Atthis

ピロコロス断片集



断片113
STRABON 9, 2, 11 p.404:

 また、ミュカレーッソスもタナグラ地方の村である。テーバイからカルキスに向かう〔テーバイの〕街道のほとりにある……同所にはハルマ(Harma)もあり、これはタナグラ地方の無人の村で、ミュカレーットン(?)近郊にあり、アムピアラオスの戦車(harma)にちなんでその名をつけられたのだが、アッティカ地方にあるハルマ(Harma)とは別である、後者はピュレー近郊にあり、タナグラに隣接するアッティカの区(demos)である。ここ〔アッティカのハルマ〕からは、世に言う「ハルマを電光が走るとき」という諺が始まったのであり、神託に従って電光のようなものの前兆を得るため、いわゆる「ピュタイス団」はハルマの方角に目を凝らしていて、電光が走るのを見ると、その時には供犠をデルポイに遣るのである。観察は、3ヶ月間、毎月3昼夜ずつ、アストラパイオス・ゼウス〔電光を走らせるゼウス〕の祭壇から行われる。この祭壇は、ピュティオンとオリュムピオンとの中間にある市壁の内にある。これに対し、ボイオーティアのハルマについては、ある人たちの主張では、アムピアラオスが戦闘の最中に、現在彼の神域がある場所で転落し、無人の戦車が同名の場所まで引かれていったという。またある人たちの主張では、アドラトスが敗走中、その戦車がここでばらばらに砕けたが、彼は〔神馬〕アレイオンのおかげで助かったという。またピロコロスは、彼は村人たちに助けられ、そのため、村人たちにはアルゴス人たちから同市民待遇を授けたという。

断片114
PHOT. SUD. 「重荷おろし(seisachtheia)」

 公的・私的な負債の負債帳消し政策で、ソローンが導入したものである。アテーナイでは、貧しい負債者たちが、債権者たちに身体〔を抵当にして〕働くという習慣があった時代に、完済した者たちはあたかも重荷のように振り落としたと言われていた。しかしピロコロスの考えでは、重荷が無効票決されたという。〔?〕

断片115
SCHOL. PINDAR. Pyth. 7, 9b:

 言い伝えられるところでは、ピュトー〔デルポイ〕の船渠が、一部の人たちの言うにはペイシストラトス家の者たちによって、焼き払われたのを、アルクマイオーン家の人々が、再建しようと請け合い、金銭を受け取って軍勢を引率して、ペイシストラトス家の者たちに攻めかかり、勝利して、多大な感謝の生贄とともに、この神〔=アポッローン〕のために神域を再建したが、それは、ピロコロスが記録しているところでは、かつて彼らがこの神に祈願したからであるという。

断片116
AELIAN. N.A. 12, 35:

 わたしは聴き知っている……アリプローンの子クサンティッポス〔=ペリクレースの父親〕の犬たちは主人思いであったと。というのは、アテーナイ人たちが艦船に移動したとき――時あたかもペルシア人がヘッラスに対して大戦の火の手をあげ、祖国を棄てて三段櫂船に搭乗するがアテーナイ人たちにとってよりよいとの神託がくだされたときのこと、くだんの犬たちも残留しようとはせず、クサンティッポスといっしょに移動しようと、泳ぎ切ってサラミスに上陸したのである。じっさい、このことを言っているのは、アリストテレース(F 399 R)とピロコロスとの両人である。

断片117
SCHOL. ARISTOPH. Lys. 1138:「あんたらは知らないんだ、――ペリクレイダースが昔ここへやって来て、/ラコーン人がアテーナイ人たちに対する嘆願者となって、/真紅の外套に顔面蒼白となって祭壇の上に座り込み、/援軍を頼みこんだ。そのとき、メッセネーは/あんたらに襲いかかり、同時に神も大地を揺さぶったのです。/そこで、四千の重装歩兵引き具して/キモーンが出かけていって、ラケダイモーンをそっくり救いました」。

 アッティスを著した人たちも(329 F 4)ラケダイモーン誌についてこのことを記録している。しかしピロコロスの主張では、ラケダイモーンを襲った災禍に乗じて、アテーナイ人たちは嚮導権をも握ったという。

断片118
SCHOL. V ARISTOPH. Nub. 213:「というのは、ペリクレースが将軍となったとき、わしたちとペリクレースに(エウボイアは)のされちまった」〔前446年、トゥキュディデース『戦史』第1巻114参照〕

