Atthis

ピロコロス断片集(6/6)



断片194
SCHOL. SOPHOKL. O.K. 100(NATAL. COM. Myth. 4, 13):(F 12)葡萄酒を含まぬ供儀〔用の犠牲〕のみならず、火の焚き付けにする一種の薪も「"nephalia"と呼ばれた」。

 ところがアテーナイ人クラテース(362 F 4)は、ブドウ樹以外の木切れもすべて"nephalia"と命名されていたと主張するが、ピロコロスは、ブドウ樹でもイチジク樹でもなく、"thymos"〔タチジャコウソウ(Thymus vulgaris)、HA. 5_22(554a10), 9_40(626b21)〕からつくられたものすべてが"nephalia"と呼ばれたと[主張する]。そして、この素材は、供儀(thysia)〔用の犠牲〕をあぶるために最初に用いられ、そこから、薫蒸(thymiasis)とか煙(thye)とかに発音が似ているところから、"thymos"というその名が付けられたという。

断片195
ZENOB. Prov. 5, 75:

 多くの聖石占い師で、しかし邪悪でもある占い師たち。ピロコロスの主張では、パルナソス山を領し、アポッローンの養母となったニュムペーたちは、3人で、トリアイ(Thriai)と呼ばれ、彼女たちにちなんで占いの票石も"thriai"、占うことも〔動詞で〕"thriasthai"と呼ばれていたという。しかし他の人たちの言では、票石による占い術を発明したのはアテーナであるという。こちらの方が、デルポイの託宣よりも適格であったので、ゼウスがアポッローンのご機嫌をとって、票石による占いを虚偽と決めつけたという。そこで、人間たちが再びデルポイの託宣を請いに行くようになったので、ピュティア〔デルポイの巫女〕が「多くの云々」と云ったという。

断片196
ATHEN. 4, 65 p.168 A:

 浪費家たちや、手持ちの財のようなもので生計を営もうとしない連中を、昔は、アレオパゴスの役人たちが召還して処罰したということは、パノデーモス(325 F 10)が記録し、ピロコロスその他多くの人たちも〔記録している〕。

断片"197a"
HARPOKR. (SUD.) "adynatoi"〔「働けぬ者たち」〕の項。

 アイスキネースが『ティマルコス弾劾』(§103)の中で。3ムナ以下の所得の者、および、身体的に不具者たちのこと。この人たちは、評議会の審査を受けたうえで、毎日2オボロス[ないし1オボロス]を受け取ったとは、アリストテレースが『アテーナイ人たちの国制』(49, 4)の中で主張しているところである。しかしピロコロスの主張では、〔支給されたのは〕月8ドラクマ。さらにはある弁論があり、言われているところでは、それはリュシアスの『働けぬ者(adynatos)について』(24, 13...26)であるが、その中では、〔働けぬ者は〕およそ1オボロスを受け取るというふうに言及されている。
断片"197b"
SYNAG. LEX. p.345, 15 Bkr (PHOT. BEROL. p.34, 14 Rei):"adynatoi"。

 身体の何らかの部位が何の仕事もできぬほど損なわれている者たちのことで、彼らは生活に必要なものを国から公共奉仕された。報酬を得ていても、手持ちの財産が3ムナ以下の所得の者たちも[これに]該当する。そして、"adynatoi"は500人評議会の審査を受け、毎日、リュシアスの言では1オボロス、ピロコロスによれば5オボロス、を受け取った。しかしアリストテレースは〔支給額は〕2〔オボロス〕だと主張している。

断片198
HARPOKR. "antigrapeus"の項。

 国家に何らかの金銭を払おうとする者たちのために、それを登記する任にある人のこと。デーモステネースが『アンドロティオーン弾劾』(22, 70)の中で、またアイスキネースも『クテーシポーン弾劾』(3, 25)の中で。しかし"antigrapeus"には二種ある。ひとつは、"dioikesis"のそれで、これはピロコロスが主張している、もうひとつは評議会のそれで、これはアリストテレースが『アテーナイ人たちの国制』(54, 3-4)の中で。

断片"199*"
LEX. CANTABR. p.337, 15 Nauck:"Eisangelia"

