Atthis

ピロコロス断片集(2/6)



Fragmenta

"3b, 328, F"

断片1
SCHOL. PLAT. P. dik. 374 A p.402 Greene:

 歌うたいたちは多くの嘘をつくという俚諺〔アリストテレース『形而上学』983a4〕……昔は、詩人たちは真実を語ると言われたが、後には、競演で彼らに賞がかけられたので、虚偽や作り事を言うようになり、そうやって、聴衆をたぶらかせて賞にありつこうとするようになったといわれるからである。この俚諺に言及しているのは、ピロコロスが『アッティス』第1巻のなかで、ソローンも『エレゲイア詩集』で(F 21 D)、またプラトーンもこの箇所で〔374Aには関係する箇所が見あたらぬが……?〕。

断片"2a"
STEPH. BYZ. "asty"の項。

 ふつうはポリス(polis)のこと。違うのは、前者は建造物(ktisma)を表すが、ポリスは市民たちをも〔表す〕。"asty"と呼ばれるようになったのは、ピロコロス『アッティス』第[10+]1巻によれば、昔は、遊牧民として、分散して暮らしていたが、あるとき集結して、放浪生活から共同の定住生活を確立したためで、以来、彼らは移動しない。他の人たちのうちで、アテーナイ人たちは"asty"すなわちポリスを建設した最初の人たちである。 finis col.
断片"2b"
ET. (GEN.) M. p.160, 5:"asty"。

 ポリスのこと。ピロコロスは『アッティス』第1巻の中で主張している。「ポリスのことを"asty"と命名したのは、昔は遊牧民として分散して暮らしていたが、ある時、集結して、放浪生活から共同の定住生活を確立したためで、以来、彼らは移動しない」。そういうふうにオーロスが『諸民族』の中で。

断片3
STEPH. BYZ. "Areios pagos"〔アレイオス・パゴス〕の項。

 アテーナイの丘の上だとは、アポッロドーロスが『神々について』第8巻(244 F 94)の中で。ここで殺人の裁判を行ったのは、鉄器〔=武器〕によってなされた血の穢れ(miaiphonia)のせいである。しかしピロコロスは『アッティス』第2巻の中で、ポセイドーンの子ハリッロティオスが、アレースの娘アルキッペー[が原因で]を暴行せんとして、アレースに殺されたので〔ポセイドーンがアレイオス・パゴスの法廷に訴えた〕という。

断片4
MAXIM. (CONF.) SCHOL. DIONYS. AREOPAG. Patrol. Gr. 4 p.17 Migne:

 かくてアレイオス・パゴスの裁判官たち(Areopagitai)は、殺戮や違法行為のほとんどすべてを裁いたが、すべてを〔裁いた〕と主張するのは、アンドロティオーンが第1巻(324 F 3)の中で、ピロコロスも『アッティス』の第2巻と第3巻の中(F 20)で。

断片"5a"
ATHEN. 15, 48 p.693 DE:

 ピロコロスは『アッティス』第2巻の中で、「法文(thesmion)をも」と主張する、「〔アムピクテュオーンは〕このとき制定した、――割らない葡萄酒は、全員、食後に、「善なる神(Agathos Theos)」の権能の味わいとあかしとなるだけを、残りはすでに割られたのを服用すべしと」。だから、〔酒は〕ディオニュソスの養い親たるニュムペーたちとも名づけられるという。
断片"5b"
同 2, 7 p.38 CD:

 ピロコロスいわく、「アテーナイの王アムピクテュオーンは、葡萄酒の〔水による〕割り方をディオニュソスから学んで、初めて割った人である。それゆえ、そういうふうにして人々は、それ以前は、割らない葡萄酒のせいで腰を曲げて飲んでいたのを、直立して飲むようになった、それゆえ〔アムピクテュオーンは〕、「直立のディオニュソス(Dionysos Orthos)」の祭壇をホーライの神域に設けた。というのも、この女神たちは葡萄の果実も育てるからである。また、この〔祭壇の〕近くに、ニュムペーたちの祭壇も建て、水割りを用いる人たちの記憶にとどめさせた。というのも、ニュムペーたちはディオニュソスの養育者と言われているからである。そして決まりを制定し、全員、割らない葡萄酒は食後に味わえるだけを服用し、「善なる神(Agathos Theos)」の権能のあかしとし、残りのすでに割られた酒は、各人望むだけを服用すべきこと。またこれに加えて、こういうふうに飲めば安全無事であるという飲酒者たちに対する教えと記憶のために、救主ゼウス(Deus Soter)の御名を付言すべしとした」。

断片6
HARPOKR. (SUDA) 「(kobaleia)」の項。

 ……言うところの意味は、ペテンを使っての鬼ごっこ遊技で、これをする者が鬼(kobalos)〔「ごろつき」の意〕。どうやら、「祭壇待ち伏せ盗(bomolochos)」と同義であるらしい。ピロコロスは『アッティス』第2巻で、「むろん、"bomolochos"や"kobalos"というのは、ディオニュソスのことだと一部の人たちは言っているが、そう考えるべきではない」。

断片"7a"
EUSB. Chron. a. Abr. 712/20(SYNKELL. p.307, 1 Bonn.):

 ディオニュソスの行跡と、インドをめぐる事柄、〔エードーノス人の王〕リュクウルゴス、アクタイオーン、〔テーバイ王〕ペンテウスをば、ペルセウスと会戦して、亡き者とされるようにしたということは、弁論家ではない方の詩人デイナルコスが主張するところである。そして、望む者には、彼〔ディオニュソス〕の墓を、デルポイの黄金のアポッローンのそばに見ることができ、そこには、皇帝アウグウストスの武具やネロの竪琴(kithara)も奉納されている。また、無知な人々によって、ディオニュソスの墓は台(bathron)のようなものであると信じられている。〔ディオニュソスは〕将軍であったと思われており、またそういうふうに女性像が描かれているのは、他の恥ずべき理由にもよるが、女性のまじった軍隊を武装させたからである。というのは、男性といっしょに女性にも武装させたとは、ピロコロスの主張しているところである。
断片"7b"
MALAL. Chron. II p.44, 21 Bonn:

 ディオニュソスはこのことを、つまり〔リュクウルゴスが〕自分を攻撃するために武装したと知って、リュクウルゴスを逃れた。そしてデルポイに退いて、そこで命終した。そして、同じディオニュソスの遺品はその地で棺の中に納められた。さらに彼の武具も、彼が自分でその地の神殿に架けたことは、最知者デイナルコスが同じディオニュソスについて著しているとおりである。同様に最知者ピロコロスも同じことを書き表していて、その書の中で引用して、同じディオニュソスについて云っている、「彼の墓はデルポイの黄金のアポッローンのそばに見ることができる。その棺が台状のものであると考えられるのは、そこにこう書かれているからである、『セメレーの裔、死せるディオニュソス、ここに横たわれり』と」。同じように最知者ケパリオーン(93 F 4)も自分の著書の中に同じ詩句を引用している。