 ペリクレースが将軍となったとき、彼ら〔アテーナイ人たち〕は全島を征服したと、ピロコロスは主張する、つまり、他の都市は降伏させたが、ヘスティアイア〔エウボイア北端の都市〕人たちだけは〔よその地に〕入植させられ、自分たち〔アテーナイ人たち〕がその領地を取得したという。  〔「ペリクレースは……ヘスティアイアでは市民をことごとくその土地から立ち退かせ、アテナイ人を入植させた。ヘスティアイア人にだけ容赦のない態度で臨んだのは、前にアテナイの船を拿捕してその乗組員を殺したことがあったためである」(プルタルコス「ペリクレース伝」23)〕

断片119
SCHOL. V ARISTOPH. Vesp. 718:「ところが臆病風にとりつかれたとなると、奴らはあなたがたにエウボイアを与えようとする。それからみんなに50メディムノスずつの穀物を供給すると約束する。ところが実際にはまず大麦の5メディムノス以外には何もあなたに渡さない。それもほんの1コイニクスずつ惜しそうにだ、それも、やっとのことであなたがたが外人居留法の検査に通ってからですよ」〔高津春繁訳〕

 〔ここで言われているのは〕小麦の配給の際に、市民であると否とが厳しく調査されたあまりに、裁判にかかった者たちは、居留民法を逃れようとしたと思われたほどだったときのことである。再びピロコロスの主張によれば、当時、移入民は4760人であったと、先ほどの本文で明らかにされているところである。エウボイアに関する事件は、これもこの演目〔『蜂』〕に歌いこまれているとみることができる。そこ〔エウボイア〕に出征したのは、ピロコロス(F 130)によれば、前年の、イサルコスが筆頭執政官の時だからである。だから、アイギュプトスからの贈り物について言っているのでは決してない、〔アイギュプトスからの贈り物は〕ピロコロスの主張では、〔エジプトのファラオ(在位、前660-609)〕プサムメーティコスが、リュシマキデースの筆頭執政官の時に、民衆に3万[数に関することは全然一致していないことは別にして]、アテーナイ人たち1人5メディムノスあて、を送った。受け取った者〔の数〕は14240人にのぼったという。

断片120
SCHOL. V ARISTOPH. Veps 947:「〔ブデリュクレオーン:〕だがこいつは何にも言うことがないらしいぞ。/〔ピロクレオーン:〕そうじゃない。こいつはトゥキュディデースがかつて法廷に立たされたときと同じありさまになっているのです。とつぜん両の顎が発作的に麻痺して動かなくなったのですよ」

 ……他に。歴史的なことをいえば〔こうである〕。〔このトゥキュディデースは〕けっしてペリクレースの政敵ではなかった。このことはピロコロスが記録していて**彼〔トゥキュディデース〕がどこの国においても(喜劇作家たちの間でさえ)知られた人物ではなかった所以は、クレオーンといっしょにトラキア遠征〔前422年、『戦史』V_2 ff. 参照〕を主張したために、少し後に追放刑の有罪判決を受けたからである。しかし一部の人たち――この中にはアムモニオス(350 F 1)も含まれている――は、ステパノスの子だと〔いう〕。しかしこれも疑問視する人がいることは、先に述べられたとおりである。実施された陶片追放が、メレーシアスの子で、陶片追放された〔前442年〕ことを明らかにした。しかるに歴史家テオポムポス(115 F 91)は、パンタイネトスの子で、ペリクレースの政敵だったと主張する。だが、メレシアスの子だと〔いっているの〕は、アンドロティオーン(324 F 37)ではなく、当の本人なのである。

 〔メレーシアスの子トゥキュディデース。  名門に生まれ、キモーンと姻戚関係にあった。キモーンの死後、保守派の領袖としてペリクレースと争った。前422年に陶片追放により10年間の国外放逐にあった。帰国の後、老齢の身で告訴された(『蜂』947)。保守的なアリストパネースが彼に同情しているのは当然であるが、アリストテレースも『アテーナイ人たちの国制』28章で彼をニキアスとともに「善かつ美、また政治的能力豊かで、国家を祖国の伝統に導いた者との定評があった」としている。(『アカルナイの人々』702村川堅太郎訳注)
 トゥキュディデースはありふれた名前であった。ペリクレースの政敵ではないトゥキュディデースは、『戦史』I_117にも見える〕

断片121
SCHOL. RV ARISTOPH. Pax 605:「災いの最初の原因はひどい目にあったペイディアースだ。/次にペリクレース……この市を燃え上がらせた。/メガラに関する決議というちょっとした火の粉を投入して云々」