 新奇の、また不文の不正事に対する〔弾劾裁判〕のこと。これはカイキリアスの動議(p.158 Of)〔によって成立した〕。しかしテオプラストス(IV)は、『法習について』第4巻の中で主張する、何人かが動議提案者として民主制(demos)を解体、ないしは、金銭を受け取って最善のことを建議せざるとき、あるいは何人かが地所(?)ないし艦船とか歩兵とかの軍隊を売り渡したとき、あるいは、何人かが敵に走り、あるいは敵のもとで勝利し、あるいは敵とともに出征し、あるいは贈り物を受け取った場合に、〔"Eisangelia"が〕行われたという。テオプラストスによって言われていることに合致するのが、テミストクレースに対して行われた"Eisangelia"で、テミストクレースを"Eisangelia"にかけたのは、クラテロス(342 F 11)によれば、〔"Leobotes Alkmaionos Agraulethen"...???意味不明〕。しかし弁論家たちの一部は、それほど大きくない不正事でも"Eisangelia"と呼びならわしていた。告訴屋稼業の連中を"Eisangelia"にかけたときもあり、ピロコロスによれば、裁判官は1000人、パレーローン区民デーメートリオス(228 F 12)によれば、1500人であったという。

断片200
SCHOL. V ARISTOPH. Av. 1106:

owlcoin.jpg  フクロウは4ドラクマ銀貨(charagmata)の上に刻されているとは、ピロコロス。それで、この4貨幣(nomisma)は[かつて]フクロウと呼びならわされていた。というのは、かつて、フクロウはアテーナの徽章であり仮面であったからである、昔の2ドラクマは、ウシを徽章としていたのであるが。

断片201
PHOT. Lex. 「クレーピス(krepis)」の項:

 アテーナイの場所。そういうふうにピロコロスが。

断片202
SCHOL. RV ARISTOPH. Ach. 220:

 ラクラテイデース(Lakrateides)とは、アテーナイの昔の筆頭執政官だとは、ピロコロスも。ダレイオスの治世に筆頭執政官となり、彼の任期中に、豪雪があって、ひとが前進できないくらいにすべてが凍った。そういうわけで、冷たいものはみな、「ラクラテイデースの」と呼ばれるようになった。

断片203
SCHOL. V ARISTOPH. Pax 145:「もちろん、ペイライエウスにはカンタロス〔黄金虫〕の港〔Kantharou limen〕がある」

 ペイライエウスの1区画だとは、カッリクラテースが主張し、あるいはメネクレースが『アテーナイについて』の中で次のように書いて(370 F 1)〔主張して〕いる、「ペイライエウスは港を三つ、いずれも閉鎖できるのを持っている。カンタロスの港(Kantharou limen)と呼ばれるのがそのひとつで、ここには船渠が60(?)あり、さらにアプロディシオン〔アプロディーテー神殿〕、さらに、港のぐるりに柱廊が5つあった」。他には。そこは、そういうふうな船舶の置き場所では決してなく、そういうふうに呼び慣わされていたにすぎない。というのは、そういうふうに、カンタロスの港(Kantharou limen)――カンタロス港(Kantharos)ではなく――と言われる港はアッティカの村に本当に存在すると、ピロコロスが記録しているが、それは地元のある半神にちなむという。

断片204
SCHOL. V ARISTOPH. Pax 242:

 プラシアイ(Prasiai)とはラコーニア地方の都市。……アッティカ地方の外港にも〔プラシアイというのが〕あるとは、テュキュディデース(8, 95, 1)の主張するところであるし、ピロコロスも。

断片205
STEPH. BYZ. 「クシュペーテー(Xypete)」の項:

 ケクロピス(Kekropis)部族(phyle)の区(demos)。区民はXypeteon……Xypeteonたちの出身地である……しかしピロコロスは、区はXypeteononだと主張する。〔語末が〕オーメガ(ω)とオミクロン(ο)で終わっているところから。

断片206
STEPH. BYZ. 「セーマキダイ(Semachidai)」の項:

 アッティカ地方の区(demos)で、セーマコス(Semachos)にちなむ。ディオニュソスは彼とその娘たちとに客遇され、彼らから彼〔ディオニュソス〕の女神官たちが選ばれる。アンティオキス(Antiochis)部族に属する。しかしピロコロスは、エパクリア(Epakria)地方の区(demos)だと主張する。