断片8
HARPOKR. (SUDA) 「聖櫃運び(kanephoroi)」。

 リュクウルゴスが『リュコプローン弾劾』(F 68 Bl)の中で。「聖櫃運び(kanephoroi)」についてはピロコロスが『アッティス』第2巻の中で主張しているところでは、エレクトニオスが王のとき、初めて名家の乙女たちが聖櫃を女神〔アテーナ〕に運ぶことが確立したという、供犠の犠牲獣が供えられるのは、パンアテーナイア祭と、その他の祭行列のときである。

断片9
SCHOL. V ARISTOPH. Vesp. 544:「もはや年寄りたちの群は無用……道中は馬鹿にされつつオリーブの若枝運び(thallophoroi)と呼ばれ」

 ……パンアテーナイア祭のとき、老爺たちはオリーブの若枝を持って祭り行列したからである……ところがディカイアルコスは『パンアテーナイア祭事について』の中で、老婆たちもパンアテーナイア祭のときにオリーブの若枝運びをすると臆断しているのだが、いったい根拠は何かわたしは知らない。多くの人たちがお互いに同意していることだが、オリーブの若枝運びをするのは老爺たちだけだということについては、クセノポーンは『酒宴』(4, 17)のなかで、ピロコロスは第2巻の中で、この習慣を設けたのはエリクトニオスだと指摘している。この習慣に言及しているのは、クラティノスが『デーリアス』(I 22, 31 K)において、ペレクラテースが『エピレースモス』(I 160, 57 K)においてである。

断片10
HARPOKR. 「(epiboion)」の項。

 リュクウルゴスが『女神官について』(F 35 Bl)の中で。ピロコロスは第2巻の中で、次のように主張している。「アテーナに牛を供犠する場合には、パンドロソスにも羊を供犠しなくてはならない、この供犠の犠牲獣(thyma)が、epiboion〔="to epi boi thyma"〕牛にお付きの供犠獣の意〕と呼ばれた」。スタピュロスも『アテーナイについて』(269 F 1)の中で同様に。

断片11
SYNKELL. Chron. p.304, 4 Bonn:

 このエレクテオスの娘オーレイテュイアを、アストライオスの息子のトラキア人ボレアスが掠奪した。これは風についての神話であるとは、ピロコロスが第2巻の中で主張するところである。

断片12
SCHOL. SOPHOKL. OK 100 (NATAL. COM. Mythol. 4, 13)「断酒した〔わたしが〕酒を拒む女神たちに」

 というのは、女神たち〔scil. (sg.) Eumenis, (pl.) Eumenides〕に潅酒するのは、葡萄酒によってではなく、水によってであり、彼女たちへのこの潅酒は"nephaliai"と呼ばれていたからである。ポレモーンは『ティマイオスに寄せて』の中で、ほかの神々にも供犠として"nephaliai"が行われたと主張して、次のように書いている。「アテーナイ人たちは、こういうことに気を遣い、神々に対して敬虔な人たちであるので、聖なる"nephalia"を供犠するのは、ムネーモシュネー、ムウサたち、エーオース、セレネー、ニュムペーたち、アプロディーテー・ウウラニイアに対してである」。これに対してピロコロスは、『アッティス』第2巻の中で、他の諸々の供犠についても、ディオニュソスならびにエレクテウスの娘たちと同じ仕方で挙行されると主張する。また供犠として"nephalia"だけでなく、火のついた木切れのようなものも〔捧げられるという〕。

断片13
HARPOKR. 「(Boedromia)」の項。

 デーモステネースが『ピリッピカ』(3, 31)の中で。そういうふうに呼ばれるアテナイの祭礼のひとつで、ピロコロスが第2巻の中で主張するところでは、この祭礼がしきたりとなったのは、この日に、クスウトスの子イオーンが、ポセイドーンの子エウモルポスによって戦争を仕掛けられていたアテーナイのために、大いなる熱意をもって救援したのだが、それはエレクテウスが王のときで、救援すること(boethein)は突貫すること(boedromein)、すなわち、戦闘に駆けるつけること(epi mache dramein)、と名付けられていたからである。

断片14
HARPOKR. (SUDA C 623) 「(Skiron)」の項。

 リュクウルゴスが『女神官について』(F 46 Bl)の中で。スキラ(Skira)はアテーナイ人たちの祭礼で、この祭礼にちなんでこの月もSkirophorion 〔6/7月〕である。『月々とアテーナイの祭礼について』の著者たち――この中にはリュシマキデース(366 F 3)も含まれる――の主張では、"Skiron"とは大きな日除け〔天蓋〕で、これが捧持された下に、アクロポリスからスキロンと呼ばれるある場所まで、アテーナの女神官、ポセイドーンの男神官、ヘーリオスの男神官が行進する。これを運ぶのが"Eteoboutadai"である。また、これが家造りと避難所をつくる徴(symbolon)となるのは、の期間が家造りに最善の時期だからである。また、アテーナイ人たちはアテーナ・スキラスを崇拝するが、この女神は、ピロコロスが『アッティス』第2巻の中で、スキロスというエレウシスの占い師にちなんで呼ばれたと、しかしプラクシオーンは『メガラ誌』第2巻(484 F 1)の中でスキローンにちなむと。

断片15
ATHEN. 11, 92 p.495 E:

 ペンタプロア(pentaploa):これに言及しているのはピロコロスが『アッティス』第2巻の中で。アリストデーモスは『ピンダロスについて』第3巻(383 F 9)の中で主張している、――[アテーナイの]スキラ祭では、壮丁たち(epheboi)の徒競走が挙行される。彼らは実もたわわな葡萄の小枝――オースコス(oskos)と呼ばれる――を持って走る、と。走るのは、ディオニュソスの聖所から、〔パレロンにある〕スキラス・アテーナの聖所までで、勝者はpentaploaと言われる杯(kykix)を受け、合唱舞踏隊とともに練り歩きをする。で、この杯(kylix)がpentaploa〔「5成分」の意〕と呼ばれる所以は、葡萄酒と蜂蜜とチーズと、少量の挽き割り大麦とオリーブ油を含んでいるからである。

 スキラ祭の行われる月は、アテーナイ暦では1年の最終月にあたる。時季としては、麦の収穫の時であると同時に、葡萄の最初の枝の剪定の時期で、葡萄の収穫時にあたる秋のオスコポリア祭と対照的である。
 スキラ祭の時、女性だけによって行われる秘儀的祭式があったことは、『女の議会』17-18からうかがえる。
 いずれにしても、作物成熟の祝福、あるいは聖なる穀物の形式的な収穫の儀礼であったと思われる。

断片16
HARPOKR. 「(oschophoroi)」の項。

 ヒュペレイデース――真作ならば――が『デーメオス弾劾』(F 87 Je)の中で。 "oschophoroi"については、他の人たちもだが、ピロコロスも第[10+]2巻の中で。イストロスは第13巻の中で、テーセウスについて語って次のように書いている。「共同体の救済のために、"oschophoroi"と呼ばれる人たちを、生まれと富の点で抜きんでた人たちの中から2人を選抜するよう定めた。"osche"とは、ブドウの房のついた小枝のことである。これを"oreschas"と呼ぶ人たちもいる」。

断片"17a"
PLUTARCH. Theseus 15, 2:

 クレタに送り届けられた若者たちは、最も悲劇的な伝説によると、ラビュリントスの中でミノタウロスに殺されたとか、迷い歩いて出口を見つけることができずにそこで死んだといわれる。そしてそのミノタウロスは、エウリピデス(F 996/7 N2)の言うように、
  「いろいろな形の混合した無益なしろもの」
として生まれ、また
  「牡牛と人間との二つの本性が混合していた」
といわれる。
[16, 1]しかしピロコロスのいうところでは、クレタ人はこんなことを認めず、ラビュリントスは牢獄であって、囚人が逃亡できないこと以外に何一つ悪いところはない、ミノスはアンドロゲオスを記念して体育競技を催し、勝利者に褒美としてそれまでラビュリントスに捕まえておいたその若者たちを与えた、そしてそれまでの幾度かの競技に勝ったのは、当時ミノスのもとで最大の力をもっていたタウロスという名の将軍であったが、この男は性格が温和でも上品でもなく、アテネの若者たちを傲慢かつ過酷に扱ったといっているそうである。……
[19, 1]テセウスはクレタに渡ると、多くの人々が書いたり歌ったりしているように、恋に落ちたアリアドネから麻糸を受け取り、……ミノタウロスを殺し、そしてアリアドネも若者たちも連れて船出した。(2)ところがペレキュデス(3 F 150)のいうところによると、テセウスはクレタ人の船の船底に穴をあけて追跡を妨げたそうである。(3)デモン(327 F 5)のいうところでは、ミノスの将軍であるタウロスも、出帆しようとしていたテセウスと港で海戦を演じて殺されたという。(4)他方ピロコロスの歴史記述によれば、ミノスが競技を催した時、タウロスはまたもやすべての人に勝ちそうだとねたまれていたという。というのは彼の権力は彼の性格の故に嫌われていたし、またパシパエに近づきすぎるという悪評を受けていた。そのために、テセウスが競技に出たいと申し出ると、ミノスはそれを許した。(6)クレタでは女も見物するのが習わしであったから、アリアドネも列席して、テセウスの風采に心打たれ、すべてのものに勝っていくその技量に感嘆した。(7)そしてミノスは、タウロスがレスリングで倒されて泥だらけにされたのをことのほか喜んで、テセウスに若者たちを返し、アテネ市に対しては貢物を免除した、というのである。(以下、クレイデーモス(323 F 17)〔断片5〕の記述が続く)。〔村川堅太郎訳〕
断片"17b"
EUSEB. Chron. a Abr. 785:

 ミノータウロスに関することは、神話によれば、動物の牡牛とパシパエーとから生まれた混合動物で、アテーナイからの貢納として子どもたちを送られて、食べたという。しかしながら当のクノーッソス人たちは、〔ミノータウロスは〕ミノースの将軍で、タウロスと呼び名され、その自然本性は獰猛にして凶暴であったという。そして、ミノースがアンドロゲオース――これをアテーナイ人たちが殺した――のために競技を催したとき、アッティカの子どもたちを褒賞として与えたが、タウロスは強かったので、全員を打ち倒してしまった。しかし、テーセウスもこの競技に参加し、タウロスを角力で投げ倒したので、子どもたちも救出され、都市も人身御供から解放されることとなったと、ピロコロスが『アッティス』第2巻の中に記録している。
"3b,328,F"."17c".1
@8 BOCCACCIO Gen. Deor. Gent. 11, 26:

 et esto ibidem legatur Platonem hoc esse falsum convincere, conveniunt tamen his quae a Philochoro in Atthidis libro de Minotauro recitantur, dato aliquantulum discrepent ab his quae postmodum ab Eusebio dicuntur.

断片"18a"
PLUTARCH. Theseus 35:

 モロッソイ人の王アイドネウスがヘラクレスを客に迎えていた時、たまたまテセウスとペイリトウスについての事を思い出し、二人が何をするつもりでここにやって来たのか、また見つけられた時どういう目に合ったかを話したところが、ヘラクレスは、一人が不面目な死に方をしたこと、もう一人も同じようになるだろうということをいたく悲しんだ。彼は、ペイリトウスについては今更非難しても無益と考えたが、テセウスについては釈放を求めて、この恩恵が彼に与えられることを願った。アイドネウスが承諾をしたので、テセウスは釈放されてアテネにもどった。そこでは自分の味方が全く敗れ去ったわけでもなかったが、アテネの町が以前自分に分けてくれてもっていた料地(テメネー)を、ピロコロスのいうところでは4カ所を除いてことごとくヘラクレスに献げて、テセイア(テセウスのもの)ではなくてヘラクレイア(ヘラクレスのもの)と呼んだ。(村川堅太郎訳)
断片"18b"
EUSEB. Chron. a. Abr. 620 (SYNKELL. p.299, 9):

 乙女ペルセポネーを略奪したのはモロッソイ人たちの王アイドーネウスであるが、彼にはケルベロスといわれる巨大な犬がいて、後に、ペイリトオスはこの犬の手にかかって死んだのだが、婦人〔ペルセポネー〕略奪の現場にテーセウスと同道していた。テーセウスは、ペイリトオスともども破滅するつもりでいたが、ヘーラクレースに出会って解放された。しかし、危険の予見能力のおかげで、テーセウスは冥府から解き放たれると信じていたとは、ピロコロスが『アッティス』第2巻の中に記録しているところである。
断片"18c"
@8 BOCCACCIO Gen. Deor. Gent. 11, 6:

 arbitror igitur hanc Sycani regis Sycilie et Cereris fuisse filiam eamque ab Orco, Molossorum rege seu cudonio seu Agesilao secundum Philochorum anno XXVIII Erictei regis Athenarum raptam eique coniugio copulatam.

断片19
ET. M. (GEN. p.42 Mi)p.140, 45:

 "Aretesion"。アテーナイにそういうふうに呼ばれる場所がある、テーセウスは、冥府からの帰還後、アテーナイが敗北したとき、ここで敵勢に対して呪い(are)をかけたからである。こうして、呪い(are)からこの地は"Aretesion"と呼ばれるようになった。そういうふうにピロコロスが『アッティス』第2巻の中で。

断片"20a"
MAXIM. (CONF.) SCHOL. DIONYS. AREOP. Patrol. Gr. 4 p.17 Migne:

 かくてアレイオス・パゴスの裁判官たち(Areopagitai)は、殺戮や違法行為のほとんどすべてを裁いたが、すべてを〔裁いた〕と主張するのは、アンドロティオーンが第1巻(324 F 3)の中で、ピロコロスも『アッティス』の第2巻(F 4)と第3巻の中で。〔F 4 に同じ〕
断片"20b"
同 4, p.16:

 アテーナイで任命される9人の筆頭執政官たちの中から、アレイオス・パゴスの裁判官(Areopagitai)は構成されなければならなかったとは、アンドロティオーンが『アッティス』第2巻(324 F 4)の中で主張しているところである。しかし後には、もっと多人数となったのがアレイオス・パゴス評議会、すなわちそれは、衆目の一致する人たち――ただし、わたしたちの主張では、貴族階層(eupatoridai)は除く――、しかも、富の点でまた慎み深い生活の点でもぬきんでた人たちの中から〔選ばれた〕51人からなる〔評議会〕であるとは、ピロコロスがその『アッティス』の第3巻を通じて記録しているところである。
断片"20*c"
MICHAEL SYNK. Enc. Dionys. Areopag. ebd. p.620:

 アレイオス・パゴスの裁判官たちという肩書きを持った人たちについて……その生まれのよさ(to genous periopton)と評判の高さ(megalodoxon)が、アンドロティオーンやピロコロスといったアッティス作者たちによって大まかに記録されている。

断片21
HARPOKR. (SUDA.) 「石(lithos)」の項。

 デーモステネースが『コノーン弾劾』(54, 26)の中で、「かくわれわれの味方の人たちも一人ずつ、あの石のところに連れて行って、誓約させ」。どうやら、アテーナイ人たちはある石のところで誓いを立てたらしいとは、アリストテレースが『アテーナイ人たちの国制』(7, 1...55,5)の中で、またピロコロスも第3巻の中で示唆している。

 〔「まさにこの石にあたるものが発掘の結果出土した。幅1m、長さ3m、高さ0.4mのporosの自然岩で、表面は平らだが永年の使用で摩滅している。Thompson-Wycherley, p.88(村川堅太郎 訳注)〕

断片"22a"
HARPOKR. 「三頭(Trikephalos)」の項。

 イサイオスが『エウクレイデースに寄せる』(F 59 Tur)の中で、「ヘスティアのそばなる"Trikephalos"の上の小道」。〔"Trikephalos"とは〕正確に言えば"Trikephalos Hermes"〔三頭のヘルメース〕。これは、ピロコロスが第3巻の中で主張しているところでは、エウクレイデースが"Ankylesin"?奉納したものという。
断片"22b"
SUDA 「三頭(Trikephalos)」の項。

 ヘルメース〔像〕で、この道はどこに通じ、その道はどこに通じるのか、道を指し示すがごとく略図を持っている。おそらくは、各方角の道に向けて頭を有していたのであろう。"Trikephalos Hermes"を奉納したのは、ピロコロスの主張では、ヒッパルコスの愛者プロクレイデースだという。

断片23
ATHEN. 14, 42 p.637F-638A:

 しかしピロコロスが『アッティス』第3巻の中でこう主張している、「シキュオーン人リュサンドロスは、キタラ独奏法(psilokitharistike)を変革させた最初のキタラ奏者で、弦を長く延ばして〔=キタラの筒(どう)を大きくして〕、音量を豊かにし、キタラを笛のように演奏したが、これはエピゴノス派の人たちが最初に用いたものである。また、キタラ独走者たちの間で通弊であった飾り気のなさ(syntomia)を廃し、イアムビュケーとかマガディスとか、いわゆるシュリグモスとかいう〔いずれも楽器の種類と考えられる〕多彩な〔半音階の〕転調でキタラを演奏し、彼以前の人たちの中で彼のみが楽器を〔他の楽器に〕代用し、現実を進展させて、楽団に取り巻かれた最初の人となった」。

断片24
HARPOKR. 「アローペケー区(Alopeke)」。

 アンティオキス(Antiochis)部族の区……この名前の由来はピロコロスが第3巻の中で明らかにしている。

断片25
HARPOKR. 「ケラメイス区(Kerameis)」。

 ……"Kerameis"はアカマンティス(Akamantis)部族の区だとは、ディオドーロス(372 F 18)の主張するところである。しかしピロコロスは第3巻の中で、彼らはこの名称を製陶術(keramike techne)とケラモス(Keramos)という半神への供犠にちなむと理解していたという。

断片26
HARPOKR. "Kolonetas"の項。

 ヒュペレイデースが『アペッライオンの宝庫について』(F 8 Bl J)の中で。賃借人たちのことを"kolonetai"と呼んだのは、彼らがコローノス(Kolonos)区あたりにいたからで、この区はアゴラに近く、ここにはヘーパイストス神殿やエウリュサケース神殿があった。そこでこの区はアゴラのコローノス区と呼ばれた。つまり、ポセイドーン神殿の向かいに、別のコローノス区もあったとは、ヒュペレイデースが『アウトクレース弾劾』(F 60)の中で。これが馬〔騎士〕たちの〔コローノス〕であろう。ペレクラテースは『Petale』(I 184, 34 K)で、「もしもし、そなたはいずこに行きやるや?――わが行かんとするは、コローノス、/アゴラのにはあらずして、馬たちの」……コローノス区民については地誌作家〔旅行家〕ディオドーロス(372 F 7)が、またピロコロスも『アッティス』第3巻の中で、詳述している。

断片27
HARPOKR. 「メリテー区(Melite)」の項。

……ケクロピス(Kekropis)〔部族〕の区。この区がそう呼ばれたのは、ピロコロス第3巻の中の主張によれば、メリテーという娘――ヘーシオドス(F 106 RZ)によればミュルメークスの、ムウサイオン(Vorsokr. 2[67] B 9)によればアポッローンの子ゼウス〔アリスタイオス〕の娘――にちなむという。

断片28
HARPOKR. (SUDA) "Oiethen"の項。

 ……オイエー(Oie)はパンディオニス(Pandionis)〔部族〕の区だとは、ディオドーロス(372 F 8)……ピロコロスは第3巻の中で、オイエーとは、ケパロスの娘で、カロプス(Charops)の妻だと記録している。

断片29
HARPOKR. "Oion"の項。

 ……アッティカには二つとないという意味の区が二つあり、オイオン(Oion)と呼ばれる。そういうふうに呼ばれる所以は、ピロコロス第[10+]3巻の主張によれば、どちらも住める場所ではなく、孤立しているからという。というのは、昔の人たちは「ただひとつ(monon)」ということを"oinon"と呼んだからである。ひとつはケラメイコス・オイノンでレオンティス部族に属し、もうひとつはデケレイコン・オイノンでヒッポトーンティス部族に属するとは、ディオドーロス(372 F 12)が。区民はどちらもオイオン出身と言われる。

断片30
LEX. CANTABR. p.354, 1 N...KLAUDIOS KASILON (Miller Melanges p.398)...LEX. DEMOSTH. Aristocr. (P. BEROL. 5008) B 27:

 陶片追放(ostrakismos)の方法。ピロコロスが第3巻の中に陶片追放を引用して次のように書いている。「陶片追放とは、以下のようなものである。民衆(demos)が、"ostrakon"に持ちこむべきかどうかを挙手採決する。そして決議されると、アゴラが掲示板で囲いされ、10の入り口が設けられる、ここから入って、部族(phyle)ごとに陶片(ostraka)を、記名〔した面〕を裏返して投票した。9人の筆頭執政官たちと評議会〔議員〕とがそばに立っていた。こうして最多の、しかも6000票を下回らぬ数を数えあげられた場合には、その者は10日の間に、個人的な取引に関する権利・義務(dikaia)を決済したうえで、10年間(しかし後には5年間になった)、国(polis)を住み替えねばならなかった、ただし、エウボイアの〔南端の〕岬ゲライストスより内に上陸しないかぎり、自分の耕地からの収穫を得られた」。***しかしヒュペルボロスだけは、僭主になる懼れからではなく、悪徳が原因で、不面目な仕方で陶片追放された。この習慣が廃れた後で、クレイステネースが僭主たちを転覆させたときに、立法して、その〔僭主たちの〕友人たちをもいっしょに追放するようになった。

