断片154
DIONYS. HAL. De Dinarch. 13 (I 319, 10 U_R):
この弁論(scil. 『ペディエウスに対する』デイナルコスのパラグラペー)が話されたのが、アリストデーモスの筆頭執政官の時〔前352/1年〕ということは、この弁論そのものから明らかである。なぜなら、サモスに派遣された入植者は、この人が筆頭執政官の時に派遣されたとは、ピロコロスが『歴史』の中で言っているところだから。
断片"155*"
DIDYM. in Demosth. 13, 7 col. 13, 42:
メガラ人たちに対してアテーナイ人たちによってなされた事柄のうち、ヒエラ・オルガス(hiera Orgas)について、(デーモステネース、13, 32)が言及していること。それが起こったのは、アポッロドーロスが筆頭執政官の時であるとは、ピロコロスが記録しているところで、彼はこういうふうに書いている。「アテーナイ人たちはヒエラ・オルガスの境界のせいでメガラ人たちと仲違いし、将軍エピアルテースの指揮下、メガラのその地に侵攻し、ヒエラ・オルガスの境界を定めた。かくて、メガラ人たちが譲歩した結果、境界設定役(horistai)となったのは、大祭司(hierophantes)のラクラテイデース、松明持ち(daidouchos)のヒエロクレイデースである。また、オルガスを取り囲む端地も奉納したが、それは、神が、「良好・適切なものを嘆願者たちや働けぬ者たちに」〔?〕と託宣したからで、また、ピロクラテースの〔提案による〕決議にしたがって、ぐるりを石標で区画した。
断片"156*"
DIONYS. HAL. Ad Amm. 10 (I 269, 8 U_R):
すなわち、カッリマコスが筆頭執政官の時〔前349/8年〕に、アテーナイ人たちは、デーモステネースに説得されて、オリュントスに援軍を派遣したのだが、その後、テオピロスが筆頭執政官になって、この人の時に、オリュントス人たちの国をピリッポスが制覇したのである。
断片157
DIDYM. in Demosth. 10, 34 col. 8, 8:
リュキスコスが筆頭執政官の時〔前344/3年〕、ピリッポスは和平についてアテーナイに〔使節=ピュトーを〕派遣したが、アテーナイ人たちは大王の使節団を歓迎した〔ペルシアはエジプト遠征を控えていた〕、とはいえ、必要以上に小馬鹿にしてこれと会談した。というのは、ヘッラスの諸都市に来寇しないかぎり、アルタクセルクセスとの関係は平和だからである。このことを説明しているのはアンドロティオーン(72 F 28)で、彼はこの時も言っているが、アナクサメネース(72 F 28)も〔同じことを言っている?〕。しかし、〔ここでは〕ピロコロスのいっていることを書き添えるのがよりよいであろう。すなわち、彼〔ピロコロス〕は、リュキスコスが筆頭執政官の時のことを述べた後で付言している。「かかる状況で、大王はアテーナイに使節団を派遣し、自分との父祖伝来の友好を持続するよう要請したので、大王がヘッラスの諸都市に侵攻しないかぎり、大王との友好を持続すると、使節団にアテーナイで(?)答えた」。
断片158〔?〕
DIONYS. HAL. De Dinarch. 13 (I 320, 13 U_R):
『アテーナデースのために――アミュンティコスに対する応援演説。浮き桟橋(船橋?)について――』……この弁論が、アテーナイの将軍ディオペイテース〔前343/2年、デーモステネース弁論第8番参照〕が、ヘッレースポントス近海でまだ作戦に従事しているときに行われたことは、弁論の内容から明らかである。その時期は、ピュトドトスが筆頭執政官の間〔前343/2年〕だということは、ピロコロスが、他の〔アッティス作家たちとともに〕明らかにしているとおりで……この人物が筆頭執政官の時、〔デイナルコスは〕まだ20代にもなっていなかった。
断片159
DIDYM. in Demosth. 9, 57 sqq. col. 1, 13:
このこと(Demosth. 18, 79)については、ピロコロスの著作内容も証言している。すなわち、オーレオス〔エウボイア北部の都市〕に出撃した援軍について、それがソーシゲネースが筆頭執政官の時に起こったことを述べたうえで、〔ピロコロスは〕以下のことを主張している。「アテーナイ人たちはカルキス人たちとの攻守同盟をも成約し、カルキス人たちとともにオーレオス人たちを自由にした。スキロポリオーン(?)月、将軍はケーピソポーンテースで、〔オーレオスの〕僭主ピリスティデースも落命した」。
断片160
DIDYM. in Demosth. 9, 57 col. 1, 18:
エレトリアに対する(scil. 援軍)については、またもや同じ人物が、ニコマコスが筆頭執政官の時のことと述べたうえで、次のように主張している。「この人物〔が筆頭執政官〕の時に、アテーナイ勢はエレトリアに渡った、将軍はポーキオーン〔デーモステネースの政敵、マケドニア親派、前402/1生-319/8没〕。そして民衆派を帰還させ、クレイタルコスを攻囲した。この人物は、以前はプルウタルコスの党争相手にしてその政敵であったが、相手が倒れたので、僭主となった者である。この時、アテーナイ勢は彼を攻囲し、民衆に都市を引き渡した。
断片"161*"
DIDYM. in Demosth. 10, 1 col. 1, 29:
この話の時期をひとがすぐに知ることができるのは、ピロコロスがニコマコスが筆頭執政官の時のことを述べて、……〔以下、3行ほど判読不能〕……オーレオス人(Orites)ピリスティデースが攻囲されたのはソーシゲネースが〔筆頭執政官の〕時であり、エレトリア人クレイタルコスが〔攻囲されたのは〕ニコマコスが筆頭執政官の時である。云々〔???〕
断片162
DIDYM. in Demosthe. 11, 1 col. 10, 34:
アテーナイ人たちの対マケドニア戦争が勃発した〔前353年〕所以は、ピリッポスが和平を守るふりをしながら、いかにアテーナイ人たちを侮辱したかということもさることながら、とくに、ビュザンティオンとペリントスに対する彼の遠征は、二つの目的で諸都市を味方につけることに腐心したものであった、すなわち、一つにはアテーナイへの穀物輸送を遮断し、かつ、〔アテーナイ人たちが〕海沿いの諸都市を味方にして、艦隊基地を先取し、自分に対する戦争の避難場所にさせないことをねらったものであった。じつにこのときに、ヒエロンにあった貿易商人の船舶を――ピロコロスによれば200と30艘、テオポムポス(115 F 292)によれば180艘――を揚陸し、これから700タラントンを徴収するという、違法この上ない行動をしでかしたのであった。これは前年――ニコマコスの次の筆頭執政官の時に行われたことであるが、他の人たちもだが、ピロコロスもこう主張している。「カレースの方は、大王の将軍たちの集会のために〔艦隊を〕離れ、ポントスの船舶が結集できるよう、艦船はヒエロンに置き去りにした。他方ピリッポスの方は、カレース不在を察知して、まずは、将兵たちに船舶の揚陸を強要したがはたせず、陸路ヒエロンに渡り、船舶を制圧したのである。全部で200と30艘をくだらなかった。そして決定して〔?〕敵対関係をやめ、材木は兵器のために使って、かくて穀物と獣皮と財貨の覇者となったのである」。
断片163
[PLUTARCH.] Vit. X or. p.846 AB:
ハルパロス〔アレクサンドロス大王の主計官。前324年、公金横領してアテーナイに逃れんとした〕が公金を持ってアテーナイに逃亡しようとしたとき、初めは、彼を受け入れることを〔scil. デーモステネースは〕妨害した。しかし、〔ハルパロスが〕1000ダレイオス金貨を具して入港するや、立場を変え、アテーナイ人たちがこの人物をアンティパトロス〔マケドニアの武将にして摂政。アレクサンドロス大王の留守を預かった〕に引き渡すことを望んだにもかかわらず、これに反対して、その金を、いくらあるかを民衆にも言わぬまま、アクロポリスに奉納すべしと公訴した。しかし、ハルパロスが、700「タラントンをもって下向し、これはアクロポリスに運び上げられた」と主張したが、発見されたのは<300>と50〔タラントン〕かそれよりわずかに多い額であったと、ピロコロスが主張している〔この兼で、デーモステネースの政治生命は終わった〕。
断片164
