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群小ソフィストの正義論



Kritias断片集

(1/3)




A.生涯と著作


1.ピロストラトス『ソフィスト伝』I 16
 ソフィストのクリティアスについていえば、彼はたしかにアテナイ人たちの民主制を解体したにしても、それだけではまだ彼が悪人ということにはならなかったであろう(なぜなら、民主制は相当な慢心におちいり、法習に則った執政官たちの言うことさえも聞き入れないほどまでになっていたので、ひとりでに解体したはずだからである)、しかしながら、彼は公然たるラコニア贔屓であるばかりか、聖域を引き渡し、リュサンドロスの助けで城壁を破壊し、アテナイ人たちのうち、自分が追放した者たちがヘラスのいずれの地にもとどまれないようにするため、アテナイの亡命者を受け入れる者あらば、ラコニアの敵だと全国に布令を出して、残忍さと血の汚れの点では「三十人」を凌駕するとともに、ラケダイモン人たちを助けて、ばかげた決議に加担し、かくて、アッティカの地は人群の絶えた荒蕪地となったのであるからして、悪徳にかけては名のある者ども全体の中でも、極悪人であるように私には見える。かりに、彼が無教育のせいでこのようなことに引きずり込まれたのなら、テッタリアとそこでの交わりのせいで彼が堕落したのだという説は、そう主張する人々を力づけたことであろう。なぜなら、無教育な性格は人生の選択に際してとかく邪道に導きやすいからである。ところが、彼は最善の教育を受け、最多の見識を開陳し、血統は、ソロンとともにアテナイ人たちを統治した〔593/2〕ドロピデスにまでさかのぼるのだから、多くの人たちから見て、自然本性的な悪さによって上述のごとき過ちを犯したのではないという理由で、責めを逃れることはできないのである。というのも、次のようなことはもっとばかげたことであろうからつまり、ソプロニスコスの子ソクラテス――最も多く愛知を共にした相手、彼の同時代人の中で最も賢明にして最も義しいとの評判を得た人物――には彼が似ずして、テッタリア人たち――尊大・放埒な性格を有し、飲酒の際の僭主的しぐさを熱愛する連中――には似たというのは。いや、テッタリア人たちとて、やはり知恵に無関心なわけではなく、テッタリアでは大国も小国もレオンティノイ人ゴルギアスにあこがれて、ゴルギアスぶっていたのだから、クリティアスぶることにも心変わりしたことであろう、――もしも、クリティアスが彼らのもとで自分の知恵の演示(epideixis)といったようなことを行っていたなら。だが、彼はそのことには無関心で、そこの権力者たちと対話して、彼らのために寡頭制を堅固ならしめたのである。民主制は何から何まで攻撃し、人間たちのうちでアテナイ人たちほど数かぎりないほど多くの過ちを犯した者はいないと言って、誹謗中傷して。したがって、こういったことに思いを致すならば、クリティアスをテッタリア人たちが〔堕落させた〕というよりは、むしろクリティアスがテッタリア人たちを堕落させたことになろう。

 とにかく、彼が死んだのは、ピュレから民主派を連れもどったトゥラシュブウロス派の人たちによってであった。だが、僭主制を葬ったのだから、彼は最期には善き人物であったと思っている人たちがいる。しかし、私に言わせてもらうなら、選択の動機が正しくないのに、ほんとうに美しく死んだ人は人間たちのうちに一人もいないのである。それゆえに、この人物の知恵も着想も、ヘラス人たちにはあまり真面目には受けとめられなかったように私には思われる。なぜなら、言葉が性格と合致しないときは、調子外れに〔=違った舌で〕調べを奏でること、あたかも笛のごとくに私たちは思うに違いないからである。