断片31
HESYCH. 「アゴラのヘルメス神像(agoraios Hermes)」の項。

 そういうふうに[あったと]言われていた、そしてケブリスが筆頭執政官の時、移転させられたとは、ピロコロスが第3巻の中で証言しているところである。

断片"32a"
STEPH. BYZ. "Aithaia"の項。

 ラコーニア地方の都市で、17市の中のひとつ。ピロコロスが『アッティス』の第3巻の中で。民族は"Aithaeus"。トゥキュディデース第1巻(101, 2)。
断片"32b"
同 †"Thea"の項。

 ラコーニア地方の都市。ピロコロス第3巻。<市民は>"Theeis"だと、トゥキュディデース(出典箇所不明)。

断片33
HARPOKR. "theorika"の項。

 デーモステネースが『ピリッピカ』(3, 11; 31)で。国家の歳入の中から充てられる一種の共同体の資金である。これは、最初は戦争資金として〔使用目的が〕守られ、用兵資金(stratiotika)と呼ばれていたが、後には、公共設備や市民のための配給目的にも提供された。これ〔市民のための配給〕を最初に要求したのは民衆指導者アギュッリオスである。しかしピロコロスは、『アッティス』第3巻の中で主張している、「"theorikon"は、最初から観劇料の1ドラクメーと定められ、そこからこの名前もついたのだ」、云々。

断片"34a"
SCHOL. RV ARISTOPHAN. Av. 556:

 神聖戦争(Hieros polemos)が、アテーナイと、ポーキス人たちから神託所を取り上げることを望んだボイオーティア人たちとの間に起こった〔前448年〕。〔アテーナイが〕勝利したので、再びポーキス人たちに渡したとは、ピロコロスが第4巻の中で。神聖戦争は、これと、ポーキス人たちにラケダイモーン人たちが攻めかかった時との2度、起こった。
断片"34b"
SCHOL. V:

 墓標の下の人たちの何人かについて次のことが言われている……デルポイの神殿をめぐって、ポーキス人たちのためにアテーナイ人たちによって引き起こされた神聖戦争に言及している。彼ら〔アテーナイ人たち〕にとっては不用意な行動であった。なぜなら、彼らが戦争したのは、ポーキス人たちに対して、それ〔デルポイの神殿〕のためではなく、ラケダイモーン人たちに対する敵意のせいで、ポーキス人たちのためであったのだから。しかし、神聖戦争は二度起こった。最初は、ラケダイモーン人たちとポーキス人たちとの間で、デルポイをめぐって、ラケダイモーン人たちが神託誓願の優先権(promanteia)をデルポイから手にいれた。次には、最初の戦争から3年経ってから、アテーナイ人たちとラケダイモーン人たちとの間で、ポーキス人たちをめぐって。そして、ピロコロスも第4巻の中で言っているとおり、神殿はポーキス人たちに返した。神聖〔戦争〕と呼ばれる所以は、デルポイの神殿をめぐって起こったからである。これについては、トュキュディデース(1, 112, 5)も、エラトステネースも第8巻の中(241 F 38)も、テオポムポスも第25巻の中(115 F 156)も記録している。

断片"35a"
PHOT. SUDA "orgeones"の項。

 私的に勧請された神々のための狂宴(orgia)執行者たちのこと。"orgiazein"とは「神々のorgiaを執行する」ということ、すなわち、秘儀やしきたりを執行するということである。プラトーンは『法律(Nomoi)』第10巻(910 B)で……セレウコスは『ソローンの告知板(axones)注解』(341 F 1)の中で、一種の半神たちや神々について集会をもつ人たちが"orgeones"と呼ばれると主張する。しかし、すでに意味が変わり、神官たちをもそういうふうに呼ぶ。とにかくアンティマコスは、『リュディア』(F 67 Wyss)の中で……アイスキュロスも『ムウソス』(F 144 N2)の中で……"orgeones"についてピロコロスも〔次のように〕書いている。「血のつながった部族民(phratra)は"orgeones"とも"homogalaktes"〔母乳を同じくするもの〕とも解されるが、これをわたしたちは一門(gennetai)と呼ぶ」。
断片"35b"
HARPOKR. SUDA "gennetai"の項 (SCHOL. DEMOSTH. 57, 23...SCHOL. PATM. BCH 1, 152...LEX. SABBAIT. P.6, 10 P_K):

 〔"gennetai"とは〕同じ氏族(genos)の共同体構成員のこと。というのは、市民全体が細かく区分されたとき、第一の最大の部分は部族(phyle)と呼ばれるが、各部族はさらに3つに区分され、その各部分が"trittys"ないし"phatria"〔"phratria"〕と呼ばれた。さらにまた、"phatria"のおのおのが30に区分されたが、その中から、各"phatria"にふさわしい"hierosynai"〔複数〕が抽籤された。この名称は、多くの弁論家たちの作品中に見え、例えばデーモステネースも『エウブウリデースに寄す』(57, 23...67)の中で主張している。イサイオスは『アポッロドーロスの相続について』(7, 1...13)の中で、同族(syngeneis)を"gennetai"と名づけた。しかしながら、同族(syngeneis)と呼ばれるのは、単純に、同じ血を引き、同じ氏族を出自とする"gennetai"ではなく、初めからいわゆる30氏族に分類された人たちのことである。だからピロコロスは、『アッティス』の中で、昔、乳を同じくする者たち(homogalaktai)と名づけられた者たち、これを現在では "gennetai"呼ぶ、と主張している。

断片36
HARPOKR. "propylaia tauta"〔"propylaia"は、アテーナイのアクロポリスの表玄関、ムネーシクレースの設計で、前437年着工、前432年に工事中断したままの建築〕

 アクロポリスのpropylaiaについては、エウテュメノスが筆頭執政官の時、アテーナイ人たちが建造をはじめ、建築家はムネーシクレースだとは、他の人たちも記録しているが、ピロコロスも第4巻の中に〔記録している〕。またヘーシオドーロスは、『アテーナイのアクロポリスについて』第1巻(374 F 1)の中で、他の事柄とともに次のことも主張している。「5年の歳月をかけて完全にできあがったが、2012タラントンを出費して5つの門を造った、この門をくぐってアクロポリスに入る」。

断片37
HARPOKR. (SUDA) "Lykeion"の項。

 デーモステネースが『ティモクラテース弾劾』の中(24, 114)で。"Lykeion"はアテーナイの体育場(gymnasia)の中にあり、テオポムポスは第12巻(115 F 136)の中で、これはペイシストラトスが造ったというが、ピロコロスは、第4巻の中で、ペリクレースが就任したとき、これができたと主張する。