[PLUTARCH.] Vita X or. p.847 A:
彼〔scil. デーモステネース〕が死んだのは、ピロコロスの主張では、毒を飲んでだといい、歴史編纂者のサテュロスは、葦の筆に毒が仕込まれていて、これで手紙を書き始めた時、それを舐めて死んだという。またエラトステネース(241 F 31)は、マケドニア人たちが腕輪に毒を仕込んで身につけていることを、久しい以前から〔デーモステネースは〕恐れていたという。また、彼〔デーモステネース〕は息が詰まって死んだと主張する人たちもおり、またある人たちは、印章に仕込まれた毒を舐めてだと言った。
断片165
ATHEN. 15, 52 p.697 A:
アンティゴノスとデーメートリオスにささげて、ピロコロスの主張では、アテーナイ人たちは、キュジコス人ヘルミッポスによって作詩された戦勝歌――戦勝歌作家たちの競演会が行われたとき、ヘルモクレースのが選抜されたのである――を歌うという。〔これでは意味をなさないので、「ヘルミッポス」を「ヘルモクレース」に変更するなどの読み替えが提案されている〕
断片166
SCHOL. PINDAE. Nem. 3, 4:
デーメートリオーン月は、その月全体を、全体が祭礼月のように聖月(hieromenia men)と言わるべしとアテーナイ人たちは票決したとピロコロスは主張する。
断片"167*"
DIONYS. HAL. De Dinarch. 9(I 310, 19 U_R):
……ピリッポス〔前292/1年?〕。この人〔直前のピリッポスを指すのか不明。もしもそうなら、筆頭執政官の名前が1人欠落していることになる〕の時に、デーメートリオス王によって、他の亡命者たちのみならずデイナルコスにも帰国が赦された。
断片168
ANTIATTIK. p.86, 20 Bkr:"Genesia"〔死者の誕生日を祝う日。ヘロドトス、IV_26〕
アテーナイにおける公費(demoteles)による祭礼で、ボエードロミオーン月の5日に催され、ゲネシア祭(Genesia)と呼ばれたとは、ピロコロスが主張し、ソローンも『条規集(Axones)』〔「車軸(axon)」の意の男性・複数形。ソローンの法は、回転する標注に書き付けられた。"kyrbis"(複数形"kyrbeis"〔回転するもの〕も同じ〕の中で、また、この名詞の使用法はヘッラス語的である、公費による祭礼のみならず、各私人の祭礼に〔この語が使われて〕も、何のさしさわりがあろう。〔?〕
断片*169a*
ATHEN. 1, 16 p.9 CD:
ピロコロスが記録しているところでは、まだ毛を刈られていない仔羊を食することは、アテナイ人たちに禁じられていたのは、かつてこの動物の出産率が低下したことがあったからだという。
断片*169b*
同 9, 17 p.375B:
また、アンドロティオーン(324 F 55)の主張するところでは、昔の法もあって、家畜の子孫〔を確保する〕ために、まだ毛を刈られていない、あるいは、まだ仔を産んだことのない羊は、血祭に供すべからずということになっていたという。[それゆえ、すでに成長したのを彼らは食べたのである。「肥えたブタは求婚者たちだけが召しあがる」(Od. XIV 81)] だから今も、アテーナの女神官は仔羊を供犠することなく、チーズさえ食することがない。つまり、ある御代のこと、牛が欠乏したので、ピロコロスの主張では、彼らはこの動物の血祭の廃止を立法し、供犠に付さぬことで、〔牛が〕集まり増えることを望んだという。
断片170
ATHEN. 2, 6 p.37 E:
