Atthis

ピロコロス断片集(3/6)



断片72
HARPOKR. "Eetioneia"の項。

 アンティポーンが『革命について』(F 5 Bl)の中で。ペイライエウスの別の〔対岸の〕岬が、この地を領有するエーエティオーンにちなんでそう呼ばれていたことは、ピロコロスが『デーモーンに対しする反訴』の中で主張しているところである。またエーエティオーンにはトゥキュディデースも第8巻(90-92)の中で言及している。

断片73
ATHEN. 6, 27 p.235 CD:

 それゆえ、バシレウス〔"basileus"、「王」の意〕の法の中にも次のように書かれている(Krates 362 F 7)。「バシレウスになる者は、成文法に基づいて、筆頭執政官が任命され、また、パラシトスたちが各区から選任されるように配慮すべし。しかしてパラシトスたちは、庁舎(boukolia)から、自分たちの割り当て分を各自精選すること、また神域内にあるアテナイ人たちも、父祖の慣習にのっとり、大麦1ヘクテウス〔約9リットル〕を食すること。また、アカルナイのパラシトスたちは、大麦1ヘクテウスを精選して、アポロンの社務所に提供すること」。さらに、彼らには役所もあったことが、同じ法文にこう書かれている。「神殿[役所]、パラシティオン(parasition)、聖なる家の補修のために、聖所の修理に当たる者たちが報酬として要求するだけの金子を支払うこと」。ここからして明らかなことは、パラシトスたちが神饌のための初穂を納める場所、これがパラシティオン(parasition)と命名されていたということである。同じことをピロコロスも『テトラポリス』という標題の書の中に記録して、ヘラクレスのために選任されたパラシトスたちに言及しているし、シノペ人の喜劇作家ディオドロスも『女相続人』(II 420, 2 K)の中に〔記録しているが〕、この証拠は、もう少しあと(p.239 A-F)までのけておこう。

断片74
PHOT. SUD. "Titanida gen"の項。

 〔ティタンの地のことを〕ある人たちは全地だ〔と言い〕、ある人たちは、ティタネー〔=ティタンのイオニア方言〕にちなんでアッティカの地〔のことだと言う〕、――これはティタンたちよりも古い一人のティタンで、マラトンあたりに住んでいたが、彼一人は神々に対する征戦に加わらなかったからと、ピロコロスが『四市〔オイノエ、マラトン、プロバリントス、トリコリュトス、いずれもアッティカ北部の都市〕』で、イストロスも『アッティカ誌』第1巻の中で(334 F 1)。**ティタンたちが吼えるという。なぜなら、人間どもの頼みを聞いて援助したからと、ニカンドロスが『アイトリア誌』第1巻の中で(271/2 F 4)。

断片75
SCHOL. SOPHOKL. O.K. 1047:「あるいは、ピュティアの……岸のあたりか」

 彼〔ソポクレース〕が言う「ピュティアの岸」とは、アポッローンのピュティア神殿(Pythion)〔エレウシスの北東5Km、トリア区の近くにあるアポッローン神殿〕の祭壇ことで、祭使を送るのはマラトーンにある祭壇からである。これについて記録しているのはピロコロスで、『四市』の中に次のように書いている。「神官たちのあいだで受け継がれてきた徴が現れた場合、その都度、一門の人たち["pythiai"〔女性形・複数〕や"deliades"〔女性形・複数〕]は祭使を派遣するが、どちらを〔派遣するかは〕彼らに任されている。そこで、デルポイへの祭使派遣の卦が現れ、祭使が送られる場合は、占い師はオイノエーにあるピュティオン神殿で、毎日、供儀をし、他方、デーロス島への〔祭司派遣の卦が現れ〕祭使が〔派遣される〕場合は、前述のごとく、占い師はマラトーンにあるデーリオン神域まで〔行って?〕供儀をする、つまり、デルポイへの祭使の占方(hieroskopia)はオイノエーのピュティオン神殿で行われ、デーロスへの〔祭使の占方〕はマラトーンのデーリオン神域で行われる。

断片76
CLEM. AL. Strom. 1, 134, 4:

 オルペウス(T 87 Kern)という占い師もいたと、ピロコロスが『占卜術について』第1巻の中にすでに記録している。

断片77
EURIP. Alk. 968:

