T1
SUID. "Hellanikos"の項。
〔レスボスの〕ミテュレーネー人、歴史家。アンドロメネースの子、しかし、アリストメネースの子という人たちも、スカモーンの子という人たちもいる。同名の息子がいた。ヘッラーニーコスはヘーロドトースとともに、マケドニア人たちの王アミュンタスのもとで過ごした、エウリピデース、ソポクレースと同時代の人。またミーレートス人ヘカタイオスにも出会っている、ペルシア戦争の時、あるいは、その少し前に生まれているので。そして、ペルディッカスの時代までも生き延び、亡くなったのは、レスボスの対岸〔本土〕ペルペレーネーにおいてであった。散文ならびに韻文で、きわめて多数の作品を編纂した。
T2
STRABON XIII 2, 4:
ヘッラーニーコスもレスボス人の歴史編纂者である。
T3
GELL. NA XV 23:
〔未訳〕
4
a) EUSEB. chron. can. ol. 70, 1:
ヘッラーニーコスは歴史著作者として、デモクリトスは哲学者として、ヘラクレイトスと……アナクサゴラスは自然学者として著名である。
b) SYNKELL. I 452, 14 ed. Bonn. (KYRILL. c. Julian. I p.13 Spanh. zu ol. 70):
デーモクリトス……ヘーラクレイトスも……アナクサゴラスも、盛時を同じくする自然学者たちである。歴史家のヘッラーニーコスが知己としていた。
T5
DIONYS. HAL. De Thuk. 5:
ペロポンネソス戦争よりわずかに年長で、トゥキュディデスの年代までも生き延びたのは、レスボス人ヘッラーニーコスもそうであるが……
T6
VITA EURIPID. p.2, 5 Schwartz:
サラミス沖でヘラス軍が海戦に勝利した、その同じ日に、ヘッラーニーコスも生まれたという。
T7
STEPH. BYZ. "Parparon"の項。
小アジアのアイオリス地方で、ここでトゥキュディデース(l. ヘッラーニーコス)が亡くなったと記録されているとは、アポロドーロスが『年代記』<第2巻>の中で。その地方を"Perperine"と呼ぶ人たちもいる。
T8
[LUKIAN.] Macrob. 22:
歴史編纂者たちの中では……レスボス人ヘッラーニーコスが、85(sc. 歳まで存命した)。シュロス人ペレキュデースも同じく85。
T9
SUID. "Damastes"(5 T 1)の項。
……彼はヘッラーニーコスの学徒であった。
T10
LISTEN D. GRIECH. PROFANSCHRIFTSTELLER Tab. C:
歴史家<10人衆>。トゥキュディデース、ヘロドトス、クセノポーン、〔シュラクウサイの〕ピリストス〔c.430-356 BC〕、テオポムポス、エポロス、〔ランプサコスの〕アナクシメネース〔c.380-320 BC〕、〔オリュントスの〕カッリステネース〔d. 327 BC〕、ヘッラーニーコス、ポリュビオス〔c.200-c.118 BC〕。
T11
DIONYS. HAL. De Thuc. 9:
わたしが区分法から〔話を〕始めようとするのは、こう前述したからである。つまり、彼(sc. トゥキュディデース)以前の歴史編纂者たちは、記録を配列するのに、場所によってか、継起的時代によってかであったが、この人はそういった区分法のいずれをも適格とは認めなかったからである。すなわち、いつ事件が起こったかを、ヘロドトスやヘッラーニーコスや、彼〔トゥキュディデース〕以前の歴史編纂者たちのうち他の何人かがやったことだが、場所にしたがって記述を配列することもせず。場所による歴史記録を放棄した人々のことは先に述べられたが、時代によって――記録を配列するに、王位の継承によってとか、神官たちのそれとか、オリュムピア紀年の周期によってとか、例年の役職に任命される役人たちによって、ということもしなかったのである。
T12
DIONYS. HAL. ad Pomp. 3, 7 (II, 234, 10 U R):
もちろん、ヘーロドトスはそんなことはせず、自分より前の歴史編纂者たちのうち、ヘッラーニーコスやカローンが先駆けて同じ主題〔ヘラスの出来事と外国の出来事との共通の歴史〕を公刊していたにもかかわらず、思いとどまることをせず、なにかよりすぐれたことを提起できるという自信を持っていた。これこそが彼のしたことであった。
T13
AGATHEM. geogr. inf. I 1:
レスボス人ヘッラーニーコスは、博識家(polyistor)にして、ごまかすことなく歴史を継承した。
T14
CICERO De or. II 51:
ギリシア人もはじめは、わが国のカトーやピクトルやピーソーと似たり寄ったりのものしか書かなかった。というのも、歴史というもののそもそもの始まりは年代記の集積に他ならない。……[53]多くの人はこの編年体に似た記述法に倣い、何の修飾も施さず、時代や人、故地や偉業の単なる記録のみを書き残したのである。ギリシア人ではペレキュデース(3 T 8)、ヘッラーニーコス、アクシラオス(2 T 8)、わが国の人ではカトー、ピクトル、ピーソーといった人たちがそうである。
T15
HERMOGEN. p. d. II 12 p.412, Rabe:
テオポムポス、エポロス、ヘッラーニーコス、ピリストス、および、これらと同類の人たちに関しては、余計なことを書きすぎたようにわたしに思われたのは、何よりも先ず、話の説明の仕方や、ひとに対する反論の述べ方からして、この人たちに関する性格づけもひとは難なく考えることができるからでもあり、また彼らの言説に対する熱中や模倣の類は、他の人たち――例えばトゥキュディデースやヘーロドトスやヘカタイオス(1 T 18)やクセノポーンその他の人たちのそれと同様、わたしの知りかぎりでは、ほとんど、いやむしろまったく、重要視されていないからでもある。
T16
THUKYD. I 97, 2: F 49を見よ。
T17
PORPHYR. b. EUSEB. PE X 3 p.466 B: F 72を見よ。
T18
JOSEPH. c. Apion. I 16 (EUSEB. PE X 7 p.478C):
わたしが差し出がましくも、わたしよりも知識のある人たちに教えたくなるのは、系譜学に関してヘッラーニーコスがアクウシラオス(2 T 6)と不一致なのはいかほどか……あるいは、エポロスがヘッラーニーコスを、極めて多くの事柄において虚言していると指摘するのは、いかなる意味においてであるということである。
T19
STRABON I 2, 35〔C 43〕:
テオポンポスは、史書の中で神話をも述べると主張し、〔歴史的事実のみならず神話をも述べることを〕認めているのであるが、〔その姿勢は〕ヘロドトスやクテーシアス、ヘッラーニーコス、『インド誌』を著した人たちよりもまだましである。
T20
AVIEN. or. mar. 41:
はなはだ多くの人たちによって記録の集成がなされた。もちろんその中に含まれるのは、ミレトス人ヘカタイオス、レスボス人ヘッラーニーコス……
T21
CLEM. ALEX. Strom. VI 2, 26, 8 p.443, 4 St[a]h.:
メレーサゴラスから盗用したしたのは……ヘッラーニーコス……
T22
STRABON XIII 1, 42:
ヘッラーニーコスは、イリオン〔トロイア〕人たちのご機嫌取りをしている、……彼〔ヘッラーニーコス〕の気象はかくのごとしである(F 25b)
T23
同 X 2, 6。
ヘッラーニーコスは、……ほとんど全著作において、このうえない無頓着ぶりを示している……(F 118)
T24
同 XI 6,3。
ひとは易々と信じることだろう――ヘーシオドスやホメーロスや悲劇作家たちが英雄物語をするなら、あるいは、クテーシアスやヘーロドトースやヘッラニコースや、他にもそういった人たちが〔英雄物語をする〕なら。
T25
ARRIAN. diss. Epict. II 19, 7:
ヘクトールの父親は誰か?――プリアモスである。――兄弟は誰々か?――アレクサンドロスとデーイポボスである。――彼らの母親は誰か?――ヘカベーである。――この歴史を省略したのは誰の作品か?――ホメーロスの作品である。わたしの思うに、ヘッラーニーコスも同じことについて書いている。他に誰か同じような人がいるにしても……。
T26
同 II19, 11 ff.:
ここにおいても、歴史(historia)に勝る大事なものはなく、個人的な考えなど、つまらぬものだ。まして倫理的な事柄においては、こういった事柄よりもはるかにわたしたちは、そういうことを実感するのだ。――善きものらと悪しきものらについてわたしにいってください。――聞きなさい。イリオンから風がわたしを運んでキノネス〔トラキアの部族、トロイアの同盟者〕に接近させた。在るものらのうち、あるものは善く、あるものは悪く、あるものは相違しない〔=善でも悪でもない〕……――あなたはどこからわかるのですか?――ヘッラーニーコスが『アイギュプト誌』の中で言っている。――いったい、それと、ディオゲネース〔DL. VI_2〕が『倫理学』の中で、あるいはクリュシッポス〔DL. VII_7〕が、あるいはクレアンテース〔DL. VII_5〕が言っていることと、何が違うのですか?
T27
PLIN. NH I 4-6。
下記諸地域の位置・種族・海・都市・港・山・河・面積・現在および過去の住民……典拠著作家……外国の〔典拠著作家〕ポリュビオス〔I_4。I_5と6ではJuba rege〕、ヘカタイオス、ヘッラーニーコス、ダマステース、エウドクソス、ディカイアルコス。
T28
同 NH I 7:
……特別な長寿の事例……典拠著作家……外国の〔典拠著作家〕……ヘシオドス、アナクレオーン、テオポムポス、ヘッラーニーコス〔断片195〕、ダマステース、エポロス……
T29
PHOT. bibl. 161 p.104a 11:
〔ソーポトロスの『抜粋集(Eklogai)』についていえば〕さらにはAelius Dius〔A.D. 2?〕の『アレクサンドレイアについて』からと、ヘッラーニーコスの『アイギュプトス誌』とから〔抜粋した〕同じ話で構成されている。両書から、神秘的なことや虚構を多く集め、互いに異なったことを第6巻の終わりまで及ぼしている。
T30
同 I G II 992 col. II 4
〔断片的で意味がとれず〕
F1
a) SCHOL. AOLL, RHOD. III 1179:
テーバイへのカドモスの来着について記録しているのは、リュシマコス『テーバイ驚異譚集』と、ヘッラーニーコス『ポローニス(Phoronis)』<第1巻>の中においてであるが、その記録によれば、アレースの忠告にしたがって龍の歯をくと、5人の武装した男たち――ウウダイオス、クトニオス、ペロール、ヒュペレーノール、エキオーン――が生まれたという。
b) 同 III 1186:
カドモスとの戦闘で生き残った者たちは、テーバイに定住したと彼は主張する。また、ヘッラーニーコスが言うには、カドモスは蛇の歯を引き抜いてまき、そこから5人の男――ウウダイオス、クトニオスヒュペレーノール、エキオーン、ペロール、――が生え出たという。しかも、ヘッラーニーコスの主張では、発芽したのはこれだけの人数だという。3 F 22. 4 F 51を見よ。
F2
ATHENAI. IX 410F:
手洗盤で水をまいていて、ヘーラクレースの手に水をかけた少年を、ヘーラクレースが拳骨で殺したが、この少年をヘッラーニーコスは『歴史』のなかではアルキアスと呼ばれたと主張している。そして、この少年のせいで、カリュドーンを所払いとなった。ところが、『ポローニス(Phoronis)』の第2巻の中では、その少年をカイリアスという名で呼び、ヘーロドーロスは、『ヘーラクレース伝』の第17巻(31 F 3)の中で、エウノモスと〔いう名で呼んでいる〕。さらに、ピュレースの息子で、アンティマコスの兄弟のキュアトスをも、自分のために酌をしてくれていたのを、ヘーラクレースは心ならずも殺害したと、これはニカンドロスが『オイタイア誌』第2巻(F 17 Schn.)の中に記録しているが、その主張では、彼のための神域がヘーラクレスによってプロスキオンに建設され、その神域は今に至るも、酒酌みの〔社〕と命名されているという。
F3
HARPOKR. SUID. "Stephanephoros"の項。
"Stephanephoros"の英雄廟というのが、どうやら、アテナイにあったらしい。しかし、"Stephanephoros"というのは、ヘーラクレースの息子たちと、テスティオスの娘たちとの間に生まれた一人――これにはヘッラーニーコスが『ポローニス(Phoronis)』第2巻の中で言及している――であるか。あるいは、"Stephanephoros"の英雄廟というのは、アッティケ地方にはなかったかである――同じヘッラーニーコスが、やはり『アッティス』第<2>巻の中(F 46)で言及しているけれども。
F4
DIONYS. HAL. A R I 28:
テュレーノイ人たちの素性について、他にも多くの歴史編纂者たちが、次の話をしているのをわたしは知っている、ある者は〔ヘーロドトス第1巻94と〕同じに、ある者は場所を変え時代を変えて……。[3]レスボス人ヘッラーニーコスの主張では、テュレーノイ人たちはその昔ペラスゴイ人と呼ばれていたが、イタリアに定住して後は、今有している名称を引き継いだという。つまり、彼の『ポローニス(Phoronis)』の話はこうである。「彼らの王ペラスゴスと、ペーネウスの娘メニッペーとからプラストールが生まれた、この〔プラストールの〕子がアミュントール、この〔アミュントールの〕子がテウタミデース、この〔テウタミデースの〕子がナナスである。この〔ナナス〕が王位にあったとき、ペラスゴイ人たちはヘレネース人たちによって強制移住させられ、イオニア湾内にあるスピネース河の畔に船舶を置き去りにして、内陸部にある都市クロートーンを略取、そしてここから進発して、現在のいわゆるテュルセーニエー〔テュレーニア〕を建設した」。[4]しかし、ミュルシロスはヘッラーニーコスとは逆の意見を表明して、テュレーノイ人たちは、自分たちの〔都市を〕後にしたのち、放浪中に、ペラルゴイ〔"pelargos"(コウノトリ)の複数形〕と改名した、群をなしてヘラスへ異邦へと渡るところが、コウノトリと呼ばれる鳥に似ていたからである。また、アテーナイのアクロポリスを取り囲む城壁――「ペラルゴスの〔城壁〕」と呼ばれる――も、彼らがめぐらせたという。
F5
a) PROKLOS Schol. Hesiod. Opp. 631, 6 Gaisf.:
ヘッラーニーコスが『ポローニス(Phoronis)』の中で主張しているところでは、ヘーシオドスはオルペウスの<10代目の>子孫だという。
b) PROKLOS Vit. Hom. p.26, 14 Wil.:
また、ヘッラーニーコスとダマステース(5 F 11)とペレキュデース(3 F 167)は、彼〔sc. ホメーロス〕の出自をオルペウスに系譜づけている。すなわち、ホメーロスの父マイオーンと、ヘーシオドスの〔父〕ディオンとはアペッリスの子、〔アペッリスは〕メラノーポスの子、〔メラノーポスは〕エピプラデースの子、〔エピプラデースは〕カリペーモスの子、〔カリペーモスは〕ピロテリペスの子、〔ピロテリペスは〕イドモニスの子、〔イドモニスは〕エウクレースの子、〔エウクレースは〕ドーリオーンの子、〔ドーリオーンは〕オルペウスの子である。
c) CERTAM. HOM. ET HES. p.35, 13Wil. :
というのは、ヘッラーニーコスやクレアンテースは、〔sc. ホメーロスの父親は〕マイオーンだと言っているからである。
F6
a) SCHOL. APOLL. RHOD. III 1086:「ここにおいて、イアペトス一族のプロメーテウスは、善勇のデウカリオーンをもうけたが、この子は初めて諸都市をつくり、不死なる者たちのために神殿をきずき、また、初めて人間どもを王支配した」
つまり、プロメーテウスとパンドーラとの息子がデウカリオーンだとヘーシオドスが『名簿』第1巻(F 2)のなかで主張している。また、デウカリオーンとピュッラとの子がヘッレーンで、この〔ヘッレーン〕からヘラスの男たちと女たちとが生まれたとも。さらに、デウカリオーンはテッサリアを王支配したということは、ヘッラーニーコスが『デウカリオーン一族』の第1巻のなかで主張している。また、<十二>神の祭壇をデウカリオーンが築いたということは、ヘッラーニーコスが同じ著書の中で主張している。
b) 同 III 1085:
プロメーテウスの息子デウカリオーンがテッサリアを王支配したということは、ヘッラーニーコスが主張している。また、十二神の祭壇を築いたということも。
F7
ATHENAI. X 416B (EUSTATH. II. L 547):
ヘッラーニーコスが、『デウカリオーン一族』<第1巻>において主張しているところでは、ミュルミドーンの子エリュシクトーンは、ごちそうに対する飽くなさ(aplestos)ゆえに、アイトーン(Aithon)と呼ばれたという。 〔Aithonは、1)ヘクトールの愛馬、2)太陽神の愛馬、3)パラースの愛馬の名前で、「炎」の意〕
F8
STEPH. BYZ. "Thegonion"の項。
テッサリアの都市。ヘッラーニーコス『デウカリオーン一族』の<第1巻>。
F9
同 "Misgomenai"の項。
テッサリアの都市。ヘッラーニーコス『デウカリオーン一族』の<第1巻>。
F10
同 "Lakereia"の項。
マグネーシアの都市。ヘッラーニーコス『デウカリオーン一族』の<第1巻>。
F11
同 "Agatheia"の項。
ポーキスの都市だと、ヘッラーニーコス『デウカリオーン一族』の<第1巻>。
F12
同 "Alponos"の項。
マケドニアの都市ならびに山だと、エウポリオーン(F 141 Scheidw.)……一部の人たちは、その都市はテッサリアにあると主張する。他にも、ロクロイのエピクネーミディオイ人たちの都市もあると、ヘッラーニーコスが『デウカリオーン一族』の<第1巻>の中で。
F13
同 "Kalliaros"〔「美畑」の意〕の項。
ロクロイの都市。ホドイドコスとラオノメーの子カッリアロスに由来すると、ヘッラーニーコスが『デウカリオーン一族』の<第1巻>の中で。ストバイオスは<第9巻>(4, 5)の中で、この都市は「耕すによい」という意によると主張している。
F14
同 "Phemiai"の項。
アルナイアの都市。アムピュクス(Ampux)の子ペーミオス(Phemios)にちなむ。ヘッラーニーコス『デウカリオーン一族』の<第1巻>の中で。
F15
同 "Aspendos"の項。
パムピュリアの都市。アスペンドスの所領だと、ヘッラーニーコス『デウカリオーン一族』の<第1巻>の中で。
F16
STEPH. BYZ. "Salmos"の項。
ボイオーティアの都市で、この都市の市民がサルモス人たち(Salmonioi)だと、ヘッラーニーコスが『デウカリオーン一族』の<第2巻>の中で。
b) 同 "Almos"の項。
ボイオーティアの都市だと、ヘッラーニーコスが。また、Salmosをこの都市と〔みなすのは〕よろしくないと彼は主張する。
F17
同 "Midaeion"の項。
都市、プリュギアにある。<ヘッラーニーコスが>『デウカリオーン一族』の<第2巻>の中で。Midaiとも言われ……
F18
CLEM. ALEX. Strom. VI 2, 26, 8 p.443, 9 St[a]h:
メガラ人のDieuchidasも、ヘッラーニーコスの『デウカリオーン一族』の言葉の初めを改変した。T 21を見よ。
F19
a) SCHOL. A HOM. Il. XVIII 486。
牡牛〔座〕の眉間のあたりにある星座がヒュアデスと言われ、〔前〕半身の肋骨のあたりにあるのがプレイアデス〔Pleiasの複数〕と呼ばれるといわれている。というのは、イアペトスの子アトラスと、オーケアノスの娘アイトラとの間には、ティマイオスの主張によれば、娘が12人と、息子ヒュアスとがいた。この息子が、リュビエーで狩りをしていたのを、ヘビが殺した。そのため、5人の娘たちは、弟を嘆き悲しんで亡くなり、残りの娘たちを、ゼウスが憐れんで、弟の名にちなんでヒュアデスと名づけたからである。しかし、ペレキュデース(3 F 90)の主張では……ヒュアデスというのはドードーナのニンフのことで、ディオニュソスの養い親である……、アラトスが『テオプロトス哀悼』の中で主張しているところであるが、第7星はまったくの暗星であるが、トロイアが破壊されたとき、ダルダノスの母親エーレクトラは逃れ……姉妹の集まりを解き、髪を解き、時々長い髪の星〔彗星〕となって現れるのだという。またヘッラーニーコスの主張によれば、『アトラス一族』の第1巻の中で、<>人の娘たちは神々と結ばれたという。タウゲテーはゼウスと〔結ばれて〕、二人からラケダイモーンが生まれた。マイアはゼウスと〔結ばれて〕、二人からヘルメースが。エーレクトラはゼウスと〔結ばれて〕、二人からダルダノスが。アルキュオネーはポセイドーンと〔結ばれて〕、二人からヒュリエウスが。ステロペーはアレースと〔結ばれて〕、二人からオイノマオスが。ケライノーは、彼女もポセイドーンと交わって、二人からリュコスが。ところでメロペーは、死すべき存在のシシュポスと〔交わって〕、二人からグラウコスが〔生まれたが〕、〔相手が死すべき存在だったので〕だから彼女もまた暗星であるという。
b) PAP. OX. VIII 1084:
[<マイアとはゼウスが神殿の洞穴でひそかに交わった。二人からヘールメスという盗人(philetes)が生まれたのは、惚れこんで(philesimos)彼女と添い寝した。それで、神々の中の粗野で不死な伝令士が生まれたのである。ケライノーと交わったのはポセイドーン。二人からリュコスがうなれたが、これを父親は浄福者たちの島に住まわせ、不死とした。テーウゲテーとはゼウスが交わった。二人からはラケダイモーンが生まれ>……]。
F20
HARPOKR. SUID. "Homeridai"の項。
キオス(Chios)にホメーリダイという氏族がいるが、これについてはアクウシラオスが<第3巻>の中(2 F 2)で、ヘッラーニーコスが『アトラス一族』の中で、かの詩人にちなんで名づけられたと主張している。けれども、セレウコスが『伝記について』第2巻(IV)の中で主張するには、クラテースが『神聖儀式』(III)の中でホメーリダイをかの詩人の末裔とみなしているのは間違いであるという。なぜなら、結納金(homera)にちなんで名づけられたのであって、それは、あるときキオスの女たちがディオニュソス祭のときに乱心のあまり男たちと喧嘩になり、新郎・新婦が結納金を取り交わすことをやめにしたのであるが、その末裔をホメーリダイと彼らは言うからである。
F21
SCHOL. EURIP. Phoen. 159:
ニオベーの一統については、エウリピデース本人が『クレスポンテース』の中で、「げに、ニオベー自身の7に2倍する生子たちがロクシアスの弓に死し」(F 455)。同様にアイスキュロスも『ニオベー』の中(p.50 N2)で、アリストパネースも『演劇』ないし『ニオベー』(I 465, 284 K)の中で……しかしペレキュデース(3 F 126)の主張では、彼女の子どもは6人――アラルコメネウス、ペーレウス、エウドーロス、リュシッポス、クサントス、アルゲイオス。娘が6人――キオネー、クリュティア、メリア、ホーレー( )、ダミッペー、ペロピアだという。<しかしヘッラーニーコスは、表題『アトラス一族』という書の中で、男は4人――アルケーノール、メネストラトス、アルカゴラ……。娘は3人――ペロピア、オーギュギア、アステュクラテイアだという>。またリュドス人のクサントス〔前5世紀の歴史家〕は、アッシュリア人ピロッテースを基に、〔息子と娘の割合は〕10対10だと。
F22
MARCELLIN. Vit. Thuk. 2-4:
すなわち、(sc. トゥキュディデースは)血筋の点では古くから将軍ミルティアデースと親しく、ミルティアデースの家系は、ゼウスの子アイアコスに親しいのである。……[3]これらのことはディデュモスが証言しており、ペレキュデースが『歴史』第1巻(3 F 2)の中で〔次のように〕言っていると主張するのである。「アイアスの子ピライアスはアテナイに住んでいた。これから生まれたのがダイクロス。これの子がエピリュコス。これの子がアケストール。これの子がアゲーノール。これの子がウウリオス。これの子がリュケース。これの子がトポーン。これの子がライオス。これの子がアガメストール。これの子がティサンドロス。[これがアテナイの執政のとき。ミルティアデース]これの子がヒッポクレイデース。これが<アテナイで>執政のとき、パンアテーナイア祭が執行された。<これの子がキュプセロス>。これの子がミルティアデースで、ケッロネーソスを建設した」。[4]このことはヘッラーニーコスも表題『アソーポス一族』という書の中で証言している。
F23
SCHOL. APOLL. RHOD. 1916:「アトランティス海にあるエーレクトラに由来する島」
サモトラケー島を言う。というのは、そこに住んだのがアトラスの娘エーレクトラで、地元民からはストラテーギス島と名づけられた。ヘッラーニーコスの主張では、この島はエーレクトリュオーネー島と呼ばれるという。〔彼女は〕3人の子を生んだ。つまり、トロイアに住んだダルダノス――地元民によってポリュアルケースとも言われると、彼は主張する。もうひとりはエーエティオーン――これを人々はイアシオーンと名づけ、デーメーテールの祭壇に暴虐を働いたので、雷に打たれたと言い伝えられる。3番目がハルモニア――これはカドモスが愛した。また、彼女の母親にちなんで、テーバイの〔南の〕城門 はエーレクトラ門と名づけられたと、ヘッラーニーコスが『トロイア誌』第1巻の中で記録しているし、イドメネウスも[『トロイア誌』第1巻の中で]。<しかしアテーニオーン(546 F 1)の主張では、ゼウスとエーレクトラとの間に生まれたのは、イアシオーンとダルダノスだという>。
断片24a
STPH. BYZ. "Batieia"の項。
トロイアの高地。一種の叢林帯(Bateia)にちなんで呼ばれたと、ヘッラーニーコスが『トロイア史』の第1巻の中で。あるいは、ウマたち、つまりは、食糧の通り道(patos)にちなむとも。〔この場合は綴りの〕<π>を<β>に改変して。あるいは、通路(pl. batoi)にちなむ。
断片24b
同 "Arisbe"の項。
トローアスの都市で、ミテュレーネー人たちの植民地、この都市の建設者は〔ヘクトールの子〕スカマンドリオスと、アイネイアスの子アスカニオスである。……ケパローン(45 F 4)の主張によれば、ダルダノスはサモトライケーからトローアスにやってきて、クレーテー人テウクロスの娘アリスベーを娶った。しかしヘッラーニーコスはその都市をBateiaと主張する。レスボスには、マカルの娘アリスベーにちなむ別の都市がある。エポロスは、彼女をメロプスの系譜に入れ、プリアモスの子アレクサンドロスに最初の妻として娶られたという。
断片24c
SCHOL. T Il. XX 236: 「イロスはまた息子として非のうちどころなきラオメドーンをもうけた」
アドラストスの娘エウリュディケーによって。―― <同巻 219 「ダルダノスは今度は息子として王エリクトニオスをもうけた」
テウクロスの娘バテイアによって、とヘッラーニーコスが。
断片25a
SCHOL. (TZETZ.) Lyk. 29:「流浪の牛によって建設されたるアテーの高きうなじ」
アテーのうなじとは、イリオスが昔そう呼ばれた……その場所については、ヘッラーニーコス『トロイア誌』第1巻での主張では、イロスがプリュギアにあるプリエーポスで神託を請うたところ、プリエーポスにましますアポッローンが、この丘陵に建設すべからずと託宣した。この丘陵はアテーの〔うなじ〕だからと彼は主張した。それゆえダルダノスが建設したのは、その丘陵ではなく、イダ山の麓のダルダニアと呼ばれている地域であった。その丘陵は昔はスカマンドロスと呼ばれていた。
断片25b
STRABON XIII 1, 42:
リュディア人たちの時代に、現在の居住地と神域が建設された。もちろん〔このときは〕都市はなく、〔都市となったのは〕ずいぶん後の世で、上述のごとく、少しずつ増大していったのである。ヘッラーニーコスは、イリス人たちのご機嫌をとって――それが彼の気象であった――、現在の都市とそのときの都市とは同一だと弁護しているが。この地方は、都市が消滅すると、シゲイオンやポイテイオンを領有する者たちや、その他近隣住民のおのおのが分割し、〔都市が〕再建されると、これを返却するをつねとした。
断片26a
SCHOL. GEN. I HOM. Il. XXI 444。「われわれは賃働きしたものだ」
何ゆえ彼らが賃働きしたのかが問題である。ヘッラーニーコスの主張では、ラオメドーンを試すためという。『トロイア誌』第1巻の中でこう書いている。「<その後、ポセイドーンとアポッローンとがラオメドーンに隷従したのは、彼〔ラオメドーン〕の暴慢の試験者だったからである。
断片26b
SCHOL. AB * GEN. II HOM Il. XX 146:「黒髪の尊〔ポセイドーン〕が案内せしは、神的ヘーラクレースの、土塁の囲繞せし高き城壁――これぞ、トロイア人たちとパラス・アテーネーとがつくりしもの、海の海獣からさと逃げこむために」
ポセイドーンとアポッローンとは、ラオメドーンのために賃働きすべしとのゼウスの下命により、定められた報酬で、城壁をこしらえた。ところが、ラオメドーンは、制約と契約を踏みにじり、報酬を払わずに彼らを追い払った。怒ったポセイドーンは、この地に海獣を遣わし、この海獣が人間どもに襲いかかり、実った果実を壊滅させた。ラオメドーンが占ってもらったところ、自分の娘ヘーシオネーが海獣の餌食に捧げらるべし、さすれば恐怖を免るべしとの託宣を与えられた。そこで彼は、娘を報酬として差し出し、海獣をなきものにした者には、不死の馬――ゼウスがガニュメーデースの代わりにトロイに与えたもの――を与えんと触れさせた。そこにヘーラクレースが居合わせて、戦いに勝ってみせようと約束し、アテーナも彼のためにいわゆる囲うようにした土壁の垣を守りにつくってくれたので〔Il.XX_145ff.〕、海獣の口から胃袋にもぐり込み、その横腹を破壊した。しかるにラオメドーンは心変わりして、死すべき馬を与えた。これを知ったヘーラクレースは攻めかかり、イリオンを蹂躙し、かくして馬を追い立てていった。この歴史はヘッラーニーコスの書にある。
断片27
HARPOKRAT. "Krithoten"の項。
"Krithote"が、ケッロネーソス半島にある都市のひとつであることは、ヘッラーニーコスが『トロイア誌』第2巻の中で主張しているとおりである。エポロス第3巻の中では、この都市は、ミルティアデスといっしょにかの地に渡ったアテナイ人たちによって建設されたと主張している。
断片28
SCHOL. B* HOM. Il. XXI 242。
ヘッラーニーコスは『トロイア誌』第2巻の中で、<「この時代、イデ山に」と彼が主張している、「神が雨を降らせ、そのため、スカマンドロス河はその雨水のせいで流れが溢れ出し、窪地の部分に流れだした。この流れに、隊の先頭を嚮導していたアキッレウスが遭遇し、もしや自分をおだぶつにするのではないかと恐れ、平野に生えていた楡の木につかまって我が身を水上に引き上げた。他の者たちは、流れを前もって眼にして、それぞれ各人が各様に可能なところへ向きを変え、平地よりも高い丘の上部に登った」。セルウシオスは、『トロイア誌』の第3巻のなかに(47 F1)。「多数の死体が流れに積み重なった。そうして、橋に堰き止められて流れが退くと、河は溜池となった」。
断片29
PARTHEN. Narr. am. 34:
コリュトス(Korythos)について。記録しているのは、ヘッラーニーコス『トロイア誌』第2巻、ゲルギス〔スカマンドロス河畔トロアスの都市〕人ケパローン(45F6)。オイノーネーとアレクサンドロス〔パリスの別名〕とから生まれた子がコリュトス。このコリュトスが、助っ人としてイリオンに赴いたが、ヘレネーに恋をした。彼女も彼を情愛深く受け入れた。姿がことのほかすぐれていたからである。ところが、これを父親〔パリス〕が見つけて、亡き者にした。しかしながら、ニカンドロス(F 108 Schn)の主張では、コリュトスはオイノーネーの子ではなく、ヘレネーとアレクサンドロスの子だという。
断片30
STEPH. BYZ. "Phoitiai"の項。
アナルカニアの都市で、アムピアラオスの子アルクマイオーンの子ポイティオスにちなむ。ポリュビオス<第3巻>(63, 7)。ポイティオンとも言われる。アレクサンドロスの所領とも彼は主張する。
断片31
DIONYS. HAL. AR I 45, 4-48, 1:
さらに、望むらくは、アイネイアスのイタリアへの到着についても、歴史編纂者たちのある人たちには知られておらず、ある人たちには、彼についての話が不一致であるので、ヘラス人たちのうちの、また、ローマ人たちのうちの、とくに信頼に足る歴史を比較校合した上で、粗雑にならぬ程度に叙述したい。彼について言われていることはこうである。
[46_1]イリオンがアカイア軍に、ホメーロースに詩作されているように、木製の馬の計略によってにせよ、アンテーノール一族の裏切りによってにせよ、なにか他の方法によってにせよ、負かされたとき、市内にいたトロイア軍と同盟軍の他の大部分は、まだ寝床のなかにいるところを押さえられて殺害された(というのは、この惨禍は、夜間、彼らが無守備のときに起こったらしいからである)が、アイネイアスと、ダルダノスやオプリュニオンの都市から、彼とともにイリオン人たちの加勢に来合わせた人たちや、その他、下町が陥落したとき、その惨禍をいちはやく察知した人たちは、ペルガモンの要害に落ち合い、固有の城壁に守備されているアクロポリスを押さえた。そこには、トロイア人たちにとっての父祖伝来の聖具も、要塞なら当然なぐらいのおびただしい財貨もあったし、軍の精鋭部隊もいた。[46_2]ここに踏みとどまって、頂めざして攻め上ろうとする連中を撃退し、陥落から落ちのびた大部分は、隘路を熟知していたので、ひそかに押し出して戦果を挙げた。そして取り押さえられより早く逃げおおせいていた。
断片32
SCHOL. PINDAR. N XI (TZETZ. Lyk. 1374 p.380, 6 Scheer):
この人物(スパルタ人ペイサンドロス)は、主張では、オレステースといっしょにスパルタから植民に出、テネドスを建設した。テネドス人アリスタゴラスが〔そう主張している〕。オレステースがアイオリスに植民したことについては、ヘッラーニーコスが『アイオリス誌[について]』第1巻の中に記録している。
断片32 異文
NATAL. COM. Myth. 9, 2(p.945 ed. Genev.):
〔未訳〕
断片33
STEPH. BYZ. "Maloeis"の項。
レスボスのアポッローン〔の添え名〕。神域の場所もMaloeisである。マントーの家畜にちなむと、ヘッラーニーコスが『レスボス誌』の第1巻の中で。
断片34
STEPH. BYZ. "Tragasai"の項。
大陸の地方、トラガソスにちなむ、彼への恩寵としてポセイドーンが塩塊をこしらえた、ここから、トラガサイの塩ができたと、ヘッラーニーコスが『レスボス誌』第1巻の中で。これによって平野もまたHalesion〔塩原〕と呼ばれる。
断片35a
STEPH. BYZ. "Nape"の項。
レスボスの都市。ヘッラーニーコスが『レスボス誌』第2巻の中で。市民は"Napaios"。アポッローンも"Napaios"。大陸には"Napaioi"もいる。
断片35b
STRABON IX 4, 5:
ところでこの"Bessa"は<ss>と二重に表記さるべきである。というのは、樹林地帯にちなんで同名になるように名づけられているからで、それはメーテュムネーの平原にある"Nape"――これをヘッラーニーコスは知らずに、"Lape"名づけているが――と同様である。
断片36a
SCHOL. EUST. (T) HOM. Il. III 75:「馬を飼うアルゴスや、美婦女のアカイアへ」
ヘッラーニーコスの主張では、ポローネウスには3人の子どもがいて、彼らは父親が死ぬと、アルゴスを分割した。そして、エラシノス川方面の土地はペラスゴスに当籤し、そこのラリサ山をも領有した。イアソスにはエーリス方面の部分が当籤した。しかしアゲーノールは、土地がなくなってしまったので、父祖伝来の騎兵隊を取得した。こういう次第で、アルゴスは、『オデュッセイア』も明らかにしているように、イアソン、ペラスギコン、ヒッポボトン〔馬飼いの地〕と三重に名づけられた。しかし、一部の人々の主張では、二人の兄弟の死後、アゲーノールは多数の騎兵隊を繰り出して征服したので、その騎兵隊にちなんでアルゴスはヒッポボトンと呼ばれたという。とにかく、古人の幾人かは、馬飼いのアルゴスとはテッサリア、アカイアとはヘラス人たちの全領土とみなすことで満足している。
SCHOL. A:
イアソスとペラスゴスとトリアパという〔3人の〕子どもたちがいた。彼らの父親が亡くなったとき、王国を分け合った。ペラスゴスはエラシノス川方面の部分をくじ引きして、ラリサを建設した。イアソスはエーリス方面の部分を。しかし、彼らが亡くなると、いちばん年下の弟アゲーノールが多数の騎兵隊を繰り出してその領地を征服した。ここからアルゴスは、アゲーノールの騎兵隊にちなんで、馬飼いの地〔ヒッポボトン〕、イアソスにちなんではイアソンと呼ばれた。ヘッラーニーコスが『アルゴス誌』の中で記している。
断片37
SCHOL. APOLL. RHOD. I 162:「たしかに、アムピダマスとケーペウスとはアルカディアへ行った、テゲエー〔テゲア〕とアペイダンテイオンの相続地に住んだ彼らは、アレオスの二人の息子であった」
ケーペウスは二人いた、一人はアレオスの子で、アポッローニオスが言及している。もう一人は……、これに言及しているのはヘッラーニーコスが『アルカディアについて』という書の中で。
断片38
SUID. "Areios pagos"の項(ET. M. 139, 12. BEKK. ANECD. 444, 5)。
……アレイオス・パゴスとも呼ばれたのは、裁判所が丘に、それも天辺にあるからであり、「アレスの」というのは、アレースが殺人事件にかかわって、その殺人事件を裁くからであるか。あるいは、ハリッロティオスが、自分〔アレース〕と、ケクロプスの妻アグラウロスとの間にできた娘アルキッペーに暴行を働こうとしたのを、〔アレースが〕殺害したため、ハリッロティオスのためにポセイドーンを相手にした裁判で、そこに長柄を突き立てたからであるとは、ヘッラーニーコスが第1巻の中で主張するところである。
断片39
HARPOKR. "Panathenaia"の項。
……この祭りを最初に執り行ったのは、ヘーパイストスの子エリクトニオスだとは、ヘッラーニーコスとアンドロティオーンとが、それぞれ『アッティス』第1巻の中で主張しているとおりである。これ以前には、アテーナイア祭と呼ばれていたとは、イストロスが『アッティカ誌』第3巻の中で明らかにしているところである。
断片40
同 "Phorbanteion"の項(SUID. S. v. ET. M. 798, 26)。
アテーナイのポルバンテイオンは、ポルバス――クウレーテース人たちを王支配し、エレクテウスによって亡き者にされた――にちなんで名づけられたということは、アンドローンが『同族たち』第7巻の中で(10 F 1)明らかにしている。ポルバスはポセイドーンの息子だったと、ヘッラーニーコスが『アッティス』第1巻の中で主張しているとおりである。
断片41
PHOT. BEROL. Lex. p.53, 21 Reitz. (BEKK. ANECD. 362, 24):
ハイモン。いずれにしても山ではない。ヘカタイオスは全巻を通じて(1 F 167)、ディオニュシオスもヘッラーニーコス『アッティス』第1巻も、ティマイオスもエウドクソスも。
断片42a
HARPOKR. SUID. (ACHOL. DEMOSTH. XVIII 107a) "Mounychia"の項。
……アッティケーの沿海岸地方。ヘッラーニーコスは『アッティス』第2巻の中で、パンタクレースの子ムウニュコスという王にちなんで名づけられたと主張している。
断片42b
SCHOL. DEMOSTH. XVIII 107b:
ムウニュキアと呼ばれたのは、ヘッラーニーコスの作品を引用したディオドーロスの主張では、次のように言っている――あるときトライケー人たちがボイオーティアのミニュエイオス・オルコメノスの住民たちのところに出征して、彼らをそこから駆逐した。追い出された者たちは、ムウニュコス王治世のアテーナイにたどり着いた。王は彼らにこの土地つまりムウニュキアを委ねた、だから、彼らの間では王を讃えてそういうふうに名づけられたのであると。
断片43
同 "Alope"の項。
……ケルキュオーンの娘で、彼女とポセイドーンとから、ヒッポトーンティス部族の名祖ヒッポトオーンが生まれたと、ヘッラーニーコス『アッティス』第2巻、エウリピデースの同名の劇(p.389 N2)、デイナルコス『パレーロン人たちの裁き』。
断片44
HARPOKR. "Pegai"の項。
……メガラの地方だと、ヘッラーニーコスが『アッティス』第2巻の中で。
断片45
同 "Hierophantes"の項。
……ヒエロパンテースたちの素性については、ヘッラーニーコスが『アッティス』第2巻の中で明らかにしている。
断片46
同 "Stephanephoros"の項。
"Stephanephoros"の英雄廟というのが、どうやら、アテナイにあったらしい。しかし、"Stephanephoros"というのは、ヘーラクレースの息子たちの一人……であるか(F 3)。あるいは、"Stephanephoros"というアッティカ人の英雄廟というのは、同じヘッラーニーコスが、やはり『アッティス』第<2>巻の中(F 46)で言及しているけれども、存在しなかったかである。
断片47a
AFRIKAN. b. EUSEB. PEX 10 p.488D:
これ(sc. オリュムピア紀年)以前のことをアッティカ年代法で計算する場合、オーギュゴス――彼らの間では大地から生まれた者と信じられていて、彼の時代にアッティカで大きな最初の洪水が起こったが、それはペローネウスがアルカディア人たちを王支配していたときでもあるとは、アクウリラオス(2 F 23)が記録しているところである――から、第1回オリュムピア年――これ以降、年代は正確になったとヘラス人たちは考えた――まで、合わせて1020年となる……このことは、アテーナイの歴史を記録した人たち、つまりアッティスを著したヘッラーニーコスやピロロコス、シュリア誌を著したカストールやパッロス、全体の歴史を『歴史叢書』として著したディオドーロス、アレクサンドロス・ポリュイストール、そして私たちの同時代の幾人かは、アッティカ全体のことについてももっと正確に言及している。
断片47b
JUSTIN. Coh. ad Graec. 9:
そしてアテナイ誌を記録したのは、ヘッラーニーコス、アッティス作家のピロコロス、カストールとタッロス、アレクサンドロス・ポリュイストール、なお、さらに、最高の賢者ピローンとイオーセーポスとは、ユダヤ人たちの歴史を記録した人たちである、すこぶる古い昔のユダヤ人たちの支配者モーセに言及しているのだから。
断片48
HARPOKR. "Erythraioi"〔エリュトラ人たち〕の項。
……都市はイオーニアにある"Erythra"で、コドロスの子ネーレウスによって建設された都市のひとつだと、ヘッラーニーコスが『アッティス』の中で主張している。F 125参照。
断片49
THUKYD. I 97, 2:
以上のこと〔ペルシア戦争後のアテナイ外交上の諸問題〕を書いて、本旨を逸脱したのは、以下の理由による。すなわち、わたし以前の歴史編纂者たちには、ペルシア戦争以前のヘラス史を著す場合も、ペルシア戦争そのものを〔著す〕場合も、この局所が省略されているのである。もっとも、ヘッラーニーコスのみは、『アッティカ記』の中で触れてはいるが、言及は僅かであり、しかも年代は不正確である。
断片50
SCHOL. R ARISTOPHAN. Lys. 36:
というのは、コーパイス湖には巨大ウナギがいるからである。また、〔コーパイス湖のある〕ボイオーティアには"Encheleis"〔ウナギ族〕と言われる民族も住んでいて、ヘッラーニーコスも『ボイオーティア誌』の中で彼らについて主張している。
断片51
SCHOL. A D HOM. Il. II 494:
ボイオーティアは、以前は、この地に定住したアオノイ人たちにちなんで、アオニア(Aonia)と呼ばれていたが、ボイオーティアと改名されたのは、一部の人たちによれば、ポセイドーンとアルネーとの子ボイオートスにちなんで、しかし別の人たちによれば、ピュトの託宣にしたがってカドモスに追い立てられた牝牛にちなんでだという。すなわち、ポイニクスの娘エウローペーがシドーンからゼウスに略奪されたとき、彼女の兄弟のカドモスは、探索するよう父親に派遣されたが、彼女を見つけられなかったので、デルポイに赴いて神に託宣を請うた。神は彼に、エウローペーのことは余計なことはせず、牝牛を道案内人として、その牝牛が疲れて右側に倒れたところ、そこに都市を建設せよと言った。こういう託宣を受けて、ポーキス人たちの地に通りがかった。そうすると、ペラゴーン〔王〕の牛飼いたちのところにいた牝牛に行き会ったので、これが進む方にあとをついていった。すると牝牛は、ボイオーティアを完全に通り過ぎ、現在テーバイのあるところで、くたびれて横になった。そこで、アテーナにこの牝牛を供犠せんとして、自分に同行した者たちのなかから数名を、アレースの泉から浄めの水をくんでくるために派遣した。しかし、その泉は、アレースの子と言われていた龍が護っていて、派遣された者たちの大多数を壊滅させた。そこでカドモスは怒って、その龍を殺し、アテーナが彼に指示して、その歯を蒔いた。そこから生まれたのが大地族(gegenes)である。しかし、アレースは怒って、カドモスを亡き者にせんとしたのを、ゼウスが妨げ、アレースとアプロディーテーとの娘ハルモニアを彼と同棲させた。ただしその前に、〔龍を〕亡き者にした代償に、ハルモニアに贈り物をするよう彼に命じた。記録するはヘッラーニーコス『ボイオーティア誌』、アポッロドーロスも第3巻(Bibl. III 21-25)。