ピロコロスは主張する、――酒飲みは、自分がいかなる人間かを自分で暴露するばかりでなく、言いたい放題で、他人の人それぞれの正体までも露見させてしまう、と。ここから、「酒と真実」(Alkaios F 66 D)と言われ、「<酒は>人の心をあからさまにする」(Theogn. 500)とも〔言われるのである〕。ディオニュソスの祭礼の時の勝利杯も鼎である。というのも、真実を語る人たちのことを、われわれは「鼎から語る」と称するからである。ディオニュソスの鼎とは、混酒器(krater)のことだと考えるべきである。というのは、昔は鼎に二種類あって、そのいずれもが一致して「釜(lebes)」と呼ばれていた。その一方は、風呂の湯を沸かすための釜で、これは火にもかけられた――アイスキュロス(F 1 N 2)に、「鼎を受けたるは、この家の釜、/火の上なるおのれの場所を常に守りいたり」とある――、もう一方は、「混酒器(krater)」と呼ばれるもの――ホメーロスに、「まだ火にかけぬ鼎が七つ」(Il. IX 122)とある。この鼎で酒を水で割ったのであって、これこそが「真実[に親(みずから)の]鼎」である。それゆえ〔鼎は〕、予言の真実という点からはアポロンに親(みずから)のものであり、酩酊に真実ありという点からは、ディオニュソスのものということになる。
断片171
ATHEN. 11, 13 p.464 F:
これ〔アテーナイの習慣〕については、ピロコロスが次のように言っている。「アテーナイ人たちは、ディオニュシア祭の競技の際に、先ず最初に小昼をとって酒を飲んでから、見物に出かけ、花冠をかぶって見物した。そして競技の間ずっと人々に酒が振る舞われおつまみ(tragemata)が供応された。そして、合唱舞踏隊が入場すると、これに酌をして飲ませ、競演が終わって退場するときには、再びこれに酌をした。喜劇作家ペレクラテースもこういったことに証言をして、自分の時代まで、観衆が欠食者になることはなかったという」。
断片172
ATHEN. 14, 24 p.628 A:
ピロコロスの主張するところによれば、昔の人たちが潅酒する場合、いつもディテュランボス詩を歌ったわけではなく、ディオニュソスに対しての場合は、葡萄酒で潅酒して酩酊したが、アポッローンの場合は、平静にして、すぐに歌ったという。とにかくアルキロコス(F 77 D)は主張するのである、「ディオニュソスより流れ出ずる美しき旋律すなわちディテュランボス詩の始め方を我は知れり、酒にて心を電撃されなば」と。またエピカルモスも、『ピロクテーテース』(F 132 Kaibel)の中で主張した、「ディテュランボス詩はなし、水を飲む時には」と。
断片173
ATHEN. 14, 72 p.656 A:
しかしながら、アテーナイ人たちは、ピロコロスの主張するところでは、ホーラたちに供犠する時、肉を焙るのではなく、煮るのであるが、それは、女神たちが酷暑や日照りを防ぎ、適度な暑気と季節の〔=ホーラの〕雨によって植物を生き生きとさせてくれるよう懇願してのことである。なぜなら、焙ることが益をもたらすこと少ないが、煮ることは、ただに未熟さを取り除くばかりか、固い部分を軟らかくし、残りを熟成させられるからというのである。
断片174
BOCCACCIO Gen. deor. gent. 10, 9:
.... quod autem illam (scil. Scyllam) occiderit Hercules, dicit Theodontius (p. 104 Landi) ob id fictum, quia unicus Ciclopis filius inter saxa Scyllae perierit, quam ob rem in ultionem suam Ciclops maximis molibus loco iniectis ora Scyllae clausit et invium fretum fecit et ob id mortua Scylla dicta est. tractu tamen temporis omnia iniecta in se retrahens mare locum redegit in formam pristinam, et sic a Phorco suscitata est filia. Scyllam autem Phorci fuisse filiam dicit Theodontius a Filocoro testari, eamque, cum ex Sardinia Stheleno Corinthio nobilissimo iuveni mitteretur in coniugem, ibidem perisse et loco reliquisse nomen.