 オルペウスは詩人でもあり占卜者でもあった。ピロコロスは『占卜術について』第1巻の中に彼の詩句を引用しているが、それは次のような内容であった(F 332 Kern):
  我は神のお告げを口寄せするにけっして善き者〔=すぐれた者〕にあらず、
  わが胸の内なる衝動が真実を言うにすぎず。

断片78
SCHOL. W PLATON Soph. 525 C (SUD. "engastrimythos"〔腹話術師〕の項):「あの奇妙なエウリュクレースのような、内から発生する者」

 自分自身に何か悪いことを占う者たちについて言われる諺で、この諺は腹話術の占い師エウリュクレースに由来して言われ、彼にちなんである種の占い師もエウリュクレースたちと言いならわされた。この腹話術師を、現在、一部の人たちはピュトーンと主張するが、ソポクレース(F 56 N 2)は胸占い(sternomantis)という。アリストパネースも『蜂』(1019)の中で、「エウリュクレースの占いと精神を模倣して」。しかしピロコロスは『占い術と女について』第3巻の中で腹話術師たち(engastrimythoi)と主張する。

断片79
ATHEN. 14, 59 p.648 D:

 さて、この偽エピカルモス書は、有名な人たちが創作したということは、アリストクセノスの主張によると、笛吹のクリュソゴノスが、国制と呼びならわされている『国法』第8巻の中で。しかしピロコロスは、『占いについて』の中で、アクシオピストン――ロクロス人であれシキュオーン人であれ――が『基準』や『知識』を書いたと主張している。またアポッロドーロス(224 F 226)も同様に記録している。

断片80
SCHOL. APOLL. RHOD. 1, 516/8c:

 ピロコロスが『供犠について』の中で主張している、――(scil. 舌は)身体の中で最美にして第一人者であると。

断片81
NATAL. COM. Myth. 1, 10 (ed. Genev. 1651 p. 35):

erant autem canti- lenae in sacris nihil aliud quam commemorationes eorum beneficiorum, quae dii ipsi in homines benigne contulerant, cum virium ipsorum deorum et clementiae et liberalitatis amplificatione et cum precibus ut benigni ac faciles precantibus accederent, ut ait Philochorus in libro De sacrificiis.

断片82
NATAL. COM. Myth. 9, 18 (p. 1008):

Philochorus in libro De sacrificiis Minervae consilio edoctum Oedipum inquit societate rapinae simulata se ad Sphingem contulisse atque novis semper sociis Oedipo se addentibus denique illam cum magna suorum manu oppressisse.

断片83
HARPOKR. (SUD. SYNAG. LEX. p.381, 14 Bkr...PHOT. BEROL. p.84, 20 Rei) "Haloa"の項。

 デーモステネースが『ネイアイラ弾劾』(59, 116)の中で。"Haloa"〔ハローア祭〕はアッティカの祭礼で、ピロコロスの主張では、これは、かつて人々が"halos"〔脱穀場〕を見過ぎ世過ぎとしていたことにちなむという。また彼が『祭礼について』の中で主張しているところでは、この〔祭り〕が挙行されるのは、ポセイデオーン月の「下旬の第6日目〔26日〕」だという。

断片"84a"
HARPOKR. (SUD. SCHOL. V ARISTOPH. Ach. 1076) "Chytroi"の項。

 ……さらにまた"Chytroi"というアッティカの祭礼もあり、これに言及しているのはデイナルコスが『ピュテオス弾劾』(VI 14 Tur)の中においてである。つまり、この祭礼が挙行されるのは、アンテステリオーン月の10日後の第3日目〔13日〕であるとは、ピロコロスが『祭礼について』の中で主張しているところである。
断片"84b"
NATAL. COM. Myth. 5, 5 (p. 441):

scripsit Philochorus diem festum agi solitum apud Athenienses die decima tertia lunae novembris, quo tempore Choes vocata solemnia celebrantur Terrestri Mercurio consecrata/ atque morem fuisse ut ex omnibus generibus semina, ut nomen significat, in olla miscerentur atque concoquerentur ab iis qui per diluvium fuissent servati, qui Hydrophoria etiam alias agebant. at nemini tamen ex ea olla gustare licitum erat.