断片"207*"
SCHOL. BT EUST. (Paris. gr. 2766...Cramer A. P. 3, 289) Hom Il. XVIII 570:

 アリスタルコスの主張では、リノス(linos)とは歌の種類で、パイアンやそれに類したものなら何でも含み、半神リノスに由来するという。リノスに関する歴史は、ピロコロス(?)の作品の第19巻の中にも、メランティッピデース(III 592, 8 Bgk 4)の作品の中にもある。また、「球(Sphaira)」と呼ばれる詩もリノスに関係するが、捧げられるのはオルペウスに対してである。ピロコロスの主張では、彼〔リノス〕はアポッローンに殺され、その四肢を解体して心臓を楽器に使ったという。また、言い伝えでは、彼〔リノス〕はテーバイに埋葬され、哀歌の初穂祭のおりに詩人たちに崇拝されているという。テーバイには次のような刻銘がある、「おお、リノスよ、神的な子どもたちに崇拝されたる者よ、御身には不死なる方々〔神々〕が、いと聡き詩脚にのせて人間たちのために歌うよう、御身に韻律を初めて与えたまえり。ムウサたちは御みずから御身を嘆いて泣きつつ踊りたもう、御身が太陽の光を失せさせたれば」。他には。「われは隠さん、神の子リノス、ムウサたちのしもべ、嘆き多きリノス・アイリノスを。されど、父祖伝来の大地が、ポイボスの災いに滅ぼされし者をとらえたり」。ヘーシオドス(F 192 Rz)も、「されどウーラニエーはリノスを生みたまえり、愛しき息子を。げに、はかなき人間どもは彼を歌い、弾奏し、宴にもあれ合唱舞踏にもあれ、万人が悲歌し、はじめにリノスを呼ばわり、終わりに呼ばわる」。しかしながら、ヘーラクレースに音楽を教えたのは、この人とは別人である。

 もともとは、「悲しいかな、ああ!」を意味するセム語"i lanu"がギリシア語化されて"ailinos"となったのを、"Ai Linos"〔ああ!リノス〕と解釈して、そこからリノスにまつわる神話がつくられたとされる。
 しかし、神話の内容をみてわかるとおり、プリュギアの太母神キュベレの恋人アッティス神話を濃厚に反映しているといえる。

 1)その一つは、彼をアルゴス王クロトーポスの娘プサマテーとアポッローンの子であるとし、母に棄てられたのを羊飼いが拾って育てていたが、祖父の王の知るところとなり、犬に食われて死に、母も殺されたので、アポッローンは怒って怪物を送った。神託により人々は母子を祭り、この歌を歌い、祭礼の時には出会った犬を殺す習慣があったというもの。

 2)いま一つはテーバイの伝えで、リノスはアムピマロス(Amphimaros)とムウサのウーラニアー(あるいはカリオペー)の子で、音楽でアポッローンと競ったため、殺された。彼はリズムとメロディを発明し、カドモスにアルファベットを教えたという。

 3)さらにいま一人、ヘーラクレースの音楽の先生で、この英雄を叱ったところ、英雄が怒って彼を打ち殺したというリノスがある。(高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』)

断片208
SCHOL. RV ARISTOPH. Ran. 1033:

 ムーサイオスはセレネーとエウモルポスとの〔間に生まれた〕子だとピロコロスは主張する。この〔ムーサイオス〕が『perileuseis』(?)と『完徳者たち(teletais)』と『浄化(katharmoi)』を著した。しかしソポクレース(F 1012 N2)は、彼〔ムーサイオス〕は託宣家(chresmologos)だと主張する。

断片209
VIT. HOM. ROM. p.31, 1 Wil:

 ピロコロスによれば、〔scil. ホメーロスは〕アルゴス人である。

断片210
GELL. N. A. 3, 11, 2:

super aetate Homeri atque Hesiodi non consentitur: alii Homerum quam Hesiodum maiorem natu fuisse scripserunt, in quis Philochorus et Xenophanes (Vorsokr. 5 21 [ 11] B 13), alii minorem, in quis L. Accius poeta (FPL. p. 35, 6 Morel) et Ephorus historiae scriptor ( 70 F 1/ 97_103).

