断片1
Athen. III, 17(96d-e)
デーモーンは『アッティス』第4巻のなかで、「アテナイを王支配していたアペイダスを、庶子の弟テュモイテース〔デーモポーンの子オクシュンテースの子〕が殺害し、自分が王となった。その〔テュモイテース〕の時代に、メッセーニア人〔ネーレウスの子孫アンドロポムポスの子〕メラントスは、〔ヘーラクレイダイに〕祖国を追われ、いずこに住むべきか、〔デルポイの〕ピュティアにお伺いを立てた。すると彼女〔ピュティア〕は謂った、『いずこなりと、賓客の礼をもって第一人者として敬意を表し、おのれに四足と頭を晩餐に供する者たちのところに』。まさしくそのとおりのことがエレウシスで彼に起こった。というのは、時あたかも、女神官たちが父祖伝来のある祭礼を執り行っている最中で、肉をすべて使い果たしてしまったが、四足と頭が残っていたので、これをメラントスに遣わしたからである」。
断片2
Suidas 「"Tritopatores"」の項。〔マラトーンでスキラ祭(6〜7月の頃に行われた)の前夜に祭られた神々。その名は<曾祖父>の意らしく、風神とも人間最初の祖ともいわれ、結婚の前に子宝を願う神であった。(『ギリシア・ローマ神話辞典』〕
デーモーンは『アッティス』の中で主張している、"Tritopatores"とは風の〔神々の〕ことである、と。
断片3
Plutarch. Thes. 19
デーモーンによれば、ミノスの将軍タウロスも亡き者にされたと主張する、出航しようとしたテセウスと、港で船戦を演じたさいに。
断片4
Plutarch. Thes. 23
〔アテーナイ人たちは〕オースコポリア祭を執り行っているが、〔これは〕テーセウスが制定したものであった。すなわち、彼〔テーセウス〕は、あの時、籤に当たった処女たち全員を連れていったのではなくて、知己の若者たちのうち、見た眼に女のようで若々しいが、魂は男らしく血気盛んな二人を、温浴と、日影の生活と、髪や柔肌や顔色をよくする油と、身を飾ることによって、本物の女のように全くつくり変えてしまい、さらに声と振る舞いと歩きぶりを処女そっくりで、少しも違うところがないように教えこんだ上で、誰にも気付かれずに、処女の人数に入れたのである。そして〔テーセウスが〕帰国した時、彼もその二人の若者も、今日実のついた葡萄の枝を持ち歩く人が装うと同じようないでたちで行列に加わった。〔今日これを〕持ち歩くのは、神話にちなんで、ディオニュソスとアリアドネーをたたえるためであるともいわれるが、むしろ彼らが葡萄を摘む季節に帰ってきたからである。また「食事を運ぶ女たち(deipnophoroi)」が選び出されて供儀の儀式に加わるのは、籤に当たったあの人たちの母親を模倣したものである(というのは、〔彼女らは〕彼ら〔息子や娘〕のところに通って、肉やパンを持って来たからである)、またその祭りで物語られるのは、母親たちがその子供たちを慰め激励するために、物語を話して聞かせたことに由来する。これらのことはデーモーンも記録しているところである。
断片5
Scholias. Aristoph. Av. 301, 「誰がフクロウをアテナイへ連れ込んだか?(Tis glauk' Athenaz' egage;)」
あらかじめあるものの上に、同じものをいたずらに積み重ねることに対する諺〔「屋上屋を重ねる」の類〕……デーモーンの主張では、この都市には、生きもののみならず、しきたりもはびこっていたので、と。また、銀貨のみならず、銅貨にもフクロウを彫っていた〔右図〕。だからこの諺が言われたのだ、と。
断片6
Hesych.「オイノエーに早瀬川を〔加える〕(Oinaioi ten charadran)」
諺で、何か悪いことをわが身に引き寄せる人たちにあてはめられる。デーモーンの主張では、オイノエーはアッティカの地区〔区〕であるという。ここの農民たちは、上流を流れる早瀬川の流れを変えて、樹木やブドウ樹に灌水しようとした。ところが水量が多く、川が氾濫して、所有物の多くをだめにされ、あまつさえ、地区のぐるりが冠水する結果になったという。
断片7
Photii Lex. 「驢馬が秘儀に一役(Onos agon mysteria)」〔縁の下の力持ち〕
というのは、デーモーンの主張では、下臼(mylos or myle)について言われているという、それ〔上臼〕を上に載せるときもあるからである。
〔摺り臼の上を"onos"〔=「驢馬」と同語〕、下を男性名詞では"mylos"、女性名詞では"myle"ということから〕
断片8
Photii Lex. 「パノスの扉(He Phanou thyra)」
パノスとは、デーモーンの主張では、けちくさい高利貸し(obolostates〔1オボロス貸し〕)であるが、ほかには盲目であったという。
〔何を言っているのかよくわからない。
アリストパネスの『騎士』1260に、民衆指導者クレオーンの一派で、告訴屋(sykophantes)のパノスなる者が出てくるが、関係があるのかないのか?