断片52
HARPOKR. SUID. "tetrarchia"の項。
テッタリアには4つの部分があって、それぞれの部分が1/4(tetras)と呼ばれていたとは、ヘッラーニーコスが『テッタリア誌』のなかで主張するところである。彼の主張では、1/4の名前は、テッタリオーティス、プティオーティス、ペラスギオーティス、ヘスティアイオーティスである。アリストテレースも、『テッタリア人たちの共通の国制』の中で主張している、――テッタリアが4つの部分に分割されたのは、赤毛のアレウアスの代だと。
断片52 異文
NATAL. COM. Myth. 9, 4(p.951 ed. Genev.):
〔未訳〕
断片53
ATHENAI. XI 470D:
"ethanion"。ヘッラーニーコスは『エジプト誌』の中で次のように書いている。<「エジプト人たちの家には、青銅製のphiale〔フィアレは浅い鉢状の陶器で、中央に出っ張りがあるのが特徴である。大きさは幅およそ20−30cm前後〕、青銅製のkyathos〔キュアトスは椀型の胴部に垂直の、大きく上に伸び上がった把手が付くのが特徴で、ワインなどを汲み、注ぐのに用いられた。大きさは10−15cm前後〕、青銅製のethanionがそなえられている」>。
同 XV 679F:
アイギュプトスのいつまでも咲いている花冠については、ヘッラーニーコスが『アイギュプトス誌』の中で次のように書いている。<「河畔に都市あり、この都市の名はティンディオン、神々の寄り合い場である。この都市の中央に、大きな聖なる石造神殿があり、門扉も石造である。神殿の中には、白いアカンタ(Acacia albida)と黒いアカンタ(Acacia arabica)とが生えている。これらの樹の上方に花冠がかぶせられているが、〔その花冠は〕アカンタの花、ザクロ[の花]、ブドウで編まれたものである。しかも、この花冠はいつまでも咲いている。この[花冠]を神々がアイギュプトスに預けたのは、バビュス〔正確には"Bebon=Typhon-Seth"〕が王支配すると聴いたからである。〔バビュス〕とはテュポーンのことである」>。また、デーメートリオスは、『アイギュプトスでのことに関して』という書の中で、これらのアカンタはアビュドス市の近くにあると主張して……
断片55
ATHENAI. XV 680B-C:
やはり上述のヘッラーニーコスが、アマシスもアイギュプトスを王支配したが、それは、平民で、それも人生の最初期はどこにでもいるようなありきたりの男であったにもかかわらず、花冠の贈り物によってであるという。つまり、この上なく華麗に咲き誇る季節の花で花冠を編んで、当時アイギュプトスを王支配していたパタルミスに誕生祝いとして届けたのである。パタルミスは花冠の美しさを喜び、アマシスを食事に呼び、その後も、彼を友の一人とし、アイギュプトス人たちが自分に対して開戦したときは、将軍として派遣したこともあった。その〔アイギュプトス人たち〕によって、パタルミスに対する〔アイギュプトス人たちの〕憎悪ゆえ、王として宣言されたという。
断片56
ATHENAI. XIV 652A:
またヘッラーニーコスも、『アムモーン神殿紀行』の中で――この著作が彼の真作ならばだが――、その果実をポイニクス〔ナツメ椰子〕と呼んでいた。
断片57
STEPH. BYZ. "Karpasia"の項。
キュプロスの都市で、これはピュグマリオーンが建設したと、ヘッラーニーコスが『キュプロス誌』の中で。
断片58
STEPH. BYZ. "Azeiotai"の項。
トローアス地方の民族だと、ヘッラーニーコスが『リュディアについて』の中で言っている……"Azeioi"とも言われる。
断片59
STEPH. BYZ. "Chaldaioi"の項。
昔のケーペーネス人たちで、アンドロメダの父親ケーペウスの末裔、アンドロメダとペルセウス――ダナエーとゼウスとの子――とから、ペルセースが生まれ、ペルセースからケーペーネス人たち、つまり、いわゆるペルシア人たちはその昔カルダイオイ人たちと呼ばれたと、『ケーペウス一族』という書の中で述べられている。またヘッラーニーコスは、『ペルシア誌』第1巻の中で次のように主張している。<「ケーペウスがもはや存命していないとき、バビュローンから遠征されたので、この領地を引き払い、アルタイアを領有した。そこで、バビュローンの領地はもはやケーペーニエーとは呼ばれず、居住する人々もケーペーネス人とは〔呼ばれず〕、カルダイオイ人と〔呼ばれた〕。その領地もすべて今ではカルダイケーと呼ばれている」>。
断片60
STEPH. BYZ. "Artaia"の項。
ペルシアの領地で、これはペルセウスとアンドロメダとの子ペルセースが都市化した。ヘッラーニーコス『ペルシア誌』第1巻の中。住民はアルタイオイ。ペルシア人たちは、ヘラス人たちと同じように、昔の人間[英雄たち]をアルタイオイと呼ぶ。ここからしてすぐに、アルタクセルクサイとかアルタバゾイとかがわたしには思い出される。アイギュプトス人たちのところに、ネイラムモーネスとかパンタポッローネスとかがいるように。ヘーロドトスは、彼らをイプシロン(ε)をつけてArteataiと呼ぶ〔第1巻125〕。
断片61
HARPOKR. "Strepsa"の項。
……トライケーの都市だと、ヘッラーニーコスが『ペルシア誌』第2巻の中で示唆している。
断片62
STEPH. BYZ. "Tyrodiza"の項。
トライケーのセッリオンの次の都市。ヘッラーニーコスは『ペルシア誌』第2巻の中でこの都市をTyrorizaと主張している。
断片63a
SCHOL. ARISTOPH. av. 1021:
ヘッラーニーコスは『ペルシア誌』の中で、サルダナパロスは2人いたと主張している。
断片63b
PHOT. SUID. "Sardanapalous"の項。
『ペルシア誌』第2巻のなかで2人いたと主張するのがヘッラーニーコス、またカッリステネースも同様に。一人は積極的で高貴、もう一人は優柔な人物。ニノーにある彼〔サルダナパロスの〕記念碑には、次の語が銘打たれている。「アナキュンダラクソスの子、タルソスとアンキレーを一日にて築けり。食え、飲め、盛れ、これよりほかに価値あることなし」。「これ」とは、すなわち、指を鳴らすことである。というのは、この記念碑に付け加えられた像は、頭の上に両手を有したのが、あたかも指を鳴らすように作られていた。同じ銘文が、タルソスの向かいアンキアレーにも刻まれていた。この市は今はゼピュリオンと呼ばれる。
断片64
STEPH. BYZ. "Amadokoi"の項。
スキュティアの民族。ヘッラーニーコス『スキュティア誌』中。彼らの土地がアマドキオン。
断片65
同 "Amyrgion"の項。
サカイ人たちの平野。ヘッラーニーコスが『スキュティア誌』で。民族名はアミュルギオスだと、同人が主張している。
断片66
ATHENAI. X 447C:
ヘッラーニーコスは、『〔都市〕建設史』の中で、ライムギからもビール(bryton)はこしらえられる、と彼は主張して、次のように書く。<「ある種のライムギから作ったビールを彼らは飲む、あたかも、トライケー人たちが、オオムギからつくった〔ビールを飲む〕ように」>。
断片67
同 XI 462AB (EUS. Il. 6):
さらにまたわたしは、ヘッラーニーコスが『諸民族の名称』の中で次のように言っているのを――。リビュアの遊牧民たちの一部は、杯(kylix)と刀(machaira)と水差し(hydria)以外には何も所有しないと。また、家はアスポデロスの茎(antherikos)で作られたのを持っているが、蔭を作るだけの小ささで、これを、どこでも行く先々に持ち運ぶと。
断片68
PAP. OX. XIII 611 fr.8 col. II 208:
〔ほとんど判読不可能〕
断片69
SCHOL. APOLL. RHOD. IV 321:「ラウレイオンあたりに住んでいたシンドイ人たちは、もはや広大な荒地に住んではいない」
ラウリオンはスキュティアの平野。スキュティアの民族は75をティモーナクスが『スキュタイ人たちについて』第1巻の中で数えあげている。スキュタイ人たちの平野はイストロス河が分割しており、ひとつの流れはアドリア海に、もうひとつの流れは黒海に流れこんでいる……しかしヘッラーニーコスは、『諸民族について』の中で主張している、<「ボスポラス海峡を〔小アジア方面から〕渡海したところにいるのがシンドイ人たち、彼らの上方〔北に〕スキュティアのマイオータイ人たちである」>。
断片70
STEPH. BYZ. "Charimatai"の項。
ポントス海沿いの民族。パライパトスは『トロイア誌』第6巻の中で(44 f3)。「ケルケタイ人たちに含まれるのは、モスコイ人たちとカリマタイ人たちで、この人たちは、パルテニオス河を黒海まで支配する。ヘッラーニーコスも『民族と都市の建設』の中で。「ケルケタイ人たちの上方に住むのがモスコイ人たちとカリマタイ人たち、その下方にヘーニオコイ人たち、上方にコラクソイ人たち」。
断片71a
SCHOL. HOM. Od. VIII 294。「レームノス島へ、粗野な声をたてるミンティエス人たち〔レームノス島の古住民〕のもとに」
レームノス人たちはミンティエス人と呼ばれていたと、ヘッラーニーコスが『キオス(Chios)の建設について』の中でこの地のことを記録している。「テネドスから「黒湾(Melanos kolpos)」へと移住し、初めはレームノス島に行き着いたが、ここにはさして多くはないトラキア人たちが定住していた。それで、これと混血した。この〔混血した〕人たちを周住民がシンティエス人と呼んだのは、彼らの一部の工人たちが戦具を造りだしたからである。〔周住民は〕この地にやってきて混住し、船5艘を残した」。?
断片71b
TZETZ. Lyk. 227 (und 462):「レームノスの火に」
レームノスで初めて火と武器造りの技術とが発見発明されたことは、『キオス建設について』の中でヘッラーニーコスが記録しているとおりである。
断片71c
SCHOL. APOLL. RHOD. I 608:「彼らは岩だらけのシンテーイスつまりレームノスに到着した」
レームノス島はシンテーイスと呼ばれていた。というのは、この島に最初に住んだテュルセーノイ〔テュレネー〕人たちは有害きわまりない人たちであったからである。あるいは、非ヘラス人たちによって居住された島であったから。ホメーロスも、「レームノス島へ、粗野な声をたてるミンティエス人たちのもとに彼〔ヘーパイストス〕は出かけた」〔第8巻294〕。ヘッラーニーコスの主張では、レームノス人たちがシンティエス人と名づけられたのは、初めて戦争用の武器をつくり、近隣の住民を掠した(sinesthai)つまり害した(blaptein)からだという。
断片72
PORPHYR. b. EUSEB. P E X 3 p.466B:
『非ヘラス人の法習』は、ヘーロドトスやダマストス〔前5世紀、シゲイオンの歴史家〕の同時代人以降、ヘッラーニーコスに受け継がれたとわたしがあなたがたに言うのは、いったいなぜか。
断片73
PHOT. SUID. "Zamolxis"(ET. M. 407, 45)の項:
ピュタゴラスの奴隷だとは、ヘーロドトスが第4巻(95)で、スキュティア人で、帰国後、霊魂は不死であることについて教授した。ムナセアスによれば、ゲタイ人たちの間ではクロノスが崇拝され、ザモルクシスと呼ばれたという。しかし、ヘッラーニーコスが『非ギリシア的法習』の中で主張するところでは、ヘラス人となって、トラキアのゲタイ人たちに完徳を唱道し、自分は死ぬことなく、自分の仲間も死ぬことはなく、ありとあらゆる善きものを取得すると言った、という。そして、こう言うと同時に、地下に住居をこしらえ、しかる後に、トラキア人たちの間から突然姿を消して、そこで過ごした。ゲタイ人たちは彼を渇仰した。すると4年目に再び現れ、トラキア人たちは彼に全幅の信頼をおいた。しかしある人たちの言うには、ザモルクシスは、サモスのムネーサルコスの子ピュタゴラスの奴隷で、自由になって同じ分野で知者となったという。しかしながら、ザモルクシスはピュタゴラスよりもはるか以前の人だとわたしには思われる。さらに、テリゾイ族もクロビュゾイ族も不死となり、死んだ者たちも、ザモルクシスのように消滅するが、再び現れるだろうと言い伝えられている。そして、同じことが真実になると信じ続けている。だから、死者が再び現れるように、供犠をし、宴楽する。
断片74
STEPH. BYZ. (CONSTANT. PORPHY. De them. II p.48 Bonn.) "Makedonia"の項。
国土、ゼウスと、デウカリオーンの娘テュイアとの子マケドーンにちなむと、ヘーシオドスは主張する(F 5)……しかし他の人たちによれば、アイオロスの子マケドーンにちなむと、ヘッラーニーコスが『アルゴスの神域』の第1巻で。<「アイオロスの子のマケドーンにちなむともいい、彼にちなんで、現在、マケドニア人たちと呼ばれるのだが、かつてミュシア人たちと一緒に住んでいたのは、彼らだけである」>。
断片75
同 "Nisaia"の項。
メガリスの外港。メガリスそのものも。パンディオーンの子ニソスにちなむ。ヘッラーニーコス『神域』第1巻の中。第2巻の中でも……(以下、F 78に続く)
断片76
同 "Sipylos"の項。
プリュギアの都市。ヘッラーニーコスが『神域』の第1巻。
断片77
同 "Phaiax kai Pahiakia"の項。
パイアクスにちなむ。ヘッラーニーコスが『神域』の第1巻。<「パイアクスは、ポセイドーンと、アソーポス〔河神〕の娘ケルキュラとの子、ケルキュラ島は彼女にちなんで呼ばれるが、この島は以前はドレパネーDrepaneとかスケリアScheriaと呼ばれた」>。
断片78
STEPH. BYZ. "Nisaia"の項。
……(F 75からの続き)第2巻の中でも。<「そして、ニサイアと、パンディオーンの子ニソスと、オンケーストス人〔ボイオティアのコパイス湖南部、テーバイの北西にあった都市〕メガレウスとを取りあげている」>。?
断片79a
同 (CONSTANT. De them. II p.58 Bonn.) "Sikelia"の項。
領土にして島。以前はシカニアと名づけられていた。次いでシケリアと呼ばれたとは、ヘッラーニーコス『ヘーラの神域』第2巻の主張するところである。<「この同じ領土には、アウソネス人たち〔南イタリアの原住民〕もイアピュギア人たちのせいで、アタリアから入植したが、彼らを支配したのがシケロスであった、そして彼らは、当時はシカニアと呼ばれていたこの島に上陸し、アイトナあたりに居を定め、自分たちばかりか、彼らの王シケロスも王制を布いて定住した。そして、このシケロスはここから進発して全島――この島は、当時すでに、このシケロスにちなんでシケリアと呼ばれていた――を制覇し、ここにも王制を布いた」。メニッポスも同じことを主張している。<しかし、トゥキュディデース(VI 1, 5)は次のように>。「集団が大挙してシケリアに進入し、シカノイ人たちを戦闘で制覇して、島の南部および西部に追い払った、そしてこの島をシカニアの代わりにシケリアと呼ばれるようにし、土地の最強部分を領有して居住した」。……〔欠損〕「島民のうち、昔からの先住民でイタリア出のリギュリア人たちはシケロイ人と言われたが、渡来したヘラス人たちはシケリータイである」。
断片79b
DIONYS. HAL. AR I 22:
シケロイ人たちは(ペラスゴイ人たちやアボリギネス人たちに戦争を仕掛けられて、もはや持ちこたえられなくなったので)生子たちや女たちや、財産のうち金や銀のあるかぎりを荷造りして、全領土を相手に明け渡した。そして山地を南へ抜けて、下イタリア全土を通過したが、至る所で追い払われて、ついに渡し場で筏をこしらえ、下向きの〔潮の〕流れ見守って、イタリアからすぐそばの島に渡った。[2]この島を占領したシカノイ人たちとは、種族はイベリア族で、リギュス人たちを避けつつ、程なく住み着き、〔やがて〕この島が、それまでは、三角形の形をしていることから"Trinakria"〔「三角」の意〕と名づけられていたのを、自分たちにちなんでシケリアと呼ばれるようになる準備をした。大きな島に建設者たちは多くはいず、領地の大部分はなお無人であった。したがって、この島に上陸したシケロイ人たちは、当初は、西部に居住したが、後には他の多くの部分にも〔居住し〕、島の名も彼らにちなんでシケリアと呼ばれはじめた。[3]「シケリア族がかくのごとくにイタリアを後にしたのは」と、レスボス人ヘッラーニーコスが主張している、「トロイ戦争の3世代前、アルゴスのアルキュオネー神官年620年である。シケリアに渡ったイタリア軍団は2隊を形成。先発隊はエリュミア族の隊で、彼らはオイノトリア人たちに追われた者たち」と彼〔ヘッラーニーコス〕は主張する。「そのあとの隊は、5年後、イアピュギア人たちを逃れたアウソネス人たちの隊である。後者の王がシケロスで、これにちなんで人々にも島にもその名が付けられた」と彼は表明する。[4]しかし、シュラクウサイ人ピリストスの書いたところでは、渡海の年代は、トロイア戦争の80年前、イタリアから渡った民族は、アウソネス人たちの部隊でもエリュミア人部隊でもなく、リギュス人部隊で、これを指揮したのがシケロス。そして〔ピリストスの〕主張では、彼〔シケロス〕はイタロスの息子で、人々がシケロイ人と名づけられたのは、彼が権力の座にあったときだという。また、リギュス人たちが自分たちの土地から追われたのは、オムビリコイ人たちとペラスゴイ人たちとによってだとも言う。[5]シュラクウサイ人アンティオコスが表明しているところでは、渡海の年代は明らかにしていないが、強制移住させられたのはシケロイ人たちで、オイノートリア人たちとオピコイひとたちとに強制されて、植民の嚮導者にストラトーンを任じたという。しかしトゥキュディデースの書いているところでは、追われたのはシケロイ人たち、追ったのはオピコイ人たち、年代は、トロイア戦争後多年を経てという。イタリアからシケリアに住居を移したシケロイ人たちについて、語るに価値ある人たちによって言われていることはといえば、以上のごとくである。
断片80
STEPH. BYZ. "Phrikion"の項。
テルモピュライを見下ろすロクリスの山で、この山にちなんで、ここに居住するアイオロス人たちは"Phrikanes"とか"Phrikaneis"〔と呼ばれる〕と、ヘッラーニーコスは『ヘーラの神域』の第2巻の中で。
断片81
同 "Chaironeia"の項。
ポーキスの山岳地帯に近い都市。ヘカタイオスが『エウローペー』で(1 F 116)……カイローン(Chairon)にちなんで呼ばれていた。アリストパネースは『ボイオティア誌』の第2巻の中で。「この町の建設者はカイローンだったと言われている」。この人物については、アポッローノスとテールウスが神話していると、ヘッラーニーコスが『ヘーラの神域』の第2巻の中で……「アテーナイ人たちとその支配下にあった者たちは、ボイオティア人たちのうちでオルコメノス贔屓の者たちに襲いかかり、オルコメノス人たちの都市カイローネイアを攻略した」。この都市はまた昔はアルネーとも呼ばれていた。
断片82
同 "Chalkis"の項。
エウボイアの都市。ヘカタイオスが『エウローペー』で(1 F 129)……アソーポス河神の娘で、コムベーと呼ばれるカルキス女にちなんで呼ばれた……この都市の女性の名祖でもあって、ポーキスやロクリスのように、〔カルキスは〕土地〔名〕であるとともに〔民族の〕女性をも意味した。ヘッラーニーコス『ヘーラの神域』の第2巻。<「カルキス出身のテオクレースはカルキス人たちやナクソス人たちといっしょになってシケリアに都市を建設した」>。
断片83
STEPH. BYZ. "Chaonia"の項。
エーペイロスの中央部。住民はChaones。ヘッラーニーコス『ヘーラの神域』<第3巻>。<「アムブラキア人たち(Ambrakiotai)と、その支配下にある人たちが、「本土カオニア人たち(Epeirotai Chaones)」である」>。
断片84
DIONYS HAL. A R I 72 (EUSEB. ARM. p.131, 33K. SYNKELL. p.361, 16 Bonn.):
都市創建の時期についても建設者たちについても多くの異論があるのだから、自分は、まるで万事は同意されているかのように、軽率に叙述すべきではないと思う。例えば、ケパローン(45 F 9)の言うところでは、……この都市〔ローマ〕が創建されたのは、イリオン戦争後2世代たって、アイネイアスといっしょにイリオンから無事逃れた人たちによってであり、彼の表明しているところでは、この都市の建設者は、植民の指揮を執ったローモスであり、この人物はアイネイアスの子どもたちの一人だという……また、デーマゴラースやアガテュロスや他にもおびただしい人たちによって述べられているところでも、時期と植民の指揮者は同一人物である。[2]しかし、『アルゴスの女神官たちと、各時代に起こった事柄』の編纂者の主張では、アイネイアスはオデュッセウスとともに、モロットイからイタリアにやってきて、この都市の建設者となり、イリオン女たちの一人ローメーにちなんでこの都市の名前としたという。この女性は、彼の言うところでは、放浪にうんざりして、他のトロイア女たちに呼びかけて、これといっしょに船に火を放ったという。この編纂者には、シゲイオン人ダマステース(5 F 3)も、他にも何人かの人たちが同意している。
断片85a
ATHENAI. XIV 635E:
さらにまたテルパンドロスもアナクレオーンよりも昔の人であるということは、次のことからして明らかである。カルニア祭で誰よりも最初に優勝したのがテルパンドロスだと、ヘッラーニーコスが、韻文にせよ散文にせよ、『カルニア祭の優勝者たち』の中に記録している。また、カルニア祭の創設は、第26オリュムピア年に行われたと、ソーシビオスが『年代記について』の中で主張している。
断片85b
CLEM. ALEX. Strom. 121, 131, 6 p.81, 14 St[a]h.。
周知の通り、テルパンドロスを引き写している人たちがいる。じっさい、ヘッラーニーコスは、この人物をミダス王の時代に生まれたと記録している。しかしパニアスは、テルパンドロスよりも前にレスボス人レスケースを立て、テルパンドロスはアルキロコスよりも若いとしている。
断片86
SCHOL. V ARISTOPH. Av. 1403。
