第11弁論
[解説]BC 405年秋、ヘレスポントスにあるアイゴス・ポタモイの海戦において、アテナイ海軍を壊滅させたスパルタ提督リュサンドロスは、そのまま南下して、同年末、アテナイの外港ペイライエウスを海上封鎖した。一方、スパルタ王パウサニアスは、陸路、全軍を率いてアテナイに迫り、アテナイの郊外にあるアカデメイアの森に進駐した。こうして、アテナイは完全に孤立無援に陥ったばかりか、糧道を絶たれてしまった。アテナイ市内に餓死者が続出した。 それでもなおアテナイは屈しようとしなかった。市民権喪失者の権利回復を認め〔パトロクレイデスの決議〕、「同心(homonoia)」を合言葉に、国難に当たろうとした。このような時に、テラメネスが民会を説き伏せて、自分を和平交渉の全権使節に任じさせた。彼はリュサンドロスの陣に赴き、しかし、そのまま数か月間、積極的に活動した様子はない。その間、アテナイ市内では、寡頭派の策謀が過激の一途をたどっていた。彼らは、先ず、主戦民主派の領袖クレオポンを弾劾裁判にかけて抹殺し、さらには、民主派のおもだった将軍その他の指揮官および市民をも、弾劾裁判によって粛清していった。そして、機を見計らっていたかのように、テラメネスが降伏の条件を持って帰ってきた。――アッティカ、サラミスを領有する独立国として存続を認められるが、長壁の破壊、海外領土の放棄、12艘を除くすべての兵船の引き渡し、亡命市民の帰国承認、そしてスパルタの同盟国となること……。 この提案を受け入れる用意は、すでに寡頭派の手によって整えられていた。かくして、BC 404年春、アテナイの民会は無条件降伏を受け入れ、27年に及ぶペロポンネソス戦争は幕を閉じた。そして、「リュサンドロスがペイライエウスに入港すると、亡命者たちが帰国し、ラケダイモン人たちは笛吹き女の笛の音に合わせて、非常な熱心さで城壁を取り壊し始めた。ギリシアの自由が始まる日だと考えて」( クセノポン『ヘレニカ』第2巻、第2章23)。 アリストテレスによれば、当時、アテナイには、三つの政治的な派閥があったという(『アテナイ人の国制』第34章)。一つは民主派。もう一つは、「上流の中で徒党をつくっていた人々や、亡命者の中で平和回復後帰国した連中」を中心とした寡頭派。寡頭派の中で頭角を現すのは、亡命先から進駐軍といっしょに帰国した クリティアスであった。最後の一つは、いずれの徒党にも属さないが、「父祖の国制」を求める者たちで、ここにはアルキノス、アニュトス、クレイトポン、ポルミシオス、その他大勢が属したが、牛耳をとったのはテラメネスであったという。さて、謀議派にお膳立てされ、征服者リュサンドロスが威嚇する中で、民会はドラコンティデスの提案を可決し、ここに「三十人」政権が誕生した。領袖は クリティアスとテラメネス、さらにカルミデス、ペイドン、そしてエラトステネスなどが名を連ねている。 後に「三十人」僣主と呼ばれるようになる彼らは、「三百人の鞭を携えた者を手下として国家を独裁した」という(『アテナイ人の国制』第35章)。先ず、反対派を粛正し、国政を完全に掌握するや、たちまちにして暴虐に及び、「財産や生まれや名声の点で秀でた者たちを殺して」対立の根を未然に絶つとともに、その財産を横奪しようとした。かくして、わずか8か月の間に、1500人を下らぬアテナイ人を殺してしまったのである。この数は、ペロポンネソス戦争の初めの10年間にわたる戦死者の総数をこえるものであった。 極端な暴政に陥るとともに、「三十人」内部にも軋轢が生じ、過激派の クリティアスと穏健派のテラメネスという対立抗争の構図ができあがる。この対立から生まれた政策が、市民3000人を登録し、これに参政権を認める(つもり)というものであった。しかし、穏健派は過激派に負けるのが、政治の世界の常である。