それにしても、"phanos"とは「光」の意。失明者に"Phanos"という名前も皮肉であるが、これも関係があるのかどうか……?〕
断片9
Scholiastes Aristoph. Ran. 439。
「ゼウスの子コリントス」とは、ゼウスの子で、コリントスの王……言い伝えでは、メガラ人たちは、国力の点で、コリントスの入植者たち多くの事柄に関して、コリントス人たちに後れをとっていたという。とにかく、コリントス人たちはますます多くのことを課したばかりか、バッキアダイ(都市を統治していたのはこの人たちである)の誰かが亡くなると、メガラ人たちの男女は、コリントスに赴いて、バッキアダイの屍体をいっしょになって埋葬しなければならなかった。コリントス人たちは傲慢さに欠けるところなく、メガラ人たちの不満は、自分たちが離反しても何の被害も受けずに、解放されることを望むまでに強くなったので、もちろんコリントス人たちは、メガラ人たちを非難するための使節団を送る。この使節団が民会に乗りこんで、他にも多くのことを言い立てたが、二言目には、おまえたちから償いを受けなければ、ゼウスの子コリントスは義しくも嘆かれようと〔言い立てた〕。これに激昂したメガラ人たちは、使節団に石を投げつけ、少し後に、コリントス人たちに救援する者が現れ、かくて戦争になったが、〔メガラ人たちが〕勝利して、敗走してコリントス人たちが逃れようとするのに追いすがって、殺害すると同時に、ゼウスの子コリントスの打倒を呼号した。ここから、デーモーンの主張では、今もなお、あまりに威張り散らす連中や、恐れをなして逃げ出す連中に、この諺があてはめられるという。
断片10
Scholiast. Aristoph. Plut. 1000:「昔、ミーレートス人たちは勇ましかったこともある」
この諺については、デーモーンが次のように主張してる。カリア人たちが対アムブラキア戦を評議していたとき、ある者たちはミーレートス人たちを味方に呼びかけるべきだと考えた。というのも、当時、周辺都市の中で最も栄えていたからであり、その領土はカリアに隣接していたからでもあった。しかしある人たちは、ペルシア人たちとの和解を勧告し、その支配力は最も大きく、誰よりも最も勇ましく、アシアの制覇者であることを主張した。そこで、アポッローンにお伺いを立てることがカリア人たちに決議され…〔欠損〕…この神は答えたという。
昔、ミーレートス人たちは勇ましかったこともある。
さて、この神託がアシアの諸都市に知れ渡ると、ミーレートス人たちの方は、〔デルポイの〕巫女(prophetis)がアシア贔屓の連中に金銭で買収されたのだと非難して、全軍で[カリア人たちを救援し、かくて]彼ら〔カリア人たち〕とともにペルシア人たちと会戦し、ほとんど全員が戦死した。こうしてこの神託は真実だったということになり諺になったのだと。
断片11
Schol. Homer. Odyss. XX, 302:〔「〔オデュッセウスは〕心の中で笑った/まったきサルドー風の笑いで」〕
サルドー島の住民たちは、カルケードーン人たちを出自とするが、一種非ギリシア的な、ヘッラス人たちとははるかに隔たった法習に遵っていた。例えば、定められた日々、クロノスに供儀するのだが、〔その生贄とは〕槍の穂先に捕らえられた者たち〔=戦争捕虜〕のうち最美な者たちのみならず、年長者のうち70歳をこえた者たちなのである。この者たちが供儀されるさいに、涙を流すことは恥ずべきこと・奴隷的なこと、喜び、それも極端に、先頭切って笑うことこそ、男らしく美しいことと思われていた。ここから、悪しき状況にあっての見せかけの笑いをも「サルドー的」と呼ばれるようになったと言い伝えられる。この話(historia)はデーモーンの作品にある。
〔L & S はパウサニアスの説を採用している。「〔サルドー〕島の植物には、一種類を除いて人間を死に至らしめるほどの毒はない。例外のこの毒草はセロリに似ていて、これを食べると笑い死にする、という〔左図。学名Ranunculus Sardous〕。このため、ホメロスもそれ以後の詩人たちも、不健全な笑いをサルド風という。この草は、泉のまわりにとりわけよく生えるが、水に毒性を加えるようなこともない」第10巻17_13〕
断片12