断片"211a"
TATIAN. Pr. Hell. 31 (EUSEB. P.E. 10, 11, 4...Chron. a. Abr. 914=SYNKELL. Chronogr. p.340, 3 Bonn):

 ピロコロスによれば、(scil. ホメーロスの盛時は)イオーニア入植後、アテーナイでアルキッポスが筆頭執政官の時、イリオン戦争の180年後である。
断片211b
CLEM. AL. Strom. 1, 117, 1:

 トロイ戦争からホメーロスの誕生までは、ピロコロスによればだが、180年、イオーニア入植後のことである。

断片212
SCHOL. PINDAR. Nem. 2, 1d:「縫い合わされた詩句の歌人たち/ホメーロスの末裔たち(Homeridai)もしばしば……から始めるように」

 吟唱詩人(phapsoidos)たちのことを、ある人たちが"phabdoidos"に語源を求めるのは、明らかに"rhabdos"〔杖〕を持ってホメーロスの詩編を朗唱するゆえであろう。カッリマコス(F 138 Schn...F 26 Pf)は、
 「げに、"rhabdos"に織りなされし神話を、とぎれなく示し歌わん」
〔という〕。しかしある人たちの主張では、ホメーロスの詩作は一つに編まれたものではなく、違った仕方でばらばらに、しかも詳細に採用されたものであり、これを吟唱するときには、似たものをある繋がりと縫い合わせによって作詩し、これを一つに編集するのだという。(ソローンもそうやって演じた)。しかしある人たち……ピロコロスは、歌(oide)を構成する、つまり、縫い合わせることから、彼ら〔吟唱詩人たち〕はそういうふうに命名されたと主張する。しかしヘーシオドス(F 265 Rz)は説明して言う、「かつてデーロスにて、わたしとホメーロスとが初めて、歌人として叙情詩を作った。若々しい讃歌によって歌を織りなして、黄金の太刀佩くポイボス・アポッローン、あのレートーの生みたまいし御子をたたえて」。そこで、ニコクレース(376 F 8)は、最初に吟唱したのはヘーシオドスだと主張するのである。しかしメナイクモス(131 F 9)は記録している、――吟唱詩人たちが"stichoidos"〔"stichaoidos"の縮約形。"stichos"とは、もとは軍隊の隊列の意であるが、そこから「詩行」の意にもなる〕とも呼ばれたのは、"stichos"がある人たちによって「杖(rhabdos)」と言われたからであると。

断片213
SCHOL. PROKL. HESIOD. Opp. 268:

 記録さるべきは、ヘーシオドスの息子はムナセアス(Mnaseas)だということである。またピロコロスの主張では、ステーシコロスはクリュメネーの子孫だという。しかし他の人たち〔の云うのに〕は、アルキエペーの〔子孫だと〕。

断片214
ATHEN. 9, 49 p.393 E:

 ピロコロスの主張するところだが、ボイオス(Boios)またはボイオー(Boio)が『鳥類の系譜(Ornithogoniai)』の中で、……〔と言っているという〕。

断片215
STRABON 8, 4, 10:

 というのも、彼〔テュルタイオス〕は、『エウノミア』(F 2-3 Diehl)と題するエレゲイア詩の中で、そこ〔scil. ラケダイモーン〕の出身であると主張しているからである……したがって、この詩句を無効とするか、あるいは、彼はアテーナイ人にしてアピドナ人であると主張するピロコロスや、カッリステネース(124 F24)や他にも多くの人たちが、アテーナイから得て嚮導者に据えよと命じた神託に従って、ラケダイモーン人たちに請われてアテーナイからやって来たと言っているのを信じるべきでないか、である。

断片216
ATHEN. 14, 29 p.630 F:

 ピロコロスの主張では、ラケダイモン人たちはテュルタイオスの用兵のおかげで、メッセニア人たちを征服したので、出征する際に、食事をし、戦勝歌をうたう時には、テュルタイオスの詩をひとつずつ歌うこと、そしてこれを軍令官(polemarchos)が審査し、優勝者には賞として肉を与えることを習慣(ethos)としたという。

断片217
DIOG. LAERT. 9, 55:

 ピロコロスの主張するところでは、彼〔プロータゴラス〕はシケリアに向け航行中、その船が沈み、また、このことはエウリピデースが『イクシオーン』(p.490 N2)の中でほのめかしているという。

断片218
SUDA "Euripides"の項。

 彼〔エウリピデース〕の母親が八百屋だったというのは、真実ではない。というのも、すこぶる生まれのよい階層に所属していたと、ピロコロスが明示しているからである。

"3b,328,F".219.1
GELL. N. A. 15, 20, 5:

Philochorus refert in insula Salamine speluncam esse taetram et horridam (quam nos vidimus), in qua Euripides tragoedias scriptitarit.