アンティパトロスとエウプロニオスとが『覚え書き』の中で主張するところでは、輪舞式合唱舞踏隊(kyklios choros)を最初に定めたのは、ヘルミオネー〔アルゴリス南東の都市〕人ラソスだという。しかし、ヘッラーニーコスやディカイアルコスといったもっと古い人たちは、〔レスボスの〕メーテュムナ人アリオーンだと、ディカイアルコスは『ディオニュソス祭の競技について』のなかで、ヘッラーニーコスは『カルネア祭の勝者たち』の中で。
断片87
DAMASKIOS p.arx.〔『原理について(de Principiis)』〕123 異文(I 317 Ruelle):
ヒエローニュモスやヘッラーニーコスと同時代にできた書(sc. 『オルペウスの神学(orpheos Theologia)』は、たとえ同一人物の手になるものでないにしても、内容かくのごとくである。「初めに水が資料としてもあった(と彼は主張する)、この資料から土ができた、これら二つの始源、つまり水と土を前提として……二つの始源の後に、それらから第三の始源が生じた……、多頭の大蛇で、牡牛と獅子の頭が生えつき、真ん中には神の顔があり、さらに肩には翼を持っており、不老のクロノス(Chronos)〔「時間」〕ともヘーラクレースとも名づけられるが、同じものである。これに結合するのがアナンケー(Ananke)〔「必然」〕、自然本性は無体のアドラステイア〔「遁れ得べかららざる女」〕と同じもので、彼と接して、限りあるものらの全宇宙内に両腕を伸ばしている。わたしの思うに、この女神が第三の始源として存在界に生ずると言われているのであろう、ただし、万物発生の原因の指標としては、この女神は雌雄両性的であることを示唆しているけれども。また、叙情詩に詠われている神学をわたしはこう理解している……クロノスつまりこの大蛇は、三つの子孫(gone)を生んだ。「(詩人の主張では)アイトラ(Aithra)つまり湿、カオス(Chaos)つまり無限、これらに加えて第三にエレボス(Erebos)つまり幽暗……しかのみならず、これらの中にクロノスは卵を産んだ……また、これらに加えて、第三の無体の神――肩のところに黄金の翼を有し、両脇には牡牛たちの頭が生えついているが、頭には、巨大な大蛇が、獣の様々な形に変現している」。さて、これは3の比と解すべきである……そしてこの『神学(Theologia)』は、プロートゴノス(Protogonos)〔最初に生まれた者〕を託宣し、ゼウスを万物と宇宙総体の配剤者と呼んでいる。それゆえ、パーン(Pan)とも呼ばれる、と。可考的諸始源につてこの系譜学が述べているのは、これほどのことである。
断片88
SCHOL. HESIOD. Theog. 139:「さて〔大地は〕またキュクロープスたちを生んだ……ブロンテース〔雷鳴の神〕、ステリペース〔電光の神〕、頑丈な心のアルゲース〔閃光の神〕を」
〔ここで言われているのは〕持ち回りされる権力のことである。ヘッラーニーコスいわく、キュクロープスたち(Kyklopes)とは、ウウラノスの息子キュクロープスにちなむ……キュクロープスには種族が三つある。ミュケーネーの城壁を築いたキュクロープスたち。そしてポリュペーモスの一族。そして、神々そのもの。
断片89
SCHOL. APOLL. RHOD. I 1129。「イデ山の指(Daktylos)たち(Daktyloi Idaioi)」
言い伝えでは、彼らは6人と5人で、右指は牡、左指は牝であるという。しかし、ペレキュデース(3 F 47)が言うには、右指は20人、祝言手〔左指〕は32人。彼らは魔術師にして薬師であった。また、最初の鉄の制作者にして、冶金師になったと言われる。母親であるイデ山にちなんで名づけられ、彼らの左指は、ペレキュデースの主張するところでは、魔術師たちであり、解放されたのは右指たちである。ヘッラーニーコスの主張するところでは、「イデ山の指(Daktylos)たち(Daktyloi Idaioi)」と呼ばれたのは、イデ山中でレアに出会ったとき、この女神に敬礼し、彼女の指に触れたからである。ムナセアス『アジアについて』第1巻では、「イデ山の指(Daktylos)たち(Daktyloi Idaioi)」は父ダクテュロスと母イデーとの血を引くという。彼は『ポローニス(Phoronis)』を著してこう書いている。「
断片90
FULGENT. Myth. I 3 p.19, 1 Helm.:
〔未訳〕
断片91
SCHOL. APOLL. RHOD. I 40。「この時、エイラトスの裔ポリュペーモスが、ラリサを後にして彼らのもとに到着した」
〔ここでは〕テッサリアのラリサを言う、〔ラリサは〕アクリシオスの創建になる。この都市は、ペラスゴスの娘ラリセーにちなんで名づけられたとは、ヘッラーニーコスが主張するところである。しかしラリサは三つある。もっとも古いのがアルゴスのラリサで、これはアクロポリスにほかならない。第二はテッサリアのペラスゴイ地方にあるラリサ。ギュルトーネー市のラリサとも〔いわれ〕、今、アポッローニオスが言及しているものである。さらには〔ラリサは〕トロイア付近にもあり、これに言及しているのはホメーロス(Il. II 840-1)である、「ラリサなるペラスゴイの人たちの守備隊をば」。
断片92
STEPH. BYZ. "Metaon"の項。
レスボスの都市、これを建設したのはテュレーネー人メタスだとは、ヘッラーニーコスが。
断片93
PHOT. SUID. (ZENOB. Prov. V 61) "Pitane eimi"〔わたしはピタネー〕の項。
この女はアルカイオス〔の作品(F 114)〕に登場する。むごい災禍と同時に幸運にもめぐまれた人々に対して言われ、このピタネーにどれくらい落差のある事態がふりかかったかは、ヘッラーニーコスも言及している。すなわち、彼の主張では、彼女はペラスゴイ人たちによって奴隷とされ、エリュトライ人たちによって再び解放されたというのである。
断片94
SCHOL. EURIPID. Rhes. 29:「あるいは、リュキアの兵どもを導くは、エウローペーの子〔サルペードーン〕」
ホメロス(Il. VI 196ff.)では、サルペードーンはエウローペーの子であると記録している〔ホメロスでは、ラーオダメイアとゼウスの子となっている〕。しかしヘーシオドス(F 30)は、彼はエウローペーの子だ〔欠損〕と主張しているとは、ヘッラーニーコスが。そして、〔サルペードーンを〕ミノースとラダマンテュスともども、〔クレタ王〕リュカストスと、コリュバスの娘イデーとに系譜づける人たちがいて、これはソークラテースが『アルゴリス誌』のなかでやっていることである。しかし、イリオンに出征したサルペードーンは別人だという話があり、他にも別のトラキア人がいて、サルペードーン平野はこの人物にちなんで名づけられたと言い伝えられている。だから、一部の人たちは2人のエウローペーを挙げる。一人は、オーケアノスの裔で、居住地の一部も彼女にちなんで呼ばれるとは、アピオーンが『命名について』のなかで、またアリストクレースも『神統記』第1巻(33 F 1)のなかで、別のもう一人は、アゲーノールの子ポイニクスの娘……ミノース一族はこの女性から生まれたと言い伝えられる。しかし一部の人たちは、大陸は同じ女性にちなんで名づけられたという[人たちもいて]、カッリマコス(F 558 Schn.)もそれであるが、ゼーノドトス(19 F 3)は、カッリマコスを継いでいる。しかし、第三の〔エウローペー〕を挙げる人たちもいる〔欠損〕、ヘーゲーシッポスが『パッレーネー誌』の中で……
断片95
SCHOL. APOLL. RHOD II 178。「アゲーノールの裔ピネウスが領有した」
というのは、〔ピネウスというのは〕アゲーノールの子だとは、ヘッラーニーコスが。またヘーシオドス(F 31)が主張するところでは、アゲーノールとカッシエペイアとの子ポイニクスの子。アスクレーピアデース(12 F 22)も同様に、しかしアンティマコスもペレキュデース(3 F 86)も……別様に主張する。〔領有したのは〕ビテュニアの向こうではなく、トラキアで、ここはヨーロッパに属する……しかし一部の人たちの記録では、彼〔ピネウス〕が王支配したのはパプラゴニアで、ここはアジアに属するとは、ヘッラーニーコスの主張するところである。また、アゲーノールの裔ピネウスと〔アポッロニウスが〕言ったのは、アゲーノールの子だからである。しかしヘーシオドスは、彼〔ピネウス〕はアゲーノールの子ポイニクスの子だと主張する。人々の言うところでは、ピネウスがヘーリオスに不具にされたのは、視力よりも長命を選んだせいだという。一部の人たちの主張するところでは、これほどの血筋が とは納得しがたい、彼はもっと多くいた、そして、このピネウスは、英雄たちが行き来したポイニクスの7代の末裔の別人だという。
断片96
SCHOL. EURIPID. Phoen. 662。「これ〔竜〕をば、浄めの水を求めてきたカドモスが、岩もて、野獣殺しの腕の一撃を加えて、頭を血まみれにして殺した」
だからヘッラーニーコスは、竜が斃されたのは石によってだと主張するのだが、ペレキュデースは両刃剣(xiphos)によってだという(3 F 88)。
断片97
同 61。「ところが、わたしの寝床が、母との婚礼の新床と知ったオイディプウスは、ありとあらゆる受苦を堪え忍んだはて、おのが両眼を恐ろしい死罪に処したのです、黄金製の衣留めで両の瞳を血塗れさせて」
ヘッラーニーコスも同じことを。『オイディプウス』(Eurip. F 541)では、ライオスの従者たちが彼〔オイディプウス〕を盲目にさせている。
断片98
同 71。
そこで知っておくべきは、ポリュネイケース〔オイディプスとイオカステーとの子、次のエテオクレースと兄弟〕のアルゴスへの到着は、いかなる点においても、合致しないということである。なぜなら、ペレキュデース(3 F 96)は、ポリュネイケースは力ずくで追放されたと主張している。他方、ヘッラーニーコスの記録するところでは、彼は申し合わせによって王位をエテオクレースに譲ったのであり、エテオクレースは彼に、王位をとりたいのか、それとも、財産の一部をとって、別の都市を建設したいか、選択するよう迫ったという。そこで彼〔ポリュネイケース〕は、キトーン〔長衣〕と、ハルモニアの頚飾りとを受け取り、これらの代わりに王位はエテオクレースに譲ることを決心して、アルゴスに退去したという。それら〔ポリュネイケースが受け取ったもの〕のうち、頚飾りはアプロディーテーが、キトーン〔長衣〕はアテーナが、彼女〔ハルモニア〕に謝礼として与えたものだった。これをまた、アドラストスの娘アルゲイアに贈った。ここからして、エウリピデースは二つの記録――前半はペレキュデースの、後半はヘッラーニーコスの――を利用したのである。
断片99
SCHOL. EURIPID. Phoen. 150。「パルテノパイオス」
アンティマコスによれば(F 34 Ki)、タラオスの子、〔タラオスは〕ビアスの子、〔ビアスは〕アミュタオーンの子、〔アミュタオーンは〕クレーテウスの子、〔クレーテウスは〕アイオロスの子、〔アイオロスは〕ヘッレーンの子、〔ヘッレーンは〕ゼウスの子である。母は、リュシマケー、〔リュシマケーは〕ポセイドーンの子ケルキュオーンの娘である。しかしヘッラーニーコスによれば、メイラニオーンの子、〔メイラニオーンは〕アムピダマスの子、〔アムピダマスは〕〔?〕エポコスの子、〔エポコスは〕ケーペウスの子、〔ケーペウスは〕ポセイドーンの子である。母は、イアソスの娘アタランテー。(F 162)
断片100
SCHOL. PINDAR. P VIII 68a〔48?〕:「以前は受難に苦しんだ英雄アドラストスは、今はより善い鳥占いの報せを得ている。とはいえ、家のことでは逆境にあろう。なぜなら、ダナイオイ人たちの出征兵のうち、彼ひとり、戦死した息子の骨を拾い」
というのは、以前は彼ひとりが助かったのだからである。しかるに2回目の出征では、みなが助かったなかで、彼だけが息子アイギアレウスを失ったと、ヘッラーニーコスが主張しているからである。合戦が行われたのはグリサス〔テーバイの北東、ボイオティアの都市〕だと彼は言う。
断片101
HESYCH "Kadm<e>ioi"の項。
プリエーネー人たち(Prieneis)のことだと、ヘッラーニーコスが。あるいはカドモスの血を引くテーバイ人たち。
断片102
STEPH. BYZ. "Bembina"の項。
断片103
SCHOL. PLATON. Phaed. 89C:「二人を相手にしては、ヘーラクレースだってかなわない」
……ヘーロドーロスとヘッラーニーコスの主張によれば、ヒュドラをヘーラクレースが退治したとき、ヘーラはカニに彼を攻撃させ、両方を相手に戦うことができないので、共闘者としてイオラオスを助けに呼んだ。ここからして、この諺が言われるようになったという。
断片104a
SCHOL. APOLL. RHOD. II 1052:
ペレキュデース(3 F 72)の主張によれば、〔スチュムパリデスとは〕女ではなくして、鳥であり、ヘーラクレースのおかげで、これを取り囲んで恐れさせるために、ガラガラが〔アテーナから〕彼に与えられることで、退治されたという。ヘッラーニーコスも同じように主張している。
断片104b
同 II 1055:
〔ガラガラとは〕……カスタネット(krotalon)のことである。これ〔ガラガラ〕は、ヘーパイストスの作で、アテーナからヘーラクレースに与えられたものという。ただし、ヘッラーニーコスは、本人がそなえていたものだと主張する。
断片105
STEPH. BYZ. "Abdera"の項。
〔アブデラという〕都市には、二つある。ひとつは、ヘールメスの息子で、ヘーラクレースに愛されたアブデーロスにちなむトラケー〔トラキア〕の都市で、このアブデーロスは、ディオメーデースの馬たちにずたずたにされたと、ヘッラーニーコスや他の人たちが主張している。
断片106
SCHOL. PINDAR. N III 64:
断片107
SCHOL. TZETZ. Antehom. 23 p.8 Schirach:
アマゾネス〔アマゾン女人族〕とは、何に由来するのか? 弓射の邪魔にならぬよう、右乳房を切り取ったからという。これは嘘である。〔そんなことをしたら〕、死んでしまうだろう。ヘッラーニーコスやディオドーロスの主張によれば、〔乳房が〕大きくなる前に、大きくならないように、彼女らは鉄で焼灼するのだと。
断片108
STEPH. BYZ. "Agammeia"の項。
トロイアに近い岬ならびに港だと、ヘッラーニーコスが<第2巻>の中で。未婚のヘーシオネーがこの下で海獣に捧げられたことにちなんで呼ばれた。アガムメー(Agamme)とも言われる。
断片109
SCHOL. (TZETZ.) LYKOPHR. 469。
断片110
SCHOL. HESIOD. Theog. 293。「〔ヘーラクレースは〕オルトス〔番犬の名前〕と牛飼いのエウリュティオーンとを殺し」
ヘッラーニーコスの主張では、エウリュティオーンとは、アレースとエリュテイアの血を引くという。
断片111
DIONYS. HAL. ARI 35:
そのうち、イタリアは、名をイタロスという権力者にちなんで名づけられるに至った。この人物は、アンティオコスの主張では…〔中略〕…この地全土を自分の支配下においた…〔中略〕…彼はまた生まれはオイノートリア地方であるという。[2]しかし、レスボス人ヘッラーニーコスの主張では、ヘーラクレースはゲーリュオーンの牛をアルゴスに向けて追い立てていたが、彼がイタリアにさしかかったとき、1頭の若い牝牛(damalis)が群から抜け出し、逃げ回ったあげく、岬を越えて、海の中道を泳ぎ渡ってシケリアに行ってしまった、この牝牛を追って、土地の者に会う人ごとに、どこかで誰か牛を見かけた者がいるかどうか尋ねつづけたのであるが、この地の人たちはヘラス語をあまり理解せず、この動物の情報を、祖国語で若い牝牛(damalis)を、現在も言われるとおり、"ouitoulos"と呼んだので、この動物にちなんで、牝牛(damalis)が赴いた土地全土を"Ouitoulia"と名づけたのだという。[3]そのうち[名称が]現在の語形に変わったのは何ら驚くべきことではない、ヘラス語名詞の多くが似たような目に遭っているのだからである。もっとも、アンティオコスの主張するように、嚮導者にちなんでにしろ――これはおそらくより説得的である――、ヘッラーニーコスの思っているように、牛にちなんでこの名称を得たにしろ、両者の主張から明らかなのは少なくとも次の1点、つまり、ヘーラクレースの時代あるいは、その少し前に、そういうふうに名づけられたということである。これ以前はといえば、ヘラス人たちはこの島〔イタリア〕をヘスペリアとかアウソニアと呼びならわし、土地の者たちはサトルニアと〔呼びならわしていた〕のである。
断片112
STEPH. BYZ. "Akele"の項。
リュディアの都市……ヘーラクレースとマリスとの子で、オムパリスの女奴隷アケレースにちなんで言われたらしいと、ヘッラーニーコス。しかし、ヘーロディアノスの主張によれば、〔メンデースMendes(ナイルデルタ北東の都市)人が〕"Mendesios"〔と呼ばれる〕ように、〔アケレー人は〕"Akelesios"、したがって〔都市は〕、"Mendes"のように、"Akeles"だと。たしかに自余の用法は、彼の主張に一致する。ヘッラーニーコスも言った、<「都市アケレースへ(eis polin Akelen)」〔"Akelen"は対格。これの主格はおそらく"Akeles"になる〕。だから、"Akeles"だったはずである。
断片113
SCHOL. PINDAR. O III 22a:
"Hellanodikai"〔オリュムピア祭競技の主審〕の数については、ヘッラーニーコス、およびアリスとデーモスの主張によれば、初めは……〔欠損〕……<12人>だったが、最終的には、<10人>である。というのは、エーリス人たちの部族が、それだけの数だったから。それぞれの競技においては、主審"Hellanodikes"は1人であったという。
断片114
SCHOL. APOLL. RHOD. III 1087。
デウカリオーンがいずこの女から生まれたかは、プロメーテウスは黙っていた。ほかにもデウカリオーンがいて、このデウカリオーンについてはヘッラーニーコスが記録している。さらにほかにもミノースの子〔のデウカリオーン〕がいて、これについてはペレキュデース(3 F 85)が。そして第4にはアバースの子のデウカリオーンがいて、これについてはアリスティッポスが『アルカディア史』のなかで言及している。
断片115
SCHOL. ARISTEID. Panath. III257 Dind.:
ラケダイモーン人たちは、よそから、それも遠くから、新しくやってきたと彼は言う。というのも、昔はドーリエイス人たちであったのに、後になってペロポンネーソス人になったのだからと、これはヘッラーニーコスや、他にも多くの歴史家たち――この件について書いている人たちが言っているところである。
断片116
STRABON VIII 5,5。
ところで、ヘッラーニーコスは、エウリュステネスとプロクレスが国制を整備したと主張する。ところがエポロスはこれを批判し、彼〔=ヘッラーニーコス〕は書中どこにもリュクウルゴスに言及しておらず、リュクウルゴスの業績を無関係な人たち〔=エウリュステネスとプロクレス〕に帰していると主張する。
断片117
SCHOL. PINDAR. O IX 62b:「そしてプロトゲネイア〔「最初に生まれた女」の意〕の町に口舌〔話〕を持ってゆけ…〔中略〕…ピュッラとデウカリオーンとが、パルナッソス山を降りて、初めて居を構えた」
プロートゲネイアの添え名は、ロクロスの子オプウスでもある。ピュッラとデウカリオーンはパルナッソス山から降りて、パルナッソスの近くのオプウスに、初めは箱船に住んでいた。しかし、一部の人たちはピュッラがオプウスに住んだことを否定する。というのは、アポッロドーロスが次のように書いているからである。「デウカリオーンはキュノスに住んだと言われ、ピュッラはそこで埋葬されたと言い伝えられる」。同じことをヘッラーニーコスも記録している。ひとはいぶかるであろう、――ピュッラとデウカリオーンとからプロートゲネイアが生まれたなどと主張するひとがどうしているのか、ピンダロスは、彼女はエリス人のオプウスなる者から生まれたと言っているのに〔O. IX 58〕、と。ヘッラーニーコスの主張では、箱船が漂着したのも、パルナッソス山ではなく、テッサリアのオトゥリュス山だという。
断片118
STRABON X 2, 6。
さらに、オーレノスとピュレーネーとを、この詩人はアイトーリアの都市と名づけているが〔Il. II, 639〕、このうち、アカイアイ地方の都市と同名のオーレノスの方は、プレウロンの新都市の近くにあるが、アイオリス人たちが徹底破壊した。この土地は、アカルナニア人たちが係争していたからである。他方、ピュレーネーの方は、もっと高地に移し替え、その都市の名前も変えて、プロスキオンと呼んだ。ところが、ヘッラーニーコスは、これら両都市の史実も知らず、それが古来の状態のまま依然として存続しているかのように言及している。しかも、ヘラクレスの末裔の帰還後に建設された諸都市、つまり、マキュニアとかモリュクレアとかをも、古来の都市の中に数えあげ、ほとんどすべての著作の中で、このうえない無頓着ぶりを示しているのである。
断片119
SCHOL. APOLL. RHOD. I 146。「アイトーリア女レーデーは、力強きポリュデウケースを」
当然ながら、彼女のことをアイトーリア女と言ったのは、〔レーダの父〕テスティオスはアイトリア人だからである……しかしイビュコス(F 41)は彼女のことをプレウローン女だと主張している。ヘッラーニーコスは、カリュドーン女だと。しかし、レーダは、アイトーリアの王テスティオスの娘で、〔テスティオスは〕アレースとデーモディケーとの息子であった。彼女の母は、デーイダメイアと言われる。彼女〔デーイダメイア〕の父親は、シシュポスの子グラウコス、母親はパンテイデュイアだと、エウメーロスが『コリントス誌』の中で言い、こう記録している、――馬たちが亡くなったので、グラウコスはそれを探してラケダイモンに赴き、その地でパンテイデュイアと交わった。彼女は後にテスティオスと結婚してレーダを生んだが、実の親はグラウコスだが、話の上ではテスティオスの娘になっている。……ペレキュデースは第2巻(3 F 9)のなかで、プレウローンの娘ラオポンテーからレーダとアルタイアとがテスティオスに生まれたと主張している。
断片120
STEPH. BYZ. "Oianthe"の項。
ロクロイ人たちの都市。ヘカタイオスが『エウローペー』において(I F 113)。しかし、ヘッラーニーコスは、この都市は"Oianteia"だと主張する。
断片121
SCHOL. T HOM. Il. XV 336。「オレイウスが妻としていたエリオーピスの」