断片"85a"
SCHOL. Areth. PLAT. Apol. 19 C p.421 Greene:

アリストーノモスは『冷たいヘーリオス(太陽)』(I 669, 4 K)の中で、またサニュリオーンも『笑い』の中で、彼は4の日に生まれたと主張している。それゆえ、別の人々のために労苦して人生の暇つぶしをしたのである。なぜなら、4の日生まれの人々は、他人のために労苦して収穫を提供するとは、ピロコロスも『日々について』第1巻の中で記録しているところだからである。この日には、ヘーラクレースも生まれたと彼は主張している。
断片"85b"
PHOT. SUD. "tetradi gegonas"〔「4の日生まれの者」の意〕

 他人のために労苦する人のこと。というのも、ヘーラクレースは4の日に生まれたために、エウリュステウスのために艱難辛苦したからである。しかしピロコロスは、この日はヘルメースについても言えることであるが、ヘーラクレースにとっては、この日は、神々の仲間に列せられた当日として決められたという。

断片"86a"
PHOT. BEROL. p.105, 14 Rei:"amphiphoon"

 [ヘカテーと]アルテミスに捧げられる平たい菓子(のようなもので、周囲に燃え木が立てられている。ピロコロスは『日々について』の中で、「10日あまり6日。現在では"amphiphontai"〔複数〕と呼ばれるものを、昔の人たちはこの日に初めてアルテミスの神域と三叉路に運ぶのが仕来りであった。なぜなら、この日に、月は沈もうとするところを太陽の上昇に追いつかれることになるからである。
断片"86b"
ATHEN. 14, 53 p.645 AB:

 アムピポーン(amphiphon)とは、アルテミスに奉納する平たい菓子で、火のついた燃え木がまわりにぐるりと立てられている。ピレモーンは『女乞食』ないし『ロドスの女』(II 495, 67 K)の中で、「アルテミス様、愛しい女主人様、これをあなたにささげます/おお、女王様、"amphipon"と御神酒(spondesima)を」。ディプロスも『ヘカテー』(II 548, 28 K)の中でこれに言及している。しかしピロコロスは、"amphiphon"と呼ばれるのは本体であって、これはアルテミスの聖所に運ばれるのだといい、なおまた三叉路にも運ばれ、当日〔ミュニキオン月の第16日〕は月が沈まんとする時に日の出の太陽に追いつかれるので、天空が二重光に(amphiphos)なるという。

断片87
PHOT. Lex. "tritos krater"〔第三の主神〕の項。

 第三の救主ゼウス(Dios Teleiou Soteros)〔属格〕のこと。なぜなら、「3」は最初の完全数であるが、それは、初めと終わりと中を有するからとは、ピロコロスが『日々について』の中で。

断片"88a"
SCHOL. PROKL. HESIOD. Opp. 770/771:「まず、朔の4日と7日とは聖なる日。/この日には、黄金の太刀佩くアポッローンをレートーが生みたもうたから」

 ……ピロコロスは『日々について』の中で言う、後者の〔7〕日はヘーリオスとアポッローンの〔誕生〕日だが、前者の〔4〕日はヘーラクレースとヘルメースの〔誕生〕日、だから彼〔アポッローン〕の竪琴(kithara)は7弦であると。4日はヘーラクレースの日である。この日に生まれたから。だからわれわれは言うのである、「4日に跡継ぎが生まれて、最悪の卦であったためしがない」と。〔?〕
断片"88b"
SCHOL. V HOM. Od. XX 156:

 朔(ついたち)(neomenia)はあらゆる神々の日と信じられている。なぜなら、この日は月の最初の日であるから、何事も最初は神々にふさわしいとして、先祖はこの日を神々に奉納した、またあらゆる公職も、直くするため、神々に〔?〕献じた。なぜなら、万人を支配する者たちは、同類の者たちに贈り物をもって称えるからである。そしてまた、穀物の初穂もすねての神々にわれわれは分かち合う。最初の光は火の始源であるから、この日がアポッローンの日と信じられているのは当然で、彼らはこの神〔?〕をネオメーニオス(Neomenios)〔新月を祀る者〕とも呼びならわしていた。この歴史記述(historia)はピロコロスの作品にある。

断片89
PHOT. Lex. "tropelis"の項。

 要するに〔?〕ニンニクの束のこと。スキラ祭では、性欲(aphrodisia)減退〔防止〕のためにニンニクを食べて、香油を嗅ぐこともできないぐらいであったとは、ピロコロスがアリュポス宛書簡の中で。

断片90
SCHOL. EURIPI. Hek. 3:

 「キッセウスの娘ヘカベーの子」というのは、ヘカベーに関する伝承とは異なった記録のされ方をしている。なぜなら、ピロコロスが『悲劇作品について』という著作の中で主張しているところでは、彼女はコイリレー(Choirile)と呼ばれていたというが、おそらくは子沢山であったからであろう。というのは、若豚(choiros)は多産であり、『オルフィック文書』(F 46)の中でも、若豚〔"choirai"複数形〕はヘカベー〔"hekabai"複数形〕と命名されているからである。

断片91
SCHOL. EURIP. Hek. 1:

 ペレキュデース(3 F 136)の主張では、ヘカベーは〔プリュギア王〕デュマスの娘だというが、多くの人たちは〔トラキア王〕キッセウスの娘だという。しかし一部の人たちは、「キッセウスの娘ヘカベーの子なり」と書き、プリュギア女ないし村で生まれたゆえをもって彼女はそういうふうに命名されたのだと憶測しているとは、ピロコロスもアスクレーピアデース宛書簡の中で。

断片"92a"
AFRICANUS bei EUSEB. P.E. 10, 10, 7:

 これ(scil. オリュムピア紀年)より前の出来事では、アッティカの年代はほぼ次のようにして計算された、すなわち、彼ら〔アテーナイ人たち〕の間では大地から生まれたと信じられているオーギュゴス――この治世にアッティカで大きな最初の洪水が起こった――、アクウシラオス(2 F 23)の主張では、アルゴス人たちの王ポローネウスから、第1回オリュムピア紀年――この時から年代は精確になったとヘッラス人たちは考えている――まで、1020年間になることは、前述の人たち(ディオドロス、タッロス265 F7……カストール250 F 6……ポリュビオス254 F 3……ペレゴーン257 F 8)とも調和しており、時代の人たちによっても示されるであろう。[8]なぜなら、このことは、アテーナイ人たちの歴史家たち――ヘッラーニーコス(323a F 10)、『アッティス』の著者ピロコロス、シュリアのカストール(250 F 7)、タッロス(256 F 4)、世界全史を歴史叢書の著者ディオドーロス〔出典箇所不明〕、アレクサンドロス・ポリュイストール〔博識家アレクサンドロス〕(273 F 101)、またわたしたちの同時代の何人かの人たちも、アッティカのすべての歴史家たちよりも精確に言及しているからである。だから、この1020年の間に、何かめぼしい歴史的事件が起こっていたら、必要に応じて抜粋されるはずである……[14]しかし、オーギュゴスの後は、洪水による多大な破壊のために、現在のアッティカは、189年の間、無王のままであった。なぜなら、オーギュゴスの後、アクタイオーンないし名のある事件は起こりもしなかったと、ピロコロスが主張しているとおりだからである。
断片"92b"
[JUSTIN.] Coh. ad Graec. 9:

 モーゼは……わたしたちの間のどんな人たちよりも、はるかに年を取っていた……、ヘッラス人たちの史書は、そういうふうにわたしたちに明らかにしてくれている。なぜなら、オーギュゴスとイナコスの時代に……モーゼに言及している……そういうふうにポレモーンは『ヘッラス史』の第1巻の中で……またアピオーンも……メンデース人プトレマイオスも『アイギュプトス史』において、そういった人たちすべてと一致しているからである。さらにまたアテーナイの歴史家たち――ヘッラーニーコス、『アッティス』の著者ピロコロス、カストール、タッロス、アレクサンドロス・ポリュイストール、なおまた最知者ピローンとイオーセーポスといったユダヤ人たちの歴史家たちも、昔も昔大昔の、ユダヤ人たちの支配者モーゼに言及しているのである。

断片93
(EUSEB._) SYNKELL. Chron. p.289, 9 Bonn:

 ケクロープス――昔はアクテーAkte、今はアッティケーAttike〔と呼ばれる地〕の二相の持ち主――が王支配したのは50年間だが、そういうふうに〔二相の持ち主と〕呼ばれるのは、ピロコロスの主張するように、その身体の長さのせいか、あるいは、アイギュプトス〔エジプト〕人であったので、二つの舌〔言語〕を知っていたからかである。この人物が、アテーナ女神にちなんでその都市をアテーナイと名づけた。彼の治世に、アクロポリスのオリーブ樹が初めて生えた。また彼にちなんでこの地はケクローピア〔ケクロープスの地〕と呼ばれた。この人物が最初に牡牛を供儀し、ゼウスを勧請したとは、一部の人たちの〔主張である〕。