断片175
CLEM. AL.〔アレクサンドリアのクレメンス、150頃-215頃〕 Protr.(Protreptikos)〔ギリシア人への勧告〕 2, 30:
ピロコロスの主張では、テーノス〔キュクラデース諸島の1つ。アンドロス島とデロス島との中間の島。現在のティノス島〕ではポセイドーンが医神として崇拝されているが、クロノスを襲ったのはシケリア島で、ここに彼が埋葬したという。〔?〕
断片176
CLEM. AL. Protr. 4, 47, 5:
また、アテーナイ人テレシノスの作品は、ピロコロスの主張では、テーノス島で跪拝されているポセイドーンとアムピトリテースの9ペーキュスの奉納神像である。
断片177
ET. M. p.451, 40:"Theseion"
テーセウスのための神域で、家僕たちの避難所であった(しかし、ここには裁判があったといわれていた)、あるいは、テーセウスの神殿で、ここに逃亡奴隷たちが逃げこんだ。ピロコロスの主張では、昔は家僕たちのみならず、いろいろな仕方の嘆願者たちも"Theseion"に駆けこんだという。
断片"178a"
ET. (GEN. p.161 Mi) M. p.457, 32:"Thyelai"
供儀のさいの犠牲獣の刻み(thyele)である。ふつうには、香木(thymiamata)を入れる袋、誤用されて供御すべて〔を意味する〕。したがって、"Thyelai"とは、供御の初穂すなわち焚き供御(thysiai)〔"thysia"の複数形〕のことである。ピロコロスは、大地(Ge)の娘たちが"Thyelai"で、彼女たちが初めて神々に供儀したという。finis col.
断片"178b"
EKL. DIAPH. LEX. A.O. II 448, 19 Cramer:"Thyelai"
ピロコロスは、大地(Ge)の娘たちが"Thyelai"で、彼女たちが初めて神々に供儀したという。["thyoskooi"〔供御検見役〕とは、火に焼いて供儀された犠牲獣によって占う人たちのことであり、神官(hiereis)〔"hiereus"の複数形〕とは、犠牲獣の内臓によって占う人たちのことである]。しかし、ふつう、"Thyelai"とは、香木(thymiamata)を入れる袋のことである。finis col.
断片179
FULGENT. Myth. 1, 14 p. 24, 15 Helm:
at vero amica Apollinis ab hac re vocitata est (scil. laurus), quia illi qui de somniorum interpretatione scripserunt, ut Antiphon Filocorus et Artemon et Serapion Ascalonites, promittant in libris suis quod laurum si dormientibus ad caput posueris, vera somnia esse visuros.
断片180
HARPOKR. (SUD.) "peristoichoi"の項。
デーモステネース(53, 15)が……「幾列にも列をなし〔て植えられ〕たオリーブ樹園の略称」。ディデュモス(p.315 Schm)は、一種のオリーブ樹を"peristoichoi"と呼んでいるが、これはピロコロスが"stoichada"〔単数は"stoichas"だが、常に複数で用いられ、「列をなして植えられたオリーブ樹」の意〕と命名したものである。この弁論家〔ディデュモス?〕が、耕地の周りにぐるりと列をなして植えられた植物を"peristoichoi"と呼んだことは一度もない。
断片181
HARPOKR. (SUD.) "pompeias kai pompeuein"の項。
……"pompeia"とは、祭り行列のために調達された用具のことが言われているとは、同じ弁論家が『アンドロティオーン弾劾』(Demosth. 22, 48)の中で示唆している。「しかし」とピロコロスは主張する、「"pompeioi"〔祭船〕として、アテナイ人たちが初めて、30人の財産によってまかなわれた船を使用した。しかし後には」と彼は主張する、「アンドロティオーン(324 T 5)も別のことを調達した」〔?〕。
断片182
HARPOKR. EPIT. (PHOT. SUD. ET. M. p.768) "Tritopatores"〔〕の項。
ピロコロスは、"Tritopatores"は万人の始祖だったという。「なぜなら、(彼の主張では)大地(Ge)と、かつてはアポッローンとも呼ばれた太陽(Helios)とが、自分たちの両親で、この両親から3人の父親が生まれたと、かつての人間たちは信じていたからである」。