詩人〔ホメーロス〕と同様、ヘッラーニーコスも、〔小〕アイアスの母親はエリオーペー〔エリオーピス〕だと主張する。しかし、ペレキュデースは第<5巻>のなかで(3 F 24)、ムナセアスは第<7巻>のなかで、アルキマケーだと。『ナウパクトス史』の作者(F 1 Ki)は、彼女は二重名だと主張する。「
断片122
STEPH. BYZ. "Triopion"の項。
カリアの都市で、父親エリュシクトーンの子トリオパスにちなむ。"Triopia"とも言われる。しかしヘッラーニーコスは、トリオプスTriopsにちなむとしてその都市をTriopaだと主張する。
断片123
EPIM. HOM. CRAM. AN. OX I 344, 9。
「黒ずんだ(pllon)」というよりは「あざ(pelion)」の意……ヘッラーニーコスによれば。<「じっさいまたペリアス(Pelias)と名づけたのは、馬に蹴られて、その姿にあざが残った(peliainomai)からである」>。
断片124a
SCHOL. (EUST.) HOM. Od. III 4。「一行は、ネーレウスの構えよろしき城市ピュロスに/到着した」
というのは、ネーレウスは、ヘッラーニーコスの述べているところでは、〔双子の兄弟の〕ペリアースと喧嘩して、イオールコスからメッセーネーに行き、土地を差しだしたメッセーネー人たちの土地に、ピュロスを建設した。
断片124b
PSI X 1173, 1 ff.:
〔文意不明〕
断片125
SCHOL. PLATON. Symp. 208 D:
コドロスはデウカリオーンの末裔だったと、ヘッラーニーコスは主張する。なぜならヘッレーンは、デウカリオーンとピュッラから、しかし一部の人たちによれば、ゼウスとピュッラから、生まれたからである。そして、ヘッレーンとオトレーイスとから、クスウトス、アイオロス、ドーロス、クセノパトラが生まれた。さらに、アイオロスと、ペーネイオス〔河神〕の娘イピスとから、サルモーネウスが。サルモーネウスとアルキディケーとから、テュローが。この娘〔テュロー〕とポセイドーンとから、ネーレウスが。ネーレウスとクローリスとから、ペリクリュメノスが。ペリクリュメノスとペイシディケーとから、ボーロスが。ボーロスとリュシディケーとから、ペンティロスが。ペンティロスとアンキッロエーとから、アンドロポムポスが。アンドロポムポスと、ハルメニオス――この〔ハルメニオスは〕ゼウクシッポスの子、〔ゼウクシッポスは〕エウメーロスの子、〔エウメーロスは〕アドメートスの子である――の娘ヘーニオケーとから、メラントスが〔生まれた〕。この〔メラントス〕は、ヘーラクレース一族が攻め寄せたとき、メッセーネーからアテーナイへと撤退したが、この彼に生まれた子がコドロスである。後世、ボイオティア人たちとアテナイ人たちとの間にいさかいが、ある人たちによればオイノエーとパナクトスあたりで、またある人たちによればメライナあたりで、生じたとき、ボイオティア人たちは、王みずからが危険に挺身し、領土をかけて一騎打ちで決着をつけることを要求したところ、ボイオティアの王クサンティオスは受け入れたが、アテナイの王テュモイテースは拒否し、一騎打ちを望む者に、支配権を譲ると言った。するとメラントスが、自分と自分の末裔がアテナイを王支配するべくこの危険の代理に立ち、武装して進み出た、そしてクサンティオスの近くに来たとき、こう言った、「不正なり、おおクサンティオスよ、別人といっしょになってわしにかかってきて、合意したとおり一人でないとは」。クサンティオスがこれを聞いて、振り返り、誰が自分についてくるのか見ようとした、その振り向いたところを、撃ち殺し、アッティケーの王となった。ここから、領土を制覇したアテナイ人たちによって、祭礼を挙行することが決定されたが、この祭礼が、むかしはアパテーノール祭、後にはアパトゥリア祭と呼ばれたのは、騙し討ち(apate)が行われたことにちなむ。このメラントスからコドロスが生まれ、王位を引き継いだ。このコドロスは祖国のために次のような仕方で死んだ。ドーリエウス人たちとアテーナイ人たちのとの間に戦争が起こったとき、神は、コドロス王を殺害しなければ、アテーナイを攻略できようとドーリエウス人たちに託宣した。これを知ったコドロスは、樵のようなみすぼらしい姿に身をやつし、鎌をとって、敵勢の防柵のところまで出かけていった。二人の敵兵が彼に近づいてきたとき、その一人を殴り倒し、もう一人に、相手が誰かも知らぬまま、殺され、かくて子どもたちの年長のメドーンに支配権を残したのである。これより若いネーレウスは、イオーニア12市の建設者となった。ここからして、コドロス一族の生まれのよさはアテナイ人たちのもとで諺として流布していると言われる。きわめて生まれがよい人という意味で、「コドロスよりも生まれよき人」と。
断片126
SCHOL. APOLL. RHOD. III 265。
ヘッラーニーコスも、オルコメノスを支配したのはアタマスだと主張する。
断片127
同 II 1144。
ヘッレーンはパクテュエーで亡くなったとヘッラーニーコスは主張する。
断片128
同 III 335。
イアソーンは血筋をアイオロスに引くと、ヘッラーニーコスが。
断片129
同 404。「アレースの蔭濃き社と、ここにあるオークの木の上に広げられた羊毛」。
ヘッラーニーコスは、ゼウスの神殿にその皮はあると主張する。コルコイにあるアレース平和と、同所にあるアレース神域については、多くの人たちが言及している。
断片130
STEPH. BYZ. "Aphetai"の項。
マグネーシアの都市。ヘッラーニーコス。ここにアルゴー号が2回目の到着(Aphesis)をはたしたことから。あるいは、アルゴー号の乗組員たちが、ここにヘーラクレースを置き去りにしたことから。パガサイ湾のなかにある。
断片131a
SCHOL. APOLL. RHOD. I 131。「彼らといっしょにヒュラスは」
この人物〔ヒュラス〕はヘーラクレースに恋をしたが、ドリュオプスの息子。ムナセアスもそのように。しかしヘッラーニーコスは、テオダマスではなくテイオメネースと名づける。
断片131b
同 I 1207。
ヒュラスを、アポッロニオスはテオダマスの息子だと主張するが、ヘッラーニーコスは、テイオメネースの〔息子〕だと。ところで、アンティクレイデースが『デーロス誌』のなかで記録しているところでは、水路に落ちて見つからなくなったのは、ヒュラスはではなく、ヒュッロスであるという……ソークラテースは、『見神のために』のなかで主張しているところでは、ヒュラスが恋したのは、ポリュペーモスであって、ヘーラクレースではないと。オナソスが『アマゾン女人族誌』第1巻(41 F 1)の中でもっと真実な歴史を発表した――彼はニンフたちに掠されたのではなく、泉にはまって、そのために死んだのだと。
断片132
PAUSAN. II 3, 8。
さて、このときメデイアはアテナイまで赴き、アイゲウスと同棲した。しかし、その後、テーセウスに対する策謀を見破られ、アテーナイからも逃亡した。そして当時アリアと言われていた町に現れ、ここの人々に自分の名を与え、自分にちなんでメーディア人と呼ばれるようにした。アリア人たちのもとに逃れるとき、連れていた子どもは、アイゲウスとの間に生まれ、その名はメードスだと言われている。しかしヘッラーニーコスは、その子をポリュクセノスと呼び、父親はイアソーンだと主張する。
断片133
SCHOL. EURIPID. Med. 9。
愛知者たちの間で、かなり息巻いた話(logos)が行われている、これはパルメニコスも公表しているものだが、エウリピデスは5タラントンを受け取って、子どもたちの虐殺をメーデイアに変更したというのである。というのは、メーデイアの子どもたちは、彼女が王支配しようとしたため、祖国コリントスが彼女の領分になるので、激怒したコリントス人たちによって虐殺されたのである……コリントスへの移住については、ヒッピュスとヘッラーニーコスが公表している。メーデイアはコリントスを王支配したということは、エウメーロス(F 3 Ki)とシモーニデース(F 48)が記録している、と。
断片134
SCHOL. A HOM. Il. III 144。「ピッテウスの娘アイトレー」
このアイトラは、テーセウスの母親とは別人である。なぜなら、義理の母とみなされるアイトラが、召使い女のようにヘレネーのお付きとなるのは屈辱であろうから。ヘッラーニーコスの記録によれば、ペイリトゥスとテーセウス――前者はゼウス〔とアイトラと〕の子、後者はポセイドーン〔とアイトラと〕の子――は、ゼウスの娘を娶ろうと申し合わせた。そして、若いヘレネーを略奪してアッティケーのアピドナ〔区〕に連れてきて、ピッテウスの娘すなわちテーセウスの母親アイトレーに預けた。そうして〔今度はペイリトゥスのために〕ハデスの館のペルセポネーのもとに〔ペルセポネーを略奪するために〕赴いた。この間に、〔ヘレネーの兄弟の〕ディオスクウロイは、妹〔ヘレネー〕を取り返したのではなく、アッティケーを蹂躙して、アイトラを捕虜にしたのである。
断片135
SCHOL. HOM. OD. V 125。「同様にまたイアシオーンとは、みずらも美しいデーメーテールが、おのが情熱のまま、交わり」
このクレーテー人の生まれは、カトレウスとプロニアとの息子。ヘッラーニーコスによれば、エーレクトラとゼウスとの息子。彼一人によって、大洪水後、種が発見された。この彼とデーメーテールとから、ヘシオドスによれば(Theog. 969以下)、プルウトスが〔生まれた〕。
断片136
STEPH. BYZ. "Theatideion"の項。
テッサリア地方の都市。ヘッラーニーコスは、テティス(Thetis)にちなんで<〔Thettideion〕>という二重〔子音〕だと主張する。
断片137
SCHOL. PINDAR. O VII 132a〔71?〕:「ここでかつて〔太陽神は〕ロドスと交わり」
ヘーリオスとロデー――彼女のことをそういうふうにヘッラーニーコスは呼んでいる――とから7人の子どもたちが生まれた。オキモス、ケルカポス、アクティス、マカロス、カンダロス、トリオペース、最も若年のパエトーンだが、島の人たちはこれをテナゲースと呼ぶ。しかし、彼らの名前については一致しない。が、誰しもが、彼らは7人だと主張する。
断片138
SCHOL. T HOM. Il. XX 231。「トロースからもまた、人品すぐれし3人の子どもたちが生い出でた。イロスとアッサラコスと、神にも等しいガニュメーデースである」
トロースと、スカマンドロス河神の娘カッリッロエーとの子だと、ヘッラーニーコスが。
断片139
SCHOL. A GEN. I HOM. Il. III 250。「ラオメドーン一族」
プリアモスの母は、ポルピュリオスが『詩人によって省略された名前について』の中で主張しているところだが、抒情詩人アルクマン(F 113)によれば、ゼウクシッペー、ヘッラーニーコスによれば、ストリュモーであるという。しかしスカモーンは、『レスボスについて』の中で、テウクロスの娘トオーサだと主張する。
断片140
SCHOL. A B GEN. II HOM. Il. III 151。「蝉にも似た」
ラオメドーンの子にして、プリアモスの兄弟であるティトーノスに、ヘーメラは恋をして、彼によって息子メムノーンをもうけた。その彼〔ティトーノス〕が長い人生を過ごしたので、女神はこれを蝉に変えた。それゆえ、彼の同族の長老たちを、詩人は蝉にたとえたのである。ヘッラーニーコスが記録している。
断片141
SCHOL. T HOM. Il. XXIV 495。「アカイア人たちの息子たちがやってきたとき、わし〔プリアモス〕には50人の子がいた。このうち19人はわしと妻〔ヘカベー〕とから生まれ、その他は、わしのために局の女たちがもうけてくれた」
ヘッラーニーコスが<>。
断片142
SCHOL. A B *HOM. Il. V 64:「またメーリオネースはペレクロスを討ち取った、〔このペレクロスは〕ハルモーンの裔テクトーンの息子で……アレクサンドロスのためにも、災いのもととなった釣り合いのよい船を造ってやったが、この船は、すべてのトロイア人たちにも彼自身にも災いとなった、神々の神託による兆しをわきまえなかったために」
……ヘッラーニーコスの主張によれば、トロイア人たちに与えられた託宣は、造船術を避け、農耕術に意を用いよ、海のことに従事して、自分たちと都市とを破滅さすべからず、というものだったという。
断片143
SCHOL. EURIP. Hek. 123:
テーセウスの子どもたちが、一部の人たちの主張では、イリオンに出征したのは、指揮官としてではなく、攻守同盟のゆえでもなく、アイトラを奪われた者としてである。だからホメーロスが、アテーナイ勢を指揮せしはメネステウスというのも(II 552)そのためである。『キュクロス』の作者ディオニュシオスは(15 F 5)……ヘッラーニーコスの主張では、彼らが出征したのは、イリオンを攻略した場合は、戦利品として彼女をとるため、さもなければ、贈り物によって人質交換するためであった。しかし彼ら〔テーセウスの子どもたち〕は、メネステウスに支配されることを望まなかったので、亡命した。かくて、エウボイアのアバースの子カルコドーンの子エレペーノールのもとにいたのである。
断片144
STRABON X 2, 14。
一部の人たちは、ためらうことなく、ケパッレーニアはドウリキオンと同一と主張する。またある人たち〔の主張で〕は、タポス島と〔同一で〕、ケパッレーニア人とはタポス島民のことで、またテーレボアイ族も同じとして、アムピトリュオーンが、デーイオネウスの子ケパロス――アテーナイからの亡命者となったとき〔アムピトリュオーンに〕迎え入れてもらった――といっしょにここまで遠征し、この島を占領して、これをケパロスに譲り渡したったので、この島は彼を名祖とし、〔島内の〕諸市は彼の息子を〔名祖〕としたという。しかし、以上はホメロスの言うことと同じではない。というのは、ケパッレーニア人たちは、オデュッセウスと〔その父〕ラエルテースの支配下にあった。他方、タポス島はメンテースの支配下にあったからである〔Od. I 180f.〕……ヘッラーニーコスもホメーロス的ではなく、ケパッレーニアとはドゥリキオンのことだという。つまり、〔ホメーロスによれば〕これ〔ドゥリキオン〕と残りのエキナデス諸島はメゲースの支配下にあり〔Il. II 625 ff.〕、島の住民はエーリスから到来したエペイオイ人たちだと述べられている。……「ところが、オデュッセウスが率いるは、意気の盛んなケパッレーニア人たちなり」〔Il. II 631 ff.〕。したがって、ホメロスによれば、ケパッレーニアはドゥリキオンではなく、またアンドローンの主張〔10 F 15〕とは異なり、ドゥリキオンはケッパレーニアの一部でもない。なぜなら、後者〔ケパッレーニア〕を占領していたのはエペイオイ人たちであり、ケパッレーニア全島を〔占領していたのは〕ケパッレーニア人たちであった。そして、後者はオデュッセウスの、前者はメゲースの支配下にあったからである。〔ケパッレーニアの〕パレース人たちも、ペレキュデースが記しているところ〔3 F 15〕とは違って、ホメロスではドゥリキオンとは言われない。とりわけ、ホメロスに異を唱えるのは、ケパッレーニアとドゥリキオンが同じ島だと言う人である――よしんば、ドゥリキオンからは、50と2人、サメーからは、24人と〔Od. XVI 247-249〕とあっても。なぜなら、これは、島全体からはこれだけ(52)の人数が来たが、〔島内の〕4市のうち1市からは、その半分に2人足りないだけが来た、と言っているのではないであろうから。もしもこんな説を認める人があれば、〔詩人が〕次のように主張する場合に、サメーとは何かと、わたしたちは問いたくなることだろう。――
ドゥリキオンにサメーに、森ゆたかなザキュントスなど〔Od. IX 24〕
断片145
SCHOL. A HOM. Il. XII 1。「メノイティオスの勇ましき息子」
メノイティオスの子パトロクロスは、ロクリスのオプウスで育てられたが、心ならずもの失策のために落ちのびた。というのは、無名ならざるアムピダマスの子、年若きクレイソーニュモスを、あるいは、一部の人たちによれば、アイアネーを、アストラガロス〔くるぶしの間にある距骨talusのことであるが、古代では賽子にされた。〕をめぐって腹を立てて殺したのである。これがために、亡命してプティアに到着し、その地で、同族のよしみでペーレウスの子アキッレウスと知己となった。お互いに友愛を深めあい、相身互い、いっしょにイリオンに出征した。この歴史はヘッラーニーコスにある。
断片146
STEPH. BYZ. "Alybe"の項。
……ヘッラーニーコスの主張では、ポントスの湖。
断片147
同 "Kabassos"の項。
カッパドキアの都市で、オトリュオネウスの祖国。ホメーロス(Il. XIII 363)、「カベーッソスからここ〔城内〕へとやってきた者」……しかしヘッラーニーコスは、リュキアの都市をカベーッソスと……
断片148
SCHOL. THEOKRIT. XVI 49「肌からして雄の「白鳥(Kyknos)」」
キュクノスは、ポセイドーンとカリュケーとの子で、アキッレウスに亡き者とされた人物と彼は主張している。というのは、生まれつき肌が白かったと、ヘッラーニーコスが主張しているから。
断片149
TZETZES Posthom. 8 ff.:
ペンテシレイア到来せり……[10]彼女の到来せるは、コイントス〔Kointos, Lt. Quintus〕(Posthom. I 19 ff.)がおのが詩編に歌うところでは、/妹たりしヒッポリュテーをば狩猟中に殺害せしがため……[14]ヘッラーニーコス、リュシアス、他にも善き人たちの/主張するには、トロイエーに来援せしは、おのが勇徳のため/――誉れをばいや増して、婚儀を得んため。/何故といえば、彼女らにとって男どものそばに寝床に就くはいまわしきことゆえ、/戦争において男どもに対して勇徳をしめさぬかぎりは。/されば、ペンテシレイアが立ち向かう相手は、〔彼女を〕恋する男どものみ。
断片150
SCHOL M EUST. HOM. Od IV 343:「願わくは、かつて住まいよろしきレスボスにて、挑戦を受けて立ち上がり、ピロメーレイデースをばこっぴどく投げ倒し、アカイオイ人たちみなが歓喜したほどの、かくも剛の者のありて」
〔ポロメーデースを〕パトロクロスのこと〔を言っているのだ〕と聞く人たちがいた。ピロメーラの息子だったからというのである。しかし、ホメーロスはその生まれを母親から形成してもおらず、パトロクロスが負かされては、ヘラス人たちは喜びもすまい。「何となれば、誰にでもやさしかったのだから」(Il. XVII 671)。しかるにこの人物〔ピロメーレイデース〕は、レスボスの王であったとき、到来する者たちを角力に誘ったのである。寄港したヘラス人たちまでを。これをオデュッセウスとディオメーデースとが騙し討ちして、その塚を外国人たちの角力場にしたとは、ヘッラーニーコスの主張するところである。
断片151
STEPH. BYZ. "Thysbra"の項 (EUST. Hom. Il. X 430)。
トローアスの都市、ダルダノスの植民市、彼の友テュムブロスにちなむ。テュムビリス河があって、これにちなんでテュムブレーにましますアポローンの神域があるが、<ここでアキッレウスは弓で射殺された>。〔Θを〕<Ζ>にかえて"Zymbraios"とも言われる。"Thymbrios"とも言われる。ヘッラーニーコスは、<δ>にかえて"Dymbrios"とか"Dymbrieus"とも主張する。
断片152a
CLEM. ALEX. Strom. I 21, 104, 1 p.67, 4 St[a]h. (EUSEB. PEX 12 p.492 B):
イリオンが陥落したのは、アガメムノーンの王位の第18年目、テーセウスの子デーモポーンがアテーナイを王支配して第3年目、タルゲーリオーン月の10と2日目だとは、アルゴス人ディオニュシオスの主張するところである。しかしアギアスや、またデルキュロスも第3巻のなかで、〔ドーリスの月で〕パネーモス月つまり第8月の3日〔という〕。ヘッラーニーコスは、タルゲーリオーン月の第12日目〔という〕。また、アッティカ誌を編纂した人たちのうち何人かも、第8月、ムネステウスが王位にあった最後の年、満月の夜〔という〕。「夜は」と『小イリア史』の詩人(F 11 Ki)は主張する、「真夜中、月は煌々と照れり」。別の人たちは、スキロポリオーン月の同じ日に〔という〕。
断片152b
TZETZ. Posthom. 770:
タルゲーリオーン月の12日に……[773]しかして夜は真夜中、月煌々と照れり……[776]聞こえも高きアテーナイの聖なるカリストー〔大熊座〕は、大年の最も高きところにあり、むなしき季節、むなしき夜、とレスボス人ヘッラーニーコスは歌っている、彼とともにドゥウリスも、トロイアをアカイオイの全軍が攻略した、と。
断片153
SCHOL. Q VIND. EUST. HOM. Od. IV 228。「ポリュダムナ……トーンの妃、エジプト女」
トーンはカノーボスつまりヘーラクレイオンの河口の王であった、ヘレーンを見るまでは、メネラオスを敬愛していたが、彼女を見てからは、暴行せんとくわだてた。これを知ってメネラオスは相手を亡き者にした。ここからこの都市はトーニスと名づけられたと、ヘッラーニーコスが記録している。
断片154a
SCHOL. (TZETZ.) LYKOPHR. AI. 827。
ヘッラーニーコスの主張では、エレムボイ人たちは、ナイル河のザクロ林のあたりに暮らしていたという。
断片154b
Et. M. 370, 40:
エレムボイ人とはアラビア人たちのことである。というのは、バビュローンの王アラプスの血を引くからである。エレムボイ人とはアラビア人のことだとある人たちは主張している、とヘッラーニーコス。しかし、一部の人たちは、地面の中に踏み入ることから、トローグロデュテタイ〔穴居人〕のことだと聞いている。クラテースは彼らは浅黒いと書き、インド人たちをこれにあてている、この人たちは黒いからである。"Erembaioi"とも言われる。
断片155
PAUSAN. II 16, 6。
〔ミュケーナイには〕アトレウスの墓があり、さらに、アガメムノーンといっしょにイリオスから帰還した者たちを、アイギストスが饗応して皆殺しにした、その人たち皆の〔墓が〕ある。けれども、カッサンドラの記念碑については、ラケダイモン人たちのうち、アミュクライ近辺に住んでいる人たちが異を唱えている。また、アガメムノーンの別の〔墓〕がある。〔アガメムノーンの〕御者エウリュメドーンの〔墓〕もある。テレダモスとペロプスのは合葬墓である――というのは、言い伝えでは、カッサンドラは彼らを双生児として生んだが、まだ幼いときに、アイギストスが両親に続いて殺戮したからである――<エレクトラのもある>。というのは、オレステースが認めたので、〔エレクトラは〕ピュラデースと同棲したからである。しかしヘッラーニーコスはこういうことも書き記している。メドーンとストロピオス(2世)とが、ピュラデースとエレクトラから生まれたと。
断片156
SCHOL. EUST. HOM. Od. p.118:
ゼウスとエウリュオディアとの子がアルケイシオス。これとカルコメドゥセーとの子がラエルテース。これとアンティクレイアとの子がオデュッセウス。これとペーネロペーとの子がテーレマコス。これと、ネストールの娘ポリュカステーとの子がペルセプトリスだと、ヘーシオドス(F 17)が……しかし、アリストテレースは『イタカ人たちの国制』の中で、またヘッラーニーコスも、テーレマコスは、アルキノオスの娘ナウシカアを娶り、ペルセプトリスを生んだと主張する……『帰還者たち(Nostoi)』を著したコロポーン人の詩人(F 9 Ki)の主張では、テーレマコスは後にキルケーを娶ったが、キルケーから生まれたテーレゴノスは、ペーネロペーを娶り返したという。こういった虚しい不徳はおびただしくある。
断片157
SCHOL. A HOM. Il. II 105。「それを今度はペロプスがアトレウスに与えた」
ペロプスは最初の妻からクリュシッポスという子をもうけ、〔次いで〕オイノマオスの娘ヒッポダメイアを娶り、これからたくさんの子づくりをした。しかし、彼にはなはだしく愛されたのがクリュシッポスだったため、継母〔ヒッポダメイア〕とその子〔異母兄弟〕たちは、嫉妬し、王笏も彼に譲られるのではないかと思って、謀殺し、子どもたちの中で最年長者であったアトレウスとテュエステースをその王位につけようとした。こうしてクリュシッポスは亡き者にされたが、ペロプスがそれとさとって、下手人たちを――自分の子どもであったけれども、追放した。自分たち自身の手で亡き者にされると、彼らとその一族に呪いがかけられていたからである。かくて、各人各様にピサを落ちのびた。しかし、ペロプスが亡くなると、年長のアトレウスは多くの軍勢とともに出陣し、所領所領をを制覇した。ヘッラーニーコスが記録している。
断片158
STEPH. BYZ. "Gargara"の項。
トローアスの都市……ヘッラーニーコスは<>にかえてこの都市を"Gargason"だと主張する。しかし、それは誤りだとわたしは思う。
断片159
同 "Lamponeia"の項。
トローアスの都市。ヘカタイオスが『アシア』(1 F 223)で。民族は"Lamponeus"。しかしヘッラーニーコスは、その都市を"Lamponion"、民族を"Lamponieus"と主張する。
断片160
STRABON XIII 1, 58:
ミュルシロスの主張では、アッソスはメーテュムナ人たちの植民市だという。しかしヘッラーニーコスの主張では、〔この市は〕アイオリス系の都市であること、あたかも、ガルガラもラムポーネイアもアイオリス人たちの植民市であるがごとしという。ガルガラは、アッソス人たちの植民市だからである。
断片161
HARPOKR. "autochthones"〔地生えの者たち〕の項。
アテーナイ人たちのこと。……しかし、autochthonesであるのは、ヘッラーニーコスの主張では、アルカディア人たちもそうであり、アイギナ人たちもテーバイ人たちもそうである。
断片162
SCHOL. APOLL. RHOD. I 769。「アタランテー」
イアシオーンの娘、これを娶ったのがミラニオーン。スコイネウスの娘のアルゴス女は別人で、これを娶ったのはヒッポメドーンである。マイナロスという山がアルカディアにあり、アタランテーはここで過ごしたが、〔この山は〕アルカスの子マイナロスにちなむと、ヘッラーニーコスが主張している。
断片163
SCHOL. V ARISTOPH. Av. 873:「もはやコライニスではなくて」
ヘッラーニーコスの主張では、コライノスはヘルメースの子孫で、占いにしたがってアルテミス・コライニスの神域を築いたという。パノデーモスも第3巻のなかで。エウプロニオスの主張では、コライニスが〔エウボイアの〕アマリュントスにまします所以は、この地でアガメムノーンが女神に角のない牡羊(krios kolos)を供犠したからという。この女神についてはカッリマコス(F 76 Schn)の言うには、「神話によれば、"hogamemnon"〔?〕をこの女神に捧げ、また、無尾・一眼の動物が供犠された」。これは、決して粗略にしたのではない。というのは、ミュッリヌウス区民はコライニスをアルテミスの添え名としているからである、ペイライエウス区民がムウニュキアを、ピライダイ区民がブラウローニアを〔アルテミスの添え名とする〕ように。
断片164
PLUTARCH. Thes. 17:
ヘッラーニーコスが主張するところでは、籤引きで当籤した男たちや当籤した女たちをこの都市〔アテナイ〕が送り出したのではなく、ミノース自身がその場にいて選び出したのであり、取り決めどおりまず誰よりも真っ先にテーセウスを選んだのだという。そしてその取り決めとは、ひとつ、船はアテナイ人たちが提供すること、ひとつ、未婚者たちは、「アレースの武具」を何ひとつ携行せずに彼といっしょに乗船して航海すること、ひとつ、ミノタウロスが失せたとき、この賠償(poine)も終了するというものであったという。
断片165
同 25:
また〔テーセウスが〕この競技〔イストミア祭〕を初めて開設したのは、ヘーラクレースに対する対抗心からで、〔ヘラス人たちが〕後者〔ヘーラクレース〕のおかげでゼウスを讃えるためにオリュムピア祭を挙行するようになったのと同様、自分のおかげでポセイドーンを讃えるためにヘラス人たちがイストミア祭を挙行するようにとの愛名心にかられたからである。〔テーセウスが創設した〕というのは、メリケルテス〔テーバイ王アタマスとカドモスの娘イノの子で、王家の紛争から母子ともに海に飛びこみ、その屍体がイストモスにあがったので、コリントス王シシュポスがそれを記念して競技を始めたという〕を記念してここで始められた競技は、じつは、夜間に執り行われ、観物や祭典の次第よりもむしろ秘儀的宗教儀式(teletes)の体裁を具えていたからである。けれども、ある人々の主張では、イストミア祭の起こりはスケイローンにちなみ、テーセウスが同族のよしみで〔スケイローンの〕殺人の汚れを浄めようとしたのだ。すなわち、スケイローンはカネートスと、ピッテウスの娘ヘーニオケーとの息子であったというのである。しかしある人々は、〔カネートスとヘーニオケーとの息子は〕シニスであって、スケイローンではない、だから、この競技は前者のためにテーセウスによって始められたのであって、後者〔スケイローン〕のためではないという。<それはとにかく、〔テーセウスが〕コリントス人たちと取り決めをして定めたことは、イストミア祭にやってくるアテナイ人たちのために、来賓席(proedria)を、見物の船の帆が広げられたときの広さだけ、提供するということである、>これはヘッラーニーコスと、ハリカルナッソスのアンドローン(3 F 151)が記録しているところである。
断片166
同 26。
〔テーセウスが〕黒海に船を乗り入れたのは、ピロコロスやその他何人かの人々のいうところでは、ヘーラクレースとともに、アマゾン女人族を征服するためで、最も善勇の士の報酬として、アンティオペーを手に入れたという。しかし、ある人たち――ここにはペレキュデース(3 F 151)やヘッラーニーコスやヘーロドーロス(31 F 25)が含まれる――の主張では、ヘーラクレースの後の時代に、テーセウスは自分の船で航海して、このアマゾンの女を捕虜として手に入れたのだと言っているが、こちらの方がより説得的である。というのは、彼〔テーセウス〕といっしょに遠征した人々のうち、アマゾンの女を捕虜として手に入れた者は、他には誰も記録されていないからである。
断片167a
同 27。
ところで、このことがアマゾン族の戦争の口実となった。そしてその仕事は、彼〔テーセウス〕にとってはつまらぬことでないのはもちろん、女のするようなことでもなかったようである。というのは、市域の中に布陣するなどということがなかったのはもちろん、プニュクスやムウセイオンの近辺で、白兵戦を演じるということもなかったであろう――もしも彼女らが〔まわりの〕地方を制圧して、難なくこの都市に襲来することがなければ。たしかに、ヘッラーニーコスが記録しているように、彼女らがキムメリアの凍りついたボスポロスを渡ってやって来たのかどうかということは、信じがたいところである。けれども、彼女らがこの都市のほとんど中央部に野営したことは、もろもろの場所の名前によっても戦没者たちの墓標によっても立証される。しかし、戦端を開くことについて長い間、両軍に躊躇逡巡があった。が、ついにテーセウスは、ある神託にしたがって、「恐怖(Phobos)」に血祭を捧げてから、彼女たちと交戦した云々。(323 F 18)
断片167b
TZETZ. Lyk. 1332。
この人も主張しているところでは、帯のせいで彼女たちはアテーナイ攻撃に出征したという。/しかし、レスボス人ヘッラーニーコスの主張では、キムメリコス・ボスポロスが凍結したとき、これを渡って、アッティカの地に進入し、4ヶ月間戦争をして、引き上げた(=クレイデモス)。/その理由は言っていない。
断片167c
TZETZ. Posthom. p.7 Schi:「そこで、また、長柄でもって"Skythometres"〔「スキュティアの母たち」の意〕の女人たちは(sc. トロイア)に加勢した」
歴史に正確に精通せず、腹話術でしゃべり散らす人たちは、トロイアはアマゾネスによって破壊されたと主張する。その破壊の理由を述べるすべも知らず、破壊が突撃によったのでなかったのかどうかも知らない。この件についてわたしは、歴史家たちの各がどう言っているか主張してきた。つまり、歴史家たちのうちヘッラーニーコスは言う。/キムメリコス・ボスポロスがかつて凍結したとき、アマゾネスの一大部隊が押し渡って進入してきた、黄金の楯、銀の戦斧に身を固めた、男好きの、男子殺しの雌が。/ 戦闘の洗礼を浴びせかけた。/これが、その祖国がレスボスであるヘッラーニーコスが〔言っていることである〕。
断片168a
PLUTARCH. Thes. 31。
すでに齢50歳になってから〔テーセウスは〕、ヘッラーニーコスの主張では、結婚適齢期にも達していないヘレネーをめぐる事件を起こしたという。そこで、この最大の非難を修正しようとして、ある人々の言うには、ヘレネーを掠奪したのは当人ではなく、イダスとリュンケウスという略奪者たちからの預かりもの受け取りながら、ディオスクウロイが返還要求しても引き渡さなかった。あるいは、神かけて、ヒッポコオーンの子エナルスポロスが、まだ幼女であったヘレネーを力ずくで手に入れようとするのを恐れたテュンダレオースから、彼〔テーセウス〕が引き受けたのだという。しかしながら、尤もらしいのは、そして最も多くの証人たちを有するのは、次のような話である。すなわち、彼ら〔テーセウスとペイリトウウスとが〕スパルテーに行って、アルテミス・オルティアの神殿で踊っていた乙女(kore)を掠奪して逃げた……籤に当たった方はヘレネーを妻にとり、相手のために別の結婚に協力するという取り決めをした。……テーセウスが当籤し、まだ結婚の適齢期にもなっていない処女(parthenon)を引き取り、アピドナイに連れて行った。そして、〔自分の〕母を彼女につけて、友だちのアピドノースに引き渡し……自分はペイリトウウスに奉仕のお返しをするため、モロッソイ人たちの王アイドーネウスの娘を狙って、エーペイロスへといっしょに出郷した……
断片168b
SCHOL. (TZETZ.) Lyk. 513。
ヘッラーニーコスの主張するところでは、ヘレネーは7歳の時にテーセウスにさらわれたという。ドゥリスが言うには、彼女が返されたのは、イーピゲネイアを生んだからだという。
断片169a
SCHOL. EURIP. Or. 1648。
アレイオス・パゴスにおけるオレステースの裁判については、ヘッラーニーコスも記録して次のように書いている。<ラケダイモーンから出向いてきた者たちとオレステースとに、アテーナイ人たちは…〔欠損〕…提示した。最終的には、両者とも賛同したので、アテーナイ人たちは裁きを確定したが、それは、ハリッロティオスをめぐるアレースとポセイドーンとの裁判より9世代後のことである。また、デーイオネウスの子ケパロス――この人物は、エレクテウスの娘プロクリスを妻に娶ったものの〔これを〕殺害したが、アレイオス・パゴスで[裁かれて]追放刑に処せられた――その裁判から、6世代後。ダイダロス――知恵を競って甥のタロースを陰険な殺害方法で殺し、追放刑を受けた――に対する裁判から3世代後に、テュンダレオースの娘クリュタイムネーストラのアガメムノーン殺害の裁判がオレステースによって起こされた。
断片169b
同 1651 「アレイオス・パゴスにおいて」
ここで最初に、アレースとポセイドーンとが争訟した。次いで、3世代後に、デーイオネウス〔正しくはデーイオーン〕の子ケパロスが、妻のプロクリスの件で。さらに3世代後、ダイダロスが甥のタロースの件で。それからさらに3世代後、オレステースが〔争訟した〕と、ヘッラーニーコスが。
断片170a
VITAE X Or. 834 B (PHOT. Bibl. 261 p.488 a 23):
アンドキデースの父はレオーゴラス。レオーゴラスの父アンドキデースは、かつて〔前446年〕ラケダイモーン人たちとアテーナイ人たちとの和平協定を締結した人物。区はキュダテーナイ区か、トレウス区民、生まれは貴族階級(エウパトリダイ)に属すると、ヘッラーニーコスはヘルメースにさえ系譜づけている[というのは、ケーリュクス家の生まれを彼に帰しているから]。それゆえ、かつて挙手採決で選ばれて、グラウコーンとともに艦船20艘を引き具して、コリントスに離反したケルキュラ救援に赴いたことがある。しかしその後、自らもヘルメス神像そ毀損し、デーメーテールの秘儀に対して過ちを犯したとして、不敬の罪に問われ、このために不正者たちを密告したかどで亡命した。
断片170b
PLUTARCH. Alkib. 21。
ところで、当時、捕縛されて、裁きのために投獄されていた者たちの中に、弁論家アンドキデースもいたが、歴史編纂家ヘッラーニーコスは彼をオデュッセウスの末裔に系譜づけている。
断片170c
SUID. "Andokides"の項。
レオーゴラスの息子にして、オデュッセウスの子テーレマコスとナウシカとの子孫だと、ヘッラーニーコスが主張している。
断片171
SCHOL. ARISTOPH. Ran. 694。「プラタイア人たちが、すぐさま、奴隷に代わって主人になるとは」
(アルギヌウサイでの海戦で)いっしょに海戦をたたかった奴隷たちは、ヘッラーニーコスの主張によれば、自由人に列せられ、プラタイア人として登録され、自分たち〔アテナイ人〕の同市民とされたという。カッリアスの前任のアンティゲネースの時のこととして詳述している。
断片172
SCHOL. V ARISTOPH. Ran. 720。「古鋳貨幣も新金貨も同じに」
前年のアンティゲネースの時に、ヘッラーニーコスの主張では、金貨を鋳造したという。ピロコロスも、同じように、黄金の勝利の女神像からなる〔金貨〕だという。
断片173
DIODOR. I 37, 3。
例えば、ヘッラーニーコスやカドモスや、さらにはヘカタイオスやの流れをくむ人たちや、それに類した人たちはみな、まったくもって古くさいので、(ナイル河の増水を説明するのに)神話的な理由に傾いている。
断片174
ANTIGON. Hist. mir. 126。
レスボス島人ヘッラーニーコスが『エジプトのテーバイ』の中に観察記録しているところでは、町に洞穴があり、そこでは30日間だけ風が吹き、ほかの日は無風だという。
断片175
ATHENAI. I 34A。
キオス人テオポムポスは、ブドウはオリュムピアのアルペイオス河畔で発見されたと記録しているという……しかしヘッラーニーコスの主張では、ブドウが最初に発見されたのは、アイギュプトスのプリンティネーという都市でだという。
断片176
PLUTARCH. De Isid. 34 p.364 D:
ディオニュソスのことをもヒュレーと(ヘラス人たちは呼ぶ)、湿り気の自然本性の支配者だからであるが、オシリスに異ならない。というのも、オシリスのことが、ヒュシリスと神官たちに呼ばれているのをヘッラーニーコスは聞いたことがあるらしい。だからして、この神をそういうふうに呼び続けたわけだが、その自然本性と発現の仕方からして当然である。
断片177〔欠番〕
断片178
ANONYM. De mulier. 7:
アトッサ。この女性は、ヘッラーニーコスの主張では、父親アリアスポスによって、男性として育てられ、王位を継承したという。そして、女らしい考えを隠して、〔女として〕初めて冠(tiara)をkぶり、さらには初めてズボンをもはき、宦官たちの奉仕をも受け、書き物によって布令を発したという。そして、数多くの民族を臣従させ、すべての事業において、最も好戦的かつ最も男らしい女になった。
断片178b
TATIAN. pr. Hellen. I (CLEM. ALEX. Strom. I 16, 76, 10 p.50, 9 St[a]l. EUSEB. P E X 6, p.476 D)。
書簡の著し方をも(発明した)のが、かつてペルシア人たちを指導した女性であったとは、ヘッラーニーコスが主張しているとおりである。その名はアトッサ[であった]。
断片178c
DONAT. TERENT. Eunuch. 167:
〔未訳〕
断片179
STEPH. BYZ. "Aria"の項。
……ペルシアの地方、ヘッラーニーコスによる。民族は"Arioi"、同人の主張によれば、"Arieus"とも。
断片180
SCHOL. AISCHYL. Pers. 770。
キュロスの息子がカムビュセース。兄弟は、ヘッラーニーコスによれば、マラピス。メルピス。
断片181
同 778。「5代目はマルドスが支配したが、父祖伝来の由緒古い王座にとっての恥辱。これを、策を用いて、気高きアルタプレネースが殺した。館の中で、親愛なる者たちといっしょになって」
この人物をヘッラーニーコスはダペルネースと呼ぶ。
断片182
同 719。
ダレイオスの子どもだと主張しているのは、ヘーロドトスは<第7巻>で、ヘッラーニーコスは<第11巻>で。
断片183
PLUTARCH. De Herod. mal. 36 p.869 A:
すなわち、ナクシオイ人たちは、三段櫂船3艘を、異邦人たちとの共闘用に派遣したが、三段櫂船指揮官の一人デーモクリトスが、ヘッレネスたちの味方を選ぶべしと説得したのである〔Herod. VIII 46, 3〕。かくのごとく、彼〔ヘロドトス?〕が知っていたのは、非難することなしに賞賛するということではなく、一人の人間がたたえられるには、国家全体や民衆が悪く言われるのを聞かねばならないということであった。ただし、彼に反証しているのは、年長者のうちではヘッラーニーコス、若年者のうちではエポロスで、ナクシオイ人たちが自らヘッレネス加勢に赴いたのは、前者は、艦船6艘で、後者は、5艘で、と記録している。
断片184
PHOT. Bibl. 72 p.43b9 (aus KTESIAS Persikon
法に反して父親を火で葬った人物について。嘘だという、ヘッラーニーコスとヘーロドトスの反論も、そこから起こる。兄弟に対するキュロスの謀反。
断片185
STRABON XI 6, 2:
〔北からカスピア海に〕乗り入れた人にとって、〔カスピア海の〕右手に暮らしているのは、エウローペー人たちに続いてスキュタイ人たちであり、タナイス河とこの〔カスピア〕海との間に住むサルマタイ人たちである……大部分は遊牧民である……また左手には、東方スキュタイ人たちが、この人たちも遊牧民で、東方海やインド海にまで広がっている。ヘラスの古の歴史編纂者たちは、北方民をすべて一括してスキュタイ人またはケルト・スキュタイ人と呼んでいた。それよりも前の人たちは、黒海やイストロス河やアドリア海より北に定住している人々を、ヒュペルボレオイ人とか、サウロマタイ人、アリマスポイ人と呼び、他方、カスピア海の対岸の住民たちを、一方をサカイ人、他方をマッサゲタイ人と呼んでいたが、これらの人々について何ひとつ精確に言うことはできなかった――キュロスの対マッサゲタイ戦争を記録しているにもかかわらずである。いやそれどころか、これらの住民に関して真実をめざして何ひとつ精確になされたこともなく、ペルシアやメディア、あるいはシュリアの故事が、歴史編纂者たちの単純さや神話好きのせいで、たいして信頼に足るものとなることもなかった。[3]なぜなら、〔歴史編纂者たちは〕公然たる神話作家たちが好評を博しているのを眼にして、自分たちも快哉を得られる記述を提供できると思ったのである、見たこともなければ、聞いたこともない――あるいは少なくとも、見たことのある人たちから聞いたのでもない――事柄を、歴史の体裁をとって語るなら。そして、そのさいの狙いはただひとつ、聴衆の快哉と驚嘆を得られるということ、これのみであった。ひとは、ヘーシオドースやホメーロスといった英雄譚語りたちや悲劇作家たちなら、容易に信じることができるであろう――クテーシアスやヘーロドトースやヘッラーニーコスやそのほかそういった人たち〔の言うことを信じる〕よりは。
断片186
STRABON XII 3, 21。
ある人たちは〔Il. II 856"Halizonon"を〕"Alazonon"と書き換え、ある人たちは〔書き換えて〕"Amazonon"とする。それにともなって、「"Alybe"から」という句(Il. II 857)を、「"Alope"から」とか「"Alobe"から」と〔書き換えて〕、〔前者の"Alazonon"(主格"Alazones")とは〕ボリュステネース河対岸のスキュタイ・アリゾーネス人たちとか、カッリピダイ人たちとか、他にも――ヘッラーニーコスやヘーロドトスやエウドクソスがわたしたちにしゃべり続けてきた当の名を〔持つ民族〕だと主張し……
断片187a
STEPH. BYZ. "Hyperboreoi……"の項。
ヘッラーニーコスは"Hyperboreioi"と、二重母音で表記する。〔5F 1. 参照〕
断片187b
CLEM. ALEX. Sttom. I 15, 72, 2 p.46, 7 St[a]h:
ヒュペルボレオイ人たちは、ヘッラーニーコスの記録によれば、リパイ山地のかなたに住んでいるという。かれらが義しさを教えられたのは、肉食せずに、堅果を食するからである。この民族は、60歳に達した者たちを戸外に連れ出して抹殺する。
断片187c
THEODORET. Graec. cur. aff. XII 44。
というのも、ヘッラーニーコスは『歴史』の中で主張している、ヒュペルボレオイ人たちは――用いると。
断片187 異文
EPIT. (V) ET. M. p.426 Gaisf.:
エーリス。オリュムピアの向かいの都市。その地域もエーリスと言われる。民族は"Eleios"。ホメーロスは、エーリスを、エーリス人たち(Eleioi)ではなく、エペイオイ人たち(Epeioi)と主張する(Il. II 615 ff.)……<ヘッラーニーコスは、エウリュピュロスの子エーレイオスにちなんで、エーレイオイ人たちがエーリスを王支配したことから言われ、>その結果、エーリスにちなんで"Eleios"という語が導入されたのではなく、王と同じ名にされたのだという。