断片94
STRABON 9, 1, 20 p.397:

 ピロロコスの主張によれば、この領地が、海からはカリア人たちに、陸からはボイオーティア人たち――アオネス人たちと呼ばれていた――に蹂躙されたので、ケクロープスは、先ず、多衆を12の都市に集住させた、その〔12市の〕名は、ケクロピア、テトラポリス、<テトラコーモイ>、エパクリア、ラケレイア、エレウシス、アピドナ(複数形でアピドナイとも言われた)、トリコス、ブラウローン、キュテーロス、スペーットス、ケーピシアである。その後、この12市を再び現在の1市にまとめたのがテーセウスであると言われるという、ということ。

断片95
SCHOL. PINDAR. Ol. 9, 70 bc:

 エピカルモス(F 122 Kai)は、石たちの民にちなんで人民(laoi)と名づけられたと主張する。しかしピロコロスは、ケクロープスにちなむという。すなわち、この〔ケクロープス〕が、アテーナイ人たちの種族が増えることを望んで、彼らに石をとって中央に運ぶよう命じた。この石によって彼ら〔アテーナイ人たちの数が〕2万人であることがわかった。そこでケクロープスにちなんで、群衆(ochloi)が人民(laoi)と名づけられたのだという。

断片96
HERMIPPOS P. Ox. 1367 (ヘルミッポスの『立法者たちについて』第2巻のヘーラクレイデースによる『梗概』)fr. 1 col. 1, 40:

 二相にして大地より生まれたケクロープスは王となり、アテナイ人たちにまず立法したと言い伝えられている。彼の法の…〔欠損〕…資格審査さるべしと。ピロコロスは…〔欠損甚だしく、判読不能〕…"Bouzyges"が立法された。この人物に詩人ラソスも言及している。

断片97
MACROB. Sat. 1, 10, 22:

Philochorus Saturno et Opi primum in Attica statuisse aram Cecropem dicit, eosque deos pro Jove Terraque coluisse, instituisseque ut patres familiarum et frugibus et fructibus iam coactis passim cum servis vescerentur, cum quibus patientiam laboris in colendo rure toleraverant: delectari enim deum honore servorum contempla- tu laboris.

断片98
P. OX. 1241(Chrestomathie)col. 5, 6:

 ピロコロスの言によれば、ケクロープスの治世に、長柄と野獣の皮をまとっての完全武装が初めて行われたという。しかし後には、すでに牡牛を供儀するようになってから、アッティカの人たちは牛皮楯を造ったという。

断片99
SERV. DAN. VERGIL. A. 8, 600:

Pelasgos] de his varia est opinio. nam alii eos ab Atheniensibus, alii a Laconibus, alii a Thessalis dicunt originem ducere, quod est propensius: nam multas in Thessalia Pelasgorum constat esse civitates. hi primi Italiam tenuisse perhibentur. Filocorus ait ideo nominatos Pelasgos, quod velis et verno tempore advenire visi sunt ut aves. Hyginus dicit Pelasgos esse qui Tyrrheni sunt: hoc etiam Varro commemorat.

断片100
SCHOL. LUKIAN. Katapl. 25 p.52, 12 R:

 "tyrannos"〔という語〕は、初めから暴力的で掠奪者であったテュレーノイ人たちにちなんで言われるようになったとは、ピロコロスの主張するところである。というのは、テュレーノイ人たちは、しばらくの間、アテーナイの内に住んでいたが、この都市に反旗をひるがした。そして、その多くはアテーナイ人たちに滅ぼされたが、他の者たちは落ちのびて、レームノス島やイムブロス島に居住した。しかし、後に、このことが原因でアテーナイ人たちと敵対的となり、艦船に乗り込んで、アッティカのブラウローンを占領し、ブラウローニア祭で女神〔アルテミス〕に"arktos"として奉仕していた乙女たちを略奪、これと同棲した。

断片101
SCHOL. BT HOM. Il. A 594:「シンティエス人ら(Sinties andres)」

 ピロコロスの主張では、彼らはペラスゴイ人であるが、そういうふうに命名されたのは、ブラウローンに来航して、聖櫃運びの乙女たちを略奪したからである。"sinesthai"とは、"blapein"〔害する〕という意味である。エラトステネース(241 F 41)は、彼らは魔術師(goetes)であって、有害な薬を発明したから〔そう呼ばれる〕という。ポルピュリオスは、戦争用の武器を最初に制作し、これが人間界を害することになったから、あるいは、最初に略奪行為を発明したからという。