アテナイ政界が血塗られる時、いつも、どこかに、その姿を垣間見させてきた男テラメネスは、ついにみずからが クリティアスの手で血の中に没した。だが、有力者テラメネスの粛清は、「三十人」政権自体の存立が脅かされる事態を招く。そこで クリティアスは、あらかじめ、登録した3000人以外の市民から武器をとりあげ、それでも足らずに、スパルタに兵700 の派遣を依頼し、彼らをアクロポリスの丘に駐留させていた。 しかし、早くもその年(BC 404)の暮には、トラシュブウロスとその支持者70名とがテバイで決起し、北境の要塞地ピュレを占拠した。「三十人」派は兵を差し向けたが、敗退した。政権崩壊の不安に怯えた「三十人」は、登録された3000人以外の市民が市内に留まることを許さず、追放した。こうしてペイライエウスに移った人々は、その数5000人以上に及ぶという。一方、「三十人」は、政権が倒れた後の根拠地としてエレウシスを選び、ここを攻撃して、市民300 人を殺害した。この数は、おそらく、この小さな市の完全市民全員であったはずである。 他方、民主派の方は、ピュレから、さらにムニキアに進んだ。ここでの戦いで、「三十人」派は、急進派の領袖 クリティアス、カルミデスを含めて70名を失い、政権は崩壊状態に陥った。市内派は10人を選んで、内戦停止のための全権を与えた。ところが、選ばれた者たちは、政権を握るや、スパルタに使いして援兵を求め、戦争資金を借り入れようとするありさまであった。これを支持したのは、アクロポリスに駐留中のスパルタ兵と、アテナイの騎兵たちであった。 しかし、以上は、所詮、アテナイの国内事情にすぎない。スパルタ王パウサニアスは、アテナイの民主派を鎮圧する名目で出動してきたが、内心は、「三十人」派の後盾となっているリュサンドロスを妬み、彼を排除した形で紛争を処理しようと心積もりしていた。彼は、ペイライエウス付近で民主派と交戦する一方で、スパルタ内部の指導者層に根まわしをした上で、ペイライエウス派と市内派との和解を成就させた。もちろん、この和解は、アテナイ人自身の主体的活動を抜きにしてはあり得ないが、しかしまた、スパルタ内部の主導権争いなしにもまたあり得なかった。敗戦国アテナイの宗主国はスパルタにほかならないことを忘れてはならない。 BC 403年春、とにかく、和解は成った。その誓約とは、――(1)市内派のうち、望む者はエレウシスに退去することを認める。(2)退去を望む者は、誓約をした日から十日以内に登録をし、二十日以内に移住することとする。(3)秘儀の際を除き、両所の交通は認めない。誰かみずから手を下して殺傷を行った時は、古来の法に遵い殺人の裁判を行う。(4)過去の出来事については一般の大赦を行う。ただし、「三十人」と、その時の役職にあった者たちは別とする。ただし、これらの人々といえども、執務報告を行う場合には、大赦に浴し得る。…… 何のことはない、アテナイの民主制とエレウシスの寡頭制という二重の政権ができたに等しかった。しかし、これを民主派の寛容さなどと想うのは間違いである。溺れる犬は殴れ、咬みつかれそうなら、強いて事を構えるな。――これが古代ギリシア人の現実主義である。民主派が寡頭派を徹底的に叩かなかったのは、それだけの力量がなかったからにすぎない。第一、宗主国スパルタは、そんなことを望むはずもなかった。この二重政権の状態は、BC 401年、民主派がエレウシスの寡頭派を最終的に切り崩すまで続く。 さて、大赦令によって、リュシアスは、「三十人」派によって奪われた財産を取り戻す途ばかりか、兄の死に償いを要求する道をも閉ざされてしまった。しかるに、「三十人」の成員であったにもかかわらず、テラメネス派だったという理由で、民主制回復後のアテナイに、なおもおめおめと生き延びている者がいる。