断片183
LEX. RHET. p.239, 7 Bkr:"deopnophoros"〔食事運び(人)〕
祭礼の名称。すなわち、"deopnophoria"〔食事運び〕とは、ケクロープスの娘たち――ヘルセー、パンドロソス、アグラウロス――のために食事を運ぶこと。一種神秘的な仕方で豪勢に運ばれた。それも多くの人たちが執り行った。名誉愛にかかわることだったからである。ピロコロスの主張では、ミノータウロスのために送り届けられるために閉じこめられている〔男女〕7×2〔14〕人の子どもたちの母親たちが、この彼らのために、毎日、食事を運び、彼らのもとに通った、そして、祈りかなって帰還後、これを受け継ぎ、子どもたち――"deopnophoros"と呼ばれる――が食事を持って練り歩くという。
断片184
MACROB. Sat. 3, 8, 2:
nam et apud Calvum (F 7 Morel) Ateri- anus adfirmat legendum "6pollentemque deum Venerem"6, non deam. signum etiam eius est Cypri barbatum corpore sed veste muliebri cum sceptro ac na- tura virili, et putant eandem marem ac feminam esse. Aristophanes (I 563, 702 K) eum Aphroditon appellat. ( 3) Laevius (F 26 Morel) etiam sic ait "6Venerem igitur almum adorans, sive femina sive mas est, ita uti alma Noctiluca est"6. Philochorus quoque in Atthide eandem adfir- mat esse Lunam et ei sacrificium facere viros cum veste muliebri, mulieres cum virili, quod eadem et mas aesti- "3b,328,F".184.10 matur et femina.
断片185
PHILODEM. P. eujs. Pap. 1428 A 3 v. 5:
エムペドクレースはその『讃歌(Hymnoi)』(Vorsokr. 31[21]A33)の中で、ピロコロスの作品においても、大地(Ge)とデーメーテールとはヘスティアに同じである、このことはソポクレースも『イナコス』(268 N 2)の中で、大地(Ge)は神々の母であると主張し、『トリプトレモス』(558 N 2)の中では、ヘスティアも〔神々の母〕であると〔主張している〕。
断片186
PHOT. BEROL. p.77, 10 Rei:"Alkyonides hemerai"〔「カワセミの日々」。"Alkyonide"は「Alkyoneusの娘たち」の意。アルキュオネウスは巨人族の一人で、生まれ故郷にあるかぎり神々も敵しえず、神々と巨人族が争ったギガントマキアのとき、アテーナーの一計で、ヘーラクレースが彼を故郷のパレーネーより連れだし、殺害した〕
その〔Alkyoneusの娘たちの〕人数はまちまちである。すなわち、シモーニデースは『五種競技』(F 20 Diehl)の中で、またアリストテレースも『動物誌』(5, 8 p.542 b5)の中で、彼女たちは14人と主張しているが、サモスのデーマゴラス(IV)は7人と、ピロコロスは9人と〔主張する〕。彼女たちに関する神話は、ヘーゲーサンドロスが『覚え書きについて』(IV)の中で次のように言っている。「彼女たちは巨人族のアルキュオネウスの娘たちであった。クトニア、アンテー、メトーネー、アルキッパ、パッレーネー、ドリュモー、アステリエーがそれで、彼女たちは父親亡き後、カナストライオン――これはパッレーネーの岬である――から海に身を投げた。しかしアムピトリテーが彼女たちを鳥に変え、父親にちなんでアルキュオーン〔カワセミ〕と呼ばれた。かくて、風の凪いだ、波穏やかな日々が、「カワセミの日々("Alkyonides hemerai")」と呼ばれるようになった」。
〔鳥類は、先に述べた如く、たいてい春の頃から夏の初めにかけて交尾し産卵するが、カワセミだけは例外である。カワセミ(Alcedo atthis)は冬至の頃産卵する。それゆえ、冬至が穏やかな日和ならば、冬至の前の七日と後の七日は「カワセミの日々」といわれるのであって、シモーニデースが歌ったとおりである。