 ピロコロスは、テオドーロスが筆頭執政官の時に、次のようなことを主張している。「大神殿に立てられた黄金のアテーナの奉納神像は、黄金の重さ44タラントンもあり、幹事長(epistates)はペリクレース、制作者はペイディアスであった。ところが、制作者ペイディアスは、モザイクのための象牙を横領したと思われて、裁きを受けた。そしてエーリスに亡命し、オリュムピアにあるゼウスの奉納神像の制作を請け負ったといわれるが、これが仕上がったところで、エーリス人たちによって処刑されたという」。ピュトドーロス――この人物は彼〔ペイディアス〕の7代目の子孫である――の時に、メガラ人たちについて〔ピロコロスは〕こう云う。彼ら〔メガラ人たち〕も、アテーナイのアゴラや港湾で不正な扱いを受けたと言って、ラケダイモーン人たちのところでアテーナイ人たちの非を鳴らした」。というのは、アテーナイ人たちは、ペリクレースの発言で、彼ら〔メガラ人たち〕は女神たち〔デーメーテールとペルセポネー〕の土地を聖くすべしという、このことを票決した。しかし、一部の人たち(Ephoros 70 F 196)の言では、奉納神像制作者ペイディアスが、国から横領したと思われ、追放されたので、ペリクレースは、奉納神像をこしらえる幹事長であったので、横領の共犯者にされることを恐れ、メガラ人たちに対する告知を書いて、戦争に持ちこんだ、それは、アテーナイ人たちが戦争に専念して、執務報告(euthyna)をしなくてすませるためであるという。しかし、ペリクレースに対するこの猜疑は明らかに無根拠である、戦争が始まったのは、ペイディアス疑惑の7年後だからである。ペイディアスは、ピロコロスの主張では、テオドーロスが筆頭執政官の時に、アテーナの奉納神像をくすね盗って、黄金と象牙を貼りつめたアテーナ〔像〕の大蛇たちから黄金を剥ぎ取り、このとがで有罪判決を受けて、追放刑の罰を受けた。そしてエーリスに行って、エーリス人たちのもとでゼウス・オリュムポスの奉納神像の制作を請け負ったが、盗みのかどで彼らに有罪判決を受け、処刑されたのである。

断片122〔?〕
SCHOL. V ARISTOPH. Av. 997:「メトーンじゃよ。ギリシアにもコローノスにも名の通っておる」

 最も優れた天文家(astronomos)にして幾何学者(geometres)。いわゆる年男(eniautos)とはこのメトーンのことである。カッリストラトスの主張では、コローノスに彼の一種の奉納物である星の計測器があったという。しかしエウプロニスによれば、区のコローノス出身だったという。ところがこれは嘘である。なぜなら、ピロコロスの主張では、彼はレウコノエー区民であるという。だからカッリストラトスのいうことは†明らかである。すなわち、おそらく、コローノスにも何かがあったのだろうから。しかしピロコロスの言によれば、彼はコローノスには何も立てなかったが、ピュトドーロスの前のアプセウドスの〔筆頭執政官の〕時に、プニュクス丘のある市壁の近く、現在民会場があるところに日時計(heliotropion)を〔立てた〕という。だが、(一部の人たちの主張では)プニュクス丘も囲いこまれているあの一帯の地全体ではけっしてなく、コローノスはいわゆる賃労働者〔が雇われるコローノス〕とは別である。こういうふうに、ストア・マクラ〔「長い柱廊」〕の背後をコローノンと呼ぶことは、今よく知られているという。しかしそうではないのだ。なぜなら、あの一体全体はメリテー(Melite)であるとは、国の規定集(375 F 1)の中に書かれているとおりである。おそらくは、彼〔メトーン〕はコローノスに泉のようなものをこしらえたのだろう。プリュニコスがモノトロポスに(意376, 21 K)に謂う、
  †これらの後、これ〔女性・属格〕に気を遣ったのは誰か?
  レウコノエー区民メトーンです。
  知っている、泉〔複数〕を引いたやつだな
 モノトロポスも、同じカブリアスの時に追放を赦された。

 〔『コローノスのオイディップウス』のコローノスは、市壁内のコローノスと区別するため、区の名祖コローノスは騎士と考えられていたことから、コローノス・ヒッポテース(『コローノスのオイディプウス』59)と呼ばれる。前者はコローノス・アゴライオス〕

