムス(leb. vid. Clidemus)によれば、銅がここで初めて発見されたので、カルキスと呼ばれたとのことである。