断片188
HARPOKR. "heiloteuein"の項。
イソクラテースが『祝祭演説(Panegyrikos)』において。すなわち、"heirotes"とは、ラケダイモン人たちの中の生まれついての奴隷なのではなく、ヘロスという都市に住んでいた者たちのうち、もともと劣等な連中だと、他に多くの人たちが証言しているが、ヘッラーニーコスも<第1巻>の中で。
断片189
PAP. OX. X 1241 col. V 2:
鉄製の武器を最初にこしらえたのは、ヘッラーニーコスの主張によれば、スキュティア人たちの王サネウノスだという。
断片190
PARADOXOGR. VATIC. ROHD. 36。
ヘッラーニーコスが主張するところによれば、インドにシッラと呼ばれる泉があり、ここに落ちるとどんなに軽いものでも水中に引きずりこまれるという。
断片191
PARADOXOGR. FLORENT. De aquis mir. 16 p.41 Oehler:
ヘッラーニーコスいわく、マグネーシアに近いシピュロス山上に泉あり、これより飲む者たちは、胃が石化すると。
断片192
PHOT. BEROL. lex. p.41, 16 Reitz. (BEKK. AN. 351, 12):
"athare"と"athera"と"athara"は同一だと主張されている。とは、"etnos"のように、調理され粥状になった小麦でできた食べ物である。"etnos"と異なるのは、"etnos"は豆や豌豆やそういったものが単に混ぜ合わされてこしらえられるが、"athare"の方は、上に述べられたとおり、小麦が調理され粥状にされて〔こしらえられる〕ところにある。この語の使用は、アッティカの作品に多い。……他の多くの人たちでは、語尾は<α>で、〔この単語の〕真ん中は<η>の場合が多い。ヘッラーニーコスもソープローン(F 77 Kaib.)もそういうふうに用いている。
断片193
同 p.104, 10 (Suid. s.v.):
"amphisbata"。"amphisbetesima"〔「異論の余地あることがら」の意〕。ヘッラーニーコス。
断片194
同 p.132, 19。
"anexeureta"。トゥキュディデースが<第3巻>〔87, 3〕の中で。"anexeuretos arithmos"〔確認しがたい数〕。ヘッラーニーコスもそういう意味で使っている。
断片195a
PLIN. NH VII 154:
ヘッラーニーコスはアエトリアのエピイ氏族には200歳に達する者が何人かいると言っているが、これはエピイ氏族の一人で、身体も体力も抜群であった男ピクトレウスは、300歳も生きたというダマステスの記録によって支持されている。
断片195b
VALER. MAX. VIII 13 ext. 6:
〔未訳〕
断片196
SCHOL. AOLL. RHOD. II 711。
パルナッソス山が名づけられたのは、土地の英雄パルネーッソスにちなんでだと、ヘッラーニーコスが。アンドローン(10 F 8)は、デウカリオーンの櫃(larnax)が漂着したからだ。だから昔は、ラルナッソスとも呼ばれていたと。
断片197
SCHOL. V ARISTOPH. Pac. 70 (SUID. "anerrichonto"の項)
両手両足に力をこめて高みに登ることを"anarrichasthai"と言った。ヘッラーニーコス。<「猿たちのように木のてっぺんによじ登る(anarrichontai)」>。
断片197 異文
SCHOL. EUPHORION. Hippomed. (ed. Norsa-Vitelli Ann. della Scuola Norm. sup. di Pisa 4, 1935, p.7):
(Ainosは)かつてはポルテュムブリア(Poltymbria)と呼ばれていたが……今度は……この地の王の子ポルテュスにちなんでポルテュムブリアと呼ばれたと、ヘッラーニーコスが。
断片198
STEPH. BYZ. "Aipeia"の項。
ラコーニケー地方の都市……キュプロスの都市も同様。『クレーテー人』<第3巻>と、ヘッラーニーコスによる。
断片199
STEPH. BYZ. "Gela"の項 (SCHOL. THUKYD. VI 4, 3)。
シケリアの都市……ゲラス河にちなんで呼ばれる、この河は、おびただしい霜(pache)を発生させるからである。というのは、これ〔霜(pache)〕はオピコイ人たちやシケリア人たちの方言で"gela"と言われるからである。しかしプロクセノスは、『シケリア人たちの赤色について』第1巻の中で、またヘッラーニーコスも、アイトネーとヒュマロスとの子ゲローンにちなむ〔という〕。アリスタイネトスは、『パセーリアについて』の第1巻のなかで、ラキオスとアンティペーモスという兄弟がデルポイに赴いて占ってもらったところが、ピュティアはそのことについては何も言わず、ラキオスに、日の出の方に航行するよう命じた。そこでアンティペーモスが笑ったところ、ピュティアは今度は、「日没の方に〔航行し〕、そして都市を建設せよ」と言ったという。
断片200
STEPH. BYZ. "Karia"の項
……コース島はカリスKarisと言われたと、ヘッラーニーコスが。
断片201
同 "Spalethre"の項。
テッサリアの都市。しかしヘッラーニーコスは、この都市をSpalathraと主張する。
断片201 異文
P. Giessen 307v(ed. H. Eberhart Schriften der Hess. Hochshulen, Univ. Giessen, 1935, Heft 2 p.19ff.)//1-2]
断片201 ter
NATAL. COM. Myth. 7, 2(p.706 ed. Genev.):
断片202
JOSEPH. AJI 107(EUS. P E IX 13.p.415D):
ヘーシオドス、ヘカタイオス(1 F 35)、ヘッラーニーコス、アクウシラオス(2 F 46)、これに加えてエポロス、ニコラオスは、1000年間を探求した古人たちを記録している。
断片1〔断片38に同じ〕
SYNAG. LEX. p.444, 1 Bkr
アレイオス・パゴス。アテーナイの法廷……アレイオウス・パゴス〔「アレースの丘」の意〕と呼ばれたのは、裁判所が丘に、それも天辺にあるからであり、「アレスの」というのは、アレースが殺人事件にかかわって、その殺人事件を裁くからであるか。あるいは、ハリッロティオスが、自分〔アレース〕と、ケクロプスの妻アグラウロスとの間にできた娘アルキッペーに暴行を働こうとしたのを、〔アレースが〕殺害したため、ハリッロティオスのためにポセイドーンを相手にした裁判で、そこに長柄を突き立てたからであるとは、ヘッラーニーコスが第1巻の中で主張するところである。
断片2〔断片39に同じ〕
HARPOKR. "Panathenaia"の項。
デーモステネースが『ピリッポス伝』(4, 35)の中で。アテーナイでは二つの"Panathenaia"が執り行われた、ひとつは毎年、もうひとつは第5年目ごとに、後者は大祭とも呼ばれた。イソクラテースが『パンアテーナイア祭』(12,17)で……「この祭りを最初に執り行ったのは、ヘーパイストスの子エリクトニオスだとは、ヘッラーニーコスとアンドロティオーン(324 F 2)とが、それぞれ『アッティス』第1巻の中で主張しているとおりである」。これ以前には、アテーナイア祭と呼ばれていたとは、イストロスが『アッティカ誌』第3巻(334 F 4)の中で明らかにしているところである。
断片3〔断片40に同じ〕
HARPOKR. "Phorbanteion"の項。
ヒュペレイデースが『パトロクレースたち弾劾』(F 145 BI-Je.)の中で。アテーナイのポルバンテイオンは、ポルバス――クウレーテース人たちを王支配し、エレクテウスによって亡き者にされた――にちなんで名づけられたということは、アンドローンが『同族たち』第7巻(10 F 1)の中で明らかにしている。「ポルバスはポセイドーンの息子だったと、ヘッラーニーコスが『アッティス』第1巻の中で主張しているとおりである」。
断片4〔断片41に同じ〕
PHOT. BEROL. p.53, 21 Rei(SYNAG. LEX. p.362, 24 Bkr):
ハイモン(Haimon)とは、いずれにしても山ではない。ヘカタイオスは全巻を通じて(1 F 167)、ディオニュシオス(687 F 3)も、ヘッラーニーコスも『アッティス』第1巻の中で、ティマイオス(566 F 76)も、エウドクソス(p.75 Gis.)も。
断片5a〔断片42aに同じ〕
HARPOKR. (SUIDA; SCHOL. DEMOSTH. 18, 107a) "Mounychia"の項。
デーモステネースが『クテーシポーン弁護』(18, 107)の中で。アッティケーの沿海岸地方。ヘッラーニーコスは『アッティス』第2巻の中で、パンタクレースの子ムウニュコスという王にちなんで名づけられたと主張している。
断片5b〔断片42bに同じ〕
SCHOL. DEMOSTH. 18, 107b:
ムウニュキアはペイライエウス周辺の地域、ここにムウニュキア・アルテミスの神域がある……ムウニュキアと呼ばれたのは、ヘッラーニーコスの作品を引用したディオドーロス(372 F 39)の主張では、次のように言っている――あるときトライケー人たちがボイオーティアのミニュエイオス・オルコメノスの住民たちのところに出征して、彼らをそこから駆逐した。追い出された者たちは、ムウニュコス王治世のアテーナイにたどり着いた。王は彼らにこの土地つまりムウニュキアを委ねた、だから、彼らの間では王を讃えてそういうふうに名づけられたのであると。
断片6〔断片43に同じ〕
HARPOKR. "Alope"の項。
リュクウルゴスが『神事について』(F 33 Bl)の中で。〔アロペーは〕ケルキュオーンの娘で、彼女とポセイドーンとから、ヒッポトーンティス部族の名祖ヒッポトオーンが生まれたとは、ヘッラーニーコスが『アッティス』第2巻の中で、またエウリピデースも同名の劇(p.389 N2)の中で、さらにデイナルコスも『パレーロン人たちの争訟』(XIX Tur)の中で。
断片7*〔断片44に同じ〕
HARPOKR. "Pegai"の項。
アンドキデース――真作とするならばだが――が『平和について』(3, 3)の中で。「ペーガイはメガラの地方だとは、『アッティス』第2巻の中でヘッラーニーコスが」。
断片8〔断片45に同じ〕
HARPOKR. "Hierophantes"の項。
ヒュペレイデースがどこかで(F 198 BI-Je)主張している、「わたしの娘は、"daidouchos"〔「松明持ち」の意〕の娘でも、"Hierophantes"の娘でもない」。デイナルコスは『クロコーニダイの争訟』(LXXXIV b 2 Tur)の中で、神域(ta hiera)を戦争から回復させてみせた人(apophaenas)が初めて"Hierophantes"と名づけられたと主張する。「"Hierophantes"たちの素性については、ヘッラーニーコスが『アッティス』第2巻の中で明らかにしている」。
断片9〔断片46に同じ〕
HARPOKR. (SUDA) "Stephanephoros"の項。
アンティポーンが『ニコクレウスに対して』(F 44 BI)の中で。"Stephanephoros"の英雄廟というのが、どうやら、アテナイにあったらしい。しかし、"Stephanephoros"というのは、ヘーラクレースと、テスティオスの娘たちとから生まれた息子たちの一人で、ヘッラーニーコスが『ポローニス(Phoronis)』第2巻(4 F 3)のなかで言及している人物であるか。あるいは、「"Stephanephoros"というアッティカ人の英雄廟というのは、同じヘッラーニーコスが、やはり『アッティス』第<2>巻の中で言及している」けれども、存在しなかったかである。
断片10a〔断片47aに同じ〕
(AFRICANUS-) EUSEB. P. E. 10, 10, 7。
これ(sc. オリュムピア紀年)以前のことをアッティカ年代法で計算する場合、オーギュゴス――彼らの間では大地から生まれた者と信じられていて、彼の時代にアッティカで大きな最初の洪水が起こったが、それはペローネウスがアルカディア人たちを王支配していたときでもあるとは、アクウリラオス(2 F 23)が記録しているところである――から、第1回オリュムピア年……まで、合わせて1020年となる……[8]このことは、アテーナイの歴史を記録した人たち、つまりアッティスを著したヘッラーニーコスやピロロコス(328 F 92)、シュリア誌を著したカストール(250 F 7)やタッロス(256 F 4)、全体の歴史を『歴史叢書』として著したディオドーロス、アレクサンドロス・ポリュイストール(273 F 101)……[14]
断片10b〔断片47bに同じ〕
[JUSTIN.] Cohort ad Graec. 9:
そしてアテナイ誌を記録したのは、ヘッラーニーコス、アッティス作家のピロコロス、カストールとタッロス、アレクサンドロス・ポリュイストール、なお、さらに、最高の賢者ピローンとイオーセーポスとは、ユダヤ人たちの歴史を記録した人たちである、すこぶる古い昔のユダヤ人たちの支配者モーセに言及しているのだから。
断片11〔断片48に同じ〕
HARPOKR. "Erythraioi"〔エリュトラ人たち〕の項。
デーモステネースが『ピリッポス伝』<7>(8, 24)の中で。「都市はイオーニアにある"Erythra"で、コドロスの子ネーレウスによって建設された都市のひとつだとは、ヘッラーニーコスが『アッティス』の中で主張しているところである」。
断片12 〔欠番〕
断片13〔断片163に同じ〕
SCHOL. V ARISTOPH. Aves 873:「もはやコライニスではなくて」
「ヘッラーニーコスの主張では、コライノスはヘルメースの子孫で、占いにしたがってアルテミス・コライニスの神域を築いたという」。パノデーモスも第3巻(325 F 3)のなかで。エウプロニオスの主張では、コライニスが〔エウボイアの〕アマリュントスにまします所以は、この地でアガメムノーンが女神に角のない牡羊(krios kolos)を供犠したからという。この女神についてはカッリマコス(F 76 Schn; 200b Pf))の言うには、「神話によれば、"hogamemnon"〔?〕をこの女神に捧げ、また、無尾・一眼の動物が供犠された」。これは、決して粗略にしたのではない。というのは、ミュッリヌウス区民はコライニスをアルテミスの添え名としているからである、ペイライエウス区民がムウニュキアを、ピライダイ区民がブラウローニアを〔アルテミスの添え名とする〕ように。
断片14〔断片164に同じ〕
PULTARCH. Thes. 17, 3:
ヘッラーニーコスが主張するところでは、籤引きで当籤した男たちや当籤した女たちをこの都市〔アテナイ〕が送り出したのではなく、ミノース自身がその場にいて選び出したのであり、取り決めどおりまず誰よりも真っ先にテーセウスを選んだのだという。そしてその取り決めとは、ひとつ、船はアテナイ人たちが提供すること、ひとつ、未婚者たちは、「アレースの武具」を何ひとつ携行せずに彼といっしょに乗船して航海すること、ひとつ、ミノタウロスが失せたとき、この賠償(poine)も終了するというものであったという。
断片15〔断片165に同じ〕
PLUTARCH. Thes. 25, 5:
また〔sc. テーセウスが〕この競技〔イストミア祭〕を初めて開設したのは、ヘーラクレースに対する対抗心からで、〔ヘラス人たちが〕後者〔ヘーラクレース〕のおかげでゼウスを讃えるためにオリュムピア祭を挙行するようになったのと同様、自分のおかげでポセイドーンを讃えるためにヘラス人たちがイストミア祭を挙行するようにとの愛名心にかられたからである。〔テーセウスが創設した〕というのは、メリケルテス〔テーバイ王アタマスとカドモスの娘イノの子で、王家の紛争から母子ともに海に飛びこみ、その屍体がイストモスにあがったので、コリントス王シシュポスがそれを記念して競技を始めたという〕を記念してここで始められた競技は、じつは、夜間に執り行われ、観物や祭典の次第よりもむしろ秘儀的宗教儀式(teletes)の体裁を具えていたからである。けれども、ある人々の主張では、イストミア祭の起こりはスケイローンにちなみ、テーセウスが同族のよしみで〔スケイローンの〕殺人の汚れを浄めようとしたのだ。すなわち、スケイローンはカネートスと、ピッテウスの娘ヘーニオケーとの息子であったというのである。しかしある人々は、〔カネートスとヘーニオケーとの息子は〕シニスであって、スケイローンではない、だから、この競技は前者のためにテーセウスによって始められたのであって、後者〔スケイローン〕のためではないという。<それはとにかく、〔テーセウスが〕コリントス人たちと取り決めをして定めたことは、イストミア祭にやってくるアテナイ人たちのために、来賓席(proedria)を、見物の船の帆が広げられたときの広さだけ、提供するということである、>これはヘッラーニーコスと、ハリカルナッソスのアンドローン(10 F 6)が記録しているところである。
断片16a〔断片166に同じ〕
PLUTARCH. Thes. 26, 1:
〔テーセウスが〕黒海に船を乗り入れたのは、ピロコロス(328 F 110)やその他何人かの人々のいうところでは、ヘーラクレースとともに、アマゾン女人族を征服するためで、最も善勇の士の報酬として、アンティオペーを手に入れたという。しかし、ある人たち――ここにはペレキュデース(3 F 151)やヘッラーニーコスやヘーロドーロス(31 F 25)が含まれる――の主張では、ヘーラクレースの後の時代に、テーセウスは自分の船で航海して、このアマゾンの女を捕虜として手に入れたのだと言っているが、こちらの方がより説得的である。というのは、彼〔テーセウス〕といっしょに遠征した人々のうち、アマゾンの女を捕虜として手に入れた者は、他には誰も記録されていないからである。
断片16b〔断片107に同じ〕
SCHOL. TZETZ. Antehom. 23 p.8 Schirach:
アマゾネス〔アマゾン女人族〕とは、何に由来するのか? 弓射の邪魔にならぬよう、右乳房を切り取ったからという。これは嘘である。〔そんなことをしたら〕、死んでしまうだろう。ヘッラーニーコスやディオドーロス(2, 45, 3)の主張によれば、〔乳房が〕大きくなる前に、大きくならないように、彼女らは鉄で焼灼するのだと。
断片17a〔断片167aに同じ〕
PLUTARCH. Thes. 27, 1:
ところで、このことがアマゾン族の戦争の口実となった。そしてその仕事は、彼〔テーセウス〕にとってはつまらぬことでないのはもちろん、女のするようなことでもなかったようである。というのは、市域の中に布陣するなどということがなかったのはもちろん、プニュクスやムウセイオンの近辺で、白兵戦を演じるということもなかったであろう――もしも彼女らが〔まわりの〕地方を制圧して、難なくこの都市に襲来することがなければ。たしかに、ヘッラーニーコスが記録しているように、彼女らがキムメリアの凍りついたボスポロスを渡ってやって来たのかどうかということは、信じがたいところである。けれども、彼女らがこの都市のほとんど中央部に野営したことは、もろもろの場所の名前によっても戦没者たちの墓標によっても立証される。しかし、戦端を開くことについて長い間、両軍に躊躇逡巡があった。が、ついにテーセウスは、ある神託にしたがって、「恐怖(Phobos)」に血祭を捧げてから、彼女たちと交戦した云々。(323 F 18)
断片17b〔断片167bに同じ〕
SCHOL. TZETZ. LYK. AI. 1332:
この人も主張しているところでは、帯のせいで彼女たちはアテーナイ攻撃に出征したという。「しかし、レスボス人ヘッラーニーコスの主張では、キムメリコス・ボスポロスが凍結したとき、これを渡って、アッティカの地に進入し、4ヶ月間戦争をして、引き上げた(=クレイデモス)。その理由は言っていない」。
断片17c〔断片167cに同じ〕
SCHOL. TZETZ. Posthom. p.7 Schi:
歴史家たちのうちヘッラーニーコスは言う。キムメリコス・ボスポロスがかつて/凍結したとき、アマゾネスの一大部隊が押し渡って進入してきた、/黄金の楯、銀の戦斧に身を固めた、男好きの、男子殺しの雌が。/ 戦闘の洗礼を浴びせかけた。/これが、その祖国がレスボスであるヘッラーニーコスが〔言っていることである〕。
断片18〔断片168aに同じ〕
PLUTARCH. Thes. 31。
<すでに齢50歳になってから〔テーセウスは〕、ヘッラーニーコスの主張では、>結婚適齢期にも達していないヘレネーをめぐる事件を起こしたという。そこで、この最大の非難を修正しようとして、ある人々の言うには、ヘレネーを掠奪したのは当人ではなく、イダスとリュンケウスという略奪者たちからの預かりもの受け取って保護した……あるいは、神かけて、……テュンダレオースから、彼〔テーセウス〕が引き受けたのだという。[2]しかしながら、尤もらしいのは、そして最も多くの証人たちを有するのは、次のような話である。すなわち、彼ら両名〔テーセウスとペイリトウウスと〕がスパルテーに行って、アルテミス・オルティアの神殿で踊っていた乙女(kore)を掠奪して逃げた。ところが、その追跡に遣わされた者たちは、テゲアよりも遠方には跡をつけてゆかなかったので、〔二人は〕怖い目に遭うことなく、ペロポンネーソスを通過してから、取り決めを結び、籤に当たった方がヘレネーを妻にとり、相手のために別の結婚に協力することにした。[3]こういう同意をした上で籤引きをしたところ、テーセウスが当籤したので、まだ結婚の適齢期にもなっていない処女(parthenon)を引き取り、アピドナイに連れて行き、〔自分の〕母を彼女につけて、友だちのアピドノースに引き渡し、〔二人を〕守って、他の連中に気づかれないようにするよう言いつけた。[4]そして自分はペイリトウウスに奉仕のお返しをするため、エーペイロスへといっしょに出郷した。狙いはモロッソイ人たちの王アイドーネウスの娘だが、この王は、妻にペルセポネーという名前をつけ、娘にはコレー、犬にはケルベロス〔という名前をつけて〕、少女の求婚者たちはこの犬と戦い、勝った者が〔少女を〕手に入れられると命じていた。[5]ところが、ペイリトウス一行が、求婚者としてではなく掠奪者としてやって来たと聞き知って、二人を引っ捕らえ、ペイリトウスの方はすぐに犬に喰わせ、テーセウスの方は投獄して見張らせた。
断片19〔断片168bに同じ〕
SCHOL. LYKOPHR. Al. 513。
<ヘッラーニーコスの主張では、ヘレーンは7歳でテーセウスに掠奪されたという。>ドゥリス(76 F 92)が言うには、彼女はイーピゲネイアを産んでからもどされたという。