しかも、その者は、兄ポレマルコスを路上から連行した張本人にほかならない。第12弁論は、リュシアスが、「三十人」の一人エラトステネスを、兄の死に直接責任ある者として、殺人罪で訴えた告発弁論である。 「自分は反対したのだが、命令されたので、仕方なく従った」――われわれは、ここでもまた、あの千編一律のごとき、かわりばえのしない言い訳を聞くことになろう。しかし、これに対するリュシアスの追及は単刀直入である。――立言そのものが虚偽である。すなわち、反対したというのが本当なら、命令されるはずはなく、命令されたというのが本当なら、反対したはずはない。なぜなら、反対する者に命令されるはずがないからである。反対する者に命令しても、実行されないであろうから。 これを、アテナイ人に特有な屁理屈と聞き流してはならない。彼らは、いまだ、言葉の「まこと」を信じていた。言葉の「まこと」とは、その言葉に、発言者の実存が賭けられているという意味である。この点を押さえておかないと、彼らの言葉のやり取りが、現代のわれわれには、得てして、単なる屁理屈に見えてしまう。彼らにとっては、自分が反対したはずの命令に服従するなど、それこそ、理屈に合わないことなのである。 しかし、だからと言って、命令に服従しなければ我が身が危うくなるような事態に、彼らが無知なのでもなければ、現代と比べて状況がそれほど酷薄でないというわけでもない。被告が反対したと言うなら、それは認めてもよい。それなら、何ゆえに、心ならずもであるはずの命令を、かくも熱心に、かくも有能に遂行したのか。命令遂行に怠慢であることも、無能なふりをすることもできたはずなのに……。 彼らの時代から、二千数百年の時を隔てて、われわれはナチ絶滅収容所の殺戮を知ってしまった。しかし、われわれに本当の衝撃を与えたのは、そこで行われた個々の残虐行為よりも、むしろ、絶滅収容所の責任者たちが、いずれも、悪虐非道な極悪人ではなく、ごく普通の小心な小役人的な人間にすぎなかったという事実ではなかったのか。彼らは(いや、われわれは)、なぜ、あんなにも命令遂行に精勤なのか? リュシアスの追及は、巨大な組織の中にしか生きられない現代のわれわれ自身にも突きつけられているといってよい。 原告リュシアスの困難は、多くの有力市民が被告の弁護をかってでているということである。彼らはみなテラメネス派に属した。テラメネス派といっても、便宜的に付けた名称にすぎず、エラトステネスのように「三十人」内部にもいれば、アニュトスのように、内戦を戦い抜いてきた民主派の中にもいた。もちろん、テラメネス粛清後ペイライエウスに退去した者たちは、その多くがテラメネス派だったと見てよい。要するに、BC 403年の和解とは、いわば、最後まで市内に留まっていた市内派と、最後に市内から追い出されたペイライエウス派との和解といってもよく、真に民主化闘争を担ってきた者たち(その中には、多くの居留民や奴隷たちが含まれていた)は、政権構想の蚊帳の外であった。これが新政権の枠組みであった。したがって、エラトステネス攻撃は、テラメネスとその流れを汲む者たち、すなわち、新政権批判につながる。ここにリュシアスの困難があったし、彼はそれをよく知っていた。したがって、兄の死を悼む気持ちを抑制して、テラメネス一派に対する攻撃に比重をかけざるを得ない。しかし、その比重が増せば増すほど、かえって、抑制された無念さが、リュシアスの兄の無念さと重なって、われわれの心を打つ。 法廷弁論の大家リュシアスが満腔の怒りを秘めた告発にもかかわらず、エラトステネスは無罪の判決を受けて放免された。彼を罪に問えなかったのは、リュシアスが力およばなかったからではなく、弁論によっては政治の力学を超えられなかったからにすぎない。BC 403年の秋であった。 |