断片102
HARPOKR. "euandria"の項。

 デイナルコスが『アガシクレエース弾劾』(XVI 2 Tur)の中で。パンアテーナイア祭のときに"euandroria"競技が挙行された。アンドキデースが『アルキビアデース弾劾』(4, 42)の中で明らかにしている、またピロコロスも。

断片103
NATAL. COM. Myth. 3, 16 p. 245 ed. Genev:

erat Iambe muliercula quaedam, Metanirae ancilla, ut tradidit Philochorus, Panos et Echus filia, quae cum deam maestam videret, ridiculas narratiunculas et sales iambico metro ad commovendam deam ad risum et ad sedandum dolorem interponebat. quare id genus carminis non ante observatum iambicum ab illa dictum fuit, ut testatur Nicander in Alexipharmacis.

断片"104a"
EUSEB. Chron. a. Abr. 610/5(SYNKEL. p.299, 16):

 ケレオスはエレウシス人の都市を王支配したが、このひとの時代に、トリプトレモスがいて、この人物は、ピロコロスの主張では、〔デーメーテールの命令で世界の人々に〕小麦を与えるために長い航海をして諸都市を襲撃したが、その艦船は翼のある蛇だと信じられたという。格好にも似たところがあったという。
断片"104b"
SCHOL. ARISTEID. p.54, 18 Ddf:

 ピロコロスが記録しているところでは、船――これにトリプトレモスが乗っていた――が有翼だと見なされたのは、順風に運ばれたからであると。
断片"104c"
BOCCACCIO Gen. deor. 8, 4:

de Triptolemo autem scribit Philochorus vetustissimum fuisse regem apud Atticam regionem, qui cum tempore ingentis penuriae, occiso e concursu populi patre Eleusio, quia pereunte fame plebe filium aluisset abunde, aufugit et longa navi, cuius serpens erat insigne, abiit ad exteras regiones et quaesita frumenti copia in patriam rediit, ex qua pulso Celeo, qui terram occupaverat (seu secundum alios Lynceo Thrace), in regnum paternum restitutus est/ et non solum restitutus alimenta tradidit subditis, sed illos docuit facto aratro terram colere, ex quo Cereris alumnus est dictus. sunt tamen qui velint non Triptolemum sed Buzygem quendam Atheniensem Atticis bovem et aratrum comperisse. dicit tamen Philochorus

断片105
SCHOL. DEMOSTH. 19, 303:

 アグラウロスとヘルセーとパンドロソスとはケクロープスの娘であるとは、ピロコロスの主張するところである。言い伝えられるところでは、アテーナイ人たちの間で戦争が起こり、エウモルポスがエレクテウスの攻撃に出兵したが、この戦争が長引いたとき、国のために自らを亡き者にする者がいれば、解放されようとのアポッローン神の託宣があった。そこで、アグラウロスが聞いて、我が身を死にゆだねた。すなわち、市壁から身を投げたのである。そののち、戦争から解放されたので、これがために、都市の前門のたもとに彼女の神殿を建てた。そして、壮年に達した者たち(epheboi)が戦争に出陣せんとするときは、ここで誓言するを常とした。

断片106
同 ;

 アグラウロスはアテーナ女神の女神官であったとは、ピロコロスの主張するところである。

断片107
STRABON 9, 1, 6 p.392:

 『アッティス誌』の編纂者たちは、多くの点で意見を異にしているが、語るに足る人たちは、少なくとも次の点では意見が一致している、すなわち、パンディオーンの子どもたちは4人――アイゲオース、リュコス、パッラントス、4番目にニソス――であり、アッティカが4つの部分に分割された時、ニソスはメガラ地方に当籤し、ニサイア市を建設した。さらにピロコロスによれば、彼の支配権が及んだのは、イストモス〔コリントス地峡〕からピュティオンまでと主張するが、アンドローン〔10 F14〕は、エレウシノンとトリアシオン平野までだと〔主張する〕。

断片108
SCHOL. EURIPID. Hipp. 35:

 パランティダイ〔パラスの息子たち〕がテーセウスによって亡き者とされた次第を、ピロコロスは次のように主張する。「パラスがアテーナイ人たちに攻めかかろうと思い立ち、おのが軍勢を引き連れてスペットス街道を公然と進軍したとき、彼の子どもたちは、父親のはかりごとに従って、同輩たちといっしょにガルゲーットス区に待ち伏せ、パラスが迎撃してくるアテーナイ勢と戦端を開いたら、奇襲攻撃をかけて都市を押さえるつもりでいた。ところが、パラスの伝令使だった者が、成り行きをテーセウスに報告した。そこで彼〔テーセウス〕はただちに攻撃して、同輩もろとも彼ら〔パランティダイ〕を亡き者にした」。

断片109
PLUTARCH. Thes. 14:

 テセウスは、仕事にうちこんでいたいと思い、また同時にそれによって民衆の支持を得ようとして、テトラポリスの住民に少なからぬ害を加えていたマラトンの牡牛に立ち向かっていった。そしてそれを捕らえて、生きながら町中を駆って人々に見せびらかし、それからアポロン・デルフィニオスに犠牲として献げた。ヘカレがテセウスを客として招待してもてなしたという伝説も、全く真実を含んでいないわけではないように思われる。というのは、周囲の区の人々がヘカレ祭に集まってゼウス=ヘカロスに犠牲を献げ、ヘカレが、まさに若者であったテセウスをもてなした時に、おばあさんがするように彼を抱き、そして愛称で呼んでもてなしてくれたことにちなんで、ヘカレを愛称でヘカリネと呼びかけて礼拝した。そしてテセウスが牡牛との戦いに出かける時、彼女は、テセウスのために、もし無事にもどったら犠牲を献げるとゼウスに誓ったが、テセウスが帰り着かないうちに死んだので、テセウスの命によって、そのもてなしに対して上に述べたような返礼を受けたのだ、とピロコロスが歴史の中に書いている。(村川堅太郎訳)

断片110
PLUTARCH. Thes. 26, 1:

 〔テーセウスが〕黒海に船を乗り入れたのは、ピロコロス(328 F 110)やその他何人かの人々のいうところでは、ヘーラクレースとともに、アマゾン女人族を征服するためで、[最も善勇の士の]報酬として、アンティオペーを手に入れたという。しかし、ある人たち――ここにはペレキュデース(3 F 151)やヘッラーニーコスやヘーロドーロス(31 F 25)が含まれる――の主張では、ヘーラクレースの後の時代に、テーセウスは自分の船で航海して、このアマゾンの女を捕虜として手に入れたのだと言っているが、こちらの方がより説得的である。というのは、彼〔テーセウス〕といっしょに遠征した人々のうち、アマゾンの女を捕虜として手に入れた者は、他には誰も記録されていないからである。

断片111
PLUTARCH. Thes. 17, 6:

 ピロコロスの主張では、当時、アテーナイ人たちにはいまだ航海に心を砕く者がいなかったため、テーセウスはサラミスのスキロスのもとから、舵取りとしてはナウシトオスを、見張り役としてはパイアクスを連れてきた。というのも、スキロスの娘の子メネステースが、例の若者たちの一人だったからである。(7)このことを証拠立てているのが、ナウシトオスとパイアクスとの英雄廟で、テーセウスがパレロンのスキロス神殿のそばに献じたものである。また、舵取り祭(Kybernesia)という祭礼も、彼ら〔ナウシトオスとパイアクス〕のために営まれるのだと彼〔ピロコロス〕は主張する。

断片112
PLUTARCH. Thes. 29, 4:

 また彼〔テーセウス〕はアドラトスを助けてカドメイアの下で死んだ人々の屍を埋葬するために引き取ったが、それはエウリピデスが悲劇(『救いを求める女たち』)の中で創作したようにテーベ人を戦闘において破ってからであはなくて、和議を結ぶように説得してからであった。というのは、多くの人々がそういっているのだから。ピロコロスは、遺体の引き取りを目的として和議が結ばれたのはそれが最初だといっている。しかしヘラクレスに関する記述の中では、ヘラクレスが敵に遺体を渡した最初の人だと書かれている。多数の者の墓はエレウテライにあるのに、指揮者の墓はエレウシスの付近に見られるが、これはテセウスがアドラトスに好意を示したものである。エウリピデスの『救いを求める女たち』(653以下)に対して反証しているのはアイスキュロスの『エレウシスの人々』であって、そこではテセウスが前述のことを述べることにされている。(村川堅太郎訳)


forward.gifピロコロス断片集(4/6)
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