断片123
SCHOL. V ARISTOPH. Pax. 990:「われら恋いこがれて、はや/10と3年」

 言っていることが年数と一致しない箇所〔?〕。『アカルナイ区民』(266)の中でも「6年ぶりに在所に帰ってみれば」とある。しかしまたピロコロスは、戦争のきっかけになったと思われるピュトドーロスの〔筆頭執政官の〕時〔前434/3〕から、〔喜劇『平和』の上演された〕イサルコスの〔筆頭執政官の〕時までを数えて、13年という年数を導いている。さらにトゥキュディデース(4, 116, 3 ff.)は、冬期と夏期の侵攻時に戦争が行われたと言っているが、みずからもこの数には至らず、9年以上にはならないのである。〔?〕

断片124
SCHOL. EURIPI. Andr. 445:「おお、人という人にとって、世の中で最も憎むべきは/スパルタの輩」〔西村太良訳〕

 これは、アンドロマケーにことよせて、エウリピデースがラケダイモーン人たちを、戦争を仕掛けたゆえをもって悪罵して謂っているのである。というのも、じっさい〔ラケダイモーン人たちが〕アテーナイ人たちとの条約を破ったことは、ピロコロス派の人たちが書き留めているところである。しかし、上演年代をはっきりさせることはできない。〔この劇=『アンドロマケー』は〕アテーナイでは上演されなかったからである。

断片125
SCHOL. SOPHOKL. O.K. 698:

 ラケダイモーン人たちが聖なるオリーブ樹(moria)〔の植樹〕をやめたことは、他の人たちもだが、ピロコロスも記録している(以下、アンドロティオーン断片(324 F 39)に続く)。
 point.gifアンドロティオーン断片32

断片126
ATHEN. 5, 58 p.217 DE:

 そういうわけで、アルケラオスの前にペルディッカスが王支配したが、〔その支配期間は〕アカントス人ニコメーデース(III C)の主張では、41年間、テオポムポス(115 F 279)によれば35年間、アナクシメネース(72 F 27)によれば40年間、ヒエローニュモス(154 F 1)によれば28年間、マルシアス(135/6 F 15)とピロコロスによれば23年間である。

断片127
SCHOL. V ARISTOPH. Vesp. 240:「急げ急げ皆の衆、今日はラケースの番だ。/あいつはしこたま金を持っているという評判だ。昨日はわしらの保護者のクレオーン殿が充分時間に間に合うように、あいつに対するにがい憤りの兵糧を3日分用意して、あいつの不正を懲らしめに、やって来るように命令なすったのだ」

 ここで謂っているのは、クレオーンがラケースを裁判に訴えたときのことである。デーメートリオス(228 F 31 bis)の主張では、3年前のエウクレースが筆頭執政官の時、彼〔ラケース〕は将軍となり、レオンティオノイ人たちを救援するため、艦船をともなってシケリア島に派遣されたという〔前427年、戦史III_86〕。しかし、ピロコロス派の人たちの主張では、彼の〔将軍職の〕後任になったのがソポクレースとピュトドーロスで〔『戦史』III_115〕、彼らは〔後に〕追放刑に処せられた〔前424年、『戦史』IV_65〕。とにかく、彼が審判に召喚されるのは当然で、この喜劇作家〔アリストパネース〕はその審判に言及しているのである。

断片"128a"
SCHOL. RV ARISTOPH. Pax 665:「彼女〔「平和」の女神〕はこうおっしゃっている、ピュロスの事件の後、わたしは自分で/休戦のいっぱい入った箱をこの町に持参したが、民会の挙手採決で三度否決されました」〔トゥキュディデース『戦史』第4巻41〕

 ピロコロスの主張はこうである。「ラケダイモーン人たちは休戦を求めて使節団をアテーナイに送り、ピュロスにある兵員と引き替えに、その艦船60艘を引き渡すことで、和平条約を結ぼうとした。しかしクレオーンがこの休戦に反対し、民会で党争が起こったと言われている。そこで幹事役(epistates)が〔評議会に〕質問することになった。ついに戦争続行を望む者たちが勝利した」。他には。ピュロス事件の後。クレオーンの時代にラケダイモーン人たちが使節団を送ったときに、〔アテーナイ人たちは〕民会で党争を起こしたというのが、ピロコロスの主張である。ピュロス事件の後、クレオーンが捕らえた〔前425年、戦史IV_28 ff.〕戦争捕虜たちについても、ラケダイモーン人たちは〔使節団を〕アテーナイに送り、戦争中に拿捕したアテーナイの三段櫂船を返すと公約し、同時にまた和平と条約をも〔申し出た〕。しかし、このときクレオーンが反対し、幹事役が評議会に、和平か戦争か、何を望むのかと、3択の質問をした結果、評議会は戦争継続を選んだのである。
断片"128b"
SCHOL. LUKIAN. Tim. 30 p.116, 4 R:

 彼〔キモーン〕はラケダイモーン人たちとの和平にも立ちはだかった。和平の期間は、ピロコロス[とアリストパネース]によれば、筆頭執政官エウテュノスの時を提起している〔?〕。アリストテレースは『〔アテーナイ人たちの〕国制』(28, 3)の中で、彼〔クレオーン〕は衣服を腰に巻きつけなどして民衆演説をした、という。

断片129
SCHOL. V ARISTOPH. Vesp. 210:「ゼウスにかけて、わしにとってましってものだ、/こんな親父を追いかけているよりは、スキオーネー〔パレーネー半島にある町。前421年夏奪回。『戦史』第5巻32参照〕を追いかけている方が」

 ピロコロスの主張では、イサルコス〔が筆頭執政官〕の時代に、2年前にブラシダスがスキオーネー人たちをアテーナイから離反させた、そこでアテーナイ人たちは三段櫂船50艘でまずはメンデースを攻略し、ついでスキオーネーに攻囲壁を築いたという。

断片130
SCHOL. V ARISTOPH. Vesp. 718:〔断片119参照〕

 エウボイアに関する事件そのものをもこの演目に唱和させることができる。すなわち、1年前のイサルコスが筆頭執政官の時、〔アテーナイ人たちは〕この島に出征したと、ピロコロスが。

断片131
SCHOL. RV ARISTOPH. Pax 466:「ボイオーティア人めらが、吠え面かくぞ」

 彼らがちっとも和平に関心を示さないことをいう。というのは、アルカイオス〔が筆頭執政官〕のとき、ピロコロスの主張では、アテーナイ勢とラケダイモーン勢と同盟諸国との間では、50年和平条約が成約したが、ボイオーティア人たちとコリントス人たちとエーリス人たちは別だったからである。

断片132
SCHOL. RV ARISTOPH. Pax 475/7:「このアルゴス人どもときたら、前々から、ちっとも引っ張ろうとはしないぞ」

 ピロコロスも主張しているが、コリントス人たちとアルゴス人たちは、再び戦争を始めた連中から漁夫に利をせしめたという。

断片133
SCHOL. V ARISTOPH. Lys. 1094:「ヘルモコピダイたちの(「ヘルメース神像毀損事件〔前451年〕の犯人たちの」複数属格)」

 シケリア〔遠征〕に出航しようとしたとき、ヘルモコピダイがヘルメース神像を壊したのは何のためだったのか……この原因を、ある人たちは、トゥキュディデース(6, 27/8)のように、アルキビアデース一派のせいにし、ある人は、ピロコロスのように、コリントス人たちのせいにする。ただ、アンドキデースのヘルメース神像だけは壊されなかったと彼〔ピロコロス〕は主張する。

断片134
SCHOL. V ARISTOPH. Av. 766:「また、ペイシアスの子が裏切って不面目なやつらに城門を売り渡す/つもりなら」

 ペイシアスの子が何者であるか、またその裏切りについても、わたしたちは何もはっきりしたものを有していない。しかし、あまりに邪悪な連中の一人であることは、クラティノスが『手』『城門』『季節』(I 66, 174 K)の中で明らかにしている。ペイシアスの子がもしもヘルモコピダイの共犯者であるなら、ピロコロスが主張しているように、〔連中は〕カブリアスの死に有罪判決を下されたばかりか、その名前も石標に刻まれ、その財産も没収され、人殺しの罪で1タラントンの罰金を宣告されたはずである〔?〕

断片"135a"
SCHOL. V ARISTOPH. Pax 1031:

 スティルビデースは、古伝の神託集の解釈者たちのうち、評判のよい音に聞こえた占い師である……。……占い師スティルビデースは、ピロコロスの主張では、アテーナイ人たちがシケリアにも出征したとき、シケリアに従軍したという。彼に言及しているのは、エウポリスも『諸都市』(I 316, 211 K)で。
断片"135b"
PLUTARCH. Nikias 23:

 さて、準備万端整い、敵勢の誰一人として見張っていなかった……その夜、月が欠け始めたので、大いなる恐怖が、ニキアスのみならず、無経験と迷信深さのためにこういったことに驚倒した他の連中をもおそった。……(7)しかしながら、この時、経験を持った占い師がニキアスに同行していなかった。というのは、彼の知己であり、たいていの迷信をはらしてくれていたスティルビデースは、この少し前に死んでいたからである。(8)この前兆は、ピロコロスの主張によれば、敗走する者たちにとっては凶兆ではなく、まったくの前兆であったという。なぜなら、恐怖をもっての作戦行動は、隠密を必要とするが、光はそういう者たちにとって敵だからである。(9)とりわけ、太陽や月に関する事象の予告は、3日前ならできるとは、アウトクレイデース(353 F 7)が『神事解釈書』の中に書き記しているところである。ともあれニキアスは、次の月の周期を待つよう説得した、それはあたかも、大地〔=地球〕によって遮られた〔月の〕影の部分を通過しても、それでただちに浄化された月を見るわけではないというかのように。

断片136
HARPOKR. 「法編纂委員(syngrapheis)」

 ……このとき〔前411年の政変〕選ばれた法編纂委員は全部で30人だった、これは、アンドロティオーン(324 F 43)とピロコロスとが、それぞれ『アッティス』の中で主張しているところである。他方、トゥキュディデース(8, 67, 1)は、10人だけの先議委員(probouloi)に言及している。
 〔『アテーナイ人たちの国制』第29〜33章 参照〕

断片137
MARCELLIN. Vit. Thuc. 32:

 ディデュモス(p.323 Schm)によれば、亡命から帰ってアテーナイで暴行致死によって(scil. トゥキュディデースは亡くなったという)。[これはゼピュロス(VI)も記録しているという]つまりアテーナイ人たちは、シケリアにおける敗戦後、亡命者たちに――ただし、ペイシストラトス一族は除く――帰国を赦した。ところが彼〔トゥキュディデース〕は帰ってから暴行によって亡くなった……もちろん、亡命者たちに帰国が赦されたということは明白である、ピロコロスも言い、デーメートリオスも『筆頭執政官たち』(228 F 3)の中で〔言っている〕ように。

断片138
SCHOL. V ARISTOPH. Lys. 173:「三段櫂船が脚〔帆綱〕を持ち、女神のところに無尽蔵の銀子があるうちは、無理」

 アテーナイ人たちは、制海権を握り、無尽蔵の銀子がアクロポリスの女神のもとにあるうちは、友好を結ぶことはないだろう。というのも、じっさい、1000タラントンがたくわえられていたのである。ところが、これに手をつけ始めたのは、カッリアスが筆頭執政官の時であるが、この時に、この喜劇〔『女の平和』〕が上演されたとは、ピロコロスが『アッティス』の中で主張しているところである。

断片"139a"
SCHOL. EURIP. Or. 371:

 ……〔エウリピデースが〕『オレステース』を上演したのはディオクレースの〔筆頭執政官の〕時であるが、その前、ラケダイモーン人たちは和平に関して使節を送ったが、アテーナイ人たちは信じず、関心を示さなかった、それはテオポムポスが筆頭執政官の時で、ディオクレースの2年前のことである。そういうふうにピロコロスが記録している。
断片"139b"
同 772:

 おそらくは、個々の民衆指導をほのめかしているのであって、けっしてクレオポーンのことを〔ほのめかしているのでは〕ない。なぜなら、この『オレステース』の上演の2年前、アテーナイとラケダイモーンとの和平条約の成立を阻止したのがこの人物だからであるとは、ピロコロスが記録しているところである。

断片140
SCHOL. ARISTOPH. Plut. 972:「じゃ、籤にあたらんのに、法廷で飲んでたというのか」

 何のための裁判なのか不詳。〔法廷への分属が〕抽籤できめられたことは前述された。むろん、この〔『福の神』上演〕の前年に始めたが、そうやって評議会を開いたわけでもない。なぜなら、ピロコロスの主張では、グラウキッポス〔が筆頭執政官〕の時に、「評議会も文字〔を記した籤〕によってこのとき初めて着席した。そしてそのとき以降、今も、籤に引いた文字によって着席することを誓うのである」。
 〔裁判官たちを各法廷に分属する方法については、『アテーナイ人たちの国制』第63章5節、第64章4節を見よ。〕