断片20〔断片134に同じ〕
SCHOL. A HOM. Il. III 144。「ピッテウスの娘アイトレー」
このアイトラは、テーセウスの母親とは別人である。なぜなら、義理の母とみなされるアイトラが、召使い女のようにヘレネーのお付きとなるのは屈辱であろうから。ヘッラーニーコスの記録によれば、ペイリトゥスとテーセウス――前者はゼウス〔とアイトラと〕の子、後者はポセイドーン〔とアイトラと〕の子――は、ゼウスの娘を娶ろうと申し合わせた。そして、若いヘレネーを略奪してアッティケーのアピドナ〔区〕に連れてきて、ピッテウスの娘すなわちテーセウスの母親アイトレーに預けた。そうして〔今度はペイリトゥスのために〕ハデスの館のペルセポネーのもとに〔ペルセポネーを略奪するために〕赴いた。この間に、〔ヘレネーの兄弟の〕ディオスクウロイは、妹〔ヘレネー〕を取り返したのではなく、アッティケーを蹂躙して、アイトラを捕虜にしたのである。
断片21a〔断片143に同じ〕
SCHOL. EURIP. Hek. 123。「アテーナイの、テーセウスの二人の若枝〔アカマースとデーモポーン〕」
テーセウスの子どもたちが、一部の人たちの主張では、イリオンに出征したのは、指揮官としてではなく、攻守同盟のゆえでもなく、アイトラを奪われた者としてである。だからホメーロス(Il. II 552)が、アテーナイ勢を嚮導せしはメネステウスというのもそのためである。じっさい、『キュクロス』の作者ディオニュシオスは(15 F 5)主張する。「テーセウスの子デーモポーンは、ティッテウスの娘にして、〔自分の〕父親〔テーセウスの〕母親であるアイトラを、自分たちが家郷へ連れ帰れるよう、自分たちに与えるよう頼んだ。が、メネラオスは、タルテュビオスに、アイトラを連れてゆくよう命じて、ヘレネーのもとに送った。するとヘレネーは、さまざまな飾りを贈り物にもらったので、アイトラをデーモポーンとアカマスのもとに送り届けた。<ヘッラーニーコスの主張では、彼らが出征したのは、イリオンを攻略した場合は、戦利品として彼女をとるため、さもなければ、贈り物によって人質交換するためであった。しかし彼ら〔テーセウスの子どもたち〕は、メネステウスに支配されることを望まなかったので、亡命した。かくて、エウボイアのアバースの子カルコドーンの子エレペーノールのもとにいたのである>。
断片21b〔断片152aに同じ〕
CLEM. AL. Strom. 1, 104, 2:
<ヘッラーニーコスは、タルゲーリオーン月の第12日目に(scil. トロイアは攻略されたと主張する)。また、アッティカ誌を編纂した人たちのうち何人か(329 F 3)も、第8月、ムネステウスが王位にあった最後の年、満月の夜……。
断片21c〔断片152bに同じ〕
TZETZ. Posthom. 770:
タルゲーリオーン月の12日に……しかして夜は真夜中、月煌々と照れり……聞こえも高きアテーナイの聖なるカリストー〔大熊座〕は、……むなしき季節、むなしき夜、とレスボス人ヘッラーニーコスは歌っている、彼とともにドゥウリスも、トロイアをアカイオイの全軍が攻略した、と。
断片22a〔断片169aに同じ〕
SCHOL. EURIP. Or. 1648。
アレイオス・パゴスにおけるオレステースの裁判については、ヘッラーニーコスも記録して次のように書いている。<ラケダイモーンから出向いてきた者たちとオレステースとに、アテーナイ人たちは…〔欠損〕…提示した。最終的には、両者とも賛同したので、アテーナイ人たちは裁きを確定したが、それは、ハリッロティオスをめぐるアレースとポセイドーンとの裁判より9世代後のことである。また、デーイオネウスの子ケパロス――この人物は、エレクテウスの娘プロクリスを妻に娶ったものの〔これを〕殺害したが、アレイオス・パゴスで[裁かれて]追放刑に処せられた――その裁判から、6世代後。ダイダロス――知恵を競って甥のタロースを陰険な殺害方法で殺し、追放刑を受けた――に対する裁判から3世代後に、テュンダレオースの娘クリュタイムネーストラのアガメムノーン殺害の裁判がオレステースによって起こされた>。
断片22b〔断片169bに同じ〕
同 1651 「アレイオス・パゴスにおいて」
ここで最初に、アレースとポセイドーンとが争訟した。次いで、3世代後に、デーイオネウス〔正しくはデーイオーン〕の子ケパロスが、妻のプロクリスの件で。さらに3世代後、ダイダロスが甥のタロースの件で。それからさらに3世代後、オレステースが〔争訟した〕と、ヘッラーニーコスが。
断片23〔断片125に同じ〕
SCHOL. T PLATON. Symp. 208 D:
[1]<コドロスはデウカリオーンの末裔だったとは、ヘッラーニーコスの主張するところである>。なぜならヘッレーンは、デウカリオーンとピュッラから、しかし一部の人たちによれば、ゼウスとピュッラから、生まれたからである。そして、ヘッレーンとオトレーイスとから、クスウトス、アイオロス、ドーロス、クセノパトラが生まれた。さらに、アイオロスと、ペーネイオス〔河神〕の娘イピスとから、サルモーネウスが。サルモーネウスとアルキディケーとから、テュローが。この娘〔テュロー〕とポセイドーンとから、ネーレウスが。ネーレウスとクローリスとから、ペリクリュメノスが。ペリクリュメノスとペイシディケーとから、ボーロスが。ボーロスとリュシディケーとから、ペンティロスが。ペンティロスとアンキッロエーとから、アンドロポムポスが。アンドロポムポスと、ハルメニオス――この〔ハルメニオスは〕ゼウクシッポスの子、〔ゼウクシッポスは〕エウメーロスの子、〔エウメーロスは〕アドメートスの子である――の娘ヘーニオケーとから、メラントスが〔生まれた〕。この〔メラントス〕は、ヘーラクレース一族が攻め寄せたとき、メッセーネーからアテーナイへと撤退したが、この彼に生まれた子がコドロスである。[2]後世、ボイオティア人たちとアテナイ人たちとの間にいさかいが、ある人たちによればオイノエーとパナクトスあたりで、またある人たちによればメライナあたりで、生じたとき、ボイオティア人たちは、王みずからが危険に挺身し、領土をかけて一騎打ちで決着をつけることを要求したところ、ボイオティアの王クサンティオスは受け入れたが、アテナイの王テュモイテースは拒否し、一騎打ちを望む者に、支配権を譲ると言った。するとメラントスが、自分と自分の末裔がアテナイを王支配するべくこの危険の代理に立ち、武装して進み出た、そしてクサンティオスの近くに来たとき、こう言った、「不正なり、おおクサンティオスよ、別人といっしょになってわしにかかってきて、合意したとおり一人でないとは」。クサンティオスがこれを聞いて、振り返り、誰が自分についてくるのか見ようとした、その振り向いたところを、撃ち殺し、アッティケーの王となった。ここから、領土を制覇したアテナイ人たちによって、祭礼を挙行することが決定されたが、この祭礼が、むかしはアパテーノール祭、後にはアパトゥリア祭と呼ばれたのは、騙し討ち(apate)が行われたことにちなむ。[3]このメラントスからコドロスが生まれ、王位を引き継いだ。このコドロスは祖国のために次のような仕方で死んだ。ドーリエウス人たちとアテーナイ人たちのとの間に戦争が起こったとき、神は、コドロス王を殺害しなければ、アテーナイを攻略できようとドーリエウス人たちに託宣した。これを知ったコドロスは、樵のようなみすぼらしい姿に身をやつし、鎌をとって、敵勢の防柵のところまで出かけていった。二人の敵兵が彼に近づいてきたとき、その一人を殴り倒し、もう一人に、相手が誰かも知らぬまま、殺され、かくて子どもたちの年長のメドーンに支配権を残したのである。これより若いネーレウスは、イオーニア12市の建設者となった。ここからして、コドロス一族の生まれのよさはアテナイ人たちのもとで諺として流布していると言われる。きわめて生まれがよい人という意味で、「コドロスよりも生まれよき人」と。
断片24a〔断片170aに同じ〕
[PLUTARCH.] Vitae X Orat. 834 B (PHOT. Bibl. 261 p.488 a 23):
アンドキデースの父はレオーゴラス。レオーゴラスの父アンドキデースは、かつて〔前446年〕ラケダイモーン人たちとアテーナイ人たちとの和平協定を締結した人物。区はキュダテーナイ区か、トレウス区民、生まれは貴族階級(エウパトリダイ)に属すると、ヘッラーニーコスはヘルメースにさえ系譜づけている[というのは、ケーリュクス家の生まれを彼に帰しているから]。それゆえ、かつて挙手採決で選ばれて、グラウコーンとともに艦船20艘を引き具して、コリントスに離反したケルキュラ救援に赴いたことがある。しかしその後、自らもヘルメス神像そ毀損し、デーメーテールの秘儀に対して過ちを犯したとして、不敬の罪に問われ、このために不正者たちを密告したかどで亡命した。
断片24b〔断片170bに同じ〕
PLUTARCH. Alkib. 21, 1。
ところで、当時、捕縛されて、裁きのために投獄されていた者たちの中に、<弁論家アンドキデースもいたが、歴史編纂家ヘッラーニーコスは彼をオデュッセウスの末裔に系譜づけている>。
断片24c〔断片170cに同じ〕
SUID. "Andokides"の項。
レオーゴラスの息子にして、<オデュッセウスの子テーレマコスとナウシカとの子孫だと、ヘッラーニーコスが主張している>。
断片25〔断片171に同じ〕
SCHOL. RV ARISTOPH. Ran. 694。「プラタイア人たちが、すぐさま、奴隷に代わって主人になるとは」
(アルギヌウサイでの海戦で)いっしょに海戦をたたかった奴隷たちは、ヘッラーニーコスの主張によれば、自由人に列せられ、プラタイア人として登録され、自分たち〔アテナイ人〕の同市民とされたという。カッリアスの前任のアンティゲネースの時のこととして詳述している。
断片26*〔断片172に同じ〕
SCHOL. V ARISTOPH. Ran. 720。「古鋳貨幣も新金貨も同じに」
<前年のアンティゲネースの時に、ヘッラーニーコスの主張では、金貨を鋳造したという>。ピロコロス(328 F 141)も、同じように、黄金の勝利の女神像からなる〔金貨〕だという。
断片27〔断片161に同じ〕
HARPOKR. "autochthones"〔地生えの者たち〕の項。
アテーナイ人たちのこと。デーモステネースが『似非使節について』(19, 261)の中で、「万人のなかで、あなたがただけが"autochthones"である」。アポッロドーロスは『神々について』(244 F 106)の中で、彼らが"autochthones"と呼ばれるのは、主張する、"chthon"すなわち大地を、荒野であったのを最初に耕したからだ、と。ピンダロス(F 253 Schr)と詩人のダナイス(F 2 Ki)は主張する――ヘーパイストスの子エリクトニオスは、大地から現れたと。<しかし、autochthonesであるのは、ヘッラーニーコスの主張では、アルカディア人たちもそうであり、アイギナ人たちもテーバイ人たちもそうである>。
断片28〔断片183に同じ〕
PLUTARCH. De Herod. mal. 36 p.869 A:
すなわち、ナクシオイ人たちは、三段櫂船3艘を、異邦人たちとの共闘用に派遣したが、三段櫂船指揮官の一人デーモクリトスが、ヘッレネスたちの味方を選ぶべしと説得したのである〔Herod. VIII 46, 3〕。かくのごとく、彼〔ヘロドトス?〕が知っていたのは、非難することなしに賞賛するということではなく、一人の人間がたたえられるには、国家全体や民衆が悪く言われるのを聞かねばならないということであった。ただし、彼に反証しているのは、年長者のうちではヘッラーニーコス、若年者のうちではエポロスで、ナクシオイ人たちが自らヘッレネス加勢に赴いたのは、前者は、艦船6艘で、後者は、5艘で、と記録している>。
断片29〔断片188に同じ〕
HARPOKR. "heiloteuein"の項。
すなわち、"heirotes"とは、ラケダイモン人たちの中の生まれついての奴隷なのではなく、ヘロスという都市に住んでいた者たちのうち、もともと劣等な連中だと、他に多くの人たちが証言しているが、ヘッラーニーコスも<第1巻>の中で。
断片1〔断片52に同じ〕
HARPOKR. "tetrarchia"の項。
……テッタリアには4つの部分があって、それぞれの部分が1/4(tetras)と呼ばれていたとは、ヘッラーニーコスが『テッタリア誌』のなかで主張するところである。彼の主張では、1/4の名前は、テッタリオーティス、プティオーティス、ペラスギオーティス、ヘスティアイオーティスである。アリストテレースも、『テッタリア人たちの共通の国制』の中で主張している、――テッタリアが4つの部分に分割されたのは、赤毛のアレウアスの代だと。
断片2〔断片52 bisに同じ〕
NATAL. COM. Myth. 9, 4(p.951 ed. Genev.):
〔未訳〕
断片1〔断片53に同じ〕
ATHENAI. 11, 46 p.470 D:
ヘッラーニーコスは『エジプト誌』の中で次のように書いている。<「エジプト人たちの家には、青銅製のphiale、青銅製のkyathos、青銅製のethanionがそなえられている」>。
断片2〔断片54に同じ〕
ATHEN. 15, 25 p.679F-680C:
アイギュプトスのいつまでも咲いている花冠については、ヘッラーニーコスが『アイギュプトス誌』の中で次のように書いている。<「河畔に都市あり、この都市の名はティンディオン、神々の寄り合い場である。この都市の中央に、大きな聖なる石造神殿があり、門扉も石造である。神殿の中には、白いアカンタ(Acacia albida)と黒いアカンタ(Acacia arabica)とが生えている。これらの樹の上方に花冠がかぶせられているが、〔その花冠は〕アカンタの花、ザクロ[の花]、ブドウで編まれたものである。しかも、この花冠はいつまでも咲いている。この[花冠]を神々がアイギュプトスに預けたのは、バビュス〔正確には"Bebon=Typhon-Seth"〕が王支配すると聴いたからである。〔バビュス〕とはテュポーンのことである」>。
やはり上述のヘッラーニーコスが、アマシスもアイギュプトスを王支配したが、それは、平民で、それも人生の最初期はどこにでもいるようなありきたりの男であったにもかかわらず、花冠の贈り物によってであるという。つまり、この上なく華麗に咲き誇る季節の花で花冠を編んで、当時アイギュプトスを王支配していたパタルミスに誕生祝いとして届けたのである。パタルミスは花冠の美しさを喜び、アマシスを食事に呼び、その後も、彼を友の一人とし、アイギュプトス人たちが自分に対して開戦したときは、将軍として派遣したこともあった。その〔アイギュプトス人たち〕によって、パタルミスに対する〔アイギュプトス人たちの〕憎悪ゆえ、王として宣言されたという。
断片3〔断片26に同じ〕
ARRIAN. Diss. Epict. 2, 19, 13/4:
存在するものらのうち、あるものらは善く、あるものらは悪く、あるものらは異ならない〔善でも悪でもない〕……――どこからわかるか?――ヘッラーニーコスが『アイギュプトス誌』の中で言っている。
断片4〔断片173に同じ〕
DIOD. I, 37, 2。
総じて、ナイル河の増水や水源、さらにまた、海への流入や、その他、他の河川と違ってこれが有する相違点については……[3]ヘッラーニーコスやカドモス(489 F 1)派の人たち、さらにまた、ヘカタイオス(1 F 302)派や、彼らに類したまったく古い人たち全員が、神話的説明に傾いている。
断片5〔断片174に同じ〕
ANTIGON. Hist. mir. 126。
レスボス島人ヘッラーニーコスが『エジプトのテーバイ』の中に観察記録しているところでは、町に洞穴があり、そこでは30日間だけ風が吹き、ほかの日は無風だという。
断片6〔断片175に同じ〕
ATHEN. 1, 61 p.34A:
キオス人テオポムポス(115 F 277)は、ブドウはオリュムピアのアルペイオス河畔で発見されたと記録しているという……しかしヘッラーニーコスの主張では、ブドウが最初に発見されたのは、アイギュプトスのプリンティネーという都市でだという。
断片7〔断片176に同じ〕
PLUTARCH. De Is. 34 p.364 D:
ディオニュソスのことをもヒュレーと(scil. ヘラス人たちは呼ぶ)、湿り気の自然本性の支配者だからであるが、オシリスに異ならない。というのも、オシリスのことが、ヒュシリスと神官たちに呼ばれているのをヘッラーニーコスは聞いたことがあるらしい。だからして、この神をそういうふうに呼び続けたわけだが、その自然本性と発現の仕方からして当然である。
断片1〔断片56に同じ〕
ATHEN. 14, 66 p.652A:
またヘッラーニーコスも、『アムモーン神殿紀行』の中で――この著作が彼の真作ならばだが――、その果実をポイニクス〔ナツメ椰子〕と呼んでいた。
断片1a〔断片56に同じ〕
STEPH. BYZ. "Artaia"の項。
ペルシアの領地で、これはペルセウスとアンドロメダとの子ペルセースが都市化した。ヘッラーニーコス『ペルシア誌』第1巻の中。住民はアルタイオイ。ペルシア人たちは、ヘラス人たちと同じように、昔の人間[英雄たち]をアルタイオイと呼ぶ。ここからしてすぐに、アルタクセルクサイとかアルタバゾイとかがわたしには思い出される。アイギュプトス人たちのところに、ネイラムモーネスとかパンタポッローネスとかがいるように。ヘーロドトス〔第1巻125〕は、彼らをイプシロン(ε)をつけてArteataiと呼ぶ。
断片1b〔断片59に同じ〕
同 "Chaldaioi"の項。
昔のケーペーネス人たちで、アンドロメダの父親ケーペウスの末裔、アンドロメダとペルセウス――ダナエーとゼウスとの子――とから、ペルセースが生まれ、ペルセースからケーペーネス人たち、つまり、いわゆるペルシア人たちはその昔カルダイオイ人たちと呼ばれたと、『ケーペウス一族』という書の中で述べられている。またヘッラーニーコスは、『ペルシア誌』第1巻の中で次のように主張している。<「ケーペウスがもはや存命していないとき、バビュローンから遠征されたので、この領地を引き払い、アルタイアを領有した。そこで、バビュローンの領地はもはやケーペーニエーとは呼ばれず、居住する人々もケーペーネス人とは〔呼ばれず〕、カルダイオイ人と〔呼ばれた〕。その領地もすべて今ではカルダイケーと呼ばれている」>。
断片2a〔断片63aに同じ〕
SCHOL. V ARISTOPH. Av. 1021。
ヘッラーニーコスは『ペルシア誌』の中で、サルダナパロスは2人いたと主張する。
断片2b〔断片63bに同じ〕
PHOT. SUID. "Sardanapalous"の項。
『ペルシア誌』第2巻のなかで2人いたと主張するのがヘッラーニーコス、またカッリステネースも同様に。一人は積極的で高貴、もう一人は優柔な人物。ニノーにある彼〔サルダナパロスの〕記念碑には、次の語が銘打たれている。「アナキュンダラクソスの子、タルソスとアンキレーを一日にて築けり。食え、飲め、盛れ、これよりほかに価値あることなし」。「これ」とは、すなわち、指を鳴らすことである。というのは、この記念碑に付け加えられた像は、頭の上に両手を有したのが、あたかも指を鳴らすように作られていた。同じ銘文が、タルソスの向かいアンキアレーにも刻まれていた。この市は今はゼピュリオンと呼ばれる。
断片3〔断片61に同じ〕
HARPOKR. "Strepsa"の項。
……トライケーの都市だと、ヘッラーニーコスが『ペルシア誌』<第2巻>の中で示唆している。
断片4〔断片62に同じ〕
STEPH. BYZ. "Tyrodiza"の項。
トライケーのセッリオンの次の都市。ヘッラーニーコスは『ペルシア誌』第2巻の中でこの都市をTyrorizaと主張している。
断片5a〔断片179に同じ〕
STEPH. BYZ. "Aria"の項。
いずれにしても女性〔名詞〕ではない。ペルシアの地方、ヘッラーニーコスによる。民族は"Arioi"、同人の主張によれば、"Arieus"とも。
断片5b〔断片132に同じ〕
PAUSAN. 2, 3, 8。
メデイアは……アテーナイから逃亡した。そして当時アリアと言われていた町に現れ、ここの人々に自分の名を与え、自分にちなんでメーディア人と呼ばれるようにした。アリア人たちのもとに逃れるとき、連れていた子どもは、アイゲウスとの間に生まれ、その名はメードスだと言われている。<しかしヘッラーニーコスは、その子をポリュクセノスと呼び、父親はイアソーンだと主張する>。
断片6 〔欠番〕
断片7a〔断片178aに同じ〕
ANONYM. De mulier. 7:
アトッサ。この女性は、ヘッラーニーコスの主張では、父親アリアスポスによって、男性として育てられ、王位を継承したという。そして、女らしい考えを隠して、〔女として〕初めて冠(tiara)をkぶり、さらには初めてズボンをもはき、宦官たちの奉仕をも受け、書き物によって布令を発したという。そして、数多くの民族を臣従させ、すべての事業において、最も好戦的かつ最も男らしい女になった。
断片7b〔断片178bに同じ〕
TATIAN. Pr. mll. 1 (CLEM. AL. Strom. 1, 76, 10; EUSEB. P E 10, 6, 13):
書簡の著し方をも(発明した)のが、かつてペルシア人たちを指導した女性であったとは、ヘッラーニーコスが主張しているとおりである。その名はアトッサ[であった]。
断片7c〔断片178cに同じ〕
DONAT. TERENT. Eun. 167:
〔未訳〕
断片8〔断片180に同じ〕
SCHOL. AISCHYL. Pers. 770:
キュロスの息子がカムビュセース。兄弟は、ヘッラーニーコスによれば、マラピス、メルピス。
断片9〔断片181に同じ〕
SCHOL. AISCHYL. Pers. 778。「5代目はマルドスが支配したが、父祖伝来の由緒古い王座にとっての恥辱。これを、策を用いて、気高きアルタプレネースが殺した。館の中で、親愛なる者たちといっしょになって」
この人物をヘッラーニーコスはダペルネースと呼ぶ。
断片10〔断片182に同じ〕
SCHOL. AISCHYL. Pers. 719。
ダレイオスの子どもだと主張しているのは、ヘーロドトスは<第7巻>(7, 2, 2)で、ヘッラーニーコスは<第11巻>で。
断片11〔断片183に同じ〕
PLUTARCH. De Herod. mal. 36 p.869 A:
すなわち、ナクシオイ人たちは、三段櫂船3艘を、異邦人たちとの共闘用に派遣したが、三段櫂船指揮官の一人デーモクリトスが、ヘッレネスたちの味方を選ぶべしと説得したのである〔Herod. VIII 46, 3〕。……ただし、彼に反証しているのは、年長者のうちではヘッラーニーコス、若年者のうちではエポロス(70 F 187)で、ナクシオイ人たちが自らヘッレネス加勢に赴いたのは、前者は、艦船6艘で、後者は、5艘で、と記録している。
//END(2001.12.22)