Photius "Sard. gel."の項。
自分たち人の破滅的状況にあって笑う人たちについての諺である、これを広めたのはデーモーンで、サルドー島の住民は、槍の穂先にかかった者たちのなかで最美な者たちや70歳をこえた者たち――男らしさを誇示するために笑っているのを、クロノスに供儀するのが常であったという。
断片13
Zenobii Proverb. V., 52:「鹿たちが角を落とすところ(Hopou hai elaphoi ta kerata apoballousin)」
デーモーンの主張では、岩だらけの、寄りつきにくい場所で牡鹿たちは潅木に角をこすりつけて、それを落とすと言う。ここから、身過ぎ世過ぎに精を出す人たちについてコノ諺が言われるようになったという。
〔「さらに、雄ジカは体が太ると(秋になると非常に肥える)、どこにも姿を見せなくなり、太っているために捕らえられやすいので、他所へ立ち去るのである。また、容易に近づくことも見つけることもできないような場所で、角を落とす。このことから「シカの角を落とす所」〔深山幽谷〕という言い回しができたのである。すなわち、ちょうど武器を投げ捨てたようなもので、姿を見られないように注意するのである」『動物誌』第9巻5章(611a)〕
断片14
Proverbior. graecor. e Vaticana Biblioth. Append. in Proverb. Graec.:「シュラクウサイ人たちの1/10税(Ten Syrakousion dekaten)」
デーモーンの主張では、シュラクウサイ人たちは繁栄したので、持ち分の1/10を、神殿や奉納物〔神像〕や神具の補修のために供出することを票決した。その金銭が多く集まったので、諺になったという。
断片15
Photii Lex. 「ポイニクス〔フェニキア〕人たちの申し合わせ(Phoinikon synthekai)」
カルケードーンを建設したポニクス人たちは、リビュエーに来航したとき、在地人たちに対して、一昼夜の歓待を相手に要請した。しかし、それを受けても、あたかも何昼夜も駐留することを申し合わせたかのように、立ち去ろうとはしなかった。それゆえ、あてにならない申し合わせをする人たちにこの〔諺〕が言われるようになったという。同じことをデーモーンはメタポンティオン〔南イタリア、タラス湾北西岸の都市〕人たちについて記録している。
断片16
Photii Lex. 「亀の角を喰うも喰わぬも好きずき(Hedea chelones krea phagein e me phagein)」
亀の小さな角は、食べられると、疝痛を引き起こすが、たいていは無害である。この諺もそこから。デーモーンによる。
断片17
Stephan. Byz.
おしゃべり好きな者たちに対して「ドードーネーの銅製品(Dodonaion chalkeion)」という諺もあるが、デーモーンが主張するところでは、ドードーネーのゼウスの神殿は囲壁を持たず、数多くの鼎が隣り合っているので、その一つに触れると、接触しているために、反響音を次々と伝えていって、もう一度触れるまで反響音が鳴り続けるという。だから、この諺は、釜とか鼎が多数ではなく、銅器が一つなら、謂われることはない。
断片18
Suidas 「ドードーネーの銅製品(Dodonaion chalkeion)」
長広舌をふるう人たちのたとえ。というのは、デーモーンの主張では、ドードーネーにおけるゼウスの託宣所(manteion)は、いくつもの釜によってぐるりを取り囲まれている。これらの〔釜〕は相互に接しているので、一つが打たれると、次々と全部が鳴り始める。その結果、いつまでたっても反響の巡回が続くことになるというのである。しかしアリステイデースは、これを迷妄として斥けて、こう主張する、――2本の柱があって、一方には釜が、もう一方には鞭を持った子ども〔の像〕が載っている、その鞭の本体は銅で出来ているので、風に揺られると釜にぶつかる。こうして、打たれると、反響するのだ、と……デーモーンに寄せて、もしも〔銅器の数が〕多数であるなら、諺が単数〔"Dodonaion chalkeion"は単数表現〕で言われることはなかったであろう。
断片19
Harpocrat.