断片"141a"
SCHOL. V ARISTOPH. Ran. 720:「古鋳貨幣と新鋳金貨とを同じに」

 アンティゲネースの筆頭執政官の時の前年、ヘッラーニーコス(323a F 26)の主張では、金貨が鋳造されたという。同様にピロコロスも、勝利の女神の黄金像〔を鋳なおして〕造られたものだと。
断片"141b"
同 725:

 ……銅貨をも言うことができよう。なぜなら、カッリアスの〔筆頭執政官の〕時に、銅貨が鋳造されたから。

断片142
SCHOL. RV ARISTOPH. Ra. 1196:「なんて幸せなやつなんだ、/エラシニデースの同僚将軍にならずにすんだとは」

 〔エラシニデースは〕アルギヌウサイ〔沖海戦〕をめぐって不運にあった将軍たちの一人。この人物と、〔アテーナイに〕とどまった者たち――トゥラシュッロス、ペリクレース、リュシアス、アリスとクラテース、ディオメドーン――は公的に処刑されたとは、ピロコロスが主張しているところである。デーメートリオス(228 F 31)の主張するところでは、エラシニデースにとっては苛酷なできごとであった、ヘッレースポントスに関する金銭横領のかどでも弾劾されていたからである。

断片143
SCHOL. V ARISTOPH. Plut. 1146:「遺恨をもたんでくれ、おまえさんもピュレーを占領した一人なら」

 帰還後、トラシュブウロス一派はピュレーを占領し、ペイライエウスで「三十人」に勝利したあと、市民はお互いに何らの遺恨も断じてもつべからずと[票決で]決議されたということをいっているのである。ところが、このことは、少なくとも〔第1『福の神』が上演されたとき(前408年)には〕まだ実行されておらず、すでに「三十人」時代になってからのことでもなく、ピロコロスも主張しているように、〔上演の〕5年後、トラシュブウロスの勝利が成り、クリティアスがペイライエウスで戦死した〔ときのことである〕。したがって、この〔文言〕は、どうやら、誰かがこの矛盾を無視して第2『福の神』からこの箇所に持ってきたか、あるいは、作者自身が後から挿入したらしい。

断片"144-145"
DIDYM. in Demosthe. 10, 34 col. 7, 28:

 そこで、デーモステネースが彼ら〔?〕にこの〔大王の〕和平(F 151)〔前386年〕を思い起こさせるのは当然ではなかったということは、

断片146
 この海戦によって、コノーンがアテーナイの長壁をも、ラケダイモーン人たちの意に反して、再建したことは、これも同じ著者が記録しているところである。弁論家が国〔アテーナイ〕に対する〔ペルシア大〕王の気前の良さに言及しているのは、すこぶる説得的な道理を有しているようにわたしは思う。というのも、じっさい、「以前にも国事の再建に協力した」という主張は、パルナバゾスの思惑でラケダイモーン人たちを海戦で敗るにはコノーンが役立つと思われていたことと、いかにも合致するからである。

断片147
HARPOKR. "Hagnias"の項。

 ……この人物と、その同僚使節団員とは、アンドロティオーン『アッティス』第5巻(324 F 18)およびピロコロスの主張によれば、ラケダイモーン人たちに捕らえられ、処刑されたという。
point.gifオクシュリンコス・パピルス『ヘッラス史』参照

断片148
SCHOL. RV ARISTOPH. Ekkl. 193:「また、この同盟たるや、われら考察せしとき、/成立せずんば国家滅亡は必定と主張された。/しかるに、いったん成立するや、不平を鳴らし、論者たちのうち/これを説得せし者は、たちまち遁走しさった」

 この同盟については、ピロコロスが記録している、アテーナイとボイオティアとの攻守同盟が〔『女の議会』上演の〕2年前に成立したと。

 〔この同盟はディオドーロスではPhormionのアルコンの年(前396/5年)スパルタを敵として結ばれたとされている(Diod. XIV 81, 2)。はじめハリアルトスの戦に勝ち有望なスタートを切り、コリントス、アルゴスの加入を見ていわゆるコリント戦役となった。しかしコリントにおいて同盟軍は破れ、アテナイ軍が特に打撃を受けた(前394年8月初めごろ)うえその後間もなくスパルタのアゲシラオス王のためにコロネイアで再敗した。194行の「いったん成立するや、不平を鳴らし」とあるのはその結果である。(『福の神』村川堅太郎訳注〕

断片"149a"
DIDYM. in Demosth. 10, 34 COL. 7, 11:

 ところで、一部の人たちが、ラコーン人アンタルキデースのときに下された和平〔前386年〕を、彼〔デーモステネース〕が以前の〔和約、前392年/1〕の修正条約(epanorthosis)だと言っていると主張するのは、いずれにせよわたしには正しいとは思えない。なぜなら、この和平を、アテーナイ人たちは受け入れなかっただけでなく、まったく正反対に、自分たちにとっては不敬な違法事として追い出したと、ピロコロスが名称そのものからして説明しているところだからである。アナプリュストス区民ピロクレウスが筆頭執政官の時を〔ピロコロスは〕こう述べている。「アンティアルキダスの時の和平をも〔ペルシア大〕王は下付したが、これをアテーナイ人たちは受け入れなかった所以は、その〔条文の〕中に、アシア在住のヘッラス人たちは、すべて、大王の家の扶養者(synnememenoi)であると書かれていたからである。いや、〔受け入れ〕なかったどころか、ラケダイモーンで譲歩してきた使節団を、カッリストラトスの書いているところでは、とどまって裁きを受けなかった連中ともども追放刑に処したのである、それは、ケーピシア区民エピクラテース、キュダテーナイ区民アンドキデース、スペーットス区民クラティノス、エレウシス区民エウブウリデースの面々である。〔前392/1年〕
断片"149b"
(125a) ARGUM. ANDOKID. or. 3:

 ヘッラス戦争が長引いたので……アテーナイ人たちは全権使節団をラケダイモーン人たちのところに派遣した、その中にアンドキデースも含まれていた〔前392/1年〕。しかし、一部の者たちはラケダイモーン人たちのもとで危険にさらされ、また、彼ら〔ラケダイモーン人たち〕も自分たちの使節団を派遣してきたので、民衆は40日以内に評議するよう決議した。そしてかかる状況で、アンドキデースは和平を締結するようアテーナイ人たちに進言した……ところがピロコロスの言では、ラケダイモーンからの使節団がやってきて、なすところなく引き返したのは、アンドキデースが説得できなかったからだと。しかしディオニュシオス(I 283 U_R)は、この話はまがいものだと言う。

断片150
HARPOKR. 「コリントス駐在の外人部隊(xenikon en Korinthoi)」

 デーモステネースが『ピリッピカ』(4, 24)の中で、またアリストテレースも『福の神』(173)で。これを最初に組織したのはコノーンで、のちにイピクラテースとカブリアスが引き継いだ。この部隊を用いて、ラケダイモーンの軍団を敗ったのは、イピクラテースとカッリアスがこれの将軍だったときであるとは、アンドロティオーン(324 F 48)とピロコロスが主張しているとおりである。

 〔アテナイ人でペロポンネソス戦役の敗北後アテナイの軍事的復興にペルシアの援助のもとに活躍したコノーンが、スパルタに対抗するために前393年にコリントスに配置していた傭兵隊。『福の神』村川堅太郎訳注〕

断片151
DIDYM. in Demosth. 10, 34 col. 7, 62:

 もうひとつ別の和平つまり大王から下付された和平――これをアテーナイ人たちは喜んで歓迎した――にも、デーモステネースは、今、言及することができよう。この和平についてはピロコロスが再び次のように述べている。〔前392年の、不調に終わった〕ラコーン人アンタルキダスの〔和平〕と似通ったこの和平を〔アテーナイ人たちが〕歓迎したのは、外人傭兵の維持も放棄し、すでに久しく戦争に疲弊しきっていていたからで、この時、「平和」女神の祭壇をも彼らは建立したのである。

断片"152*"
DIONYS. HAL. De Dinarch. 13 (I 321, 8 U_R):

 『メガクレイデース弾劾――財産交換(antidosis)について――』……この〔弁論の〕発言者はアパレウスだが、話の内容はデイナルコスの〔時代の〕ものではない。なぜなら、話されているのは、将軍ティモテウスがまだ存命中、メネステウスといっしょに出征したの時のことである。〔ティモテウスは〕この出征に関する執務審査を受けて逮捕された。ティモテオスが執務審査を受けたのは、カッリストラトス〔前354/3年〕の後、ディオティムウス〔が筆頭執政官の〕時で、この時にまた**〔以下、欠〕

断片"153*"
DIONYS. HAL. De Dinarch. 13 (I 320, 3 U_R):

 ピュライ〔=テルモピュライ〕への出征〔前352年〕を、最近起こったこととして言及している。
 ところで、ピュライへのアテーナイ人たちの出征は、トゥウデーモスが筆頭執政官の時に起こった。


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