断片38
HARPOKR. "strateia en tois eponymois"〔エポーニュモス表による出征〕の項。

 アイスキネースが『使節について』(168章)の中で。エポーニュモス表による出征(he en tois eponymois strateia)とは何であったかは、アリストテレースが『アテーナイ人たちの国制』(53, 4)の中で明らかにしてこう言っている、「何となれば〔エポーニュモスには2種類あり〕、10人のは部族のエポニュモスで、42人のは現役期間のそれであるから。壮丁(epheboi)として登録される者は以前は白くした板に記入され、また登録の年のアルコンと前年の仲裁係たちのエポニュモスとを付記したが、今日は評議会(boule)〔会場の前の銅板〕に書き上げる」。そして少し後(53, 7)に、「〔アテーナイ人たちは〕エポニュモス表を出征のためにも利用する。すなわち現役の人々を送り出すにはどのアルコンとエポニュモスからどの〔アルコンとエポニュモス〕までが出征すべきかを公告するのである」。これについてはピロコロスも『アッティス』第4巻の中で語っている。

断片39
HESYCH. "hippes"〔"hippeus"(騎士」の複数属格〕

 Hippeusin(225)いわく、「善勇の士1000人が"hippes"隊に属する」。馬匹を飼う戦士1000人の部隊である。しかしピロコロスは第4巻の中で述べている、このとき1000人が任命されたのだと。なぜなら、騎士たちの大部分は、当時、アテーナイ人たちと不和だったからである。

断片"40a"
HARPOKR. (SUDA) "pros tei pulidi Hermes"〔小門のヘルメース像〕

 デーモステネースが『エウエルゴス弾劾』(47, 26)の中で。ピロコロスは第5巻の中で主張する、「アテーナイ人たちがペイライエウスを市壁で囲み始めたとき、9筆頭執政官たちがこれを奉納して刻銘した。
  初めて市壁を築くにあたり、これを奉納するは
  評議会と民衆の決議に従ってなり。
断片"40b"
同 "Hermes ho pros tei pylidi"〔意味は上と同じ〕の項。

 ……ピロコロスが『アッティス』第5巻の中で主張するところによれば、9筆頭執政官たちが小門のほとりに市域のヘルメース〔像〕を†部族に奉納したという。

断片41
HARPOKR. (SUDA)...ET. M. p.734, 37...SCHOL. DEMOSTH. 14, 17) "symmoria"の項。

 デーモステネースが『アポボス弾劾1』(27, 7)で。アテーナイで"symmoria"に選抜されるのは、われわれのもとにおけるのとは異なり、大衆全員ではなく、富裕にして、国に寄与できる人たちだけである……アテーナイ人たちが初めて"symmoria"に分けられたのは、ナウシニコスが筆頭執政官の時だとは、ピロコロスが『アッティス』第5巻の中で主張しているところである。

断片42
LEX. DEMOSTH. P. Berol. 5008 A 1:

 コテュス〔トラキアの王、在位、前380頃-360〕が離反したことは、ピロコロスが『アッティス』第5巻の中で明らかにしている。

断片43
HARPOKR. "Stryme"〔タソスの北東、トラキアの海港都市〕の項。

 デーモステネースが『三段櫂船乗員(trierarchema)について』(50, 20/3)の中で……タソス人たちの交易所(emporion)である。 "Stryme"をめぐるタソス人たちとマローネイア〔アブデラの東、トラキアの海港都市〕人たちとの諍いに言及しているのは、ピロコロスが第5巻の中で、アルキロコス(F 146 Bgk 4)を証人に立てて。

断片44
HARPOKR. "Datos"の項。

 トラキアの大いに繁栄した都市。じっさい、この都市にちなんで、「善福のダトス」という一種の諺さえ言われている。この都市と隣接地域とについて説明するさいに、時には"to Daton"というふうに男性・女性どちらでもなく〔=中性名詞で〕、時には、エポロス第4巻(70, F 37)では常にそうだが、"ten Daton"というふうに女性名詞で言ってきた。しかしテオポムポス『ピリッピカ』の第3巻は端的に男性名詞である。しかしながら、ダトス人たちの都市はマケドニアの王ピリッポスがこの都市を征服したとき、<ピリッポスによって>改名させられたとは、エポロスが主張し、ピロコロスも第5巻の中で。

断片45
HARPOKR. ""chilioi diakosioi"〔1200人〕の項。

 イサイオスが『イスコマコスに寄す』(F 74 Tur)の中で……アテーナイ人たちのうち最富裕者たちは1200人であった、この人たちが公共奉仕をもした。この者たちに言及しているのは、他の弁論家たちもそうだが、ピロコロスも第6巻の中で。

断片"46*"
HARPOKR. 「アッティカの値段は6000タラントンだったということ」

 デーモステネースが『シュムモリアについて』(14, 30)の中で次のように主張している。「われわれいは土地の値段8000タラントンが軍資金としてあると聞いている」。しかしこれは誤記か、さもなければこの弁論家は、おそらく、〔ペルシア〕大王との戦争に国が多くの軍資金を有していると思われたくて、不当前提の誤りをおかしたのであろう。なぜなら、アッティカの土地の値段は6000タラントンだったということは、続く箇所でこの話が終わってからも、様々に類推して主張しているし、ピロコロスも『アッティス』第6巻の中で。

断片47
HARPOKR. "hiera trieres"〔「聖なる三段櫂船」複数〕の項。

 デーモステネースが『ピリッピカ』第4巻(4, 34)の中で、「聖なる三段櫂船をも伴って、その地を離れた」。パラロス号を言っているのだとは、ピロコロスによっても、同じくアンドロティオーン第6巻(324 F 24)によっても、わかる。

断片"48*"
LEX. CANTABR. p.355, 3 N:

 パラロス号とサラミニア号のこと。これらの三段櫂船を、急を要する公用のためにいつでもそなえており、このための一種の財源も挙手採決されていた。この船の使用は、例えばアルキビアデースの場合のように、裁判を受けさせるために将軍を呼び戻さねばならないような場合である。パラロス号とは、土地のある半神にもちなんで呼ばれた。パラロス号とサラミニア号とに言及しているのは、トゥキュディデース第3巻(33, 2...77, 3)、アリストパネースも『鳥たち』(1204)の中で。アリストテレース(『アテーナイ人たちの国制』61, 7)はアムモニアス号とパラロス号とを知っていた、デイナルコスも『ティモクラテース弾劾』(VII 2 Tur)。しかしピロコロスは第6巻の中で、それら4艘を知っていた、はじめの2艘はアムモーン号とパラロス号、これに加えてデーメートリアス号とアンティゴニス号である。

断片49
DIONYS. HAL. Ad Amm. 9 (SCHOL. DEMOSTH. 2, 1):

 この(scil. オリュントス戦争)は、カッリマコスが筆頭執政官の時〔前349/8年〕に起こったことは、ピロコロスが『アッティス』第6巻の中で明らかにしているが、本文どおりに書けば次のごとくである。「ペルガセー区出身のカッリマコス。この人物〔が筆頭執政官〕の時に、オリュントス人たちはピリッポスに戦争を仕掛けられ、アテーナイに使節団を送ってきたので、アテーナイ人たちは攻守同盟を結び、援軍として軽楯兵2000、カレース麾下の三段櫂船30艘と、兵員を満載した艦船8艘を派遣した」。

断片50
 それから、途中で起こったことを少し述べた後で、〔ピロコロスは〕次のように記す。「同じころ、トラキアの支配下にあったカルキス人たちは、戦争に疲弊して、アテーナイに使節団を派遣してきたので、アテーナイ人たちは彼らのためにカリデーモスをヘッレースポントス方面将軍として派遣した、この人物は三段櫂船18艘、軽楯兵4000、騎兵100と50を引き具して、オリュントス人たちとともにパッレーネーとボッティアイアに侵攻し、その土地を破壊した」。