 しかし、言葉の分野についていえば、クリティアスは博識な思想作家であるばかりか、荘重な語り口にかけてこの上なく充分な者であった。――ディテュラムボス的な荘重な語り口ではなく、詩作品からの名辞を頼みとするのでもなく、きわめて標準的な語句を用いて構成され、自然本性的なそれ〔荘重な語り口〕にかけて。私の見るところ、この人物は短く語ることにかけても、充分に恐ろしいほどであって、弁明の形を採っても攻撃的で、アッティカ語を話したが放埒にではなく、かといって余所者的でもなく(アッティカ語を話しても美しさに疎ければ、野卑であるから)、あたかも光線の中から日光が〔輝き出る〕ように、アッティカ語が言葉の中から輝き出るのである。そして、接続詞を使わずに節を節に繋ぐのがクリティアスの文体美であり、逆説的に思考して逆説的に言表するのが、クリティアスの論争法であり、言葉から母音(pneuma)が省略される傾向があるものの、快適で滑らかなこと、西風の息吹のごとくである。


2.ディオゲネス・ライエルティウス『哲学者列伝』III 1
 プラトンは、アリストンとペリクティオネ(あるいはポトネ)――彼の家系はソロンにまでさかのぼる――との子で、アテナイ人である。すなわち、この人〔ソロン〕の兄弟がドロピデスで、この人の子がクリティアスで、この人の子がカライスクロスで、この人の子が、「三十人」の一人クリティアスとグラウコンで、この人〔グラウコン〕の子がカルミデスとペリクティオネで、この女性とアリストンとの子がプラトンで、〔プラトンは〕ソロンから数えて6代目にあたる。


プラトン『カルミデス』154B
 〔クリティアスが言った〕カルミデスといって、私たちの叔父グラウコンの子で、私にとっては従兄弟にあたります。

同 157E
 〔ソクラテスがカルミデスに〕なにしろ、あなたがたの父方たるや、ドロピデスの子クリティアスの家系で、アナクレオンによってもソロンによっても、他の多くの詩人たちによっても賞賛されて、私たちに引き継がれてきているのですから。


アイスキュロス『縛られたプロメテウス』130行への古注
 つまり〔アナクレオンが〕アッティカ地方に滞在したのは、クリティアスに恋したからである。


3.プラトン『ティマイオス』20A
 もちろん、クリティアスの方も、われわれの言っている事柄のいずれについても素人でないことは、われわれ当地の者たちはみな知っている。

同 20D
 〔クリティアスが言った〕それでは、おおソクラテスよ、七賢人たちの中で最も賢明なソロンがかつて言ったとおり、大いに奇妙な言葉ではあるが、しかしまったくもって真実な言葉を聞いてください。ところで、彼は私たちの曾祖父ドロピデスの親族にして、大いなる友人であって、このことは彼みずからも詩の中のあちこちで言っているとおりです。私たちの祖父クリティアスに向かってよく言ったものだと、これまた老祖父が私たちに向かって思い出話を聞かせてくれたものですが、この国の昔の偉業たるや、大きな驚くべきものであったというのです。時の経過と人々の死亡とによって不明となっていますが……。

同 21A
 私が言いたいのは、昔の話を若くはない人から聞いたことがあるということなのです。〔僭主の祖父の〕クリティアスはその当時は、と彼は言った、ほとんどもう90歳に近く、私の方はせいぜい10歳ぐらいだったのですから。


『ティマイオス』20A-21Aへの古注
 ところでクリティアスときたら、高貴な生まれにして豊かな本性を持って育ち、愛知者たちとの交わりにも接し、愛知者たちの間では素人と呼ばれたが、素人たちの間では愛知者と呼ばれ、またみずからも「三十人」の一人となって僭主支配したのである。