「ミュシア人たちからの掠奪(Myson leian)」、デーモステネース『クテーシポーン弁護』(De corona 72, 2)。一種の諺でこういうふうに言われるが、デーモーンが『諺について』第40番で主張するところでは、この諺の始まりは、〔ミュシアの〕王テーレポスが出郷している間に、ミュシアに上陸して掠奪した近郊隣国人たちにちなむという。
〔この諺は、アリストテレス『弁論術』第1巻12章(1372b33)にも引かれる。訳者(戸塚七郎)は「赤子の手をひねる」と訳している〕
断片20
Schol. Vat. Euripi. Rhes. 250:「かつてはミュシア兵の一人に至るまで槍の戦列に士気がみなぎっていた(Heni de thasos en aichmais pote Myson)」〔エウリピデースの原文では、「プリュギアーには勇者がいた、確かにいたのだ。/槍の列にも士気が漲ってくる。/ミューシアー人の中にさえ、我が軍の加勢を/軽んじる者がいるだろうか」(片山英男訳)〕
今でもエウリピデースはこの諺をおりにふれて使用している。デーモーンは…〔欠損。「この諺」?〕…についての解説でこう主張する。――トロイ戦争の後、疫病と腐れ病がヘッラスに蔓延したので、現状について占ってもらったところ、ピュティアが託宣するには、彼らのこの恐るべき状況が終息するのは、生まれがアガメムノーンの血を引く者たちの何人かが、トロイ地方へ航行し、諸都市を建設し、戦争によって帳消しとなった神々への尊崇の念を回復する時だという。この占いを受けて、オレステースは生きながらえる結果となった。オレステースの後は、ティサメノスが支配権をとり、この後はコメーテースが〔支配権をとった〕。どこに航行すべきかの託宣がなかったので、もちろん用心して、二度も三度も神にお伺いを立て、ミュシアの端くれに(epi ton eschaton Myson)航行すべしという神託を与えられたという。ところが、多くが寄せ集め集団だったので、託宣をないがしろにした連中が離反し、コメーテースを置き去りにし、神託〔?〕とミュシアの端くれの発言者たちには〔?〕あまり意を払わなかったという。続く世代で〔"plinthily"の意味不明〕、再び遠征隊を動員したが、神はまた同じ神託をもたらしたもうたので、意外なことだったので、そのために諺として守られてきたと言い伝えられている。
しかし、この神託はテーレポスに与えられたものだという人々がいる。すなわち、彼〔テーレポス〕が、いずこの地に航行すれば自分の両親を見つけられるかと、両親について占ってもらったところ、神は、ミュシアの端くれに赴くよう命じたもうた、当時、ミュシア人たちはその地方を領有していたからで、〔テーレポス〕は〔ミュシア王テウトラースの后になっていた〕母親〔アウゲー〕に巡り会ったという。
〔この断片は全体として意味がよくわからない。調査継続〕
断片21
Photii Lex. 「コドロスよりも生まれよろしきもの(Eugenesteros Kodrou)」
……しかし残りの者たちは怒って彼(コドロス)を逮捕し、亡き者にしたとは、デーモーンが。
〔コドロスは伝説的アテーナイ王。アッティカがペロポンネソス人に攻められたとき、コドロスが父〔メラントス〕の後継者として王であったが、敵がデルポイで、アテーナイ王を殺さなければ、勝利を得るであろう、との神託を受けたことを、デルポイ人クレオマンティスより知らされ、貧しい身なりをして敵陣に近づき、兵と喧嘩して、わざと殺された。敵はこれを知って軍を引いた。(『ギリシア・ローマ神話辞典』〕
断片22
Harpocrat. 「挽き割り麦(Prokonia (sc. alphita))」
リュクウルゴス『メネサイクモス弾劾』。しかしデーモーンの主張では、「"prokonia"とは、蜂蜜をまぶした麦である」。文法家アリストパネースとクラテースとは、火を通さぬ大麦からつくられたものが、そういうふうに名づけられたと主張する。火を通したのも通さないのもあるらしいとは、アンティクレイデースが『解釈書』のなかで示唆しているところである。またデーモーンは、『供儀について』の中で主張する。「"prokonia"とは、乾し麦(kanchrys or kachrys)が香料(aroma)といっしょに挽かれたものである」。