断片51
 そののち、三度目の救援について、〔ピロコロスは〕次のように言っている。「またもや、オリュントス人たちが使節団をアテーナイに寄越して、自分たちの敗戦を座視することなく、目下の軍勢に援軍を――外国人傭兵ではなく、アテーナイ市民兵の――援軍を派遣するよう要請したので、民衆は別に三段櫂船17艘、市民兵による重装歩兵2000、騎兵300を馬輸送船で、さらに全軍の将軍としてカレースを派遣した」。

断片52
HARPOKR. "diapsephisis"〔投票用小石で投票すること〕の項。

 投票については、完璧に述べられている。アルキオスが筆頭執政官の時に成立したと、アンドロティオーンが『アッティス』(324 F 52)の中で、またピロコロスも『アッティス』第6巻の中で

断片"53-56"
DIONYS. HAL. Ad Amm. 11:

 ところでピリッポスが、〔テーバイの〕対ポーキス戦のさいに、〔自分が〕援助した件を思い起こさせて、アッティカ攻めの道の通行を自分に認めるようテーバイ人たちに要求したが、その年代は、普通の歴史から明らかになる。なぜなら、事情は次のごとくだったからである。――テミストクレースが筆頭執政官の時〔前347/6年〕、オリュントス攻略後、ピリッポスとアテーナイ人たちとは、友好と攻守同盟に関して条約が成約した。これはニコマコス〔が筆頭執政官の〕時〔前341/0年〕までの7年間、遵守された。しかし、ニコマコス〔が筆頭執政官〕の後、テオプラストスが筆頭執政官になった時、破棄された、アテーナイ人たちはピリッポスが戦争を仕掛けたと責め、ピリッポスはアテーナイ人たちが〔仕掛けたと〕咎めた。

断片53
 しかし、原因――なにゆえ、両者が不正されたと言って、戦争状態に入ったのか――と、年代――いつ和平〔条約〕を破棄したのか――は、ピロコロスが『アッティス』第6巻の中で精確に説明している。だから、そこから、必要不可欠のことを書き抜いておこう。

断片54
 「ハライ区民テオプラストス。この人物〔が筆頭執政官〕の時に、ピリッポスは、先ずは、船出してペリントスを襲撃したが、そこではしくじったので、ビュザンティンを攻囲し、兵器(mechanemata)を繰り出した」。

断片"55a"
これを詳述した後、ピリッポスが書簡でいかほどアテーナイ人たちの非を鳴らしたか、これも再び本文どおりに引用される。「民衆はその書簡〔の内容〕を聞き、[また]デーモステネースが民衆を戦争へとけしかけ、票決動議を書いたので、ピリッポスとの和平と攻守に関して立てられていた石標取り壊しを挙手採決し、艦船を艤装して、その他、戦争に必要な備えをした」。finis col.
断片"55b"
DIDYM. in Demosth. (Berl. Klass. Texte I) col. 1, 67:

 さて、ニコマコスの跡を継いで筆頭執政官になったテオプラストスの時に、石標が取り除けられたことは、ピロコロスが第6巻で次のように明らかにしているところで充分である。「民衆はその書簡〔の内容〕を聞き、[また]デーモステネースが民衆を戦争へとけしかけ、票決動議を書いたので、ピリッポスとの和平と攻守に関して立てられていた石標取り壊しを挙手採決し、艦船を艤装して、その他、戦争に必要な備えをした」。

断片"56a"
 記述によれば、これは起こったのが、テオプラストスの筆頭執政官の時で、彼の後1年で、和平の破棄の後、リュシマキデースが筆頭執政官の時に何が起こったかが詳述される。そこで、これらについても必要不可欠の事柄を書き抜いておこう。「アカルナイ区民リュシマキデース。この人物〔が筆頭執政官〕の時に、船渠と造兵廠に関する作業は、対ピリッポス戦のためにすべて延期、財貨はすべて戦争資金とすることを票決した、動議提案者はデーモステネース。対してピリッポスは、エラテイアとキュティニオンを降伏させ、テッサリア、アイニアン、アイトーリア、ドロピア、プティアの使節団をテーバイに送ったが、同じころ、アテーナイも、使節団としてデーモステネース派の人々を派遣したので、〔テーバイ人たちは〕後者と攻守同盟を結ぶことを票決した」。finis col.
断片"56b"
DIDYM. ebd. col. 11, 37:

 さらにピロコロスも、ピリッポスがテーバイからそれ(scil. ニカイア)をロクロイ人たちに引き渡すよう命じたと主張し、次のように書いている。「他方、ピリッポスは、エラテイアとキュティニオンを占領すると、使節団をテーバイに送り、テッサリア、アイニアン、ドロピア、プティアに、アムピキュテュオーンの定めにしたがって、ニカイアをロクロイ人たちに引き渡すよう要求した。この〔ニカイア〕は、ピリッポスによって守備されていたのだが、彼がスキュティアにいるときに、テーバイ人たちが自分の手で守備隊を追放し、占拠していたもので、使節派遣が相談され、全体のためにピリッポスに使節を送ることが彼ら〔テーバイ人たち〕に対して決定された」。

断片57
SCHOL. RV ARISTOPH. RAN. 218:

 アテーナイにおける"Chytroi heorte"〔アンテステリア祭の第3日の祭礼〕……(Theopomp. 115 F 347)。この日に"Chytrinoi"と呼ばれる競技が開催されたとは、ピロコロスが『アッティス』第6巻の中で主張しているところである。

断片58
HARPOKR. (SUDA) "katatome"の項。

 ヒュペレイデースが『デーモステネース弾劾』(I col. 9, 18)の中で、「"katatome"の下、地面に坐って」。ピロコロスは第6巻の中で次のように。「アナギュルウス区民アイスクライオスは、前年度、合唱舞踏の少年の部で優勝したので、劇場のために銀箔で覆われた鼎を奉納し、岩の"katatome"に刻銘した」。

断片59
PHILODEM. Index Acad. Herc. col. II 1_19 p.19 Mekler:

 〔Dikaiarchos, Philochoros, Atthis, isokratesなどの名が見えるが、判読不能〕

断片60
HARPOKR. "Theoris"の項。

 デーモステネースが『アリストゲイトーンに対して』(25, 79)――真作ならばの話だが――の中で。テオーリス(Theoris)は女占い師であったが、不敬のかどで裁きにかけられ、刑死したとは、ピロコロスが第6巻の中に書いている。

断片61
SCHOL. ARISTOPH. Lys. 835:

 アクロポリスにあるクロエー〔「緑の初穂」の意〕・デーメーテールの神殿――ここでアテーナイ人たちはタルゲリオーン月に供犠をするとは、ピロコロスが第6巻の中で。

断片62
HARPOKR. (SUDA...ET. GEN. ET. M. p.802, 23) "Phyle"の項。

 イソクラテースが『平和について』(8, 108)の中で。"Phyle"はオイネーイス部族の区である。メナンドロスが『気むずかし屋』(III 37, 157 K)で、「この地はアッティカの"Phyle"だと見なしてくだされ……」。ピロコロスは『アッティス』第6巻の中でそれは砦だと主張している。