4.クセノポン『ソクラテスの思い出』I 2
[12]
 しかるに告発者が言うのは、ソクラテスとの交友者であったクリティアスとアルキビアデスとは、国家に最多の害悪を為したということであった。すなわち、クリティアスの方は、寡頭制時代のあらゆる人たちの中で名うての盗人であり、暴行魔であり、最も残虐な者となったのであり、アルキビアデスの方は、逆に民主制時代のあらゆる人たちの中で最高の放埒であり、暴慢者であり、暴行魔だったのである。
[13]
 私としては、彼ら両名が国家に何らかの害悪を為したとしても、弁明しようとは思わない。が、彼らとソクラテスとの交友がどうして生じたのか、説明したい。
[14]
 これら両名は、全アテナイ人たちの中でも自然本性的に最も名誉愛の強い人物で、万事が自分たちによって実行され、誰よりも名をあげることを望んでいた……。
[16]
 したがって彼らの行動からして明らかであった。すなわち、両名とも交友者たちを凌駕したと考えるや、すぐさまソクラテスのもとを飛び出し、政事にたずさわったが、これこそがソクラテスに手を伸ばした目的であったのだ……。
[24]
 事実、クリティアスとアルキビアデスとは、ソクラテスといっしょしている間は、彼を味方として、美しからぬ欲望を抑えることができた。ところが、彼を離れるや、クリティアスの方はテッタリアに亡命し、そこで交わったのは、正義よりはむしろ無法を事とする連中であり……。
[29]
 とはいえ、自分は何も邪悪なことを為さなくとも、連中がつまらぬことをするのを眼にして賞賛したのなら、とがめられても義しかったであろう。しかるに、クリティアスがエウテュデモスに恋して、身体的な性愛を享受する者たちのごとくに扱おうとしているのを〔ソクラテスは〕感知して、大いに価値あるように思われたい恋人に対して、あたかも乞食連中のように強請んで嘆願し、それも決して善くないものをくれるよう懇願するのは、不自由人のすることであるばかりか、まして善にして美なる者にふさわしいことではないと称して、気をそらせようとしたのである。
[30]
 しかしクリティアスは、これらの言葉に聴従しようとはせず、気をそらせもしなかったので、他の多くの人たちばかりかエウテュデモスもいる中でこう言ったと云われている。「自分にはクリティアスは豚のようであるように思われる。まるで子豚が石に〔身をこすりつける〕ように、エウテュデモスに身をこすりつけようと欲情しているのだから」と。
[31]
 実にこれが原因で、このソクラテスをクリティアスは憎み、その結果、「三十人」の一員となりカリクレスとともに立法者となったときも、彼に対して遺恨をいだき、条文の中に、言葉の術を教えるべからずと書いたのである。


5.アンドキデス 第1弁論「秘儀について」
[47]
 それでは、さぁ、彼が供述した人たちの名前もあなたがたに読み上げよう……クリティアス、これもまた父〔レオゴラス〕の従兄弟である。母親どうしが姉妹なのである。
[68]
 少なくとも助かったのは父、義兄弟、三人の従兄弟、その他の親類のうち、不正に処刑されかかっていた7人であり、この者たちが現在日の目を見られるのは、私のおかげなのである。


6.[デモステネス] 第58弁論「テオクリネスに対して」67
 スケリアスの子アリストクラテスは……国がラケダイモン人たちと戦争状態にあったとき、多くの美しい業績を仕遂げたが、クリティアス一味がラケダイモン人たちを迎え入れるための引き込み口にしようとしていたエーエティオネイアを覆して、保塁を破壊するとともに、民主派を呼びもどした〔411〕。
 トゥキュディデス『戦史』VIII 92 参照。


7.リュクルゴス 「レオクラテスに対して」113
 民会はクリティアスの提案にもとづいて議決した。死人〔411年に暗殺されたプリュニコス〕をば売国の罪(prodosia)で裁きにかけ、売国奴でありながら国内に埋葬されていると判断されれば、その骨を掘り返し、アッティカの地の外に捨て去るべし、と。


8.アリストテレス『弁論術』Α15.1375b 32
 またクレオポンもクリティアスに対して、ソロンのエレゲイア詩を用いて言っている、――彼の家系は昔からふしだらである、さもなければ、ソロンは、「どうか赤毛のクリティアスに云ってほしい、父親の云うことは聞くものだと」と詩作することは決してなかったろうから、と。[Diehl編、断片18]


9.クセノポン 『ギリシア史』II 3,1-2
 翌年〔404/3〕……民会決議によって「三十人」が選出され、彼らは父祖の法習を編纂し、これに遵って為政するようにした。かくして、以下の人々が選出されたのである。ポリュカレス、クリティアス、云々。