断片220
VIT. EURIP. 2 p.3, 3 Schw:

 (scil.エウリピデースが)亡くなったのは、ピロコロスの主張では、70歳を越えてからである。ただし、エラトステネース〔の主張で〕は、75歳であるが。

断片221
DIOG. LAERT. 2, 44:

 さらにエウリピデースは、『パラメーデース』(F 588 N2)の中で彼ら〔ソークラテースを処刑したアテーナイ人たち〕を罵ってこう言っている、「汝らは殺せり、汝らは殺せり、全知なる人、芸神の使いたる何ら罪なき夜鶯を」。これはこれで、たしかに、そのとおりである。しかし、ピロコロスの主張するところでは、エウリピデースはソークラテースよりも先に亡くなっているのである。

断片222
PLUTARCH. An seni 3 p.785 B:

 エラトステネース(241 F 33)とピロコロスが記録しているところでは、悲劇役者のポーロスが78歳のとき、4日間にわたって悲劇の競演が行われたが、それは彼の命終する少し前だったという。

断片223
VIT. ARISTOT. MARC. p.428, 6 Rose:

 (scil. アリストテレースは)プラトーンよりも23年間長生きしたが、〔その間〕あるいは……アレクサンドロスを教育し、あるいはこれとともに多くの地方を旅し、あるいは著作し、あるいは学園を指導した。むろん、アリストテレースはプラトーンに対抗してリュケイオンを建てた〔前335年〕のではない、そう中傷したのはアリストクセノス(IV)が最初であるが……、〔アリストテレースは〕最後までプラトーンの知己であったのだから。また、プラトーンはディオティモスが筆頭執政官の時〔前427年〕にアテーナイで生まれ、テオピロスが筆頭執政官の時〔前348年〕に、齢82で往生を遂げたが、アリストテレースは、ディオトレペースが筆頭執政官の時〔前384年〕に生まれ、ピロクレースが筆頭執政官の時〔前322年〕に齢63で命終し、アリストテレースがプラトーンのところに通いだしたのは、ナウシゲネースが筆頭執政官の時〔前367年〕、テオピロス――この人が筆頭執政官の時にプラトーンは亡くなった――から、ピロクレース――この人が筆頭執政官の時にアリストテレースが亡くなった――まで、23年間プラトーンよりも長生きしたということ――だから、中傷する連中が、アリストテレースはエウドクソスが筆頭執政官の時、40歳でプラトーンのところに通いだしたということにはならないのである。なぜなら、アリストテレースの生涯は63年間であったが、〔アリストテレースの40歳というのは〕プラトーンの死後3年のことであり、プラトーン研究にいそしんだ20年間は消失するのである。また〔プラトーンに師事したのが3年だとしても〕この3年の間に、これだけのことを 〔?〕 することは不可能であるばかりか、 〔?〕 することさえ容易ではないであろう。そういうふうにピロコロスは記録し、また、アリストテレースは外国人であったから、れっきとした市民であり、しかも、カブリアスやティモテオスといったアテーナイの将軍たち、および、生まれの点で彼〔プラトーン〕の親類縁者たちのおかげで大きな力も持ったプラトーンの下では、あのようなことを実行することは、当然、不可能でもあったろうとも〔記録している〕。〔?〕

断片"224*"
PHILODEM. Ind. Ac. Herc. col. 6, 28 p.37 Mekl:

 さてスペウシッポス〔プラトーンの死後、アカデメイアを継承〕は、自分からすすんで〔アカデメイア〕学園を受け継いだ。そしてピロコロスの主張では、スペウシッポスはすでにムウセイオン〔芸神の神殿〕を領してから(?)、優雅神(カリス)たちの像を奉納したが、そこにはこう刻銘されていたという。「女神なるムウサたちに「優雅」女神を奉納せしはスペウシッポス、神託(logia)の贈答として」。また彼〔ピロコロス〕は書いている、――〔すでに手足が弱ったために、学園(peripatos)を8年間主宰したあとはかなくなった、そこで若い人たちが、誰が自分たちを指導するのか票決し、カルケードーン人クセノクラテースを選んだ、アリストテレースはマケドニアに出郷して不在であり、ピュッラ〔レスボス頭エウリポスの都市〕人スペウシッポスと、ヘーラクレイア〔黒海畔、ビテュニア地方の都市、メガラの植民市〕人ヘーラクレイデースとは、わずかな票差で敗退したからである云々。〔スペウシッポスについては、D.L. IV_1〕

断片225
STRABON 7, 7, 10:

 さて、ペラスゴイ人たちについては、『テュレーニア誌』の中ですでに述べられたが、ドードネーについては、この神域の周住民は非ギリシア人であることを、ホメーロス(Il. XVI 234/5)も、「足も洗わず地に臥して寝る」と言って、その暮らしぶりから明らかにしている。しかし、はたして〔この住民を〕ピンダロス(F 59 Bgk 4)のようにヘッロイ人たちと言うべきか、ホメーロスの作品における綴りから推定してセッロイ人たちと言うべきかということは、綴りが曖昧なため断定は許されない。ピロコロスの主張では、ドードネー近辺の地方も、エウボイアのように、ヘッロピアと呼ばれていたという。というのも、ヘーシオドス(F 134 Rz)が次のように言っているからである。「ヘッロピエーという土地があり、広い穀物畑とよい草場がある。/この外れにドードネーという市が築かれている」。人々の考えでは、これはアポッロドーロス(244 F198)が主張しているところであるが、この神域の近くの草地(heloi)にちなんでそういうふうに呼ばれたのだと……

断片226
BOCCACCIO Gen. deor. gent. 4, 20:

mutatos autem in ranas rusticos ideo dictum est, quia, ut scribit Filocorus, bellum fuit Rhodiis olim in Lycios. Rhodiis auxiliares venere Delones (?), qui cum aquatum ad lacum quendam Lyciorum ivissent, rustici loci incolae aquas prohibuere/ in quos Delones irruentes omnes inter- emere et in lacus corpora occisorum eiecere. tractu tandem temporis cum montani Lycii venissent ad lacum nec occisorum agrestium corpora comperissent et ranas in circuitu coaxantes sensissent, rudes et ignari arbitrati sunt ranas animas esse caesorum/ et cum sic referunt, aliis fabulae causam adinvenere.

断片227
APULEIUS De orthogr.:

Pasiphae Daphnis dicebatur Spartanis, quod certissima oracula daret. fuit et Cretensis regina, Minotauri partu famosa. quo inter- fecto Theseus abduxit Ariadnen uxorem sibi et filio Hippolyto Phaedram, cui Serapione Rhodio et Philochoro <auctoribus> vim intulit, eius forma captus uxore necata. at Phaedra indignata filium patri incusavit, quod se appellasset, qui diras in filium
"3b,328,F".227.6
iactavit, quae ratae fuerunt: a suis enim equis in rabiem versis innocens discerptus est. sic illam de se et sorore ultionem scripsit Lupus Anilius. idem scribit in Helene tragoedia.

断片228
NATAL. COM. Myth. 7, 6 p. 722 ed. Genev.:

alii, inter quos Philochorus, hos Thynum et Mariandynum vocarunt (scil. Phinei filios).

断片229
P. OX. 853 col. 10, 7:「リムナイ〔アテーナイ市域、アレイオス・パゴスとプニュクス丘との間の低地帯。"limne"とはもと「湿地」の意〕なるディオニュソスの神殿(Thukyd. 2, 15, 4)」:

 カッリマコス(F 66a Schn...305 Pf)の主張では、「……、エレウテール(Eleuther)が建立し、リムナイオスのためには、合唱舞踏をともなう祭礼(chorostades heortai)を挙行した」。アポッロドーロス(?)は、その場所が水浸しになったことから、そのように呼ばれたと主張する。ラコーン地方にも、リムナンティス・アルテミスのまします地がある。

2002.05.24. 訳了 あ〜しんど!


forward.gifイストロス断片集
back.gifアッティス/解説