断片63
HARPOKR. "apostoleis"の項。

 三段櫂船の派遣の任に当たる者たちのこと。デーモステネース『クテーシポーン弁護』(8, 108)、ピロコロスも第6巻の中で。"apostoloi"とは、艦船の派遣のことである。同じ弁論家〔デーモステネース〕が『ピリッピカ』第1巻(4, 35)の中で。

断片"64a"
HARPOKR. "nomophylakes"〔「法の番人」の意〕の項。

 アテーナイにおける一種の官職がそういうふうに呼ばれるが、"nomothetai"とは異なる。デイナルコスが『ヒメライオス駁論』(XIV 2 Tur)や、『ピュテオス駁論』(VI 11)の中で。しかしピロコロスは彼らについて別の説明をしていて、彼らは公職者たちが法を遵守するよう強制したという。

断片"64b, Alpha"
LEX. CANTABR. p.351, 10 N:"nomophylakes"

 "nomothetai"とは別であるとは、ピロコロスが第6巻の中で。なぜなら、後者は筆頭執政官として花冠を受けてアレイオス・パゴスに登庁するが、前者は白い鉢巻き(strophion)をつけて〔劇場では〕9筆頭執政官たちの向かい側の見えるところに席を占め、またパラス〔アテーナ〕に祭列を繰り出した。また、筆頭執政官たちが法を遵守するよう強制し、民会においても評議会においても、議長とともに席についた。彼らは7人で、ピロコロスによれば、就任したのは、エピアルテースがアレイオス・パゴスの評議会に身体に関すること〔故殺の審議〕のみを残したときだという。finis col.
断片"64b, Beta"
PHOT. SUD. "hoi nomophylakes tines"の項。

 一部の人たちには、"nomothetai"と同じと思われていた。しかしそうではない。なぜなら、"nomothetai"の方は、父祖伝来の仕来りにしたがって花冠を受けてアレイオス・パゴスに登庁したが、"nomophylakes"の方は、白い鉢巻き(strophion)を使用し、〔劇場では〕9筆頭執政官の反対側の見えるところに席を占め、パッラスの木像を海に運ぶとき、その祭列を飾った。また、筆頭執政官たちが法に従うよう強制し、民会では議長といっしょに着席したが、それは、違法提案とか国に不都合なことと彼らに思われることがあれば、議決を阻止するためである。finis col.

断片65
ATHEN. 6, 46 p.245 C:

 ピロコロスも『アッティス』第7巻の中で、「婦人監督官たち(gynaikonomoi)」は」と主張する、「アレオパギテース(Areopagites)たち」といっしょに、婚礼その他の供犠祭における家々の集まり(synodos)を監視する」。

断片66
DIONYS. HAL. De Dinarch. 3:

 これが、この人物(scil. デイナルコス)の生涯である。そのおのおのは、ピロコロスの史書および、彼〔デイナルコス〕みずからが、『プロクセノス弾劾』(XLII Tur)という弁論――これは亡命後に話された――の中で、自分について著した事柄にもとづいて示される……以上が、デイナルコスみずからが自分について、またピロコロスも『アッティカの歴史』の中で、民主制を解体した者たちの亡命とその帰国について、再び次のように言っている。「すなわち、アナクシクラテースが筆頭執政官になってすぐに、メガラ人たちの都市が陥落し、デーメートリオスはメガラから帰還して、対ムウニュキア戦の準備をした、そして市壁を徹底破壊したうえで民衆〔派〕に引き渡した。後になって、市民たちの多数が弾劾されたが、その中にパレローン区民デーメートリオスも含まれていた。かくて、弾劾を受けた者たちのうち、〔国内に〕とどまっていなかった者たちは票決で死刑判決を受け、聴従した者たちは解放された」。以上が、第8巻の内容にほかならない。

断片67
DION. HAL. De Dinarch. 3:

 第9巻の中では、彼〔ピロコロス〕はこう主張する。「この年度が過ぎ、次の年度に入って、アクロポリスに次のような徴が現れた。雌犬がポリアス〔ポリスの守護女神としてのアテーナの呼称〕の神殿に入りこみ、パンドロソス神殿に潜りこんで、オリーブ樹の下にあるゼウス・ヘルケイオス〔家の守護神ゼウス〕の祭壇に登って横たわったのである。犬がアクロポリスに登ってはならないことは、アテーナイ人たちにとっては父祖伝来の仕来りであった。同じころ、また、夜明け後、天空に、太陽が昇り、晴天であるのに、星が暫時のあいだはっきりと現れたのである。そこで、われわれは、この徴と現象がいかなる成り行きを示しているのは尋ねられたので、両方ともに亡命者たちの帰国の前兆である、しかも、それ〔亡命者たちの帰国〕は体制の変革によってではなく、現行国制のうちで起こると主張した。そしてこの易断は成就する結果となったのである」。

断片68
ATHEN. 5, 15 p.189 C:

 アテーナイには神聖な一種の水路(aulon)もあると言われ、これにはピロコロスが第9巻の中で言及している。

断片"69-70a"
HARPOKR. "epopteukoton"〔「観入者たち」の複数属格〕の項。

 ヒュペレイデースが『プリュネー弁護』(F 175 Bl_J)の中で。エレウシスの第二入信式における入信者たち(myethentes)は、観入したと言われるとは、デーモステネースの言葉や、ピロコロスの第2巻からして明らかなとおりである。
断片"69-70b"
HARPOKR. (SUDA) "anepopteutos"の項(SYNAG. LEX. p.398, 11 Bkr...PHOT. BEROL. p.133, 14 Rei):

 ヒュペレイデースが『プリュネー弁護』(F 174)の中で:
 観入しなかった者(ho me epopteusas)のこと。観入するとはどういうことかは、ピロコロスが第10巻の中で明らかにしている。

断片69
 「この者〔観入しなかった者〕は、秘儀ならびに観入の奥義という神事すべてに不正である」、そしてまた

断片70
 「デーメーテール神殿では、他の時代に比して、入信者となるだけで同時に観入者にもなるという、独特のことが行われており、入信式の時期も、父祖伝来の時期は違っていた」

断片71
HARPOKR. "hamippoi"〔「馬副(ぞい)歩兵隊」〕の項。

 イサイオスが『テメニコス』で、馬といっしょに出征する人たち。一部の人たちの主張では、乗馬用馬がお互いに頸木につながれていて、人がこれを走らせながら、一方の馬を後にして他方の馬に乗り移ることだという。こういう人たちが"hamippoi"と言われる。これはホメーロスの作品(Li. XV 684)に「一方から他方へ乗り移る」という詩句がある。しかし"hamippoi"とは歩兵隊のことであって、これはトゥキュディデース(5, 57, 2)の作品からも、クセノポーンの『ヘッレニカ』第7巻(5, 23/4)からも明らかである。また、騎兵といっしょに配置されているけれども、けっして先駆けをする者たちではない。なるほど、ピロコロスは、「先駆けする者たちでもある」と16巻の中で主張しているけれども。


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