10.クセノポン『ギリシア史』II 3
[15]
 初めのうちこそは、クリティアスはテラメネスと考えを共にし、愛友であった。しかるに前者は、民主派のせいで亡命した〔407年〕こともあって、多くの人たちを殺害する傾向にあり、テラメネスの方は抗して以下のように言った……。
[18]
 しかし、これがために、クリティアスその他の「三十人」は恐れをなし、特にテラメネスには、市民たちが彼になびくのではないかと恐れをなして、政事の参加者と称して3000人を登録した。
[36]
 〔テラメネスの弁論〕しかしながら、私はクリティアスの考え違いに驚きはしない。なぜなら、このこと〔アルギヌウサイの告発〕が起こったとき、たまたま彼は現場に居合わさず、テッタリアでプロメテウスとともに民主制を準備し、農奴たち(penestes)をその主人たちに対して武装させていたからである。


11.リュシアス 第12弁論「エラトステネスに対して」43
 だが、あの海戦〔アイゴス・ポタモイの海戦〕と国難が生じた後、まだ民主制が存続していた時に、内乱が始まったのだが、そのきっかけは五人の人物が監督官(ephoroi)としていわゆる同志(hetairos)の力によって就任したことにあり、彼らは市民たちの糾合者である一方、一味徒党の支配者であり、また、あなたがた大衆に反対のことを実行する連中でもあった。その中にエラトステネスとクリティアスがいた。そして、この者たちは、各部族あてに部族指揮官(phylarchoi)を任命すると同時に、挙手採決すべき事項は何か、支配者になるべきは誰かを指示し、他の何かしたいと望むことがあれば、彼らが決定者となったのである。


12.クセノポン『ギリシア史』II 4
[8]
 さて、これ〔トゥラシュブウロスのピュレ占拠〕によって、「三十人」はもはや自分たちの政事は安全でないと考え、エレウシスを我がものとして、必要となったときの自分たちの隠れ家にしようと謀った。そこで騎兵隊員たちに布令を出してエレウシスに進撃したのは、クリティアスおよびその他の「三十人」の者たちであった(エレウシス人たちを捕虜とする)。
[10]
 そこでトラシュブウロスはピュレからの人たちおよそ1000人がすでに結集していたのを率いて、夜間、ペイライエウスに到着した……
[11]
 かくてピュレからの人たちは……ムニキアに押し寄せた……
[19]
 この戦闘において、「三十人」のうちではクリティアスとヒッポマコスとが戦死した〔前403年5月〕……


13.アイスキネスへの古注 I 39 Schultz編 p.261
 「三十人」体制の特徴は次のことにもうかがえる。すなわち、「三十人」の一人クリティアスが戦死したとき、彼ら〔「三十人」〕はその記念に、オリガルキア〔寡頭制〕女神が松明を握りしめ、デモクラティア〔民主制〕女神に火を放っている像を建て、次のように刻み込んだ。
  こは、善き人たちの記念なり。アテナイの
  忌まわしき民衆の暴慢を、つかの間、くいとめしところの。


14.アリストテレス『弁論術』Γ16.1416b 26
 多くの人たちは、あなたがアキレウスを称賛したいと思うときのように、陳述(diegesis)を必要とせず(なぜなら、その所行は誰もが知っているからである)、所行〔=事実〕のみを用いればよい。これに反し、クリティアスを〔称賛したいと思うとき〕には、〔陳述を〕必要とする。多くの人たちが知っているわけではないからである。


15.アテナイオス『食卓の賢人たち』IV 184D
 とにかく、ヘラクレイア人カマイレオンは、その著『警告書』の中で述べている。ラケダイモン人たちとテバイ人たちはみな笛の吹き方を学び知っており、またポントスに住むヘラクレイア人たちも、彼の時代にはまだそうであり、またアテナイ人たちの中で最も秀でていたのは、ヒッポニコスの子カリアスとカライスクロスの子クリティアスである、と。


16.プルタルコス『十人の弁論家伝』I,1 p.832 D-E
 しかしながら、最も古くまでさかのぼって、言葉のこの分野を手がけた人たちとして私たちが思い起こしうるのは、すでに老齢に達していた〔ラムヌゥス区民〕アンティポンを信奉する人たち、例えばアルキビアデス、クリティアス、リュシアス、アルキノスといったような人たちをひとは見いだし得よう。