ゼウス神冬月の十四日を静め給えば、地上の人々その日々を「なぎの季節」、目もあやなカワセミの子育ての「聖き季節」と呼ぶごと。
たまたまプレイアデス星〔すばる〕のある頃に北風が吹き、冬至に南風が吹くと、穏やかな日和になるのである。カワセミは七日間で巣を造り、残りの七日間で卵を産み、雛をかえす、といわれている。『動物誌』第5巻8章(542b)〕
カワセミ
断片187
POLLUX 10, 71:
ピロコロスは『アッティス』の中で、昔の著作者たちの作品においては、"amphoreus"と呼ばれるのは"kados"のことであって、"hemiamphorion"とは"hemikadion"のことであると主張する。しかしながら、エピカルモスは、『ピロクリネー』の中で、どうやら、"kados"と"amphoreus"とは区別しているらしく、こう云っている、「"kados"とも"amphoreus"とも説明できぬ」。
"kados"とは、丸い胴部の左右に、縦の把手がついた壷で、口が大きく、把手に紐を結んでバケツのように使用したという。大きさ、20-30Cm〔右図〕。(ギリシアの美術と考古学)
断片188
SCHOL. EURIPI. Hippol. 73:「この花冠はあなたのために、穢れなき野辺にて編んだもの」
この箇所はよく問題にされてきた。ある人たちは、ヒッポリュトスがアルテミスに花の冠をかぶらせたと解釈したが、ある人たちは[(a)ピロコロスはアグライアのアルテミスがシロツメクサの冠をかぶったと主張する]、ヒッポリュトスが独白してこう言ったのだという、――おお、女神よ、あなたのために花冠としてわが身を捧げます、と……また他の人たちは、この詩人は何も謎めいたことを言ったのではなく、普通のことを言ったにすぎず、ヒッポリュトスは本当に花冠をかぶらせたのだと主張する……また他の人たちの主張では、エウリピデースは、アルテミスに捧げる讃歌を比喩的に花冠と言ったのだという……(b)しかしピロコロスの主張では、木像には編んだ花冠を、女神には讃歌を捧げたのだという。わたしが素直に考えても、率直で不朽の見解といえる。
断片189
SCHOL. PROKL. HESIOD. Opp. 778:
〔毎月の〕12日までの月初めという意味で、その後は、月の欠ける〔=下旬の〕第1、月の欠ける第2と〔言われる〕。ただしピロコロスは、アテーナの〔誕生日である毎月の〕聖なる3の日すべてを言う。
断片190
SCHOL. PROKL. HESIOD. Opp. 808:
〔月の〕第19日は、第18日と同様、アテーナイの仕来りでは浄化と厄除けに充てられたとは、ピロコロスが言い、クレイデーモスも言っている、両者とも父祖伝来の仕来りの解釈者である。
断片191
SCHOL. T HOM. Il. VI 136:「テティスは内懐に(scil. ディオニュソスを)抱いた」
テティスとは、合理的にいえば、"amphoreus"〔両耳瓶『雲』1203〕を意味する。あるいは、†漁すべしという神託が与えられていたので、「†ここでディオニュソスを海水につけた」とは、ピロコロスが。
断片"192a"
SCHOL. PINDAR. Ol. 12, 10d:
……しかしピロコロスは、音声による占い、すなわち予兆(kledon)やくしゃみは、兆し(symbolon)と言われ、これを最初に使ったのはデーメーテールだと主張している。
断片"192b"
SCHOL. V ARISTOPH. Av. 721:「鳥占」
というのも、最初に出くわしたものと、この遭遇にもとづく何らかの前兆を、彼ら〔アテーナイ人たち〕は兆し(symbolon)としたからである。これら〔の前兆〕はすべてデーメーテールに依存しているとは、ピロコロスの主張である。
断片"192c"
HESYCH. ""xymbolous"の項。
くしゃみにもとづく占いを意味した。これら〔の占い〕はデーメーテールに奉納された。一部の人たちは、音声もとづいてなされる占いを〔言い〕、これを発明したのはデーメーテールだとは、ピロコロスの主張である。
断片193
SCHOL. SOPHOKL. O.R. 21:「はたまた、イスメーノース河の占いの灰のそばに」
というのも、イスメーノース河のほとりにアポッローンの神域がある。それゆえ、彼〔ソポクレース〕は「占いをする灰」(これは祭壇という代わりである)と主張するのだが、それは炎によって神官たちが占いをしたからであるとは、ピロコロスの主張である。