17.キケロ『弁論家論』II 23,93
 これらの人たち〔弁論家のペリクレス、アルキビアデス、トゥキュディデス〕に続くのが、クリティアス、テラメネス、リュシアスである。リュシアスの書いた物は多く、クリティアスの〔書いた物〕はわずかしかない。テラメネスにいたっては、われわれは耳にするのみである。この当時においても、誰しもがまだかのペリクレスの力強さを保っていたが、表現法の点では少しばかりより豊かになった。


ピロストラトス『書簡集』73
 クリティアスとトュキュディデスといえば、高邁さと厳めしさとを彼〔ゴルギアス〕から受け継ぎ、しかし前者は流暢さによって、後者は力強さによって、それをみずからのものに転化したということは、知らぬ人とてない。


18.ハリカルナッソスのディオニュシオス「リュシアス伝」2
 〔リュシアスは〕表現(hermeneia)がきわめて平明で、アッティカ語――プラトンやトュキュディデスが用いた古風なのではなく、当時流布していた――の最善の規範(kanon)であることは、アンドキデスの言説、クリティアスの言説、その他膨大な言説によって証拠づけられるとおりである。
  同 「イサイオス伝」20[DK.85(THRASYMACHOS) A 13]参照。


19.ヘルモゲネス『弁論形式論』B 401,25 Rabe編 クリティアスについて。
 すなわち、この人物も、威厳に満ちているで点は、アンティポンに酷似し、重厚さにかけては崇高にして、多くのことを否定的に語るのであるが、表現法(lexis)はより純正であり、〔弁舌に〕巻き込むときには、分析しつくしているので、その結果、高邁さと同時に明解さも明晰さもそなえている。また、多くの箇所で、とりわけ『演説序論』においては、真実性と説得力とをそなえている。さらに、彼は注意深いが、用いている装飾は程々ではなく、かといって単純でなく、ましてアンティポンのように冗長でもなく、明瞭な修練の跡さえ示している、だからして、この点でも真実性に与っているのである。しかし、人柄描写のその他の手法――例えば適正さ(epieikeia)とか平易さ(apheleia)とかそれに類したようなもの――はそれほど甚だしくは用いていない。


20.プリュニコス『美文入門』[ ポティオス『古典文献解題』Bekker編、158 p.101b 4]
 また、無雑にして純正なアッティカ語の規範であり、規準であり、最善の例証であると彼は主張するのは……〔プラトン、十大弁論家たち、トゥキュディデス、ソクラテス派のアイスキネス、そして〕カライスクロスの子クリティアスとアンティステネスである。


21.ピロストラトス『ソフィスト伝』II 1,14[ヘロデス伝]
 すなわち、彼は先人たちに傾倒したが、クリティアスには心酔もし、これをヘラス人たちの性格にまで偏向させさえした。それまで〔クリティアスは〕なおざりにされ、見過ごしにされていたにもかかわらず。


22.ピロポノス『アリストテレス「霊魂について」注釈』89,8[次節23への注解]
 クリティアス――「三十人」の一人で、ソクラテスにも師事したことのある人物であれ、あるいはまた、誰か他の人物を言っているのであれ――、われわれには何も異なるところはない。彼らの主張では、別のクリティアスもソフィストとなったし、言い立てられている著作もその人物のものだというのだが、これはアレクサンドロスも言っていることである。すなわち、「三十人」の一人〔のクリティアス〕は、『均衡のとれた国制』以外には何ひとつ書き著さなかった、と。


23.アリストテレス『霊魂について』Α2.405b 5
 しかし他の人たちは、例えばクリティアスのように、〔魂は〕血であるとした。感覚することが魂の最も固有の働きであり、それ〔感覚すること〕は血の自然本性に帰属すると解して。


ピロポノス『アリストテレス「霊魂について」注解序説』9,19[89,12 参照]
 「三十人」の一人クリティアス。すなわち、魂とは血であると彼は言った。「なぜなら、と彼は主張した、人間たちの心腑の血が思考体だからである」[=Bach編、クリティアス断片集 8]
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